古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境上矢島勝手大明神

 伊勢崎市境上矢島地域は、同市南東部にあり、早川右岸に位置する。国道17号上武バイパスと同354号線が交わる西側の、東西約1.2㎞・南北約1.5㎞の地域であり、その中央部付近に集落が集まっていて、周囲一帯田畑が続く農業地域である。かつて新田政義の三男谷島信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。一面水田に囲繞された村で、北方を流れる早川に水利を得る。やがて利根川に合流する早川はまだ小さい流れで、集落から北方に広がる大水田地帯を満たすには不充分なので南方長溝川からも水利を得ていた。
 文政年間この長溝川の堰堤をめぐって、木島・百々・ 境各村を相手に大きな水出入りがあった。いわゆる「四寸ロ騒動」で、今も故老の語り草になっている。この騒動は長溝川から取り内れる堰の水口の寸法をきめたもので、水口四寸の堰が決まったのであるが、上矢島村で堰の下に別のトンネルをつくって水を引いたのが判明して大騒動になったといい、水に深い執着をもつ村の成り立ちを知ることが出来る。
 また一畝一歩耕作地を潰したくないという村人の思いがあるので、トラックや観光バスを貫通する道路を設けることも許さなかったという。集落が非常な不便を感じながら、その不自由に甘んじている姿も由なしとしない。稲作と養蚕が主で、蔬菜類の栽培は比較的少ない。
 

        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境上矢島955
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 旧矢島村鎮守
             
・例祭等 秋祭り(上矢島獅子舞) 11月第1日曜日
 東武伊勢崎線「境町」駅北口から駅前通りを北上し、国道354号線に達した丁字路を左折する。その後、すぐ先に見える「境百々」交差点を右折し350m程北上、変則的な十字路を右折して暫く道なりに進むと、周辺一帯田畑風景が見え、所々に民家が点在する一角に境上矢島勝手大明神が静かに鎮座している
        
             南向きに鎮座する境上矢島勝手大明神
『日本歴史地名大系』 「矢島村」の解説
 新田郡に属し、早川右岸に位置。西は佐位郡木島村。平坦地。永禄年間(一五五八〜七〇)頃には、由良氏に仕えていた南小二郎が住んでいたという。永禄八年の「長楽寺永禄日記」正月五日条に「南小二郎方ヘモ泉書記ヲタノミ、境ニテ礼ヲノベツル」とあり、南氏は長楽寺(現新田郡尾島町)住持義哲と交際のあったことが知られる。「寛文朱印留」に村名がみえ、武蔵忍藩領。寛文郷帳では田方二九五石余・畑方一六〇石余、元禄郷帳では旗本桑原・高屋領の二給。
 この上矢島地域は、粕川と東を流れる早川の間に開けた淵名台地先端部にあり、平安時代の遺跡が発見されていて(上矢島遺跡)、30軒程の竪穴住居・掘立柱建物・井戸などが出土され、台地の最も高い部分を溝が台地走向に沿って走り、その両側に住居が集中している。また、住居や溝の中から50点以上の墨書土器が出土している。
        
                 こじんまりとした境内
 当地域には上矢島獅子組」と呼ばれる
鎮守勝手神社に附属する獅子組があったが、明治時代末以降は徳蔵寺に引継がれて、113日の秋祭りにて五穀豊穣や家内安全を祈って奉納されてきたと伝えられていた。流儀を明らかにしないが東新井・下淵名獅子組と同じ火挾流と推定されるが、前託二者に比して新しく江戸中期の創設であろう。毎年旧暦九月二十九日(クンチ)と十月二十五日両度演舞されたが、今は十月十七日の村祭りに徳蔵寺境内で公開演舞される。雄獅子・雌獅子・老獅子(ホーガン)の一人立連舞で、獅子舞の前に祭礼棒がある。
 先の
戦争により、演舞者及び笛吹き等、後継者がいないため、休止状態になっていた。戦後復活したが、再び獅子頭が古く傷んでいたことや後継者不足等により、約半世紀にわたり途絶えていたが、令和4年度の獅子頭と太鼓の修繕を機に、令和6年度、「上矢島獅子舞保存会」を発足。そして東新井獅子舞保存会の指導を得て、令和711月「上矢島秋まつり」にて約50年ぶりに演目「岡崎」(無病息災と家内安全を祈る)を勝手大明神に奉納、復活となったという。
        
                    拝 殿
 奈良県吉野郡吉野町にある勝手神社(かつてじんじゃ)は、吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれていた。勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。また、辰巳(東南)の護法神でもある。
 
吉野の金峯山にある蔵王権現・子守権現(吉野水分神社)・勝手権現(勝手神社)は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた。勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっている。
 鎌倉時代中期の武将で、新田宗家4代当主である新田政義の三男谷島(矢島)信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。その吉野の僧や山伏が上矢島に勧請し、谷島(矢島)氏の館の辰巳に祭られ、矢島氏からは弓矢の守護神として、農民からは農業用の水源を養う風雨の神として信仰されたといわれる。
 また別説では、徳蔵寺は太田金山城主由良氏に仕えた南氏が建立したという。
『矢島村南系図』
「永禄年間、京都北面の武士藤原姓南修理大夫義頼は牢人して上野国に下り、その子南小次郎頼広は新田郡上矢島村を知行し、佐渡守に任じ矢島城主となる」
 南氏は金山落城後に上矢島村に土着帰農したという。因みに家紋は丸に剣花菱。また、『世良田村長楽寺永禄八年日記』に金山城主横瀬氏(由良)家臣南小次郎佐渡守頼広の名は随所に見える。
 徳蔵寺の創建に矢島氏か南氏どちらが関わっていたとしても、勝手明神が辰巳の護法、軍将神であることは変わらず、徳蔵寺の地と関係は当然深いものがあったと思われる。
        
              社殿の右側奥にある不思議な建物
 手前には左から「喜心霊神」「〇嶽霊〇」「〇心霊神」「御嶽霊神」と刻まれた石碑がある。

『境町の民俗』には、この地域には「御嶽教荏原講」という講社があったという。この講社は、埼玉県深谷在に発詳し、文政年間上矢島村に流布された。木曾御嶽の山岳信仰で、講社は第一部より第三部まであって、第一・第二は埼玉県にあり、上矢島の結社は第三部に属する。さらに派生したものに新田町上中、伊勢崎市馬見塚に講社がある。村の講員は約六十人で、毎月の御縁日は九・十八・二十七の三日、この日講員が参会して、無病息災家内安全の読経をするという。
 御嶽教の行は主として水行で、入寒から寒明けまで寒中三十日の水行をする。いま水行をするものは五人で、毎日夕食後集まり、寒水をかぶり、沐浴潔済の後、神前で跋経を読誦し、自らの息災を願うと共に、行者としての修行陶冶を期す。その行は非常に厳しく、寒中肉、魚、ねぎを食うことを禁じ、女の肌にふれるのを許さない。境町に数多くの御嶽教講社があるが、荏原講ほど修行鍛練をするものはなく、活発な布教活動をなすものもないとのことだ。
 
     社殿の西側から北西部にかけて祀られている石祠群(写真左)と、庚申塔群(同右)
        
                  社殿からの一風景
『境町の民俗』には、当地域の年間行事が載せられていて、幾つかを紹介する。
・八丁じめ
 6月に行われる悪病除けの行事。一丈ぐらいの高さのところで竹の芯を伐って、上から一節位のところにヨタレベエ(へいそく)をつけて、区長か村世話人が、村のはずれのところに立てた。矢島では七本立てた。北は花香塚、東は西今井、南は境、西は木島、西南は百々、北西は淵名、東南は三つ木・女塚との境界に立てて、小字の守りとした。
オクンチ
 10月の秋祭りの日を「オクンチ」という。昔は九月二十九日であったが、今では十月十七日。この日は鎮守様のお祭りである。赤飯を炊いて祝った。他所へ嫁いだものは、子供を連れて泊りこみでお客に来た。この日にお獅子を舞った。お獅子の稽古は、以前は九月二十三日から五晩、お寺を宿にしていた。お獅子は三つあり、やり手は決まっていた。お祭りには村中が出た。
オカマ様のルスンギョウ(旧十月中)
 旧十月の六日・十六日・二十六日、おはぎを作ってオカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)に上げた。オカマ様には三十六人の子供があるので、出雲へお客に行けないという。
 オカマ様については、つぎのような話がある。
 オカマ様はあるとき人の子を食ってしまった。そこで神様がオカマ様の子供を一人隠してしまった。するとオカマ様は心配のあまりきちがいになってしまった。そこで神様はオカマ様に、人の子を食べなければ子供をだしてやるといった。そんなに沢山子供がいるくせに、
一人ぐらい隠されてそんなことでは、これから人の子を食うなといわれた。そこで約束して、子供をだしてもらって、それからはオカマ様は、子供を食わなくなったという。

「オカマ様のルスンギョウ」の説話では「オカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)」と載せているのだが、三宝荒神は、神道において「竈三柱神(稀に三本荒神)」と名前を変えて祀られている。この神は「かまど神」として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであるという。
 この説話を見ると、この社のご祭神は竈三柱神とも勘ぐってしまうのだが、今のところはそれ以上の詳細は不明である。どなたか知っている方がいればご指導の程、宜しくお願いいたします。



参考資料「伊勢崎市HP」「境町の民俗HP」「ぐんま地域文化マップHP「日本歴史地名大系」
    「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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七母女天宮


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市境東新井429
              
・ご祭神 天照皇大神(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 秋祭り(東新井の獅子舞) 11月第3日曜日
 境東新井神明宮から群馬県道2号線前橋舘林線に戻るように同じ道を北上、500m程進んだ十字路を右折すると七母女天宮が見えてくる。
 小さな社だが、「東新井の獅子舞」にも関連してくる社でもあり、意外と近距離でもある為参拝した。但し周囲に駐車スペースが全くないため、路駐をして急ぎ参拝を行う。
        
                  
七母女天宮正面
    鳥居前の石柱には左側に「七母女天」、右側に「大土神社」と刻まれている。
 それぞれの社名に対して調べてみると、大土神社は、神戸市灘区に鎮座する「大土神社(おおつちじんじゃ)」と社名が同じことから、ご祭神は天照皇大神と思われる。
 それに対して、七母女天(しちもみょうてん)とは、密教、特に天台宗の玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる「摩多羅神(またらじん)」の別神名とされている。つまり、摩多羅神の「Matarah」=摩怛利神=七母天と同体であると想定し、その上で七母天と北斗七星を結びつけたもので、七母天女の本地が吉祥天で、北斗七星の1つである文曲星を吉祥天とする説もある。
        
            鳥居に掲げてある「七母女天宮」の社号額
 因みに摩怛利神(摩怛哩神、摩怛曳とも)は、梵語で「母」を表すMatrの音写であり七母天のことである。七母天は閻魔天あるいは摩訶迦羅天(『理趣経』)の眷属で、両者に祈願して行疫神を宥め病疫を退散して一切の罹患者を救済せんとする行法が「摩怛利神法」と呼ばれるという
 七母女天宮は別名「妙見様」とも呼ばれている。「妙見」信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである。元々、渡来人の多い近畿以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本、特に信濃から関東・東北にかけて広まったという。
 まあ、いろいろな説を載せているのだが、七母女や摩多羅神・摩怛利神、妙見信仰との関わり等、正直分からないことだらけの神である。
       
                    拝 殿
 この社の創建や由緒等は、境東新井神明宮同様どう調べても分からない。但し『境町の民俗』において七母女天宮に関連する記述があるので箇条書きにて紹介する。
・妙天様
(東新井)は七母妙天で一切の病疾に御利益があるといわれる。お礼には三角の布袋に綿をつめた匂袋を三つか五ツ、多いのは十数個糸でつなぎ合わせてあげる。
境東新井地域は、数十年前まであった道化芝居は有名で、芝居に使われたカツラ小道具の類は最近まであった。七母女天は厄神として今も信仰され、実相院と称した寺は廃されたが、御本尊木彫聖観音は今も残され、つぎの台座墨書銘がある。
 奉造立観音尊像二世
 圓満子孫繁昌之所ヲ守護シ給也
 天正十七年己霜▢▢▢▢▢宝前

 実相院趾には大きな百万遍珠数が残されており、例年行ってきた天道念仏は廃された。
        
                 南側から境内を撮影


参考資料「境町の民俗」「境まちの史跡と景観写真集HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」等


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境東新井神明宮


        
             ・所在地 群馬県伊勢崎市境東新井150
             ・ご祭神 天照皇大神(推定)
             ・社 格 旧東新井村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 417日 秋祭り 11月第3日曜日
 冠稲荷神社参拝後、一旦ジョイフル本田新田店にて買い物を行った後、群馬県道2号線前橋舘林線を3.5㎞程西行し、「境東新井」交差点を左折する。一戸建ての住宅が立ち並ぶ一直線の道を南下すること700m程、周囲が田畑風景にかわり、右手方向にポツンと境東新井神明宮の社叢林が見えてくる。
 社周辺には専用駐車場はないようなので、社の北側にある霊園の駐車スペースをお借りしてから、参拝を開始する。
       
                  境東新井神明宮正面
『日本歴史地名大系』 「東新井村」の解説
 上淵名村の東に位置し、南は新田郡花香塚(はなかづか)村(現太田市新田)。寛文郷帳では淵名村に含まれたが、元禄郷帳には村名がみえ高二〇九石余、伊勢崎藩領。近世後期の御改革組合村高帳では同藩領、家数三〇。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によると反別田一二町七反余・畑一一町九反余、新開田畑のうち田一町四反余・畑八町九反余。家数四一、馬一七疋。天保郷帳では淵名村に含まれた。水利は用水に頼るところが大きく、山中沼(一千一四八坪)、中ノ沼(七千八四〇坪)、上ノ沼(六千二七二坪)などがあった。当地は地下水が浅く低湿地帯をなしており、北部の矢ノ原も湿地帯のため開発が遅れ、上・下淵名村と当村三村の入会秣場となっていた。
         
       鳥居の左側先に祀られている石祠   石祠の先に建つ社号標
 境東新井地域は、古くは上淵名村に属していたが、江戸時代にいたって一村をなした。 村高二〇九石余伊勢崎領で、この集落は畑より水田が多い。伊勢崎から太田を結ぶ線上には「井」のつく地名が数多くあるが、いずれも大間々扇状地の下にあった清水湧出源がこのあたりで頭を出しているので水利に便である。但しこの集落は湿地帯に属し、一たび降雨にあうと農家の庭先は泥濘と化してしまう。純農村地帯で北部矢ノ原の開墾されたのは最近であり、米作と養蚕および生姜、大根等の生産が主である。
 
 鳥居右側横には石碑、庚申塔等が祀っており(写真左)、中には安永四年に建立された抱擁双体道祖神が祀られていた(同右)。
 道祖神は境界に建てられ、村へ疫病が入り込まないよう信仰した石造物である。通常、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどが多いのに対して、この道祖神は男女が肩を組むもので平野部では珍しく、境地区の道祖神は文字塔ばかりで男女の神像を刻んだものはこれ一基だけという。
        
          周囲樹木に囲まれ、厳かな雰囲気を醸し出している社
 
 境内左側に並んで祀られている石祠・境内社    境内右側には塚上に祀られている社あり
                            浅間社、または富士塚か
 
 境内左側には数基の石祠が並んで祀られている(写真左・右)。左側の写真の赤い石祠は元々木製の合祀社であったようだが、老朽化の為改築されたものであったとの石碑に刻印されている。ご祭神は秋葉宮 火之迦具土之大神(火防の神)・天神宮 菅原道真命(学問の神)・機神宮 建葉槌命(機織の神)の三柱。この三柱の一柱である機神宮のご祭神である建葉槌命は当地では「機神様」と呼ばれ、嘗ては機仕事が上達するのを願い、お礼には残り糸や繭を捧げたという。
 また、右側写真の石祠は天王宮と屋根部正面に刻まれている。
        
             境内にある「東新井の獅子舞」の案内板
 伊勢崎市指定重要無形文化財 東新井の獅子舞
 平成十八年六月十五日指定
 東新井の獅子舞は、神明宮と七母女天宮の春と秋の祭り、旧暦十一月一日の神帰りの日に奉納されていました。五穀豊穣、家内安全、悪疫退散の願のほか、雨乞いに際しても舞いました。
 戦後しばらく途絶えていましたが、昭和五十三年に復活し、毎年十一月第三日曜日に奉納されています。
 舞は、近隣の下淵名、国定赤城神社、今は行われていない境上矢島と同じ栃木県日光市に起った文挟流の一人立三人連舞の獅子舞で、法目(老獅子)・雄獅子・雌獅子が連れ舞います。
 奉納は、神明宮で木刀と六尺棒を持った二人の剣士の祭礼棒術の後、社前で獅子舞が行われます。演舞を終えると、行列を成して、妙天様と呼ばれる七母女天宮へ向けて巡行します。
 演目は、平ざさら・橋掛り・ボンゼンの舞の三つで構成され、岡崎・向かい灯籠・ちょうちょう止まれ・おかち・ちいほほの五種類の口伝が伝承されています。
 平成二十二年三月 伊勢崎市教育委員会                     案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 創建や由緒等、調べてみたが全く不明だが、境東新井神明宮は鎌倉時代、藤原秀郷の孫の淵名太夫が東新井の地を領したとき天祖大神を此処に創祀し社領を寄進したのが始まりという。古くから七母女天宮とともに東新井の獅子舞が奉納されている。

    社殿の右側奥にある北側鳥居       境内北東部にある獅子舞等の倉庫らしき建物
       
                   境内の様子
       
                 社を南西方向から撮影 



参考資料「伊勢崎市HP」境町の民俗HP」境まちの史跡と景観写真集HP
    「日本歴史地名大系」「境内案内板」等
              

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冠稲荷神社 (2)


        
        
拝殿に向かう参道右手の小高い丘上に鎮座する摂社・聖天宮日高社
          御祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神・神倭磐余毘古神・大雷神・水分神 
 聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。県指定重要文化財指定
          因みに聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。
     
      
聖天宮は比較的小規模な建物であるのだが、本建物の彫刻や装飾は
    内部天井の龍を始めとして大変質の高いもので見ごたえある。(写真左・右)

 聖天宮は正面(2.89m)、側面(3.88m)と比較的小規模な建物でありながら屋根が複雑で、四方入母屋造正面唐破風付という特徴的な造をしている。当初から日本瓦で葺かれており、棟札によると安政4年(185710月上棟で大工棟梁として「弥勒寺河内 守藤原照房」となっている。これは境下渕名の弥勒寺音次郎の事で、大工でありながら彫工としても名 を馳せている。本建物の彫刻は内部天井の龍を始めとして大変質の高いものである。
 また彫工は音次郎の息子「弥勒寺音八とその弟子の諸貫万五郎」である。弥勒寺音八は一時期飯田仙之助の養子弟子となった岸亦八の弟子となり、常陸の天引観音や笠間稲荷を手掛けるようになる。音八の名声は広く響き、明治に移るころ音八は宮中に召し抱えられ賢所の玄関正面の菊の紋を彫刻した人物である。

 参道右側には実咲稲荷社や聖天宮が鎮座しているのに対して、左側には七福神殿・諏訪社と八坂社(神楽殿兼ねる)・厳島社・菅原社・いなり白狐社・琴平社と、並列するように祀られていて、どの社も絢爛豪華である。
        
         人形代社の並びに祀られている七福神殿 御祭神は七福神
『七福神殿』に祀られている七福神彫刻は、名工・新井清尚、明和2年(1765)の作。一幅の絵馬に収められている極彩色の七福神絵馬で、海辺の雄大な松のもとに福々しい神々が集い喜遊するという珍しい構図との事だ。
       
          七福神殿の右並びには神楽殿も兼ねた諏訪社と八坂社
         諏訪社のご祭神は建御名方神で、八坂社のご祭神は素盞嗚神と奇稲田比賣神 
       
                   摂社 厳島社
        厳島社のご祭神である宇賀弁才天は、宇賀神と市杵島毘賣神が融合した女神で、
     左右に毘沙門天と大黒天を配し、さらに十六童子を従えた、大変珍しい神坐像である。
          厳島社の前にはご神木が聳え立っている(写真左・右)      
       
               菅原社 ご祭神は菅原道真公
       
              いなり白狐社 ご祭神は命婦専女神
   横に伸びた社殿には小さなお狐様がこれでもかと並んでいて、ある種異様な眺めだ。 
 いなり白狐社
 御祭神 命婦専女神
 氏神からの返戻白狐を祀る。
 我が国の神社では、伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩のように、それぞれ固有の動物が神の使いとして尊ばれている。しかし、お稲荷さんの狐は単なる神使ではなく、眷属そして神様の一部のような資格を与えられている為、狐こそが稲荷神という考えを持つ人々も多いようである。
 お稲荷さんと狐がこのような親密な関係を持つに至った由来としては、諸説があるが、稲荷の神が「食物の神」つまり「みけつかみ」であり、御狐(おけつね)三狐(みけつね)に転じたという説、あるいは稲荷神がのちに密教の荼枳尼天と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説がある。
                                    境内案内板より引用

 古くから狐は霊的動物として「稲荷(いなり)神の使いないしは稲荷神そのもの」と信仰されるなど深く広い各種の信仰があり、狐憑きは「御先稲荷」(オサキドウカ)や「オサキ」という名前で、関東から東北にかけて伝承されている。実際、日本全国に存在する三万社以上の稲荷社が狐像を備えており、「狐」自体を「稲荷神」として信仰する場所も少なくない。しかし、総本社である伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのものではないと述べており、また岡山市北区にある日蓮宗の寺院である最上稲荷山妙教寺は白狐を稲荷神(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べている。
 日本では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、伏見稲荷大社が鎮座している神体山である「稲荷山」は古くは蛇神信仰の中心地であったようだが、平安時代になってから狐を神使とする信仰が広まったという。稲荷神と習合した宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)あるいは白狐神と呼ばれて祀られるようにもなったという経緯もある。

 因みに境内の「白狐社」では白狐霊である「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」をお祀りしてある、ということである。この命婦神は、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性、ないし官人の妻の地位を示す称号である。
        
                琴平社 ご祭神は大物主神
        
         境内北西部にも参道があり、その先には戌亥鳥居が建つ。
 
  戌亥鳥居への参道の両側には数多くの石祠が並んで祀られている。(写真左・右)

 当神社は創建も古く、新田源氏の守り神として厚く信仰されてきたことから、建物のみならずその他の文化財も多く残されてきた。そればかりでなく地域とのつながりも古くからあり、聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。建物には棟札も残されていて建造年代もはっきり分かり、携わった大工もはっきりしている。大工の多くは地元大工が多いが 妻沼聖天堂を手掛けた林兵庫正清の影響も強く、利根川を挟んでの交流が深かったことも理解できる。本殿の胴羽目の彫刻の裏から飯田仙之助の墨書が発見され、それには石原吟八郎の初代と二代目の名が記されていたことから、18世紀から19世紀の花輪彫刻師の流れを知る上での手掛りとなった。さらに聖天宮の弥勒寺音八につながる彫刻師の流れが分かる様な神社であるという。 
       
 


参考資料群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    ウィキペディア(Wikipedia「境内案内板」等

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冠稲荷神社 (1)

 太田市細谷地域は、利根川中流左岸の洪積台地の宝泉(由良)台地の南端にあたり、東に蛇川が南流し、中央を聖川が貫流していて、地域西側は低地帯で水田が広がっている。「細谷」地名の由来としては、太田市から細谷までの地形が、川谷に沿って細長く伸びた地形であったところから細谷ともいわれている。
 この地域には、かつて鎌倉時代初期に上野国新田郡細谷村(太田市)を拠点とした河内源氏流新田氏一門である一族が居を構え、在地名「細谷氏」を名乗る。この一族は新田氏本宗家の5代当主新田政氏の庶長子の細谷国氏を祖とした。細谷村は新田荘由良郷の発展により派生し成立した村で、本宗系一族の細谷氏が由良郷内の一村を所領としていたのも自然な流れともいえる。
『新田族譜』(埼玉苗字辞典より)
「〇新田又太郎政氏―細谷弥太郎国氏―又二郎秀氏―右馬助秀国(義貞に従ひ、後に脇屋義助に属して、暦応二年九月越前府城にて打死)―房清(義興自殺の後、出家法名念道)―兵庫助清房―又四郎保房―刑部丞為房―刑部丞資房(北条氏康家臣)―三河守資遠(武州湯島庄三河島十七貫五百文を領し、併せて五十七貫文の地を領す。大永元年正月二十四日、足立郡木崎村に等覚寺を建立)―三河守資実(太田十郎氏房に属し、武州岩槻城にて、春日左衛門尉・河合出羽守と共に三家老と称す。天正十八年小田原没落後、氏房の墓前にて自害)―源左衛門資光(秀忠に召され、大阪町与力)―善兵衛資勝―善之助資信(子孫本多中務大輔家臣)、弟郷右衛門資永(火消役与力)―郷大夫資政―平次兵衛資陳。○為房の弟兵庫助邦房―兵庫邦氏―五郎兵衛邦通―丹丁広通(大道寺駿河守に仕へ、松枝打死)」

        
            
・所在地 群馬県太田市細谷町1
            
・ご祭神 宇迦御魂神 大穴牟遅神 太田神 大宮能売神 他十三柱
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 初午大祭(3月下旬の日曜日) 他
 国道407号線を熊谷から太田市方面に北上し、西矢島地域で国道354号線の東毛広域幹線道路と交わる「西矢島町南」交差点を左折し伊勢崎方面に西行する。その後蛇川を渡り、細谷地域に入ると冠稲荷神社の立看板が見えてくる。境内は南北に長く大変広大で四周を道路が囲んでいる。
 広大な専用駐車場が社の東側にあるので、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
              国道354線沿いに見える社の立看板
『日本歴史地名大系』「細谷村」の解説
 蛇(へび)川の右岸に位置し、地勢は平坦で、対岸東は岩瀬川村、北は由良村、西は西野谷村・上田島村。応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)に「細谷村由良郷内」とあり、一五世紀半ばのものと思われる岩松持国知行分注文(同文書)には「細谷郷」とある。年未詳三月一〇日了泉書状(同文書)で、了泉は祖母より譲られた地として「細谷村」の領有を岩松能登守に主張している。寛文二年(一六六二)の知行割帳(金谷文書)では「世田郡新田庄細谷村」とあり、高一千五六七石余で田方七〇町六反余・畑方六三町余(うち萩畑三町余・屋敷四町余)で、大坂定番の安部信盛領・旗本筒井領などの六給。

        
                 東側に建つ甲大鳥居
 甲大鳥居  稲荷鳥居
 昭和六十三年(一九八八)建之
 高さ 十二・五米 幅 十八米
 規模、量感ともに県下有数である。
 様式は稲荷鳥居といい、明神鳥居の発達したもの。明神鳥居とは、特に霊験著しく、由緒正しいとの意である。鳥居は華表といい神の斎(居付き)給う清浄な神域の結界(境)を示す第一の標である。
 甲とは、東の僅か北寄りを示し、また「最初のもの」の意でもあり、日の昇る東の神の座への門である。円塗りの朱は神明の徳を表わし、魔除けのの効験を顕す。鳥居の空高く聳えるは、神霊の天降りを請い祀るものであり、ときに緑に映え、ときに夕景に浮び上がるさまは、神々しくもまた幻想的である。
 当神社の鳥居は境内の四方位に在り、これを四方鳥居という。それぞれを潜ると、魔除の効験一層あらたかなりという。                         境内案内板より引用
        
     実際には東側駐車場からは甲大鳥居(写真奥)と東鳥居(同手前)が見える。
          二基の鳥居の間には案内板が3枚展示されている。
        
         「最上流算額文化十一年銘附関流算額文化九年銘」案内板
        
        「冠稲荷神社本殿並びに聖天宮」・「冠稲荷神社拝殿」案内板
『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「冠稲荷神社の本殿並びに聖天宮(昭和47926日指定)。本殿は三間社流造、千鳥破風向拝唐破風付、享保7年(1767年)の建築。聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。2024年に県指定重要文化財指定を県知事に答申」「冠稲荷神社の拝殿(平成2326日指定)。寛政11年(1799年)の建築[3]2024年に県指定重要文化財指定を県知事に答申。最上流算額文化11年銘 附関流算額文化9年銘(昭和5157日指定)- 冠稲荷神社には3面の算額が奉納されており、文化9年(1812年)3月に関流の金井良之が奉納したものと、文化11年(1814年)に最上流の大川栄信門人の大川直信ら3名が奉納したものが文化財指定を受けている」との説明だある。
       
               「細谷冠稲荷獅子舞」案内板
 こちらも『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「細谷冠稲荷の獅子舞(太田市指定重要無形民俗文化財 平成6325日指定)。新田義貞が重箱獅子を奉納したことに由来するとされ、初午大祭で奉納される。一時中断したが再興された。系統は箱田流とされ、一人立ち3頭獅子で雄獅子、雌獅子、法眼から成る」と載せている。
        
            甲大鳥居の左側に祀られている猿田毘古社
                左側に見えるのはペット社殿
 
 甲大鳥居から通称「甲(きのえ)参道」を通る途中にも社の御由緒(写真左)や年間行事等を記した案内板(同右)案内板が多数展示されている。
        
                  甲大鳥居の案内板
        
             改めて南側の正面鳥居から南参道を進む
 冠稲荷神社は、群馬県太田市細谷町にある神社であり、日本七社(日本七稲荷)の一つを称している。
 1125年(天治2年)、新田義重の父である源義国によって創建されたと伝えられる古社。承安4年(1174)源義経は奥州下向の途中、冠の中に奉持してきた伏見稲荷大明神等の御分霊・神札を社に収めた故事により、冠稲荷大明神と呼ばれる様になったとされている。
 また、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉へ軍を進める途中に戦勝祈願をしたところ偉功を上げることが出来たので重箱獅子を奉納すると共に金木犀一株を植えて記念とし、神領も寄進したと伝わる。
 降って江戸時代には、細谷に知行地を持つ大久保・赤井氏の旗本を始め、武州岡部藩主阿部摂津守らが当神社を厚く信仰し、御供米の寄進や社殿の改築、修理に奉仕したという。
        
              
南参道を進むと見えてくる二の鳥居
        
                二の鳥居の先にある手水舎
        
           手水舎の先の祀られている
摂社・実咲稲荷神社
 鳥居の右側にある立看板によると、こちらの御祭神は宇迦之御魂大神と塞神(久那戸大神・八衢彦命・八衢姫命)、大宮能賣神で、永禄年間(15581570)鎮座であるという。
        
                
人形代社(ひとかたしろしゃ)
 祓戸四柱大神を祀る。「人形代(ひとかたしろ)」とは、飛鳥時代中国から伝わり藤原宮期に確立し,奈良・平安時代に盛行し、現代にまで受け継がれてきた災いを祓い福を求める祓い祈祷であるという。
       
                    拝 殿
        
                     色鮮やかで精巧な彫刻が施されている拝殿向拝部
 拝殿は正面(10.18m)、側面(7.64m)入母屋造 の平入で正面に千鳥破風、向拝は軒唐破風としている。背面には正面(4.54m)、側面(5.70m)の切妻の幣殿を設け、本殿とは接続はしていないが、社殿として権現造に準ずる形態を示している。
 向拝の柱は几帳面・地 紋彫りとし、中備や兎毛通の龍の彫物を施し、木鼻 は獅子である。向拝を始めとして拝殿の彫刻は18世紀末から19世紀初期以降の物と思われ棟札の年代と 一致する。大工は上州山田郡沖之郷村の中村兵部と武州幡羅郡小暮村の田中治助とあり、鯖尻の刎ね上げが見られるところから林兵庫の系統と思われる。棟札に彫工の名はないが、妻沼の聖天堂の影響を受けた「唐子遊び」が欄間彫刻に残されていることから花輪系の彫工である可能性が高く、場所、経歴からも飯田仙之助が拝殿も手掛けた可能性が高いと推定される。
        
                    本 殿
               
                 本殿 西側からの眺め
 本殿は正面3間(2.74m)、側面2間(1.70m)、 向拝1間(2.74m)、三間社流造といわれ正面に千鳥破風、向拝は軒唐破風の造りになっている。向拝柱は几帳面取の角柱で水引虹梁、海老虹梁、中備は蟇股、手挟は牡丹の籠彫でそれほど大きくはない。木鼻は正面が獅子で横が獏であるが獅子は後補の物である。前方に浜縁・浜床を設け、身舎の四方の大床跳高欄、正面の階の両側には擬宝珠付きとしている。胴羽目には中国故事を高肉透彫、脇障子は昇降の龍としてある。妻飾は二重虹梁大瓶束の笈方を始めとして全体に彫刻を施し、彫刻には極彩色で彩られ、大変見事な造りであるという。
 本殿には建造年の他、複数の棟札が保管されていて、背面の彫刻板の裏には明和4年(1767)前原藤次良他3名の名が記されていた他、向かって右側の2枚からは文化12年(1815)石原吟八藤原義武、同吟八藤原明義、門人飯田仙之助藤原義棟と書かれた墨書が発見された。建造年は水引虹梁の唐草絵様や蟇股の彫刻からも棟札通り享保7年(1767)と推定できる。建造年の享保7年は関東の彫刻の祖といわれる高松又八が亡くなっていることや大工との関係から初代の石原吟八郎の作品であると推定できる。当初年には胴羽目に彫刻がなく、46年後に吟八郎の弟子の前原藤次郎が手掛け、さらにその50年後に飯田仙之助が手掛けたのではないかと考えられる。作品を見ると、両脇の4枚と後ろの3枚は明らかに時代が違うことが分かる。また、蟇股は当初のものである可能性が高いが、向拝の獅子頭等は明らかに後補の作であるという。したがって本建物は、18世紀前半から中半さらに19世紀の彫刻の流れが分かる複合的な遺構で他に類を見ない貴重なものであるという。
        
           本殿奥にある小高い塚上に祀られている石祠四基
       境内には古墳が数基あるというので、これも古墳の可能性は高い。 




参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia
    「境内案内板」等

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