古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

津久根八幡神社

 越生町津久根地域に鎮座する津久根八幡神社において、現存する最古の棟札があり「奉八幡宮建立国家安全之祈・正歴二辛卯年八月一五日」と平安中期の年紀があり、『明細帳』もこれを創建の年代と伝えている。一方、元文五年の『津久根開創記』には、棟札の年代よりもおよそ200年下った文治三年に当村草分け吉山家が正八幡宮を勧請した旨が記されている。
 この吉山氏は調べてみると、先祖は高句麗王族と高句麗国の人を祖先とする渡来系氏族である「高麗氏」の血統にも繋がっている。
〇吉山氏
日高市高麗神社々家の高麗系図に「22代高麗純丸(高麗大宮司、久安二年(1146)卒、母金子學女)。27代豊純(高麗大宮司、仁治三年(1242)卒)―女子(金子元正妻)」と、高麗氏正統の血統と比較的身近な近親者的な立ち位置に金子氏はあるようだ。またその金子氏の一派から吉山氏が輩出していて、この津久根地域に土着したという。
・八幡社所蔵の桜堂縁起
「吾祖、昔高麗国王に随て此土来。人王四十二代元明天皇御宇也。武州今之高麗郡之麓に居住し、星うつり兎てんじて、同国入間郡金子村住居せり二十代之孫葉住しと。其先平氏随ひ、元暦朝に至り頼朝に仕へ、金子十郎家忠戦功有、七十歳病死す。家忠嫡子与市家勝・文暦朝仕行年五十一歳にて弘安八年に北条相随て戦死す。同三郎勝正・生年二十三歳にて頓死、于時建長五年五月也。其嫡子左京亮貞成は行年八十歳にして暦応三年死去。其嫡子平五郎国忠に至り、将軍義持公、義量公二代に仕。源次郎友正・義教公仕。源次郎政時・義勝公に仕。十次郎政忠・将軍家二代仕。十次郎政信・義植公仕。十郎元忠・義輝公に仕。十郎忠次・義栄公義昭公に仕。代々将軍家に相随処、御当代に至り秩父郡大野原村へ蟄居いたし。十郎忠次・男子三人有り、嫡子七郎家次、二男権蔵元次、三男源五忠吉也。慶長十年いたり入間郡築根村にいたり、舎兄七郎家次へ吉・山氏姓、初政氏居住。二男権蔵元次・村田氏継。三男源五忠吉に岩田氏継・大満村住居」」
津久根開創記
吉山之先祖鎌倉浪人金子十郎家勝と申人、津久根切開く、其人む禰懸鰐口成之、鋳物之内に弥陀如来之鋳形有之。家勝次男吉山入道と申人、此弥陀如来世中安全為鎌倉八幡写正八幡宮奉勧請、文治三年八月に相違無御座候。尚亦別当高蔵寺之儀は天正元年・吉山開基に取立候。元文五年極月、津久根村惣百姓連判、名主吉山庄兵衛倅儀右衛門殿へ一通差上申候」

        
              
・所在地 埼玉県入間郡越生町津久根23
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 例大祭 10月第三土日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9758667,139.2851591,17z?hl=ja&entry=ttu
 古池鹿嶋神社から埼玉県道30号飯能寄居線を越生町方向に南下する。1㎞程先にある三つ又路地を右方向に曲がり、そこから400m程先にある越辺川を越えたすぐ左側に津久根八幡神社が見えてくる。越辺川を越える手前には「越辺川遊歩道 観光案内」と題した看板が設置されており、津久根地域を中心とした周辺地域の名所案内がある。その中に津久根八幡神社も記載されている。
 因みに津久根八幡神社は社務所や集会所等はなく、周辺にも適当な駐車スペースはない。そこで越辺川北側左岸に設置されている「越辺川遊歩道 観光案内」と題した看板付近に車を停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
      社のすぐ北側で、越辺川左岸にある「越辺川遊歩道 観光案内」の看板
 津久根八幡神社 
 平安時代の創建と伝えられ、現在の本殿は天保
4年(1833)に再営されたものです。見事な彫刻は嶋村源蔵(しまむらげんぞう)によるもので、川越氷川神社や西東京市の田無(たなし)神社などで知られる。七代目の嶋村源蔵、俊表(しゅんぴょう)とみられます。
       
                               津久根八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「津久根村」の解説
 [現在地名]越生町津久根
 黒岩村の北、成瀬村の南、越辺川右岸の山間地に立地。天文一二年(一五四三)に記された長昌山龍穏寺境地因縁記(龍穏寺文書)に「今、築根村于在道灌屋敷」とみえ、太田道灌の屋敷があったという。田園簿に村名がみえ、田高一二石余・畑高四四石余、幕府領。寛文八年(一六六八)検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高八二石余。延享三年―天保三年(一七四六―一八三二)間は三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
       
         鳥居の左側にある社号標柱       鳥居を越えすぐ右側にある手水舎
                         石を台座にした何となく趣ある造り
        
           鳥居の右側に祀られている「猿田彦大神」の石碑
 石碑の下部にある穴が印象的で、おそらくは越辺川の川石を使用したと思われるが、とにかく珍しい形状である。
        
                     拝 殿
         拝殿上部・向拝、木鼻部には精巧な彫刻が施されている。

津久根八幡神社には越生町指定文化財である伝統芸能「八幡神社の獅子舞」が、毎年10月第三土曜日・日曜日に奉納されている。
 八幡神社の獅子舞 越生町指定文化財
 八幡神社の秋祭りに奉納される獅子舞は、もともとは成瀬の諏訪神社の祭礼で行われていたものを、江戸時代の享保年間(一七一六~三六)に、津久根の人形芝居と交換して始められたと伝えられている。
 笛の音と、四人の女子が務める花子が掻き鳴らす竹製の簓の伴奏で、大獅子と中獅子の雄獅子二頭が雌獅子を奪い合うという筋立で舞われる。「ささら」は獅子舞の通称ともなっており、その音から、花子のことを「ちゃっちゃこ」とも呼んでいる。
 笹葉の青竹に注連縄をかけて舞う初庭の「七五三掛り」、雄獅子同士が争う中庭の「四幕抱き(志満久多喜)」、和解した雄獅子が雌獅子とともに舞う終庭(後庭)の「花掛り」の三庭(幕)からなる。
 開催期日 十月第三土曜日・日曜日
                                      案内板より引用

 
           越生町指定文化財の八幡神社本殿(写真左・右)
 八幡神社本殿 越生町指定文化財
 当地、大字津久根字若宮に鎮座する八幡神社は平安時代中期の創建と伝えられている。
 当社の由緒を物語る歴史資料として、鎌倉時代の正嘉二年(一二五八)銘を持つ密教法具の金剛盤(町指定文化財)が伝存している。
 棟札の写しによると、現在の本殿は天保四年(一八三三)の再建で、大工は新座郡舘村(現志木市)の高野武兵衛を棟梁に、当地生まれの江戸浅草新堀の吉山定右衛門と和田村(現越生町西和田)の石井熊蔵が務めた。
 彫物を請け負った浅草茅町の嶋村源蔵は、川越氷川神社や西東京市の田無神社などで知られる、嶋村流七代目の源蔵俊表と思われる。浅草東本願寺前の石川藤吉(石川流二代目周信)も携わっている。「黄石公と張良」、「高砂」、「的慮に乗る劉備玄徳」などで飾られた社殿を、四隅の縁下で力神が支えている。
                                    境内案内板より引用 


   社殿左側に祀られている境内社覆堂      社殿右側に祀られている石祠と境内社
     祇園神社・天照大神が祀られている。   石祠は「御神犬」、中央は稲荷社、右は蚕影社
       
 境内に設置されている「八幡神社本殿 越生町指定文化財」(写真左)と「八幡神社の獅子舞 越生町指定文化財」(同右)の掲示板。

 
         津久根八幡神社のすぐ北側を流れる越辺川(写真左・右)
    この周辺地域の河川はどこも清流であり、心洗われるような心持ちとなった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「埼玉の神社」
    Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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