古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大正寺町豊武神社


        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市大正寺町272
            
・ご祭神 (主)誉田別命
                 
(配)建御名方命 倉稲魂命 保食命 大日孁命 日本武命 
                    
素盞鳴命 大物主命 手力雄命 大山祇命 別雷命
            
・社 格 旧村社
            ・例祭等 歳旦祭 天神梅花祭 115日 節分追儺式 23
                 春季例祭 43日 例大祭 1017日 他
:中町雷電神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を2㎞程東行し、国道462号線との交点である「徐ヶ町」交差点を更に直進すると、進行方向左手に大正寺町豊武神社が見えてくる。
 鳥居正面からは社に入ることができないため、一旦北上して回り込み、社の後ろ方面から境内に入ることができ、そこの一角に車を駐車させてから参拝を開始する。
        
             県道沿いに鎮座する大正寺町豊武神社
『日本歴史地名大系』 「大正寺村」の解説
 西は除(よげ)村、東は馬見塚(まみづか)村で、韮川が中央を流れ、日光例幣使街道が通る。 かつて地内にあった大聖寺(大正寺)が村名の由来という。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一一七石余・畑方一五五石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別二五町二反余、うち田方八町五反余・畑方一六町七反余。ほかに宝永七年(一七一〇)までの新田九石余があった。天保元年の年貢は米四三石余・永二二貫余、ほかに麦九石・大豆五石余を納めている。家数四三、男七九・女七六、馬一〇。柴宿助郷高二〇四石余(寛政八年「柴宿助郷村高等書上帳」関根文書)。明治三年(一八七〇)に松本宏洞らを中心として藩庁に郷学設立願(松本文書)が提出され、翌年村内の薬師堂に行余(ぎようよ)堂が開設された。
『日本歴史地名大系』 「除(よげ)村」の解説
 東は大正寺村、北は堀口村、南は富塚村。北方を日光例幣使街道が通る。古くは大正寺村と一村であったという(伊勢崎風土記)。大正寺地内にあった八幡宮と当地の飯玉神社の氏子の分裂によって分村したという。村名の由来は利根川の氾濫時避難地であったことによるとする説もある。当地域は稲作地帯でよい米がとれたという。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二〇一石余・畑方二七三石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別四〇町八反余、うち田方一五町七反余・畑方二五町一反余。
『日本歴史地名大系』 「富塚村」の解説
 東は下道寺村、北は除村、西は下福島村、南は八斗島村。利根川(七分川)が南西を流れていた。享徳の乱の時には上杉・古河公方両勢力の境目として戦場になっている。享徳四年(一四五五)四月四日の小此木(現佐波郡境町)の合戦で、足利成氏方の岩松次郎(持国長子)が「冨塚在所以下所々」の敵上杉方を掃蕩し、小柴刑部左衛門尉を討取っている(同年四月五日「足利成氏書状写」正木文書)。
『日本歴史地名大系』 「下道寺村」の解説
 韮川が中央を南流し、東は馬見塚村、南は長沼村。専修念仏の寺が創建され、真言・臨済・禅宗の信徒から外道とよばれたことから村名となったと伝える。日光例幣使街道が通る。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一四一石余・畑方一九七石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別三四町五反余、うち田方一二町余・畑方二二町五反余。ほかに宝永七年(一七一〇)までの新田九石余があった。天保元年の年貢は米三〇石余・永二八貫余、ほかに大豆七石・麦八石余を納めている。
 社は明治42124日、当時の大正寺村の「八幡宮」、下道寺村の「飯玉神社」、富塚村の「諏訪神社」、除ヶ村の「飯玉神社」、下福島村の「八郎大明神」を合祀し、新たに「豊武神社」と改称した。その際に、富塚の「ト」、除ヶの「ヨ」、大正寺の「タ」、下道寺の「ケ」を取ってトヨタケと命名したと伝えられたという。
 因みに下福島村の「八郎大明神」の本殿は豊武神社には合祀されず、八斗島稲荷神社に譲り受け移築していて、現在に至っている。その後八郎大明神は、昭和
45年(1970)に現在地へ分祀された。故に『日本歴史地名大系』も下福島村以外の四村を紹介した次第である。

 
 朱を基調とする大正寺町豊武神社の両部鳥居       鳥居の先にある手水舎と社の看板
        
           鳥居近くで道路沿いに設置されている社の案内板
        
                   境内の様子
 当社の例祭の一つである23日に行われる節分祭は、神社合祀をきっかけに明治四十四年に始まったと伝えられている。数え四十二歳男の大厄にあたる氏子が年男会を結成し、企画・運営をおこなう。氏子区域を袴姿で練り歩き豆を撒いて町内の厄を祓い、御神前で厄除の祈祷を受けた後、拝殿回廊から豆を撒いて厄を祓う。境内では様々な催し物が行われ、一日中賑わいをみせる当地の伝統行事となっているとのことだ。
 
     参道を進んだ右側には「豊武神社の道標」と記された案内板とその石像。
 豊武神社の道標
 豊武神社は、かつて大正寺村の八幡様が祀られていました。境内には、豊受地区で最も古い年号が記された道標が残されています。道標は、神仏への功徳になるものという理由から建立される場合が多かったようです。
 この道標は、二十二夜信仰にもとづき、正面に如意輪観音の座像が美しく彫られ、塔の右に「安永八己亥三月吉日」、左に「二十二夜供養」、そして台石正面に「村中男女」、台石左に「右ちゝぶ」(秩父)、「左日光」と刻まれています。安永八年は西暦一七七九年で、この道標は、以前、例幣使道沿いに建っていたと思われます。
                                      案内板より引用
 その左側には力石もあり、社では「合格力石」とも呼んでいる。浦風林右エ門(うらかぜりんうえもん)の相撲辻(すもうつじ)が幕末の文久元年(1861)に創設されたという記録があり、力士たちが持ち上げたと思われる、力石が95貫(356キロ)と刻まれているとのことだ。
 力がつくということで、天満宮の前で「合格力石」として登録されているという。 
       
                                        拝 殿                

 豊武神社
 鎮座地 伊勢崎市大正寺町二七二番地
 御祭神
 主祭神 誉田別命
 配祀神 建御名方命 倉稲魂命 保食命 大日孁命 日本武命
         素盞鳴命 大物主命 手力雄命 大山祇命 別雷命
 由 緒
 当社はもと八幡宮と称された旧社であるが、元和二年(一六一六)火災のため記録を焼失し、創建年代など詳細は不明である。しかし、その神威霊験はあらたかにして、近隣の村々で疫病が流行して多くの死者を出した時も、村内氏子中には感染した者はいなかったという。氏子らは当社の階段にあった竹弓手張を各戸口に掛けて祈願したので悪疫の侵害を免れたといわれ、この話が伝わると隣村の馬見塚や伊与久、下武士、茂呂、遠くは上植木、下植木や新田郡など十二カ村の人々からも信仰を集めたと伝えられている。
 現在の社殿は、慶応年間から始めた募金積立により明治二十四年に改築工事を起し、野州那須山の桧材を用いて翌二十五年に竣功、三十二年二月十五日に遷宮式が行われた。
 明治四十二年十二月十四日、五村の神社とその末社を合祀し、豊武神社と改称された。
・冨 塚(ト) 諏訪神社 八幡宮 神明宮
・徐 ヶ(ヨ) 飯玉神社 諏訪神社
・大正寺(タ) 八幡宮
・下道寺(ケ) 飯玉神社 神明宮
・福島     八郎神社 昭和四十五年十月十七日、地元住民の要望により元の地へ奉遷された。
 昭和六十二年には社殿、神楽殿の改修、社務所の改築と、かつて境内にあった天満宮(菅原道真命)を再建、十二月二十五日遷座祭が斎行された。
 宝 物
 獅子頭(雌雄)
 徐ヶ村飯玉神社境内の大ケヤキを安政三年(一八六五)伊勢崎城と姫路城及び城主酒井家の江戸屋敷の門扉と御殿の用材として献上した際の根株を淵名の弥勒寺義勝が彫刻し、伊勢崎城主酒井下野守忠強公が奉納したものと伝えられている。
 例祭日には「悪鬼除け」と唱えながら村内を巡回したという。
 龍の天井画
 拝殿には大正寺の教育者・文人画家松本宏洞作の天井画と、かつての「八幡大神」の鳥居神額が掲げられている。(以下略)
                                      案内板より引用
 社の社務所に貼ってあったパンフレットには「豊武神社の弓千張の伝説」がある。
 ある年、疫病が大流行し、周辺に多くの感染者と死者を出した。しかし、当社の氏子には感染者が出なかった。それは、氏子が当社の階檀にあった1,000張の弓を、各戸に1張ずつ掛け、祈願して悪厄の侵害を防いだという。
 又、かつての八幡宮は、源氏の守護神であったが、武神・軍神と崇められ、弓術者の信仰が特に篤く、弓術者の奉額も確認できるものだけでも、明治30年(1897)、明治45年(1912)、昭和35年(1960)のものがあったという。
 この伝説は、後に厄災除け、悪厄退散、スポーツ・技芸上達の神として信仰形態が変容したとの事だ。
 
           社殿の右側に鎮座する豊武天満宮(写真左・右)
       
         本殿奥に聳え立つご神木       境内にある巨木・老木
 
境内西北側隅に祀られている摂社・衣笠稲荷社  衣笠稲荷社の周辺にも多くの末社が祀られている。
        
                衣笠稲荷社や石祠が祀られている幟と木々に囲まれた一角



参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板及び豊武神社社務所 パンフレット」等
 

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八斗島稲荷神社

 群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に架かる坂東大橋の約800m上流付近で、八斗島チビッコ広場の手前で、集落から河川敷に出て来る道と堤防が交差する付近に『八斗島河岸』があった。大正初期の築堤により集落の南半分が河川敷内になってしまい現在河岸跡は残っていない。
 八斗島河岸の確かな設立年代は明らかでないが、安永四(1775)年の「上利根川十四河岸組合船問屋規定証文」に船問屋五十嵐四郎右衛門、同境野三郎右衛門がある。この河岸仲間は元禄期から営業しているもの以外の新興勢力を抑える意味を持っていたから、八斗島河岸設立も元禄時代あたりまでたどれる。ただし元禄期の古地図に河岸という名を使っていないので元禄以前にさかのぼることはないだろう。活動は明治十年代までであった。
 八斗島は天明三年の浅間山大噴火で七分川(柴町の西で現本流と分れた)が埋まるまでは、七分川が北に、三分川、烏川が南にある中州であった。泥流が七分川筋に流れ込んだため、河筋に面した集落の人達が死人を収容し、供養した石碑などが残っている。
 八斗島から本庄市山王堂間には、かつて渡しがあった(八斗島の南の東端当たりから山王堂まで)が、昭和初期に坂東大橋の完成により廃止された。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市八斗島町1406
            
・ご祭神 倉稲魂命 大宮姫命 大田命 大己貴命 保食命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 例祭 (陰暦)2月初午及び929
 伊勢崎市八斗島。この地域名「八斗島」は「やつたじま」と読み、なかなかの難読地名である。八斗島稲荷神社は、柴町八幡神社から五科橋に掛かる手前の「柴町」交差点を南方向に進路変更し、利根川に沿って進む通称「上武大学通り」を暫く道なりに進む。その後、群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に合流する手前の十字路を右折、800m程南下すると、進行方向右手に八斗島稲荷神社が見えてくる。地形を確認すると、利根川左岸の堤防が目と鼻の距離に見える集落内に鎮座していて、現在よりも氾濫の危険性が高かったであろう利根川水害から集落、そして宿場を守って頂きたいという地元の方の神にも縋りたいという切実な思いが、この社を眺めてみても感じることができる。
        
                 
八斗島稲荷神社正面
     一の鳥居である赤色の両部鳥居のすぐ先に神明系の二の鳥居が立っている。
『日本歴史地名大系』 「八斗島村」の解説
 利根川左岸に位置し、北は下福島村・富塚村、対岸は武蔵国児玉郡山王堂村(現埼玉県本庄市)。山王堂村と当村を結ぶ渡しがあったが、昭和六年(一九三一)の坂東大橋完成により廃止となった。那波氏の浪人境野八斗兵衛が慶長年中(一五九六―一六一五)に開き、村名は八斗兵衛に由来するという(伊勢崎風土記)。寛文二年(一六六二)の大水により柴町南を抜いた利根川(のちの七分川)が当村の北を流れ、もとは中洲上の村であった。
            
            鳥居の左側手前に建つ「稲荷神社由緒」
 
 「稲荷神社由緒」前に石尊大権現と道祖神     「稲荷神社由緒」奥にある力石と石碑
 力石の由来
 一、七拾五貫目の石(約281キログラム)
 明治三十年頃当神社の秋季大祭に当所住人吉野円三が境内に於てこれを担ぎ三間位(五.四メートル)歩いたという。
 一、四拾参貫の石(約161キログラム)
 同年代当所住人で力持ちの下記の人達が交代で神社の周囲を担ぎ歩いたという。
 石川伊之吉・境野民治・黒澤安兵衛・森田太郎・境野照吉
 一、吉野円三
 明治元年埼玉県児玉郡旭村大字三友に生れ後に八斗島に移り舟大工新井団次郎(半三郎の祖父)宅に同居して舟頭として明治三十年の洪水で家屋を流出して福島へ転居したという。
 一、力石
 元倉賀野より五料に移り当時舟頭で若者が力競べにこの石を担ぎ勝つ者が持って来たという。
 昭和五十二年六月吉日
 平成九年十二月吉日再建  八斗島稲荷神社総代
        
         鳥居から社殿まで、参道沿いには幾重の幟が立ててあり、
    すっきりと整備された境内の中で一直線に並ぶ幟はなかなか壮観な眺めである。
        
                    拝 殿
 稲荷神社由緒
 当社ハ天正年間今ヲ去ル四百余年前創立シテ当時那波城主大江顕宗奥州九戸戦争ノ際討死セシカバ其ノ民境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳ノ両人遺志ヲ奉ジテ当国利根川中州〇島ト云フ所悉荒野ヲ開拓シテ田野トナシ並二五穀五柱ノ神ヲ勧請シテ祭祀ス本社即テ之也 又地名改メテ八斗島ト云ヒ吉澄ノ子八斗兵衛宗澄・知徳ノ子ト共二其ノ志ヲ継ギテ耕耘〇鋤二怠リナカリシカバ衆人其ノ徳ヲ感ジ遠近ヨリ集リテ現今ノ如キ村落トナレリ 安政二年三月十五日名主五十嵐八兵衛・組頭五十嵐善兵衛・仝境野半右エ門・仝五十嵐茂兵衛・仝黒沢弥右エ門・仝境野三郎右衛門等ノ協力二依リ上棟スルヤ 稲荷神社鎮座祭神・倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命ノ神々ヲ祀リシモ現在ノ本殿ハ元下福島八郎神社デ間口一間奥行五尺ノ本殿ヲ明治四十三年村社指定トナルヤ豊武神社ト合併シ同四十三年八月大洪水ノ為戸数六十二戸全村床上浸水二テ県ヨリ見舞金トシテ金百圓也ヲ受ケ其ノ金ニテ当時世話人小暮幸次郎・境野誉三・境野吉之助・氏子総代境野長太郎・境野仙三・境野誉三・五十嵐弘次郎・黒沢東馬・社掌荻野美恭・仝牛久保瓶哉ノ相談ノ結果右下福島本殿ヲ金六拾圓也ニテ買求メ残金ハ雑費トシテ現在本殿二鎮座スルヤ軈テ当社ヲ稲荷神社ト尊稱シ其ノ徳ヲ表彰セリ爾来遠近相伝ヘテ豊作ノ神トナシ賽者常二絶エズ本社祭日ハ毎歳陰暦二月初午ノ日及九月二十九日両日也 本社ハ木造作リニテ桁十五尺五寸杉伐三面作リ破風造・向拝付茅葺十五坪二合二勺宅地ハ三百七十坪ノ民有地デアル
                                稲荷神社由緒石碑文より引用

 要約すると、八斗島町は利根川流域にある町で、元々は「稗島」という中洲であり、社は安土桃山時代の天正年間(15731592)の創立と伝わっている。当時、那波城主だった大江顕宗が奥州九戸戦争で討死し、その家臣である境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳の両人が遺志を奉じて、当国利根川の中州の荒野を開拓、その五穀豊穣の守護神として奉斎されたのが当社の起源との事。御祭神は、倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命の五柱。明治になり、村社に列し、明治43年(1909年)には神饌幣帛料供進社に指定されている。
 
        拝殿正面部             拝殿左側上部に奉納されている額
       
                    本 殿
 福島町八郎神社の項や、この社の由緒にも説明しているように、明治四十二年(1909)に八郎神社(伊勢崎市福島町)が豊武神社(群馬県伊勢崎市大正町)へ合祀された。その翌年に起こった大洪水の見舞金を元手に、福島町八郎神社の本殿を譲り受け、八斗島町の稲荷神社へ移築するに至ったようである。但し、本殿移転の夜に「大風が吹き荒れ雷鳴が轟いた」と伝えられている。その後福島町八郎神社は、昭和45年(1970)に現在地へ分祀され今日に至っているとのことだ。

  社殿左側奥に祀られている御嶽山神社     本殿奥には多くの稲荷像が置かれている
    溶岩塚の上に置かれている              白狐社如き祠 
        
             「鎮守の森達成記念碑」と蚕影山の石碑
 
         境内社・大杉神社             境内社・鵜戸大権現       
        
           社の北側道路沿いにある二十二夜塔等の石碑
 二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり、勤業や飲食を共にし、月の出を待つ月待ちの行事を行った女人講中で、供養のために造立した塔である。「二十二夜」の文字を刻んだものと、「如意輪観音」の像を刻んだものがある。「如意輪観音」は、富を施し六道に迷う人々を救い、願いを成就させる観音様として、江戸時代中期以降民間信仰に広く取り入れられ、二十二夜さまの本尊として女性の盛んな信仰を受け、また女子の墓標仏としても、各地に数多く造立されている。全国的には、二十三夜塔が最も一般的に認められているようだが、二十二夜塔は、埼玉県の北西部から群馬県の中西部域に濃密に分布しているという。
        
         八斗島稲荷神社遠景。遠くに利根川の堤防が見えている。



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書第十三集・利根川の水運」「日本歴史地名大系」
    「Wikipedia」「境内石碑文」等
 

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柴町八幡神社

 柴宿(しばしゅく)は、現在の群馬県伊勢崎市柴町にあった日光例幣使街道の宿場町。倉賀野宿から数えて3つ目で、「芝宿」と表記する場合もあった。
 現在の利根川は、川幅約500mだが、昔から流路が一定していたわけではない。旧流路と確認できるものでは、伊勢崎市街地を西から東に流れる広瀬川の川筋があり、江戸期・宝永2年(1705)以前には、柴宿南から戸谷塚・福島・富塚・長沼本郷・国領などの集落を北岸としての流路があった。
 しかし、この利根川は、たびたび洪水を起こすため新水路として、一部の水を現流路に沿い流した。この流路を三分川、前述の流路を七分川と呼んだ。しかし、天明3年(1783)の浅間山大噴火により七分川には、 水が流れぬようになり、三分川が主流となった。今でも柴宿西岸に小さな段丘崖を確認することができ、南には旧流路(七分川)であった低湿地が帯状にみられる。江戸中期項まで柴宿は、現地点より南方200300 mにあった。このため柴宿は、たびたび洪水に見舞れたのであろう。享保年間(171635)に、その地点より標高の高い今の地域に、村内の有力者たちが町割りを計画的に作りはじめ、その後の洪水で移ったという。今でもこの地域のいたるところに浅間山の溶岩と思われるものが見られ、浅間大噴火の規模の大きさが想像されよう。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市柴町693
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 節分祭 23日 八十八夜祭 52日(閏年では51日)
 中町雷電神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を北西方向に800m程進み、利根川に架かる五料橋の手前にある「柴町」交差点の手前の路地を右折すると、進行方向正面に柴町八幡神社の鳥居、及び社殿が見えてくる。地図を確認すると、利根川左岸で標高58m程の低地帯にあり、旧日光例幣使街道の柴宿に位置している。社の境内に隣接するようにある「柴町農事組合協同作業所」に駐車可能なスペースがあるので、そこの一角をお借りしてから参拝を行う。
        
                 柴町八幡神社正面鳥居
                     参道の両側には庚申塔が境内付近まで続く。
『日本歴史地名大系』 「柴町」の解説
 利根川左岸沖積低地にある。芝とも記す。北は東上之宮村・阿弥大寺(あみだいじ)村、東は中町、南は戸屋塚村、西は小泉村(現佐波郡玉村町)。もと北今井村・中町と一村。日光例幣使街道が通り、宿として賑った。「寛文朱印留」に北今井柴村とみえ、前橋藩領。寛文郷帳では北今井村・中町分も含み田方六六五石余・畑方八七五石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば、宝永七年(一七一〇)までの新田高七二石余。天保二年の反別六三町九反余、うち田方二四町四反余・畑方四一町四反余。年貢は米七二石余・永四九貫四二一文・大豆一四石・麦一四石を納めた。家数一〇三、男二二七・女二一〇。安永四年(一七七五)の市売紛争裁許請書(関文書)によると、煙草市が立ち武蔵国方面からも買付商人が集まり、沼田・前橋周辺の商人と盛んに取引が行われ、伊勢崎町の市場と対立、訴訟に及んでいる。
        
               鳥居を過ぎた先の参道の様子
  現在でも参道から境内地に至るまで嘗ての日光例幣使街道の発展の名残をとどめている。 
        
     参道を更に進むと神橋がポツンと見え、その右手には趣のある手水舎がある。
       
            参道を挟んで手水舎の向かい側にある「日露戦没碑」。
  石碑の足元には、天明3年(1783)浅間山噴火の際の溶岩塊がここにも残されている。
        
「日露戦没碑」の先にある境内社や「伊勢崎市指定重要文化財 柴町八幡神社社殿」の案内板
 伊勢崎市指定重要文化財 柴町八幡神社社殿
 平成十六年十一月三十日指定
 柴町八幡神社は、拝殿・幣殿・本殿からなる権現造の建築様式である。
 本殿は正面九尺の一間社流造で、建築は棟札から享保十年(1725)まで遡り、虹梁の絵様や蟇股の細部意匠はさらに古式を示し、拝殿にある延宝七年(1679)の扁額まで遡る可能性がある。
 拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造の建物で、天井画は鈴木不求・春山・松山の三代にわたる伊勢崎藩絵師が描く。
 本殿内に鎮座する内宮は、切妻造柿葺きの宮殿で保存状態は良く、享保十年の本殿修理頃の制作と考えられる。
 この神社は十八世紀初期の伊勢崎地方の近世社寺建築の優れた指標を示し、社地は参道を含め、旧日光例幣使道柴宿の歴史的景観の名残をとどめる。
                                      案内板より引用

       
                    拝 殿 
 柴町八幡神社は源賴義が奥州征伐の途中に柴村で休息された際、八旗の森という地名に因み八幡大臣へ戦勝を祈願した。その帰途に世子八幡太郎義家と共に康平6年(1063)社殿を造営し、八大臣を山城国(現京都府)男山石清水から勧請奉斎し、社領10石を寄進されたのを起源とする。翌年8月中御冷泉院御辰筆「八幡大神」の神号額を賜ったが、元亀年間(15701573)に兵火のため焼失。慶長18年(1613)前橋藩主酒井雅楽頭忠世により再建され、更にその世子忠行が大阪の陣で戦功をあげ益々修理が加えられた。その後伊勢崎藩主酒井氏により社殿の営繕がなされた。明治40年(1907)、菅原神社、琴平神社、秋葉神社、水神神社、火雷神社を合祀、柴根神社と称したが大正6年(1917)、旧に復し八幡神社とし、現在に至る。また明治4年(1871)、近隣に式台社が多く、郷社格のところ村社となっている。
 文化財指定 柴町八幡神社社殿(市重文 平成1611月) 

向拝部・木鼻部には精巧な彫刻が施されている。 由緒書きが奉納、ほとんど読み取れなかった。

 拝殿には、正面3間、側面2間の入母屋造鉄板瓦葺平入で正面に1間の向拝を建てる。三方に切目縁を廻し板脇障子を建てる。正面に千鳥破風、向拝に軒唐破風を付ける。虹梁の絵様は装飾が進み眉の彫は深く、海老虹梁は反り段差をつけて架けられている。向拝手挟、木鼻、軒唐破風の彫刻は丸彫、透し彫などで精巧に彫られている。蟇股は足が長く反らず、内部の彫刻は板よりはみ出ている。以上の特徴から建造年は本殿より後の18世紀後期の様式を表しており、その頃の棟札には安永7年(1778)と寛政9年(1797)棟札が残されている。
       
                    本 殿
 本殿の平面は一間社流造で1間の向拝を持ち、四方切目縁に板脇障子を立て、比較的中規模である。当初は檜皮葺であったが大正10年(1921)銅板葺きに、昭和62年(1987)に鉄板瓦に改修されている。また本殿内部には小規模な宮殿が置かれている。
 建造年を直接記すものはないが、享保10年(1725)遷宮の棟札により、17世紀末~18世紀初期に建築されたものと考えられる。向拝や身舎正面の蟇股や虹梁の唐草様、海老虹梁がやや段差を付けて架けられていることからも推定できる。また、安永7年(1778)の棟札には再興とあり屋根と土台の入替を行っていて、大工棟梁の名に歓喜院聖天堂を手がけた武州の林兵庫の名が見られる。

  本殿左側奥に祀られている境内社・神明宮       神明宮の東側に祀られている末社・石祠群
       
             本殿右側に祀れている境内社・稲含神社 
 伊勢崎市柴町の街道北にある八幡宮には每年八十八夜の日に行う稲含祭りが残っている。中世この地を支配した那波氏の屋敷稲荷を、没落後放置されたままであったので泉龍寺が引きとって文久年間に稲含様として祭ったと言われている。明治元年の神仏分離令で泉龍寺から離れ、明治34年の合祠によって現在の八幡宮に祭られることになった。何年か前までは遠く県内はもとより関東一円からお札を受けにきたので足のふみ場もないほどの盛況であった。今でも境内から柴町の道路まで農器具や苗木商が立ちならび、近隣の村々からの農民でにぎわっている。ここのお札を買うと養蚕があたるとか、作物があたるとか言われている。
       
         稲含神社の右側並びには石祠群が祀られている。詳細不明。
       
                  境内にある神楽殿 
            神楽殿の左側には相撲用の土俵も確認できた。
        
                社殿から参道方向を撮影
 ところで、例幣使の派遣は幕藩的支配の安定の上で重要な役割を担っていたといえるが、この街道を本来の目的のためだけに使用するのは、季節限定された、わずか1ヶ月足らずのことであった。それでは他の期間は何のために利用されていたかといえば、当たり前の事ではあるが、沿道周辺の人々の 「生活道」であり、 商人たちの「経済道」であり、文人墨客らの通った「文化道」であったに違いない。
 そして、何よりも江戸中期以降の経済的繁栄に伴なう物資交流の活発化や庶民の遊山熱などを背景として、権力者の意図と違った意味あいの利用が目立つようになったという。


 参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」「日光例弊使街道HP」
     「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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戸谷塚諏訪神社

 
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市戸谷塚町335
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線沿いに鎮座している福島町八郎神社から300m程西方向に進むと「戸谷塚町住民センター」があり、その南側に隣接して戸谷塚諏訪神社は鎮座している。社と戸谷塚町住民センターの間には十分すぎる駐車スペースがある。
        
                 戸谷塚諏訪神社正面
『日本歴史地名大系 』「戸屋塚村」の解説
 利根川左岸にある。外屋塚とも記す。寛文二年(一六六二)の大水により、村の中央で南北に分断された。柴町・中町の南に位置し、東から南は下福島村、西は利根川を挟み沼之上村(現佐波郡玉村町)。寛永二年(一六二五)当村六一石余が渡辺孫三郎に、一五〇石が石丸六兵衛尉に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では高六五二石余ですべて畑方、前橋藩領・旗本渡辺領など四給。元禄郷帳では幕府領・旗本藤川・渡辺領の三給。近世後期の御改革組合村高帳では家数三七。日光例幣使街道柴宿の助郷高九二石余(寛政八年「柴宿助郷村高等書上帳」関根文書)。
       
                            戸谷塚諏訪神社正面の両部鳥居
       
                    拝 殿
 由緒等を記した案内板は見当たらないが、建久4年(1193年)に鎌倉幕府の政所初代別当・大江広元の庶子である那波宗元(大江政広)が那波郡佐味郷を領有した際に、信濃国の諏訪大社から勧請したのが創祀といわれる。
 那波氏(なわし)は、日本の氏族のひとつ。上野国那波郡(現・群馬県伊勢崎市、佐波郡玉村町)によった武士で、藤原秀郷系と大江氏系の流があった。
 那波郡に先に入ったのは藤原秀郷の子孫の那波氏である。藤原秀郷の子孫で佐貫成綱の子・季弘を祖とする。保元の乱には那波太郎季弘が源義朝軍に参加したが、元暦元年(1184年)那波弘澄(広純)が源義仲にくみして戦死し、一族は衰亡する。
 その後、藤姓の那波氏に代わって那波郡を領したのが大江氏系の那波氏で、大江広元の庶子である大江政広(那波宗元)を祖とする。『系図纂要』では、藤姓那波氏の那波弘純の子・宗澄に子がなかったため、政広は弘澄の娘婿となって那波氏を称したという。
[上野國志 智那波郡]
 按二、昔時那波氏二家アリ、一家ハ藤原秀郷ノ後、淵名大夫兼行ガ二男成綱ガ子那波二郎季廣ト云、其子ヲ太郎廣澄ト云、〈泉竜寺ノ開基ナリ〉其子家澄孫景澄ノ後聞ルコトナシ、〈東鑑建久六年二、那波太郎アリ、コレ広澄ナルベシ、又那波彌五郎ト云アリ、コレラ藤氏ノ那波ナルベシ、大江氏ノ那波ハ、年代ヲ以計ルニ、コレヨリ後ノ封ナルベシ、又考ル二、大江廣元ガ三男政廣、始封ヲ那波二受ク、政廣兄弟ノ次弟二於太郎ト称スルコトナルベシ、〉一家ハ大官令大江廣元ガ第三ノ子掃部助政廣、〈始名宗元〉始テ頼朝卿ノ封ヲ受テ那波ヲ領ス、其子左近大夫政茂、関東ノ評定衆タリ、ソレヨリ子孫相続シテ那波ヲ領ス、〈又按藤氏ノ那波衰微シテ、後二大江氏ノ那波其地ヲ兼子併セシナルベシ、)
今ノ村落四拾四村、租入貳萬千八佰拾参石参斗壱升貳合、
        
          拝殿向拝部、並びに木鼻部の細やかな彫刻が眼をひく。
        
                    本 殿
          本殿彫刻は武州下手計出身大谷政五郎秀国という。
 江戸の中期から後期にかけて、渡良瀬川に沿った「あかがね(銅)街道」と、「日光例幣使街道」沿いには、日光東照宮や妻沼歓喜院聖天堂の彫刻に携わった上州彫刻師集団が存在していた。その中でも上州花輪(現在の群馬県みどり市花輪)出身で、徳川家の公儀彫刻師で石原家、後藤家、石川家、小沢家などの流派を起こし徳川家ゆかりの寺院(増上寺および寛永寺)の霊廟に装飾彫刻を施したという高松又八(?~1716年)の弟子たちは、妻沼の聖天堂をはじめ、北関東を中心に多くのすぐれた作品を残している。
 大谷政五郎秀国は、深谷市下手計出身の彫刻師で、高松又八の弟子たちの一人である。秀国の他、正信とも名乗る。師匠は初代・磯辺儀左衛門信秀。埼玉県の小川町にある八宮神社では二代目・石原常八主信を大棟梁に、脇棟梁として大谷政五郎の名前が記されている。
 大谷政五郎関連の作品として、安養院地蔵堂(深谷市高島)、妙光寺本堂(深谷市下手計)、源勝寺(深谷市岡部)、平石馬頭尊堂(秩父市吉田久長)、八宮神社(埼玉県小川町)、摩多利神社(熊谷市妻沼)、慈眼寺(甘楽郡南牧村)、蛭川家の大黒天(深谷市下手計)等のほか、戸谷塚諏訪神社の本殿彫刻にも携わっている。
        
             本殿奥に祀られている末社群、庚申塔等
        
           戸谷塚町住民センターの駐車スペースから社殿を撮影   
        
       社の正面鳥居の左側には「日露戦争記念碑」が溶岩塚上に建っている。

 ところで、日光例幣使街道と利根川に挟まれた戸谷塚地域内で、戸谷塚諏訪神社のすぐ東側に「観音寺」があり、そこには、「浅間山大噴火の供養塔」や「夜なき地蔵」が祀られている。
        観音寺全景             観音寺の境内に建つ供養塔等
 1783 (天明3 )78日の浅間山大爆発は少なくとも千数百人の人命を失った大悲惨事をひきおこした点において有史以来郷土としては最大の天災であったと言われている。急に泥流に押し流された吾妻川沿いの人々は家もろとも利根川に押し出された。局熱の泥流に加えて酷暑の夏のことだったから、その死骸はほとんど腐乱して下流のあちこちにうち上げられたものが少なくなかった。特に伊勢崎市戸谷塚区域の利根川浅瀬一帯には多くの死骸が打ちあげられた。この地区も被害を受けたが気の毒なこれらの無縁仏を手厚く葬ったそうだ。夜になると死人のうめき声がするのでよく成仏できないと思い、戸谷塚の人たちは身銭を出しあって1784 (天明4)年11月に地蔵様の供養塔を建立した。するとうめき声がしなくなったと言われている。伊勢崎市長沼町にも供養塔が、境町中島にも流死者の墓がある。
 今でも観音寺のお祭りの旧109日に供養塔の祭りもするため、被害者の多かった鎌原•長野原町から供養に見えるという。
 また供養塔の地蔵には赤いおかけがかけてある。周辺地区で泣きぐせのある赤ん坊の家はこの赤いおかけを借りて赤ん坊につけると泣くのがやんでしまうという伝承がある。 
        
              「浅間山大噴火の供養塔」の案内板
 浅間山大噴火の供養塔
 天明三年(一七八三)七月八日(新暦八月五日)、浅間山の大噴火が起こり、吾妻郡鎌原村は、一瞬のうちに埋めつくされてしまいました。火口から流れ出した火砕流は、吾妻川から利根川へと流れ下りました。
 このときの噴火で、利根川べりの戸谷塚村にも多数の遺体が打ち上げられました。村の人々は、この遺体を手厚く葬りました。
 しかし、夜な夜なすすり泣く声が聞こえたので、無念の死をとげた人々の霊を慰めようと、天明四年十一月四日に地蔵尊を建立したところ、泣き声はやみました。この地蔵尊は「夜泣き地蔵」と呼ばれ、今でも大切に祭られています。
 平成十七年三月  
 例幣使道まちづくり会議
                                      案内板より引用




参考資料「上野國志」「日光例幣使街道HP」「日本歴史地名大系」Wikipedia」
    「戸谷八商店HP」「境内案内板」等

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中町雷電神社

 現在の利根川は、川幅が約500m程だが、昔から流路が一定していたわけではない。旧流路と確認できるものでは、伊勢崎市街地を西から東に流れる広瀬川の川筋があり、江戸期の宝永2年(1705)以前には、柴宿南から戸谷塚、福島、富塚、長沼本郷、 国領などの集落を北岸として流路があった。
 しかし、この利根川は、たびたび洪水を起こすため新水路として、一部の水を現流路に沿い流した。この流路を三分川、前述の流路を七分川と呼んだ。しかし、天明3年(1783)の浅間山大噴火により七分川には、水が流れぬようになり、三分川が主流となった。今でも柴宿西岸に小さな段丘崖を確認することができ、南には旧流路(七分川)であった低湿地が帯状にみられる。
        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市中町57
              
・ご祭神 大雷命
              ・
例祭等 例祭 915
 福島町八郎神社から群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線を北西方向に600m程進むと、国道354号線との交点である「堀口町」交差点に達し、その交差点を左折する。国道354号線は通称「日光例幣使街道」とも呼ぶようだが、この国道を西行し、750m程先で国道が右カーブに入り始め、幹線道路と交わるY字路の内側に中町雷電神社は鎮座している。
 境内北側には駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。 
        
                 中町雷電神社正面
 伊勢崎市中町は、利根川左岸に位置し、現在の行政区域では南北900m程・東西1㎞程の区域の他、その東側に一カ所、及び南側にも一カ所と、飛地があり、中町雷電神社はその南側飛地に鎮座している。嘗ては現在の地よりも北側の今井地域に鎮座していたらしいが、文政三年(1820)にこの地に移ったという。
        
           豊かな木々に囲まれた中に社殿は建てられている。
     周辺一帯宅地化が進んでいる中、この境内には一時の静寂感が広がっている。

中町地域の西側には「柴町」地域があり、この地はかつて柴宿(しばしゅく)という日光例幣使街道の宿場町であった。この柴宿を調べるとその記述の中に中町という地名が出てくる。
 柴宿は、宿場町としては4町から5町程度の小規模なものであった(1町は約100m)。しかし、柴宿の東側に「加宿」と呼ばれる付帯的な宿場町として中町・堀口が連なり、全体として14町余りのかなりの規模の宿場町を構成していた。本陣は柴宿にあり、代々の関根甚左衛門が勤めた。問屋場は、柴宿および加宿中町・加宿堀口が10日ごとの持ち回りで負担したという。当初、柴宿付近の日光例幣使街道は一直線であったが、1729年(享保14年)に柴宿が北に移転し、中町・堀口との間で枡形が構成された。宿場町の成立時期が明確になっていることは珍しく、またこの経緯から、柴宿エリアは自然発生的な宿場町ではなく都市計画に基づいて作られたという特徴を持つ。        
        
        境内に設置されている「中町雷電神社建設寄付者御芳名」碑
          この石碑の裏面には社の簡単な由来が記載されている。
 改築に寄せて
 雷電神社(祭神・大雷命)文政三年(一八二〇年)に中町字北川原(現在の今井町)から現在地へ奉還されて以来一八〇年余り 中町は雷電様のご加護の下に平和と繁栄が守られて来ました 社殿の老朽化のため改築をする事に成り平成十八年十月建設委員会を設置し、多くの皆様のご協力により完成する事が出来ました。
 ここに関係者各位のご協力と努力に対しまして御芳名を石碑に刻し謝意といたします(以下略)。
                                   改築記念碑文より引用

        
                    拝 殿
        
       拝殿正面の左右の壁には龍が浮き彫りされている(写真左・右)
 
     拝殿左側に祀られている石祠       社殿左側奥に纏めてある庚申塔群等
         詳細不明          庚申塔の他に馬頭観音・道祖神・石祠もあり。
        
             参道を入ってすぐ右側にある巨大な溶岩塚
     塚上には石祠もあり、昔から氏子の方々にとって祀る対象であったのだろう。

 この塚は、天明3年(1783)の浅間山が大噴火した際の溶岩塚であり、頂上に石祠が建立されている。この地域周辺の至るところに浅間山の溶岩と思われるものが見られるのだが、いかに浅間大噴火の規模の大きさが想像できよう。このような大噴火の痕跡を先人が大切に残してくれたことに対して感謝の念を感じずにはいられない。


参考資料「日光例幣使街道」「Wikipedia」「境内改築記念碑文」等
 

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