古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

市場町八坂神社


        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市市場町11593
            
・ご祭神 速素盞鳴命
            
・構造・形式 一間社流造、向拝付、柿葺
 西久保町大雷神社のすぐ西側には市場地域を縦断するように通る群馬県道73号伊勢崎大間々線に交わる十字路があり、そこを左折し200m程進むと、進行方向右手の県道沿いに市場町八坂神社の鳥居が見てくる。駐車スペースはないようなので、北側路地に急遽路駐して急ぎ参拝を行う。
        
                 
市場町八坂神社正面
 赤堀村は明治22年(1889)に、今井・五目牛・下触・堀下・市場・野・西久保・曲沢・間野谷・香林・西野(以上佐位郡)、磯村(勢多郡)の12ヶ村が合併して成立。はじめは佐位郡、村役場は大字西久保字田宿645に置かれる。その後、明治29年(1896)からは佐位郡と那波郡の合併に伴い、佐波郡に所属する。200511日に旧伊勢崎市、境町、東村と市町村合併を行い、伊勢崎市となったため、消滅した。
 「赤堀」の地名は鎌倉期から見え、赤堀氏の来歴は『上野国誌』によれば、「赤堀氏は、田原藤太秀郷の末葉であり、足利又太郎忠綱の弟、足利二郎泰綱4代の孫にして、孫太郎と称し、佐位郡赤堀を領し、初めて赤堀氏を称す」とある。
 当社が鎮座する「市場」という地域名は、中世から市が立っていたことを示していて、この市は江戸時代になっても続き、明治になっても雛市や桑市が、近在の人々を集めて開かれていたそうだ。
        
                    拝 殿
 当社の創立・創建に関する資料は、残念ながら調べてみても詳しい記事等ない。
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』には僅かに「当社は、赤堀十郷の領主が定まった頃(江戸時代中頃)、郷民相謀って市場を創立するに当たり、市場守護神として創建したものという(社伝による)」と載っているだけである。
        
                    本殿
覆屋
        
                    本殿内部
 上記『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』によると、本殿は、一間社流造、向拝付、杮葺の小振りな社である。土台上に身舎丸柱と向拝角柱を立て長押を廻し、柱上に直に妻虹梁、丸桁を載せる。妻飾は虹梁笈形付大瓶束である。向拝は柱頭に水引虹梁を渡し、木鼻に象頭と獅子頭を付ける。柱上連三斗出組で丸桁と海老虹梁を受け身舎柱と繋ぐ。
 当本殿は装飾性が少なく、身舎では虹梁の渦と離れている若葉の唐草絵様、大瓶束に付く笈形、脇障子の嵌込彫刻、大瓶束上組物(出三斗)のみに彩色がある程度で組物もない。向拝では水引虹梁のやはり渦と離れている若葉の唐草絵様、彩色された獅子と象の木鼻と三巴に雲の本蟇股程度である。海老虹梁の段差湾曲は小さく、唐草には渦のみで若葉はない。このような特性から、当本殿は創建当時の建築と考えられ、18世紀初期から中期の装飾性が高くなる以前の建築と推定する。古式を伝える貴重な建築であるとの事だ。



参考資料「
群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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西久保町大雷神社

 淵名荘(ふちなのしょう)は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになった。
 西久保町大雷神社は、平安時代の中頃、足利又太郎兼行が淵名荘を領有するに当たり、「雷電宮」として社殿を造営したことに始まると伝えている。
        
           ・所在地 群馬県伊勢崎市西久保町3859
           ・ご祭神 大雷命 高龗命 大山祇命
           ・社 格 旧赤堀十二郷総鎮守 旧郷社
           ・例祭等 元旦祭 春季例祭 45日 秋季例祭 105
 国道50号を桐生から前橋方面に向かと「西久保」交差点がある。主要地方道伊勢崎大間々線が交わっている。その昔、あかがね街道の桐原宿にあかがね街道大原宿方面と伊勢崎街道の分岐点があり、伊勢崎方面に進んだ道である。西久保町大雷神社は西久保の交差点から400m程伊勢崎方面に向かった東側に西久保町大雷神社は鎮座している。
 現在は市町村合併で伊勢崎市西久保町となっとぃるが、当社はかつての赤堀十二郷の総鎮守であった。
        
               
西久保町大雷神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「赤堀郷」の解説
 秀郷流藤原氏の末裔で、のちに東上野の有力国人に成長する赤堀氏の本拠地。文和二年(一三五三)七月一三日の足利尊氏下文(赤堀文書)によると、赤堀三郎左衛門入道が代々の証文に任せて「上野国赤堀郷、同貢馬石村」などの地頭職を安堵されている。この時期の赤堀氏は二流があったが、東上野における反上杉勢力の一翼を担っており、宇都宮氏・新田氏などと結んでいた。享徳の乱で「深須・赤堀・太胡・山上」など東上州が戦場となった時にも(享徳四年三月一五日「足利成氏書状写」正木文書)、初期には足利成氏方に参じていたが、時綱の子政綱はのち上杉方に転じた(年欠一〇月一七日「足利成氏書状」穴沢吉太郎氏所蔵文書)。
『日本歴史地名大系』 「赤堀町」の解説
 
佐波郡の北端に位置。東は新田郡笠懸村、北は勢多郡新里村・粕川村、西は前橋市、南は伊勢崎市・東村。東方を早川・岡登用水が、西方を粕川が支流鏑木川・蕨沢川・桂川を集めてそれぞれ南流する。赤城山の南麓、渡良瀬川がつくった扇状地の西端にあたり、小丘陵地と畑地が広がる。国道五〇号が中央を東西に通る。西半部には古墳群が分布し、南方には女堀の跡が残る。近世は勢多郡の磯村、新田郡の間野村を除き佐位郡に属し、御改革組合ではほとんどが伊勢崎の組合に属した。
        
                 参道途中にある二の鳥居
 二の鳥居の先の参道右側に土俵が見える。
4月の例祭時には、子供相撲なども行われるようだ。
        
           三の鳥居の先の石段上には社殿が見えている。
        
       旧赤堀の総鎮守で、旧郷社の社格らしく重厚な雰囲気がある拝殿
 当社の
創立・沿革として、平安時代の中頃、藤原秀郷5世の孫、鎮守府将軍頼行の弟の足利又太郎兼行(藤姓足利氏)が淵名荘を領有するに当たり、社殿を造営し鎮座式を行ったのに始まると伝える(雷電宮)。後に淵名氏が滅亡し由良氏の領地となり、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府追討の 挙兵の際、当社に戦勝を祈願したと伝える。さらに 元亀2年(1571)領主の崇敬篤く、市場に鎮座していた当社を現在の西久保に遷座したという(『赤堀村誌』『伊勢崎佐波の神社誌』)。
        
                    本殿覆屋
 この
覆屋の中に納められている本殿は、『赤堀村誌(下)』によると、建造年代として「寛政10年(179812月領主加納氏、本殿・拝殿共に改築し、更に昭和5年(1930)に今の本殿様式に改築した。」とある。昭和3年(1927)の改築前の古写真に以前の拝殿(覆屋)が写り、内部に当本殿があったものと思われる。腰から胴、軒廻りまで嵌め尽くされた彫刻の数々や装飾性を見ると、江戸後期の神社建築の様相を伝えるが、極彩色が組物以外のすべての部材に施されており、素木造が流行する前の江戸後期の建築として、その建築様式から、18世紀後期の建築と推定する。棟札等の古資料が無く工匠は不明との事。
        
                 拝殿左側にある鳥居
 
      並んで石積上にはたくさんの末社石宮が立ち並ぶ(写真左・右)。
        
                  境内の一風景
 社の創立は平安時代中期まで遡り、時の領主が雷除けや農耕神として雷電宮を祀り、その後も領主の篤い信仰により守られてきた古社である。そして何よりもその装飾性の高さが目を惹く。軸部を構成するほぼ全ての直線材には、網代や紗綾紋、組亀甲など、さらに身舎丸柱にはグリ紋の地紋彫が施される。また腰から胴、軒廻りに多くの彫刻が嵌め込まれ、その全てが極彩色で彩られる。彫刻の細やかさだけでなく、彩色も手が込み、古くから覆屋で守られ良くその色味を残す。建造年代のさらなる究明を含め、江戸後期の当地における神社建築の装飾性の高まりや変遷を探る上で貴重な建物であるとの事だ。


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」
    「日本歴史地名大系」「
ウィキペディア(Wikipedia)」等

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倉賀野神社(2)

 当社の創建時期は古く、第十代崇神天皇の御代、皇子の豊城入彦命は父帝から東国を平定するよう命ぜられ、出立の時に御愛石(亀形の自然石)を授けられた。倭大國魂神の御分霊といわれ、命は当地に至るや、御愛石を御魂代として祭祀をされたという。今もご本殿に奉安されている
 大同2年(807)、坂上田村麿は東征凱旋の途中、この地で造営舞楽を奏上した。この時の翁面が社宝として伝わる。建長5年(1253)武蔵七党の児玉党の余流、倉賀野三郎高俊が社殿を造営。倉賀野氏の氏神としてこの地に修復・造営が重ねられ、江戸時代は近隣七ケ郷の総鎮守となる。旧社名は飯玉大明神。明治10年(1877)に大國魂神社と改称し、明治43年(1910)に近隣神社合祀を経て倉賀野神社となった。
        
                    本 殿
『群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編』によると、本殿は嘉永6年(1853)年に境内の社木を伐採して工事が開始された。嘉永7年(1854)に「飯玉宮御普請仕様書」と「飯玉宮御本社木割仕様帳」が作成され本殿と幣殿の見積がされた。安政3年(1856)の倉賀野宿の大火で工事は一時停滞するも、元治2年(18653月に上棟の儀式が行われ、慶応2年(1866)に完成した。柿師による慶応元年(18658月の棟札も残る。奉納額より明治24年(1891)に屋根修繕、明治33年(1900)の杮葺改修。群馬県知事への銅使用届より昭和12年(1937)に柿葺から特許山中式檜皮形銅板平葺へ改修。令和2年(2020)には御代替り奉祝記念事業として銅板葺替工事が行われた。
 
        境内には本殿に関する案内板が設置されている(写真左・右)。
 本殿と幣殿は工匠が同じで、大工は藤岡の宮寺大炊、彫工は、高崎市の新井金十郎、勘蔵、信州の北村喜代松である。宮寺大炊は倉賀野河岸鎮座の大杉神社拝殿・幣殿の普請にも関わり、建物は現在、榛東村の八幡宮社殿として移築されている。新井金十郎は榛名神社国租社の修復で腕を振るったという。
 現在の社殿は本殿・幣殿・拝殿の屋根が連続する権現造であるが、本殿は一間社流造である。軒は二軒繁垂木であり、前面は地垂木、打越垂木、飛檐垂木と3段に軒を伸ばす。内部は未確認だが、『新編高崎市史 資料編14 社寺』より内陣と外陣からなる。組物は身舎が尾垂木付の四手先組で、腰組が拳鼻付出組である。向拝は連三斗積上変形で、斗・肘木が4段ある。中備や妻飾には嵌込彫刻や彫刻板支輪があり、壁や脇障子は鏡板張である。減り張りのある彫刻配置なので細やかな彫刻も目に付きやすいとの事だ。
 現在の本殿は元治元年(一八六四)に、拝殿は明治八年(一八七五)に再建されたものだが、建築の細部にわたる彫刻は見事なものであろう。

 ところで、境内には多くの境内社・末社の外、明治の神社合併により、横町の冠稲荷社、南町の白山社、田子屋の八坂社、田屋町の大杉社等の諸社が合祠されている。また境内南西隅にある北向道祖神は文化二年(一八〇五)の建立で、現在でも香煙絶えることなく尊信を集めている。
        
             本殿の南側奥に祀られている甲子大黒天
        
            甲子大黒天の北側隣に祀られている冠稲荷社
          例祭日 初午大祭(福投げ・湯立て神事) 211
        
      冠稲荷社の並びにある神興倉で、中に「天明神輿」が奉納されている。
 天明神輿
 天明四(一七四八)年十月大坂北御堂前宮屋九郎兵衛の作。翌年九月倉賀野宿須賀七代庄兵衛妻圓の奉納になるもの。寛政二(一七九〇)年宿内渡御の記録があり、平成二(一九九〇)年秋、御大典を記念して見事修復、御神幸祭が盛大に行われた。
 この神輿は、軒四隅のわらび手が、下の垂木(たるき)から出る関西型神輿の特徴をよく伝えており、枡組下の彫物は、梅、松、菊に牡丹。四面に下がる御鏡の裏には藤原の銘が入っている。
 天明神輿は、二百年前の関西と高崎を結ぶ「ひと・もの・文化」の流れを、はっきりと示す大切な記念宝物である。
                                       案内板より引用
 
 
        神興倉の隣に祀られている天神社・末社十社(写真左・右)
 末社は左から大歳御祖社 大歳御祖神・水神社 弥都波能売神・土神社 埴安神・木神社 久久能智神・山神社 大山祇神・金神社 金山彦神 金山姫神・火神社 火迦具土神・海神社 大綿津見神・雨神社 天水分神 国水分神・風神社 級長津彦神 級長戸辺神。
         
                本殿奥にある庚申塔や石祠
       
 庚申塔・石祠の傍には高崎市指定の保護樹木であるケヤキの大木が聳えている(写真左・右)
        
            境内南側には神楽殿・倉賀野上町山車庫が建つ。
 
 神楽殿・倉賀野上町山車庫の南側並びに祀られている境内社・北向道祖神(写真左・右)
            例祭日 大祭(どんど焼き) 115
 北向道祖神
 男女の双体道祖神で、もともと近くの倉賀野古城の辺りに北向きに祀られていたと言われます。
 石の台座には「上町惣子供 施主大島三右衛門 文化二年(一八〇五)乙丑正月吉日」と刻まれています。昭和十二年(一九三七)にこの場所に移転され、今日では倉賀野神社の境内社として祀られています。
 小正月・一月十五日が例祭日で古神札お焚き上げの「どんど焼き」が行われます。米粉でつくった「まゆ玉」やスルメなどを祭りに持ち寄り、忌火にかざして一年間の無病息災を祈ります。
 仲睦まじい双体道祖神の姿から、縁結び・夫婦和合の神様ともいわれます。また安政三年(一八五六)の倉賀野宿の大火のときには延焼を食い止めた「火伏せの神」として、今も語り継がれています。
                                       案内板より引用
 
       北向道祖神の東側にある「国魂池」と呼ばれる池(写真左・右)
        
              南側にもある朱を基調とした鳥居
『日本歴史地名大系 』「倉賀野村」の解説
 東南流する烏川の左岸際から北方へ向けて大きく広がる沖積平野に位置する。群馬郡に属し、北は矢中・中里の二村、西は下佐野村。「和名抄」の群馬郡小野郷に含まれたと考えられ、長元三年(一〇三〇)「交替実録帳」群馬郡の項に「小野院 北一板倉壱宇 東一板(倉脱カ)壱宇」とあり、この郡倉の所在にちなんでのちに倉賀野とよぶようになったともいわれる。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条に倉賀野三郎(高俊)の名がみえ、以後中世を通じて倉賀野氏が当地を領した。「宴曲抄」(正和三年八月)に鎌倉から信濃善光寺に至る鎌倉街道の道中に「倉賀野」がみえる。永禄五年(一五六二)九月一八日の武田信玄書状写(小田部庄右衛門氏所蔵文書)には、武田軍が攻撃した郷村の一つに倉賀野があげられている。
 江戸時代には中山道の宿として、また烏川に江戸との物資輸送の河岸もあって繁栄し、中山道からは日光例幣使街道が分岐した。「寛文朱印留」に村名がみえ、高崎藩領。寛文郷帳では田方一千三八六石余・畑方五六〇石余。
 


参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編HP」
    「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」日本歴史地名大系」
    「倉賀野神社HP」「境内案内板」等

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倉賀野神社(1)

 倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する古来より交通の要地である。この倉賀野という地名由来は、「穀倉地帯・物流拠点としての性格を反映した地名」という説明が現在もっとも一般的のようだが、学術的には「有力説の一つ」とみなすのが妥当という。
 歴史を辿ると、『吾妻鏡』にその名が見える「武蔵七党」の支流である「藤原姓児玉党倉賀野氏」が,鎌倉時代に移住し、当地に城砦を構え、在地名を苗字としたのがその起源とされている。
『埼玉苗字辞典』
武蔵七党系図「有三郎別当大夫経行(平児玉)―秩父平四郎行高―倉賀野三郎高俊―太郎兵衛尉秀行―太郎左衛門尉行澄―行泰(弟三郎左衛門尉光行、後閑三郎政行)―平太左衛門尉頼行(弟三郎俊行)。高俊の弟四郎高義―八郎公行」
 この倉賀野三郎高俊が倉賀野氏の祖と比定され、14世紀末(南北朝期)にその子孫が倉賀野城を築城し、以後、倉賀野氏は同城を本拠として室町時代、戦国時代を生き抜くことになる。戦国期には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546)の河越夜戦で戦死した。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。
 永禄4年(1561)に甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565)に落城、倉賀野尚行も上杉謙信を頼って越後に逃れる。
 その後、元亀元年(1570)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗る。天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕え、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐において、秀景は後北条氏武将として小田原城に籠城し、結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。
 当社は、建長5年(1253)武蔵七党の児玉党の余流、倉賀野三郎高俊が社殿を造営。倉賀野氏の氏神としてこの地に修復・造営が重ねられ、江戸時代は近隣七ケ郷の総鎮守となる。旧社名は飯玉大明神。明治10年(1877)に大國魂神社と改称し、明治43年(1910)に近隣神社合祀を経て倉賀野神社となる。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1263
             ・ご祭神 大國魂大神
             
・社 格 旧上中居・下中居・下之城等十二か郷総鎮守
             ・例祭等 春季例大祭 419日 秋季例大祭 1019日 他
 かつての「中山道倉賀野宿」であった付近を東西に通る群馬県道121号和田多中倉賀野線を西行し、「上町」交差点の先にある丁字路を左折し暫く南行すると、進行方向右手に倉賀野神社の正面鳥居が見えてくる。因みに旧中山道から曲がる路地には「鎮守倉賀野神社」の社号標柱も建っているので目印として分かりやすい
        
                 倉賀野神社正面鳥居
 高崎市南部、旧中山道の倉賀野宿であった地域に位置している。地図を確認すると、社の北側には東西に旧中山道が走り、西側には古墳群があり、南側には倉賀野中学校や倉賀野城跡があり、その先に烏川が東流している。
 倉賀野一帯は古く「宮原の庄」と呼ばれたが、大国魂社(飯玉社)鎮座の地の意であるという。またこの地は古くから開発が進んだ地域であったようで、この地は一大古墳地帯で、昭和十年の古墳調査によれば、後述の浅間山・大鶴卷・小鶴卷等の大前方後円墳を含む大小二〇七基もの古墳が、わずか一平方キロの内に密集しているのである。相当古くから政治権力が存し、開発が進められたであろうことは想像できよう。
『慶応四年文書』によれば、江戸時代には「飯玉社」と呼ばれ、近郷きっての名社であり、江戸時代を通じて、上中居・下中居・下之城・矢中・中里・栗崎・台新田・佐野・下和田・和田多中・上大類及び倉賀野の計十二か郷の総鎮守であったという。
 
  正面鳥居のすぐ左手には「常夜灯、王垣と倉賀野宿」の案内板と、市指定文化財である
        「
倉賀野神社本殿」の標柱が設置されている(写真左・右)
 常夜灯、王垣と倉賀野宿
 中町下町境にある太鼓橋は享和二年(一八〇二)宿内の旅籠屋、飯盛女たちが二百両も出し合って石橋にかけ替えたものである。
 その飯盛女たちの信仰を集めたのが横町の三光寺稲荷(=冠稲荷)であるが、社寺廃合令により明治四十二年(一九〇八)倉賀野神社に合併された。
 社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて行き常夜灯と玉垣は、倉賀野神社と養報寺に移されて残っている。
 天保時(一八三〇~一八四三)倉賀野宿は旅籠屋が三十二軒もあり、高崎宿の十五軒を上回るにぎわいを見せていた。
 本社前の常夜灯は文久三年(一八六三)「三国屋つね」が寄進したもの、玉垣にも「金沢屋内りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やず、ふじ」「新屋奈美」など数多く刻まれている。
また元紺屋町の「糀屋藤治郎」田町の「桐屋三右衛門」ほか高崎宿の名ある商家、職人も見える。
 倉賀野河岸と共に宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛女たちの深い信仰とやるせない哀歓を物語る貴重な石造文化財である。
(狂歌)「乗りこころよさそふにこそ見ゆるなれ馬のくらがのしゅくのめしもり」
十返舎一九-                                案内板より引用 
        
           古い歴史を感じさせてくれる雰囲気が漂う境内
 現在の本殿は元治元年(一八六四)に、拝殿は明治八年(一八七五)に再建されたものだが、建築の細部にわたる彫刻は美事なものである。境内には多くの境内末社の外、明治の神社合併により、横町の冠稲荷、南町の白山社、田子屋の八坂社、田屋町の大杉社等の諸社が合祠されている。また境内南西隅にある北向道祖神は文化二年(一八〇五)の建立で、現在でも香煙絶えることなく尊信を集めている。明治の合併以後同社を倉賀野神社と改称された。
        
                  趣のある手水舎
        
           一の鳥居を過ぎて参道左側脇にある「
神饌田」
 日本国はかつて「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」と称され、お米は古来より、日本人にとって大切な穀物であり、『日本書紀』の天孫降臨の場面で、三大神勅の一つである「斎庭〈ゆにわ〉の稲穂の神勅」にも記されている。この神勅は、天照大御神が高天原で召されている神聖な田の稲穂を我が御子に与えようという内容で、稲作と神道に深いつながりあることを伝えている。
 神饌田(しんせんでん)とは、「神田」「宮田」「御供田」ともいい、神に属し祭祀に供せられる稲を作る田の事。当社では、6月下旬に御田植祭、10月中旬に抜穂祭(ぬいぼさい)が行われている。
        
                    拝 殿
 
拝殿上部にある飯玉大明神・倉賀野神社の扁額  扁額の左側には由緒等記された奉納板あり
                   
                     拝殿前に設置されている「飯玉縁起」の案内板
 飯玉縁起
 光仁天皇(七七一-七八〇)の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわるようになった。ところが兄たちは八郎を夜討にして、鳥琢池の岩屋に押しこめた。
 三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
 やがて、小幡権守宗岡が海津姫が贄番に当たる年、十六歳の海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩の称名、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。烏川の辺りへ移り、「我が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。これが「飯玉縁起」のあらすじである。
 この話は、十四世紀半ばに編さんされた神仏習合を説く縁起物語集『神道集』巻八所載「上野国那波八郎大明神事」によく似通っているので有名である。「飯玉縁起」一巻は、江戸時代初期の寛文十二年(一六七二)すでに存在していたとされる伝来の社宝であり、唱導文芸『神道集』の研究にとっても欠かせない貴重な資料である。
 そして、今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴をかなでる彫刻が、見られるのは興味深い。社殿の彫刻が、祀る神の伝承縁起を物語っているということ自体が、全く珍しいからである。-(彫師は北村喜代松・石川兼次郎)-
 なお、この「飯玉縁起」は「神道大系」(神社篇二十五)に収載されている。
                                       案内板より引用


(2)に続く。


参考資料「
群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編HP
    「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「橿原神宮HP」「倉賀野神社HP」
    
「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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井戸八幡宮

 倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する交通の要地で、倉賀野城は烏川左岸の河岸段丘上に立地する東西800㍍・南北400㍍を城域としていた。
 この城は、武州児玉党の秩父平四郎行高の男、三郎高俊に始まる。治承.文治の頃(1180年代)この地に居館を構えた高俊は、倉賀野氏を称した。高俊から三代の孫太郎行泰の時(一五世紀初頭)烏川の涯端に新城が築かれ、以後旗本一六騎に盛り立てられて戦国乱世を生き抜いて来た。その間、関東管領山内上杉氏•箕輪長野氏. 甲州武田氏•信長の重臣滝川一益•小田原北条氏等に属し、わずか三千石足らずの小城を支えてきたが、天正18年(1590年)小田原北条氏滅亡と運命を共にし廃城となった。典型的な戦国の城としてその役目を全うしたと言える。現在は城跡の面影は全くなく一面の住宅地であり、わずかに、旧城本丸跡南側が、町内の歴史愛好家グループ(雁会と称す)の手により城址公園として整備されているという。
 井戸八幡宮は、倉賀野城三の郭跡の古井戸から、一夜にして水が噴き出し八幡大神が現れたのを起源と伝えられている。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1437
             
・ご祭神 八幡大神
             ・社 格 不明
             
・例祭等 例祭 823 
 倉賀野諏訪神社から一旦南下し、群馬県道121号和田多中倉賀野線に戻り、同県道を西行する。その後「倉賀野駅入口」交差点の手前の丁字路を左折し南下、烏川の土手に達する手前の路地を右に曲がると、正面に「井戸八幡宮の縁の井戸」と呼ばれる覆屋、その先に井戸八幡宮の鳥居が見えてくる。

         参道右脇には覆屋が建ち、中には神輿が安置されていて(写真左)
             その案内板も設置されている(同右)
 
 井戸八幡宮縁の井戸と大神輿
 覆堂の中にある井戸が、正面に建つ八幡宮の俗称「井戸八幡宮縁の井戸」です。
 八幡宮は、倉賀野城三の郭跡の古井戸から、一夜にして水が噴き出し八幡大神が現れたのを起源と伝えられます。創建は正保三年(一六四六)で、代々の高崎藩主が篤く崇敬し、宮元である田屋町の住民が誇りを持って守ってきました。
 現在井戸枠の上には江戸中期頃に造られた立派な神輿が安置されています。この神興は特別の祝祭時に出御する宮神興で、平成十七年九月、倉賀野神社造営七五〇年大祭の時に社殿前に出御されました。
 その際は、倉賀野神社の「天明神興」(制作年の天明に因んで呼ばれる)の渡御を迎え、天明神興と共に並んで安置されました。
                                       案内板より引用
        
                   井戸八幡宮正面
 井戸八幡宮は、古く倉賀野氏の守護神、八幡大神を城内三ノ丸に祠ったことに始まるらしい。天正18年(1590)、小田原北条氏滅亡と共に倉賀野城が廃されると、対岸の木部の住人田口石見守(木部十騎の内)がこの地に移り住み、手蹟・剣術指南を業としていた。正保3年(1646)田口氏持ちの畑の辺の古井戸から八幡神像が出現、高崎城主安藤対馬守の尊信を得て社殿が建立され「井戸八幡」と称した。発見者田口氏は神主に任ぜられた、と伝説は言う。
 明治の神社合併からものがれ、田口氏一族はじめ田屋町の氏子により尊崇維持されてきた社。
 
    鳥居の左側に建つ田屋集会所      境内に設置されいる八幡神社 修復記念碑
        
                    拝 殿
 八幡神社 修復記念碑
 御由緒
 正保三丙戌年(一六四六) 田口長右衛門辰政ト云フ者アリ在ル夜夢二霊鳩一番現レ其ノ告グル侭二 辰政行キテ見レバ 三月二十三日 倉賀野城三ノ郭跡二 1夜ニシテ井現 冷水ノミナギリテ光放ツ中二 八幡大神降現シ給フ 神変ノ程言葉二尽クシ難シ 里人井戸八幡ト尊信ス
 時ノ地頭高崎城主安藤右京進藤原重長へ訴へシカバ 信仰ノ余リ古城二ノ廓ヲ転ジテ新タニ社地トシ社殿ヲ健立 辰政ヲ以テ奉仕神主トス 後ノ高崎城主松平右京亮 祈願有リテ連月代参為ラレ在リ 崇敬限リ無カリシト
 又一書二云フ 倉賀野三河守 鶴岡八幡大神ヲ勧請
 寛政元年(一七八九)社殿再建  安政六年(一八五九)社殿再建
 神輿 享和元酉年(一八〇一)八月二十三日御願済三町ヲ始メテ練ル
 明治四十年(一九〇七)大杉神社ヲ合併
 祭日 八月二十三日
                                    修復記念碑文より引用

        
        拝殿に掲示されている神興や山車(舞台)、修復完成時の写真
       
                    本 殿 

  本殿奥に祀られている石祠・庚申塔ら    境内に聳え立つ高崎市指定保存樹木のイチョウ
        
           境内に設置されている「倉賀野河岸」の歌碑
 井戸八幡宮の前を更に50㍍ほど下ると『倉賀野河岸場跡』である。現在はきれいに護岸工事が施され往時を偲ぶよすがもないが、下流に架かる共栄橋下あたりから上流100㍍くらいが河岸場であり、川に沿って船問屋の蔵屋敷が立ち並んでいたのである。倉賀野河岸の歴史は古く、既に元和年間(一六一五-二三)には舟運 が通っていたらしい。
 寛文五年(一六六五)に正式に倉賀野河岸として開場、以後、明治十七年(一八八四)高崎線開通により閉場されるまで
220年の長きにわたって、利根舟運の最上流の大河岸として命脈を保ってきたのであり、倉賀野の発展は、同河岸と中山道の宿駅の機能と相俟って支えられたと言って過言ではないといえよう。



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「境内記念碑文」等

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