四軒在家日枝神社
延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立されたという。
・所在地 埼玉県児玉郡神川町四軒在家134
・ご祭神 大山咋命
・社 格 旧村社
・例 祭 祈年祭 3月19日 おくんち 10月19日
四軒在家日枝神社に至るルートは、神川町、元阿保地区鎮座の阿保神社から児玉往還を北西方向に進み、最初の十字路を右折。100m程行くと左前方に四軒在家日枝神社の朱の鳥居が見えてくる。
途中までの経路は阿保神社を参照。阿保神社に通じるこの道路は、児玉往還というそうだが、児玉往還は江戸から上州への近道となる川越・児玉往還の内の川越から上州藤岡までの街道で中山道の脇往還として賑わっていた。江戸から上州への中山道の近道となる道で、中山道は大名などが利用していたのに対し、川越児玉往還は役人などが多く利用していた。中山道より距離が短い事もあり、その通行者はかなり多かったようである。現在の国道254号のルーツとなった道であるが、国道254号は各市町村を経由しているので川越市~東松山市間(川島町を経由)、嵐山町~寄居町間(小川町や寄居町を経由)などで一部区間では大きくルートを外れる。
一説によれば、この児玉往還は嘗ての鎌倉街道上道であったともいう。
四軒在家日枝神社正面
鳥居の右側に設置されている案内板
日枝神社御由緒 神川町四軒在家一三四
□御縁起(歴史)
四軒在家の地名について、『神川町誌』は「その昔四人の者が最初にこの土地に住みついたところから名付けられた」との伝えを記している。当社は、恐らくそうした村の草分けの人々が鎮守として勧請したものと思われ、『明細帳』によれば、その創建は正平年中(一三四六~七〇)のことで、近江国日吉山王社の御分霊を遷座して鎮守として崇敬してきたものであるという。なお、同書は更に、元和六年(一六二〇)に山王大権現の扁額を代官伊奈半十郎から寄附されたこと、宝暦三年(一七五三)に本殿を再興した旨を記している。
『風土記稿』に「山王社 村の鎮守にて、長浜上郷村上松寺持」と載るように、江戶時代の当社は長浜上郷村の上松寺の管理するところであった。神仏分離によって、同寺の管理を離れた後は、村社となり、明治四十三年に社務所を新築し、同四十五年五月二十一日には字降り松の無格社稲荷神社を本社へ合祀、同年五月八日には字稲荷林の無格社稲荷神社と字山王前の無格社御嶽神社を境内社として移転した。
拝殿の建築年代は不明であるが、正面に千鳥破風、向拝部は軒唐破風の付いた凝った造りで、鬼瓦には「日枝」の文字が入っており、こうした造りから当社の建設に関する関係者の熱意の程がうかがえる。
また、拝殿の右脇には神木が枝を広げ、境内には遊具も設置され、子供の良い遊び場となっている。
□御祭神 大山咋命…五穀豊穣 健康良運
案内板より引用
拝殿覆屋
数年前に訪問した時は、古びた社殿でありながら、それなりに趣きがあったが、令和元年秋に建て替えになっていて、今風の建築になっていて、少々残念。
拝殿前に聳え立つご神木。
拝殿覆屋の左側に鎮座する石祠2基 拝殿覆屋の右隣に鎮座する境内社
詳細は不明 稲荷神社か
社の北側に隣接する四軒在家集落センター並びにある石祠群(写真左)と石碑が祀っている祠(同右)。案内板以外社の由来等を説明する資料等が少ないため、詳細不明。
拝殿上部には「日枝」と刻印された鬼瓦が扁額代わりに設置されている。
四軒在家日枝神社が鎮座する神川町四軒在家地区。四軒在家は「しけんざいけ」と読む。中々個性的な地区名だが、歴史的な初見は慶長9年6月5日および同月11日の検地帳に「賀美郡安保領四軒在家村」と見え、『神川町誌』において「その昔四人の者が最初にこの土地に住みついたところから名付けられた」との伝えを記している。
因みに「在家」とは「領主が年貢を賦課する時の単位」を意味する。中世、荘園・公領で、農民と耕地とを一体のものとして賦課の対象としたもので、平安時代後期に、荘園公領制が展開するなかで、公事負担者として国衙や荘園領主から把握された一般農民、ないしその屋敷地のことをいうそうだ。
四軒在家日枝神社 ケヤキのご神木の遠景
冬時期の北風の影響か、樹木が南側に傾いている。
参考資料「Wikipedia」「新編武蔵風土記稿」等