境平塚赤城神社
しかし、これほど精巧で緻密に彫物装飾を多用しているにも関わらず、赤城神社本殿に関する詳細な報告は存在していなかった。一方、武蔵国羽生領本川俣村(埼玉県羽生市)に居住する大工三村家には三村家が関わった社寺建築に関する造営関係文書が残り、その中に赤城神社本殿に関係するものがある。
「三村家文書」による赤城神社本殿に関する造営関係文書によると、武蔵国羽生領本川俣村の大工三村正利が赤城神社本殿の再建に関わったことは明らかであり、工事における中心的存在であったことが伺える。 三村正利は、嘉永4年8月に赤城神社本殿の規模や形式、仕様を定めていた。そして、設計、計画を行い、工事に用いる材木の木品、寸法、員数を定め、屋根下地までの建築工事を担っていた。さらに、彫物の仕様を考慮した上で、主導的に設計、計画、工事を進めていた。
関東地域の近世神社建築は、彫物装飾を多用する特色がある。赤城神社本殿においては、部材自体を彫物にする、羽目板に彫物を飾る、という表現手法を用いており、中には、それらを一体化した表現手法もみられる。そして、それら彫物装飾は大工三村正利の裁量によって規画化されていた。彫物装飾を多用する建築を実現する背景には、彫物師弥勒寺音次郎・音八父子の高度な技術力があったことが挙げられる。但し、彫物を製作するのは彫物師であるが、その前提には大工の卓越した技能があったといえる。
・所在地 群馬県伊勢崎市境平塚1206-1
・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命
・社 格 不明
・例祭等 春祭 4月7日 大祓 6月30日 夏祭 7月7日(お川入)
秋祭 11月3日 大祓 12月31日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2576734,139.2675199,16z?hl=ja&entry=ttu
群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、利根川を越えて群馬県道298号平塚亀岡線の合流する「境平塚交差点」手前の十字路を左折する。600m程進んだ先、正面に境平塚赤城神社の社叢が見えてくる。駐車スペースは社の南側の正面鳥居傍に設置されている。または隣接して「平塚会館」があり、そこの駐車場もお借りできそうである。
境平塚赤城神社正面
開放的な社の空間が広がる。
伊勢崎市平塚地域は利根川左岸で河成低地、又は沖積平野に属する地域であり、地図を確認すると境米岡神社の真南にあり、直線距離にして1㎞にも満たない場所に境平塚赤城神社は鎮座している。
赤城神社が鎮座する境平塚地域を含めた旧境町東地域(米岡・栄・女塚・三ツ木・西今井・上矢島)の歴史は古く、鎌倉時代に広瀬川の舟運交通が始まる時期から渡船場付近に発達した集落で、江戸時代になると日光例幣使街道柴宿と木崎宿の間の宿として問屋場が置かれた。経済交流の場として六斎市が開かれ、街道沿いに町並みが形成された。
江戸中期からは元船の上流までの遡航が困難となり、小舟による中継河岸として年貢米や荷物の輸送を行い、最盛期には河岸問屋が11軒にも及び、現在も北清・京屋などの当時の屋号が残されている。
境町は江戸末期から明治にかけて糸の集散で栄え、取扱は上州一と称された。明治以降は、商人や職人が定住して商業が活況を呈して伊勢崎銘仙の生産地となったという。
入り口付近に設置されている案内板
伊勢崎市指定重要文化財 平塚赤城神社本殿 昭和42年2月10日指定
平塚赤城神社は拝殿及び本殿からなり、本殿は拝殿から離れて、その後ろに少し高い石壇を築き、大谷石の玉垣をめぐらした中に鎮まる。玉垣の中に切石の段を設けて、そこに高く浜床を置いて建てられている。造りは一間社流造銅板葺(いっけんしゃながれづくりどうばんぶき)で玉垣の頭と浜床が同じくらいの高さなので、社殿が周囲からよく見えて、大変見栄えのよい立派なものである。
正面向拝右側勾欄親柱の擬宝珠に
永禄十二巳年再建寛文四辰年中興
再建立嘉永六丑年九月吉日
と、本殿唯一の銘文があるところから、嘉永六年(1853)に本殿が造営されたと考えられる。造営は専門学者によれば、笠間稲荷本殿等の造営で知られる名工弥勒寺音次郎・音八父子の手になるものと考えられている。
特に赤城神社のすばらしさは彫刻技術の見事さであり、向拝の八方にらみの龍や脇障子西側の羽目板に見られる赤壁高士舟遊・腰組の唐児彫り等、名工の名に恥じない見事な彫刻が随所に見受けられる。
また、赤城神社は県内でも例の無い「お川入れ行事」という、御神体を利根の流れで洗い浄める行事が伝わっていることでも有名である。例祭は毎年七月七日である。
昭和五十八年三月三十一日 伊勢崎市教育委員会
案内板より引用
平塚赤城神社正面鳥居
案内板に記載されている弥勒寺音次郎[寛政9年(1797)-明治2年(1869)]は、長沼村(群馬県伊勢崎市)の渡辺源蔵(生没年不詳)17)の子に生まれ、大工業を営む小林新七 [天保9年(1838)没、享年54歳] の弟子であったとされ、文政年間に小林家に婿入りし、小林新七の没後に弥勒寺姓に改めたとされる。彫物の技量を備え、多くの弟子がいたようである。弥勒寺音八[文政4年(1821)-明治20年]は、弥勒寺音次郎の長男に生まれ、大工を継いだが、彫物に専念したという。
拝 殿
境平塚赤城神社のご神体は、平塚渋沢氏の祖である渋沢隼人が旧宮城村三夜沢(現前橋市)の赤城神社から分祀し寄進したと伝えられているが詳細は不明である。現在伝えられるご神体は、本地仏(ほんじぶつ)虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)の懸仏で、戦国時代の「永禄十三年(1570年)八月十五日」(注:この年4月23日に元亀元年と改元)と銘がある。他に磐筒之男(いわつつのおの)命(みこと)、経津(ふつぬし)主命(のみこと)、大己(おおあな)貴(むちの)命(みこと)、菅原道真(すがわらみちざね)公(こう)など七神が祀られている。
*お川入り神事
城神社の夏例祭と一緒に毎年7月7日に「お川入れの神事」が執り行われている。昔は真夜中に行われていたが、今は夕方に行われている。ご神体の懸仏を頭上に戴いた惣代長を先頭に、白装束の惣代達と世話人の代表の行列が利根川へと向かい、川瀬に設けられたしめ縄を張った4本の竹の祭壇中でご神体が素早く洗い浄められる。江戸時代から続くこの神事は、通船業が盛んだった平塚河岸の人達の安全と息災を祈願する伝統行事として連綿として受け継がれている。
境内には「赤城神社由緒記」の石碑がある。
赤城神社由緒記
一 鎌倉時代(1190~1332)末新田氏家臣渋沢氏は氏神に赤城大明神を奉祀
一 南北朝時代(1339~1392)渋沢氏は南朝を奉じて破れ新田一族と共に利根郡老神に隠逸
一 南北朝合一(1392)後渋沢氏は帰郷の途次大洞の赤城神社に祈念平塚に勧請
一 応永八年(1408)正月七日関東管領足利満兼畑一町歩寄進
一 赤城神社と尊崇した新田岩松氏の中黒紋を赤城神社紋とす
一 永禄十二年(1569)渋沢氏社殿を造営翌十三年(1570)八月十五日御神体本地虚空蔵菩薩を安置
一 寛文四年(1664)社殿を改築
一 嘉永六年(1852)下淵名弥勒寺音次郎音八父子現在の本殿を造営
一 明治十四年(1881)浅草水倉清右衛門拝殿を造営
一 大正元年(1912)利根川大改修明神より現在地社宮司稲荷へ遷座
一 昭和四十三年(1967)二月十日本殿を境町重要文化財に指定
一 祭神は大己貴命・豊城入彦命(以下略)
石碑碑文より引用
下淵名の名工 弥勒寺音次郎・音八親子による嘉永六年(1853)改築の本殿
拝殿の左側に鎮座する境内社、詳細不明 拝殿裏手に祀られている幾多の石祠等
社殿右側に鎮座する社宮司稲荷社
御札が貼ってあり、よく見ると「養蚕安全」のお札があった。稲荷が養蚕守護として祈願を集めていた地域なので、ここも養蚕地帯だったのだろうか。
利根川右岸には深谷市町田八幡神社境内にも社宮司稲荷神社が祀られ、上手計地域にも同名の社が鎮座していて、関連性が伺われる。
但し「社宮司」は「シャグジ」とも読める為、中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰である「ミシャグジ信仰」の別名とも考えられる。その信仰の実態はまだ解釈が様々で「石神・石棒信仰」とも「塞の神=境の神」「鹿の胎児・酒の神」、また「ミシャグジ」自体「神」として見るのではなく、「生命力を励起するパワーのようなもの」、「空からやってくる(…)大気(空気・空)に充満するエネルギー」として解釈する説もあるようで、正体不明な信仰形態でもある。
社殿裏手にも参道と鳥居があり、鳥居の先はおそらく赤城山だろう。
参考資料「伊勢崎市HP」「日本建築学会技術報告集 第26巻 第63号」「Wikipedia」
「境内案内板・石碑文」等