古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新里菅原神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町新里113−1
             
・ご祭神 菅原道真公(推定)
             
・社 格 不明
             
・例祭等 石経様 527日 厄神除け 628 
 東武伊勢崎線川俣駅から350m程東側の地に位置し、埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線沿いに鎮座する社である。熊野那智大社文書に「永正二年(1505)、上野国佐貫庄新里雅樂助・同名太郎左衛門」とあり、嘗て新里地域には、佐貫氏族新里氏がおり、邑楽郡佐貫庄新里村に移住し、当地名「新里」を名乗ったという。因みに「新里」と書いて「にっさと」と読む
        
                
新里菅原神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「新里村」の解説
中谷村の東に位置する。永正二年(一五〇五)八月二一日の旦那願文写(熊野那智大社文書)によると佐貫庄の新里雅楽助・同名太郎左衛門らが紀州熊野那智山に参詣している。両人は新里の住人であろう。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方三二六石余・畑方一八四石余。弘化三年(一八四六)の国役金掛高帳(「明和村誌」所収)によると利根川国役普請役を課せられていた。
        
                          一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
                  二基の鳥居の社号額には「天満宮」と表記されているが、
                グーグル等の地図等には「菅原神社」として案内されている。

『明和村の民俗』によると、
嘗ての新里の村構成は以前六〇戸で、「本当の新里は六〇戸」等という言い方をする。三十年程前までは、地縁により東ドウバンと西ドウバンの二つに新里を分け、東ドウバンがギョウバン様(地蔵寺)の祭を担当し、西ドウバンが天満宮の祭を担当した。その後三つの地域に分けて、それぞれ一番組、二番組、三番組とよび、祭り番はギョウバン様、天満宮ともに一年交替で行っていた。
 ドウバンの中は、さらに組合に分かれていたが、現在でも冠婚葬祭はこの組合を中心に行う。組合とは別に十戸単位で隣組というのがある。隣組は納税組合と回覧板をまわす単位になっているという。
        
                         綺麗の手入れされた境内
        
                    拝 殿
 拝殿の規模といい、境内に祀られている境内社や庚申塔の数からみても、旧
新里村鎮守社・旧村社の社格如きは当然であろうと思われるのだが、創立年代や由緒を記した物が手元になく、残念ながら社格には「不明」と記してしまった次第だ。
    
拝殿向拝部や木鼻部に施された色鮮やかな彫刻    拝殿手前で左側にある力石、手水舎・石燈籠
                                        石燈籠は「嘉永六昭陽赤奮若 龍集九月下荀五日」
        
             境内にある記念碑・庚申塔・石碑など
  左から凱旋記念碑・庚申・庚申・庚申塔・(?)・庚申・羽黒山 湯殿山 月山の石碑
        
      社殿左側横にある明和町指定史跡である「経塚附石経圓塔」を納めた祠
 明和町指定史跡 経塚附石経圓塔
  昭和五十六年四月七日指定
  所在地 明和町新里一一三番地
  所有者 菅原神社
 新里地蔵寺中興の祖、行鑁上人が疫病退散を祈願、心身を清め一石一字真心を込めて大般若心経を書写し正徳三年(一七一三)神社の北西に埋めた。
 明和八年(一七七一)地蔵寺僧慶陳がこの圓塔を建て所在を明らかにした。
 昭和五十六年十一月 明和町教育委員会 
                                                                             案内板より引用
 また、令和2331日発行の『明和町HP 明和町の文化財と歴史』には「「ぎょうばん様」を以下の記述により紹介されている。
「ぎょうばん様」
 小比叡山地蔵寺の中興開山行鑁上人(ぎょうばん様)の略伝には、「寛永 17年(1640年)に奥州白河(福島県)に生まれ育ち、才智が非常にすぐれており、仏の教えをよく守り、徳行ともに人並みより優れ、希にみる高徳の僧であり、永く仏徒・村民の模範とすべきである」と記されている。
 ある時上人は、一石一字、大般若経六百巻、光明真言百万遍を書写して、この世の疫病による災難を救おうと一大念願を起こした。近隣教化の途中淨石を拾ってきて、その石に一字を書くごとに三礼をしながら書写した。それが終ったのは正徳3年(1713年)527日、その石を鎮守社(新里天満宮)の北西の隅に埋め、石経圓塔と称する塔を建てた。その後は、毎年病にならないよう法要(石経様)を行うようになった。これ以降、その功徳により村は永いこと疫病の憂いから解放された。たまたま近隣に悪疫が流行した時には、石経圓塔を発掘して村人に拝ませると悪疫は去っていったと伝えられる。この石経圓塔は町の指定史跡に定められている。上人は臨終に「67月は疫病の流行する時期であるので、我が法要は6月に行うように。」と遺言して息絶えた。時に享保2年(1717年)927日、享年77才だった。以降、上人の遺徳を偲び、毎年527日には法要(石経様)を天満宮にて続けている。また、7月下旬には行鑁堂で法要を行い、境内にて行鑁祭(夏祭り)が盛大に
経塚附石経圓塔行われている。
『明和町の昔話』にも「行ばん上人と厄よけだんご」として上記と同じような話が掲載されている。
        
               本殿奥に祀られている合祀社
        諏訪大明神・稲荷大明神・長良大明神の額が掛けられている。
        
                   静かに佇む社



参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「
明和町HP」「明和町の文化財と歴史」等

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千津井三嶋神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町千津井5152
            
・ご祭神 大山祇神(推定)
            
・社 格 旧千津井村産土神・旧村社
            
・例祭等 春祭り 315日 夏祭り 7232425
                 
秋祭り 1115
 群馬県邑楽郡明和町千津井地域は、利根川中流域左岸にあり、江口地域の東側に接している。途中までの経路は江口諏訪神社を参照。そこから、東方向に進む道を650m程進むと、左手に千津井三嶋神社の鳥居が見えてくる。
「千津井」、なかなかの難解地名であるのだが、鎌倉時代に記録のある地名のようで、「せんづい」と読む。因みに、埼玉県旧騎西町には苗字として「泉津井(せんづい)」と名乗っている家が数戸あるというのだが、何か関連性があるのであろうか。
        
                 
千津井三嶋神社正面
            参道や鳥居も新しく整備されているようだ。
『日本歴史地名大系』 「千津井(せんづい)村」の解説
 江口村の東、利根川左岸に位置する。中世は佐貫庄に含まれ、嘉暦三年(一三二八)四月八日の三善貞広寄進状案(長楽寺文書)に添えられた弘願寺寺領注文に千津井郷がみえる。下って天正一五年(一五八七)一一月一九日の北条家朱印状写(「紀伊続風土記」所収)には館林領千津井郷とみえ、梶原源吉に郷内八八貫八二〇文の知行を与えている。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方一四四石余・畑方三五〇石余。
        
                    拝 殿
              この社は南向きで、利根川に向かって社殿は配置されている。
   境内周辺には由緒等記している案内板はなく、創立年代等はハッキリとは分からず。

 千津井の産土神は三島神社で、明治の神社合併で愛宕様・天神様・八幡様・戸食様・稲荷様・雷電神社も合祀されている。三島神社は梅原にも一社あるが、あとは上の方に一社あるだけといわれている。昨年、本社に氏子たちが参拝に行って来た。御神体としては丸い鏡で、藤原という名のある柄鏡の柄をとって祀っている。河川改修で利根川の流れの中に入ってしまい、大正二 年に現在地に移転し今年完成した。
 三島神社の祭りとしては、春は三月十五日、夏は七月二十四日で、このときは二十三・四・五日の三日間あり、秋は十一月十五日の三回ある。七月の祭りは二十三日に神社で祭典があり、雹害と五穀豊穣の八丁締めを立てる。高い所へ立てるので氏子が梯子等を用意していて立てる。二十四日には早朝、有力者の先輩の家の庭で舞う。また希望を受けてやる。
 ニ十五日はササラをする。ササラに参加する者は、青年の場合と村全体の場合とがあった。
 ニ十六日は祭りに使った道具を整理、洗濯をして、収納箱に納めてから慰労会(直会)をした。例によってやることで、貰った御神酒なども処分した。残ると耕地毎に分けた。
                                 「
明和村の民俗」より引用
        
             拝殿には「正一位三島大明神」と表記

 嘗て利根川に橋がないころは、県の費用で渡し船を利用していた。渡し場は千津井・川俣・梅原・江口・斗合田と大体2㎞間隔位にあった。その中の「千津井の渡し」は、埼玉県と交代で人夫船(頭)に出て人々を渡した。斗合田境と江口境の二か所あり、その間は700mある。津井の渡し場には河岸があり昔は問屋が立ち並んだようだ。
        
             境内に祀られている庚申塔や馬頭観音等
        社殿横に祀られている末社群           末社群並びにお狐様が並んで祀られている。
  左から小天狗・大天狗・愛宕山神社・(?)        狐といえば稲荷神社であるが、
    辨財天・
(?)・庚申塔・道祖神        稲荷神社が近くに祀られているのであろうか。
        
                           社殿から見た利根川堤防の一風景

「明和村の民俗」によると、明和町で獅子舞を伝承している地域は、斗合田・下江黒•千津井・江口・梅原の五ヶ所あるという。その中の千津井では、三島神社の夏祭に獅子を出した。神前で舞ってから、笛.太鼓を鳴らしながら各戸を歩いた。 雄獅子(2)、雌獅子(1)棒使い(2)で構成し、道具持ちが付いて行く。演じる人は長男が多く。小学校四、五年生のうちからやった。 最初に棒使いをしてから、獅子舞に移る。()は高さ1m程の草刈、菴形の菴の中に一人入って蛇を持ち、笛の曲に合わせて蛇を出し入れするが、しまいには回りで舞っている獅子が、その蛇を飲む所作をする。「カネマキ」という名称である。「花」は花笠を被った四人が四隅に立ち、互いに縫うように踊る。
        
            社の東側の道端に大切に祀れている地蔵様
    周囲の木々の手入れもしっかりとされ、地域の方々の篤い信仰心を物語るようだ。 

「弓くぐり」は二人で長さ2mの弓を引っ張って、くぐって踊る。獅子舞の笛は竹製で、朱塗りのいい笛があり、座敷に上って吹く。
 七月二十四日が三島神社夏祭の本番で、獅子舞は申し込まれた家々を回って演じた。悪魔除けのため、お祓いを持って座敷に上り奥まで一巡してから、庭へ出て踊って行く。家族が獅子頭をかぶってもらうと悪魔除けになるという。
        
               千津井地域の利根川堤防の眺め



参考資料日本歴史地名大系」明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等

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江口諏訪神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町江口10181
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧江口村鎮守社・旧村社
             
・例祭等 例祭 727
 群馬県明和町江口地域は、利根川中流域左岸にあり、上州三島神社が鎮座している梅原地域の西側にあたる。途中までの経緯は上州三嶋神社を参照。この社から東側に走る道路を3㎞程進んですぐ南側には利根川の土手が見える場所に江口諏訪神社は静かに鎮座している。
        
                  江口諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「江口村」の解説
 田島村の南、利根川左岸に位置する。暦応四年(一三四一)二月一〇日および康永二年(一三四三)八月二〇日の寮米保西内島村注文(正木文書)にみえる佐貫江口又四郎は、当地に関係する人物であろう。応永三三年(一四二六)青柳綱政は「佐貫庄江黒郷之内近藤原之村」内の畠一町を江口なる者に売渡しているが(同年一二月一九日「青柳綱政畠売券写」同文書)、この江口も当地に関わりのある人物とみられる。

 社の北側には集落が東西に走る道路沿いに連なっているのだが、社そのものが集落ではなく利根川方向に向く南向きで、参道も土手へと続いている不思議な配置となっている。
       
     入口の一対の柱にはそれぞれ卵形の自然石を利用した力石がある(写真左・右)

 この力石は多田市蔵(いちぞう)という人が文政2年(1819年)に奉納したものである。多田氏の先祖の市蔵という人が千津井の日野見屋という酒屋で、この石を担げれば一升くれるといわれ、かついで持ってきたものという。市蔵は連氏の四代前。一つは長さ68㎝、高さ35㎝、刻銘「二十九メ余」(メは貫目)、もう一つは長さ68㎝、高さ35㎝、刻銘「奉納四拾貫目文政二己卯、願主江口村多田市蔵」
 力石は、関東をはじめ日本全国に見られるが、場所によっては「さいいし」と言っているところもある。その多くは神社の境内等にあるが、やはり、卵形の自然石を用いたものが多く、これを持ち上げた人の姓名、石の重量などが刻んである。また、病人のあるときは持ち上げれば全快、上がらないときは見込みが薄い等、石占いに使用した例もある。いずれにしても最初は神意を伺うものとして始まったようである。昔は村仕事として洪水による堤防の土端打作業等があったが、現代と違って作業が全て人力によって行われたので、一人前の人間として平素から身体を鍛えておく必要があった。また、同時に力のあるものはそれを誇りにするとともに、威厳を示したのである。そのために若者たちが正月、盆、農休み等の集会時に力を示すために担いだ石が力石と呼ばれている。
 30貫の力石を持ち上げると一人前と言われていたが、実際は力石に刻まれた重量より2割ほど軽いのが普通となっているという。
       
         拝殿に通じる石段手前に設置されている「社殿新築記念碑」
 社殿新築記念碑には「諏訪神社旧社殿は、安政年間の改築にかかるもので、既に百四拾数年を経て老朽化が激しく、そこで、氏子総会を開き、この対策を議し、氏子割寄付金と篤志寄付金を以て、新築することに決し、平成拾壱年、拾弐年の両年を以て、完成したものである。」との事が記されているが、創立年代等はこの碑には記されておらず、他の資料も調べたが不明である。
       
                    拝 殿
        
       石段上に祭られている境内社・子神社。その奥には神興庫がある。
 子神社は「権現様」とも称され、権現様は足の神様で、足の悪い人がお参りし、治ると金の草鞋をあげた。子の権現が権現様と呼ばれるようになったという。

 明和町の「町のトピックス」において、2023722日(土曜日)江口地域の諏訪神社において、保存会による「ささら舞い」が、家内安全・五穀豊穣を願い、4年ぶりに奉納されたという。
「明和町教育委員会」発行の『明和町の文化財と歴史』では、当地は、民俗芸能の盛んなところであり、町内に獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域に残っているという。この神興庫の中に獅子舞の道具が保管されているのであろうか。
        
            境内北側に並んで祀られている石祠・石碑群
 左奥から長良大明神、八幡大神・天照皇大神宮、前鬼宮、雷〇、奉納石燈籠一基と刻まれた石塔、熊(野?)宮、稲荷宮、神〇宮、戸隠大神、(?)、辨(財?)天・大(神?)宮・天満宮、(?)、(?)、水〇〇、水神宮、水神宮、(?)。
        
                             社殿から参道方向を撮影
    鳥居のすぐ先には利根川の堤防があり、石段がわざわざ堤防上まで伸びている。

 ところで、『明和村の民俗』において、江口諏訪神社の祭礼に関して以下の記載がある。(*カナ文字に関して、筆者が可能な限り漢字に直している)。

 江口地域の鎮守社である諏訪神社の祭日は七月二十七日。これが本祭りで、前日二十六日の晩は「宵祭り」、二十八日は厄神除けであって、昔は祭礼にはササラが出た。四つの耕地にササラ番があった。一年毎に上・中・新田・下組の順にまわる。昭和五十六年は上がササラ番である。
 七月二十六日の晩は旗を上げたり、花を拵えた。これはササラ番の人が中心になってやるが、各戸一人は必ず出ることになっていた。昔はササラをやった。獅子頭は三つあり、雄獅子・雌獅子・中獅子とあった。ササラは村の人がやったが、奉公人は参加できなかった。
 ササラをやる前にボウヅカイが木刀で踊った。二十六日の晩は境内でササラをやった。
 二十七日の朝早く神官が来て拝んでくれた。この時は氏子たちもいった。境内でササラやったあと、役員の家を一軒一軒回った。役員というのは、区長、社寺総代四人.協議員各(耕地に二人ずつ)八人の計十三人である。この役員の家をまわった。昔は夜が明けてしまうこともあった。
 二十八日は厄神除けで、厄神除けをやってもらいたいという希望の家だけを回った。これをウラザサラともいった。厄除けはカミからシモにすってきた。神官が切ってくれた幣束をムラ境の上梅原・古森との境と下千津井との境の2カ所に立てた。立てる時には社寺総代と評議員もついていった。厄神除けをすると村に悪いものが入って来ないという。厄神除けの道順はきちんと決まっていて間違わぬようにした。
 なお、ササラは笛が四、五人いた。戦後暫くやっていたが、現在はやってない。道具などは諏訪神社境内の蔵に保存されている。
 
  鳥居の先にある石段を上り終えると、そこには利根川の雄大な流れが広がる。(写真左・右)
        利根川の対岸は羽生市・発戸地域、及び上村君地域である。

 昭和29年までは、江口・千津井・斗合田各地域には、渡し場があり、渡し舟で利根川を渡り、対岸の羽生市との交流を深めてきた。嘗ては羽生から簔や唐笠や金物や魚類などの、多数の行商人が舟で利根川を渡って町へやって来た。 盆・暮れなどハレの日の買い物には、こちらから川を渡って埼玉県側 に出かけて行ったとの事である。
 商売上の取り引きばかりでなく、人間自体の交流も盛んであった。村人の中には、羽生の人と縁組をする者も多く、花嫁を乗せた渡し舟が毎年のように往復したとという。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等
 

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上州三嶋神社

 明和町(めいわまち)は、群馬県南東部に位置し、邑楽郡に属する町である。群馬県の地形は鶴が空に舞ったような形に似ていて、その首の方(東南端)にあり、気候は比較的温暖で南に利根川、北に谷田川が流れる水と緑が豊富な地域である。総人口11,562人、世帯数3,779世帯(200912月)の自治体である。東京都心から約60kmと群馬県の中で最も東京都に近く、交通の便も良い事から、東京へ通勤・通学する住民も多く、関東大都市圏に属する。
 町内の大規模な工業団地により財政は非常に豊かで、対人口財源は群馬県下上位で、2007年より交付金不交付団体となっている。2006年の財政力指数は0.80であったが、2007年に1.11となった。それらを理由として、隣接する館林市などとの合併を拒み続けてきた。
 町名の由来は、1955年(昭和30年)に千江田村、梅島村、佐貫村の三ヶ村の合併時に、公募により「明朗で平和な村に」という想いから新村名として「明和村」と名付けられたことによるという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町梅原262
            
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 豊城入彦命
            
・社 格 旧明和総鎮守・旧郷社
            
・例祭等 鎮守例大祭・春季例祭 3月後半 夏季例祭 7月後半 
                  
秋季例祭 10月後半 新嘗祭 1023日 他
 羽生市利根川右岸にある「道の駅 はにゅう」から国道122号線を北上し、昭和橋を越え、群馬県明和町に入る。その後、「川俣」交差点手前にある邑楽用水路の十字路を左折し、1㎞程進んだ場所に社はある。旧郷社の格式がり、旧明和村の総鎮守として、地元の方からは「三嶋さま」と厚い信仰を受けている歴史ある社である。
        
                  上州三嶋神社正面
  鳥居の社号額に刻印されている「明和総鎮守」がこの社の格式の高さを物語っている。

『日本歴史地名大系 』「梅原村」の解説
 利根川左岸にあり、東は江口村、西は川俣村。中世は佐貫(さぬき)庄に含まれ、梅原郷と称した。元応元年(一三一九)九月二四日の佐貫梅原時信在家田畠売券(長楽寺文書)には「むめはら」とあり、時信は坪付注文を添えて郷内の在家付畠二反と田四反を三三貫五〇〇文で加地三郎左衛門尉女子尼仙心に売却、翌二年二月二三日の関東下知状(同文書)でこの売買が認められている。売却地には公田一反があって公事を出し、他は万雑公事がなかった。
        
         正面鳥居のすぐ東側に真新しい社の看板等が設置されている。 
     鳥居を過ぎた境内の様子             神門前にある神橋
     幾多の灯篭が参道を飾る
        
                    神 門
 
 神門を過ぎると左手に境内社が祀られている。      羽黒山神社の右手に並んで祀られている
       左は厳島神社、右は羽黒山神社                 猿田彦神社、九頭龍大神等の石碑
 
          石碑の先には境内社・仙元宮の鳥居が建つ(写真左)
    鳥居の先には、小さな富士塚の石段があり、その塚上に浅間神社が鎮座(同右)
        
                    拝 殿
 当社は「上州三嶋神社」を始め、近在からは「お宮」「三嶋さま」などと親しく呼ばれていますが、 その正式名称を「三嶋神社」と称します。 江戸時代末期の弘化3(1846)、火災により社殿および古記録の一切を焼失したため、創建年月を含む由緒については不詳です。社説によると、伊豆国の三嶋大社(現在の静岡県三島市大宮町)から神霊を 勧請(お招き)した地方の古社と伝えられています。
 江戸時代以降、明治時代に至るまでは、当社近在の梅原山月上院・光明寺(高野山真言宗)の住職が代々 「別当(神社を管理した僧侶)」を務めていました。 歴代住職の当社に対する信仰心は篤く、当社に残された御神宝や石塔などからその様子を うかがうことができます。
 御神座近くに奉安されている御神鏡も、江戸時代中期の享保21年(1736)、当時の別当・光明寺弘誓と 惣氏子中より寄進されたものです。
 現在の社殿(拝殿)は、焼失の翌々年、嘉永元年(1849)から翌2年(1850)にかけて再建されました。 再建事業は別当の光明寺英猛の主導の下、鎮座地の梅原村を中心に進められ、またこの再建を機として 火災等の事故を防ぐため、近隣の村落から神主家の祖が招かれて、神社内に居住して社殿を 管理するようになりました。
 なお、再建にあたっては、名主・組頭といった村役人を大世話人として、梅原村の人々が中心となって 事業が進められましたが、江戸時代としては非常に珍しく周辺20ヶ村(現在の明和町全域・館林市南域・ 千代田町東部)からも寄付が寄せられており、当社に対する信仰が近隣地域にまで広く及んでいたことがわかります。
 以後、拝殿は長年に及ぶ風雨や近年の大震災の影響によって、現在に至るまでに 幾度かの改修工事が行われましたが、再建から160年余り経った今も、往時の姿をしっかりと留めています。
 その後、近代に入ると、明治5(1872)11月、近隣8ヶ村(現代の明和町中部・東部)の総鎮守である 「郷社」に定められ、地域総鎮守として篤く信仰されました。
 現在は群馬県を中心に、近隣の埼玉県や栃木県、茨城県からも、「勝負の神」「虎の神」、交通安全に 霊験あらたかな神様として、広く崇敬されています。
                              「上州三嶋神社公式HP」より引用
 
         拝殿左側に祀られる合祀社               拝殿手前で参道右側に祀られている。
     左から菅原神社・神明宮・愛宕神社         灯籠と九頭竜大神の石碑
                            奥には、神楽殿も見える。
「明和町教育委員会」発行の『明和町の文化財と歴史』では、当地は、民俗芸能の盛んなところであり、町内に獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域に残っているというが、『明和村の民俗』によると、嘗ては上記4地域の他に、上州三島神社が鎮座する梅原地域にも獅子舞があったようだ。
 明和町は洪水の常襲地だったから、ちょっとした出水も、すぐ田畑に冠水する地であったのだが、時には旱魃の害も受けたため、「雨乞い」が盛んに行われた。その方法は、普通板倉町の雷電神社に日参したり、総参りしたりするといった神頼みが中心であったという。また、雨乞いの際に、獅子舞を奉納することもあったようだ。
        
                   境内の一風景



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP」「上州三嶋神社公式HP」「明和町の文化財と歴史」
    「明和村の民俗」「Wikipedia」等
  

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下中森長良神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字下中森86
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1944132,139.4761404,16z?hl=ja&entry=ttu
 上中森八幡宮から一旦北上して群馬県道368号上中森川俣停車場線に合流後、そこを右折、同県道を1㎞程東行した十字路を再度右折し、450m程南下した利根川土手のすぐ北側に下中森長良神社は鎮座している。
本来ならば、上中森八幡宮から土手伝いに西行するほうが、近道で当社に到着できるのだが、実際には社同士直通する道はなく、道が入り組んでいて少々説明しづらいので、県道を通るルート説明となった。
 また社周辺には適当な駐車スペースはないため、近郊にある「下中森公民館」の駐車場を利用してから参拝を開始した。
        
                 
下中森長良神社正面
              画像左側には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「下中森村」の解説
 [現在地名]千代田町下中森
 北東は大輪村(現明和村)、西は上中森村、南は利根川を隔てて武蔵国埼玉郡須賀村(現埼玉県行田市)。近世は初め館林藩領。寛文郷帳では中森村とのみある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)に下中森村高九三五石七斗余、田三六町三反余・畑五九町六反余とある。天和二年(一六八二)幕府領、旗本中根・新見領の三給となる。村高八八四石二斗余(分郷配当帳)。

 群馬県千代田町は利根川沿いにある為、太古の昔から今に至るまで、利根川から被害と恩恵を受けながら発展してきた。川沿いの舞木・赤岩・中森・瀬戸井等の部落は現在南に堤防が高く続いている。明治四十三年の洪水以後に築かれたものであるが、それ以前は江戸時代初期以来十余度の洪水に遭遇している。中でも元禄十二年の洪水の被害は大きく、その後、享保、天明、文政、明治年間に大洪水が繰返されてきた。下中森地域も同様で、過去利根川破堤の歴史、及び自然災害は途切れることなく発生していた。
・寛文11年(16717月 下中森破堤
・享保18年(1733) 下中森破堤
・天明3年(1783 75日〜8日浅間山爆発し、砂二寸も積もる。焼石、焼岩利根川に押し入り魚多く死す。硫黄の水も流出。浅間山史上最も著名な噴火である。
・明治43年(1910811日午前2 、下中森大輪境破堤、流失家屋四十六戸、耕地の被害田二百二十六町一反三畝、畑三百五十二町二反四畝、富永村において救助を受けたる戸数七百一戸、金額ーー、九四六円三厘という。
 このような水害をもたらした利根川は、一面陸上交通の発達しなかった時期には水上交通の動脈として大きな役割を果たしてきた。舞木赤岩・上五箇上中森には河岸が設けられ、物資の交流に役立っていたが 、その後、鉄道開通によりその機能を失った。
 利根川を控えた本村においては、舞木.赤岩・上中森• 下中森•上五箇には河岸や渡しがあって、対岸の埼玉県を通って東京(江戸)への通過地点として重要な役割を果してきたのである。
        
                   参道右手にある建物。神楽殿だろうか。
 土地の伝承によれば、明治四十三年の利根川の大洪水以前は、川巾が狭く、埼玉県側との人馬の交流が盛んであったという。なお、渡船は埼玉県側との間に次のような連絡がとれていた。下中森と埼玉県の須賀村、上中森と下中条村、上五箇と酒巻村、赤岩と葛和田村(これは現在も運行)、舞木と俵瀬村、このうち、俵瀬村は古くは赤岩村の一部であったが、寛永の頃埼玉県側の俵瀬村となったといわれ、赤岩からの分家の記録もあったという。上•下中森方面は、埼玉県の羽生市と、瀬戸井、上五箇方面は行田市と、赤岩、舞木方面は熊谷市との経済交流もあり、同方面への高校進学者もあり、また婚姻関係も密接であった。
 このように、埼玉県側との交流は古くから盛んであったことは、本村における習俗の面にも影響を及ぼしていたことであろう。
 社会生活の面でも、利根川の大洪水の影響がみられていて、洪水体験も各大字に伝承されているし、水防についてもいろいろな方法が考えられているのである。上五箇地域のように、大きな災害を何度も受けてきたことが今に伝えられる例もあれば、古海地域の用水取入ロの砂の取払い人員としての古海役とか、利根川の土手刈りなど、この地方の特色を示した習俗といえよう。
        
                    拝 殿
                      創建時期・由緒等は不明。
『千代田村の民俗』によれば、下中森長良神社の春、夏、秋の祭りに、下中森の宮総代がキリハギを作って悪魔除けとして、下中森と上中森の境界の道端に立てたという。

 ところで、瀬戸井長良神社は、邑楽郡下や一部新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十ニカ村の総鎮守であったという。
 長良神社は祭神を藤原長良公としており、土地の伝承によると、長良公が東国平治のためにこの地方に来て善政をしいたので、土地の人びとはその徳を慕ってすでに春日神社の末社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。伝承・伝説はあくまで参考資料として尊重すべき対象であるが、根源的な成立要因として、嘗て利根川水害の被害が多かったこの地形と関連づけて長良神社の成立を考えるべきであろう。
 長良神社の分布範囲が舘林市から大泉町の利根川流域(数社羽生地域にも鎮座)に限られていること、人柱伝説を伝えていることで神社は蛇ということあるいは秋の祭典にわらで龍のかたちをつくつて鳥居にかざること、この神社には龍がいて利根川の水を飲んだということなどから、同社の神格に、水神信仰との関連を推論することができそうである。
 当社は、利根川堤防に隣接するその立地条件からも「長良十八社」の一社と推測され、同じ文化・伝承を共有する社であるのであろう。
 
    拝殿上部の向拝・木鼻部の彫刻                          本 殿
        
              拝殿の左側に祀られている石祠群
 左側から(?)、正一位稲荷大明神、富士嶽浅間神社、御嶽三柱大神、三峯社、秋葉大権現・金毘羅大権現、(?)。写真には写っていないが、基段の下左端に庚申塔・(?)。
        
             社殿の右手に祀られている「英魂」碑
 
   「英魂」碑の右手に並列している石碑群    「合祀記念碑」の右側には「再建の碑」
   左から「工事記念碑」「合祀記念碑」     「凱旋記念碑」「凱旋記念碑」あり
 工事記念碑
 戦争を放来し文化の隆昌と民生の繁栄を国是として茲に(中略)利根河川改修工事等も逐年拡大補強が続けられていたのである。偶世紀の利根大堰建設に伴い、下中森地堤防の拡張が急速に促進され為に昭和401030日村社・長良神社の発展的な移転が此処に余儀なく決定されるに至った。
 世々に氏子が斎き奉る御社だけに移転の際には慎重且厳粛にその審議が進められ、結局此処に永く鎮り祀る歴史の尊厳を基調として、更に明日の部落永劫の繁栄を加護し給う〇〇十宮居を整工祀る事こそ其の局に当る者の責務也とし、先ず堤防敷地文として譲渡する197坪の土地に代え隣接する255坪を入手之工費に宛て、昭和411月着工の運びとなる(以下略)。
読みやすいように筆者修正した部分あります。
        
                   境内の風景
 この地域を含む群馬県南部利根川左岸の低地帯は「上州の空っ風」といわれる、冬時期特有の北風が吹く。この風は非常に強いため、冬を越すと堀が一年で泥で埋まるほどである。そこで、「イヤマ」と呼ばれる防風林を西北側に囲むような配置となっている。
 下中森長良神社の西北側にも防風林がしっかりと配置されている。



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「境内記念碑文」等

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