萱場稲荷神社
・所在地 埼玉県深谷市萱場14-1
・ご祭神 稲荷神(推定)
・社 格 旧萱場村鎮守
・例祭等 初午祭 2月11日 春の大祭 4月10日
萱場八坂祭り 7月末金曜日〜日曜日までの3日間
深谷市萱場地域は、櫛挽台地の北端で、同時に荒川扇状地の未端にも位置する地域で、湧き水が豊富で古代より人が住み、六~七世紀古墳が多く築かれたという。また、この地域内を中山道が通り、またこれと並行して中道(萱場古道)が走るのだが、この中道は古代武蔵国が東山道に属した頃に整備された駅路といわれていて、古い時代から人々の開発の手が加えられていた地域であったのであろう。
途中までの経路は宿根瀧宮神社を参照。同神社から「宿根」交差点を旧中山道方向に400m程進むと、進行方向左手に萱場稲荷神社の鳥居が見えてくる。
社の北側には深谷市コミュティセンターである「くれよんかん」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
中山道沿いに鎮座する萱場稲荷神社
『日本歴史地名大系』「萱場村」の解説
櫛挽台地の北端にあり、東は東大沼村など、西は宿根村。深谷領に所属(風土記稿)。中山道分間延絵図などには茅場村とみえる。村内を中山道が通り、またこれと並行して中道(萱場古道)が走るが、中道は古代武蔵国が東山道に属した頃に整備された駅路といわれる。田園簿によれば田方二六石余・畑方九二石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも同領で、ほかに寺領(清心寺領)がある。天保元年(一八三〇)に一三二石余が忍藩領となる(忍藩新領高覚書)。南方の櫛挽野に二二ヵ村共有の入会秣場があったが、享保一五年(一七三〇)までに解体されており、櫛挽野(くしびきの)新田のうちに当村分の持添新田(幕府領)が成立している(新編埼玉県史)。
『深谷市自治会連合会HP』によると、嘗て榛沢郡萱場村だったが、明治22年4月1日町村制施行により深谷町が新設された事により深谷町萱場と成ったとの事だ。
境内の様子
『新編武蔵風土記稿 萱場村 附持添新田』
萱場村は本鄕の鄕藤田庄と唱、江戸よりの里數は前村と同じ、東は東大沼村、南は樫合村、西は宿根村、北は曲田村なり、東西四町南北十三町餘、家數二十五軒、中山道村の中程を東西に通ぜり、古は上杉氏の領分なりしが、御入國の後酒井讃岐守領分となり寛永三年若州小濱へ所替有てより御両領所となり、今も御代官支配せり、又村の坤の方櫛引新田の内に、当村持添の地あり、詳なることは人見村に出せり、この外當村の飛地二ヶ所、宿根村内にあり、
稻荷社 村の鎭守にて、村持、
参道左手にある「水天宮碑」
この社の創建や由来に関して、『埼玉の神社』や『大里郡神社誌』等を調べてみたが、記述は全くないため不明。その中に在って、境内には『水天宮碑』があり、その内容を確認すると、「農は立国の大本であり、耕作の工夫や水利灌漑の工作は農業を成り立たせるためには基本である。深谷町(当時)の西側に位置する当地は、田んぼを連ねること数町程で、土地の質も佳く、肥えているが、周囲には適当な河川がなく、用水の一溝もない天水頼みで、草木が茂って荒れた状態となってしまった。昭和元年十月に、当地の有志がこの惨状を憂い、翌二年三月に「北部揚水組合」を設立し、灌漑事業を行った。そして深さ二丈余(約6m)、直径三尺(約90㎝)、汲水には電力を用いた近代的な井泉(せいせん)が完成した。その澄水は田畑を潤し、収穫の秋には美田となり、農業を営む人々は人生を楽しむことができた。そこで、このような土建の恩人を追慕し、水天宮を祀った云々…」と載せている。決して創建等に係る関わる事項ではないが、この地域の歴史を知ることの出来る史料であることには変わりない。
水天宮碑の並びに祀られている八坂神社の石祠
当社には、7月末の金曜日から日曜日までの3日間、「萱場八坂祭り」が行われている。
この祭りは京都八坂神社で859年頃から、疫病が流行した時に厄災の除去を祈った事から、萱場でも古くから行われていた祭りである。
初日は神官による神降ろしの儀を開催、神社総代、自治会役員、祭典幹事、青年部代表、子供会代表、中学校PTA代表が参加し式典を行い、八坂祭神にお神輿と屋台に降神頂き祭り中の安全を祈願する。夕方には恒例のお隣の宿根自治会から屋台が来て萱場自治会と叩き合いを行う。
2日目の午前の部では子供神輿を行い、神輿を担ぐ。午後の第二部では神輿渡御と居囃子の饗宴をする。
最終日は、早朝から青年部が集まり、神輿・屋台の準備を行い、隣の宿根自治会と合同祭を行 う。午前中は町内北地区への神輿渡御、夕方からは、町内南地区へ屋台巡行する。
拝 殿
社殿の左側に鎮座する境内社・石祠。詳細不明。 本 殿
一番左側にあるのは神楽殿であろうか
社殿からの一風景
萱場地域の東側で、JR高崎線の踏切を越えたすぐ正面に浄土宗・石流山八幡院清心寺がある。起立は天文18年(1549) 開基は上杉氏の重巨 岡谷(おかのや)加賀守清英が深谷領の守護として開山慶長10年(1605)、清英は万誉玄仙和尚を開基するとともに、 深谷領の守護として清心寺内に山城国石清水八幡宮を誘請したという。
当寺には、源平一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が、平忠度を弔ったという供養塚がある。
石流山八幡院清心寺正面
清心寺本堂
『新編武蔵風土記稿』
清心寺 下總國岡田郡飯沼村弘經寺末、石流山八幡院と號す、寺領八石は慶安二年御朱印を附らる、當寺の起立は天文十八年二月なり、開山萬譽玄仙慶長十年正月七日寂す。開基は上杉氏の老臣岡谷加賀守清英、法名は皎月院圓譽淸心居士、天正十二年十一月八日卒す、按に谷野村皎心寺もこの人の開基にして、そこの傳へには、元龜年中の卒といひ又過去帳に加賀守法名安仲皎心庵主十五日とも記せり、かくまちヽヽの傳へあるが上に、當寺に傳る所は卒年も法謚も差へり。い づれが正しきや、本尊彌陀を安ぜり、
箱根權現社 束幣の像にて春日の作なり。相傳ふ此像は上杉謙信より、岡谷加賀守に附屬せしと云、
鐘楼 寛政二年再鑄の鐘をかく、
忠度櫻 本堂の艮にあり、梢まで高二尺ばかり、地づらより四本に分れたり。四本を合すれば一圍みに餘りたれど、分れし一枝は僅に二尺巡りにすぎず、花は薄紅にてしへなく、中に葉二枚ありと云、此木の下に忠度が墓とて古き五輪の塔立り、高三尺許、臺石に梵字を彫付たり、又側に青き板碑一基あれど、これも阿字のみ彫れり、相傳ふ岡部六彌太忠澄薩摩守忠度を討し、後其菩提の為に當所に墓を立、此櫻を植しと云、されど其頃植たる木とも見えず、後人忠度が櫻花の和歌の意により植しものなるべし、
清心寺の山門を過ぎてすぐ左側にある 板石塔婆と平忠度供養塔
「平忠度公墓」の標石と清心寺の案内板 どちらも深谷市指定文化財
平忠度は平清盛の弟で文武の名将、平忠度が一の谷の合戦の後、岡部六弥太に討たれたが、頭髪を持ち帰った六弥太により清心寺に葬られている。平忠度の墓といわれるが、正しくは、源平一ノ谷合戦で忠度を討った岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)が後に建てた供養塚である。土塀に囲まれた中に、質朴で重量感のある五輪塔と板碑が並ぶ。 板碑は、考古資料として市指定文化財である。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「深谷市自治会連合会HP」
「境内記念碑文」等