野田赤城神社
・所在地 埼玉県東松山市野田455
・ご祭神 大己貴命、豊城入彦命、彦狭島命
・社 格 旧村社
・例 祭 天神祭 1月25日 春祭り 4月15日 夏祭り 7月15日
例祭 10月14日 秋祭り 11月23日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0596711,139.3910621,17z?hl=ja&entry=ttu
東松山市野田地域は、滑川町町役場の東南側に位置し、荒川支流の滑川が蛇行を繰り返しながら東西に流れているその両岸に地域が形成されている。因みに同じ荒川支流の市野川も北側に流れている滑川と並行するように南側に流路が形成されている。
野田赤城神社は国道407号をひたすら南方向に進み、「上岡」交差点で右斜め方向に進路変更する。埼玉県道391号大谷材木町線を4㎞程南下し、「野田」交差点の先に滑川を越える橋があり、その手前のT字路を右折し400m程進むと、右手に野田赤城神社の社号標が見えてくる。基本的に社号標と鳥居はセットで設置されているのが通例であるが、この社に関しては、鳥居は道路に対して奥に設置されていたため、目印となりにくい。
社に隣接して「野田自治会館」があり、そこの駐車場を利用して参拝を開始する。
道路沿いには社号標柱のみあり、鳥居はその奥に設置されている。
神明系の鳥居
参道の途中には案内板がある。
野田の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
野田の獅子舞は毎年七月十四日の夏祭、十月十四日の秋祭に赤城神社に奉納される。
獅子舞の由来は、今から三百数十年前寛永年間にこの地の名主長谷部平兵衛福兼によって始められたと伝えられている。
獅子を「メジシ」「オジシ」「ダイガシラ」と呼び、袴に白足袋姿で八畳程の敷物の上で舞う一人立ちの三匹獅子舞で座敷獅子と云われている。
野田の獅子頭(市指定有形民俗文化財)
代々獅子元を務める長谷部家に、寛永年間の作と云われる獅子頭が残っている。竜頭形式の獅子頭で、桐材を用いた素朴なものである。
案内板より引用
夏祭りには厄除け、秋祭りには豊作と無病息災の感謝を祈念し、奉納されています。創始当時の獅子頭を納めていた箱に『寛永十二亥(1635年)六月創始』と書いてあったことから、今から三百数十年前の江戸時代に、野田村の名主・長谷部平兵衛福兼によって創始されたと伝えられています。獅子元は現在まで長谷部家によって引き継がれています。当日は、長谷部家で支度を整え、赤城神社までの街道下りを行います。野田の獅子舞の大きな特徴は、8畳ほどの敷物の上で舞うところです。本殿前にしつらえた敷物の上で切り袴・白足袋姿で舞うところから、座敷獅子と言われます。夏祭りは、元は字西野(西明寺沼の西)にあった八雲神社(天王様)で奉納されていました。八雲神社は明治41年(1908年)に赤城神社に合祀されています。大正時代末期から太平洋戦争の終結までの間に一度途絶えてしまいましたが、昭和24年(1949年)に保存会ができ、翌年復興しました。近年は、10月21日に西明寺(薬師様)での奉納も行われています。現在の獅子頭は文久元年(1861年)に作られたものですが、創始当時の隠居獅子と呼ばれる旧獅子頭も残されています。隠居獅子も東松山市指定有形民俗文化財に指定されています。
東松山市観光情報HPより引用
参道の先に拝殿が鎮座する。
拝殿手前で左側に聳え立つ御神木
拝 殿
赤城神社 東松山市野田四五五(野田字東野)
野田は、荒川支流の滑川沿いに開かれた農業地域で、市の北部に位置し、その開発は戦国時代と伝えられている。当社は、社記によれば草分けである長谷部家の先祖右内清信が文亀二年(一五〇二)二月に同家の守護神として赤城大明神を奉斎したことに始まるという。
当時この地にも、人々が次第に集まり、村は大きくなっていた。しかし、村全体で祀る鎮守はまだなく、人々は、上野家は神明社、高橋家は稲荷社というように一家(一族)ごとにそれぞれ氏神を祀り、祭りを行ってきた。永正二年(一五〇五)正月四日、松山城主上田氏から野田という村名を賜ったが、これを機に、村民は協議の上、赤城大明神を野田村の鎮守と定め、同月社殿を再建した。ここに当社は、草分けの長谷部家の守護神から野田村全体の鎮守となり、多くの人々から信仰されるようになったのである。
境内の石碑によれば、永正二年一月に本殿が建造され、宝暦十一年(一七六一)十二月に覆屋を建立した際、改修されたと伝えるが、現在の本殿の建造年代については定かではない。また、拝殿は安政元年(一八五四)の春に降雨を祈願して池を掘ったところ願が叶い、翌年の秋に大願成就の意をもって設けられたものであると伝えている。しかし、長い歳月を経て、覆屋・拝殿共に傷みが激しくなってきたため、氏子一同協議の結果、昭和三十七年十月、これらを再建した。
「埼玉の神社」より引用
野田赤城神社の創建は、当地の草分けで名主家である「長谷部」家が、文亀3年(1502)赤城大明神を奉斎したことに始まると記載されている。今から500年以上も前の文亀年間で既に「名家」という箏は、その淵源は数百年前と推測される。更に調べてみると、この「長谷部」は日本の古代氏族の一つ・物部朝臣から続く氏族で、種別は「神別」「天神」という。
この神別(しんべつ)とは、古代日本の氏族の分類の1つで、平安時代初期に書かれた『新撰姓氏録』には、皇別・諸蕃と並んで、天津神・国津神の子孫を「神別」として記している(「天神地祇之冑、謂之神別」)。
さらに神別は「天孫」・「天神」・「地祇」に分類され、天孫109・天神265・地祇30を数える。なお、こうした区分は古くからあったらしく、これは律令制以前の姓のうち、「臣」が皇別氏族に、「連」が神別氏族に集中していることから推測されている。
さてこの由緒のある「長谷部」苗字由来としては、雄略天皇の部民として設定された御名入部である長谷部が起源とされる。 長谷部は、雄略天皇の皇居である長谷朝倉宮にちなみ、雄略天皇の生活の資用に当てられた料地の管理や皇居に出仕して警備、雑用などの任に服していた人々と考えられている。
また万葉集には丈部をハセベと註していて、土師(はせ、はぜ)の職業集団を土師部(はせべ)、丈部(はせべ)と称し、長谷部の佳字を用いたようだ。古事記・雄略天皇条に「長谷部舎人を定む」とあり。大和国城上郡長谷郷の朝倉宮に坐す雄略天皇の御名代部にて天皇の舎人を云う。長谷郷は土師部の居住地より地名ということになり、その地名から苗字へと転化されたと考えられる。
不思議なことに、この「長谷部」は日本全国で、約30,000人ほどいると言われているが、西日本より東日本にに多く見られ、更に埼玉県が断トツの1位で4,400人、中でも東松山市は760人在住している。ルーツは畿内地域ではあるが、日本全国へと移住し始め、結果的にその定住先が東日本がより顕著となった、という箏だろうか。
境内に鎮座する境内社 再建記念碑
東松山市の高坂地域には「反町遺跡」と呼ばれる弥生後期前半、古墳前期の遺構、遺物を中心とした大規模遺跡がある。高坂台地の東側に広がる低地に位置し、標高は18m程。「古墳時代の大開拓地」とも呼ばれている。
この遺跡は、現在の地表面から、1mほど掘り下げて発見され、古墳時代前期(約1,700年前)に大規模な集落が形成された。その後、古墳時代中・後期(約1,500~1,400年前)には墓域として利用され、数多くの古墳が造られた。
これまで調査した古墳は26基で、前方後円墳を中心に大小さまざまな円墳(えんぷん)が すき間なく発見されている。古墳からは、人物埴輪や馬形埴輪、円筒埴輪、銅鏡(内行花文鏡(ないこうかもんきょう))などが出土している。調査区北側では、大溝跡(河川跡)の調査を並行して実施し、この溝跡からは、建物に使われていた柱や梁(はり)、 板材などの建築部材が多く出土している。また、当時の人々が使っていた木製の臼や鋤(すき)、 田下駄(たげた)などの農具も出土したという。
さて、この反町遺跡では東海系、北陸系、畿内系などの複数の地域から搬入、あるいは伝わった土器が出土している。
土器の中心は、五領式土器を中心とする在地の土器である。東松山市周辺は、弥生時代終末には吉ケ谷式と呼ばれる非常に地域色の強い土器が使われていた。それが台付甕を用いる南関東的な五領式土器に変化したのは、古墳時代という新たな時代への大きな変革があったためと考えられる。
反町遺跡は、新たな時代の到来とともに開かれた「村」だが、その住人は弥生時代以来の在地の人々が中心であったようだ。というのも弥生時代後期から施されてきた甕磨き手法によって、出土する台付甕の内側はツルツルに近い平滑な状態に仕上げられている。土器型式が変わっても、土器作りの基本的な方法は引き継がれていて、反町遺跡の土器は丁寧な作りのものが多く、伝統的な方法を踏まえた上での、新たな時代の土器づくりが行われたと考えられている。
その一方で、反町遺跡からは、東海、北陸、畿内、あるいは中国地方に系譜が求められる壺や甕、高坏、小型壺が出土している。こうした他地域の系譜を引く土器は、外来系土器と呼ばれていていて、それらの地域からの住民たちの移動・流入があったことは間違いなく、2世紀から3世紀代の時期に、列島内の各地から東国、とくにこの埼玉の地にも移動・移住があったことは確実である。それらの外来系土器の多くは在地の埼玉の粘土を用いて作られているという分析結果があるところから、埼玉の地に根ざした移住民生活があったこととも読みとれている。
反町遺跡では新しい五領式土器(古墳時代の土師器)への交代とともに、東海、近畿、北陸の系譜を引く土器群が出土し、更に遠方との「ヒト」や「モノ」の交流も推定されるなど、大々的な変革があったと思われる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市観光情報HP」「埼玉の神社」
「埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書」「Wikipedia」等