古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

安戸能気神社


安戸能気神社の鎮座する東秩父郡安戸地区は東秩父村東部に位置し、北辺で比企郡小川町勝呂・木部・笠原・飯田・増尾各地区と、東部で比企郡小川町腰越地区と、南西で御堂突くと、西で奥沢地区と隣接する。小字は宿・小滝・町北・大都・帯沢・在家が挙げられる。槻川沿いに東西を貫く埼玉県道11号熊谷小川秩父線が東側で安戸橋を渡り小川町へ通じている。県道沿いと帯沢川・入山沢の谷あいに集落が散在する山村である。
 安戸地区は東秩父村では槻川沿いに決して広大ではないが、谷底平野がみられ、田畑と同時に水田が作られている。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村安戸382
御祭神   誉田別命
社  格   旧指定村社
例  祭   9月18日

        
 安戸能気神社は大内沢神社から小川町方向に進み、東秩父村役場を過ぎて約2㎞程行くと、Y字路になるので、そこを左折する。この通りには民家も多く、地形を見ると、北西方向から南東方向に流れる槻川が山に遮られ一旦北側に流路を変え、暫くするとまた南方向へと曲流し小川町腰越地区に移動するように、山間独特の地形に沿って頻繁に屈曲を繰り返して流れているようだ。
 県道11号から左折し、暫く進むと左側に「指定村社 能気神社」と彫られた社号標石が見える。そこをまた左折し、上り坂の道を真っ直ぐ約400m程進むと、丁度終着地の如くこの社に行き着く。駐車スペースはこの社のすぐ手前に多目的運動場である安戸グランドがあり、専用駐車場があるので、そこに停めて参拝を行った。
        
          「指定村社 能気神社」と表記されている社号標石
 安戸能気神社は槻川の支流である入山沢に対して上流に遡って行く途中にあり、緩く長い稜線上に鎮座するため、社殿から南に目を転ずると、田畑や集落を一望することが出来る。当社は、創建当時は個人の氏神として祀られていたが、やがて、根岸・高野・大久根・鷹野などの旧家が氏子となり、ついには村(安戸)を挙げて祀る社になるに至ったと伝える。社殿の造営は、覆屋・拝殿は「明神宮建立帳」に1774年再建と載るが、一間社流造りの柿葺き本殿の建立年代は不明である。
       
               安戸能気神社入口付近から撮影

      石段の先にある鳥居        石段を登り終えるとその先に拝殿が鎮座する。
        
 
                   拝    殿 
 秩父地方には「秩父三十四ヶ所観音霊場」と言われる観音信仰から発生した札所巡りがある。西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所とともに日本百観音(日本百番観音)に数えられていて、札所としての創建は、鎌倉時代の文暦元年(1234年)と伝えられている。室町時代の長享2年(1488年)の札所番付(32番法性寺蔵)が現存していることから、遅くとも室町時代までには札所が成立したことが明らかになっている。長享の番付によると、当時は三十三ヶ所であり、札所の順番も現在とは異なっていたようだ。その後江戸時代になると観音信仰が庶民の心の支えとして、隆盛をみるようになった。
 安戸能気神社が鎮座する東秩父村安戸地区は、江戸時代より
江戸-川越-安戸(東秩父村)の宿から粥新田峠を経る道程、所謂「川越通」が秩父札所巡りの主要ルートとなったようで、その門前町として栄えた地域である。
 ちなみに「安戸」という地名は、粥新田峠や定峰峠等を出たところにある休場を意味する「休戸」を安戸と書くようになったことに由来しているという。 

 社殿の左側にある境内社 榛名社、大黒天社、三社合社(写真左)と右並びにある三笠山、御嶽山、鳥海山神と彫られた石標(同右)
           
     拝殿より南側で石段方向を撮影。その先には安戸地域の風景が一望に広がる。
     

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坂本八幡大神社

 東秩父村坂本地区は村の北西部に位置し、北で大内沢、大里郡寄居町西ノ入と、東で奥沢と、南東で御堂と、南で皆谷と、 西で皆野町三沢と隣接する。埼玉県道11号熊谷小川寄居線沿い及び槻川の西側斜面に民家の散在する静かな山村地区である。
 坂本八幡大神社は坂本地区の中心部あたり、槻川の左岸の山の中腹に鎮座している。わが郷土の英雄である畠山重忠と関連のある由緒ある社である。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村1541
御祭神   誉田別命 他13柱
社  格   旧村社
例  祭   秋大祭 113

       
 坂本八幡神社は前出皆谷天神社から埼玉県道11号を落合橋に戻ること約2㎞程、小川消防署 東秩父分署の道を隔てて槻川を渡った先に鎮座している。大内沢神社と同じで赤い神橋が目印となっている。広い境内ではないが、山の稜線を巧みに利用して3つの平地面をつくり、石組で補強している構造で、石垣のような石組が第一印象で飛び込んでくる。駐車スペースは広くはないが神興庫の左側にやや広い空間があり、そこに停めて参拝を行う。
            
                                    槻川に架かる神橋を渡ると立派な一の鳥居がある。

  一の鳥居の手前には「神代里神楽」と記された標識があり(写真左)、一の鳥居の先ですぐ左側には神興庫(同右)がある。
            
                               神楽殿
  当社では毎年113日秋の大祭に村指定無形民俗文化財に昭和561220日指定された神代里神楽が奉納される。この里神楽は安政年間(18541860)より伝えられる里神楽で昔、衣装・用具を保管していた倉庫が火災になり、一時中断したが、深谷市上野台より飯塚利平氏を招いて再興したという。神楽は、舞方6名・はやし方3名で行われ、舞は前儀による清めを含め18座からなっているという。

           
拝殿前に聳え立つ村天然記念物である「タマグス」の御神木。畠山重忠の手植えの木と案内板に記されている。
           
                      二の鳥居と石段の先にある拝殿
 『新選武蔵風土記稿』坂本村の項には、当社について、「建久年中(1190年~1198年)重忠創建のよし云伝ふ、慶安二年五石一斗余の御朱印を賜ふ、社地九町四方、村中の鎮守なり、例祭八月十五日(中略)石段を登ること廿余級にして本社に至る云々」とある。
 勿論ここに記されている「重忠」とは鎌倉時代の武将で、幕府の有力御家人であり、「坂東武者の鑑」と謳われた畠山重忠である。畠山重忠は、1164(長寛2)年、武蔵国男衾郡「畠山郷」(現深谷市畠山)に生まれ、幼名は氏王丸。父は畠山重能、母は三浦義明の娘。畠山氏は、坂東八平氏(千葉・上総・三浦・土肥・梶原・秩父・大庭・長尾)のひとつ秩父氏の嫡流の家系で、父重能のとき、秩父から畠山に移り住んで畠山の苗字を名乗る。
           
            拝殿の奥に3段目の石組があり、その上に本殿が鎮座している。

 そもそも重忠が属する秩父氏は鎮守府将軍・平良文の孫で、桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもある不思議な名族だ。平将恒は父武蔵介・平忠頼(将門の従兄弟)と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称したという。忠頼の父・良文は将門と親しかったものともいわれ、忠頼の息子である将恒の「将」の字も将門から引き継いだものと思われる。
 将恒と正室・武蔵武芝娘との間に生まれた秩父武基は、前九年の役に従軍して秩父別当に就任した。さらにその息子である秩父武綱は前九年の役で戦功を挙げた源有光の長女を妻とし、後三年の役に従軍して先陣を務めたことで秩父氏は発展し、秩父郡吉田郷の秩父氏館(吉田城)に居住した。武綱の息子である秩父重綱の代には、「武蔵国留守所総検校職」に就き、武蔵国の在庁官人のトップとして、国内の武士を統率・動員する権限を持ち、一族は大いに発展した。秩父重綱の長男、重弘の子は畠山氏、二男である重隆の孫は河越氏を称し、三男、重遠は高山氏、四男の重継は江戸氏を称した。こうして武蔵国各地に移った一族は平氏の血筋を武器に在地豪族と婚姻関係を結んで勢力を拡大し、秩父平氏(秩父党)を形成していった。
 畠山の家督を継いだ秩父重隆は、下野国の藤姓足利氏や上野国の新田義重、その保護者・同盟者である源義朝と争っていた。また義朝と結んだ甥の畠山重能とも家督を巡って対立していた。重隆は源義賢を娘婿に迎えて対抗したが、両人は1155年(久寿2年)に大蔵合戦にて源義平に討たれ、家督は畠山重能に移る。この重能の長男が重忠である。
 1156年(保元元年)の保元の乱で、河越重頼は源義朝の下で戦ったが、1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝が敗死。その後は平家に従った。1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵後、秩父氏の一族ははじめ平家方につき、畠山重忠・河越重頼・江戸重長は衣笠城合戦で三浦義明を討ち取った。源頼朝が再び安房から南下して武家政権を打ち建てようとした時も、江戸重長らが下総で頼朝軍を足止めしている。しかしその後、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らは頼朝に服属し源氏方として平家と戦い、宇治川の戦い・一の谷の戦い・奥州征伐等で活躍、鎌倉幕府設立に尽力した。

だが頼朝亡きあと実権を握っていた北條時政にとって邪魔な存在となり、元久1年(1204)11月、子の重保が京都で平賀朝雅と喧嘩したことから、翌年、牧の方(北条時政の後妻)が女婿の朝雅の訴えを受けて時政に讒言し、そのため時政は謀反の罪で畠山氏一族を討滅する格好の機会をとらえ、同年(1205)6月22日、菅谷館から鎌倉へ向かう途中、北条義時が率いる幕府軍に二俣川(神奈川県横浜市旭区)で待ち伏せされ、壮烈な最期を遂げた。重忠享年42歳。墓と伝える五輪塔が、深谷市畠山にある。

 重忠は治承・寿永の乱で活躍し、また源頼朝の忠臣として知られ、鎌倉時代より現代まで、その人物像には多くの脚色が加えられ、伝説の中には文字通り史実のものもあれば、重忠人気に便乗した後世の多くの付会と思われるものもある。伝説は所詮伝説と割り切ってしまえばそれまでだが、伝説をつくり語り伝えた主体像に焦点を向けると、そこに新たな歴史的状況が浮かび上がってくることがある。
           
                      拝殿の左側には境内社 天満天神社
           
  天満天神社の左側には五社稲荷神社、五社とは 熊野社、愛宕社、稲荷社、金山社、浅間社の五社

 埼玉県内の畠山重忠に纏わる伝承・伝説の類のその大部分は荒川流域の西部地域に存在する。重忠は本拠地は深谷氏畠山及び武蔵嵐山町の菅谷館であるが、その一方秩父一族嫡男家であり、惣領家として秩父庄司とも名乗っていた。その意味において武蔵国の荒川以西地域は重忠にとって勝手知ったる自分の庭であり、活動範囲ではなかったろうか。勿論比企能員が領有していた比企地域等在地豪族はいただろう。重忠の武蔵国における直轄的な領有地は限られた地域であったと思われる。ここで筆者が言いたいことは重忠の領有地域ではなく、武蔵国内の広域な活動範囲である。

 話は変わるが、埼玉県内には約2万基以上以上の板碑が確認されているが、これは質・量ともに全国一といわれている。主として荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里などから産出される緑泥片岩と呼ばれる石で、たがねなどで割ると板状に薄く割れる性質があり、柔らかく加工しやすいため、美術的にも美しい出来上がりとなるらしい。この緑泥片岩は青色を帯びているために青石塔婆とも呼ばれていて武藏形板碑と分類されるが、その発生時期は鎌倉時代中期頃から造られ始め南北朝に全盛期を迎え、室町時代そして新しいものとして安土桃山時代のものもあり、そして江戸時代には全く造られなくなるが、板碑と鎌倉街道は大いに関連があるらしい。
 重忠は古代鍛冶、鋳物師集団の頭目ではないかと以前記したことがあるが、その他に実は石工の棟梁ではないかとも考えている。畠山本田の昔話に「 東鑑建久三年永福寺の庭園造成の際、重忠は3m余もある石を一人で抱え池の中を歩き頼朝の指図通りの位置に据え付けた」と記述されている。単なる怪力の話かも知れないが、巨石を動かす技術を持ち合わせている昔話ではないだろうか。板碑発生の由来ははっきりとしていない点が多く、定説はないが、その由来の一つが畠山重忠にあると考えると何となく歴史のロマンを感じるものだ。
            
                           拝殿部より境内を撮影
 重忠の活動範囲内にこの東秩父村も入っている。現在の埼玉県道11号(小川町から東秩父村に行くルート)と294号沿いは鎌倉街道上道の裏街道に位置し、このルートは昔から存在していたであろう。また坂本八幡大神社から埼玉県道11号沿いに定峰峠を通り秩父に入るルートは秩父盆地から外秩父、更には武蔵国内地に通じる数少ないルートの一つであり、重忠は当然知っていたであろう。

 最後に大内沢神社で紹介した「恒望王、藤原恒儀」伝説と畠山氏との接点はあるのだろうか。恒望王は大内沢・安戸・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峰・栃谷・山田・黒谷・大野原・皆野・田野等広大な郷を領有していたが、その全てが秩父氏の領有地内であり、共に平氏からの出自であること、藤原恒儀は怪力男で、その点は重忠も共有事項である点、多々ある。

 東秩父村という閑散とした山村地域にも歴史の不思議さや奥深さを感じることができる。これだから神社の参拝はやめられないのだ。

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皆谷天児安神社


皆谷天児安神社が鎮座する皆谷地区は東秩父村西部に位置し、北で坂本、東で御堂、南で白石、西で皆野町三沢と隣接する。ちなみに皆谷は「かいや」と読む。槻川上流域の山間部にあたり、小字として皆谷・新田・山口・森ノ脇・大切・朝日根・小安戸・八重蔵・湯ノ木が挙げられる。
 皆谷天児安神社の御祭神である天児屋根命は春日権現春日大明神とも言われていて、岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられている。
 
皆谷天児安神社の創祀は不明と言われているが、天児屋根命を祖神とする中臣氏の一族が嘗てこの奥深い東秩父の地にいたということだろうか。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村皆谷87
御祭神   天児屋根命 
社  格   旧村社 
例  祭   11月上旬
  

        
 皆谷天児安神社は大内沢神社から東秩父村役場方向に進み、途中落合橋の交差点を右折する。埼玉県道294号坂本寄居線から県道11号熊谷小川秩父線に路線は変わり、その道を南方向約5㎞程進むと、右側に皆谷集落農業センターがあり、その向かい側の山の中腹に皆谷天児安神社は鎮座している。駐車スペースは県道を挟んで反対側に皆谷集落農業センター側に若干あり、そこに停め参拝を行う。
        
                 皆谷集落農業センター側から撮影
 
天児安神社由緒には「永禄年間、松山城主上田宗調の家臣関口帯刀丞は松山落城の後、皆谷村に居住して農に帰し、鬼子母社(当社)を祭り、金二十両を貴信す」と記述されている。東松山史話に「永禄四年秋九月、上杉謙信松山城を攻撃す。関口等の将士搦手口を守る、其の軍勢は僅か三千余人なり。天正十八年四月十一日豊臣軍の総攻撃を受け、城主上田朝広は小田原籠城に加わる。朝広は七月三十一日松山城下にたどりつくが、我が居城は既に人手に渡り、城に残した幼子又二郎は、鉢形攻めの途中、山田伊賀守の計らいで安戸の浄蓮寺へ落ちていたので、幼子の守役関口忠左衛門の御堂館に亡命し、そこで又二郎を関口氏の養子にして、上田を絶家させて余生を終った」と。また吉見町史には「上田憲定は小田原落城後、逃れて東秩父村の浄蓮寺に一時身を潜めたが、やがてこの地に土着し、家臣関口氏がここにいたので、その養子となり関口の姓を名乗ったという。その後曹洞宗光官寺を建立し、境内に鬼子母神社を建てた。これが当社の創建であるといわれている。
 この中で書かれている鬼子母神は小田原城陥落後、一時浄蓮寺に匿われていたときに、その寺で祀っていた運慶作と伝えられている一尺一寸の鬼子母神像を持っていき、光官寺の境内に神社を創建した際にその守り神としたという。
 その後明治の世になり、神仏分離によって当社は光官寺から離れ、隣接地に境内を設け、天児安神社と社号を改めたとのことだ。
            
                     勾配の急な石階段上に社は鎮座している。
 参拝時期は初夏を思わせるような5月上旬。雲一つないような晴天の日で、カメラの画像も強い日差しの関係でややぼやけてしまった。また勾配が急なため、30段ほどしかない石段だが、結構きつく感じた。
            
                          石段の途中より社殿を撮影
 
 東秩父村は周囲を緑豊かな外秩父の山々に囲まれ、市街地の中央に槻川により形成した幅が狭く、細長い低位段丘や谷底平地が続いていてその流域沿いに街が形成されている山村地域である。その地形上の関係からかほとんどの社は山の中腹に鎮座している。平野部に鎮座する社とは違う趣のある参拝を味わえたような気分だ。


 

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大内沢神社

 東秩父村は埼玉県西部に位置する人口約3,600人の村で、2006年(平成18年)2 1日より埼玉県内で唯一の村である。秩父郡に属しているものの、秩父山系の外殻部の東側に位置するため、秩父山麓内の地域との交流より、都幾川支流である槻川沿いに隣接する寄居町や小川町との交流が盛んである。
 広域行政においても秩父地域ではなく、隣接する
比企郡の自治体とともに比企広域市町村圏組合を構成し、比企圏域に属しているという。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村大内沢681
御祭神   玉祖命(天明玉命)
社  格   旧村社
例  祭   不詳

       
 筆者が在住する熊谷市から東秩父村大内沢神社に行くルートは二通りあり、一つは熊谷市から国道140号線で寄居町へ行き、荒川を南下し鉢形城から埼玉県道294号坂本寄居線で東秩父村へ行くルートと、埼玉県道11号熊谷小川秩父線で小川町方面から東秩父村に行くルートだが、今回は寄居町に所用があったためそちらの方向から南下して東秩父村に行った。大内神社はその県道294号線沿いに鎮座していることと、赤い神橋が目印になるため、探すことはさほど難しい社ではない。駐車スペースも神社前バス停の比較的広い駐車スペースが確保されているため、そこに停めて参拝を行った。
        
 
               県道沿いに鎮座する大内沢神社
        
             神橋を渡るとその先に石段があり、石段の右側には社号標がある。
  この東秩父村には不思議な伝承が残っている。「新編武蔵風土記稿」巻之二百五十三(秩父郡之八)に以下の記述があり引用する。
 山田村  恒持明神社
 上郷西新木にあり、 本山修験、大宮郷今宮坊配下松本院持、 本地十一面観音、 村の鎮守にて例祭正月二十日、 扉内に縦横一尺許の石あり、 石面に、勅定日本武尊高斯野社恒望王と鐫せり、 当村縁起曰、人皇五十代、桓武天皇の皇子、一品式部卿葛原親王の御子、高見王世を早く去り玉ひしかば、御子高望恒望の御兄弟を、親王の猶子として養ひ玉ひしに、高望王は正四位下大蔵卿上総介に任ぜられ、始て平姓を賜ふ、 恒望王は従上四品太宰権帥にて、任国太宰府下り玉ひしに、有職廉直にして、却て世の謗を受け、竟に讒人叡聞を掠けるに依て、恒望王故なくして解官せられ、武蔵国に左遷せ玉ふ、 然るに延暦の頃までは、武蔵国曠野多くして、山に寄たる所ならでは、黎民居を安じがたければ、此君も比企・秩父両郡に摂まれたる山里に、間居の地を卜し玉ひける、 その殿上の所を、武蔵の大内とぞ称しけるまゝ、今その遺名を大内沢村と呼べり、 平城天皇の大同元丙戌の冬、恒望王罪なく左遷のこと、叡慮に知し召ければ、配所の縁に因て武蔵権守に補せられ、従上四品は故の如く復し玉ふ、この大内沢より山田の郷に官舎を移し玉ふ、 されば官位田の地を恒望庄とぞ称しけるに、御諱字を憚て恒用と書けるに、後世俚俗誤て恒持と書訛りぬ、 恒望王逝去し玉ひし時、延暦十二癸酉の年より大同元丙戌の年まで、十四年の間給仕し奉りぬ、 村長邑夫挙りて、其徳功を仰ぎ、遺命の由る所あれば、尊骸を大内沢に便りたる清地に舁送り、埋葬し奉りて後、その所に一宇の寺を建て、御堂と称しけるが、数多の星霜を経るがうち、御堂も破壊して村名にのみ残れり、 恒持庄は大内沢・御堂・安戸・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峯・栃谷・山田・大野原・黒谷・皆野・田野・三沢等すべて十五ヶ村にて、惣鎮守と仰ぎ奉りしに、一千年にも及びぬれば、その氏人の伝へきく声も遥に響き、山彦の谷も幽に成行て、神前の燈も漸にかゝげて(中略)
   
          石段が終わり参道を進む途中に聳え立つ杉の御神木 
 新編武蔵風土記稿によれば平安時代初期、桓武天皇の曽孫であり、初めて平氏を賜った高望王には恒望王(つねもちおう)という弟王がいたという。
兄の高望王が東国にくだられた同時期に、恒望王は大宰権帥という役職につかれて遠く九州の任地に赴かれたが、あまりに清廉潔白な性質がわざわいして讒言にあって武蔵国に左遷され、彼は今の東秩父村大内沢に住んだ。平城天皇の大同元年(806年)に、恒望王の罪は讒言によるものであることがわかって、もとの官位にもどり、配所が武蔵野の一隅であったので武蔵権守になられ、大内沢より秩父山田へ移られたということである。
 もとより高望王は寛平元年(889年)513日、宇多天皇の 勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し平高望と名乗るように桓武平氏の祖として大変有名な人物であるが、その弟王の存在など聞いたこともないし、現にいかなる歴史書にも、またどの系図にも全く出てこない正体不明の人物なのである。
 
        
                   大内沢神社社殿

      社殿の手前左側に稲荷社               社殿内部
 この「恒望王伝説」も「貴種流離譚」と言われる一種の伝承・伝説の一類型に属するものだろう。残念ながら歴史学的にも信憑性が薄いとされ、この「恒望王伝説」の古伝も上記の内容にはいささか疑念を禁じ得ないものがある。大体恒望王と高望王が兄弟と記述しておきながら、それぞれ活躍した年代が延暦年代~大同年間(790年~809年)、寛平年間(890年)と違う。時系列が全く違うのは決定的だ。
                 
                          大内沢神社本殿内部


社殿の右側奥に存在する境内社 手前琴平神社    琴平神社の左隣には大黒天の石碑

 ところで天皇貴種ではないのであれば恒望王とは何者だろう。断言はできないが東秩父村近郊にそのヒントはある。比企郡滑川町羽尾に鎮座する堀の内羽尾神社の御祭神の一柱の名がそれである。          
 藤原恒儀だ。              
 藤原恒儀は、「藤原」姓を称しているが特定不明の人物である。案内板等ではこの人物は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年(829年)九月二十日に卒した人と伝えられている。新編武蔵風土記稿にはこの藤原恒儀はこの地に在住していた在地豪族であり、卒して後に産土神とした、とも書かれている。
 恒望王の活躍時期が延暦年間から大同年間(790年~809年以降)であり、809年に武蔵権守になったというのだから暫くは存命だったのだろう。藤原恒儀の亡くなった829年と年代的に重複するし、活動地域も近郊であることから、この二人は同一人物の可能性も捨てきれない。
         
        社前には槻川の支流大内川が流れ中々風情のある佇まいである。

 どの国の歴史にも、勝者によって自らの正当性・正統性を主張するために編纂された歴史である(せいし)に対して、公認されない歴史書と言われる敗者側の悲しい歴史を稗史(はいし)という。
 昔から戦いに勝利した側が、その土地、国を治める正当性を主張しつつ歴史を編纂してきたことは常識だ。この勝てば官軍の歴史が「正史」であり、現在の教科書も残念ながらこの「正史」の通念を踏襲しているのが現状だ。恒望王伝説を、所謂皇国史観的な天皇中心主義の歴史形態から考えようとすること自体が間違いであって、中央の歴史書には載らないその地方独自の歴史にも目を向ける必要があるのではないだろうか。この恒望王伝説も、所謂皇国史観的な天皇中心主義の歴史形態から考えようとすること自体が間違いであって、中央の歴史書には載らないその地方独自の歴史にも目を向ける必要があるのではなかろうか。

 

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