上野台八幡神社
深谷上杉氏は、室町幕府の役職の1つである関東管領となった山内上杉憲顕が、14世紀後半頃に、北関東で勢力を持っていた新田氏やその残党を抑えるために、六男上杉憲英を派遣したことに始まり、およそ230年間に及び、第9代上杉氏憲まで続いたという。
初代憲英から4代上杉憲信までは深谷城に近い庁鼻和城(こばなわじょう)に居城を構えたことから庁鼻和上杉氏と呼ばれていたという。その後、古河公方と関東管領との抗争が激化し、管領方の有力武将であった深谷上杉5代房憲(ふさのり)は、より一層の要害として深谷城を築きその後氏憲(うじのり、生年不詳 - 1637年(寛永14年))までの5代が深谷城に住んだので、総称して「深谷上杉氏」と呼ぶ場合もある。
深谷市上野台地区に鎮座する上野台八幡神社は、深谷上杉氏の家臣で、武蔵国榛澤郡上敷免の城主であった岡谷加賀守清英が、天文19年(1550)に、深谷領の守護として、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を勧請したのに始まるという。
・所在地 埼玉県深谷市上野台3168
・ご祭神 品陀和気命
・社 格 旧郷社
・例祭等 例大祭 10月中の吉日を含む3日間 新嘗祭 11月25日
地図 https://www.google.com/maps/@36.1832041,139.2690748,16.5z?hl=ja&entry=ttu
上野台八幡神社は深谷駅の西側を南北に通る埼玉県道62号深谷寄居線を深谷駅の踏切から寄居町方向へ南方向約2㎞進むと右側道路沿いに鳥居が見えてくる。すぐ先にはコンビニエンスがあり、その交差点手前のT字路を右折すると正面には広々とした駐車スペースがある社務所もあり、そこに駐車して参拝を行う。人見浅間神社の北側で、直線距離でも1㎞満たない場所にこの社は位置している。
埼玉県道62号深谷寄居線沿いに鎮座する上野台八幡神社(写真左・右)
鳥居を過ぎるとすぐ右側にある案内板 東西に長い参道が広がる。
八幡神社
当社は深谷市上杉三宿老の一人、皿沼城主岡谷加賀守清英が榛沢郡茅場村に清心寺を開基しましたが、その鎮守として境内に八幡神社をまつりました。清英は文武両道に秀でた良将で、上杉謙信は清英の武略に感じて、後奈良天皇から賜った仏工春日作の箱根権現の像を清英に贈りました。当社は天文十九年(1550)山城国石清水八幡宮より分祀したもので、御神体は応神天皇束帯塗金銅像です。天正十八年(1590)皿沼城落城と共に当社は衰退しましたが、正徳年中(一八世紀初期)上野台村の地頭大久保家が、この地を寄進し移しました。高蒔絵定紋入り岡谷加賀守清英使用の鞍、安部摂津守鉄砲隊の種ヶ島銃が市指定文化財です。
昭和五十三年一月 深谷上杉顕彰会
案内板より引用
一の鳥居を過ぎて、暫く参道両側には緑豊かな林が広がっているが、一転して広場のような空間となり、そこに社務所等が設置されている(写真左)。恐らくはこの広い空間で祭事等の行事が行われるのではなかろうか。その先に朱を基調とした、目視しても非常に目立つ木製の二の鳥居が見えてくる(同右)。
二の鳥居
二の鳥居の傍らに岡谷加賀守清英を祀った祠。
石祠の横の石柱には「當八幡宮創始 岡谷加賀守清英公偲祠」
「加賀守十二世孫 従五位岡谷繁實大人奉配」と刻まれている。
参道を進むと右側に御神木の大杉が聳え立つ(写真左・右)。
二の鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫 御神木の先で参道右側には神楽殿
拝 殿
岡谷加賀守清英の主である深谷上杉氏は、山内上杉家4代目当主の上杉憲顕の6男・憲英が庁鼻和上杉を立てたのが祖とする。憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任命されている。分家の扇谷上杉家と共に武蔵国を治めるが6代目・上杉憲賢(1498年?~1560年)の代に北条軍との戦いである河越夜戦によって最後の当主である上杉朝定が戦死して扇谷上杉家が滅亡すると、北条家に降伏する。
憲賢の息子である憲盛(1530年~1575年)は父が降伏してなおも、関東管領山内上杉憲政と結んで武田信玄と笛吹峠で対戦したり、同族の長尾景虎(上杉謙信)と通じて徹底抗戦を続けるが復権はならないまま1563年、北条軍に敗れて降伏した。しかし1569年、越相同盟の締結によって深谷城が上杉家に戻った事により憲盛は深谷城へ帰参。そして甲斐武田家が攻めてきた際には防戦し勝利する。憲盛は1575年に46歳で死去するまで上杉配下として貫いた。
憲盛の息子である氏憲(?~1637年)の代では深谷上杉家は北条家に帰参している。氏憲は小田原征伐でも小田原城に籠城しているが、元配下の秋元長朝に裏切られて小田原城は開城。氏憲はその後小久保と姓を改め、信濃国にて隠居した。ここに名族深谷上杉氏は歴史の表舞台から完全に姿を消した。
上野台八幡神社は元々榛澤郡茅場の地に鎮座していたが、この天正十八年(1590年)小田原征伐の際、皿沼城落城と共に一旦は当社は衰退した。その後正徳年中(十八世紀初頭)上野台村の地頭大久保家がこの地を寄進し移して現在に至っている。
拝殿上部に掲げてある立派な木製の社号標。
なんでも近隣に在住の方から寄付されたものだそうだ。
本殿(上写真3枚)
因みに岡谷加賀守清英は深谷上杉家の三宿老の一人と言われていて、岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人が「三宿老」、これに上原出羽守を入れて「四天王」という。
*平成28年に本殿の修復工事を行った。
拝殿左側には浅間大神の石標 浅間大神の石標左側にある境内社・天神社
本殿奥にある末社群。詳細は不明。
拝殿右側にある境内社・台天白神社・ 天王宮 台天白神社等の右並びには、如幻庵東山稲荷社
ところで境内社・台天白神社は「大里郡神社誌」によると以下の記述がある。
末社臺天白神社本殿
・石宮流造間口一尺奥台行尺四寸安永元年(1772年)造営明治四十二年同所字天一白より移転
・(神話)旧来弓矢の神として衆庶の崇敬極めて深く又農作物の守護神として氏子崇敬者の信仰厚し。
末社臺天白神社は小児の百日咳に霊験ありとて篠笛を納め来る賽客多し。
この「大里郡神社誌」を詳しく読むとこの上野台地区の字名には「天一白」「大臺」「台前」「小台」という「大(臺)天白」を共通する地名が今だに残っているのも興味深い。現在でも「上野台」として地名の名残りとして残っているが、嘗て文字通りこの地域は「台(臺)」の地であったのだろう。
また調べてから発見したのだが、「鼠」という地域もあり、興味がつきない。
拝殿から参道方向を撮影
この上野台八幡神社は10月3連休の土曜日から月曜日かけて例祭が行われる。上野台地区の鼠・上宿・下宿・小台・大台・桜ケ丘の六地区の屋台が奉曳され、上柴町を含めた旧大字上野台の全域を夜間も含め3日にわたって渡御する神輿であり、悪魔払い福を招くと言われ、遷座の当初より行なわれていたという。神輿渡御は当時より、上野台の各字が年々交代に行う方法がとられていたようで、この交代制が今に続く「年番」という仕組みとなっている。
例祭では他に、獅子舞(ささら)、棒術(棒づかい)、道化などの行事がある。獅子舞は深谷市の無形文化財に指定される。祭典の中日には八幡様の社殿で、浦安の舞・豊栄の舞が奉納される。この舞は、3月の祈年祭、11月の新嘗祭でも行われる。平成20年代は「体育の日」を最終日とする3日間であることが多い。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「鼡‐深谷自治会連合会」HP
「Wikipedia」等