大淵熊野神社
赤平川沿いに信州に通じる道と荒川水系の金沢(かねざわ)川沿いに北上して上州へ通じる道の起点で、また荒川の対岸東方皆野村との間には秩父巡礼道の「栗谷瀬(くりやせ)」の渡がある。
『新編武蔵風土記稿 大淵村』
渡船場
荒川の渡なり、是をくりや瀬の渡と云、皆野村への通路にて、札所觀音順體道にて、皆野村持なり、但古来より、午歳の開帳年には、皆野村と當村にて渡す事をなせりと云ふ、
そのため、大正期までは地内の郷平橋近くに櫓を組んで溜まった樹木を集めて河原に引き上げ、そこから石原駅前(熊谷市)の和吉宅や熊谷駅前の大和屋まで運送屋が馬で運んでいた。なお、橋場の御嶽神社には、古くは荒川の岩上に祀られていたという水神様が合祀されており、この川にかかわる筏士を中心に「筏乗り日待」が行われていたという。
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大淵82
・ご祭神 権現様(速玉之男神 伊弉み尊 事解之男神)
・社 挌 旧無格社
・例祭等 元旦祭 1月1日 節分祭 2月3日 春の大祭 4月15日
ふせぎ 7月最終土曜日 秋季例大祭 10月17日
新嘗祭 11月24日
皆野町国神神社が鎮座する埼玉県道44号秩父児玉線と同37号皆野両神荒川線との交わる信号のある丁字路を南西方向に進行する。450m程進んだ丁字路を右折し、皆野高校や国神小学校を過ぎた先の、一面山森に覆われた寂しい農道を進むと、左側に大淵熊野神社が背を向けたような形で見えてくる。
本来ならば、上記の丁字路を直進し、県道を200m程先まで進んだそのすぐ右手の道幅の細い路地を直進すれば社の正面に達するのだが、周辺には適当な駐車スペースが見当たらなかった為、社の後ろ側に達するルート説明をした次第である。
社の北側にある道路脇には、路駐ができる空間があり、また裏側から社殿へと通じる道もあったので、そこの一角に車を停めてから、参道正面まで回り込み、改めて参拝を開始した。
大淵熊野神社正面
『日本歴史地名大系』 「大淵村」の解説
北流する荒川の左岸、東流する赤平川の合流点北方に位置する。北は金崎村、南西は野巻村、南は赤平川を境に小柱(おばしら)村(現秩父市)。
現東京都青梅市の塩船(しおふね)観音寺蔵の応安六年(一三七三)閏一〇月五日の年紀をもつ大般若経奥書に「秩父郡大淵郷長楽寺書写畢」とある。また児玉党系図(諸家系図纂)によると秩父平四郎行高の子高重が大淵平二郎を名乗っている。
『日本歴史地名大系』にも記載されているが、武蔵七党・児玉党・秩父平氏の系図等によれば、秩父平四郎行高の第二子の平二郎高重は大淵氏となり大淵に館を構えたとされている。
武蔵七党系図
「秩父平四郎行高―大淵平二郎高重―四郎基重―四郎太郎重信―弥太郎重実―又太郎有重、弟孫四郎行実、其弟五郎実行、其弟家光」
その後、大淵氏は上野あるいは越後の小千谷に移り住み、そのあとには後北条氏の家臣となった金室(かなむろ)氏が居館を構え代々里正(名主)をつとめたとされている。
その後、大淵氏は上野あるいは越後の小千谷に移り住み、そのあとには後北条氏の家臣となった金室(かなむろ)氏が居館を構え代々里正(名主)をつとめたとされている。
この江戸時代初期から代々大淵村の名主を勤めていた「金室家」は、鉢形北條家家臣の落居とされ、古くは加治姓を名乗ったとも、鍛冶を営んだとも伝えられ、字天神の金山神社を祀っている。11月7日がその祭礼で、金室マケのお日待と呼ばれ、同家の先祖で能筆であった杢兵衛筆の幟が立てられたという。
小学校がすぐ東側にあるにもかかわらず静まり返っている境内
参道向かって右側に設置されている案内板 案内板の右隣に並んである石碑、灯篭等
熊野神社 御由緒 皆野町大淵八二
◇「滝之宮」とも呼ばれる大淵地域の氏神社
当地は荒川と赤平川が合流する台地に開け、かつては江戸に木材を供給する材木業等で大いに栄えた地域である。地內には古墳時代後期の大淵古墳があるほか、荒川に露出した「前原の不整合」は秩父盆地を構成する一千五百万年前の地層が露出したもので国の天然記念物に指定されている。
大淵の地名は、青梅市にある真言宗醍醐派の別格本山である塩船観音寺所蔵の大般若経奥書(銘記集)に、「応安六年癸丑(一三七三)閏十月五日於武州秩父郡大淵郷長楽寺書写畢」とあり、 古くからある地名と考えられている。
口碑によれば、平安時代末期に近くの滝を御神体として熊野修験の山伏が熊野権現を勧請したことに由来し、古く「滝之宮」と呼ばれていた。現在の社殿は昭和三年に創建されたものであるが本殿內に残る三体の大幣串には元禄二年(一六八九)二月二十八日の墨書があり江戸時代初期には既に社殿を有していたことを伝えている。
旧名主である金室家が保管していた「正一位熊野権現 右奉授極位者神宣之啓依如件」の古文書には、享保八年(一七二三)二月八日付の宗源宣旨と宗源祝詞が納められているほか、熊野権現の御神位を授かるために七両壱分弐朱四百文を氏子から集めたことなどが記されている。現在は、大淵地域の氏神神社として地域住民の崇敬を集める御社である。(以下略)
案内板より引用
拝 殿
境内に一際目立ち聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
本殿とその左側にある石祠二基。
実のところこの石祠は、大淵熊野神社の境内社なのか、それとも合祀の際に集めた各地の社なのか、詳しいことは分かっていない。神社明細帳には境内社として稲荷神社・天満天神社・秋葉神社・疱瘡神社の記述があり、それらの神社である可能性もあろう。
社殿から見る参道方向の眺め
ところで、大正12年秩父郡誌編纂の際、金室家の神棚から「宗源宣旨(そうげんのせんじ)」が発見された。金室家では「神棚を開けると目がつぶれる」と言い伝えられていたため、大正末期まで発見されず神棚の中にあった。
この宗源宣旨には享保8年2月8日付で「正一位熊野権現 右奉授極位者神宣之啓依如件」と記されており、金室家にはこの神位を受けるために7両1分2種400文を氏子から集めた文書も残されている。
宗源宣旨の発見後、人々はこれを御位様(みくらいさま)と呼び、春の大祭に神社にお迎えする行事が始まった。戦前には、神職・総代が行列を作って御位様をお迎えしていたが、戦時中に行列がなくなり、現在ではお迎えする行事も行われなくなったという。
因みに社の北側にある道路から見た社の全景
大淵熊野神社の創建に関しては詳細なことは分からないが、元禄2年に奉献された幣帛があることから、この頃には神社があったといえる。また、熊野神社を「滝之宮」と呼び、神社近くにある滝を御神体として熊野山伏が祀ったのが始まりで、元禄期以前の創建とする説や鎌倉時代の文歴年間に神道卜部氏がこの地に来て祀ったのが神社の創建という説もある。
御祭神のうちの伊弉冉尊は多くの神々を生んだ神であり、「熊野神社は伊弉冉尊を祀っているので、大渕ではお産で亡くなる人はいない」と言われてきた。昭和末頃までは旧暦10月15日に産土講が行われていたという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
「境内案内板」等