古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境東新井神明宮


        
             ・所在地 群馬県伊勢崎市境東新井150
             ・ご祭神 天照皇大神(推定)
             ・社 格 旧東新井村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 417日 秋祭り 11月第3日曜日
 冠稲荷神社参拝後、一旦ジョイフル本田新田店にて買い物を行った後、群馬県道2号線前橋舘林線を3.5㎞程西行し、「境東新井」交差点を左折する。一戸建ての住宅が立ち並ぶ一直線の道を南下すること700m程、周囲が田畑風景にかわり、右手方向にポツンと境東新井神明宮の社叢林が見えてくる。
 社周辺には専用駐車場はないようなので、社の北側にある霊園の駐車スペースをお借りしてから、参拝を開始する。
       
                  境東新井神明宮正面
『日本歴史地名大系』 「東新井村」の解説
 上淵名村の東に位置し、南は新田郡花香塚(はなかづか)村(現太田市新田)。寛文郷帳では淵名村に含まれたが、元禄郷帳には村名がみえ高二〇九石余、伊勢崎藩領。近世後期の御改革組合村高帳では同藩領、家数三〇。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によると反別田一二町七反余・畑一一町九反余、新開田畑のうち田一町四反余・畑八町九反余。家数四一、馬一七疋。天保郷帳では淵名村に含まれた。水利は用水に頼るところが大きく、山中沼(一千一四八坪)、中ノ沼(七千八四〇坪)、上ノ沼(六千二七二坪)などがあった。当地は地下水が浅く低湿地帯をなしており、北部の矢ノ原も湿地帯のため開発が遅れ、上・下淵名村と当村三村の入会秣場となっていた。
         
       鳥居の左側先に祀られている石祠   石祠の先に建つ社号標
 境東新井地域は、古くは上淵名村に属していたが、江戸時代にいたって一村をなした。 村高二〇九石余伊勢崎領で、この集落は畑より水田が多い。伊勢崎から太田を結ぶ線上には「井」のつく地名が数多くあるが、いずれも大間々扇状地の下にあった清水湧出源がこのあたりで頭を出しているので水利に便である。但しこの集落は湿地帯に属し、一たび降雨にあうと農家の庭先は泥濘と化してしまう。純農村地帯で北部矢ノ原の開墾されたのは最近であり、米作と養蚕および生姜、大根等の生産が主である。
 
 鳥居右側横には石碑、庚申塔等が祀っており(写真左)、中には安永四年に建立された抱擁双体道祖神が祀られていた(同右)。
 道祖神は境界に建てられ、村へ疫病が入り込まないよう信仰した石造物である。通常、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどが多いのに対して、この道祖神は男女が肩を組むもので平野部では珍しく、境地区の道祖神は文字塔ばかりで男女の神像を刻んだものはこれ一基だけという。
        
          周囲樹木に囲まれ、厳かな雰囲気を醸し出している社
 
 境内左側に並んで祀られている石祠・境内社    境内右側には塚上に祀られている社あり
                            浅間社、または富士塚か
 
 境内左側には数基の石祠が並んで祀られている(写真左・右)。左側の写真の赤い石祠は元々木製の合祀社であったようだが、老朽化の為改築されたものであったとの石碑に刻印されている。ご祭神は秋葉宮 火之迦具土之大神(火防の神)・天神宮 菅原道真命(学問の神)・機神宮 建葉槌命(機織の神)の三柱。この三柱の一柱である機神宮のご祭神である建葉槌命は当地では「機神様」と呼ばれ、嘗ては機仕事が上達するのを願い、お礼には残り糸や繭を捧げたという。
 また、右側写真の石祠は天王宮と屋根部正面に刻まれている。
        
             境内にある「東新井の獅子舞」の案内板
 伊勢崎市指定重要無形文化財 東新井の獅子舞
 平成十八年六月十五日指定
 東新井の獅子舞は、神明宮と七母女天宮の春と秋の祭り、旧暦十一月一日の神帰りの日に奉納されていました。五穀豊穣、家内安全、悪疫退散の願のほか、雨乞いに際しても舞いました。
 戦後しばらく途絶えていましたが、昭和五十三年に復活し、毎年十一月第三日曜日に奉納されています。
 舞は、近隣の下淵名、国定赤城神社、今は行われていない境上矢島と同じ栃木県日光市に起った文挟流の一人立三人連舞の獅子舞で、法目(老獅子)・雄獅子・雌獅子が連れ舞います。
 奉納は、神明宮で木刀と六尺棒を持った二人の剣士の祭礼棒術の後、社前で獅子舞が行われます。演舞を終えると、行列を成して、妙天様と呼ばれる七母女天宮へ向けて巡行します。
 演目は、平ざさら・橋掛り・ボンゼンの舞の三つで構成され、岡崎・向かい灯籠・ちょうちょう止まれ・おかち・ちいほほの五種類の口伝が伝承されています。
 平成二十二年三月 伊勢崎市教育委員会                     案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 創建や由緒等、調べてみたが全く不明だが、境東新井神明宮は鎌倉時代、藤原秀郷の孫の淵名太夫が東新井の地を領したとき天祖大神を此処に創祀し社領を寄進したのが始まりという。古くから七母女天宮とともに東新井の獅子舞が奉納されている。

    社殿の右側奥にある北側鳥居       境内北東部にある獅子舞等の倉庫らしき建物
       
                   境内の様子
       
                 社を南西方向から撮影 



参考資料「伊勢崎市HP」境町の民俗HP」境まちの史跡と景観写真集HP
    「日本歴史地名大系」「境内案内板」等
              

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冠稲荷神社 (2)


        
        
拝殿に向かう参道右手の小高い丘上に鎮座する摂社・聖天宮日高社
          御祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神・神倭磐余毘古神・大雷神・水分神 
 聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。県指定重要文化財指定
          因みに聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。
     
      
聖天宮は比較的小規模な建物であるのだが、本建物の彫刻や装飾は
    内部天井の龍を始めとして大変質の高いもので見ごたえある。(写真左・右)

 聖天宮は正面(2.89m)、側面(3.88m)と比較的小規模な建物でありながら屋根が複雑で、四方入母屋造正面唐破風付という特徴的な造をしている。当初から日本瓦で葺かれており、棟札によると安政4年(185710月上棟で大工棟梁として「弥勒寺河内 守藤原照房」となっている。これは境下渕名の弥勒寺音次郎の事で、大工でありながら彫工としても名 を馳せている。本建物の彫刻は内部天井の龍を始めとして大変質の高いものである。
 また彫工は音次郎の息子「弥勒寺音八とその弟子の諸貫万五郎」である。弥勒寺音八は一時期飯田仙之助の養子弟子となった岸亦八の弟子となり、常陸の天引観音や笠間稲荷を手掛けるようになる。音八の名声は広く響き、明治に移るころ音八は宮中に召し抱えられ賢所の玄関正面の菊の紋を彫刻した人物である。

 参道右側には実咲稲荷社や聖天宮が鎮座しているのに対して、左側には七福神殿・諏訪社と八坂社(神楽殿兼ねる)・厳島社・菅原社・いなり白狐社・琴平社と、並列するように祀られていて、どの社も絢爛豪華である。
        
         人形代社の並びに祀られている七福神殿 御祭神は七福神
『七福神殿』に祀られている七福神彫刻は、名工・新井清尚、明和2年(1765)の作。一幅の絵馬に収められている極彩色の七福神絵馬で、海辺の雄大な松のもとに福々しい神々が集い喜遊するという珍しい構図との事だ。
       
          七福神殿の右並びには神楽殿も兼ねた諏訪社と八坂社
         諏訪社のご祭神は建御名方神で、八坂社のご祭神は素盞嗚神と奇稲田比賣神 
       
                   摂社 厳島社
        厳島社のご祭神である宇賀弁才天は、宇賀神と市杵島毘賣神が融合した女神で、
     左右に毘沙門天と大黒天を配し、さらに十六童子を従えた、大変珍しい神坐像である。
          厳島社の前にはご神木が聳え立っている(写真左・右)      
       
               菅原社 ご祭神は菅原道真公
       
              いなり白狐社 ご祭神は命婦専女神
   横に伸びた社殿には小さなお狐様がこれでもかと並んでいて、ある種異様な眺めだ。 
 いなり白狐社
 御祭神 命婦専女神
 氏神からの返戻白狐を祀る。
 我が国の神社では、伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩のように、それぞれ固有の動物が神の使いとして尊ばれている。しかし、お稲荷さんの狐は単なる神使ではなく、眷属そして神様の一部のような資格を与えられている為、狐こそが稲荷神という考えを持つ人々も多いようである。
 お稲荷さんと狐がこのような親密な関係を持つに至った由来としては、諸説があるが、稲荷の神が「食物の神」つまり「みけつかみ」であり、御狐(おけつね)三狐(みけつね)に転じたという説、あるいは稲荷神がのちに密教の荼枳尼天と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説がある。
                                    境内案内板より引用

 古くから狐は霊的動物として「稲荷(いなり)神の使いないしは稲荷神そのもの」と信仰されるなど深く広い各種の信仰があり、狐憑きは「御先稲荷」(オサキドウカ)や「オサキ」という名前で、関東から東北にかけて伝承されている。実際、日本全国に存在する三万社以上の稲荷社が狐像を備えており、「狐」自体を「稲荷神」として信仰する場所も少なくない。しかし、総本社である伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのものではないと述べており、また岡山市北区にある日蓮宗の寺院である最上稲荷山妙教寺は白狐を稲荷神(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べている。
 日本では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、伏見稲荷大社が鎮座している神体山である「稲荷山」は古くは蛇神信仰の中心地であったようだが、平安時代になってから狐を神使とする信仰が広まったという。稲荷神と習合した宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)あるいは白狐神と呼ばれて祀られるようにもなったという経緯もある。

 因みに境内の「白狐社」では白狐霊である「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」をお祀りしてある、ということである。この命婦神は、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性、ないし官人の妻の地位を示す称号である。
        
                琴平社 ご祭神は大物主神
        
         境内北西部にも参道があり、その先には戌亥鳥居が建つ。
 
  戌亥鳥居への参道の両側には数多くの石祠が並んで祀られている。(写真左・右)

 当神社は創建も古く、新田源氏の守り神として厚く信仰されてきたことから、建物のみならずその他の文化財も多く残されてきた。そればかりでなく地域とのつながりも古くからあり、聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。建物には棟札も残されていて建造年代もはっきり分かり、携わった大工もはっきりしている。大工の多くは地元大工が多いが 妻沼聖天堂を手掛けた林兵庫正清の影響も強く、利根川を挟んでの交流が深かったことも理解できる。本殿の胴羽目の彫刻の裏から飯田仙之助の墨書が発見され、それには石原吟八郎の初代と二代目の名が記されていたことから、18世紀から19世紀の花輪彫刻師の流れを知る上での手掛りとなった。さらに聖天宮の弥勒寺音八につながる彫刻師の流れが分かる様な神社であるという。 
       
 


参考資料群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    ウィキペディア(Wikipedia「境内案内板」等

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冠稲荷神社 (1)

 太田市細谷地域は、利根川中流左岸の洪積台地の宝泉(由良)台地の南端にあたり、東に蛇川が南流し、中央を聖川が貫流していて、地域西側は低地帯で水田が広がっている。「細谷」地名の由来としては、太田市から細谷までの地形が、川谷に沿って細長く伸びた地形であったところから細谷ともいわれている。
 この地域には、かつて鎌倉時代初期に上野国新田郡細谷村(太田市)を拠点とした河内源氏流新田氏一門である一族が居を構え、在地名「細谷氏」を名乗る。この一族は新田氏本宗家の5代当主新田政氏の庶長子の細谷国氏を祖とした。細谷村は新田荘由良郷の発展により派生し成立した村で、本宗系一族の細谷氏が由良郷内の一村を所領としていたのも自然な流れともいえる。
『新田族譜』(埼玉苗字辞典より)
「〇新田又太郎政氏―細谷弥太郎国氏―又二郎秀氏―右馬助秀国(義貞に従ひ、後に脇屋義助に属して、暦応二年九月越前府城にて打死)―房清(義興自殺の後、出家法名念道)―兵庫助清房―又四郎保房―刑部丞為房―刑部丞資房(北条氏康家臣)―三河守資遠(武州湯島庄三河島十七貫五百文を領し、併せて五十七貫文の地を領す。大永元年正月二十四日、足立郡木崎村に等覚寺を建立)―三河守資実(太田十郎氏房に属し、武州岩槻城にて、春日左衛門尉・河合出羽守と共に三家老と称す。天正十八年小田原没落後、氏房の墓前にて自害)―源左衛門資光(秀忠に召され、大阪町与力)―善兵衛資勝―善之助資信(子孫本多中務大輔家臣)、弟郷右衛門資永(火消役与力)―郷大夫資政―平次兵衛資陳。○為房の弟兵庫助邦房―兵庫邦氏―五郎兵衛邦通―丹丁広通(大道寺駿河守に仕へ、松枝打死)」

        
            
・所在地 群馬県太田市細谷町1
            
・ご祭神 宇迦御魂神 大穴牟遅神 太田神 大宮能売神 他十三柱
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 初午大祭(3月下旬の日曜日) 他
 国道407号線を熊谷から太田市方面に北上し、西矢島地域で国道354号線の東毛広域幹線道路と交わる「西矢島町南」交差点を左折し伊勢崎方面に西行する。その後蛇川を渡り、細谷地域に入ると冠稲荷神社の立看板が見えてくる。境内は南北に長く大変広大で四周を道路が囲んでいる。
 広大な専用駐車場が社の東側にあるので、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
              国道354線沿いに見える社の立看板
『日本歴史地名大系』「細谷村」の解説
 蛇(へび)川の右岸に位置し、地勢は平坦で、対岸東は岩瀬川村、北は由良村、西は西野谷村・上田島村。応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)に「細谷村由良郷内」とあり、一五世紀半ばのものと思われる岩松持国知行分注文(同文書)には「細谷郷」とある。年未詳三月一〇日了泉書状(同文書)で、了泉は祖母より譲られた地として「細谷村」の領有を岩松能登守に主張している。寛文二年(一六六二)の知行割帳(金谷文書)では「世田郡新田庄細谷村」とあり、高一千五六七石余で田方七〇町六反余・畑方六三町余(うち萩畑三町余・屋敷四町余)で、大坂定番の安部信盛領・旗本筒井領などの六給。

        
                 東側に建つ甲大鳥居
 甲大鳥居  稲荷鳥居
 昭和六十三年(一九八八)建之
 高さ 十二・五米 幅 十八米
 規模、量感ともに県下有数である。
 様式は稲荷鳥居といい、明神鳥居の発達したもの。明神鳥居とは、特に霊験著しく、由緒正しいとの意である。鳥居は華表といい神の斎(居付き)給う清浄な神域の結界(境)を示す第一の標である。
 甲とは、東の僅か北寄りを示し、また「最初のもの」の意でもあり、日の昇る東の神の座への門である。円塗りの朱は神明の徳を表わし、魔除けのの効験を顕す。鳥居の空高く聳えるは、神霊の天降りを請い祀るものであり、ときに緑に映え、ときに夕景に浮び上がるさまは、神々しくもまた幻想的である。
 当神社の鳥居は境内の四方位に在り、これを四方鳥居という。それぞれを潜ると、魔除の効験一層あらたかなりという。                         境内案内板より引用
        
     実際には東側駐車場からは甲大鳥居(写真奥)と東鳥居(同手前)が見える。
          二基の鳥居の間には案内板が3枚展示されている。
        
         「最上流算額文化十一年銘附関流算額文化九年銘」案内板
        
        「冠稲荷神社本殿並びに聖天宮」・「冠稲荷神社拝殿」案内板
『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「冠稲荷神社の本殿並びに聖天宮(昭和47926日指定)。本殿は三間社流造、千鳥破風向拝唐破風付、享保7年(1767年)の建築。聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。2024年に県指定重要文化財指定を県知事に答申」「冠稲荷神社の拝殿(平成2326日指定)。寛政11年(1799年)の建築[3]2024年に県指定重要文化財指定を県知事に答申。最上流算額文化11年銘 附関流算額文化9年銘(昭和5157日指定)- 冠稲荷神社には3面の算額が奉納されており、文化9年(1812年)3月に関流の金井良之が奉納したものと、文化11年(1814年)に最上流の大川栄信門人の大川直信ら3名が奉納したものが文化財指定を受けている」との説明だある。
       
               「細谷冠稲荷獅子舞」案内板
 こちらも『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「細谷冠稲荷の獅子舞(太田市指定重要無形民俗文化財 平成6325日指定)。新田義貞が重箱獅子を奉納したことに由来するとされ、初午大祭で奉納される。一時中断したが再興された。系統は箱田流とされ、一人立ち3頭獅子で雄獅子、雌獅子、法眼から成る」と載せている。
        
            甲大鳥居の左側に祀られている猿田毘古社
                左側に見えるのはペット社殿
 
 甲大鳥居から通称「甲(きのえ)参道」を通る途中にも社の御由緒(写真左)や年間行事等を記した案内板(同右)案内板が多数展示されている。
        
                  甲大鳥居の案内板
        
             改めて南側の正面鳥居から南参道を進む
 冠稲荷神社は、群馬県太田市細谷町にある神社であり、日本七社(日本七稲荷)の一つを称している。
 1125年(天治2年)、新田義重の父である源義国によって創建されたと伝えられる古社。承安4年(1174)源義経は奥州下向の途中、冠の中に奉持してきた伏見稲荷大明神等の御分霊・神札を社に収めた故事により、冠稲荷大明神と呼ばれる様になったとされている。
 また、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉へ軍を進める途中に戦勝祈願をしたところ偉功を上げることが出来たので重箱獅子を奉納すると共に金木犀一株を植えて記念とし、神領も寄進したと伝わる。
 降って江戸時代には、細谷に知行地を持つ大久保・赤井氏の旗本を始め、武州岡部藩主阿部摂津守らが当神社を厚く信仰し、御供米の寄進や社殿の改築、修理に奉仕したという。
        
              
南参道を進むと見えてくる二の鳥居
        
                二の鳥居の先にある手水舎
        
           手水舎の先の祀られている
摂社・実咲稲荷神社
 鳥居の右側にある立看板によると、こちらの御祭神は宇迦之御魂大神と塞神(久那戸大神・八衢彦命・八衢姫命)、大宮能賣神で、永禄年間(15581570)鎮座であるという。
        
                
人形代社(ひとかたしろしゃ)
 祓戸四柱大神を祀る。「人形代(ひとかたしろ)」とは、飛鳥時代中国から伝わり藤原宮期に確立し,奈良・平安時代に盛行し、現代にまで受け継がれてきた災いを祓い福を求める祓い祈祷であるという。
       
                    拝 殿
        
                     色鮮やかで精巧な彫刻が施されている拝殿向拝部
 拝殿は正面(10.18m)、側面(7.64m)入母屋造 の平入で正面に千鳥破風、向拝は軒唐破風としている。背面には正面(4.54m)、側面(5.70m)の切妻の幣殿を設け、本殿とは接続はしていないが、社殿として権現造に準ずる形態を示している。
 向拝の柱は几帳面・地 紋彫りとし、中備や兎毛通の龍の彫物を施し、木鼻 は獅子である。向拝を始めとして拝殿の彫刻は18世紀末から19世紀初期以降の物と思われ棟札の年代と 一致する。大工は上州山田郡沖之郷村の中村兵部と武州幡羅郡小暮村の田中治助とあり、鯖尻の刎ね上げが見られるところから林兵庫の系統と思われる。棟札に彫工の名はないが、妻沼の聖天堂の影響を受けた「唐子遊び」が欄間彫刻に残されていることから花輪系の彫工である可能性が高く、場所、経歴からも飯田仙之助が拝殿も手掛けた可能性が高いと推定される。
        
                    本 殿
               
                 本殿 西側からの眺め
 本殿は正面3間(2.74m)、側面2間(1.70m)、 向拝1間(2.74m)、三間社流造といわれ正面に千鳥破風、向拝は軒唐破風の造りになっている。向拝柱は几帳面取の角柱で水引虹梁、海老虹梁、中備は蟇股、手挟は牡丹の籠彫でそれほど大きくはない。木鼻は正面が獅子で横が獏であるが獅子は後補の物である。前方に浜縁・浜床を設け、身舎の四方の大床跳高欄、正面の階の両側には擬宝珠付きとしている。胴羽目には中国故事を高肉透彫、脇障子は昇降の龍としてある。妻飾は二重虹梁大瓶束の笈方を始めとして全体に彫刻を施し、彫刻には極彩色で彩られ、大変見事な造りであるという。
 本殿には建造年の他、複数の棟札が保管されていて、背面の彫刻板の裏には明和4年(1767)前原藤次良他3名の名が記されていた他、向かって右側の2枚からは文化12年(1815)石原吟八藤原義武、同吟八藤原明義、門人飯田仙之助藤原義棟と書かれた墨書が発見された。建造年は水引虹梁の唐草絵様や蟇股の彫刻からも棟札通り享保7年(1767)と推定できる。建造年の享保7年は関東の彫刻の祖といわれる高松又八が亡くなっていることや大工との関係から初代の石原吟八郎の作品であると推定できる。当初年には胴羽目に彫刻がなく、46年後に吟八郎の弟子の前原藤次郎が手掛け、さらにその50年後に飯田仙之助が手掛けたのではないかと考えられる。作品を見ると、両脇の4枚と後ろの3枚は明らかに時代が違うことが分かる。また、蟇股は当初のものである可能性が高いが、向拝の獅子頭等は明らかに後補の作であるという。したがって本建物は、18世紀前半から中半さらに19世紀の彫刻の流れが分かる複合的な遺構で他に類を見ない貴重なものであるという。
        
           本殿奥にある小高い塚上に祀られている石祠四基
       境内には古墳が数基あるというので、これも古墳の可能性は高い。 




参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia
    「境内案内板」等

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飯野長柄神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大字飯野555
            
・ご祭神 事代主命(推定) 
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 水神祭(燈明あげ、水害封じ)619日・819日・919
                 
夏祭 715日に近い日曜日 祭礼引継式 9月最終日曜日
                 
お日待 1015
 高鳥天満宮から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を2.6㎞程西行、谷田川排水機場の150m程東側で、利根川左岸の堤防が目の前に見える場所に飯野長柄神社は鎮座している。
 この社は、グーグルマップや群馬県神社庁のHPでは「長柄神社」になっているのだが、板倉町HPでは「長良神社」となっていて、今回、群馬県神社庁を尊重して長柄神社として紹介する。
        
                 
部落を背に利根川の堤防に向って鎮座している飯野長柄神社
『日本歴史地名大系』 「飯野村」の解説
 利根川と谷田川の間に立地し、東は大久保村・高鳥村、西は斗合田村(現明和村)、北は谷田川を挟んで板倉村・岩田村。天正一二年(一五八四)一二月二一日の北条氏照禁制写(松雲公採集遺編類纂)は飯野郷に宛てて出されている。「関八州古戦録」によると、豊臣秀吉の小田原攻めに際しては、飯野の領主淵名上野介は北条氏にくみして館林城を守っていた。
 飯野城は飯野地域の集落南部にあり、北・東・南は低湿地であった。東西約200m、南北約170mで、現在は耕地整理によって完全に消滅していまっている。館林に属した淵名上野介の居城であり、「北越軍記」に永禄3年(1560)上杉景虎(謙信)飯野城を屠るとある。
 天正12年(1584)小田原北条氏が攻め込んできたときには下野国足利城を守り、天正18(1590)豊臣秀吉の小田原征伐では館林城を守っていたという。
        
                    拝 殿
 板倉町・飯野地域は、高鳥天満宮が鎮座する大高島地域と同様に大箇野地区に属している板倉町でも南部にあり、利根川左岸に接している地域である。
 飯野長良神社は旧飯野新村鎮守社で、旧村社。部落を背に利根川の堤防に向って社殿がある。その境内の水神様(水天宮の文字あり)は初め利根川の堤防の上にあったが、明治43年の洪水では水神様のところで水が止まったといい、年3回の祭をする。年3回の祭りが6月・7月・8月と相ついでそれぞれ19日・20日に行われるのも、これらの月が最も洪水の出やすい月でもあるからという言い伝えもある。
 かつて神祇道管領當長上従二位ト部朝臣なる人物より正一位大明神として認めるという認定書が確認されている。また、この地方では葦毛の馬を養うことと竹の箸を作ることも禁じられていたが、許可されたことが享保10116日祝詞奉上の際の一文に記されている。明治43年の大洪水には目前の利根川の決壊により神社も押し流されたとのことである。
 
        社殿の近くにはご神木のような巨木が聳え立つ(写真左・右)
 この社には獅子舞も奉納されていた。
流派は「助作流」と称している。一人立ちの風流獅子である。道ゆきの構成は旗・弓・柏子木(六人)・万燈二人・笛五人・獅子三人の順序で進み、曲目は「かんむり 弓がかり 三本づくし 社切り すがわき」の五種目になっている。獅子の扮装は籾谷地域と似ているが動作では小掛けに両手を通して、パッパッと勇壮にやる点がよく似ている。実演は鎮守の境内で行われたが、最初道ゆきから見た。ここでは「すり込み」と称している。「ささらをする」というのが獅子を舞うという意味であるからそれから実演に移るということで「すり込み」とよぶ。
         
                   境内にある力石
      神社前には力石 (約20貫)があり戦前まで若者による『新村のササラ』
           (力比べ)が盛大に行われていたとの事だ。

 この獅子舞は、定時の上演は毎年六月十五日であるが、昔は厄病除けに舞われた。曲目のうちの「かんむり」では、雌獅子が後に出、雄獅子二が前に並んで演じられた。腰太鼓は雌獅子だけがバチで打ち、雄獅子はバチで調子をとるだけ(叩くまね)であるが、そのかわり小掛の両端を持って、すばらしくダイナミックな動きを見せる。三組の中でも最も力の入ったもののようである。次ぎの「三本づくし」という曲目では、ボンゼン(梵天ともいうが御幣束のこと)を三本社前に立てておき、これを三頭の獅子が代わる代わる奪いとろうとするドラマである。最初近寄ると幣束の神威ではね返えされ、モンドリ打つ真似さえある。二回三回と奪いとろうと掛るとこが見もので、最後にはこれを手にし、共に喜び合うという筋であるが、笛と腰太鼓のリズムによって演じられるだけになかなか興味ふかいものがあった。その間の激しい動作は驚くべきもので、よほどの体力がない限り堪えられないと見えた。歌詞は全然使われず、古老から聞いても昔からなかったといってた。曲目が少なくなっているのは、長い間に省略されてきたためであろうと思われる。夕暮の黒い帳がシットリと降りかかった境内でみたこの獅子舞はたしかにすばらしい獅子舞本来の降魔の一面を伝えるはげしいものだったという。
 この地域の獅子舞は、昭和40年以降は踊り手の後継者が無く現在では中止されているとの事だ。
        
             社殿の左側に祀られている石祠・石碑群
板倉町HP」では、水天宮(天明7年)・大杉神社(文化4年)・八大龍王神(弘化3年)・琴平宮(明治36年)・愛宕山(文化2年)・仙元大菩薩の石祠が祀られているとのことだが、実見したところでは、左から2番目が愛宕山、3番目が琴平神社と分かる以外は解読不可能であった。



参考資料「日本歴史地名大系」「板倉町HP」「群馬県邑楽郡板倉町の民俗」
    「ぐんま地域文化マップHP」等

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高鳥天満宮

 当社の創建は不詳であるが、同神社の縁起によれば、延喜元年(901)菅原道真が九州大宰府に左遷となったとき、臣で出羽国の人岩下勝之丞が、大宰府への随行を許されず、止むなく道真の自画像を賜り帰国した。のちに文暦元年春、後裔の岩下勝之進がその画像を携えて京都北野天満宮に参詣の帰途に投宿し鳥が飛来してやまない此の地に、一社創建を発願し国主に請いて高鳥の地に建立し、公の自画像を安置したと伝えられている(『板倉町史通史下巻、上野国郡村誌17』)。天正一八年(1590)頃天徳寺了伯(佐野城主宗綱の弟)の発願により、例大祭に能楽が行われたが、昭和初期には中止となっている。戦前まで身体の弱い子は当社に詣で、天満宮の弟子として五歳から七歳まで天神奴となった。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大高嶋1665
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧高鳥村鎮守・旧郷社
            
・例祭等 節分祭 23日 例大祭 2月最終日曜日 夏越大祓 7月下旬
                 
新嘗祭・七五三詣 10月第4土曜日 他
 板倉町大高嶋は、南境には日本最大の流域面積である利根川が、また北境には谷田川が流れ、豊かな水資源と自然環境に恵まれた平坦地である。斗合田長良神社から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を3.5㎞程東行すると、進行方向左手に令和23月をもって閉校となった「板倉町立南小学校」が見え、その先の信号のある交差点には「高鳥天満宮」「天神池公園」の看板が見えるので、そこを左折し暫く進むと正面に高鳥天満宮の一の鳥居が見えてくる。
 実際には、2025121日に海老瀬一峯神社から高鳥天満宮に行ったのであるが、その経路説明がややこしいので、分かりやすい斗合田長良神社からの説明となった次第である。
        
                
高鳥天満宮正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「高鳥村」の解説
 谷田川右岸にあり、北は谷田川を挟んで海老瀬村、東は下五ヶ村、南は島村・大久保村、西は飯野村。当村南東方の宇那根(うなね)集落について、明徳二年(一三九一)七月二日の藤原氏女譲状写(正木文書)によれば「上野国さぬきの庄うなねの郷たての村ニ、在家仁間、はたけ弐町弐反、あら田弐町」が松犬御前に譲り渡されている。うなねは高鳥の宇那根と下五箇の宇奈根と二集落あるが、宇那根と宇奈根は隣接し一集落と同様である。江戸時代の石仏には、集落名の下に宇那根・宇奈根の村名が刻まれているものが多く、往古独立村であったと思われる。
 
         朱を基調とした一の鳥居を過ぎ、参道を進み(写真左)
           階段を登ると正面に二の鳥居が見える(同右)
        
             石段を登った先で参道右側にある神楽殿
 神楽殿は入母屋造瓦葺妻入で、境内の南東に西向きに開いて建つ。基礎は自然石を並べ、その上に土台を廻し、床を3尺ほど上げる。差鴨居で柱を固め、軒はせがい造にして庇を深く出す。彫刻は差鴨居に渦と若葉と梅の木の絵様、縁の持送に施す。建造年を示す資料はないが『明治8年社寺便覧』に現神楽殿と同規模の建物を記す。また、『上野名蹟図誌』に、姿が描かれている。このことから、江戸末期に建てられていたと考えられる。
 神楽殿では神話をもとにした「高鳥天満宮太々神楽」や、郷土色豊かな「里神楽」が、元旦祭や例大祭、夏越の大祓に奉納される。例大祭に舞う「高鳥天満宮太々神楽」は、町の指定重要無形民俗文化財である。神楽殿を保存し御神楽が継承されることは、歴史的文化を伝える上で非常に重要なことである。
        
                    拝 殿
 拝殿は入母屋造平入、正面に1間の向拝を付ける。組物を出組、柱頭の木鼻は獅子・獏の彫刻を施し、中備も出組とする。縁を三方に廻し、腰組は縁束の上に台輪を置き出三斗組で支え、縁葛の下に詰組の斗を設ける。天井は格天井とし、百人一首の天井画が99枚描かれている。絵師は上田正泉、小林悦道、堀江柳泉の名が墨書きされ、すべての絵に寄進者名が記されている。
 拝殿は嘉永元年(1848)の棟札があり、棟梁、彫工が記されている。大工棟梁・仕手方は邑楽郡内の職人が中心となり建築し、彫刻は栃木市の渡辺喜平次宗信やみどり市花輪の彫刻師石原常八重信が手掛けている。向拝柱や水引虹梁の梅の浮彫は美しく、中備の龍の彫刻や手挟の籠彫、海老虹梁の丸彫龍は見事な彫刻である。
当社には、彫刻雛形帳が残っている。表紙に「弘化5年(1848)正月」と「天満宮拝殿 彫物雛形帳」の記載があり、同年(嘉永元年)拝殿建立時の彫刻雛形である。平成12年(2000)に社殿と共に、町の重要文化財に指定されている。
 室内には社殿を建築した時の様子を描いたとされる絵馬(天満宮本殿建築図)が飾られている。嘉永元年(1848118日上棟と記されているという。現在、経年でくすみ、絵の詳細は確認できないが、上棟の職人の様子など細かく描かれた珍しい絵馬で、北尾重光作である。この絵馬は携わった棟梁などが、上棟を祝して奉納したとものであると伝わる。
        
              拝殿上部に掲げてある奉納額・扁額等
        
                    本 殿
 本殿は、一間社流造(1.65m)、1間向拝付、側面1間(1.61m)、瓦棒銅板葺である。自然石切石を4段積みにした基壇に切石基礎を敷き、亀腹石の上に土台を廻し、柱を立てる。三方に廻らす縁は、身舎の柱からの持送材が組物を受けて支えている。側面と背面の木鼻は彫刻の獅子とする。虹梁の絵様や獅子の木鼻より江戸末期の様式が伺える。よって拝殿と同様の時期に建造されたと考えられるという。
        
   「板倉町指定重要文化財 高鳥天満宮社殿 付棟札・彫物雛形帳・絵馬」の案内板
        
        本殿奥に祀らてている境内社 左から
浅間神社・六社合祀社
 六社合祀社は、長良神社・琴平神社・稲荷神社・厳嶋神社・八雲神社・多賀神社六社の合祀社である。一間社流造(1.07m)、側面1間(0.8m)、1間向拝付銅板平葺である。全体は朱塗であった痕跡が見られる。切石の上に土台を敷き丸柱を立て腰貫・頭貫で固め、切目・内法長押を廻す。正面に浜縁を置き木階5級を設け、縁を三方に巡らし、逆蓮柱の高欄を付ける。側面と背面に嵌め込まれた彫刻は、全体に力強い彫である。当建物は17世紀後期の特徴を残しながら、木鼻が漠や獅子の彫刻へと変わっていく過渡期の建物で18世紀前半頃の建物と考えられている。
 
      本殿奥にある宝篋印塔            宝篋印塔の奥には心字池
                       冬時期故に水は抜かれているのであろう。



参考資料「日本歴史地名大系」「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「群馬県邑楽郡板倉町の民俗高鳥天満宮HP」「境内案内板」等

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