日吉松山神社
徳川家康が関東入国すると、松山城には松平家広が入城し松山藩を立藩した。近代的な城郭都市に発展する可能性も潜めていたが、家広の跡を継いだ松平忠頼が浜松城に移封となると松山城は廃城となった。廃城後、この地域は最終的に川越藩の藩領となり、城に近い松山新宿は次第に廃れ、現在の市街地に当たる松山本郷が町の中心になっていったとされる。幕末に松山陣屋がおかれ、武家やその関係者、家族らの移住によって人口が2倍近くに増え、現在の埼玉県域でも有数の人口を持つ町奉行が管轄する町となった。しかし、幕末という事もあってわずか5年足らずで廃藩置県を迎える事になった。
「東松山駅入口」交差点を左折し、本町通りと呼ばれる県道66号を進む。嘗て東松山市の中心は、今の本町通り本町一丁目交差点(いわゆる四つ角)付近で、警察署、郵便局、銀行等があり、材木町通りとともに問屋、小売店、旅館、料理店等が立ち並び賑わっていた。その後武州松山駅の開業により、徐々に、駅寄りに人家・商店等が移動しはじめ、駅周辺の開発とともに商店街の中心は、本町通り・材木町通りから丸広通りやぼたん通りに移っていった。
本町通りを歩いていると、現代の建物に混じって土蔵造や町屋造の建物が多く残されていることが見て取れる。このことは、この町が上述した通り、江戸時代から一貫して地域の中心的な都市として存立してきたことを示している。
その本町通りの中心地にあった「松山宿の総鎮守様」が日吉松山神社であり、由緒ある神社として市民より崇められている。
・所在地 埼玉県東松山市日吉町5-19
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧郷社
・例 祭 例祭日10月18・19日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0448524,139.4007391,17z?hl=ja&entry=ttu
日吉松山神社は国道407号線を東松山市街地方向に南下し、「小松原町」交差点を右折する。400m程先に「上沼公園」交差点があり、そこを直進する。上沼を左手に見ながら、その沼を過ぎた場所に右折する道があり、そこを曲がると日吉松山神社の鳥居に到着する。
駐車場は一旦そこの道を通り過ぎてから神社の西側(裏)に回り、少し分かりづらいが路地から境内に入り、そこの一角に停めてから参拝を行う。
鳥居があるのは神社に対して南東側に位置するので、一旦道に出て鳥居前に戻り、改めて参拝を始める。
日吉松山神社正面一の鳥居
綺麗に整備されている「上沼公園」の西端に一の鳥居はあり、そこから100m程進んだ長い参道の先に二の鳥居がある。広大な境内は、市街地にありながら参道に入るとガラリと別世界に吸い込まれたような不思議な感じの社でもある。
長い参道の先に二の鳥居が見えてくる。
拝 殿
(松山町)氷川神社
「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす、勧請の始を詳にせず、貞享二年再興、大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、觀蔵寺持」
新編武蔵風土記稿より引用
松山神社 東松山市日吉町五-一九(松山町字日吉町)
旧松山宿の北部に位置する上沼の西南端から、西に続く長い参道を入って行った所に、杜に包まれて当社は鎮座している。そのため、市街地の中の神社にしては閑静で落ち着いた雰囲気があるところから、当社は上沼公園と共に憩いの場として、また、散策の場として市民に親しまれており、祭日以外でも境内を訪れる人は多い。
武蔵国一の宮の氷川神社(大宮市鎮座)に代表されるように、古くから荒川の流域の町や村では、氷川神社が多く祀られてきた。毎年のように繰り返される荒川の氾濫を鎮めるためには、氷川様(須佐之男命)のように霊威の強い神を祀ることが必要であったという話を伝えとして耳にすることが多い。当社もまた、そのようにして祀られた社の一つであると考えられ、その創建は、今を去ること九〇〇年余りの昔、康平六年(一〇六三)にさかのぼると伝えられている。
中世、この松山の地は、亀井荘松山領の本郷として、また、松山城の城下として栄え、近世に至っては中山道の脇往還の宿場としてますますその規模を拡大していった。そうして成立したのが旧松山町(明治二十二年の町村制の施行によって誕生した松山町の大字松山町となる)であり、この地域の商業と交通の中心地として繁栄した。中世から近世初頭にかけての当社の動向については、相次ぐ戦乱により記録が失われてしまったためか明らかではないが、寛永元年(一六二四)に熊野神社(祭神伊邪那美命)を合殿に祀り、以来、松山宿の総鎮守として一層の崇敬を集めるようになったという。
その後、貞亨二年(一六八五)には当地の領主である旗本の島田八郎左衛門によって社殿が再建され、同時に社域を除地とした上、神領が付された。このように領主の厚い信仰を得て神威を高めた当社は、正徳四年(一七一四)十一月には神祇管領卜部家から極位も受けている。下って文化八年(一八一一)、当地は川越藩の領するところとなり、藩主松平大和守は先例に倣い、当社を保護した。「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす(中略)大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、観蔵寺持」という『風土記稿』の記事は、そのころの様子を記したものである。また、松山宿の繁栄につれ、住民の力も増していき、嘉永二年(一八四九)の社殿再建は、惣氏子の手によって行われている。
神仏分離を経て明治六年に村社となった当社は、同十六年四月に至り、社号氷川神社熊野神社(合殿)を松山神社と改めた。これは、松山宿の総鎮守として祀られてきた当社を松山町の象徴として盛り立てていこうという氏子の気持ちを反映したものであり、時の神道総裁有栖川宮幟仁親王から額字も拝戴している。更に明治四十一年には神饌幣帛料供進神社の指定を受け、昭和二十年には郷社に昇格した。
「埼玉の神社」より引用
東松山市・市ノ川氷川神社に掲示されていた由来書には「当社の社記に人皇第七十代後冷泉天皇の御代康平6年(1063年)創立と記載されてある。即ち源頼義の嫡男義家(八幡太郎と号す)が奥州の夷賊阿部頼時及びこの子貞任を滅ぼして武勲を立てた時代である。」と記載されている。2つの社の距離は直線方向で1㎞弱。また同じ社号でることから、市野川の流域に在住し、同じ境遇を持った人々が、同じ理念で同時期に創建したのではなかろうか。
拝殿の向拝部、木鼻部の彫り物は精密で美しい。
本 殿
社殿の左側に鎮座する境内社・浅間神社、大鳥神社
東松山市日吉町の大鳥神社で例年十二月十五日にお酉様が行われ、近郷近在から多くの参拝者でにぎわいます。当日は、松山神社と大鳥神社の間で熊手市が、松山神社拝殿から鳥居にかけては縁起物市が開かれます。熊手屋は入間郡大井町や群馬県から訪れ、商談が成立すると威勢のよい手締めが鳴り響きます。
嵐山web博物誌より引用
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「嵐山web博物誌」「Wikipedia」等