古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

飯野長柄神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大字飯野555
            
・ご祭神 事代主命(推定) 
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 水神祭(燈明あげ、水害封じ)619日・819日・919
                 
夏祭 715日に近い日曜日 祭礼引継式 9月最終日曜日
                 
お日待 1015
 高鳥天満宮から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を2.6㎞程西行、谷田川排水機場の150m程東側で、利根川左岸の堤防が目の前に見える場所に飯野長柄神社は鎮座している。
 この社は、グーグルマップや群馬県神社庁のHPでは「長柄神社」になっているのだが、板倉町HPでは「長良神社」となっていて、今回、群馬県神社庁を尊重して長柄神社として紹介する。
        
                 
部落を背に利根川の堤防に向って鎮座している飯野長柄神社
『日本歴史地名大系』 「飯野村」の解説
 利根川と谷田川の間に立地し、東は大久保村・高鳥村、西は斗合田村(現明和村)、北は谷田川を挟んで板倉村・岩田村。天正一二年(一五八四)一二月二一日の北条氏照禁制写(松雲公採集遺編類纂)は飯野郷に宛てて出されている。「関八州古戦録」によると、豊臣秀吉の小田原攻めに際しては、飯野の領主淵名上野介は北条氏にくみして館林城を守っていた。
 飯野城は飯野地域の集落南部にあり、北・東・南は低湿地であった。東西約200m、南北約170mで、現在は耕地整理によって完全に消滅していまっている。館林に属した淵名上野介の居城であり、「北越軍記」に永禄3年(1560)上杉景虎(謙信)飯野城を屠るとある。
 天正12年(1584)小田原北条氏が攻め込んできたときには下野国足利城を守り、天正18(1590)豊臣秀吉の小田原征伐では館林城を守っていたという。
        
                    拝 殿
 板倉町・飯野地域は、高鳥天満宮が鎮座する大高島地域と同様に大箇野地区に属している板倉町でも南部にあり、利根川左岸に接している地域である。
 飯野長良神社は旧飯野新村鎮守社で、旧村社。部落を背に利根川の堤防に向って社殿がある。その境内の水神様(水天宮の文字あり)は初め利根川の堤防の上にあったが、明治43年の洪水では水神様のところで水が止まったといい、年3回の祭をする。年3回の祭りが6月・7月・8月と相ついでそれぞれ19日・20日に行われるのも、これらの月が最も洪水の出やすい月でもあるからという言い伝えもある。
 かつて神祇道管領當長上従二位ト部朝臣なる人物より正一位大明神として認めるという認定書が確認されている。また、この地方では葦毛の馬を養うことと竹の箸を作ることも禁じられていたが、許可されたことが享保10116日祝詞奉上の際の一文に記されている。明治43年の大洪水には目前の利根川の決壊により神社も押し流されたとのことである。
 
        社殿の近くにはご神木のような巨木が聳え立つ(写真左・右)
 この社には獅子舞も奉納されていた。
流派は「助作流」と称している。一人立ちの風流獅子である。道ゆきの構成は旗・弓・柏子木(六人)・万燈二人・笛五人・獅子三人の順序で進み、曲目は「かんむり 弓がかり 三本づくし 社切り すがわき」の五種目になっている。獅子の扮装は籾谷地域と似ているが動作では小掛けに両手を通して、パッパッと勇壮にやる点がよく似ている。実演は鎮守の境内で行われたが、最初道ゆきから見た。ここでは「すり込み」と称している。「ささらをする」というのが獅子を舞うという意味であるからそれから実演に移るということで「すり込み」とよぶ。
         
                   境内にある力石
      神社前には力石 (約20貫)があり戦前まで若者による『新村のササラ』
           (力比べ)が盛大に行われていたとの事だ。

 この獅子舞は、定時の上演は毎年六月十五日であるが、昔は厄病除けに舞われた。曲目のうちの「かんむり」では、雌獅子が後に出、雄獅子二が前に並んで演じられた。腰太鼓は雌獅子だけがバチで打ち、雄獅子はバチで調子をとるだけ(叩くまね)であるが、そのかわり小掛の両端を持って、すばらしくダイナミックな動きを見せる。三組の中でも最も力の入ったもののようである。次ぎの「三本づくし」という曲目では、ボンゼン(梵天ともいうが御幣束のこと)を三本社前に立てておき、これを三頭の獅子が代わる代わる奪いとろうとするドラマである。最初近寄ると幣束の神威ではね返えされ、モンドリ打つ真似さえある。二回三回と奪いとろうと掛るとこが見もので、最後にはこれを手にし、共に喜び合うという筋であるが、笛と腰太鼓のリズムによって演じられるだけになかなか興味ふかいものがあった。その間の激しい動作は驚くべきもので、よほどの体力がない限り堪えられないと見えた。歌詞は全然使われず、古老から聞いても昔からなかったといってた。曲目が少なくなっているのは、長い間に省略されてきたためであろうと思われる。夕暮の黒い帳がシットリと降りかかった境内でみたこの獅子舞はたしかにすばらしい獅子舞本来の降魔の一面を伝えるはげしいものだったという。
 この地域の獅子舞は、昭和40年以降は踊り手の後継者が無く現在では中止されているとの事だ。
        
             社殿の左側に祀られている石祠・石碑群
板倉町HP」では、水天宮(天明7年)・大杉神社(文化4年)・八大龍王神(弘化3年)・琴平宮(明治36年)・愛宕山(文化2年)・仙元大菩薩の石祠が祀られているとのことだが、実見したところでは、左から2番目が愛宕山、3番目が琴平神社と分かる以外は解読不可能であった。



参考資料「日本歴史地名大系」「板倉町HP」「群馬県邑楽郡板倉町の民俗」
    「ぐんま地域文化マップHP」等

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高鳥天満宮

 当社の創建は不詳であるが、同神社の縁起によれば、延喜元年(901)菅原道真が九州大宰府に左遷となったとき、臣で出羽国の人岩下勝之丞が、大宰府への随行を許されず、止むなく道真の自画像を賜り帰国した。のちに文暦元年春、後裔の岩下勝之進がその画像を携えて京都北野天満宮に参詣の帰途に投宿し鳥が飛来してやまない此の地に、一社創建を発願し国主に請いて高鳥の地に建立し、公の自画像を安置したと伝えられている(『板倉町史通史下巻、上野国郡村誌17』)。天正一八年(1590)頃天徳寺了伯(佐野城主宗綱の弟)の発願により、例大祭に能楽が行われたが、昭和初期には中止となっている。戦前まで身体の弱い子は当社に詣で、天満宮の弟子として五歳から七歳まで天神奴となった。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大高嶋1665
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧高鳥村鎮守・旧郷社
            
・例祭等 節分祭 23日 例大祭 2月最終日曜日 夏越大祓 7月下旬
                 
新嘗祭・七五三詣 10月第4土曜日 他
 板倉町大高嶋は、南境には日本最大の流域面積である利根川が、また北境には谷田川が流れ、豊かな水資源と自然環境に恵まれた平坦地である。斗合田長良神社から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を3.5㎞程東行すると、進行方向左手に令和23月をもって閉校となった「板倉町立南小学校」が見え、その先の信号のある交差点には「高鳥天満宮」「天神池公園」の看板が見えるので、そこを左折し暫く進むと正面に高鳥天満宮の一の鳥居が見えてくる。
 実際には、2025121日に海老瀬一峯神社から高鳥天満宮に行ったのであるが、その経路説明がややこしいので、分かりやすい斗合田長良神社からの説明となった次第である。
        
                
高鳥天満宮正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「高鳥村」の解説
 谷田川右岸にあり、北は谷田川を挟んで海老瀬村、東は下五ヶ村、南は島村・大久保村、西は飯野村。当村南東方の宇那根(うなね)集落について、明徳二年(一三九一)七月二日の藤原氏女譲状写(正木文書)によれば「上野国さぬきの庄うなねの郷たての村ニ、在家仁間、はたけ弐町弐反、あら田弐町」が松犬御前に譲り渡されている。うなねは高鳥の宇那根と下五箇の宇奈根と二集落あるが、宇那根と宇奈根は隣接し一集落と同様である。江戸時代の石仏には、集落名の下に宇那根・宇奈根の村名が刻まれているものが多く、往古独立村であったと思われる。
 
         朱を基調とした一の鳥居を過ぎ、参道を進み(写真左)
           階段を登ると正面に二の鳥居が見える(同右)
        
             石段を登った先で参道右側にある神楽殿
 神楽殿は入母屋造瓦葺妻入で、境内の南東に西向きに開いて建つ。基礎は自然石を並べ、その上に土台を廻し、床を3尺ほど上げる。差鴨居で柱を固め、軒はせがい造にして庇を深く出す。彫刻は差鴨居に渦と若葉と梅の木の絵様、縁の持送に施す。建造年を示す資料はないが『明治8年社寺便覧』に現神楽殿と同規模の建物を記す。また、『上野名蹟図誌』に、姿が描かれている。このことから、江戸末期に建てられていたと考えられる。
 神楽殿では神話をもとにした「高鳥天満宮太々神楽」や、郷土色豊かな「里神楽」が、元旦祭や例大祭、夏越の大祓に奉納される。例大祭に舞う「高鳥天満宮太々神楽」は、町の指定重要無形民俗文化財である。神楽殿を保存し御神楽が継承されることは、歴史的文化を伝える上で非常に重要なことである。
        
                    拝 殿
 拝殿は入母屋造平入、正面に1間の向拝を付ける。組物を出組、柱頭の木鼻は獅子・獏の彫刻を施し、中備も出組とする。縁を三方に廻し、腰組は縁束の上に台輪を置き出三斗組で支え、縁葛の下に詰組の斗を設ける。天井は格天井とし、百人一首の天井画が99枚描かれている。絵師は上田正泉、小林悦道、堀江柳泉の名が墨書きされ、すべての絵に寄進者名が記されている。
 拝殿は嘉永元年(1848)の棟札があり、棟梁、彫工が記されている。大工棟梁・仕手方は邑楽郡内の職人が中心となり建築し、彫刻は栃木市の渡辺喜平次宗信やみどり市花輪の彫刻師石原常八重信が手掛けている。向拝柱や水引虹梁の梅の浮彫は美しく、中備の龍の彫刻や手挟の籠彫、海老虹梁の丸彫龍は見事な彫刻である。
当社には、彫刻雛形帳が残っている。表紙に「弘化5年(1848)正月」と「天満宮拝殿 彫物雛形帳」の記載があり、同年(嘉永元年)拝殿建立時の彫刻雛形である。平成12年(2000)に社殿と共に、町の重要文化財に指定されている。
 室内には社殿を建築した時の様子を描いたとされる絵馬(天満宮本殿建築図)が飾られている。嘉永元年(1848118日上棟と記されているという。現在、経年でくすみ、絵の詳細は確認できないが、上棟の職人の様子など細かく描かれた珍しい絵馬で、北尾重光作である。この絵馬は携わった棟梁などが、上棟を祝して奉納したとものであると伝わる。
        
              拝殿上部に掲げてある奉納額・扁額等
        
                    本 殿
 本殿は、一間社流造(1.65m)、1間向拝付、側面1間(1.61m)、瓦棒銅板葺である。自然石切石を4段積みにした基壇に切石基礎を敷き、亀腹石の上に土台を廻し、柱を立てる。三方に廻らす縁は、身舎の柱からの持送材が組物を受けて支えている。側面と背面の木鼻は彫刻の獅子とする。虹梁の絵様や獅子の木鼻より江戸末期の様式が伺える。よって拝殿と同様の時期に建造されたと考えられるという。
        
   「板倉町指定重要文化財 高鳥天満宮社殿 付棟札・彫物雛形帳・絵馬」の案内板
        
        本殿奥に祀らてている境内社 左から
浅間神社・六社合祀社
 六社合祀社は、長良神社・琴平神社・稲荷神社・厳嶋神社・八雲神社・多賀神社六社の合祀社である。一間社流造(1.07m)、側面1間(0.8m)、1間向拝付銅板平葺である。全体は朱塗であった痕跡が見られる。切石の上に土台を敷き丸柱を立て腰貫・頭貫で固め、切目・内法長押を廻す。正面に浜縁を置き木階5級を設け、縁を三方に巡らし、逆蓮柱の高欄を付ける。側面と背面に嵌め込まれた彫刻は、全体に力強い彫である。当建物は17世紀後期の特徴を残しながら、木鼻が漠や獅子の彫刻へと変わっていく過渡期の建物で18世紀前半頃の建物と考えられている。
 
      本殿奥にある宝篋印塔            宝篋印塔の奥には心字池
                       冬時期故に水は抜かれているのであろう。



参考資料「日本歴史地名大系」「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「群馬県邑楽郡板倉町の民俗高鳥天満宮HP」「境内案内板」等

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海老瀬一峯神社

 板倉町海老瀬は、嘗て室町時代中期に戦国時代の幕開けとなる、享徳三年(1454年)12月から文明十四年(1483年)11月までの28年間という長きに渡って混乱した「享徳の乱」という大乱の中での激戦の一つといわれている太田庄の戦いの舞台となった地である。
 長禄3年(1459年)、関東管領上杉房顕は、五十子に城砦を築いて持朝・房定・教房・政藤ら一族の主だった者たちを結集させた。これを知った足利成氏は五十子に攻撃を加えようとして出撃した。1014日、両軍は近くの太田庄で交戦した。この結果、上杉教房が戦死するなどの打撃を受けた。
 その後、上野の岩松家純・持国が上杉軍に加勢するとの報を得た上杉房定・政藤は翌日利根川を渡って上野側に陣地を張る古河軍を羽継原(現在の群馬県館林市)・海老瀬口(同板倉町)にて攻撃をかけるが、再度敗戦した。上杉軍は大打撃を受けたが、古河軍も撤退したため五十子は上杉軍の手に確保され、以後房顕はここを拠点として長期戦の構えを見せ始めたという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大字海老瀬885
             ・ご祭神 天津児屋根命 大日孁命 大物主命 大山咋命
             
・社 格 旧海老瀬村総鎮守・旧郷社
             ・例祭等 例祭等 例祭 919日(*板倉町の民俗参照)
 加須市の小野袋八幡神社の東側で、渡良瀬遊水地のそばを南北に通じる栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道9号佐野古河線を北上する。利根川上流河川事務所管内で一番新しい排水機場であるという「谷田川第一排水機場」が進行方向左手に見え、その先にある丁字路を左折、その後500m程進んだ先の路地を右折する。広大な田畑風景が続く長閑な地にある車幅の狭い農道を北上すると、民家が密集している地となり、更に道なりに進むと海老瀬一峯神社の入口が見えてくる。
        
                海老瀬一峯神社入口正面
                参拝日 2025年1月21日
『日本歴史地名大系』 「海老瀬村」の解説
 現板倉町東端に位置し、北は篠山村(現栃木県下都賀郡藤岡町)、東は旧渡良瀬川を隔てて内野村・下宮村(現藤岡町、旧谷中村)、南は谷田川を挟んで下五(しもご)ヶ村・高鳥村、西は板倉沼を挟んで板倉村。大正一一年(一九二二)渡良瀬遊水池が完成する前は、渡良瀬川は当村北部の北集落と本郷集落の間を貫流し、東端は「海老瀬の七曲り」とよばれ、大きく曲流していた。東部の藤岡台地を除くと低地であり、嘗て水害に悩まされた地域である。標高約一八メートルの谷田川の旧堤防の高さに土盛した上に建てた、水塚(みつか)とよぶ水防建築や、水害時に使用する揚舟が設備されている。長禄四年(一四六〇)の足利義政感状写(御内書案)に、前年一〇月の海老瀬口ならびに羽継(はねつぐ)原(現館林市)での合戦が記され、上杉系図に犬懸上杉家庶流四条上杉家・上杉持房の子である教房(武州太田庄海老瀬に於て討死)と載せている。
 旧渡良瀬川の左岸に立地していた北集落は、嘗て下野国都賀郡に属していた時は北海老瀬村といった。このことは薬師堂跡にある寛文六年(一六六六)建立の延命地蔵銘に「下野国都賀領海老瀬村」とあり、また延宝元年(一六七三)建立の四方仏銘に「下都賀郡北海老瀬村」とあることでわかる。
 群馬県邑楽郡板倉町は群馬県の東隅の平坦地にある。利根川と渡良瀬川に囲まれた地域であって、しかもその中に谷田川が流れ、板倉沼や洪水がおき忘れた内沼等を湛え、全村水に浮いたような、いわゆる陸の孤島である。それで一度大雨になると、これらの河沼は氾濫し、たちまち洪水の危険にみまわれる。今日でこそ赤麻沼の遊水池はじめ治水池の功がその愁いを少くしているとはいえ、それでも尚永い間の歴史的な愁いと宿命から全く脱し切ることはできない。いったん洪水になると水はなかなか引かない。ひとくちに「蛙が小便しても水が出る」といわれる程の水場である。
 明治以降十数度に及ぶ大洪水の記録は今尚残されていて、特に明治43年のそれは生ま生ましかったという。三つの川が一つになったとか、小高い丘の上に鎮座する当社である一峯神社(権現様)の石段の下二段まで水が押し寄せたというのだから、自然の力は科学が発達した現在でも管理することはまず不可能なのであろう
        
              社に向かう道路の途中に設置されている「一峯神社由緒」の石碑
            
         社の入口付近にある「一峯貝塚」の案内板等(写真左・右)
 海老瀬(藤岡)台地の先端部分(標高22m)に位置する、径が12mの地点貝塚である。主となるヤマトシジミの他にハイガイなどの貝類や、縄文時代早期(茅山式)の土器が見つかっている。約6000年前の縄文時代に地球温暖化で海水面が上昇し、関東平野の奥深くまで海が入り込んだ現象という「縄文海進」時のもので、当時、海がこの地近くまできていたことが考えられるという。
 板倉町指定史跡。昭和四十四年五月二十九日指定。
        
      
一峯貝塚」の案内板等の近くには「一峯神社社叢」の案内板もある。
 一峯神社社叢
【指 定】平成十六年十月二十五日
【所在地】板倉町大字海老瀬八八五
【所有者】一峯神社
 一峯神社境内には、縄文時代早期の貝塚があり、歴史的にも貴重な地域である。北側にはスギが植林されており、大きなものは胸高で周囲が二〇三センチメートルの高木が林の上部を覆っている。
 当初は植栽されたが、社寺林のため樹木の伐採が長い間行われなかったため、遷移によってその地域の環境に適した本来の自然植生に発達したものである。
 平地林として一地域に照葉樹林が集中して生育している貴重な林である。
 高木層にはモミ、スギ(植栽)などが上部を覆い、この低木層には、ヒサカキ、アオキ、などの常緑広葉低木が茂り、草木層にはキチジュウソウ、ベニシダなどの常緑構成要素の植物が多い。その中にアカメガシワ、イヌシデなどの夏緑広葉樹が混生している。
 神社の西側にはリュウキュウチクが群生している。琉球諸島の原産で、関東地方以西に栽培されているもので、北関東としては極めて珍しい。
 林の木の実も豊富のため、多くの野鳥の類も見られる。
 神社の北側にある権現沼の緑にはシラカシが優先し、ヤブツバキ、シロダモ、ヒサカキ、アオキ常緑広葉樹が密生しており、より暖地性植物の景観が見られる。
 なお権現沼にはヨシ、マコモの挺水植物、湿地に多いカサスゲ群生があり、魚介類も棲息している。
                                      案内板より引用 
       
            豊かな社叢林に覆われた中に社は鎮座する。
「海老瀬」の地名由来として伝承では、弘仁十二年五月、弘法大師が二荒山詣の折、勝道上人の遺跡を慕ってこの地に来た時、アマンジャクに谷をかくされたので、 渡良瀬川が余り広くて越せなかった。暫く川辺で薬師如来を心に念じていたところ、二匹の海老が出て来てその背中にのせて、今の頼母子の辺から藤岡の方へ渡れたという。そこで一峯山内に土壇を設け護摩御修行したところ、炉跡の灰がかたまり瓦のようになったので、それまでの名称である「八谷郷」を改め、「エビのセ(海老瀬)」としたという。
       
              鳥居に掲げてある「一峯山」の社号額
                     山岳信仰色が濃厚に残る印象が強い社号である。
       
                    拝 殿
一峯神社由緒
 第四十七代淳仁天皇天平宝宇八年三月(紀元七六二年)勝道上人により此の地を清浄無垢の地として二荒権現を勧請し峯の権現と称したり然るに上野下野の領主川辺左大臣藤原魚名により祖先天津児屋根命を祀り地域開発武運長久の守護神として奉斎し一峯神社と称したりその後天慶年中(紀元九四七年)藤原秀郷平を討つ時此の所に道城を構えて将門調伏を祈願修行せりと言ふ明治三十九年十二月二十八日海老瀬村の総鎮守として郷社に列せられ勅令九十六号に依り神饌幣帛料供進神社として指定せられ明治四十五年三月字間田に鎮座せる日枝神社神明宮の二社を合祀さらに大正十二年一月字頼母子に鎮座せる浅間神社を其の筋の許可を得て合祀し今日に至り平成五年六月徳仁親王御成婚の御慶事を併せて石に銘み後世に伝へる(以下略)
                                      石碑文より引用
 由緒によれば、第四十七代淳仁天皇の天平宝宇八年三月(672)上野国大導師である勝道上人が下野国二荒山に詣でを行った際に、この地を清浄無垢の地として日光・熊野・青龍三社大権現を勧請し、峯權現社(みねごんげんしゃ)としたという。その後、この地の領主であった藤原魚名(ふじわらのうおな)により藤原氏の祖先神である天津児屋根命(あめのこやねのみこと)が奉斎され一峯神社と改称されたという。弘仁5年(814)には弘法大師が勝道上人の遺跡地を巡錫の折この地を訪ね真言道場を設けたとされ、現在も弘法大師と伝えられる石仏塔がある。天慶年中(946)には藤原秀郷が当地に道城を築いて将門調伏の祈願を行ったとされている。
       
                    本 殿
群馬県邑楽郡板倉町の民俗」によると、社や権現沼に関して以下の伝承・伝説が残されている。
青竜権現 (一峯神)
 峯の某氏の祖先の家に美女が訪ねて来て、泊めて貰いたいと云った。泊めてくれれば家を栄えさせてくれるという。但し泊めた夜、見るなというのに見たくなって、その娘を見たら白い大蛇であり、青竜権現(一峯神)の正体であった。それからその家は栄えなくなったという。この伝説は、神婚説話が崩れたものと思われる。
 また、峯の権現様は鶏を嫌う(鶏禁忌)。崔の部落では鶏をかわない。飼うと蛇が出てのんでしまう。この部落は雀も住まない。神社にあげた散米(オサゴ)もなくならずにある。
椀貸
 峯の一峯神社の御手洗(ミタラセ)に膳棚という処がある。小さな池であるが、ここは椀、膳やお椀を貸した処で、何人前貸してほしいと紙に書いて、この池の崖から投入れると必要なだけ貸してくれたという。山口某という家で椀の蓋をとっておいた処、その後貸さなくなった。その家は火災にあったが、その椀の蓋は今も残っているという。
権現沼
 昔、大水があって、あちこちの山が崩れたり流れたりした。椿の流山はその時流れていった山で、残ったのが離れ山となり、その跡が権現沼となった。
 峯の権現沼は竜宮へ続いていた。そこの膳棚という処に大きな亀が住んで居り、膳椀の貸借りをたのむと竜宮から運んでくれた。ある家でオヒラのカサ(蓋)を記念にしまっておいたところ、その後亀が出なくなってしまったという。
オトウミョウ
 栃木県下都賀郡の明神様(野木神社)と一峯様は仲が良く、十一月二十七日にお客に出かけ、十二月三日にお帰りになる。この時、一峯権現の境内にあるモミの木の頂上にお燈明があがるという。
 
    一峰神社石碑と伊勢参宮記念碑      記念碑の奥に祀られている境内社・石祠
 
   境内にある登山三十三度大願成就碑            石祠三基と小御嶽大神石碑
        
                  社殿からの一風景

 ところで、峰部落の権現様(一峯神社)の恋人は栃木県下都賀郡野木村の明神様(野木神社)らしい、明神様は女神で七人の娘があり、毎年馬に乗って娘のところへゆく。十一月二十七日に出発(これを「オイデ」という)十二月三日に帰着する。(これを「オカエリ」という)そのオカエリの日に明神様が自分の御宮のみたらし(御手洗池)のそばに着いて馬からおりると、こちらの権現様の裏手の樅(もみ)の木の頂上にぽっかりと灯明が灯つたという。今はこの木も枯れてしまつたが、明神様のオカエリの日には権現様の氏子も明神様へお詣りにゆき、祭は賑やかであったという。
 野木神社における寒川郡七郷を神霊巡行する祭事を別名「おかえり」とも言われているのだが、明神様の七人の女神を寒川郡七郷を神霊巡行と置き換えることはあながち間違いではなかろう。一峯神社にも利根川中流域に伝承と伝わる神事が存在しているようだ。



参考資料「群馬県邑楽郡誌」「群馬県邑楽郡板倉町の民俗」「日本歴史地名大系」「板倉町HP」
    「境内案内板」等

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瑳珂比神社(石剱稲荷大権現)

 旧境町は群馬県佐波郡に属し、県の東南部に位する。海抜4050m程で、一帯はほぼ平担地で、面積は 31.59²。町の西端を粕川が北より南下して広瀬川にそそぎ、広瀬川は町を西から東南に流れて利根川に合流する。
 利根・広瀬両川の河川交通の便があったので古くから住民の土着があったと考えられ、繩文文化時代や弥生土師住居趾が多数あり、何百の古墳群が存在している。奈良朝時代には附近の三村を含めたこの一帯を「朝日の里」といった。鎌倉時代には隣村世良田にあった新田氏の領有するところであり、戦国時代には太田金山の城主由良氏に属している。由良氏の部将小此木左衛門長光が境城に拠った。この城はまた仮宿城とも呼ばれるが、その頃、境、仮宿の両地名が使われていたとみられ、境という名称はこの頃にいたって唱えられたと考えられる。
 江戸時代には半分を伊勢崎藩酒井氏が領有、半分は旗本領および天領であった。
 赤城山噴火の火山灰が降り積った大間々扇状地帯の南端にあたるため、町の大凡70%を占める北部地帯が関東ローム層で、水利を得る水田と桑園であり、米麦二毛作と養蚕を行う。南部の30%に当る地域は広瀬川氾濫原の堆積地で沖積底地にのぞむため、肥沃な畑地や桑園をなしている。特に養蚕と野菜栽培には最も適した地であったという。
 188941日、市制町村制施行により、境町、境村と下武士村の一部が合併して佐位郡境町が誕生し、その後、平成17年(200511日に(旧)伊勢崎市、赤堀町、東村とともに新設合併し、伊勢崎市となったため消滅した。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境493
             
・ご祭神  (主)倉稲魂命
                                   (配)火産霊命 建御名方命 素盞鳴命 大物主命 
                                         
菅原道真命 鎮西八郎為朝 誉田別命 大日孁命
                     ・社 格 旧境村鎮守・旧村社
             ・例祭等 瑳珂比夜まつり(酉の市) 1210
 県道142号線と同県道14号線が旧境町市街地で交わる「境萩原」三又路を東行し、その後「境町駅入口」交差点を右折し250m程直進すると、正面に瑳珂比神社が見えてくる。地図を確認すると東武伊勢崎線境町駅の南側にあり、社の東側には長光寺が、また社の北側と南側にそれぞれ小学校・高校とに囲まれた場所に社は鎮座している。
 因みに、長光寺は、「天台宗・小柴山」と号し、江戸時代には札所として観音霊場めぐりの巡拝者でにぎわったという。寺宝としては鎌倉期の作と伝えられる県の重要文化財に指定されている「懸仏」がある。さらに境内には、有名人の墓も多く蘭医の村上随憲や儒家の常見浩斉の墓石、芭蕉の句碑、酒井忠国の寄贈になる1681年(延宝9)の大きな石燈籠などがある。
        
                  瑳珂比神社正面
『日本歴史地名大系』「境村」の解説
 新田郡に属し、西は佐位郡境町で、日光例幣使街道が通る。平坦地。元亨二年(一三二二)一一月二〇日の尼浄院寄進状案(長楽寺文書)にみえる「新田庄南女塚村」は当地に比定される。元禄郷帳では高二六八石余、幕府領。近世後期の御改革組合村高帳では上総貝淵(請西)藩領、家数五一。世良田村(現新田郡尾島町)に東照宮が創建されると、その火防役を課せられた。足尾銅山役も勤め、大原(現同郡藪塚本町)の銅問屋まで人馬を出し利根川の前島河岸(現尾島町)に銅を運んだが、文政九年(一八二六)免除された。村内を日光例幣使街道が通っていたため、東隣の女塚(おなづか)村との境界にある土橋の普請・整備役も課役されていたという。
 江戸時代当時、境は例幣使街道の宿場町(境宿は間の宿)としてより、六斉市(糸市)が開かれた市場町として近在の伊勢崎と共に産業経済の発達していた地域であった。これは、宿の南を流れる利根川沿いに平塚河岸中瀬河岸などが設けられ、水運を利用して江戸との物質交流が盛んであったためと思われている。
       
             入り口付近に設置されている社の案内板 
       
             正面一の鳥居とその先に見える二の鳥居
          遠くに見える社殿は、参道に対して横を向いている。 
       
                    拝 殿
瑳珂比神社
一、所在地 佐波郡境町大字境四九三番地
一、祭神
  主祭神 倉稲魂命
  配祀神 火産霊命  建御名方命
      素盞鳴命  大物主命
      菅原道真命 鎮西八郎為朝
      誉田別命  大日孁命
一、由緒
 当社の創建は戦国期に能登半島より小此木左衛門尉長光来り境他六ヶ村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(一五二一~二七)とされている。長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀三年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称した。後陽成天皇の天正八年(一五九〇)小此木氏が当地を退去すると郷民は当社を鎮守社と定め石剣稲荷大明神と改めた。
 後に那波、新田両郡の境に当るため境村となり後光明天皇の正保四年に例幣使街道が開設され宿場町になると次第に町並みも形成され慶安年間(一六四八~五一)には境町となった。
 桃園天皇の宝暦十一年(一七六一)拝殿が造営され後桜町天皇の明和三年には石鳥居が建立された。後桃園天皇の安永二年社前に押花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され光格天皇の享和元年(一八〇一)には氏子の発起により現在の社殿が建設されている。その後も神域は整備され明治七年には村社に列された。明治四十年九月に町内諏訪神社境内末社菅原神社、八幡宮疱瘡神社、八坂神社、稲荷神社、神明宮、琴平宮、秋葉神社を合祀し現在の瑳珂比神社と改称し今に至る。
                                    境内案内板より引用
 
       
                     本 殿 
 ネットで覆われている為見ずらいが、一間社流造りの本殿には精巧な彫刻が施されている。
 
 本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社      稲荷神社の右側には庚申塔等が並ぶ。
 
 庚申塔の右側に祀られている石製の天王宮。その隣には「
例幣使道と六斉市」と表記されている案内板がある(写真左・右)。
 例幣使道と六斉市
 境宿は、柴宿と木崎宿の間の宿でした。文久三年(一八六三)幕府から日光例幣使道の宿場に取り上げられました。
 当時の町並みは、四百六十三メートル余り、道幅は十四メートル余りあったようです。
境宿では、二と七の付く日の月六回糸市が開かれ「六斉市」と呼ばれていました。この市では、「さかいさげ」と賞された生糸の取引が盛んでした。その様子は、境島村の画家金井研香の「境街糸市繁昌図」(市指定重要文化財)に描かれています。江戸の学者寺門静軒は「外貨は地にあふれて限りない水のようだ」と讃しています。
 高札場には、この市の守護神として天王宮が祀られていました。この宮の祭りは盛大で、近郊の村々から見物客が多く訪れたということです。祭りは、現在の「境ふるさとまつり」に引き継がれています。
                                      案内板より引用

        
      
例幣使道と六斉市」案内板の右隣に祀られている境内社。詳細不明。
 
  境内北西側に祀られている招魂社の鳥居           招魂社
       
         招魂社の鳥居の左側に高く聳え立つご神木(写真左・右)
       
                 社殿を側面から望む

 瑳珂比神社の南側に隣接している「群馬県立伊勢崎高等特別支援学校」の南側に小さな池があり、その中心部に瑳珂比弁天宮が祀られている。
        
                  
瑳珂比弁天宮正面
 社が祀られている場所は、池の中にポツンと島状となっていて、南側にある橋が架かっており、その橋を通る事により社殿に近づくことができるのだが、残念な事に施錠されているため、遠方よりの撮影となった。
 案内板等もなく、由緒等は不明である。
        
                  右側後方より撮影


参考資料「群馬県民俗調査報告書第五集 境町の民俗」「改訂新版 世界大百科事典」
    「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等

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境萩原諏訪神社


        
           
・所在地 群馬県伊勢崎市境萩原1784
           
・ご祭神 建御名方命
           
・例祭等 歳旦祭 初祭祀 17日 節分祭 23日 豊川稲荷祭 315
                
春季例祭 43日 夏祭り 8月第一土・日曜 秋季大祭 113
 境小此木菅原神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を東行する。広瀬川は現在川幅120130m程であるが、江戸時代当時は約40mで、「竹石の渡し」という渡し場があり、対岸には「相生の松」という大きな松があって、舟がその付近に向い渡ったと言う。残念ながら日光例幣使街道の渡し場の跡は、小さな案内板が建っているだけで残っていないのだが、この「竹石」という名はこの一帯の地域名である「武士」の当て字と言われていて、この「武士」は「たけし」と読む。
 広瀬川に架かる「武士橋」を渡り、更に東行し旧境町市街地方向に進む。県道142号線と群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が交わる「境萩原」三叉路を左折し、北西方向に進んだすぐ先で、進行方向左側に境萩原諏訪神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する境萩原諏訪神社
    境内は南北に長く、幅は狭い。よく確認するとこの社は北向き社殿となっている。

 ここのところ群馬県道142号綿貫篠塚線周辺の社を散策していると、嘗て「日光例幣使道」と呼ばれていた街道と、上記県道の多くが重なっていて、周辺には現在でも往時を偲ばせる名所や旧跡が残されている。社が鎮座する伊勢崎市境萩原地域も同様である。
        
                    規模は小さいながらもコンパクトに纏まった社     
 何度も繰り返しとなって恐縮ではあるが、改めて「日光例幣使道」を説明すると、「例幣使」とは、朝廷がつかわした、伊勢神宮の神前に捧げ物をもっていく使者のことである。江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮にも同じように勅使を派遣した。恒例となったこの派遣のため、京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。復路は日光道から江戸に入り、東海道を使って帰京した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のことを「日光例幣使道」とよんだ。
 例幣使は京を41日に出発、当時の人は1日約10里は歩いたようで、15日に日光に到着した。日光では、翌16日に厳そかな雰囲気の中で奉幣の儀式を執り行ない、同日正午すぎにはもう日光を発ち、日光道を江戸へ入り、そこから東海道を使って帰京するのを通例とし、往復に約30日を要したといわれていて、1647年から1867年の221年間、一度も中断することがなかったという。
 
   境内に入ったすぐ左手隅にある「萩原諏訪神社の道標」(写真左)とその案内板(同右)
 萩原諏訪神社の道標
 この道標は刻まれている文面から、文久元年(一八六一)に建て直されたものです。
 元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道三五四号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されました。丸い台石には、十二支と東西南北の方向が刻まれ、その上に台形の塔身が載っています。正面に「日光木崎太田道」、左面に「五料高さき道」、右面に「いせさき 満(ま)やむし道」(前橋)とあることから、元あった場所では、東側に向いていたと考えられます。
 この分岐点は、当時の交通の要衝であり、正面と左面は日光例幣使道を示し、右面は伊勢崎から前橋に通じる道を示していました。(以下略)                 案内板より引用
 境萩原諏訪神社は境宿西はずれに位置し、案内板によれば、境内には年代不明で文久元年(1861)に建て直された「道しるベ」があり、元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道354号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されたという。また、例幣使の小休止場所は、この境宿では、境萩原諏訪神社の境内の他、すぐ東側にある「織間本陣」で小休止したという。
 
参道途中、左側に祀られている石祠群と大黒様等   参道右側には縁起に関する案内板あり
        
                    拝 殿
 拝殿の左側隣には「豊川社」の社号額のある鳥居、その奥には豊川稲荷社が鎮座している。
諏訪神社縁起
鎮座地 群馬県佐波郡境町大字萩原千七百八十四番地
祭 神 建御名方命
 事 一月一日   歳旦祭    四月三日     春季例祭
        一月七日   発祭祀        八月第一土・日曜 夏祭り
        二月三日  節分祭    十一月三日    秋季例祭
        三月十五日 豊川稲荷祭
 緒  祭神建御名方命は古事記に依るに大国主命の第二子にして出雲国を天照大神に立奉りた
        る後信濃国に降り、民を慈しみ良き政を為せるに依り近隣の諸民その徳を偲び五穀豊、
        
穣、家内安全、商売繁盛、開運招福の神とし諏訪大社にその霊を祀る。
     当社は天正年間(一五七三~一五九一)諏訪大社の分霊を奉遷し剛志村下武士に鎮祭せ
     
を天保九年(一八三八)萩原の有志相計り住民五十余戸の賛助を得てこれを譲り受け
        
現在地に鎮座せられる。
     明治の代になり神厳維持の為の一村一社主義に則り住民の協賛を得て金銭及び土地を拠
     
し定められた資格を具備し先に掲げたる御利益と共に永久の平和と文化の発展を祈念
     
し今日まで年々独自の祭祀を怠ることなし。
     
近年社屋の老朽著しきため区民並に近隣の崇敬者の奉賛に依り現在の社殿の建て替え並
        に豊川稲荷神社及び水舎の屋根の葺き替え等完成す。
境内社 稲荷神社 秋葉神社 八坂神社
        
大国神社 春日神社 八幡宮                   境内案内板より引用
        
                 境内社・
豊川稲荷神社
       
                 境内にある力石二基
 この力石は、案内板によると「貫目八十貫目、江戸は組 大願成就」と刻まれていて、今のキロ数に直すと300㎏以上もある石を、江戸から来た町火消しの「は組」の人が、見事に持ち上げた記念の石である。
 神社や寺院、道端に置かれたこの力石は、各地に見られるが、境地区ではただ一つのものであり、宿場であった旧境町が江戸時代に繫栄したことを示す貴重な石であるという。
       
                            社殿から見た境内の一風景


参考資料「群馬県歴史の道調査報告書 2集 日光例幣使街道」「伊勢崎市観光物産協会HP」
    「境内案内板等」等

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