桑崎三神社
(記念物 天然記念物 埼文指第556号 平成29年3月24日指定)
利根川の旧河道沿い(中川低地を含む)には、川が運んだ榛名山・浅間山の噴火による噴出物などの土砂がたまったのち、それらが平安〜室町時代の寒冷期の強い季節風によって吹き溜められ、砂丘が形成されました。
桑崎砂丘は、羽生市から越谷市にかけて点々と分布する中川低地の河畔砂丘群の中では、最上流部の位置にあります。
指定地にある桑崎三神社は、長さ450m、幅50mの砂丘上にあり、本殿の北側では砂丘の高まりを観察することができます。
この桑崎砂丘を含む内陸性の砂丘群は、地質学的研究により形成のメカニズムが明らかである例として希少であり、学術的価値の高いものです。
平成29年10月28日 埼玉県教育委員会 羽生市教育委員会
案内板より引用
・所在地 埼玉県羽生市桑崎723
・ご祭神 誉田別命 菅原道真公 倉稲魂命
・社 格 旧桑崎村鎮守・旧村社
・例祭等 例祭 9月15日に近い日曜日
国道122号線羽生バイパスを利根川方向に北上し、「桑崎」交差点を左折、750m程進行すると秩父鉄道の踏切が2か所見える変則的な十字路となるので、手前の踏切がある道に右折する。その後、道なりに500m程北上すると、左側に赤松林の囲まれた桑崎三神社・境内社である白山社・弁天社・御嶽社を祀る築山が、その西側並びに社の広い境内が見えてくる。
道路沿いにある桑崎三神社・境内社である白山社・弁天社・御嶽社を祀る築山が最初に目に入る。桑崎三神社は写真の左側に鎮座している。
桑崎三神社正面
『日本歴史地名大系』 「桑崎村」の解説
会の川左岸の自然堤防とそれに連なる後背湿地にある。東は上羽生村、南は上岩瀬・中岩瀬の二村と自然堤防に沿って連なり、西も上岩瀬村。田園簿によれば田高一九九石余・畑高三一一石余、幕府領で、ほかに野銭永三五〇文。国立史料館本元禄郷帳では旗本藤枝領と白山社、全福寺、上岩瀬村医王寺の寺社領。藤枝領は宝永二年(一七〇五)から天明五年(一七八五)まで(「寛政重修諸家譜」など)。寛政二年(一七九〇)陸奥泉藩領となり、幕末まで同藩領(改革組合取調書など)。承応三年(一六五四)・貞享四年(一六八七)に検地が実施されたといい、化政期の家数六八(風土記稿)。
境内の様子
桑崎地域は利根川がこの場所の西側を流れていた頃の、今から約450年位前には、集落が出来ていた所という。嘗て利根川だった頃に上流から運ばれた大量の土砂の堆積した桑崎砂丘上に、桑崎三神社が奉られて鎮座する。元々桑崎地域には、「全福寺」を別当寺とする「天神社」「稲荷社」、医王寺を別当寺とする「八幡社」の3社があったが、全福寺は明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれ、その後、天神社と稲荷社は八幡社に合祀され、「桑崎三神社」に改称したという。
境内西側にある神楽殿 桑崎地域の「獅子舞」の案内板
指定文化財 獅子舞(桑崎地区)
(無形民俗文化財 羽生市指定第7号 平成8年9月1日追加)
親獅子、中獅子、後獅子の3頭で構成されます。期日は、1月1日の元旦と旧暦の8月15日に近い日曜日の十五夜祭に行われます。十五夜祭では、3回に分けて「〆」「花」「弓」の3曲を舞います。笛、獅子、棒、花笠の役の人たちが列をつくり境内を周回した後所定の位置につき、棒術に続いて獅子舞が奉納されます。その前日には前夜祭が行われ、鳥居の外で舞います。
獅子頭などの道具は、獅子宿に保管してあり、使用するときはそのつど借用に伺うという形態をとっています。この方法は市内ではここだけのものです。
由来は、利根川が洪水で決壊したとき、獅子頭が流れ着いたのが起こりであるとの伝承があります。現在この貴重な文化財を後世に伝えるため、子供たちへの伝承に努めています。
平成14年3月20日 羽生市教育委員会
案内板より引用
9月15日の例祭は、「十五夜のお祭り」ともいい、古くから当地に伝わるササラ(獅子舞)や剣道の試合が奉納される。例祭当日の午後、まず「八幡神社奉納県道」と称し、勝ち抜きの剣道大会が行われた後、ササラが行われる。獅子は三頭あり、ほかに花笠が四人、棒使いが二人いる。ササラの間には、地元の婦人会や子供育成会による踊りが行われ、祭りが終了するのは午後一〇頃になるという。
拝 殿
桑崎神社(はちまんさま) 羽生市桑崎七二三(桑崎字堀内)
桑崎は会ノ川と利根川に囲まれた農業地域に位置し、古くから米麦を中心とした農業が営まれていた。また、字堀内には、城館・空濠・土塁の跡があり、戦国時代を彷彿させる。
この桑崎には、もともと神社が三社あった。このことは『風土記稿』にも「天神社 村の鎮守とす、稲荷社 以上全福寺持、八幡社 上岩瀬村医王寺持」と載ることからも明らかである。これが、明治初めの神仏分離のため、明治四年に全福寺は廃寺となり、天神社・稲荷社は八幡社に合祀された。その結果、社名も桑崎三神社と改められ、明治七年四月には村社となっている。
本殿には、祭神である誉田別命・菅原道真公・倉稲魂命の三柱の幣束のほかに、八幡様と呼ばれる弓・矢を持った高さ二八センチメートルの八幡大明神がある。像の底部には「宝暦十一年辛巳九月十五日 大正二年一月再色 彫刻師大字小須賀 松木平幸」の墨書がある。
境内は約一四五〇坪あり、境内の東に白山社・弁天社・御嶽社を祀り、赤松林に囲まれている。
「埼玉の神社」より引用
当社は桑原の鎮守として祀られ、氏子からは「鎮守様は何事でも願いを聞いてくれる」といわれ、五穀豊穣・家内安全をはじめ、種々の奇岩がなされ、「大願成就」と書いた額などの奉納も多い。
氏子の間では、家例として、「正月の三が日にお雑煮を食べてはいけない」と昔から言われており、元日の早朝にうどんを打ち、三が日の間はこのうどんを食べる習慣があるが、食生活の変化から、戦後はしだいにこの風も守られなくなったとのことだ。
社殿の左側に祀られている境内社。詳細不明。 社殿の右側手前にある
境内社の傍らには三峯社の石祠あり 「桑崎三神社改築記念の碑」
社殿左側奥に祀られている境内社・末社 社殿右側に祀られている境内社・末社
境内東側に白山社等を祀る築山がある。
境内社・白山社の手前で、参道左側に 元禄2年9月10日銘の庚申塔、その奥に
並ぶ「弁財天」等の石碑 祀られている御嶽山神社の石碑
「埼玉県指定天然記念物 中川低地の河畔砂丘群・桑崎砂丘」の案内板等が設置されている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内案内板」等