大谷秋葉神社及び大谷瓦窯跡
筆者も過去2回程参加したことがあり(どちらも5㎞)。気持ちよく秋の比企地域の風景を楽しみながら参加させて頂いたことを思い出す。
東松山市は「花とウォーキングのまち」として「日本スリーデーマーチ」のみならず、JVA認定のウォーキングトレイルが整備されている。このウォーキングトレイルとは、英語で自然道のこと。環境省は「森林や里山、海岸、集落などを通る歩くための道」と紹介されているが、東松山市はウォーキングトレイル「ふるさと自然のみち」が7つも設定されていて、郷土の自然、歴史、文化をたどるなど、それぞれの目的に沿った楽しみ方ができる。
「大谷・伝説の里コース」もそのコースの一つであり、コース途中には「大谷秋葉神社」も設定されている。
・所在地 埼玉県東松山市大谷553
・ご祭神 火之迦具土神
・社 格 旧村社
・例 祭 例祭 4月18日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0751749,139.3871759,16z?hl=ja&entry=ttu
大谷秋葉神社は大谷地域中央部を東西に通る埼玉県道307号福田鴻巣線の南側に鎮座する。途中までの経路は大谷大雷神社を参照。大谷大雷神社から一旦埼玉県道391号大谷材木町線に合流して北方向に進路を取る。2㎞程先にある「大谷」交差点手前の十字路を左折して、1㎞程道なりに進むと、丘陵地の端部左手側に丸太の階段が見えて来る。
駐車スペースはないので、車両の通行に邪魔にならない場所に路駐して、その丸太の階段を徒歩で進むと、大谷秋葉神社の裏手に到着する。しっかりと正面から参拝したいので、一旦正面参道、石段等を降りてから、改めて参拝を行った。
但し正面参道に隣接して民家も立ち並んでいて、この間を通る為、周辺にも駐車スペースはないようだ。
位置的には東松山CCの北側隣に鎮座しているとイメージすると良いかもしれないが、ナビ設定も上手くできないので、社まで順調に到着するには難儀な場所かもしれない。
民家の裏手で入り口がやや分かり辛い大谷秋葉神社
石段を上り、踊り場付近に設置されている社号標柱
社号標柱の先にある鳥居
石段の先に見える社殿
秋葉神社(あきはじんじゃ、あきばじんじゃ)は、日本全国に点在する神社であり、神社本庁傘下だけで約400社ある。神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、ほとんどの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現である。
秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治2年12月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。
秋葉権現の由来、縁起については文献により諸説ある。かつて複数の寺社が秋葉権現の本山を自称しており、秋葉三尺坊は火伏せ(火防)に効験あらたかであるということから秋葉三尺坊の勧請を希望する寺院が方々から現れ、越後栃尾の秋葉三尺坊大権現の別当、常安寺はこれを許可。これに怒ったもう一方の本山を主張する遠州秋葉寺は訴えを起こし、江戸時代に寺社奉行において裁きが行われ(時の寺社奉行は大岡越前守)、結果秋葉権現は二大霊山とすることとし、現在では信仰を広めた遠州の秋葉山本宮秋葉神社を『今の根本』、行法成就の地である越後の秋葉三尺坊大権現は『古来の根本』となったという。
拝 殿
秋葉神社 東松山市大谷五四四(大谷字須ケ谷)
鎮座地は、大谷の集落北方の小高い丘の突端にある。近くには、江戸期を通じて当社を累代崇敬した森川氏の陣屋跡がある。
森川氏は徳川の旗本で、天正十八年(一五九〇)に家康に従って関東に入り、当地に領地を得て陣屋を構えた。当社を勧請したのは、森川金右衛門であると伝え、その本社は、遠江国の秋葉大権現社で、火防の神として知られる。
享保二年(一七一七)正月に起こった江戸本郷大火の際には、当社の霊験が現れ、森川氏の江戸屋敷だけ、野原に孤島のように焼け残った。これは日頃崇敬する秋葉大権現のお陰であると感謝した森川氏は、享保十五年(一七三〇)に老朽化した当社の社殿を造営するとともに、毎年、御供米一俵を寄進するようになった。
江戸期、当社の運営は、江戸の青山鳳閣寺末の当山派修験長谷山成就院東海寺と村方の者で行われていたが、明治初年の神仏分離により、成就院は復飾して当社の祭祀から離れた。代わって、大谷野田の修験大行院が復飾して加藤大膳と名乗り、神職と成って当社に奉職した。明治元年、村役人に提出した大膳の請書には「私儀は神主名目計りにて、秋葉社の儀は子々孫々に至るまで村持にて先規仕来りの通り、何事によらず村御役人中へ御願申上、御差図請、自己の取計へ決て仕間敷候」とあり、復飾して間もない神職の立場がうかがえる。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額
拝殿の前面(写真左)・向かって左側(同右)には多くの額が奉納されている。
中には「銭絵馬」と言われる奉納額もある。
本 殿
秋葉神社の総本社『今の根本』である遠州秋葉山本宮秋葉神社の霊山にあたる秋葉山は中世には山岳信仰の聖地であり、修験(しゅげん)の道場として修行者が入山しており、その後、両部神道の影響もあり、秋葉山の神は「秋葉大権現」と称され、秋葉修験者によって霊験が各地に広められていった。
時代は下り、江戸時代には火防の神としての秋葉信仰は全国的な盛り上がりをみせており、各地に秋葉講が結成され、秋葉山へと向かう秋葉街道は多くの参詣者で賑わった。
因みに秋葉講(あきはこう)とは、江戸時代の庶民にとって秋葉山へ参詣するには多額の旅費がかかり、経済的負担が大きかったため、秋葉講という互助組織を結成し、毎年交代で選出された講員が積み立てた旅費を使い、組織の代表として秋葉山へ参詣していたという。
また秋葉街道沿いにはその道標として数多くの常夜灯が建てられた。また、常夜灯は街道沿いのみならず、火防の神への信仰や地域の安全を願って建てられたものもあり、現在でも数多くの常夜灯が残されている。
拝殿付近から鳥居方向を望む。
大谷秋葉神社から松山宿までの道筋が「秋葉道」と云われたこと、また幅九尺(約二・七m)の道路で要所々々に道標も建てられたということは、実際に遠州秋葉山本宮秋葉神社に詣でて、その風景を目にした多くの地元の参詣者たちが、少しでも本家にあやかろうと地域住民を巻きこんで、実現した当地にとっては貴重な遺産ともいえよう。
社殿から北側に伸びる「大谷・伝説の里コース」 秋葉神社の裏側にある丸太造りの階段
ウォーキングトレイルの案内板 ウォーキングトレイルのコースになっている。
ところで大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先には奈良時代前、所謂「白鳳時代」に営まれた登窯跡である「大谷瓦窯跡」が存在する。
【大谷瓦窯跡】
・所在地 埼玉県東松山市大谷2192-1
・稼働時期 飛鳥・白鳳時代(7世紀後半ごろ)
・指定年月日 昭和33年(1958)10月8日
国指定史跡文化財
大谷瓦窯跡は、埼玉県道307号福田鴻巣線を北側にのぞむ、丘陵の東南斜面にその遺構が残されている。大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先にあるが、ナビを使用しても番地では表示せず、付近一帯を随分と巡りまわって、やっと到着できた。
大谷瓦窯跡の周囲は、今では何の特徴もない丘陵地の端部という印象だが、この比企周辺地域は、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器の生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。
古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。
比企丘陵地の斜面を利用した瓦専門の窯跡である大谷瓦窯跡
案内板は2か所あり、細い道路に面した案内板は比較的新しいもので、窯跡の手前に設置された案内板の内容に加えて、新たに判明された事項も記されている。
窯跡正面 右側に案内板がある。
大谷瓦窯跡 案内板
大谷瓦窯跡 昭和三十三年十月国指定
瓦が多量に生産されるようになるのは、寺院建築が盛んになる飛鳥時代からです。奈良時代から平安時代には、各国に建立された国分寺やその他の寺院が盛んに建立されたので、各地で瓦が生産されるようになります。大谷瓦窯跡もその頃つくられたものです。瓦を焼く窯は「登り窯」です。傾斜地を利用し斜めに高く穴をあけ、下の焚き口で火をもやし、還元熱を応用し高熱を得るよう工夫されています。この窯跡も三十度の傾斜角を有しています。高熱に耐えられるよう火床は粘土を積み固め、側壁は完型の瓦を並立して粘土で固定し、床面は粘土と粘板岩の細片をまぜて固め段を作るなど、補強が慎重に行なわれています。
大谷瓦窯跡は昭和三十年五月に、二基調査されました。保存がほぼ完全であった一号窯跡が保存されています。出土遺物は平瓦が大部分で、竹瓦が数個と蓮華文のある瓦当一個が発見されています。
案内板より引用
内部は傾斜角30度であることは確認できたが、内部は遺跡保存の為だろうか、コンクリートで整地されており、13の段になっていた焼成室は確認できなかった。
道路沿いに設置されている新しい案内板
ローマ字表示で判明した正式名は「おおや がようせき」
大谷瓦窯跡
大谷瓦窯跡は、昭和三十年五月に発掘調査が行われ、検出された二基の瓦窯跡の内、保存の良い一基が昭和三十三年十月八日に国指定史跡となりました。
瓦窯跡は、瓦を専門に焼いた窯のことで、瓦の製造は飛鳥時代(七世紀)以降盛んになる寺院建築とともに始まったものです。
この瓦窯跡は、山の斜面を利用した「登窯」とよばれる半地下式のもので、全長は七・六〇メートルあります。
窯は焚口部・燃焼部・焼成部・煙道部の各部から成っています。この窯跡の特徴としては、燃焼部に瓦を利用して階段状に十三の段が造られていることがあげられます。
出土遺物には、軒丸瓦、平瓦、丸瓦等があり、こうした瓦から窯跡は、七世紀後半頃と思われます。
付近一帯は周辺に窯跡群が埋没しており昭和四十四年に県選定重要遺跡に選定されています。
案内板より引用
男衾郡太領壬生吉士福正は平安時代の武蔵国男衾郡の大領で官人。壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部の管理のために北武蔵に入部した渡来系氏族。男衾郡の開発にあたり、郡領氏となる。承和8年(841)5月7日太政官符に榎津郷戸主外従八位上の肩書で、才に乏しい息子2人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを願い出て「例なしといえど公に益あり」との判断から認められている(『類聚三代格』)。承和12年(845)には神火で焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申し出て認められている(『続日本後記』)。
武蔵国分寺の七重塔の再建となると、今日の価額にすると数十億円にもなる大工事で、そのためには莫大な財力と労力があって初めてできることである。
大谷地区から北方・滑川町にある「五厘沼窯跡群」
形状は大谷瓦窯跡とほぼ同じである。
この人物は榎津郷に在住していたというが、榎津郷が現在の何処に比定されるか定まっていない。但し荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域の可能性が高く、近年発掘調査の行われた市内板井の寺内古代寺院跡(通称花寺廃寺)は、壬生吉氏の氏寺であった可能性が高い。
7世紀頃に比企地方にやってきたと推定される渡来人・壬生吉士のグループは、比企地方の支配者として、武蔵國最大の須恵器と国分寺瓦の生産でも大きな力を発揮していたものと思われる。
その壬生吉氏の誰かが、「大谷瓦窯跡」の開発・運営等を携わったのかもしれない。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷デジタルミュージアム」「東松山市観光協会HP」
「埼玉の神社」「Wikipedia」等