金沢萩神社
嘗て中山道から秩父へ入る玄関口の宿場としてにぎわった当地域は、現在は少ない耕地と山間地をいかし、シイタケ栽培が行われている。春はツツジとカタクリ、初夏にはアジサイとヘメロカリス、冬はロウバイなど多くの花が地域を彩り、訪れる観光客を和ませる景観のすばらしい集落である。
「金沢たたらの里を愛する会PDF」より引用
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町金沢2647
・ご祭神 素盞鳴尊
・社 格 旧村社
・例祭等 節分祭 2月3日 祈年祭 2月15日 例大祭 4月15日
つつじ祭 5月5日 新嘗祭 11月25日
金崎神社から荒川左岸に沿って西行する一本道は同町・国神地域に鎮座する国神神社へと通じるルートである。その後「国神」交差点を右折し、埼玉県道44号線秩父児玉線に合流後4.5㎞程進むと、進行方向左側に金沢萩神社の鳥居が見えてくる。
皆野町金沢地域は、同町北西部に位置し、北は本庄市児玉町太駄地域と接しているので、県道を3.6㎞程北上すると本庄市太駄岩上神社に到着する位置関係にある。
金沢萩神社正面鳥居
現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していて、この主要な道路の他にも、太駄から神川町阿久原へ通じる道路や長瀞町に至る古道があった。
古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を通り、上野国や児玉郡へ出るのが一般的であったらしい。
鳥居の左側に設置されている案内板
萩神社 御由緒 皆野町金沢二六四七
◇たたらの里金沢の総鎮守
人皇第十二代景行天皇の第二皇子である日本武尊が宝登山を経て当地を訪れた際、秋の長雨で身馴川が増水し渡ることができずに難儀していたところ淵の中から一頭の黒牛が現れ、尊を背負い対岸までお導きしたことから「出牛」の地名が生まれたと伝えられる。
尊は当地一帯に萩の花が美しく咲き乱れている様子を愛で「あなうまし萩よ萩」と仰せられ素戔嗚尊をお祀りしてより、久しく「萩宮」と呼ばれるようになった。
口碑によれば、建久二年(一一九一)鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠公が当社を篤く崇敬され、社殿や社領を寄進したと伝えられるほか、境內に残る石鳥居は上杉謙信公が松山城攻略の折に奉納したものと伝えられ、大正五年に出版された『北武蔵名跡志』にも「出牛村萩宮石鳥居永禄十丁卯(一五六七)九月」とあり、現在は皆野町の文化財に指定されている。
当地は中山道から秩父へ至る交通の要所であり、江戶時代までは宿場町としても栄えた。明治五年(一八七二)に旧金沢村の村社に列し明治四十年(一九〇七)には近郷五社を合祀して旧社地から現在の社地である天沢へ遷座を果たし現在に至っている。
毎年、例大祭の付祭りとして行われる五月五日の「つつじ祭」では埼玉県の有形民俗文化財に指定される「出牛人形浄瑠璃」の特別上演などが賑やかに開催されている。(以下略)
案内板より引用
「金沢」という地名は全国に存在する。特に有名な所では、石川県の県庁所在地である金沢市であろう。「金沢市HP」ではその地名由来に関して『昔、山芋を掘って売っていた藤五郎という青年がおり、山で芋をほっていると、芋のひげに砂金がついていました。その砂金を洗った泉が「金洗沢(かなあらいざわ)」とよばれ、それが金沢の地名になったといわれています。現在の兼六園の「金城霊沢(きんじょうれいたく)」が、その泉だということです。』と記してあり、この中の説話は、あくまで「後付けの話」であり、肝心なことは「砂金」に関連した地名であるということだ。現在でも「金沢箔」といわれる伝統技術が継承されていて、その大元はこの地域が「砂金の産地」であったことも関係しているのかもしれない。
この他にも多数存在する「金沢」の地名の由来を調べてみると、面白いことに、そのほとんどが「金の産出」「砂金の産地や砂金貢納地」「金の採掘」等、金や砂金が関係する地名由来となっている。砂金や金等の採掘には当然多数の集団が必要となるが、それは即ち「古代における鍛冶集団」となろう。
また皆野町金沢地域は、昔から銅を採掘して朝廷に献上したことに由来しているとも、「カナサワ」を鉄分で赤味をおびた川と解する説もある。因みに近郊には「金山」という小字もある。
神奈川県横浜市には「金沢」という地名がある。古くは「カネサワ」と呼ばれていたようだ。鎌倉幕府が開かれると、近くに沢山の刀や槍を製造する地域が必要となるが、この武器製造に欠かせないものが「綺麗な水」で、この条件にあった場所が、この「金澤(金沢)」、特に「釜利谷地域」であって、畠山重患が秩父(皆野町金沢村)より鍛冶集団を呼び寄せ移り住んだ際に、地名も移されたのではないかという説もある。
傾斜地上に境内がある為、石段を登る。
石段を登りきると、そこには古い形式の鳥居が屹立している。
皆野町指定有形文化財に指定されている「萩神社の石鳥居」
鳥居の近くに設置されている石鳥居の案内板
皆野町指定有形文化財
平成十四年十二月二十六日指定
萩神社の石鳥居
萩神社は昔、出牛地区にありましたが、明治の神社合祀令によって、当地に移されました。この鳥居も同時に移されました。
土地の伝えによると、萩神社は萩宮と呼ばれ、畠山重忠をはじめ多くの人の信仰した、古い社であったといいます。
出牛の地名は、身馴川に一頭の牛があらわれて、日本武尊を無事に渡したところから出ているといいます。
嘉永六年(一八五三)の文献に「出牛村秋宮石鳥居は、永禄十年(一五六七)に建てられた。しかし彫りが古くてはっきりしない。」とあります。
また郷土史家の日下部朝一郎氏も、「柱も割合に太く、県下に数多く見られるやさ形の石鳥居に比べてみると、ずっしりとした落ち着きもあり、武蔵では一級品であろう。」といっています。年号は神社に向かって左側の柱に刻まれています。 皆野町教育委員会
案内板より引用
境内は思いのほか広く、その中央に位置している拝殿
拝殿も重厚なこしらえだ。
本 殿 本殿内部
拝殿の右側にある神楽殿
毎年、例大祭の付祭りとして行われる五月五日の「つつじ祭」では埼玉県の有形民俗文化財に指定される「出牛人形浄瑠璃」の特別上演などが賑やかに開催されているという。
出牛人形浄瑠璃
所在地 埼玉県秩父郡皆野町大字金沢出牛地区
出牛人形浄瑠璃は文楽系の3人遣いの人形芝居で、幕末の頃を最盛期として、明治中期には上州方面でも興行したと言います。しかし、大正5年春、萩神社境内での上演を最後に出牛人形座は解散しました。昭和40年、埼玉県立文化会館での埼玉文化祭人形の歴史展に出品を求められ、これを機会に人形芝居復活の気運が起こり、厳しい練習の後、昭和42年11月西福寺に掛けられた舞台で復活しました。
皆野町無形民俗文化財 昭和59年4月1日指定
斜面上に鎮座する社が好きな筆者にとってこの角度からの撮影はうれしい。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「皆野町HP」「金沢市HP」
「金沢たたらの里を愛する会PDF」「Wikipedia」「境内案内板」等