古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

二ッ小屋町稲荷神社・武蔵島町二柱神社・武蔵島町花見塚神社

【二ッ小屋町稲荷神社】
        
             
・所在地 群馬県太田市二ツ小屋町1
             
・ご祭神 稲荷神(推定)
             
・社 格 旧村社(推定)
 埼玉県深谷市と群馬県太田市との境を雄大に流れる利根川の左岸に位置する太田市二ッ小屋町地域。嘗て平成の大合併前には新田郡の最南端に当たっていたようだ。国道17号上武道路を北西方向に進み、利根川に架かる新上武大橋を渡り、群馬県に入った土手の袂に二ッ小屋町稲荷神社は鎮座している。
 但し、社は新上武大橋の下にあり、一旦利根川を渡り切った先にある「尾島パーキング 下り」から一般道に移る道に移動し、そこから右回りに回り込み、国道17号上武道路を潜るように向かう。その後、群馬県道・埼玉県道275線由良深谷線を南東方向に進行し、突き当たりの丁字路をまた右折、二ッ小屋町地域の集落方向に進むと社が背を向けた配置で見えてくる。
 車両で進行するとこのようにまどろっこしい説明となるので、「尾島パーキング 下り」の専用公衆トイレで車を停めてから、国道から下がる階段があるので、そこからアプローチしたほうが良いかもしれないと痛切に感じた次第だ。
        
                
二ッ小屋町稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「二ッ小屋村」の解説
 新田郡の最南端、利根川左岸に位置し、東は前小屋(まえごや)村、西は武蔵島(むさしじま)村、南は武蔵榛沢郡高島村・同幡羅郡石塚村(現埼玉県深谷市)と利根川中央の国境を限り、北は前島村および堀口村の耕地。北方を早川が東流する。寛文郷帳に村名がみえ、幕府領で畑方のみ。慶応三年(一八六七)前橋藩領となる。大間々(現山田郡大間々町)、木崎(現新田町)より武蔵高島、熊谷(現埼玉県熊谷市)に至る往来があり、村西方の武蔵島境に高島と結ぶ渡船があった。

 
         正面鳥居                     境内にある社号標柱
      鳥居の社号額には「正一位 稲荷五社大明神」と刻まれている。
          由緒書き等が見当らないのでその詳細は不明
        
                    拝 殿
 
右の祠は大杉神社。左側の石祠二基の詳細は不明        社の北側にある地蔵堂 
        
                 社を本殿側から撮影
             国道17号上武道路がすぐ近くを通る。

武蔵島町二柱神社】
        
              ・所在地 群馬県太田市武蔵島町1
              ・ご祭神 不明
              ・社 格 旧村社(推定)
 二ッ小屋町稲荷神社から群馬県道・埼玉県道275線由良深谷線を北上し、早川に架かる「前島橋」を越えた西側に鎮座している。所在地は「太田市武蔵島1」、つまり当地域の中心に位置している社といえよう。
 因みに早川は、群馬県東部を流れる利根川水系利根川支流の河川であり、群馬県桐生市新里町奥沢付近に源を発し南へ流れ、太田市堀口町付近(地図上では埼玉県熊谷市)で利根川に合流している。利根川水系で直接利根川に流入する河川としては、赤城山南麓でもっとも東端に位置し、渡良瀬川水系に関係しない河川である。このため水利権調整上の制約から、利根川上流から取水している群馬用水、大正用水の放水河川となっているという。
        
                 武蔵島二柱神社正面
『日本歴史地名大系 』「武蔵島村」の解説
 南東は二ッ小屋村、北東は前島村・亀岡村字本村、北西は阿久津村元地(現荒久)、武蔵榛沢郡高島村(現埼玉県深谷市)の飛地。北西阿久津村元地より、村の中央を横切り南東に早川が流れ、前島村にかかり、南東境二ッ小屋地先より古利根川に流入している。北方亀岡村字軽浜の銅問屋より銅山街道が村央を通り南方二ッ小屋に至る。早川河口付近に前島河岸の船積場があった。天正一〇年(一五八二)九月一一日の日付のある某判物(宮下文書)によれば、「武蔵嶋」四貫九〇〇文の地が宮下又左衛門に渡されている。
 
        境内の様子            境内道路脇に設置されている社号標柱
        
                    拝 殿
            創建・由緒等の案内板がないため、詳細不明。
       
                 左から湯殿山大権現・弁才天


武蔵島町花見塚神社】
 勾当内侍 (こうとうのないし)は、南北朝時代の女性。生没年不詳。後醍醐天皇に仕え,勾当内侍の職にあったので,その名をもって呼ばれる。一条経尹の三女,行房の妹。新田義貞に見そめられ,天皇の許しを得て義貞の妻となった。1338年(延元3・暦応1)義貞が越前で戦死すると,尼になって洛西嵯峨に住み,夫の菩提をとむらった。これは《太平記》の伝えるところで,一説には琵琶湖に身を投げて義貞のあとを追ったともいう。
 江戸時代に講釈として『太平記』が広まると、各地に勾当内侍の墓所が作られ、そのうちの一つは当地である群馬県太田市武蔵島町の花見塚神社近くにある。
        
             ・所在地 群馬県太田市武蔵島町87
             ・ご祭神 後醍醐天皇 神武天皇
             ・社 格 不明 
 武蔵島二柱神社から早川の畔沿いに北西方向に進むと、「花見塚公園」が見え、その公園内北側端部に武蔵島花見塚神社が静かに鎮座している。 
        
                 武蔵島花見塚神社正面
 
           社殿の正面上部に掲げてある掲示板(写真左・右)
花見塚神社の由来
新田義貞は元弘三年(一三三三)五月八日生品明神の御前に旗を挙げ十五日鎌倉幕府を倒し建武の中興に大きな功績を上げた。義貞が入洛したのは元弘三年七月で、論功行賞で従四位上に叙せられ上野・播磨両国の国司となる。同年八月五日であった。此の頃から建武二年(一三三五)十一月十九日、義貞、尊氏追討のため、京都を出て鎌倉に向かうまでが国宣の発給や内部調整御所の警備など多忙であったので故郷を立って二年八ヶ月余りその間一度も帰国することは出来なかった。此の後は箱根、竹の下の戦に敗れて京都まで退却、各地の戦いを経て、比叡山で立て篭もり、和解による北陸落ち義貞は北陸の地で討死した。 匂当内侍は藤原の経尹(ツネタダ)の三女一条行房の妹、名前は不明、匂当内侍は単なる官女ではなく内侍を尚侍・典侍・掌侍に分け各正四人権二人、合計十八人其の第一位を匂当内侍という、匂当は事務を担当して処理する。奏請は天皇に奏上して裁可を請うこと、伝宜は勅旨を伝達すること等を掌る。女官の中でも天皇に一番近い重要な役職であった。
義貞と匂当内侍の出会いは義貞が入洛して建武二年義貞の尊氏の追討軍をだすまでの間で早い段階ではなかったか。年若く美人で教養が豊富、特に琴の演奏などには素晴らしいものがあった。気脈が通じ合うのも早かった。お互いに御所のなかでの勤務が幸いした。天皇の一声で目出度く結ばれた。
運命の悪戯か戦いが休みなく続き義貞最後の日がきた。例に依て都大路を引き回され晒首になっていた。匂当内侍は悲嘆にくれその場に崩れ伏した。お供の衆に助けられ首を持ち去った。髪を剃り墨染の衣に身を包み義貞の故郷えの旅は長かった。漸く目指す武蔵島ゆかりの地にたどり着き、柊の木を植え其の傍らに義貞の首を埋め、成仏を念じた。
その傍らに簡素な庵を建て以来三十年に及ぶ仏道修行の日が続く。毎日一本の躑躅の木を近くの山林から取り集め植えることにした。これが花見塚の基礎になった。
正平元年八月十六日(一三四六)宗良親王は南朝の忠臣の多くが戦死しその勢いが衰えるさまを心配され御父後醍醐天皇と皇祖神武天皇を合祀した花見塚神社を建てられ南朝の皇運を祈られた(宮下相伝記)
然し宝暦元年四月(一七五一年)火災により焼失して今日に至る。
このゆかりを以て昭和四十五年(一九七〇)下野入道南順の後裔宮下一族相集まって花見塚神社を再建するに至った。
以来四十年余り社屋の破損も目立つようになり宮下一族会議のうえ多数の賛助者、協力者を得、上屋の新築、宮殿改築完成の運びとなった。(以下略)

須賀神社由来
祭神 宮下筑後守正繁
   横瀬信濃守泰繁
宮下筑後守正繁公は天文十四(一五四五)年四月小田原の城主北條氏康の旗下武蔵国忍の城主成田下総守氏長の軍勢が当新田領へ侵攻して来た事を岩松の住人森隼人、古海の住人小島三郎両人より注進を受けた、依って直に幕僚長尾新六郎渕名上野介、白石豊後守等を横瀬信濃守泰繁と共に従えて武蔵国(現・妻沼聖天様南)堰宮に出陣した。防戦大いに努めると雖も敵勢剛強にして激闘遂に利なく堰宮の陣を退き払い、羽生より新田庄南田島東南武蔵島村の飛地、須賀山村に退いた。然るに俄に前後より伏勢起こり善戦遂に空しく正繁、泰繁の両将相共に此処に自刃して果てられた。
正繁公の嗣子又左衛門繁貞は天正元年(一五七三)年十月父正繁公と泰繁公の両霊を祀り須賀大明神と号して社殿を討死の地須賀山に建立した。又泰繁公の嗣子由良成繁は社領を寄進した。其の寄進状には「須賀社領の事。新田堀口領分の内六石弐斗を祭祀料として…天正元年十月二日由良信濃守成繁(花押)宮下又佐尉殿」とある(以下略・宮下相伝記)
以来須賀神社は同郷鎮守の如くに祭祀されて来たが、弘化三年(一八四六)の利根川大洪水の為社殿も神域も荒廃に帰したので二柱神の境内に遷座されたが幾星霜を経るに従い社殿等は損壊して形を止めぬようになった。
昭和四十五年十一月三日(一九七〇)下野入道南順の子孫宮下一族相集まって花見塚神社を再建するにあたり同社に合祀した。
下野入道南順の女は宗良親王の第一子国良親王の室(母は匂当内侍の女山吹姫となり宮の一字を賜り下野の下と合わせて宮下となり国良親王の第一子正治の時始めて宮下を名乗りました。(宮下家正系図)以来四十年余り社屋の破損も目立つようになり宮下一族合議のうえ多数の賛助者、ご協者を得た。そして上屋の新築、宮殿の改築、完成の運びとなった。(以下略)

 掲示板に載る宮下家は「群馬県立文書館HP」によると、中世以来の系譜を引く旧家として知られており、明治18年(18858月下旬には太政官修史館の編輯副長官重野安繹らが古文書調査に訪れ、戦国期から江戸初期の古文書の一部を借り出すと共に、その所蔵目録を作成している。安政2年の過去帳(宮下家所蔵)によれば、戦国期から江戸初期にかけて宮下筑後守正繁(天正元年没)などの名前が見えることから、宮下家の先祖はおそらく中世武士の系譜を引き、戦国期には金山城主由良信濃守の幕下として仕え、江戸時代に土着したと推定されているという。
 なお、
宮下家屋敷の南側には花見塚公園があり、園内には匂当内侍に縁のある墓石や花見塚神社などの史跡もある。なお、江戸時代は正徳年間に二家に分かれ武蔵島村の名主を務めている。
        
                 花見塚公園の案内板
 花見塚公園
 江戸時代初期の頃まで、この地には、名木のつつじが一面に咲き乱れていた。
 建武の中興に功績のあった新田義貞は、後醍醐天皇のおそばに仕えた匂当内侍を、その恩賞として賜った。当代一の美人と言われた内侍のために、義貞はこの地に新しい館を構え、その庭に各地から集めたつつじの名木を植えたと言う。義貞の没後、内侍は尼となってここで義貞の菩提を弔ったと伝えられ、柊塚とか花見塚と呼ばれていた。
 寛永四年(1627)、当時の領主榊原(松平)忠次は、ここのつつじ数百株を城下の館林に移したと伝えられ、今のつつじが岡公園の古木がそれで、樹齢八百余年を経ているのもあると言う。公園は、世界一のつつじの名所となっている。
 その後の当地は、義貞と内侍の墓と伝えられる墓石のある墳丘と、当花見塚に至る道筋に、小字「花見道」の地名が残るのみで、わずかに往時を偲ばせていたが、全町史跡公園化整備計画の一環として、ゆかりの地館林から若木のつつじを求め、公園として整備したものである(以下略)。



参考資料「群馬県立文書館HP「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」
    「ウィキペディア(
Wikipedia)」「境内案内板」等

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境上矢島勝手大明神

 伊勢崎市境上矢島地域は、同市南東部にあり、早川右岸に位置する。国道17号上武バイパスと同354号線が交わる西側の、東西約1.2㎞・南北約1.5㎞の地域であり、その中央部付近に集落が集まっていて、周囲一帯田畑が続く農業地域である。かつて新田政義の三男谷島信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。一面水田に囲繞された村で、北方を流れる早川に水利を得る。やがて利根川に合流する早川はまだ小さい流れで、集落から北方に広がる大水田地帯を満たすには不充分なので南方長溝川からも水利を得ていた。
 文政年間この長溝川の堰堤をめぐって、木島・百々・ 境各村を相手に大きな水出入りがあった。いわゆる「四寸ロ騒動」で、今も故老の語り草になっている。この騒動は長溝川から取り内れる堰の水口の寸法をきめたもので、水口四寸の堰が決まったのであるが、上矢島村で堰の下に別のトンネルをつくって水を引いたのが判明して大騒動になったといい、水に深い執着をもつ村の成り立ちを知ることが出来る。
 また一畝一歩耕作地を潰したくないという村人の思いがあるので、トラックや観光バスを貫通する道路を設けることも許さなかったという。集落が非常な不便を感じながら、その不自由に甘んじている姿も由なしとしない。稲作と養蚕が主で、蔬菜類の栽培は比較的少ない。
 

        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境上矢島955
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 旧矢島村鎮守
             
・例祭等 秋祭り(上矢島獅子舞) 11月第1日曜日
 東武伊勢崎線「境町」駅北口から駅前通りを北上し、国道354号線に達した丁字路を左折する。その後、すぐ先に見える「境百々」交差点を右折し350m程北上、変則的な十字路を右折して暫く道なりに進むと、周辺一帯田畑風景が見え、所々に民家が点在する一角に境上矢島勝手大明神が静かに鎮座している
        
             南向きに鎮座する境上矢島勝手大明神
『日本歴史地名大系』 「矢島村」の解説
 新田郡に属し、早川右岸に位置。西は佐位郡木島村。平坦地。永禄年間(一五五八〜七〇)頃には、由良氏に仕えていた南小二郎が住んでいたという。永禄八年の「長楽寺永禄日記」正月五日条に「南小二郎方ヘモ泉書記ヲタノミ、境ニテ礼ヲノベツル」とあり、南氏は長楽寺(現新田郡尾島町)住持義哲と交際のあったことが知られる。「寛文朱印留」に村名がみえ、武蔵忍藩領。寛文郷帳では田方二九五石余・畑方一六〇石余、元禄郷帳では旗本桑原・高屋領の二給。
 この上矢島地域は、粕川と東を流れる早川の間に開けた淵名台地先端部にあり、平安時代の遺跡が発見されていて(上矢島遺跡)、30軒程の竪穴住居・掘立柱建物・井戸などが出土され、台地の最も高い部分を溝が台地走向に沿って走り、その両側に住居が集中している。また、住居や溝の中から50点以上の墨書土器が出土している。
        
                 こじんまりとした境内
 当地域には上矢島獅子組」と呼ばれる
鎮守勝手神社に附属する獅子組があったが、明治時代末以降は徳蔵寺に引継がれて、113日の秋祭りにて五穀豊穣や家内安全を祈って奉納されてきたと伝えられていた。流儀を明らかにしないが東新井・下淵名獅子組と同じ火挾流と推定されるが、前託二者に比して新しく江戸中期の創設であろう。毎年旧暦九月二十九日(クンチ)と十月二十五日両度演舞されたが、今は十月十七日の村祭りに徳蔵寺境内で公開演舞される。雄獅子・雌獅子・老獅子(ホーガン)の一人立連舞で、獅子舞の前に祭礼棒がある。
 先の
戦争により、演舞者及び笛吹き等、後継者がいないため、休止状態になっていた。戦後復活したが、再び獅子頭が古く傷んでいたことや後継者不足等により、約半世紀にわたり途絶えていたが、令和4年度の獅子頭と太鼓の修繕を機に、令和6年度、「上矢島獅子舞保存会」を発足。そして東新井獅子舞保存会の指導を得て、令和711月「上矢島秋まつり」にて約50年ぶりに演目「岡崎」(無病息災と家内安全を祈る)を勝手大明神に奉納、復活となったという。
        
                    拝 殿
 奈良県吉野郡吉野町にある勝手神社(かつてじんじゃ)は、吉野大峰山の鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれていた。勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。また、辰巳(東南)の護法神でもある。
 
吉野の金峯山にある蔵王権現・子守権現(吉野水分神社)・勝手権現(勝手神社)は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた。勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっている。
 鎌倉時代中期の武将で、新田宗家4代当主である新田政義の三男谷島(矢島)信氏の領するところで、徳蔵寺の地をその館趾と云い伝えがある。その吉野の僧や山伏が上矢島に勧請し、谷島(矢島)氏の館の辰巳に祭られ、矢島氏からは弓矢の守護神として、農民からは農業用の水源を養う風雨の神として信仰されたといわれる。
 また別説では、徳蔵寺は太田金山城主由良氏に仕えた南氏が建立したという。
『矢島村南系図』
「永禄年間、京都北面の武士藤原姓南修理大夫義頼は牢人して上野国に下り、その子南小次郎頼広は新田郡上矢島村を知行し、佐渡守に任じ矢島城主となる」
 南氏は金山落城後に上矢島村に土着帰農したという。因みに家紋は丸に剣花菱。また、『世良田村長楽寺永禄八年日記』に金山城主横瀬氏(由良)家臣南小次郎佐渡守頼広の名は随所に見える。
 徳蔵寺の創建に矢島氏か南氏どちらが関わっていたとしても、勝手明神が辰巳の護法、軍将神であることは変わらず、徳蔵寺の地と関係は当然深いものがあったと思われる。
        
              社殿の右側奥にある不思議な建物
 手前には左から「喜心霊神」「〇嶽霊〇」「〇心霊神」「御嶽霊神」と刻まれた石碑がある。

『境町の民俗』には、この地域には「御嶽教荏原講」という講社があったという。この講社は、埼玉県深谷在に発詳し、文政年間上矢島村に流布された。木曾御嶽の山岳信仰で、講社は第一部より第三部まであって、第一・第二は埼玉県にあり、上矢島の結社は第三部に属する。さらに派生したものに新田町上中、伊勢崎市馬見塚に講社がある。村の講員は約六十人で、毎月の御縁日は九・十八・二十七の三日、この日講員が参会して、無病息災家内安全の読経をするという。
 御嶽教の行は主として水行で、入寒から寒明けまで寒中三十日の水行をする。いま水行をするものは五人で、毎日夕食後集まり、寒水をかぶり、沐浴潔済の後、神前で跋経を読誦し、自らの息災を願うと共に、行者としての修行陶冶を期す。その行は非常に厳しく、寒中肉、魚、ねぎを食うことを禁じ、女の肌にふれるのを許さない。境町に数多くの御嶽教講社があるが、荏原講ほど修行鍛練をするものはなく、活発な布教活動をなすものもないとのことだ。
 
     社殿の西側から北西部にかけて祀られている石祠群(写真左)と、庚申塔群(同右)
        
                  社殿からの一風景
『境町の民俗』には、当地域の年間行事が載せられていて、幾つかを紹介する。
・八丁じめ
 6月に行われる悪病除けの行事。一丈ぐらいの高さのところで竹の芯を伐って、上から一節位のところにヨタレベエ(へいそく)をつけて、区長か村世話人が、村のはずれのところに立てた。矢島では七本立てた。北は花香塚、東は西今井、南は境、西は木島、西南は百々、北西は淵名、東南は三つ木・女塚との境界に立てて、小字の守りとした。
オクンチ
 10月の秋祭りの日を「オクンチ」という。昔は九月二十九日であったが、今では十月十七日。この日は鎮守様のお祭りである。赤飯を炊いて祝った。他所へ嫁いだものは、子供を連れて泊りこみでお客に来た。この日にお獅子を舞った。お獅子の稽古は、以前は九月二十三日から五晩、お寺を宿にしていた。お獅子は三つあり、やり手は決まっていた。お祭りには村中が出た。
オカマ様のルスンギョウ(旧十月中)
 旧十月の六日・十六日・二十六日、おはぎを作ってオカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)に上げた。オカマ様には三十六人の子供があるので、出雲へお客に行けないという。
 オカマ様については、つぎのような話がある。
 オカマ様はあるとき人の子を食ってしまった。そこで神様がオカマ様の子供を一人隠してしまった。するとオカマ様は心配のあまりきちがいになってしまった。そこで神様はオカマ様に、人の子を食べなければ子供をだしてやるといった。そんなに沢山子供がいるくせに、
一人ぐらい隠されてそんなことでは、これから人の子を食うなといわれた。そこで約束して、子供をだしてもらって、それからはオカマ様は、子供を食わなくなったという。

「オカマ様のルスンギョウ」の説話では「オカマ様(三宝荒神、お勝手に祭ってある)」と載せているのだが、三宝荒神は、神道において「竈三柱神(稀に三本荒神)」と名前を変えて祀られている。この神は「かまど神」として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであるという。
 この説話を見ると、この社のご祭神は竈三柱神とも勘ぐってしまうのだが、今のところはそれ以上の詳細は不明である。どなたか知っている方がいればご指導の程、宜しくお願いいたします。



参考資料「伊勢崎市HP」「境町の民俗HP」「ぐんま地域文化マップHP「日本歴史地名大系」
    「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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七母女天宮


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市境東新井429
              
・ご祭神 天照皇大神(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 秋祭り(東新井の獅子舞) 11月第3日曜日
 境東新井神明宮から群馬県道2号線前橋舘林線に戻るように同じ道を北上、500m程進んだ十字路を右折すると七母女天宮が見えてくる。
 小さな社だが、「東新井の獅子舞」にも関連してくる社でもあり、意外と近距離でもある為参拝した。但し周囲に駐車スペースが全くないため、路駐をして急ぎ参拝を行う。
        
                  
七母女天宮正面
    鳥居前の石柱には左側に「七母女天」、右側に「大土神社」と刻まれている。
 それぞれの社名に対して調べてみると、大土神社は、神戸市灘区に鎮座する「大土神社(おおつちじんじゃ)」と社名が同じことから、ご祭神は天照皇大神と思われる。
 それに対して、七母女天(しちもみょうてん)とは、密教、特に天台宗の玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる「摩多羅神(またらじん)」の別神名とされている。つまり、摩多羅神の「Matarah」=摩怛利神=七母天と同体であると想定し、その上で七母天と北斗七星を結びつけたもので、七母天女の本地が吉祥天で、北斗七星の1つである文曲星を吉祥天とする説もある。
        
            鳥居に掲げてある「七母女天宮」の社号額
 因みに摩怛利神(摩怛哩神、摩怛曳とも)は、梵語で「母」を表すMatrの音写であり七母天のことである。七母天は閻魔天あるいは摩訶迦羅天(『理趣経』)の眷属で、両者に祈願して行疫神を宥め病疫を退散して一切の罹患者を救済せんとする行法が「摩怛利神法」と呼ばれるという
 七母女天宮は別名「妙見様」とも呼ばれている。「妙見」信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである。元々、渡来人の多い近畿以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本、特に信濃から関東・東北にかけて広まったという。
 まあ、いろいろな説を載せているのだが、七母女や摩多羅神・摩怛利神、妙見信仰との関わり等、正直分からないことだらけの神である。
       
                    拝 殿
 この社の創建や由緒等は、境東新井神明宮同様どう調べても分からない。但し『境町の民俗』において七母女天宮に関連する記述があるので箇条書きにて紹介する。
・妙天様
(東新井)は七母妙天で一切の病疾に御利益があるといわれる。お礼には三角の布袋に綿をつめた匂袋を三つか五ツ、多いのは十数個糸でつなぎ合わせてあげる。
境東新井地域は、数十年前まであった道化芝居は有名で、芝居に使われたカツラ小道具の類は最近まであった。七母女天は厄神として今も信仰され、実相院と称した寺は廃されたが、御本尊木彫聖観音は今も残され、つぎの台座墨書銘がある。
 奉造立観音尊像二世
 圓満子孫繁昌之所ヲ守護シ給也
 天正十七年己霜▢▢▢▢▢宝前

 実相院趾には大きな百万遍珠数が残されており、例年行ってきた天道念仏は廃された。
        
                 南側から境内を撮影


参考資料「境町の民俗」「境まちの史跡と景観写真集HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」等


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境東新井神明宮


        
             ・所在地 群馬県伊勢崎市境東新井150
             ・ご祭神 天照皇大神(推定)
             ・社 格 旧東新井村鎮守 旧村社
             ・例祭等 春祭り 417日 秋祭り 11月第3日曜日
 冠稲荷神社参拝後、一旦ジョイフル本田新田店にて買い物を行った後、群馬県道2号線前橋舘林線を3.5㎞程西行し、「境東新井」交差点を左折する。一戸建ての住宅が立ち並ぶ一直線の道を南下すること700m程、周囲が田畑風景にかわり、右手方向にポツンと境東新井神明宮の社叢林が見えてくる。
 社周辺には専用駐車場はないようなので、社の北側にある霊園の駐車スペースをお借りしてから、参拝を開始する。
       
                  境東新井神明宮正面
『日本歴史地名大系』 「東新井村」の解説
 上淵名村の東に位置し、南は新田郡花香塚(はなかづか)村(現太田市新田)。寛文郷帳では淵名村に含まれたが、元禄郷帳には村名がみえ高二〇九石余、伊勢崎藩領。近世後期の御改革組合村高帳では同藩領、家数三〇。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によると反別田一二町七反余・畑一一町九反余、新開田畑のうち田一町四反余・畑八町九反余。家数四一、馬一七疋。天保郷帳では淵名村に含まれた。水利は用水に頼るところが大きく、山中沼(一千一四八坪)、中ノ沼(七千八四〇坪)、上ノ沼(六千二七二坪)などがあった。当地は地下水が浅く低湿地帯をなしており、北部の矢ノ原も湿地帯のため開発が遅れ、上・下淵名村と当村三村の入会秣場となっていた。
         
       鳥居の左側先に祀られている石祠   石祠の先に建つ社号標
 境東新井地域は、古くは上淵名村に属していたが、江戸時代にいたって一村をなした。 村高二〇九石余伊勢崎領で、この集落は畑より水田が多い。伊勢崎から太田を結ぶ線上には「井」のつく地名が数多くあるが、いずれも大間々扇状地の下にあった清水湧出源がこのあたりで頭を出しているので水利に便である。但しこの集落は湿地帯に属し、一たび降雨にあうと農家の庭先は泥濘と化してしまう。純農村地帯で北部矢ノ原の開墾されたのは最近であり、米作と養蚕および生姜、大根等の生産が主である。
 
 鳥居右側横には石碑、庚申塔等が祀っており(写真左)、中には安永四年に建立された抱擁双体道祖神が祀られていた(同右)。
 道祖神は境界に建てられ、村へ疫病が入り込まないよう信仰した石造物である。通常、男根形の自然石、石に文字や像を刻んだものなどが多いのに対して、この道祖神は男女が肩を組むもので平野部では珍しく、境地区の道祖神は文字塔ばかりで男女の神像を刻んだものはこれ一基だけという。
        
          周囲樹木に囲まれ、厳かな雰囲気を醸し出している社
 
 境内左側に並んで祀られている石祠・境内社    境内右側には塚上に祀られている社あり
                            浅間社、または富士塚か
 
 境内左側には数基の石祠が並んで祀られている(写真左・右)。左側の写真の赤い石祠は元々木製の合祀社であったようだが、老朽化の為改築されたものであったとの石碑に刻印されている。ご祭神は秋葉宮 火之迦具土之大神(火防の神)・天神宮 菅原道真命(学問の神)・機神宮 建葉槌命(機織の神)の三柱。この三柱の一柱である機神宮のご祭神である建葉槌命は当地では「機神様」と呼ばれ、嘗ては機仕事が上達するのを願い、お礼には残り糸や繭を捧げたという。
 また、右側写真の石祠は天王宮と屋根部正面に刻まれている。
        
             境内にある「東新井の獅子舞」の案内板
 伊勢崎市指定重要無形文化財 東新井の獅子舞
 平成十八年六月十五日指定
 東新井の獅子舞は、神明宮と七母女天宮の春と秋の祭り、旧暦十一月一日の神帰りの日に奉納されていました。五穀豊穣、家内安全、悪疫退散の願のほか、雨乞いに際しても舞いました。
 戦後しばらく途絶えていましたが、昭和五十三年に復活し、毎年十一月第三日曜日に奉納されています。
 舞は、近隣の下淵名、国定赤城神社、今は行われていない境上矢島と同じ栃木県日光市に起った文挟流の一人立三人連舞の獅子舞で、法目(老獅子)・雄獅子・雌獅子が連れ舞います。
 奉納は、神明宮で木刀と六尺棒を持った二人の剣士の祭礼棒術の後、社前で獅子舞が行われます。演舞を終えると、行列を成して、妙天様と呼ばれる七母女天宮へ向けて巡行します。
 演目は、平ざさら・橋掛り・ボンゼンの舞の三つで構成され、岡崎・向かい灯籠・ちょうちょう止まれ・おかち・ちいほほの五種類の口伝が伝承されています。
 平成二十二年三月 伊勢崎市教育委員会                     案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 創建や由緒等、調べてみたが全く不明だが、境東新井神明宮は鎌倉時代、藤原秀郷の孫の淵名太夫が東新井の地を領したとき天祖大神を此処に創祀し社領を寄進したのが始まりという。古くから七母女天宮とともに東新井の獅子舞が奉納されている。

    社殿の右側奥にある北側鳥居       境内北東部にある獅子舞等の倉庫らしき建物
       
                   境内の様子
       
                 社を南西方向から撮影 



参考資料「伊勢崎市HP」境町の民俗HP」境まちの史跡と景観写真集HP
    「日本歴史地名大系」「境内案内板」等
              

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冠稲荷神社 (2)


        
        
拝殿に向かう参道右手の小高い丘上に鎮座する摂社・聖天宮日高社
          御祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神・神倭磐余毘古神・大雷神・水分神 
 聖天宮は四方入母屋造唐破風付の瓦葺で、安政4年(1857年)の建築。県指定重要文化財指定
          因みに聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。
     
      
聖天宮は比較的小規模な建物であるのだが、本建物の彫刻や装飾は
    内部天井の龍を始めとして大変質の高いもので見ごたえある。(写真左・右)

 聖天宮は正面(2.89m)、側面(3.88m)と比較的小規模な建物でありながら屋根が複雑で、四方入母屋造正面唐破風付という特徴的な造をしている。当初から日本瓦で葺かれており、棟札によると安政4年(185710月上棟で大工棟梁として「弥勒寺河内 守藤原照房」となっている。これは境下渕名の弥勒寺音次郎の事で、大工でありながら彫工としても名 を馳せている。本建物の彫刻は内部天井の龍を始めとして大変質の高いものである。
 また彫工は音次郎の息子「弥勒寺音八とその弟子の諸貫万五郎」である。弥勒寺音八は一時期飯田仙之助の養子弟子となった岸亦八の弟子となり、常陸の天引観音や笠間稲荷を手掛けるようになる。音八の名声は広く響き、明治に移るころ音八は宮中に召し抱えられ賢所の玄関正面の菊の紋を彫刻した人物である。

 参道右側には実咲稲荷社や聖天宮が鎮座しているのに対して、左側には七福神殿・諏訪社と八坂社(神楽殿兼ねる)・厳島社・菅原社・いなり白狐社・琴平社と、並列するように祀られていて、どの社も絢爛豪華である。
        
         人形代社の並びに祀られている七福神殿 御祭神は七福神
『七福神殿』に祀られている七福神彫刻は、名工・新井清尚、明和2年(1765)の作。一幅の絵馬に収められている極彩色の七福神絵馬で、海辺の雄大な松のもとに福々しい神々が集い喜遊するという珍しい構図との事だ。
       
          七福神殿の右並びには神楽殿も兼ねた諏訪社と八坂社
         諏訪社のご祭神は建御名方神で、八坂社のご祭神は素盞嗚神と奇稲田比賣神 
       
                   摂社 厳島社
        厳島社のご祭神である宇賀弁才天は、宇賀神と市杵島毘賣神が融合した女神で、
     左右に毘沙門天と大黒天を配し、さらに十六童子を従えた、大変珍しい神坐像である。
          厳島社の前にはご神木が聳え立っている(写真左・右)      
       
               菅原社 ご祭神は菅原道真公
       
              いなり白狐社 ご祭神は命婦専女神
   横に伸びた社殿には小さなお狐様がこれでもかと並んでいて、ある種異様な眺めだ。 
 いなり白狐社
 御祭神 命婦専女神
 氏神からの返戻白狐を祀る。
 我が国の神社では、伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩のように、それぞれ固有の動物が神の使いとして尊ばれている。しかし、お稲荷さんの狐は単なる神使ではなく、眷属そして神様の一部のような資格を与えられている為、狐こそが稲荷神という考えを持つ人々も多いようである。
 お稲荷さんと狐がこのような親密な関係を持つに至った由来としては、諸説があるが、稲荷の神が「食物の神」つまり「みけつかみ」であり、御狐(おけつね)三狐(みけつね)に転じたという説、あるいは稲荷神がのちに密教の荼枳尼天と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説がある。
                                    境内案内板より引用

 古くから狐は霊的動物として「稲荷(いなり)神の使いないしは稲荷神そのもの」と信仰されるなど深く広い各種の信仰があり、狐憑きは「御先稲荷」(オサキドウカ)や「オサキ」という名前で、関東から東北にかけて伝承されている。実際、日本全国に存在する三万社以上の稲荷社が狐像を備えており、「狐」自体を「稲荷神」として信仰する場所も少なくない。しかし、総本社である伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのものではないと述べており、また岡山市北区にある日蓮宗の寺院である最上稲荷山妙教寺は白狐を稲荷神(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べている。
 日本では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、伏見稲荷大社が鎮座している神体山である「稲荷山」は古くは蛇神信仰の中心地であったようだが、平安時代になってから狐を神使とする信仰が広まったという。稲荷神と習合した宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)あるいは白狐神と呼ばれて祀られるようにもなったという経緯もある。

 因みに境内の「白狐社」では白狐霊である「命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」をお祀りしてある、ということである。この命婦神は、律令制下の日本において従五位下以上の位階を有する女性、ないし官人の妻の地位を示す称号である。
        
                琴平社 ご祭神は大物主神
        
         境内北西部にも参道があり、その先には戌亥鳥居が建つ。
 
  戌亥鳥居への参道の両側には数多くの石祠が並んで祀られている。(写真左・右)

 当神社は創建も古く、新田源氏の守り神として厚く信仰されてきたことから、建物のみならずその他の文化財も多く残されてきた。そればかりでなく地域とのつながりも古くからあり、聖天宮は古墳の上に鎮座しているという。建物には棟札も残されていて建造年代もはっきり分かり、携わった大工もはっきりしている。大工の多くは地元大工が多いが 妻沼聖天堂を手掛けた林兵庫正清の影響も強く、利根川を挟んでの交流が深かったことも理解できる。本殿の胴羽目の彫刻の裏から飯田仙之助の墨書が発見され、それには石原吟八郎の初代と二代目の名が記されていたことから、18世紀から19世紀の花輪彫刻師の流れを知る上での手掛りとなった。さらに聖天宮の弥勒寺音八につながる彫刻師の流れが分かる様な神社であるという。 
       
 


参考資料群馬県近世寺社総合調査報告書HP」「ぐんま地域文化マップHP」「冠稲荷神社HP」
    ウィキペディア(Wikipedia「境内案内板」等

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