砂山愛宕神社
当初は砂山で大きく左折し、現在の手子堀用水路筋を流れていたが、その後、南方に直進し、現在の星川筋へと流れを変え、何時の頃か、現在の会の川筋の流れになったという。
この地域周辺の地名は河川に関連した名が多い。
「川崎」は、川の先(前)、いわゆる利根川の南側の地という意。「砂山」は、文字通り自然堤防である砂丘から名付けられた地名。「須影」は、須は州であり、水流で運ばれた土砂が堆積して、水面上に現れたところ、影は、その背面、いわゆる利根川によって運ばれ堆積した砂丘の背面(北側)の土地の意。「加羽ケ崎」は、かつては蒲ケ崎と書いたと記されていて、崎には南側の意とともに突き出した先端との意味もあり、ここの崎は後者で、利根川の屈曲点に位置する蒲の生えている地の意味と思える。
これらの地名から察するに、利根川が嘗て流れていた最も古い流路である「手子堀用水路筋」の頃に付けられた地名と考えられるという。
・所在地 埼玉県羽生市砂山142
・ご祭神 火之迦具土神
・社 格 旧砂山村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 4月24日 秋祭り(秋日待) 10月15日
イオンモール羽生の南側にある「上川崎公園」から北西方向に通る道路を700m程進み、丁字路を左折すると、すぐ右手に砂山愛宕神社が見えてくる。因みに、社に隣接している「砂山集会所」に駐車スペースあり。
砂山愛宕神社正面
羽生市砂山地域は、『日本歴史地名大系』 「砂山村」の解説によると、「須影村の西、旧利根川河道に沿う自然堤防上に位置し、同川の搬土作用によって形成された内陸性砂丘がある。南は会の川、東は南方用水路とに挟まれ、北西から南東へ長く延びる」と載せている。近世以前の利根川はクモの巣のように乱流していて、現在の会の川も旧利根川流路の一つと云われた。砂山地域に鎮座する愛宕神社の『縁起』 によると、天正年間に「利根川決壊により田畑が崩壊した」とある。利根川の中流から下流にかけては、肥沃で広大な平野がひらけ、特に江戸時代以降は穀倉地帯となった代わりに、大雨のたびに洪水に見舞われる氾濫域にもなっていた。
参道正面から見た境内の様子。参道左側に砂山集会所がある。
参道右側に並んで建つ石碑 更に並ぶ石碑・記念碑。左から「辨才天」
左から「参宮記念碑」「〇〇大神」「小御岳」 「土地奉納之碑」「二十三夜供養」「拝伊勢参朝記」
拝 殿
愛宕神社 羽生市砂山一四二(砂山字下宿)
当地開墾の年代は『風土記稿』に「文禄の頃という」とある。『明細帳』によると、当村は天正年間に起こった古利根川決壊による濁流に押し流され田畑はすべて壊滅したが、その後、村人の努力により文禄年間荒地を再び開墾して、村を興し、ここに京都より分霊した愛宕神社を祀ったという。更に慶長三年社殿を再建し、村鎮守と称して小松村の修験宝珠坊が別当を務めていたが、元禄一二年同坊はその地位を失ったため、同村小松寺がこれを引き継ぎ、慶応三年までその職を務めたとある。一方、『風土記稿』には「村の鎮守とす 嶋山寺持」と載り、現存する嘉永三年の社殿建立棟札には「砂金山島山寺現住十七世玄瞳叟代」と見えることから、幕末においては曹洞宗島山寺が管理に当たっていたものと考えられる。現在、砂山新田には「法印」の家号を残す宮本・宮崎・宮地・笹井の四家があり、このうち明治期には宮本家の祖先である宮本敬之進が社掌を務めた。社殿は嘉永三年九月に今の地に移転した。元地は村人に愛宕山と親しまれてきた村の南東にある砂山であったと伝える。当時の移転理由は定かではないが前記棟札により、名主磯田甚左衛門が中心となり村人が力を合わせて社殿を移し、本社・拝殿を造営したことが知られる。
当社は明治五年に村社となり、同四○年には上宿の天神社・新田の稲荷社を合祀したが、このうち稲荷社は旧社地に戻されている。
「埼玉の神社」より引用
稲荷社に関しては、当地の神社合祀にかかわる口碑に、明治末期、新田の稲荷様を愛宕様に合祀したが、新田に住む神職の宮本家に突然火の玉が出現し、屋敷各所を移動したため、これは不吉な兆しとの訴えにより稲荷様は直ちに元の地に戻されたと伝えている。
本 殿
拝殿の左側に祀られている石碑等
一番左側に建つ石碑には「稲荷宮」「〇〇大権現」「〇神宮」と刻まれているようだ。
真ん中は「熊野」かもしれないが、解読が難しく断念。
砂山集会所の南側に孤高の如く聳え立つ巨木
社殿から砂山地域方面を眺める。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「羽生須影地区歴史年表 一須影地区の今むかし一HP」等