古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

福島町八郎神社


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市福島町21
              
・ご祭神 群馬八郎満胤命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 不明
 国道462号線を北上し、群馬県内に入った「八斗島町」交差点を左折し、群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に合流後、2㎞程進んだ「境橋」を渡った先の丁字路を右折すると、すぐ左手に福島町八郎神社が見えてくる。
        
                 福島町八郎神社正面
『日本歴史地名大系』 「下福島村」の解説
 利根川左岸、戸屋塚(とやづか)村の南にある。東は除(よげ)村・富塚(とみづか)村。寛文二年(一六六二)利根川の洪水により、村の中央を押抜かれた。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方三一石余・畑方四七石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別六町六反余、うち田方一反余・畑方六町四反余。新田高五石余。前年の年貢は米二石五斗余・永二貫六七〇文。
 
       
             拝殿。右側並びは社務所であるようだ。
 福島町八郎神社は、『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」に記載されている奈良時代、光仁天皇の御世(770-781年)における群馬八郎満胤の伝承にちなむ社。

 群馬八郎満胤は光仁天皇の御世(770781)、上野国群馬郡の地頭であった群馬大夫満行の八男で、容姿に優れ文武にも秀でていた為、満行は八郎を総領に立てて、その七人の兄を八郎に仕えさせた。
 
父満行が亡くなり三回忌の後、三年間精勤した後に目代(国司代理)の職を授かったが、七人の兄はこれを妬み、夜襲をかけて八郎を殺害。屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある鳥食池東南の蛇食池の中島にある蛇塚の岩屋に投げ込んだ。
 それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。 神通自在の身となった八郎は七人の舎兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。 大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。 
 それから二十余年が経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。 宗岡には海津姫という十六歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていたその頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。 宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。 そして、三日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。 宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。八月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。 宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められている事を話した。 宗光は姫の身代わりになる事を申し出た。
そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら『法華経』を読誦して九月八日になり、宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って『法華経』の読誦を始めた。 やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。
 宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて、「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。『法華経』の功徳で神に成る事ができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と云い、岩屋の中に入った。その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。
 この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせる事にして、宗光を上野の国司に任じた。 宗光は二十六歳で中納言中将、三十一歳で大納言右大将に昇進した。 尾幡権守宗岡は目代となった。

 明治42年(1909)の洪水の被害を受け、大正寺町の豊武神社へ合祀され、本殿は八斗島稲荷神社に譲り受け移築、その豪華な彫刻は近在に珍しく立派で榛名神社山門の彫刻と同型であるというが、本殿移転の夜に大風が吹き荒れ雷鳴が轟いたと伝えられているのだそうだ。その後、昭和45年(1970)に現在地へ分祀され今日に至っているとのことだ、
        
               拝殿の左側にある「不動堂」
        
            不動堂の右側奥並びにある石塔・石碑等四基
 左から「〇〇神」・「養大明神」 石塔・「二十三夜 月読尊」・「庚申」がある。養蚕に関わる地でもあったようだ。
             
                          正面の鳥居左側に聳え立つ欅のご神木
『伊勢崎風土記 下福島村』
 八郎祠 下福島村に在り。掌祭長松寺、群馬八郎満胤の霊を祀る、縁起の略に曰く、天平神護年時、上毛群馬の郡司群馬太夫満行、男八人を生む、季を八郎満胤と号す、容姿秀麗、才有り、而して多芸なり、満行鍾愛し、立てて嗣とす、満行卒し、満胤京師に朝覲す、帝之れをして国を監させ、威権隆盛なり。 是に於て七兄焉れを恚み、相与に図って之れを執らえて、石櫃に投じて、之れを池中の嶼窟〈小幡に在り。蛇喰池と呼ぶ〉に棄つ、其の霊魂化して蛇竜と為る、七兄及び宗族を鏖にし、妖崇は百姓に逮ぶ、国人懾慄し、犠牲を川上に供えて、而して之れを祀る、〈此の川を号して神名川と呼ぶ〉 瞬目の際、大風石を揚げ震電霹靂し、沛然として雨注ぎ、樹を抜き巌を砕き、谿振い、山動き、神竜冉々として東方に飛騰し、光采璨珊として那波郡下福島に現わる、因て叢祠を此の処に設けて之れを祀り、八郎大明神と崇号す、
 長松寺 下福島村に在り、真言宗満善寺末派 群馬八郎満胤開基す、 因て満胤山と號す、




参考資料『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」伊勢崎風土記」「日本歴史地名大系」
    「日本の伝説27 上州の伝説」等

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長沼八幡宮


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市長沼町231
             
・ご祭神 誉田別命(第15代応神天皇)
             
・社 格 旧長沼村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭(元旦) 節分祭 2月上旬 春季例祭 43
                  
水神祭 7月中旬 例大祭 1017日 秋葉祭 1123
 国道462号線を本庄市街地から北上し、利根川に架かる「坂東大橋」を渡り、群馬県に入る。その後、「八斗島町」交差点の先にある信号のある十字路を右折し、1㎞程東行したのち、十字路を左折する。暫く道なりに進み、韮川に架かる「八幡橋」のすぐ先に長沼八幡宮は鎮座している。
        
                  
長沼八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「長沼村」の解説
 下道寺(げどうじ)村の南にあり、北方を韮(にら)川が東流する。西は八斗島(やつたじま)村、南に武蔵国児玉郡上仁手村(現埼玉県本庄市)があり、南東部は烏川に面する。寛文二年(一六六二)以降は利根川(のちの七分川)が地内を貫流していた。中世には首切(くびきれ)沼という河跡沼があったが、のち長沼と改めたという。明暦年間(一六五五―五八)川南の地五六町余を開発、向長沼(むこうながぬま)と称したという(伊勢崎風土記)。
        
           鳥居を過ぎた参道右側に設置されている案内板
 長沼八幡宮は康平5年(1062年)に源頼義が奥州平定のおり、石清水八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をし、後鳥羽天皇の建久6年(1195)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると社殿を造営した。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住み、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。その後時代が下るなかで、郷土鎮護の神として氏子の方々に崇敬されたという。
 創建当初は長沼邑字四ツ矢に鎮座していたのだが、天明3年(1783)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座したとの事だ。
 
     参道を進んだ左側にある神楽殿     参道を挟んで神楽殿の向かい側にある手水舎
        
                    拝 殿
 八幡宮由緒書
 祭神 誉田別命(第十五代応神天皇)
 当社の創建は、後冷泉天皇の御代、康平五年(一〇六二)源頼義が奥州鎮定の途中、山城国石清水八幡宮の御分霊を祀り戦勝祈願した地といわれ、後鳥羽天皇の建久六年(一一九五)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると神威を畏み社殿を造営したと伝わる。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住むに当たり、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。さらに、正親町天皇の天正十一年(一五八三)皆川山城守広照が長沼城を築いたときに社殿の大修理が行われ、皆川氏滅亡の後は、郷土鎮護の神として崇敬されることとなった。
 当社はかつて長沼村字四つ矢という地に鎮座していたが、天明三年(一七八三)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座された。
 明治八年(一八七五)に村社となり、同四十一年(一九〇八)に字八幡道下の八幡宮(分社)を合祀し、大正三年(一九一四)には社殿の回収が行われた。
 昭和四十七年(一九七二)には社殿、神楽殿、水舎の回収と鳥居、社務所が新築され、同六十二年(一九八七)に境内社秋葉神社の遷座祭が斎行され今日に至る。
 八幡道下の遺跡には、明治十二年(一八七九)に産土神と神武天皇陵の遙拝所として、天明の大洪水で流れついた溶岩により築かれた養気山がある。住民の敬神崇祖融和団結の象徴として今日までその遺風は守られ、昭和五十四年(一九七九)十一月三日には創築百年祭が盛大に執り行われた。傍らにには、速秋津姫命を祀った水神宮の小祠があり、水神祭はここで斎行される。
 祭日
 一月  一日  歳旦祭
 二月  上旬  節分祭
 四月  三日  春季例祭
 七月  中旬  水神祭
 十月 十七日  例大祭
 十一月二十三日 秋葉祭
 境内社
 秋葉神社 火産霊命
 稲荷神社 宇迦之御魂命
 飯玉神社 宇気母智命
 熊野神社 櫛御気野命
 伊 宮   大日孁命
                                    境内案内板より引用
        
             拝殿向拝部等を飾る彫刻は江戸時代の名匠河内守弥勒寺音八の作
 河内守弥勒寺音八(音次郎ともいう)は旧長沼村の出身で、天保14年京都白川王殿に謁し、弥勒寺河内守の称を授けられたという。透し彫りの名人で、晩年郷土の安泰を祈願し、畢境の妙技を凝らして竜の透し彫を作り、八幡宮に奉納したという。
        
       拝殿正面に掲げる「八幡宮」の奉額は、幕末の書家三井親和の筆墨
                  厳然たる風格が漂う。
       
                    本 殿

 社殿左側奥に祀られている境内社・秋葉神社    秋葉神社の奥に祀られている石祠四基
秋葉神社の左側並びの建物は物置となっていた。        詳細は不明。
       
             石祠四基の並びに祀られている大黒天
       
                   境内の様子 
 長沼八幡宮の鎮座する地から1㎞程南側に「養気山」と呼ばれる溶岩に覆われている高さ8m程の築山がある。この溶岩は天明3年(1783)の浅間山大噴火で噴出した溶岩をこの地に集めてできた小山ということのようだが、この公園は「養気山公園」というそうだが、八幡宮外苑という別名を持っていて、嘗て長沼八幡宮が鎮座していた地であるといわれている。氏子の方々もこの「養気山」に対する崇敬の念は今でも健在で、毎年春季例祭において、「養気山」の参拝を欠かさず行っているという。



参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板」等 

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斗合田長良神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町斗合田198
            
・ご祭神 藤原長良公(推定)
            
・社 格 旧斗合田村鎮守・旧村社
            
・例祭等 夏祭り 724日(斗合田の獅子舞) お日待 919
 下江黒長良神社から群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行すること500m程、丁字路を右折、農道を南下して行くと邑楽用水路に突き当たる前の左手側に古墳らしき塚と隣接する斗合田長良神社の境内が見えてくる。但しこの社にはお決まりの鳥居は見当たらず。
        
                            開放的な雰囲気の斗合田長良神社
 入り口付近には鳥居も社号標柱もないが、社殿前には一対の立派な狛犬が据えられており、境内も綺麗に管理されている。因みに「斗合田」は「とごた」又は「とごうた」とも読み、なかなか見慣れぬ地域名だ。この地域は明和町の最東端にあたる。地域南側には雄大な利根川堤防が延々と続き、高低差がない開放的な空間と雄大な田畑風景が続く地だ。
        
             社の南側には雄大な利根川堤防が延々と続く。
『日本歴史地名大系』 「斗合田(とごた)村」の解説
江黒村の東、利根川と谷田川の間に位置し、東は飯野村(現板倉町)、北は谷田川を挟んで赤生田(あこうだ)村(現館林市)・岩田村(現板倉町)。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方三三石余・畑方三二一石余。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では五五〇石余が旗本二家に分給されている。享保(一七一六〜三六)頃にも旗本数家の相給村であったとみられ、そのうちの一家金田領に関する同二年の年貢割付状(橋本文書)がある。高七三石余、田は五反余あるが、「皆荒」とある。上畑一町九反余(反二〇〇文取)・中畑一町八反余(反一七三文取)・下畑一町五反余(反一三〇文取)・下々畑七反余(反一〇八文取)など、屋敷六反余(反二二〇文取)。
『日本歴史地名大系』 「斗合田遺跡」の解説
 斗合田遺跡は谷田川と利根川とに挟まれた南傾斜する自然堤防状の微高地先端にある。標高18m程。昭和33年~34
年(一九五八〜五九)頃の土地改良の時に、三個体の土器が並ぶように出土したという。小型品を含めいずれも長頸壺で、弥生時代中期前半も下った段階のものである。胴上半以上に縄文地文をもち、その上に篦や櫛で連続山形文・円文・刺突文・大型波状文などを描く。
 また、斗合田には斗合田稲荷塚古墳があり、昭和297月に群馬大学史学研究室が発掘調査をした結果、7世紀後半、古墳時代末期の横穴式石室を持つ古墳と判明した。古墳内からは盗掘された残りの品と思われる遺物が発見されていたが、町の開発行為に伴い、令和2年に撤去された。同地区ではこのほかに、斗合田愛宕様古墳、斗合田富士嶽(ふじたけ)古墳も発見されている。
 斗合田富士嶽古墳に隣接する社こそ、地域の鎮守社である斗合田長良神社である。
        
                    拝 殿
斗合田長良神社の創建時期や由緒等は不明である。但し「明和村の民俗」や「明和町の文化財と歴史」に載せられた記述で、断片的に知ることができる。

「明和村の民俗」
長良神社の祭りは一月十五日と九月十五日であった。特に一月はオヒマチ(お日待)といってどぶろくが振舞われたが、今はしない。
お日待 ー年のうちで「お日待」と呼ばれるのは919日の長良神社のお祭りの日だけである。この日は、家から出た子供たちがお客にくる。
ひでりで雨乞いをするときは、鎮守様(長良神社)に寄って板倉の雷電様にお詣りし、その後は各部落から二名ずつ出て雷電様にニッサンする。ニッサンは雨が降るまで続ける。鎮守様にたらいを置いて雷電様からもらってきた水を入れて他の水と一緒にして増やし、各耕地に配り、それをあちこちの畑にまいた。雨が降ると、オシメリ祝いに鎮守様に集まり村中で雷電様にお詣りし、酒などを飲む。
雹乱除けは今では五月三日に、村の男衆が集まって長い竹の先に、藁で巻藁状につくってつける。その部分は上・.中・下三段にしばり、中央に菱形の「天狗の面」と称する模様をつける。上部に三本の竹をさし、これを「矢」という。これは神社の神木のテッペンの高い所に立てたのである。これは、麦、小麦が、雹乱にあわないようにするのである。

「明和町の文化財と歴史」
町内に獅子舞が斗合田、下江黒、千津井、江口の4地区に残っている。なかでも、斗合田の獅子舞は「天下一獅子舞」として知られている。この獅子舞の起源については不明であるが、獅子舞の長持ちの底に「天下一獅子舞日光文 流(ふばさみりゅう)、館林宰相右馬頭(徳川綱吉)宝永3年(1706年)624日」と記されているので、それ以前から行われていたことが伺える。この獅子舞は「天下一獅子舞」の 幟に、火男(ひょっとこ)をつけた道化役がいたり、真剣で踊ったり、天狗面をつけ、錫杖を鳴らして歩いた者がいたと言われることから、山伏が伝えたものと思われるが、その発祥地は日光文挟であると言われている。
 獅子舞は雄獅子、中獅子、雌獅子の3人組で、舞方は神事芸能的なものとして祓い清めたり、悪魔を調伏したり、空に向かって祈る仕草が多い。囃方は篠笛が主体の笛に合わせて舞うようになっている。舞いはうず女(雌獅子とり)、鐘巻(かねまき 蛇のみ)、平ささら、橋わたり、弓くぐり、梵天、笹刀がりの7種類である。獅子舞は7月下旬の夏祭りに行われ、地区の境界地や各寺社、役職の家を天下泰平、五穀豊穣を願って巡行する。後継者の育成は小学校6年生の長男と限られていたが、現在では、全56年生の中から受け継がれている。天下一という由来は、昔、旱魃で農作物が枯死寸前の時に館林城で雨乞いが行われ、斗合田の獅子舞も参加した。やがて順番となりこの獅子が雨乞いをすると、にわかに空がかき曇り、みるみるうちに雨が降ってきたので殿様が「この獅子こそ天下一の獅子である」と言われたため、以来、こう名乗るようになったと伝えられている。
        
            社殿の後ろにある斗合田富士塚古墳(円墳)
 階段下両側にはそれぞれ石碑があり、左側に「長烏帽子 食行霊神」。右側に「小御岳神社」の石碑があり、墳頂部には富士塚の石祠が祀られている。

 この地域は、嘗ては富士信仰も盛んであったらしく、梅原・斗合田・矢島などの地域に見られる立派な富士塚は、この地域の富士信仰の姿を示しているし、現に「初山」には、館林市小桑原の富士嶽神社と斗合田村の富士嶽神社へお参りに行くとの事だ。
       
             境内北側に祀られている石祠と末社二基
             右側に石祠は稲荷大神。左側の木宮は不明。

 利根川と谷田川という一級河川にはさまれ、その上大小さまざまの用水路や排水路があって、低地に存在する明和町の歴史は、水との戦いの連続であった。江戸時代から三年に一度は水害に見舞われ、明治四十三年の利根川大洪水をはじめ、昭和二十年代における三度にわたる水害に、村の人々は言語に絶する辛酸をなめてきた
 明和町は洪水の常襲地でありながらしばしば旱魃の害も受けた。したがって雨乞いがさかんに行われた。ひでりで雨乞いをするときは、鎮守様(長良神社)によって板倉の雷電様にお詣りし、その後は各部落から二名ずつ出て雷電様にニッサンする。ニッサンは雨が降るまで続ける。鎮守様にたらいを置いて雷電様からもらってきた水を入れて他の水と一緒にして増やし、各耕地に配り、それをあちこちの畑にまいた。雨が降ると、オシメリ祝いに鎮守様に集まり村中で雷電様にお詣りしたという。
       
              境内東側から見た斗合田富士塚古墳

 斗合田地域東部には、県道369号線沿いに天神宮、また、地域北東側で谷田川の堤防南側に赤子稲荷神社と、それぞれに小さな社が祀られている。嘗て斗合田村に属し、耕地毎に祀られた社であったのであろう。

   県道369号線沿いに鎮座する天神宮     斗合田地域北東部に鎮座する赤子稲荷神社 



参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」等 


  

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下江黒長良神社

 現在の上・下江黒地域は嘗て「八ッ塚村」と呼ばれていたという。この地域周辺には、古墳が八つ程あったので、この名称がつけられたという。明和町内には直径10m程の江黒古 江黒古墳があり、墳丘の保存状態もよく、明和村が町になって以降も、明和町の指定文化財になっている。
 また、平成2年には江黒古墳付近の道路拡張工事に伴い上江黒地内を発掘調査したところ、古墳時代の石器や土器等遺物が発見された。また、斗合田には斗合田稲荷塚古墳があり、昭和297月に群馬大学史学研究室が発掘調査をした結果、7世紀後半、古墳時代末期の横穴式石室を持つ古墳と判明した。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町下江黒507
             ・ご祭神 藤原長良公(推定)
             ・社 格  旧江黒村鎮守
             ・例祭等 例祭 7月第三日曜日(下江黒の獅子舞)
                  秋祭り 11月23日
 下江黒は群馬県邑楽郡明和町にある地域で、町内の北東部に位置している。利根川や谷田川が流れているこの地域は高低差のない周囲一帯広大な田畑風景が広がっており、その中には住宅や工場の集中するエリアもみられる。現在は上・下と江黒地域は分かれているのだが、嘗ては「江黒村」として一村を成していた地域。地図を確認すると、お互いの地域境に沿ってではなかろうが、『東北自動車道』が見事なまでに二つの地を分断するかのように南北方向に走っている。
 途中までの経路は田島長良神社を参照。群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行する。途中同県道304号今泉館林線との重複路となる「上江黒」交差点で丁字路となるようにも見えるが、実際は右方向に道なりに直進となる。上記交差点から更に東行すること1.4㎞程、東北自動車道の高架橋を上に見ながら更に進むと、こんもりとした社叢林と下江黒長良神社の朱色の鳥居が進行方向左斜め前方から小さいながらも見えてくる
 因みに一の鳥居の手前には、社の脇に回り込める小道があり、周辺には車を充分停められるだけの空間もある。
       
                                                       下江黒長良神社一の鳥居
『日本歴史地名大系』「江黒村」の解説
 [現在地名]明和村上江黒・下江黒
 千津井村の北、谷田川右岸に位置。伝えによれば地名は、康平五年(一〇六二)源義家の軍馬江黒が病死、当地宝寿(ほうじゆ)寺に埋めたことに由来するという。「鶏足寺世代血脈」によると、鶏足(けいそく)寺(現栃木県足利市)二九世尊誉は、永和二年(一三七六)「佐貫江黒宝寿寺」で大日経疏を読誦している。宝寿寺は現存し真言宗豊山派。中世は佐貫庄に含まれ、応永四年(一三九七)同庄羽継(はねつく・現館林市)大袋の住人弥九郎は、知行所の「江黒郷之内こんとうかはらの御堂かいとの在家」を世良田(現新田郡尾島町)の了清に売渡しており(同年一二月二五日「弥九郎在家売券写」正木文書)、江黒郷近藤原村は同三三年一二月一九日の青柳綱政畠売券写(同文書)ほかにもみえる。

 冒頭にも載せているが、現在の上・下江黒地域は嘗て「八ッ塚村」と呼ばれていたという。古墳が八つ程あったので、この名称がつけられたといわれる。永承6年(1051年)陸奥の安倍氏の反乱で源頼義は陸奥守兼鎮守府将軍として、長男の八幡太郎義家(新羅三郎義光の兄)とともに安倍貞任、宗任の征伐に向いこの村を通った時、義家の乗った愛馬の「江黒(えぐろ)」がここで倒れてなくなった。義家はこの地に愛馬をねんごろに葬ったので、このことから八ッ塚村を江黒村と改めたと言い伝えられている。
 この伝承・伝説は『明和町HP』の「明和の昔ばなし」に「八ッ塚村とエノクロ」として載せられている。
「明和の昔ばなし」はこちらをクリック⇒
 https://www.town.meiwa.gunma.jp/life/soshiki/seisaku/7/8/index.html
        
      一の鳥居から参道の先に目を向けると同じく朱色の二の鳥居が見えてくる。
 一の鳥居もそうであったが、二の鳥居も両部鳥居になっている。俗に両部鳥居とは、「両部神道」に属する社が設置を許可された鳥居で、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居で、名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残である。平安時代以降は、僧侶による仏家の神道理論が成立し、当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち真言宗の教えを取り入れたのが両部神道である。と言う事は嘗て真言系寺院の管理下にあったのだろうか。
        
          二の鳥居から境内に向かう途中には鬱蒼とした林が覆う。
         社の尊厳性、神秘性を増す効果は抜群だ。やはり社には社叢林は欠かせない。
        
                    拝 殿
 当社の創立年代や由緒は不明。『明和村の民俗』では、下江黒の長良神社は、瀬戸井の長良神社からの分社であるといわれている。

 明和町内には獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域には残されている。当地域の「下江黒の獅子舞」に関して、起源については、詳らかでないが、昔、埼玉県の大越地方から伝えられたといわれ、獅子舞の道具を格納してある長持ちに元治元年(1864)と記載されてあるところからおそらくそれ以前より行われていたものと推定されるものの詳しくは不明である。
 祭日は713日から3日間行われたが、現在では7月の第3日曜とし、前日は準備、当日の午前を本祭り、午後は厄神除けを行っている。
 流派は不明であるが、舞のやり方は前・中・後の三頭の獅子が竜頭をつけ上衣、はかまわらじをはき、太鼓を前腰につけ、叩きながら笛に合わせて四隅に花笠をのせた子供が立つ中で舞うという。明治四十三年の洪水以前には獅子頭の黄色い布の中に四人も入って舞うササラがあった。獅子頭は三頭分ある。棒術使いがいて、一本使いのササラだった。
・由緒、流派 不詳
・獅子 一頭一人立三頭組雄(獅子・中獅子・雌獅子)
・曲目 ヒラ・チュンロレ・オンベ・うず女・橋がかり・ 鐘巻・花がかり
・楽器、諸道具類 腰太鼓(三-)、笛(七穴、現在六人)、花笠、ボンデン、橋(橋がかり用)、 鐘(棒卷用、つり鐘の形をしたもの)、衣装一式(長袴、黒足袋、わらじ等)
        
              社殿の手前で境内西側に祀られている境内社
          中に神々が祠として祀られているようだが、詳細は不明だ。

 下江黒の獅子舞の本祭りは、嘗ては旧暦615日。この朝、むらの人たちは朝飯を食べずに八坂様に集まった。そして供物に上った赤飯を食べた。このあと、獅子は行列を組んで村を廻り、主 要な箇所で、獅子舞を行った。
 行列の順序は次の通りである。
 花笠-笛-獅子(雄獅子・雌獅子・中獅子)-諸器の係(かかりのもの等を舞うときの大道具、小道具等)。
 廻る順序や各所で演ずる曲目等は次の通りである。
 八坂神社を出発するとき、まず笛は前奏曲を奏する。出発すると笛は道中笛に変る。道中笛は「一つとや」「子守唄」(ねんねこぶし)「数え唄」等五種類ほどある。
長良神社の境内に入るとき笛は「二八」の曲となる。ここでは獅子はオンベを舞う。次に八幡様(長良神社境内未社)で、チュンロレを舞う。次に氏子衆の碑前(同社境内)と金剛院の不動様の前で、同じくチュンロレを舞う。次に戦死者の供養塔等の前でチュンロレを舞って午前の部は終りとなる。
 昼食後、午後は上江黒の宝寿寺で「本ニハ」を舞う。本ニハとは前述した曲目のうち、オンベ、ヒラ以外のものである。例えば「橋がかり」のようなものである。次に同寺の境内にある馬頭観音の前で本ニワを舞う。次に区長宅⇒師匠宅と廻って本ニワを舞う。(現在では省略している)次にスリコミと称して以前は獅子宿で宿礼として本ニワを舞ったが、現在では金剛院の庭で間に合わせている。
 本祭りの翌日には厄神除けがあり、最初に獅子は村の神社と希望する村の家を二尸一戸廻った。獅子は縁側から家に入って各部屋を廻って、台所に下り、トボロから表に出た。これが済むと辻廻りといって、部落の境界へオンベを納めてるという。

      社殿右手裏にある石碑      石碑の左側には小さな石祠が祀られて
                           いるが詳細不明。
       
                         社殿から眺める鳥居の一風景 

 上江黒地域では、男子が成年に達した年には正月十五日に的射を行ったという。後耕地では笠置(オカザキ)様で、宿耕地は天神様で行った。明治末年ごろまで行われたが、その後は絶えてしまったとの事。厄落しだという。谷田川から葦を切ってきてそれで径三尺位の的を作った。宿耕地では、「天保三年吉日」と書いてある幕を曳き巡らしてその中で的射をした。こうして弓を引いてから、その的は日本刀で切ってしまう。というのも的は厄であり、厄を切っておとすのだという。鎮守の長良様には、その成績を書いた額があるという。
 下江黒地域でも的射行事はあり、正月に長良様の末社の八幡様の境内で行った。人はきまっていな い。近郷の人も来て射た。的は紙でつくり、杉の木につるしてこれを弓で射ったので、しまいに的は切って捨てたという。旧江黒村鎮守である社ゆえに、現在は上・下と行政上は分かれていても、古くからの伝統行事には現在の行政区分は関係はないのだ。

 また、二月七日には「雹嵐除け」があり、長良神社の神主からボンデンをもらって来て境内の高い木の上に立てた。また百万遍の数珠を廻した。サシ番が耕地の反別割りで金を集めて村中の人が、長良神社に集まって飲んだ。この日からオレグリまでの間、板倉の雷電様へ二人ずつ組んで、雹嵐がないように日参する。その当番のことを日参番という。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和の昔ばなし」「明和町の文化財と歴史」
    「明和村の民俗」 「Wikipedia」等
 

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川俣粟嶋神社

 江戸から日光への行路は、五街道の一つとしての「日光道中」の他に、「日光脇往還」があり、この脇往還は、現在の国道122号線沿いに今でも残っている。この道路は、往古より奥州への行路として利用されていたが、日光廟の建立に伴い、江戸から日光への参詣道としても利用され、「日光脇往還」と称されるようになった。行田、佐野を経由することから、「行田通(道)」「佐野道(路)」とも呼ばれていた。
 この道路は、江戸日本橋~鴻巣までは中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)-新郷-川俣-館林の4宿を経由し佐野(天明)に至り、佐野~日光までは例幣使道と重複する。このように、「日光脇往還」は、中山道と例幣使道の中継路としても機能していた。このため、この4宿を含む鴻巣~佐野間を「日光脇往還」と狭義の意味で称する場合もある。また、この間は「館林道」とも呼称されていた。
 現在明和町川俣地域を東西に二分している道路等が「日光脇往還」にあたり、道路沿いに川俣粟嶋神社は鎮座している。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町川俣671 
             
・ご祭神 少毘古名命(推定)
             
・社 格 旧佐貫村鎮守・旧郷社
             
・例祭等 春祭 41415日 厄神除 714日〜16日 
                  
秋祭 10910
 国道122号線を羽生市から北上し、利根川に架かる昭和橋を越えた先の「川俣」交差点を右折、その後突き当たりの丁字路を再度右折し、利根川堤防方向に南下すると、右手に真新しい川俣粟嶋神社の白い鳥居が見えてくる。高架橋である昭和橋のすぐ下に社は鎮座しているので、一旦通過してから下の道に合流した後、引き返すような経路説明となる。
        
                
川俣粟嶋神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「川俣村」の解説
 利根川左岸にあり、東は梅原村、北は大佐貫村、西は須賀村。日光脇往還が通る。利根川の渡し(富士見の渡)は元和二年(一六一六)の関東一六渡津の一つである(徳川実紀)。地名は利根川と文禄三年(一五九四)締切られた会の川が分岐していることに由来する。「館林城主記」によれば、慶長二年(一五九七)館林城主榊原康政により川俣村の堤ができたという。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方一四九石九斗余・畑方二五六石余とある。

 社の一の鳥居があるこの道沿い両側には、嘗て「
川俣宿」という宿場町を形成していて、大いに栄えていたという。
 元々川俣集落は、南北に走る旧日光脇往還を挟んで、両側に家並みが密集して形成されていて、これは江戸時代に宿場であった名残である。江戸時代には、本陣、脇本陣、旅籠屋などの宿泊施設や、荷物の運搬に要する人馬などを継ぎ立てる設備を備え、更に、南端の利根川沿いに渡船場、船着場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、利根川水運の河岸としても栄えていた。川俣宿は、寛永20年(1643年)付の古文書に「船渡やお伝馬(人馬の継立)があるので、諸役(種々の雑税)を赦免する」とあるので、この頃は宿駅として成立していたものと推定される。
 
   一の鳥居から長い参道(写真左)を真っ直ぐに進むと、二の鳥居(同右)が見えてくる。
 明和町の多くの社は南向きで、利根川に向かって建てられているのに対して、川俣粟嶋神社は東向きとなっている。江戸時代に繁栄していた川俣宿の守護神としての位置づけであったと考えられる。
        
                    鬱蒼とした社叢林の中に鎮座する社
 川俣渡船場は、元和2年(1616年)に、江戸防衛のための関東16定船場(渡津)1つに指定されている。この16定船場以外での旅人の渡船は禁止され、定船場においては、特に江戸からの出女・負傷者・不審者の厳重な取締が行われた。寛永8年(1631年)、13年(1636年)にも同様の取締り規定が公示されており、川俣の渡しは江戸防衛のための拠点の一つで、とりわけ出女の取締りが厳重に行われた。また、利根川の対岸・埼玉県側に関所があったが、その公称は「川俣関所」「新郷・川俣関所」であり、この事実も川俣が江戸防衛のための拠点であったことを物語っている。なお、渡船場から富士が美しく見え、庶民からは「富士見の渡し」と称されていた。
       
              社殿の前に一際目立ち聳え立つ御神木の黒松(写真左・右)
         明和町保護樹林指定樹木 所有者 住所川俣70 氏名 
粟嶋神社
         高さ 25m 目通り 217㎝ 指定年月日 平成28年12月12日
 
  参道左側にある神楽殿らしき建物。     右側の狛犬の基盤には「郷社 粟嶋神社」と
                         表示された社号額が置いてある。
 
 川俣河岸(船着場)は、江戸初期より廻米(年貢米)や材木の津出しの拠点として機能していたと言われている。元禄3年(1690年)に、幕府は関東10か国125の河岸について各種の調査を実施したが、川俣河岸はその対象になっている。また、明和・安永年間(176480年)に幕府は、関東全般にわたる河岸問屋の調査を行い、河岸問屋株を設定した。川俣においては、市左衛門(藤野)と又右衛門(福田)の二人に独占権が認められ、運上金も定められている。この河岸問屋2軒は、領主から廻米運送世話給を受けており、その世話は弘化3年(1846年)年頃は館林領43ヶ村のうちの27ヶ村に及んでいた。幕末から明治初期において、川俣河岸は特に繁栄し廻漕店も増加し、明治13年(1880年)には、運船が736艘あって、近辺の河岸の中では最高であったと記されている。以上のように、江戸時代に繁栄を極めた川俣宿は、明治40年(1907年)の鉄道の開通等により、その役目を終え、現在に至っている。
        
                    拝 殿
 創建時期、由緒等は不明。但し、社号額に郷社とあるので、格式の高い社であった事には間違いない。
 調べてみると、全国には淡島神社・粟島神社・淡路神社等、淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるというが、群馬県明和町に鎮座するこの社もそのうちの一社なのであろう。なんでも、江戸時代に淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がったとの事だ。
 淡島神は住吉神の妃神で、婦人病にかかったため淡島に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承もあるが、これは、淡島が住吉大社の社領となっていたことによる後世の附会と考えられている。このことにより、淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となったという。

『明和村の民俗』によれば、「旧佐貫村の郷社。春祭は四月十四・十五日。獅子頭はあるが 、ササラ獅子舞をした覚えはない。七月十四日〜十六日に厄神除、獅子頭をかぶって村中回ったことがある。去年から納涼大会をする。秋祭は十月九日・ 十日で、食い祭りだった。以前から十月十日に祭るが、オクンチとはいわない。境内に琴平さま、天神さま、富士岳さま、三峯さま、その他の末社がある」
明治四十三年の洪水以前には獅子頭の黄色い布の中に四人も入って舞うササラがあった。獅子頭は三頭分ある。棒術使いがいて、一本使いのササラだった。井口、千津井、斗合田ではササラが盛んで、郵便局で記念スタンプも作った」との記述があった。

*追伸
明和村の民俗』川俣地域の一説に、気になる文書があったのでここに紹介する。以下の文面だ。
川俣の粟島様が粟の畑に逃げ込んだ時、粟の穂で目を突いたから、粟をつくってはいけないので、かわりにキビを作った。」
 片目伝説に出てくる文面が、この川俣地域にも存在する。何を意味しているのであろうか。

        
                           拝殿上部に掲げてある扁額       
        
 
  拝殿の向拝部、及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている(写真上部、及び下段左・右)

 川俣粟嶋神社の祭事の一つに「厄神除け」がある。道路の東西から小学校五、六年生の男子が選ばれ、白衣を着て冠を付けた。祭り番が十軒ずつ代って当番になり、そこから男の子が出た。白衣を着た子が榊(さかき)に幣束を付けて持ち、手分けをして各戸を回る。「お祓いに来ました」といって座敷に上がり、座敷中を祓って回った。家の者はお賽銭として、お金をオヒネリにして上げた。額は二百〜五百円くらいだったが、各戸回ると、集まった金額の半分をその子供にくれた。八年ほど前から大人が出るように切り替えた。四組に二人ずつ八人が出て、四組で手分けして回る。最初リヤカー、今はトラックに太鼓を載せて叩きながら、村道を三回住復して後、毎戸を回ってお祓いする。神主も来て祝詞をあげ、午後回る。社寺総代(四人)の指示で祭り当番が働いた。以前は男が出たが、今は女性でもいい。賽銭は毎戸千円ずつもらい、集まった金額は祭典費にくり入れる。
 
  社殿左側には境内社(写真左)、石祠4基・及び猿田彦の石碑(同右)が祀られている。
               境内社や石祠の詳細は不明だ。

 当地には「禊・祓」の行事もあり、年二回、七月末と十二月末に人形を二尸一枚配る。神主が紙を切ってヒトガタを作り、世話人が隣組を通じて希望者に配る。ヒトガタには家族の名と年齢を書いて神主の所へ納めると、神主が拝んで、ミソカッパライをして利根川へ流し、厄を流した。以前は自分で川へ持って行って流した。その時、お跋いして、その幣束を丁字路(四っ辻ではない)のカドに立てるとのことだ。
 
 社殿手前で右側には合祀社や石祠・末社等が祀られている(写真左)。一番右側にある社は狐の置物があるので稲荷社である可能性があるが、その他は詳細不明。また境内一番北側にある塚上に祀られている社(同右)は『明和村の民俗』に載せられている富士岳(富士塚)であろうか。
        
              社殿から眺める長閑な境内の一風景 

『群馬県近世寺社総合調査報告書』粟島神社の項のよると、「創建年月不詳。社伝によると当神社は享保年間(171636)火災により本殿・拝殿及び由緒など焼失した。当社の創建は天正(157392)以前という。明治5年(187211月栃木県下第70戸籍区内10ヵ村の郷社に列した。同41年(1908)9月神明宮を合祀した」との事。また「東側に向いている拝殿から幣殿へと続き本殿(覆屋)が位置する。以前は南側の利根川の方から社殿に入っていた」という。


 

参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」「Wikipedia」
   

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