古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

金崎神社

 金崎神社獅子舞  皆野町指定文化財 無形民俗文化財
 金崎神社の祭礼に舞われます。曲目は、かつて31庭でしたが、現在は17庭です。子どもざさら4庭、お神楽、うねり、大狂い、三つ巴、花掛り、幣掛り、弓掛り、笹掛り、友ぐるい、剣掛り、四本立(女獅子隠)、花狂い、竿掛りがあります。獅子頭は、塗獅子で、男獅子は黒と白の鳥羽根に鹿角を立て、女獅子は白と茶の鳥羽根、頭頂に宝珠を置きます。
                                   「皆野町HP」より引用

        
            
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大字金崎1081
            
・ご祭神 知知夫彦命 知知夫姫命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 節分祭 2月上旬 春祭り 4月中旬 夏祭り 7月中旬 他

 金崎神社は熊谷市からは国道140号バイパス・彩甲斐街道を長瀞町方向に進み、宝登山神社の大鳥居が見える「長瀞駅前」交差点から1.4㎞程先にある「親鼻」交差点を右折する。金崎集落の長閑な風景を眺めながら200m程車を走らせると、右側に金崎神社の白い鳥居が見えてくる。
        
                    金崎神社正面
 皆野町金崎地域は宝登山の南側で、荒川の左岸の川岸段丘面に位置している。国神神社太駄岩上神社の項で紹介しているが、皆野町出牛地域より群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線が北上し、太駄地域から分岐する神川町阿久原に入る道と、直進する道路は主要地方道である埼玉県道44号線秩父児玉線となり、河内地域に通じているが、この埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を通り、上野国や児玉郡へ出るのが一般的であったらしい。
 そして国神地域から金崎地域に通じる道があるが、この道は古くから存在していたようで、事実この荒川左岸に通じる道沿いには、社の西隣や後方の山麓、また社からは東側の荒川左岸下流域にかけて、「金崎古墳群」と総称される古墳時代後期(7世紀頃)の群集墳があり、この地域は古くからの開発が進んでいた所であることが推測されるからだ。
        
                                         拝 殿
        
               拝殿前に設置されている案内板
 金崎神社 御由緒 皆野町金崎一〇九
 ◇国造 知知夫彦命・知知夫姫命を祀る神社
 当社は、現在十二天山の南東、字岩下の旧八坂社境地に鎮座しているが、以前はここからやや西に寄った社中山の中腹に鎮座していた。社中山は宝登山の裏手に当たり、そこからは国神方面が一望できる。
 社記によれば、当社は本郡の旧跡である国造知知夫彦命・知知夫姫命の古塚近くの山にあり、古墳の祭神二柱を祀っているところからこの塚とは縁があるという。また、『新編武蔵風土記稿』には、 野栗社 諏訪社 貴船社以上三社合殿、村の中程、村の総鎮守、 無年貢地、例祭七月二十七日、神主宮前主計」とあり、当社は初め、野栗三社権現と称し、三社合殿で祀られていたが、大正期には既に氏子の間では、野栗社と貴船社の事は忘れられ「お諏訪様」とのみ呼ばれていた。
 明治四十年(一九〇七)に字馬場の八幡社、字岩下の八坂社・天満天神社、字瀬戸山の十二社大神社・稲荷社、字腰の大山祇社を合祀し、同四十三年(一九一〇)に村社となった。
 社名はこの時、村名をとって金崎神社とした。更に、昭和五十三年(一九七八)には現社地に遷座して、今日に至っている。
 ◇御祭神 知知夫彦命 知知夫姫命
 ◇御祭日 元旦祭 一月一日 節分祭 二月上旬 春祭り 四月中旬
     
夏祭り 七月中旬 秋祭り 十月上旬
                                      案内板より引用
 案内板によると、嘗てこの社は「
ここからやや西に寄った社中山の中腹に鎮座していた」らしく、「社中山は宝登山の裏手に当たり、そこからは国神方面が一望できる」場所にあったという。事実グーグルマップで確認すると、金崎地域西端の山中に「金崎神社奥宮」がある。やはりこの地も国神地域から金崎地域に通じる道の途中の斜面を登った場所にある。
        
              社殿の左側にある「金崎神社遷宮記念碑」
 金崎神社遷宮記念碑
 知知夫彦命が詔を畏み国造として秩父に降ったのは第十代崇神天皇の御代とされている清き荒川と豊かな大地自然の美に恵まれた秩父がここに拓かれ産業文化の創造が始められた秩父の基を礎かれた命の偉績は真に大である盆地の東端眺望の地字国神に本郡著名の旧跡国神塚があり知知夫彦命知知夫命の墳墓と伝えられ近くに古き大銀杏が天高く聳え立っているここより東方社中山には古来野栗三社権現が在ったが明治維新の際村名を社号とした金崎神社に改称し知知夫彦命外十九柱を祭神に境内神社七社を祀った神社所蔵の鏡に安元二年由エ門とあり刀には野栗三社宝前元久二年乙丑九月納主新右エ門の銘があることから野栗三社は八百年以上の古社であった事が解る社中山が地辷り地帯に在り社殿が老朽したので之を奥社とし八坂神社跡地に新社殿を造営し新しく知知夫彦命外二十三柱を本斎する神神は知知夫彦命、知知夫姫命、野槌神、高龗神、應神天皇、素戔嗚尊、菅原道真、句句廼馳命、軻遇突智命、埴山姫命、金山彦命、罔象女命、磐裂神、経津主神、根裂神、大己貴命、少彦名神、神直日神、倉稲魂命、大山祗神、建御名方神、事代主命、別雷神、火産霊神其御神徳は広大であり祭礼に奉納する獅子舞も由緒あるものである昭和五十三年四月十四日遷宮祭を記念し本事業奉賛者名を左に記し感謝の意を表するものである
                                     記念碑文より引用


 金崎神社の近隣には「金崎古墳群」といわれる古墳群が存在する。この古墳群は、荒川左岸の河岸段丘上にある群集墳で、かつては8基以上の円墳があったといわれる。しかし、現在墳丘や主体部が残されているのは、大堺1号墳、大堺2号墳、大堺3号墳、天神塚古墳の4基だけである。大堺1号墳を除いて石室が開口しており、いすれも横穴式石室で、秩父地方に特徴的な長瀞系変成岩の板石や割石を使用し、巧みな技術で積み上げられている。
 
             金崎神社の社殿の隣にある「天神塚古墳」
 金崎神社の社殿の隣にある「天神塚古墳」からは埴輪の破片、大堺3号墳からは土師器や須恵器が発見されている。これらの遺物と石室の形から、天神塚古墳が6世紀後半、大堺3号墳が7世紀初頭の築造と考えられる。
        
                 境内から鳥居方向を撮影

 金崎神社のご祭神である「知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)」は、古代氏族の分類では「天津」系に属し、天津神である八意思兼神の後裔とされる。『先代旧事本紀』「天神本紀」によれば、八意思兼神(高皇産霊尊の子)の子の天表春命・天下春命兄弟のうちの天下春命が武蔵秩父国造等の祖であるといい、『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇の時代に八意思金命の10世孫の知知夫彦命(ちちぶひこ みこと)が初代知々夫国造に任命されたという。
 
知知夫彦命は崇神天皇のとき、知々夫国造と呼ばれる官職に任命されていて、その本拠地はのちの武蔵国秩父郡であり、知々夫国造の氏神は、埼玉県秩父市(旧秩父郡)にあり武蔵国四宮の秩父神社である。
不思議な事だが、知知夫彦命の墳墓であるとされている古墳は、皆野町国神地域にある「国神塚古墳」という。「皆野町HP 国神の大イチョウ」の解説では「この場所は、毛の国(現在の群馬県)から児玉郡を通じて古墳文化が秩父盆地に流入する経路の一つと考えられる地点である。知々父へ赴任を命ぜられた知々父彦命が、当時の主要道である東山道を経て、毛の国から秩父盆地へ入国すると、最初に展望が開ける「国見の丘」と呼べる場所に当たっている。」との事だが、説明が漠然としていて、釈然としない。
       
                「国神地域」の大イチョウ
             ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町国神577   
*「国神の大イチョウ」参拝日は2022年5月4日であるので、金崎神社参拝日と違い、新緑の季節。
 
 左側の祠は妙見宮、右側には案内板がある。     「国神の大イチョウ」案内板 

 秩父神社の創建に関して、允恭天皇年間に知知夫彦命の九世子孫である知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったといわれている。という事は、少なくとも何代にもわたって子孫が知知夫国造を任命されているのであろうから、その初代にあたる知知夫彦命の陵墓は、秩父神社に関連した場所こそふさわしいと思うのだが、筆者の勝手な解釈であろうか。
 もしかしたら
知知夫彦命の出身地こそ、この「国神」地域であり、この地に勢力を持っていた地方豪族が国造として任命された可能性もあり、元々この地に勢力を持つ豪族が国造として任命された可能性もある。秩父志には
「国祖、霊宮、金崎村国上、秩父彦命、社司国府宮」
「金沢村の内に国上と云ふ所に往古、縣主の居地と云所あり、近古まで小地名を国神と書しと云ふ」
「金毘羅山社、大淵村の国上と云村へ入口の所にあり」
と記載があり、この「縣主」は国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)の「ミヤツコ」よりも古い「ヌシ」の称号をもち、名代・子代の制よりも古めかしい奉仕形態をとることから、3 - 4世紀(古墳時代初期)に成立したと考えられている。「国」が日本氏姓制古代国家の行政目的で作られた行政制度であるのに対し、「県」は発生と発展がもっと自然の性格を持っているという。
 ヤマト王権が直轄する地方行政区分の一つに県(あがた)があり、県(あがた)は、国の下部に有った行政区分と言われている。ただし、古くは国と県を同列に扱っていたとする説もあり、古くはその地方の豪族が治めていた小国家の範囲であったと考えられる。しかしながらその詳細は律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりとはしていない部分が多いことも確かである。
 筆者の勝手な推測と妄想が広がってしまったが、真相は如何であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」
日本歴史地名大系」皆野町HPWikipedia
    「境内案内板」等

 

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下日野澤大神社

 阿左美(あさみ)氏は、浅見・浅海・朝見・阿佐美・阿佐見・阿左見と表記の仕方は違うが、東国の、特に相模国・武蔵国・上野国3国に多くある苗字で、他の国にはあまり存在しない。特に埼玉県特有の苗字で、秩父地方を中心に奥多摩から群馬県の南部にかけて、全国の半数が分布していて、秩父地方では「あざみ」と読む所もあるらしい。
 通説での浅見氏は、児玉党浅見(阿佐見)氏が児玉郡浅見村より起り、武蔵国の各地に広がった。武蔵七党系図には、児玉庄太夫家弘―庄五郎弘方(阿佐美)―実高と続き、この実高は武蔵国児玉御庄、上野国高山御庄、同吾妻郡小中山村、越後国荏保、又横曽根保、又大積、加賀国島田村領と所領を与えられ、仁治二年正月に亡くなっている。
 更に桓武平氏 秩父氏流渋谷氏族である莇(あざみ)氏と同族とも云い、「目黒区大観」に、莇(あざみ)家から分かれた浅海家に「武州渋谷之莇氏伝」という旧記録があり、“あざみ”の漢字・莇から浅見(浅海・阿佐美)に変わったと記載されている。
 下日野沢地区には古代から阿左美氏が多く存在する地域である。この地域の阿左美氏はどの系統からの流れなのだろうか。
               
           ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町下日野沢3543-2
           ・ご祭神 神功皇后 大山祇命
           ・社 格 旧村社
           ・例 祭 節分祭 23日 祈年祭 330日 夏祭 723日 
                例大祭 101415日 新嘗祭 125日 
                師走の大祓 
1231日    
 日野澤大神社は進路途中までは「国神神社」参照する。その後埼玉県道44号秩父児玉線を北西方向に道なりに1.5㎞程進み、T字路を左折、同284号下日野沢東門平吉田線と合流するので、日野沢川に沿って西方向に2㎞程進むと左手に日野澤大神社の鳥居が見えてくる。
 社は県道沿いにあるとはいえ一段高い場所に鎮座し、県道から脇に伸びる舗装された道が社の参道となっている。鳥居の手前には駐車できる空間があり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                    日野澤大神社正面
 
      鳥居に掲げてある社号額          鳥居の右側に設置された案内板
 日野澤大神社御由緒  皆野町下日野沢三五四二ノ二
◇神代神楽を伝承する日野沢地域の総鎮守
 当地域は荒川の一源流である日野沢川の渓谷沿いに点在する十七の自然集落(耕地)から成り、平地が少ないため斜面に石垣を積み上げるなどして家々が点在する山村の原風景を今に伝えている。
 旧日野沢村の総鎮守である日野澤大神社の御本社は明治四十二年(一九〇九)に下日野沢字沢辺鎮座の諏訪神社外十六社を現境に合祀し、社号を日野澤神社と改称して創建されたものである。
 また当神社の奥社は大山祇神社と称し、大字上日野沢字西門平に鎮座する。その創立年代は詳らかでないが、御厨三郎平将門の崇敬ありと伝えられ、霊験あらたかな御社として崇敬を集め、明治十五年(一八八二)には旧上日野沢村の村社に列している。大正十年(一九二一)、大山祇神社(奧社)並びに日野澤神社(御本社)が一体となって社号を「日野澤大神社」と改称し、神饌幣帛料供進神社に指定され旧日野沢村の村社となった。
 春秋の祭礼に奉納される「日野澤大神社神楽」は、秩父神社直属の神楽として組織されたもので、中断の危機にあった秩父神社神楽を継承すべく明治十四年(一八八一)一月十日に日野沢代々協会として発足したものであり、現在は皆野町の民俗文化財に指定されている。
 また秋の奥社祭では、同じく皆野町の民俗文化財である「門平の獅子舞」と合せて奉納されている。
 その他、大晦日に行われる「師走の大祓」は、一年間の罪穢れを祓い除くために山峡を下り、日野沢川の清流に人形を流す特殊神事として今も行われている。
                                      
案内板より引用
 この案内板では、創建年代等詳しく記載されていない中、「
御厨三郎平将門」との記述に違和感を覚えた。この「
御厨三郎」に該当する人物は平将門の弟である「平将頼」であり、辻褄があわない。通説では平将頼も将門戦死後、相模国で討たれている。一方日野沢地区から北西方向に鎮座する矢納城峯神社には平将平の伝承・説話がある。平将門が関東一円を占領し、藤原秀郷等の討伐軍との戦いで戦死するが、その際に将平は城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられている。
 秩父、神川地方には将門伝説の説話が多いことは事実で、多くの伝承が入り混じって、このような言い伝えとなってしまったのだろうか。
                    
                                 新たに舗装された上り坂の参道の先に社殿は鎮座している。
             
                                  拝 殿
 
                本 殿                    社殿奥に祀られている境内社・石碑等          
             
                                                                     神楽殿
○日野沢大神社神楽(無形民俗文化財 昭和5941日)
1015日、日野沢大神社大祭に舞われます。明治14年、太田村熊野神社の神楽師により伝受されました。この頃秩父神社の神楽は中断されており、秩父神社祠官園田忠行が妻の里方である下日野沢村千廼宮祠官高橋富里に神楽団の組織と秩父神社への奉納を依頼したものであり、日野沢神楽団は秩父神社直属の神楽団として発足しました。昭和4年秩父神社に神楽団が復活すると共に秩父神社への奉仕も終わりました。
                                  皆野町ホームページより引用
                       
           神楽殿の脇に設置されている「日野沢神楽創立百周年記念事業奉賛碑」

 冒頭に述べたが、日野沢地区には阿左美氏が多く存在する。
・秩父誌
「高松屋敷・日野沢村。阿佐見氏」
秩父風土記
「下日野沢村・龍ヶ谷城跡。阿左美伊賀守鉢形落城の後、民間に下る」と見え、秩父郡誌に「朝見伊勢守は、横瀬村根古屋城を拠守せり。小田原没落後、日野沢村に隠れ、其の子孫は江戸時代に里正を勤めたり」
新編武蔵風土記稿下日野沢村
「旧家者里正十左衛門・阿左美氏なり。先祖は鉢形北条氏邦に属し阿左美伊勢守玄光と云、永禄十二年七月十一日甲州勢を追かへし、其時氏邦より感状を賜り苗字を朝見に改らる、感状今に所持す。伊勢守息朝見伊賀守慶延・元亀三年まで上杉家の押へとして郡中横瀬村根古屋の城に居れり、其時氏邦より加増の文書今に所持す。天正十八年鉢形落城の後、伊賀守息朝見左馬助幼年にて日野沢村に隠れ居り民間に下り郷士となれり。水潜寺開基阿左美伊賀守慶延・法号勇光院殿胸剣慶延大居士なり」
甲州勢夜中土坂を忍入、阿熊に屯し候を、物見山より早朝見付之、即刻吉田之楯江駆付相固候条、感悦之至に候、依之苗字阿佐美之字を向後、朝見之文字に書替、誉を可胎子孫に候、当座之為賞太刀一腰遺之候者也、永禄十二年七月十一日、朝見伊勢守殿、氏邦花押」


 ところで日野澤大神社の西側には「秩父 華厳の滝」もあり、参拝当日も多くに観光客で賑わっていた。
              
                                   秩父華厳の滝入口   

                秩父華厳の滝(写真左・右)       
        
 本家の日光・華厳滝と比べると規模も小さいながら、滝からのマイナスイオンを浴びながら清々しい森林浴を楽しむことができる場所でもある。落差12m程の直滝で大きくはないが、真近で見ることができるので、そこそこの迫力があり、綺麗で見応えのある滝である。
 ここの渓谷の地層は、「秩父帯」と称され、約
2億年前~15千年前の中生代ジュラ紀にプレートにのって運ばれてきたものとのこと。


【追伸】
 後になってから知った事で、散策できなかった場所であり、見学も撮影も出来なかったが、日野澤大神社の東側で、日野沢川上に「阿左美氏館跡」が存在する。この館跡には父最大級といわれる石垣が残っており、喰違い虎口の跡も確認することができるが、現在も子孫の方が居住されているので石垣のみ見学可能。
「新編武蔵風土記稿」下日野沢村の阿左美氏に関する記述によれば17世紀の末元禄7年(1694)に普請された旨が記されているので、現在目にすることのできる遺構の大部分はあくまでも江戸時代初期のもののようだ。
 それにしてもホームページ等の写真を見る限りこの石垣の見事なことには正直驚いた。関東には基本的には石垣構造の城館というものは存在せず、土垣が主流であり、あるとしたらごく稀なケースということになる。太田市にある「金山城跡」同様にこのような石垣があるが、構造的には比肩できる石垣である。
 後北条氏の滅亡後には伊賀守の息子朝見左馬助がこの日野沢の地に帰農土着して郷士として日野沢村の里正(名主)を代々務めたという。


 字数の関係で詳しく記載できないが、古代武蔵国は土佐国との交流が頻繁で、後北条氏の鉢形城配下には土佐・阿波国出身者が多くいたという。浅見氏も実は土佐国出身ではないかとの見解もあり、この件は改めて考察したいと考えている。
 
                       

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皆野町国神神社

 皆野町は、埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。面積は63.61km2。標高は町の中心街で海抜160m、最も高い城峯山頂で1,038mと、町の大部分は林野で占められている。四方を山々に囲まれた秩父盆地の一角に位置し、町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘を中心に市街地が形成されている。
 皆野町の歴史は意外に古く、町の中央を流れる荒川流域に多くある遺跡の発掘調査によって、古代人の集落等が確認されたり、古墳が各地に点在することなどから、遠い時代から先住民や豪族が居住していたことがうかがえる。国の名勝・天然記念物に指定されている「紅簾片岩」の露頭などの文化財も多く、自然・歴史・文化に触れることのできる、魅力を秘めた町である
 また調べて初めて解ったことだが、、埼玉を代表する民謡「秩父音頭」発祥の地がこの皆野町で、毎年8月14日には、秩父音頭まつりが盛大に開催されている。「合歓の盆」とも呼ばれ,“流し踊りコンクール”には 皆野町内だけでなく 県内各地からの多数のグループが参加して, 多数の観客を集めているという。

 皆野町国神地区は荒川左岸に位置していて、丁度皆野町の中央部に位置し、古来から交通の要衝として多くの歴史を語る数々の遺跡がある。その荒川と日野沢川が合流する河岸段丘上に国神神社が鎮座している。
所在地    埼玉県秩父郡皆野町国神709
御祭神    大物主神 他二十社合祀
社  挌    不明
例  祭      十月十日 国神神社獅子舞 

       
 皆野国神神社は国道140号を長瀞町から皆野町方向に進み、荒川を渡り切った親鼻橋交差点を右折すると埼玉県道37号皆野両神線となり、その道を荒川沿いに進むと栗谷瀬橋側道橋を通って荒川を渡る。その道を約300m位進むと埼玉県道44号秩父児玉線に分岐する国神交差点にぶつかり、その北側角地に国神神社は鎮座する。国神交差点の脇に専用駐車場があり、そこに数台停められるスペースがあるので、そこに車を停めて参拝を行った。
           
              県道交差点にある専用駐車場から皆野国神神社正面を撮影
       
 皆野国神神社一の鳥居の先に銀杏の大木があり、黄葉の時期とも重なり、参道には銀杏の落ち葉が一面に広がっていた。近郊には「国神の大銀杏」と呼ばれる樹齢700年程の老大木があり、その大きさは埼玉県では第9位、埼玉県のイチョウでは第4位の巨木という。埼玉県の指定天然記念物をうけている。
 境内は決して広くはないが、どこか懐かしさを感じ、気持ちを落ち着かせてくれる優しい社だ。
           
                              拝    殿
 参道を進むと石段があり、そこを登ると正面には社殿がある。その石段の向かって右側には案内板があり、その案内板によると、かつては金毘羅社、琴平神社と称し、創建は不詳だが天正年間(1573~1592年)に北条の家臣、多比良丹波守忠平が此の地を領地としていた時に、武運長久を祈願して大物主神を勧請したと伝えられている。1907年(明治40年)に金崎上郷の各社を合祀して、社号を国神神社に改称したという。

     正面石段の手前右側にある案内板         拝殿上部に飾られている社号の書かれた額

国神神社 由緒
 元、琴平神社(それ以前は金毘羅社)と称した。
 古記録は備わっておらず、創立年代は不詳であるが、天正年間(1580年頃)北条の家臣、多比良丹波守忠平(たひらたんばのかみただひら)がこの地を領地としていた時、武運長久を祈願して大物主命を勧請したと伝えられる。
 本社伝来の古刀には「奉納金比羅宮平治元年三月(1159)施主」と刻印があり、その他、古代石器、古鏡等もほぞんされている。
 明治40年7月、金崎上郷の各社を合祀して、社號を國神神社と改称した。(中略)御社殿造営当時の「金比羅坂」は秩父新道で、秩父盆地のシルクロードであった。その影響を受けて、装飾を多用し彫刻も立派なものが造られた。秩父新道沿いの名所で彫刻を眺めて悦に浸った人々も少なくなかったと思われる。
 元は金毘羅社であり、四国の金毘羅大権現の縁起や道中記などの彫刻が多いとされる。(中略)
                                                            
案内板より引用
        
                       拝殿向背部の素晴らしい彫刻              
        
   拝殿のそこ彼処にある究極的な匠の技にただ溜息と感動を覚えるのは自分だけではないと思う。

 御祭神である大物主神(おおものぬし)は日本神話に登場する神であり、有名なな三輪山の大神神社の神格であり、また三輪山の別名、御諸山にいた蛇体の神ともいう。さらに水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。
 このように国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。記紀の崇神天皇の条では、国に疫病をもたらす祟り神として登場する。崇神天皇は、大物主神の子孫意富多々泥古を探して祀らせることによって、大物主神の祟りを鎮めたという。
    


日本書紀 巻第五 崇神天皇紀 

 この天皇(崇神天皇)の御世に疫病多に起りて、人民尽きなむとしき。ここに天皇愁へ歎きたまひて、神牀(カムトコ)に坐しし夜、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)御夢に顕れて曰りたまはく、「こは我が御心なり。かれ、意富多々泥古を以ちて、我が前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も安平くあらむ」とのりたまひき。ここを以ちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方に班ちて、意富多々泥古(オホタタネコ)といふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノムラ)にその人を見得て貢進りき。ここに天皇、「汝は誰が子ぞ」と問ひ賜へば、答へて曰さく、「僕は大物主大神(オホモノヌシノオホカミ)、陶津耳命(スヱツミミノミコト)の女、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶して生みましし子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕 意富多々泥古(オホタタネコ)ぞ」
                                        
                     

 この記述をみると、当時この大物主神は天照大神と対等に並び祭られていたという。俗にいう天神地祇という概念だ。天神地祇とは天神(天津神)、つまり、征服者側が信奉している神に対して地祇、その土地に代々祀られていた神(国津神)で、そのパワーバランスで国土の統一を図る考え方だ。しかし、崇神天皇紀では疫病が流行し国が乱れたのは地祇の神である大物主の意志であり、この間天照大神の力で国の乱れを抑えたという記述は全く見られずこの大神はまったく沈黙している。天照大神は天津系の最高神であるはずであるにも関わらず、一方の神の力に屈服されたような書きようだ。この時期にパワーバランスが乱れた一つの証拠であり、地祇のみを祀らざるをえない状況に陥ったことになる。ここで考えられることは、崇神天皇が収めていた土地は、元々地祇(大物主神)を祀っていた場所であり、さらに天皇の領土以上に大物主神を祀る大勢力が隣接して存在しているのではないか、ということだ。

 考えてみると当たり前のことで、崇神天皇の始祖である神武天皇は元々九州出身の外来者であり、長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位する。その即位とて順調だったわけではない。最初生駒山の方から大和に入ろうとしたが、そこで大和の長髄彦の激しい抵抗に合い、進路を阻まれ、このとき、神武天皇の長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は傷を負い、それが元で亡くなったり、その後熊野方向に迂回する際には、暴風雨に遭い、少しも前に進むことが出来ず、この状態を嘆き、次男の稲飯命(いなひのみこと)は海に入って亡くなってしまう。最終的に土地の豪族の協力を得て、長髄彦の勢力に勝利(古事記と日本書紀の記述の違いがあるがここでは省略する)し、橿原の地の一区画に宮を築いた(造らせていただいた、という言葉のほうが正しいかもしれないが)という苦労続きの連続だった。だからこそ神武天皇は自身の出身神である天照大神と共に地祇である大物主神をも祀ったといえるのであり、後代崇神天皇もその故事に倣ったといえるのではないだろうか。
            

 
大物主神とは一体何者だろうか。大物主神の「物」とは万物に宿る霊を意味するという。すべての物の背後に霊あるいは魂の存在を認めた古代人の世界観をストレートに、また簡潔に表わした神名であり、あらゆる神々の主神であるという説もあるが、その詳細まで解明した説はなかなかないのが今の現状だ。

 大物主神の別名も多数あり(大物主櫛甕玉尊、賀茂別雷大神、日本大国魂大神、事解之男尊、大国主神、大己貴命、八千戈神、顕国玉神等)、その神挌も同様だ。『出雲国造神賀詞』では大物櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるという。また同書には「皇御孫命(スメミマノミコト)の近き守り神」とあり、『日本書紀』には高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)が大物主神に対して「宜しく八十萬神をひきいて、ひたぶるに皇孫の為に護り奉れ」と皇孫側近の神になれと命令していて、ここでは皇室に対して格下の守護神としての性格も持ち合わせている。現在では金毘羅神社や大神神社、三輪神社、美和神社のように全国に御祭神としている社も多く、国土生成をはじめ、医薬の神、酒造りの神、男女の結びつきや、死にまつわることなど、目に見えない運命など様々なこと(幽事 かくりごと)を司る神とされていて、多種多様な神である。

 話は変わるが、平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明は大物主神を祀っている三輪山を眺めながら、こうつぶやいたという。
 ここには我が国において、文字や数字や楽や舞や風習行事の中にそのすべてを象徴として隠し、その本性は記紀においても隠された〝知恵と魔術の神〟が封印されている。

 大物主神を祀る奈良県桜井市にある大神神社は、日本で最古の神社の1つと言われている。  三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されているほどその淵源は深い。

                
                        社殿の左側にある御神木か
            
                       その大木の根元にある3基の石祠

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野巻椋神社

所在地    埼玉県秩父郡皆野町皆野野巻363   
主祭神    猿田彦大神 
(合祀)    菅原道眞 金山彦命 建御名方命 大日霊貴尊 建御名方命 建御名方命
社  格     式内社 旧村社

社  紋    五七桐
例  祭    10月15日

        
  埼玉県秩父郡皆野町に鎮座する。皆野町椋神社から埼玉県道43号皆野荒川線に移り、荒川を越え皆野橋のT字路の交差点を右折し、埼玉県道44号秩父児玉線を300m位北上すると大渕交差点となるのでそれを左折する。この道は埼玉県道37号皆野両神荒川線で、道なりに約1、5km位進むと約赤平川の支流前のT字路があるのでそこを右折すると左側に椋神社がある。
 ちなみに車で来ると、社の裏側へ回り込む形になるので、車を止めて、表に回って参拝を開始する。
           
      
 椋神社裏にあった昭和16年に建てられた社号標 奥にある建物の前に駐車
            
                表に回った先に鳥居があり参拝を開始する。
            
                             拝  殿
          
                              本  殿

 
                 拝殿の右側にある陽石        社殿の左側にある境内社の鳥居と境内社群
  野巻椋神社の創立年月等は不詳だが、口碑によると、野巻(牧)は奈良・平安の頃に牧の駒を奉りし地から付けられたと伝えられている。名に、カリホシバ(刈干場)、クツウチバ(沓打場)、カジヤ(鍛冶屋)、マキハラ(牧原)などが現在も残っているようだ。
 また、当社の創建については、秩父氏が牧場の守り神として奉斎したものではないかとも考えられているようで、当時は『武蔵志』の”倉宮”や鎮座地の字名等から”くらのみや”明神等と呼ばれていたと思われる。

 区域外にも当社への強い信仰があり、隣村の秩父市吉田久長(旧久長村)には遥拝所があったと云われ、古くは、そこに繁っている松の木に鈴を懸け、当地との間の川が増水し参詣できない時には、これを振ってそこに祀られている石宮から当社を拝んだとのことだ。

          
 山間に鎮座する野巻椋神社から見る武甲山。現在山頂は削り取られ創建当時の面影こそないが、それでも美しいことには変わりない。





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皆野椋神社

 皆野町は埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、秩父市の北に接する町で、秩父盆地の入り口にあたる。東経139度5分、北緯36度4分で、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。
 町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘に町が帯状に開けている。
 気象は内陸性気候を示し、冬季は北西の季節風が強く、乾燥した晴天が続き降雨量、積雪とも比較的少ない。夏季は高温多湿で気温の年格差が著しい。
 町の産業は、商工業が主で地理的条件等から商業は、郡北部地区商域圏の中心である。工業は、精密機械製造業が中心であり、農業は、農道整備や施設整備事業等を実施し、ぶどう・しめじ・しいたけを中心とした観光農業が脚光を浴びている。

        
             ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町皆野238
             ・ご祭神 猿田彦大神 八意思兼命 大己貴命
             ・社 格 延喜式内小社(論社) 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 478日 八坂神社例祭 718
                  例大祭 1078日 他    
 皆野町皆野に鎮座する。国道140号彩甲斐街道を皆野方向に向かい、大塚交差点手前の十字路を右折しそのまま直進し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に椋神社の大きな朱色の鳥居がある。鳥居の左側には駐車場もあるので、そこに停車し参拝を行った。
 もと、椋宮(倉宮)明神と称し、元慶5年(881年)円福寺を建立した真言僧源仁僧都が深く当社を崇敬したという。また秩父別当熊谷重能は厚く当社を尊信し、寿永元年(1182年)この地に居を定めたという。
        
                              皆野椋神社 一の大鳥居
 社伝によると、日本武尊東夷征伐のおり、当地を通過される時、御矛を立て、祭神・猿田彦命・八意思金命・大己貴命の三柱の神を拝し給うたのが、当社の創祀。猿田彦命は、日本武尊の巡視をご案内した神。八意思金命は、知知夫国造の祖神。大己貴命は、国土経営の神である。
 元来は椋宮(倉宮:くらのみや)と称された古社で式内社・椋神社の論社の一つ。
        
                     木製の両部鳥居である二の鳥居
 
       二の鳥居の左脇には           皆野椋神社の案内板もあり。
  猿田彦大神の名が刻まれた石祠等を祀る。
 椋神社 御由緒  皆野町皆野二三八
 ◇蓑山を信仰の象徴として里の各所に祀る氏神の総鎮守
 椋神社は延喜式に記載されている秩父郡内二社のうちの一社で、同名の神社は当社を含めて郡内に五社ある。
 社記に、景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折、この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 
八意思兼命を鎮祭したことを創祀としている。
 古くは「椋宮」・「倉宮」とよばれ、元慶五年(八八一)円福寺を開いた源仁僧都が当社を篤く崇敬し別当を務める処となった。その後秩父庄司畠山重能・重忠親子が崇敬し、鉢形北条氏の臣用土新左衛門、江戸期には阿部豊後守、松平下総守らが崇敬した。
 明治初年神仏分離によって寺の管理を離れ、村社に列せられ、明治四〇年(一九〇七)近郷の二七社を合祀した。なかでも蓑山(587メートル)に鎮座する蓑山神社は椋神社の奥宮としてそのままに鎮座し、昭和四〇年代頃まで養蚕守護の信仰を集めるほか、雨乞いのご利益もあらたかな神社としてこの地方に生活する人びとから農耕の神として位置づけられている。
 例祭一〇月八日に奉納される獅子舞は埼玉県指定無形民俗文化財で「雨乞いザサラ」とも呼ばれ、一二頭もの獅子が舞う姿は賑やかであると共に迫力がある。獅子舞は用土氏の頃に始められたと伝えられ、その頭は「重箱獅子」と呼ばれる古い作風にみられる長方形の箱型をなし、桃山期作として町指定民俗文化財に登録されている。
 ◇ご祭神 猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命(以下略)
                                      案内板より引用
 

         
                      拝 殿

      拝殿に掲げてある扁額               拝殿内部            
        
           境内に設置されてある「皆野椋神社の獅子舞」案内板
 埼玉県指定民俗文化財 皆野椋神社の獅子舞
 明治一五年の大火で記録類が焼失し、詳しい縁起はわかりませんが、児玉町小平の石神神社獅子舞の起源に、「元禄十二年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ……」と伝えられています。これが皆野椋神社獅子舞に関する、最も古い記録です。
  獅子頭は塗獅子で、狛犬型、龍頭型とがあり、髪は栗毛のたてがみで、大狂い、女獅子、小狂いの三頭を一組として四組一二頭あります。
演目は一八庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子に始まり、ひきま、わせ、おく、弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ざさら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割、天狗拍子で終わります。三頭の獅子の足が腰鼓にあわせてぴたりぴたりときまるのが特徴で、師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表しています。
  一日の行事の中ほど、中入りには二人立ちの大神楽獅子二頭が勇壮に舞い、道化たちがからみます。また、演目の最終には一二頭の獅子に、中立四人が加わり、一六人ざさらともいわれる天狗拍子が舞われます。
 古くは上郷組、下郷組とに分れ、交代で九曲ずつを受持って演じていました。また、今は行われていませんが、椋神社と土京遥拝所の間にご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでした。
 実施期日 一〇月七日 土京遥拝所 一〇月八日 椋神社
                                      案内板より引用                                                                                                                                
           
                       本  殿               

        
                                      神楽殿 
                 
        
                 本殿の後方に境内社が少々狭い空間にズラッと並んでいる。
 祖霊社 八坂大神 正一位伏見稲荷大神 太宰府天満宮 4社合殿(産泰大神・愛宕大神・秋葉之大神・八幡大神)6社合殿(山之神大神・諏訪大神・摂社末社之大神・駒形大神・金刀比羅大神・秩父彦之大神)
        
        社殿の右手には護国神社もある。これがまた立派な佇まいだ。
       
                        本殿の右側には石祠が所狭しと並んでいる。
                一部だが、社号や祭神名が記された木の札が掛けられている。
       高良玉垂大神・天児屋根神社・斎主大神・神明大神・菊理姫大神・事解男大神
             雷電大神、善女龍王大神・句々馳智大神・河菜姫大神・埴山姫大神
 
            境内にある「宝物殿」        境内に設置されている由来碑
 椋神社の主祭神猿田彦命は貞観13年従5位上に叙せられ延喜式神名帳に秩父郡2座とある内の1社と伝えられている。椋神社は郡下に同名社5社をかぞえ、明治政府はいずれも式内社と称することを許したという。その中で平将平、平重能の墓がある円福寺が鎮守として崇敬し、付近には古墳の多いことなどからわが椋宮が本社であるとの説もある。
 当社の草創をたずねれば景行天皇41年皇子日本武尊が東国御巡見の折この地に至り猿田彦命のお導きによっての御創祀と伝えられる。
 新篇武蔵風土記稿に「村ノ鎮守」と載せられ小作地を持ち氏子から社地参道寄進のあったことからも崇敬の深さが知られ元禄年間以前より舞われている獅子舞を始め神代神楽の奉納が今なお盛んなことにもあらわれている。
 
爾来氏子一同熱心な奉仕を続けて昭和621019日伊勢本宮参拝を果たし、永代御祈祷御神符拝受を畏み、今年あたかも平成の御大礼を奉祝しこの由緒を誌し後世に伝える

 ところで、皆野椋神社の主祭神のトップである「猿田彦」は、『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神である。
 猿田彦の特徴はその異様な容姿にある。鼻の長さ7(あた)、背の高さ7(さか)、口赤く、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のように輝いていたという。「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。
 天孫降臨の際に道案内をしたということから、後世、道の神・旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られていて、この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。
 猿田彦命を祭神とする神社は全国に二千余社を数え、交通安全の守護神として警視庁にも祀られている。
         

              専用駐車場から見える武甲山
 皆野町椋神社の西側は荒川が流れ、その台地上にこの社が鎮座しているのが来てみると良く分かる。また武甲山がよく見える位置にあるのも何か印象的だった。椋神社にとっても武甲山は蓑山と共に神聖の山の対象だったのだろうか、とふと感慨にふけってしまった。

 



                                                          

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