西本宿浅間神社
基本的に「フセギ」行事は、春から夏にかけて伝染病などの悪病が流行しないようにと村境にお札や藁で作った龍などの作りものを立てかける行事で、村境に立てるのは、こうした悪病が村内に入って来るのを防ぐ意味がある。
比企郡、入間郡内では様々なフセギ行事が行われている。その中に「後本宿のフセギ行事」があり、東松山市公式HPには以下のように紹介している。
後本宿のフセギ行事 平成18年(2006年)3月24日(東松山市指定文化財―無形民俗)
フセギは病気や災害などの悪いものが地区に入らないよう防ぐための民俗行事です。厄災除けの祈りを込めて作った藁のオブジェを地区の入口や辻などに取り付けて悪霊の侵入を防ぎます。
フセギに表現される様々な部材はそれぞれ大きな意味を持ちます。大きなわらじはその地区に悪霊をも倒せるほどの大男がいることを表し、同時に足腰が衰えないよう祈願する意味もあります。サイコロは侵入者に対し、いろんな「目」で見ていることを表しています。男女の生殖器の表現は、立ち入りをけん制する意味のほか、子孫繁栄などの意味も併せ持っていたと考えられています。後本宿のフセギ行事は2月の第一日曜日に行われ、字の入口にあたる5か所の辻に設置します。桟俵(笠)とサイコロが特徴です。
比企郡、入間郡内での「フセギ行事」の背景には、このように様々な工夫をこらして、集落内に流行病などの悪いものが入らないようにしたいという、人々の切実な願いがこもっている伝統ある行事と言えよう。
・所在地 埼玉県東松山市西本宿996
・ご祭神 木花咲耶姫命
・社 格 旧村社
・例 祭 春祭り 4月15日 初山祭 7月14日 例大祭 11月3日
秋祭り 12月14日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0099887,139.3915674,17z?hl=ja&entry=ttu
葛袋神社から一旦北上して埼玉県道41号東松山越生線に合流後右折し、東方向に進路をとる。関越自動車道を潜り抜け、「葛袋」交差点を直進すると、344号高坂上唐子線と県道路線変更となるが、そのまま道なりに進む。県道は都幾川の流路に沿って南東方向になるが、800m進んだ十字路を右折し、暫く進むと左手に西本宿浅間神社の鳥居が見えてくる。実のところ県道の十字路右対角線上に広がっている森は社の社叢だったようだ。
道路沿いに鎮座する西本宿浅間神社
木々の間に鳥居が屹立している。 鳥居の社号額「富士浅間神社」と見える。
境内は思った以上に広く、静寂な空間が一面に広がる。
参道の先で石段上に社は鎮座している。
都幾川と越辺川に挟まれた高坂台地北端に分布する諏訪山古墳群の36号墳。前方後円墳の後円部の上に富士浅間神社が鎮座しているので、別称・浅間神社古墳と言われる。東南方向に前方後方墳(諏訪山29号墳)、前方後円墳(諏訪山35号墳、市史跡)が並列している位置関係にある。前方部は削平されている。後円部の径27.1m。高さは4m程と考えられている。
〇諏訪山(すわやま)36号古墳
・墳 形 前方後円墳 築造時期 5世紀? 規 模 径27.1m 高さ4m
〇29号墳…全長約53m 前方後方墳 4世紀前葉(推定)
1960年(昭和35年)の日本セメントの引込線の敷設工事による破壊とその後の崩落により北側の半分以上が失われている。当初は前方後円墳とみられていたが、1984年(昭和59年)の調査で墳長53mの前方後方墳であることが明らかにされた。出土した土師器から4世紀前半から中頃の築造とみられている。
〇35号墳…全長約68m 前方後円墳 4世紀後半末 県内の前方後円墳では最古級
29号墳の前方部右前方に所在する前方後円墳で、1957年(昭和32年)11月29日に東松山市指定史跡に指定された。墳長68m、後円部径40m、高さ9m、前方部幅30m、高さ4m。諏訪山29号墳との位置関係や埴輪、葺石が存在しないことから4世紀後半の築造と考えられる。
石段上に鎮座する西本宿浅間神社
諏訪山古墳群はその連番が示す通り多くの古墳から構成されているが、29号墳と35号墳は前期の古墳として別格であり、それ以外の後期に群集する古墳とは別個に検討する必要があると考える。ただ、別個とはいっても大きな目立つ古墳のすぐ近隣に群集墳を築造しているわけであるから、それら後期の人々は前期の王と系譜的に繋がりがある者か、そうでなくても関連性を強調しようとしていた一族というのは間違いないと思われる。
拝 殿
浅間社 東松山市西本宿九九六(西本宿字富士原)
富士浅間に見立てた前方後円墳の墳丘上に鎮座する当社は、木花咲耶姫命を祀り、本宿(元宿とも書く。明治十二年から西本宿)の鎮守として、住民から厚く信仰されてきた。
大同年間(八〇六-一〇)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の途中、岩殿山中に棲む悪竜が近郷の人畜を害していたことを聞きつけ、日ごろ崇敬する富士浅間の神体を当地に安置して祈願をしたところ、悪竜の居場所を知ることができ、見事これを退治したというはなしが、田村麻呂が奉安したという富士山の霊石とともに伝えられている。
また、関東管領足利基氏が当社を深く崇敬し、貞治元年(一三六二)に社殿を建立したといわれ、更に元禄六年(一六九三)から正徳四年(一七一四)にかけて改築が行われている。
『風土記稿』は元宿村の項で、当社について「浅間社 村の鎮守なり、常安寺持」と触れている。ここに記された常安寺は、本宿の地内にあり、同じく『風土記稿』によれば「開山豪讃和尚文永三年(一二六六)二月十五日寂す」と伝えられる中世開山の天台宗の寺である。
神仏分離の後、この常安寺の管理を離れた当社は、明治四年に村社に列し、同八年の屋根葺き替え、大正五年の社殿再建などを経て、現在に至っている。
「埼玉の神社」より引用
本 殿 本殿左脇には境内社・三峯神社が鎮座
墳頂から見た参道
神社前の参道部分に円形の土俵のような土盛り部があり、相撲を奉納したのかもしれないが,土俵にしては土が薄すぎるので,詳細は不明。
但し西本宿地区には「西本宿の獅子舞」あり、その獅子舞がこの社の土俵上で奉納されているかもしれない。
【西本宿の獅子舞】
獅子舞に関する資料の中で「武士の家に行きしときの唄」というものがあることから、西本宿の獅子舞は江戸時代中期ごろから始まったと推測されています。
総代宅から富士浅間神社までの約1キロメートルを「街道」と呼ばれる笛の曲と「逸子」の「ほーい」という掛け声に合わせて獅子の行列が向かいます。
西本宿の獅子舞の特徴は「富士山の衣装」と跳ねて廻る「鹿獅子」と呼ばれる動きの激しい舞です。特に最後に行う頭を大きく振り、足を高くあげる「大狂い」と呼ばれる勇壮活発な舞は、西本宿の獅子舞の特徴をよく表しています。
3匹の獅子の見分け方は、背中の帯の色で、青が中獅子、赤が雌獅子、黄が宝冠獅子です。獅子の腰に差した帯の色と同じ2本の幣束は安産のお守りになると言われています。また、この神社では7月14日に子どもの成長を願う初山祭が行われており、子どもに関する云われが多い地区のようです。
西本宿の獅子舞では、舞の最中に舞の意味や流れを説明したナレーションがあり、物語のように見ることができます。
開催日 10月の最終週土・日曜日 開始時期 江戸時代中期頃
【三人獅子舞】
獅子舞には、胴体部分に1人若しくは複数の人が入って舞うもの(伎学・神楽系獅子舞)と、1人が1匹を担当し、腹にくくりつけた太鼓を叩きながら舞うもの(風流系獅子舞)があります。前者は主に西日本で、後者は主に関東・東北地方で舞われることが多く、東松山市内でも後者の獅子舞が、神社の祭りなどで舞われています。また後者の獅子舞は、3匹で舞うことも特徴で、「三匹獅子舞」と呼ばれたりもします。
東松山市は獅子舞が盛んな地域です。獅子舞は、五穀豊穣を祈願・感謝したり、地区の悪病退 治、雨乞いなど、様々な目的で舞われ、地域ごとに特色があります。
東松山市公式HPより引用
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「嵐山町Web博物誌」「東松山市公式HP」「Wikipedia」等