古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

倉賀野諏訪神社

 金井 秀景(かない ひでかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野国西部の武士団、倉賀野衆の一人である。金井淡路守とも称する。後に倉賀野城主となり、倉賀野淡路守秀景と名乗った。
 金井氏は新田氏一族に属する岩松氏の支流で、岩松時兼の三男・金井長義を祖とする。当初、倉賀野氏の当主・倉賀野行政麾下の倉賀野十六騎の一人として関東管領・上杉憲政に従った。天文15年(1546年)、行政が河越城の戦いで討死すると、他の十六騎と共に病弱であった行政の嫡男・倉賀野為広をよく助け、城を守る。
 天文16年(1547年)の小田井原の戦いでは、籤引きで先鋒に選ばれた為広の名代として上杉氏勢を率い、武田晴信と戦うが、大敗を喫した。その後、為広が死去。倉賀野尚行が跡を継いだ永禄2年(1559年)頃に、金井秀景は一転して武田氏方になり、武田信玄に仕える。永禄8年(1565年)、武田信玄により倉賀野城が落城。孤立した箕輪城も永禄9年(1566年)落城、箕輪城主・長野業盛は自刃し、倉賀野尚行が上杉謙信の許に逃亡した。
 元亀元年(1570年)、秀景が倉賀野城主となり倉賀野氏に改姓し、倉賀野秀景となる。
 天正10年(1582年)3月に織田信長の武田征伐で甲斐武田氏が滅亡した後は、織田氏の武将である滝川一益に伺候する。秀景はこの時武田豊信に出仕を促し、梶原政景を仲介するなど一益の補佐役に位置する立場にあった。 同年6月に本能寺の変で信長が死去し、その後の神流川の戦いでも北条氏直率いる軍勢と戦い奮戦するが、敗れた一益が関東から撤退すると、和田信業らと共に後北条氏の軍門に降る。この時、秀景は一益との別れを惜しみ、真田昌幸らと木曾まで一益を警固している。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では北条氏方武将として小田原城に籠城し、早川口の守備についた。小田原城は同年75日に落城。秀景は727日に没した。死因は不明。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1967
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 例祭 826
 JR八高線北藤岡駅の北側を通る国道17号線に一旦合流し、北西方向(旧倉賀野町方面)に向かう。烏川を越えた「金属工業団地」交差点を左折、かつての日光例幣使街道である群馬県道136号綿貫倉賀野停車場線を西行し、旧倉賀野町市街地に入る。
 その後、1㎞程進んだ「下町」交差点を右折し、道なりに250m程北行すると、閑静な住宅街の中にひっそりと倉賀野諏訪神社は鎮座している。
 社の東側には「下町公民館」が隣接しており、そこの一角の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                  倉賀野諏訪神社入り口
「下町」交差点は、かつて倉賀野宿の東端にあたり、日光例幣使街道と中山道が交わる二つの街道の分岐点、つまり『追分』があり、ここには「是従右江戸道、左日光道」の立派な道標と文化11年(1814)、五料の高砂屋文之助の発願で建てられた大常夜燈がある。この道標. 常夜燈は共に高崎市の文化財に指定されている。
 また、その三角地には「閻魔堂」が建っている。このお堂は内九品寺持ちで、古絵図では「弥陀堂」等と記していて、堂内には阿弥陀仏と閻魔大王を安置されている。八月十六日(盆の十六日)「仁王様」の縁日には善男善女で賑わったそうだ。
        
                  倉賀野諏訪神社正面
 倉賀野は干害に苦しんだ土地であった。高崎との地境粕沢の堰から長野堰用水を引いて灌漑用水としていたが、不足気味であったらしく、水争いの記録が多く伝えられている。
 諏訪神社の東前にある池は古池(今は整地されているようだ)と呼ばれ、倉賀野駅の北東にある新池と並んで貴重な灌漑用溜池であった。古池の造成は近世初頭(一六世紀末か)、新池は天明六(一七八六)年である。両池共今は養鯉に利用されているとの事だ。
  
  鳥居付近に設置されている社の案内板     鳥居右横にある「皇太子殿下行啓記念碑」
        
                    拝 殿
 諏訪神社
 この社は、倉賀野城主金井淡路守が、永禄年間(一五五八〜六九)に信州の諏訪湖畔に建つ諏訪大社から勧請し建立したと言われています。
 ご祭神の建御名方神は、五穀豊饒、開運長寿、風水害除けに御神徳があると信仰されています。八月二十六日の例祭で参詣者に授けられる「茅のカマ」は、全国にあるお諏訪さまでも珍しい「風除け」のお守りです。
 境内社の池鯉鮒(知立)神社は、嘉祥三年(八五〇)慈覚大師(円仁)が旅の途中蝮に噛まれたので知立神社に平癒を祈願したところ、痛みも去り腫れも引いたといいます。この御神徳を敬って、三河国(愛知県)
より池鯉鮒大明神を勧請して祀った石宮です。そのため、「蝮よけ、長虫よけ」の神様として信仰され、参拝することで山野を歩いていても蝮蛇に噛まれないと言われています。
                                       案内板より引用
        
              拝殿の左側には立派な土俵がある。
      826日の例祭に、境内で子供の草相撲が奉納されることがあるという。
        
             社殿の奥に境内社・石祠群が祀られている。
 左側には八坂神社、その右隣の石祠群の中右端に池鯉鮒(ちりゅう/知立)神社が祀られている。
 知立神社(ちりゅうじんじゃ/ちりふじんじゃ)は、愛知県知立市西町にある神社で、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では参河国碧海郡に「知立神社」と記載され、式内社に列していて、旧社格は県社。旧称は「池鯉鮒大明神」で、江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられた由緒ある社である。
 社伝では、第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願し、平定後の帰途に感謝して建国祖神の上記4柱を祀ったのが創建という。
 一方、江戸時代まで当社を氏神として祀っていた永見氏一族の『永見氏家譜』によれば、その出自について饒速日尊後裔で知波屋見命(知波夜命:初代三河国造)十五世孫の三河連貞連が、白鳳2年に天武天皇の勅命により知立神主になったとしている。
 江戸時代に入り、寛文年間(16611672)には松平忠房から社領として10石が追加寄進された。江戸時代には主に「池鯉鮒大明神」として知られ、「東海道三社」の1つにも挙げられ、近隣20数か村の産土神として、また蝮除け・長虫除け・雨乞・安産の神として信仰された。特に神札を身につければ蝮蛇に咬まれないとされ、北関東から山陰地方に至る各地に分社が建てられたという。
        
           コンパクトにうまく纏まって配置されている社



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「ニッポン城めぐりHP」「ウィキペディア」
    「境内案内板」等

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森飯玉神社


        
             
・所在地 群馬県藤岡市森1391
             
・ご祭神 倉稲神 菅原道真公 素戔嗚命 大穴牟遅命 
                  
建御名方命 大日孁命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春季例大祭(獅子舞奉納) 315日に近い日曜日
 国道17号線「立石北」交差点を左折し、「第二拾弐踏切」を越え、更に250m程南西方向に進むと、進行方向左手に森飯玉神社の境内に入る事が出来る細い路地があり、そこから社の境内に入る。この場所は境内裏手にあたり、社は丁度背を向けたような配置になっている。境内の反対側である南側には鳥居と社号標柱、そしてその鳥居の先の敷地内には「森公会堂」もある。群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線沿いに鎮座し、「森」という地域名に反して、社の周囲は閑静な住宅街に囲まれている。
        
                  
森飯玉神社正面
       境内は綺麗に整備されていて、社殿も新しい。鳥居の左に見えるのが森公会堂。
『日本歴史地名大系』 「森村」の解説
 立石(たついし)村の西、南は中栗須(なかくりす)村、西は中村に接する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎が上州で給された地に「五拾貫文 森之内中村郷」があり、同六年に武田信玄との申合せによって「森郷内小林右馬允分」は安保氏に与えられている(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。
 寛文郷帳では幕府領、田方一八四石八斗余・畑方五二四石八斗余、元禄郷帳では前橋藩領。後期の御改革組合村高帳では幕府領と旗本水上領の二給、家数五八。中山道新町宿(現多野郡新町)の助郷高七一一石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御用物御継立場に人足三四人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)。
        
                 境内東側にある神興庫
 森地域には、約270年以上の歴史がある「森の獅子舞」が当社の春季例大祭にて奉納されている。「ぐんま地域文化マップHP」によると、この森の獅子舞は、江戸時代中期の1712315日(正徳2年)、当時森村神宮であった塚越大和守正屋は、稲の精霊とされる穀物の神様である「倉稲魂命」を祭神とする神社の建立を時の中御門天皇に申し出て裁許状を下賜され、塚越家の所有地である森村飯玉久保にお宮を安置し、飯玉大明神と命名した。大明神の神前には村民が五穀豊穣と無病息災を祈願する姿が絶えなかったそうである。
 17504月、隣村の神明宮の春祭りで神楽や獅子舞を見るにつけ、森村も獅子頭を購入して大明神に奉納しようと気運が高まり、村民が出し合った金子を元に、村役が内山峠を越えて信州佐久から獅子頭を購入し、舞形や笛は和紙に認めていただき、近隣師匠の応援を得て1751315日の大明神の春祭りで獅子舞を奉納したのが始まりである。以来、舞い手はその家の跡継ぎとし、笛吹は各家庭から1名が参加して現代まで伝承され、江戸時代から明治、大正、昭和と受継がれ、本年で265年の歴史を刻むそうだ。
 流派は「稲荷流」で、カンカチ1人、前獅子(雄)1人、中獅子(雌)1人、後獅子(雄)1人の4人構成で舞を行う。舞は全部で27舞あり、獅子頭は当初の物と平成19年に新調した物と2組ある。 全て漆塗りで髪の毛は馬の毛である。
 昭和12年から昭和21年まで時の大戦により休止となっていたが、 昭和22年、獅子舞の経験者である針谷弁三氏を師匠として青年団を中心に復活、昭和50年からは、森子供育成会の協力を得て、従来の仕来りを排除して希望する子供達全てに舞や笛を伝授しているとの事だ。
        
                    拝 殿
 飯玉神社改築記念碑
 所在地 藤岡市森字飯玉久保一三九番地の一
 祭 神 倉稲神 菅原道真公 素戔嗚命 大穴牟遅命 建御名方命 大日孁命
 神道は天地悠久の大道であって崇高なる精神を培い太平を開く基である
 当社に明和二年八月 京都神祇管領卜部家より認可を得て 村社正一位飯玉大明神と号したに創まる 星霜は移ろい明治四十二年十二月 政府の合祀政策により 村社飯玉神社の境内末社三社の他に森郷内に鎮座された無格社茂木神社の祭神二社 同郷無格社神明宮一社を合祀し 〇〇〇〇あるものは合霊の上 六柱を以て現飯玉神社の祭神とした
 由緒に 中御門天皇の御宇正徳三年三月 時に塚越大和守藤原正屋が正一位飯玉大明神を奉祭し 裁許状を下賜されたことに遡る 正屋の義父塚越正重は神位を尊重し 桃園天皇の御宇寛延二年十二月産子と相計り新宮を造営した
 爾来 孝明天皇御宇文久三年十月に本殿 幣殿 拝殿を改築し 大正六年に到り氏子五十八戸 崇敬者十三人の寄進を得て社殿の補修整備を行い 今日まで護持されてきた
 今般 社殿の老朽するに当たり 氏子崇敬者はここに真意を披瀝し神殿の造営と神域の整美を行い 神の恵みと祖先の恩とに感謝を捧げ国家の隆昌と郷土の繁栄と世界の平和とを祈念するものである ここに永久の記念と刻す。(以下略)
                                      記念碑文より引用

 
  境内に設置された飯玉神社改築記念碑            本 殿
        
                           本殿奥に祀られている石祠三基
              
                        社叢林も境内東側に広がり、住宅街に鎮座し
            ながらも落ち着いた雰囲気も醸し出している。
        
              境内北側の道路沿いにある庚申塔等


参考資料「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」「地域文化資産ポータルHP
    「境内記念碑文」等

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立石琴平神社


        
            
・所在地 群馬県藤岡市立石1400
            
・ご祭神 大物主神
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 春季例大祭 429日 秋季例大祭 113日 
                 越年祭 
1231日 他
 立石新田伊勢島神社の南側を国道17号線が通っており、一旦国道に合流し、「北藤岡駅」方向に進行、「立石」交差点を左折し、路地を南へ入り高崎線の踏切を渡り、道幅の狭い農道のごとき道を道なりに南下、その後右方向進むと、立石地域の集落の中に立石琴平神社は鎮座している。昔懐かしい地域の鎮守様のような雰囲気を醸し出している社。なお、
社の北側に専用駐車場あり。
        
                 
立石琴平神社正面
『日本歴史地名大系』「立石村」の解説
 北境を烏(からす)川が東流、東境を温井(ぬくい)川が北流し、北部を中山道が東西に抜ける。古くは立石・和泉の二村であったといい、村名は「立石様」と称する自然石にちなむともいわれる。永禄六年(一五六三)に武田信玄との申合せによって安保氏に与えられた地に「立石村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。同年閏一二月一四日の某禁制(写、飯島文書)で、木部(現高崎市)在城衆および番手衆の「泉・立石両郡」での乱妨・竹木伐採を禁じている。
 
    鳥居の先で左側にある手水舎              手水舎の並びに祀られている道祖神
        
                 参道右側にある神楽殿
     
110日・429日・1231日の年3回「立石神社太々神楽」を奉納している。
 この立石神社太々神楽は、400年程の歴史を誇る伝統芸能で、日本神話に基づき奉納される古式豊かな神楽で「大和舞太々里神楽」と称し、天正9年(158110月に立石神社の源惣兵衛と松本連が上京し、京都の神祗宮領長(吉田殿)より裁許状を得て、伊勢より勧請して始められたといわれ、舞は36座伝わる。
 
  神楽殿と拝殿の間にポツンとある「立石様」といわれる石とその案内板(写真左・右)
「立石様」の伝説
 江戸時代の始め頃、立石あたりは前橋藩の酒井雅楽頭(うたのかみ)の領地でありました。北に烏川が流れている立石には、江戸時代の主要な街道である中山道が通っていました。
 三角道の道端の大きな杉の木の下に「立石様」という石がありました。「立石様」は濃い緑色をした高さ1メートルほどの細長い自然石で、不思議な霊験がある石ということで、石神様として祀られていました。
「立石様」の評判をきいた雅楽頭は、きれいなこの石を欲しくなり前橋の城へ運ぼうとしました。重さ200貫(750キログラム)ほどの石ですが、やっとのことで船に乗せました。城の影が映る利根川の深い淵にまで来ると、船がぐらりと傾いて、ひっくりかえりそうになりました。「これは「立石様」が城に行くのを嫌がっているのに違いない。無理して動かすと船が沈んでしまう」と人々は恐ろしくなりました。
 雅楽頭は、せっかく城の近くまで来たのに残念だと怒って、長槍で石の背中部分を2回続けて突きましたが硬くて刃が立ちません。仕方なく、元の位置に戻すことにしました。
 帰りには嘘のように船が軽くなり、容易に元の場所に戻すことができました。立石様は立石の土地を守る神様なので、やたらに他所に動かしてはいけないのだと人々に思われました。
 永らく「立石様」は立石地内の個人宅に置かれていましたが、令和6105日にこの地に移設しました。
                                       案内板より引用

 案内板に登場する「酒井雅楽頭」は、徳川家の祖父方である松平家と同祖とされる酒井広親(ひろちか)の次男とされる酒井家忠からの家系で、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれていた。
 酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561)もしくは永禄5年(1562)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた。
 慶長6年(1601)、その子酒井重忠は当時の厩橋城に3万石で入封してから9150年にわたり前橋を治め、前橋の町割りの基礎を築き上げたという。
        
                    拝 殿
 烏川・神流川・鏑川に囲まれた藤岡市の北東部に位置する神社。安土桃山時代の天正9年(1581)創建といわれ、村の五穀豊穣、村民の無病息災、厄除け、家内安全を祈願する村社として存在している。後年、立石琴平神社(立石金毘羅神社)と合祀され現在に至る。古くは「金毘羅さん」の愛称で村人から親しまれていた。
        
            拝殿中央上部に掲げてある扁額と奉納額
 皆野町国神神社の項でも説明しているが、金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と称し、明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」として親しまれている。
 この金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があるが、金刀比羅宮は自身の由緒で大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとしている。大宝年間に修験道の役小角が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮という記述がある。
 
   中央の扁額等の左側にある奉納額(写真左)、右側には絵馬(同右)も掲げてある。

 大物主神(おおものぬしのかみ、大物主大神)は、日本神話に登場する神で、『記紀神話』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。
 ところで、大物主神の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて古来見解が分かれてきた。『古事記』においては出自について詳しい説明が無く、大国主命とは別の神である様に述べられている。
 一方『日本書紀』では先述の大己貴神の別名とする説、大己貴神の幸魂奇魂とする説と、別個の国津神とする説が併記されている。 例えば異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されている。
 明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされている。
        
             社殿左側に祀られている八幡宮天満宮
             
           境内南側の道路沿いに聳えたつイチョウのご神木 


参考資料「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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立石新田伊勢島神社

「群馬県気象災害」をみると県下では近世江戸期、頻繁に水害が起きている。特に寛保2年(1742)の水害は広範囲に大きな被害をもたらした。その時の模様が埼玉県の「中瀬村誌」に記されている。
 寛保二戌ノ年八月朔日の大満水は七月廿七日申刻より大雨降続、同廿九日卯ノ刻より水増酉刻には畑並居屋敷迄押開、戌ノ刻より風強く吹出し、家或は四五尺に余る廻りの,木とも所にて吹たおす事其数多し(中略)西上州山川の咄筆紙に尽しがたく、新町在立石新田、家数五十七軒の所七軒残皆押流され死おびただし、村々に止り命助かる人も有よし也。(後略)
 この時の新町宿大洪水の被害は、流出家屋九十七軒、半潰百十四軒、大破家七十七軒、合計二百八十八戸が大被害を受け、流死人五十四人と大変な状況であった。
 この寛保二年(一七四二)の大洪水の折、温井川の増水が早く、橋も流出し逃げ場を失って立石新田の婦女子が多く死亡した。そして二十一年後の宝暦十三年(一七六三)、寺や村人達等によって立派な石橋が架けられその橋の供養をした。昭和五年コンクリート橋に架け替えられた時に石橋の石は立石新田に返され、神社や寺の境内に保存されているとの事だ。
        
             
・所在地 群馬県藤岡市立石新田3
              
・ご祭神 天照皇大神 素盞嗚尊 月読命
             
・社 格 旧立石新田村鎮守
             
・例祭等 春祭り 3月 秋祭り 1016日に近い日曜日
 新町八幡神社の北側を通る中山道を北西方向に進み、温井川に架かる弁天橋を渡ると藤岡市立石新田に入る。間もなく三差路となり、左への広い道は昭和5年(1930)に造られた道である。しかし昭和40年(1965)バイパスが造られたため、現在は群馬県道178号中島新町線となり静かな通りとなった。
 右の道が中山道でやや右へヵーブし間もなく集落に入る。ここが通称「砂原」と言われる70戸程の立石新田であり、道なりに進むと、地域
の中程東側に立石新田伊勢嶋神社の鳥居が見えてくる。
        
            中山道沿いに鎮座する立石新田伊勢嶋神社
 烏川右岸に沿って新町との境を流れる温井川にある一帯を、昔から通称である「砂原」といっていたが、この名の通り、この地域は洪水の常襲地帯であった。古くはお伊勢の森から付いたのか、「伊勢島村」とも呼ばれていた。度重なる水害から村民が離散し廃村となり立石村に合併された。その後、立石村や烏川左岸の八幡原や角渕の人々が再び開拓して天和年間(16811683)には立石新田が開発されたという。
『日本歴史地名大系』 「立石新田」の解説
 北境を烏川が東流し、東から南は新町宿(現多野郡新町)、南から西は立石村・中島村、北は群馬郡八幡原村(現高崎市)・同郡宇貫(うぬき)村・那波郡角淵(つのぶち)村(現佐波郡玉村町)と接する。古くは伊勢島村・砂原村と称したが、烏川の度重なる水害を避け他村へ移住、延宝年間(一六七三―八一)に立石村の人々が再開発したという。
 元禄郷帳では前橋藩領、後期の御改革組合村高帳では幕府領、家数四九。中山道新町宿の助郷高一四四石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御両懸人足割入場に人足三一人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)。寛保二年(一七四二)八月の大洪水では田畑残らず永川砂入となり、民家六〇軒ほどが流れ、残るは一〇軒余という有様で、流死八〇人余、流馬三〇疋余の大被害を受けた(「大洪水被害記事」須賀文書)。
 
  社の入口である鳥居の両側には幾多の石造物や石祠等が置かれている(写真左・右)
 鳥居に向かって左側には、庚申塔(万延元年 1860)・二十二夜塔(慶応2年 1866)・御岳山大神(弘化2年 1845)・他巳待講等(写真左)。鳥居の右側には、社号標柱の他に猿田彦大神(慶応2年 1866)・大巳貴尊・蚕影山太〇・榛名山〇〇大神や、琴平大神入口の道標石も見える(同右)。
        
      参道を進むと左側に立石新田公会堂が境内に割り込むように建っている。
 立石新田伊勢島神社自体は明治42年(19097月、地域内に祀られていた神明宮等七社を現社地に当時鎮座していた稲荷神社社殿に合祀して、「伊勢島神社」としたという比較的歴史は浅い社である。但し、この社の創建に至る経緯は、この地域一帯の宿命といえる水害等の自然災害を抜きにしては語れないものである。
 社の西側で、地域の集落を越えて直ぐに関越自動車道が横切ったその先に広大な烏川の河川敷が広がり、その一角に「烏川緑地スポーツ広場」が、その公園の東側隅にポツンと『神明宮元宮』、別名『お伊勢の森』と呼ばれる石祠と数本の立木が祀られている。
 ※時間等の都合で、当地を見学・散策できず、写真に納めきれませんでした。
 その石祠の近くに「中山道お伊勢の森」の案内板があるのだが、その案内板によれば、この辺り一帯は、昔から砂原村と言っていて、いつの頃か伊勢島村というようになり、村の北端に、伊勢大神宮を奉斎して、神明宮社殿を建立し。村の鎮守として崇敬していたようだ。その後、寛文年間の水害により、村民が離散し廃村となり、立石村に合併、但し立石村民が再開発して、伊勢島新田村と仮称する(*天和年中 正式に分村して立石新田村となる)。
 時代は下り、明治42年(19097月、神明宮・稲荷神社・琴平社・諏訪社・菅原社・秋葉社・ 戸隠社を稲荷神社社殿に合祀して、伊勢島神社と改称し、鎮守様として専崇したという。
        
                    拝 殿
 中山道お伊勢の森
 このあたりから烏川右岸に沿って新町との境を流れる温井川にある一帯を、昔から砂原村と言っていたが、何時の頃からか年代は詳らかでは無いが、伊勢島村と言うようになり、村の北端に伊勢神宮を祀り、村の人々は大神宮さまと称して崇敬した。しかし度々の水害によって村勢が衰え、江戸時代始めの頃には隣村の立石村に合併となった。
 慶安(一六四八)から承応(一六五二)の頃、加賀藩の意向によって、中島村から新町宿に至る中山道としての新しい道が出来たので、立石村の人々により再開発され、道の両側に沿った集落が形成され、その中程に立石村の政所稲荷社を勧請し、その北隣地に教養寺を創建した。
 その時境内に建てられた石造塔には、
 西上刕緑埜郡、伊勢嶋新田 寛文十年 十一月吉日 などの文字が刻まれている。
 天和二(一六八二)年、前橋藩主酒井忠挙が村名を立石新田村改め現在に至っている。中山道は、始めお伊勢の森の北側を通っていたが、寛保二(一七四二)年の大洪水以後川の浸蝕により、文化年中に森の南側を通るようになった。
 広重の浮世絵(中山道六十九次新町宿)はこの辺りの風景を画いたものである。
 昭和元年、御神木とされていた﨔の大木の落札価格が壱千五円参銭であったことからもその大きさが想像される。現存の神明宮元宮の社殿は、昭和六十二年、村の篤志家の寄進であり、河川敷側に保存されているのは極めて稀なことである(以下略)

                                                                              案内板より引用
 ※この案内板は、地域の歴史や水害等の様子を伝えているだけでなく、間接的にも立石新田伊勢島神社の創建にも関わっていると思われ、敢てこの文書を掲載している。
       拝殿に掲げてある社の扁額               本 殿
 天和2年(1682)村名が立石新田となった時期、「立石新田獅子舞」が他の区より伝承されたという。
立石新田獅子舞」
 天和2年(1682)村名が立石新田となった時期、他の区より伝承されたものと考えられます。流派は稲荷流阿久津派とされ、羽根獅子3(先獅子、中獅子、後獅子)、カンカチ1、花笠2、笛数人の構成に、天狗(猿田彦大神)が加わった珍しい構成です。
 継承されてきた獅子舞も太平洋戦争終戦後30年間も途絶えましたが、有志の人たちが獅子舞の復活に情熱を注ぎ、寄付金を集め、衣装も整え、昭和54年(1979)に復活されました。しかし、平成2年(1990)後継者不足で再度休止に追い込まれてしまいましたが、平成29年(2017)立石新田の伝統芸能を絶やしてはいけないとの機運が高まり、保存会準備委員会を立ち上げ、平成30年(2018)正式に「砂原獅子舞保存会」(会長 金井聡明)を発足させました。舞一人、笛一人の経験者しかいない中、参加者の募集から始め、この活動は上毛新聞に紹介されました。
 文久2年(1862)、藤岡太音次塗師により獅子頭塗替えを実施後、長期に渡り修理されていないため傷みが著しく、獅子頭等の修復作業から取り掛かり、住民の皆様、企業の方々からのご寄付により、平成30年(2018)、中獅子(女獅子)の頭を修復することが出来、令和元年(2019)の伊勢島神社秋祭りにて披露、そして令和4年(2022年)、43年ぶりに伊勢島神社秋祭りにて区内を巡行する事となりました。
                             「ぐんま地域文化マップHP
」より引用
      
           社殿の右側奥に祀られている境内社(写真左・右)
        
             立石新田公会堂の奥に聳え立つ社の御神木



参考資料群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「群馬県立文書館 目録検索HP」
    「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」等
    

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新町八幡宮

 中世の江戸期に宿場として繁盛していた新町宿は、落合新町(落合宿)と笛木新町(笛木宿)の二つが集合した宿場であった。新町宿成立の経緯と地名の由来は、『多野藤岡地方誌』に示されていて、東から南部一帯を緑野郡笛木村、西から北にかけてが下落合村であった。この地域は烏川、神流川の合流し、氾濫原であるために洪水が多く、「落合」という名称も、烏・神奈の落ち合った地域からの地名であるという。下落合に対して旧美土里村(藤岡市)に大字上落合があるが、中山道が開通してからは下落合とはいわず、単に落合といい、落合新宿または落合新町といったという。
 このように新町宿は落合村と笛木村が合体してできた宿場であったのだが、実際は江戸時代を通して、両村の独立性は高かったようだ。地元に残る古文書・古記録には、新町宿をせずに、「落合新町」「笛木新町」と区別されているものが多い。
        
              
・所在地 群馬県高崎市新町2522
               
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧落合宿産土神 旧村社
              
・例祭等 不明
 新町八坂神社から旧中山道(現埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線及び、群馬県道178号中島新町線)を北西方向に進む。この旧中山道の道幅は昔とそれ程変わらないようだが、戦後の開発により新町駅前通りが出来たりして、昔の面影を探すのは困難であるが、町割り自体は昔のままであり、昔の絵図から現在の家を探すことができるという。
 その後、1㎞程進んだ丁字路を左折すると、すぐ右手に高尾山宝勝寺が見え、その隣に「指定村社 八幡神社」の社号標柱が建っている。
        
               新町八幡神社 正面社号標柱
 社の鎮座地は、別当寺である高尾山宝勝寺と共に、江戸時代の中山道新町宿・小林本陣跡の南側奥にあたり、旧中山道という主要街道の宿場町にある鎮守社として祀られていたのではないかと想像する。因みに小林本陣跡とは、「久保本陣」「三俣副本陣」と共に参勤交代の定宿だったといい、建坪135坪あまり、玄関は20畳、つづく広間が15畳といかにも本陣らしい造りとなっていたという。
 
    社号標柱から高尾山宝勝寺の南側脇の路地が参道となっている(写真左・右)。

 新義真言宗豊山派落合山宝勝寺は、森新田にあった地蔵尊を現在の地に移し、新町宿成立以前の慶長13年(1608)に僧堯運によって開山されたといわれる。何回か火災にあっているが、宝暦11年 (1761)に造られた鐘楼門が残っている。造りの立派なものである。鐘は太平洋戦争中供出されたが、昭和28年(1953)再び鋳造された。境内に安永4年(1775)に建立され百番供養塔と六地蔵がある。また墓地には多くの著名人が眠っているが、大和郡山城主柳沢甲斐守保興の室お貞の方が大和の国より江戸へ向かぅ途中新町の本陣で急病でなくなりこの寺に葬った。立派な石塔には「貞蓮院殿貴顔妙倫大姉」「寛政六甲寅年七月初三日」と記されている。
 また柳瀬川(烏川)に初めて船会所を創立して中山道の交通を容易にした事業寒であり、俳人でもあった小林伊左衛門(17221783)、医学者大久保適斎(18401911)、西ヶ原養蚕伝習所(東京農工大前身)に学び、新町養蚕伝習所を創設した境野清衛(18451913)の墓もあるという。
        
              朱を基調と下両部鳥居 これより境内
        
                    拝 殿
 宝勝寺に隣接する新町八幡宮の創建年代は鎌倉時代初期の建久年間(11901198)といわれ、その本殿は元禄4年(1691)に再建されたもので、鎌倉時代の建築様式を残し、柱の彫刻は精巧なものである。
 社の鎮座地は、江戸時代の中山道新町宿・小林本陣跡の奥にあたり、旧中山道という主要街道の宿場町にある八幡神社として賑やかだったことがうかがえる。
 拝殿には絵馬が奉納されているが、文久3年(1862)に新町宿の遊女達が奉納した三面の大作の絵馬は町の文化財に指定されている。一面は玉村の千揮玉斎が描いた「紅葉狩」、他の二面は境町出身の金井研香作の「勿来関」と「花木図」で横六尺縦三尺の大絵馬で保存状態が良い。「花木図」中には「丸富楼」の遊女達が作った俳諧が記されており、新町宿色街の繁栄と俳諧の普及の様子が偲ばれる。
        
         拝殿側面に設置されている羅袈裟喜氏指定文化財の案内板
 高崎市指定文化財
 ①八幡宮絵馬
 一、「勿来関」(板面著色・額装)
 作者   金井 研香
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  高橋屋の遊女(7名)
「勿来関」は、郎党2名を従えた騎馬武者を中心の絵柄として、背景に桜花を配することで、華やかさと潔さを象徴している。
 一、「花草図」(板面著色・額装)
 作者   金井 研香
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  丸富楼の遊女(8名)
 遊女8人の俳句が書かれている。
「花草図」は、画面右から上部にかけて、八重かと思われる豪華な桜花でおおい、花影の下部にはひかえめに草花を配す、見事な画面構成である。
 一、「紅葉狩」(板面著色・額装)
 作者   千輝玉斎
 制作年代 文久3年(1863
 奉納者  絹屋の遊女(9名)
「紅葉狩」は、平維茂が鬼女を討たんとする瞬間をとらえており、逃れんとする鬼女の動きが劇的な効果を高めている。
                                       案内板より引用
指定種別:高崎市指定重要有形民俗文化財
名称:八幡宮絵馬 三面(はちまんぐうえま さんめん)
・指定年月日:昭和55110
 ②天神の獅子舞
 天神地区(現在の第2区周辺)の人達によって伝承されている稲荷流獅子舞で、雄2頭、雌1頭の一人立ち3頭獅子である。獅子は鳥総を飾った頭をつけ、タッツケ袴、白足袋、草鞋ばきで、腰太鼓をつける。元禄4年(1691)落合宿で八幡宮再建のおり、新町産の一本桐で獅子頭を新調したといわれている。獅子3頭のほか天狗とカンカチが加わり、笛の伴奏で舞全体をリードする。祭りの時は天神様・八幡宮を参拝し、神官に祓い清めてもらい、舞を奉納してから上三町(現在の第1区、2区、3区)の祭会所で舞を披露する。
                                       案内板より引用
指定種別:高崎市指定重要無形民俗文化財
名称:天神の獅子舞(てんじんのししまい)
指定年月日:昭和55110
        
                    本 殿
 
     社殿の右側にある神興庫         神興庫の右並びに祀られている石祠
 市指定文化財「八幡宮神輿」が大事にある。          詳細は不明
③八幡宮神輿
寛政5年(1793)宿場の大火によって焼失したものを、信仰の篤い宿場の人々の悲願によって享和元年(1801)に復元されたもので、渡御神輿と称される荘厳なつくりです。
落合宿の産土神、八幡宮の神霊を祭事に移して、宮本・仲町・橋場の各町内に御旅所を設け、年番の町内が奉仕した。神輿のほかに四神旗もあり、青龍・朱雀・白虎・玄武の信仰は中国から渡来して大和時代に定着したが、庶民に浸透したのはずっと後である。
                                       案内板より引用

・指定種別:高崎市指定重要有形民俗文化財
・名称:八幡宮神輿(はちまんぐうみこし)
指定年月:平成3127
        
            境内の東側隅に設置されている第一区花車庫
 八幡宮の氏子区域は宮元町(一区)、仲町(二区)、橋場町(三区)の三町から構成されていて、各区お囃子が異なるという。
「新町ふるさと祭り(山車まつり)」は、2年に1回の隔年開催の行事であり、8月中旬に町内110区の各山車・屋台が日中は地元を廻り、夕方から駅前通りに集結しお囃子の競演、叩き合いを行うものだ。
 
  帰り際に境内の一角から鳥居方向を撮影      鳥居の先にある特徴ある手水鉢
        
                   境内の様子


参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「群馬県神社庁HP」「ぐんま地域文化マップHP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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