武蔵野足高大神社
その摩訶不思議な村名である旧猿喰吐村内にこの武蔵野足高大神社は鎮座している。
・所在地 埼玉県深谷市武蔵野3283
・ご祭神 大物主神
・社 格 旧村社
・例祭等 例祭日 10月15日
地図 https://www.google.com/maps/@36.1490538,139.2335158,17.04z?hl=ja&entry=ttu
上野台八幡神社から埼玉県道62号深谷寄居線を寄居町方向に道なりに真っ直ぐ進み、約6㎞行くとコンビニエンスのあるY字路にぶつかる。県道をそのまま進んで、最初の信号の先にある十字路を左折し、500m程進むと右側に武蔵野足高大神社が見えてくる。
武蔵野足高大神社正面
一の鳥居の先で参道の左側にある 社号標柱の先に鎮座する境内社・
社号標柱 八坂神社
「大里郡神社誌」によれば、室町末期には既に鉢形城主北条氏邦により、領内鬼門鎮護として奉祀されていたという。そのため、氏邦は、毎年九月二十八日を恒例日と定め、家士数人を率いて参拝し、幣帛及び神饌を奉り、祭礼を執行したという。この時、氏邦の神饌を奉るために使った膳が足高の膳であったため、それにちなんで当社を足高神社と呼ぶようになったのだとも伝えている。
拝 殿
拝殿右側には広い空間があり、御嶽山三神の石碑がある。
御嶽山三神の左隣には社日神が祀られている。 社日の並びにある塞神宮。
塞神宮の左側にはに弎㠀(三島)大神と仙元大神と彫られた大きな2枚の石碑があり(写真左側)、そのすぐ左側には境内社・稲荷神社(同右側)が鎮座している。
この地域には千元(浅間)神を信奉する社や石碑が非常に多い。
社殿の左側奥に祀られている境内社・天手長男神社
御由緒
御創建の年代は不詳ではありますが、室町時代末期 鉢形城城主 北条 氏邦 により領内の鬼門鎮護として厚く崇拝されていたと伝わります。氏邦は毎年九月二十八日を恒例日と定め、家臣を率いて参拝し幣帛及び神饌を奉り祭礼を執行したといわれています。その際、神饌を奉るのに使われた御膳が、足高の膳であったことに由来し当神社を足髙神社と呼ぶようになったとも伝えています。
かつて御祭神については伝えがなく、長らく祭神不詳となっておりました。ところが大正年間、古い版木に刻まれた神代文字を解読したところ「おほものぬしのかみ」(大物主神)と読めることが判明し、大正十年に正式に届けられ認められました。
その他、病気平癒・星祭・荒神・鎮火天手長男神社・塞神・養蚕守護・軍人健康などの祈祷札の版木が残存していることから、広く諸祈祷を行ない、信仰を集めていたことを窺い知ることができます。
例祭日は九月二十八日でしたが、改暦や養蚕などによってしばしば変更され、大東亜戦争後に現在の十月十五日に落ち着きました。戦前には、春祭りと例祭に境内の燈籠が灯され社務所の後ろ側にあった神楽殿で、永田から呼んだ金鑽神楽の奉納演舞が行われ賑やかでした。
また、この両日には朝早く赤飯を蒸かして御供えをする氏子の姿も多く見られました。
平成元年の例祭には、新たなる平成の御世と花園村の百周年を記念して戦前の賑やかな祭礼の様子が再現され、当時を知る人々の郷愁を誘うと同時に、神社に関心の薄かった人々の祭りに対する意識を高める試みとなりました。
平成十七年には氏子・総代により、本殿並びに拝殿と稲荷神社の改修工事が行われ、同時に境内も整備され、田園風景に溶け込みより親しみやすい景観となりました。
「埼玉の神社HP」より引用
趣のある境内
ところで冒頭で榛澤郡下郷地域は、明治9年(1876年)改正の際に、飯塚村・原宿村・猿喰吐村・飯塚原宿村・飯塚猿喰吐村、五村が合併して武蔵野村となり、この五村の内に「猿喰吐村」という村名を紹介したが、それについて「埼玉苗字辞典」ではその村名に関連するのか、以下の記述をしている。
幕土 マクツチ 榛沢郡藤田郷猿喰土村(ざるがいと、花園町)は獏喰土と書かれ、系図作成者は幕土(ばくと)と記したか。冑山文庫本の武蔵七党系図に「猪俣党、幕土(猿喰土カ)」と見ゆ。小野氏系図に「猪俣小野三郎政家―藤田五郎政行―三郎大夫行安(一谷合戦討死)―右衛門尉能国―幕土五郎左衛門尉重国―六郎左衛門尉助国(弟に三郎左衛門尉重行、五郎兵衛尉助盛)―重泰(兄に孫三郎泰氏、弟に左衛門四郎宗遍、四郎助時、十郎入道道尊)―行重(弟に六郎重宗、弾正左衛門尉行宗)」と見ゆ。
猿喰土 ザルガイト 榛沢郡猿喰土村(花園町)あり。
一 猪俣党猿喰土氏 武蔵七党系図(冑山文庫本)に「猪俣党、幕土(猿喰土カ)」と見ゆ。