古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下谷氷川神社

 鴻巣市内に残る豊かな緑は、生き物の生産場所となるほか、レクリエーション活動の場や災害時のオープンスペースなど、市民生活に安らぎと潤いを与え、都市の安全性を確保、向上させる等、様々な効果が期待されている。
 市では「鴻巣市緑化推進条例」を基に、市内の身近な緑を守り育むため、保護地区として、愛宕神社(原馬室地内)、赤城神社(赤城地内)、小松原神社(小松1丁目地内)、城山(大間地内)の4 か所(1.85ha)が指定されていると共に、保護樹木として寺社境内地のものを中心に保全に努めている。この制度は、良好な環境を保っている緑地や巨木、希少な樹木を指定し、所有者に適正な管理を行う努力義務をお願いするもので、保全のための奨励金を市から交付しているという。
 下谷氷川神社境内の「シイ」の木も保護樹木として指定されている巨木であり、社にとっては大切なご神木でもある。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市下谷484
             ・ご祭神 素盞嗚尊
             ・社 格 旧南下谷村・中下谷村・北下谷村鎮守 旧村社
             ・例 祭 元旦祭 11日 春祈祷 44日 天王様 714日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0536689,139.539303,16z?hl=ja&entry=ttu
 上谷氷川神社から一旦北東方向に進路をとり、T字路を右折する。道なりに500m程進むと変則的な3つ又の交差点に到着する。交差点左側手前にはコンビニエンスもあり、そこが目印となる。そこの真ん中の道を進み、200m程過ぎると左側に下谷氷川神社が道路に沿うように鎮座している。上谷氷川神社から1㎞もないほど至近距離に位置する。
 鳥居や社号標石碑がある正面の北側に専用駐車場があり、そこの一鶴に車を停めてから参拝を行った。
        
                             下谷氷川神社正面
 
 比較的長い参道を進む。両側には朱色の灯篭が並び、奉納者名の記載されている(写真左・右)。神社の案内板によると、かつては参道の両側は杉の大木が並び立っていたようだが、昭和41年(1966)の台風でほとんどが倒れてしまったという。代わりに灯篭を並べたとの事だ。
        
                            参道沿いに設置されている案内板
 氷川神社 御由緒 鴻巣市下谷四八四
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の下谷は、『鴻巣宿深井家譜』に「六郎次郎景高下谷にて戦死」と見え、かつて地内にあった熊野社の天正十一年(一五八三)の鰐口の銘にも「武州上足立下谷宮」と彫られていたように、戦国期には既に開発され、一村をなしていたと思われる。その後、元禄年間(一六八八-一七〇四)までに北下谷村・中下谷村・南下谷村の三か村に分かれ、明治四年に再度合併して一村になった。
 この下谷全体の鎮守として祀られてきた神社が当社であり、『風土記稿』南下谷村・中下谷村・北下谷村の項には「氷川社 南下谷にあり、三村の鎮守なり」と記されている。当社の境内は、実際には北下谷の地内にあるため、この『風土記稿』の記事の中の「南下谷」は、「北下谷」の誤りではないかと思われる。
 一方、『明細帳』によれば、当社は宝永七年(一七一〇)に再建され、明治六年村社に列せられたことや、同八年一月五日に焼失したが同年五月二日に再建されたこと、明治四十年に西中曾根の村社氷川社など六社を合祀したことなどがわかる。その後は、昭和二十八年に拝殿と本殿覆屋が新築された。更に昭和四十一年には、台風で参道の両側に並び立っていた杉の大木のほとんどが倒れてしまったが、後に植樹が進められ、現在は立派な杜となっている。
 □御祭神と御神徳
 ・素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
       
                       社殿右側奥に聳え立つご神木。鴻巣市指定保護樹木。
 
社殿右側に鎮座する境内社・日枝神社(山王様) 社殿左側に鎮座する境内社・八雲神社(天王様)
        
                                    趣のある境内。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等   

  

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上谷氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市上谷2258
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧上谷村鎮守 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 218日 例大祭 415日 新嘗祭 1123日
                  
大祓 1229
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0565811,139.5355908,18z?hl=ja&entry=ttu
 上谷氷川神社は国道17号線を北本市街地方向に進み、「深井」交差点を左折。700m程道なりに進むと、道路沿い左側に上谷氷川神社の社叢が見えてくる。
 正面参道の南側には適当な駐車スペースも確保されている。その一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                             道路沿いに鎮座する
上谷氷川神社
        
                 東南方向に鎮座する社。静かな空間が辺りを包み込むようだ。
        
 参道右側には力石が3個あり、そのうち2個には奉納年、重量等が彫られている。また簡単な案内板もある(写真左)。
左側の石  「奉納宮石 四十三メ日 元禄九子年上谷村〇〇〇」
真ん中の石「奉納御宝前 元禄十四年正月吉祥日 三十四貫目上谷村」
銘 力石
奉納
元禄 9年(1696年) 重量43貫(161.25㎏)
元禄14年(1701年) 重量34貫(127.5㎏)
・徳川5代将軍綱吉の頃
・昔の人達はこのような石で力だめしをしたそうです。                   案内板より引用
        
                                 上谷氷川神社 案内板
氷川神社  御由緒 鴻巣市上谷二二五八
御縁起(歴史)
上谷の地内の北の方の小名を竜灯と呼び、その由来を『風土記稿』は次のように載せる。古くはこの辺りに大きな沼があり、年久しく竜が棲んで、光を放ち、田畑を荒らすなどして耕地の妨げをしていた。天正のころ(一五七三-九二)岩槻の浪人立川石見守という強勇の者が、この竜を退治したことから村民は喜び、それにちなんで小名を竜灯と名付け、後にこの沼を埋めて水田を開いた。彼の石見守は、村の旧家弥七の先祖であるという。ちなみに、地内にあった真言宗宝性院(明治初年廃寺)の開基は、この立川石見守であると伝えている。
当社は上谷の鎮守として祀られており、創建の年代は明らかでないが、村の開発が進められる中で勧請されたものであろう。本殿に奉安する神鏡には享保二十一年(一七三六)の銘が見える。また、『風土記稿』上谷村の項には「氷川社 村の鎮守なり、末社 天神社 稲荷社 別当千寿院 本山派修験にて南下谷村大行院の配下なり、本尊不動を安ず」とある。
神仏分離後、当社は明治六年に村社となり、同四十年に字西ケ谷の厳島社、字上川面の稲荷社、字郡田の須賀社の三社の無格社を合祀した。このうち厳島社は当地と下谷・宮内の旧三か村の村境にあった池の傍らに祀っていた社である。また、稲荷社は、大雨による荒川の度重なる氾濫を憂えた天台宗台蔵院(明治初年廃寺)の開祖傳法上人が風雨順時と五穀成就の守護神として祀ったと伝える。
□御祭神と御神徳
素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用

        
                                         拝 殿
       
             拝殿前に聳え立つ銀杏のご神木。鴻巣市の保護樹林に指定されている。
 参拝時は1月の真冬故に葉も全て落ち、厳しい風雪に耐えるが如く、幹や枝のみの姿しか拝見できなかったが、新緑の季節ともなれば葉が大木を覆うようにびっしりと茂るのだろう。巨木、老木に属しているだろうが、それでも木の生命力の強さを感じずにはいられない。
 
 社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。         社殿奥には石祠1基。湯殿山大権現。

     
 鴻巣七騎という、武蔵国足立郡の鴻巣郷周辺に土着した家臣団の中に立川石見守という人物がいる。岩付太田氏に仕え小田原征伐の後に当地に土着したものと考えられるが、記録を失い詳細は定かではないという。
 それでも新編武蔵風土記稿上谷村条には「旧家弥七、立川を氏とす。石見守が子孫なりと云ふ。立川は武蔵七党の内、西党駄所宗時の子に立川宗恒見えたり。子孫宮内少輔照重は小田原北条に仕へ、天正の乱に滅亡せしものにて、多摩郡柴崎村普済寺境内は此の照重が塁跡なりと、彼寺の伝へにのこれり。思ふに石見守は照重の一族にして、岩槻の城主太田氏の旗下に属し、天正の乱に没落して当村に土着せしものなるべけれど、家系を伝えざれば定かなることは知べからず」と見え、この一族の本来の本拠地は多摩郡立川郷柴崎村(現東京都立川市)であったようだ。
        
                社殿右側奥にある庚申塔等
 ところで上谷に龍燈という小字がある。ここに大きな沼があり農民を困らせる龍が棲んでおり、天正の頃に岩槻の浪人立川石見守が退治し、村人はこれを悦んで龍燈と名づけ、沼を干拓し水田としたという伝承・伝説が風土記稿上谷村条を通して今でも伝わっている。
        
                              拝殿から参道正面風景を撮影
 立川氏は、12世紀武蔵国内に成立した中小武士団である武蔵七党の流れをくみ、戦国時代に太田氏の旗下となったが、岩付落城で没落、上谷村に土着したことが「風土記稿上谷村条」に記されている。このような、竜退治の話は、全国各地に伝わるが、いずれも「荒ぶるものを()」を鎮めた英雄伝説と結びついたものである。
 それを元荒川の洪水によって村民は苦しめられてきたが、それを竜に置き換え、その竜を退治した。即ち、治水対策に尽力したことが縁となって、上谷にすみ着き、村の草創期において、大きな役割を担ったことが想像できよう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
           

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常光神社

 神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進神社とは、地方財政から祭祀などのためのお金が支出されていた神社のことである。
 明治
40年(1907年)、府県郷を始め、村社(指定神社以上)が例祭に地方公共団体の神饌幣帛料の供進を受けられ、大正3年(1914年)4月からは追加事項として祈年祭・新嘗祭にも神饌幣帛料の供進を受けることがそれぞれ認められ、神饌幣帛料供進社と称された。神饌幣帛料供進共進神社、神饌幣帛料供進指定神社、あるいは社格と併せ指定県社、指定村社等の表現も為される。明治時代から終戦に至るまで続けられていた。
 常光神社は
大正2年(1913)神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
        
            ・所在地 埼玉県鴻巣市常光933
            ・ご祭神 素戔嗚尊
            ・社 格 旧上・下常光村鎮守 旧村社  
            ・例 祭 祈年祭 218日 例大祭 43日 新嘗祭 1123日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482791,139.5548736,16z?hl=ja&entry=ttu
 常光神社は鴻巣市南部、常光地区中央部に鎮座している。途中までの経路は笠原久伊豆神社を参照。埼玉県道311号蓮田鴻巣線「笠原郵便局」交差点を直進し、600m程進んだT字路を右折、T字路左側角には「中斉集会所」があり、その先には元荒川が流れ、「中斉橋」を通り過ぎる。そのうち「上谷総合公園」の駐車場を左手に見ながら上越新幹線の高架橋手前まで直進し、その交差点を左折する。高架橋に沿って南東方向に1.2㎞程進むと、正面方向に常光神社の社叢全景が見えてきて、その右側には長めの参道と鳥居が見えてくる。
 
鳥居前面は高架橋に面した道路の為、駐車場はないが、社の手前に高架橋沿いから左方向に曲がる道があり、一旦社の南側に移動すると、適当な駐車スペースがあり、そこの一角に車を停める。
 正式な参拝を行いたいならば、そこから南側の鳥居方向に戻ってから改めて参拝を行うしかない。
        
                               
常光神社 孤高な一の鳥居
     社の周辺には畑風景が広がる。常光地域は「梨」の名産地でも有名である。
       
            一の鳥居の右側にある社号標石碑       参道二の鳥居を望む。
        
                    二の鳥居
      二の鳥居の左側には「村社 氷川神社」と記されている社号標柱が立つ。 
 二の鳥居の左側には庚申塔・青面金剛等が並ぶ。   二の鳥居の左側に設置された案内板
 常光神社 御由緒  鴻巣市常光九三三 
 □ 御縁起(歷史)
 常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむとの伝えがある。
 当社は、この常光の鎮守として祀られてきた社で、元来は「氷川社」と称していたが、当時の村長の発案により、昭和ニ十六年七月ニ十五日付で、村名を採って「常光神社」と社号を改めた。 しかし、氏子の間では、今でも通称として当社を「永川様」と呼ぶ入が少なくない。
 常光村は、江戸時代の初期には一旦、上・下のニつに分かれ、明治七年に再度合併したが、上・下両村の村境は交錯してはっきりと分けることのできない状況であった。『風土記稿』も「○上常光村○下常光村」として一項に扱っており、当社については「永川社 村の鎮守なり、社内に寛永ニ年(一六二五)の棟札をかく、其文に本願主大旦那河野五郎左衛門・同七郎兵衛・同庄右衛門云々、末に永禄十ニ年己巳年(一五六九)年迄百廿六年に至るとあり、是をもて推せば文安元年(一四四四)に及べり、さあらんには旧き勧請なること知るべけれど、外に証とすべきものはなし、西福寺の持なり」と載せている。
 神仏分離の後は、西福寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。更に、大正ニ年十月には、幣殿・拝殿を新築するとともに覆屋を改築し、翌月には神饌幣帛供進神社の指定を受けた。
 □御祭神と御神徳
素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
       
                  二の鳥居を過ぎてすぐ左手に聳え立つご神木
 
 ご神木の並びに鎮座する境内社・八雲神社    参道右側、八雲神社の向かいにある神楽殿
               
                                     拝 殿
「常光」の地名由来を調べると以下の2通りの解釈となるようである。
①案内板にも記載されている「常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむ」と伝えがあり、その「常香」が地名由来となった。
常光は常荒で、荒野を開発するときに、常荒といって、ある年限を定めて税を免除した土地をいう。常光は嘉名(佳字)という。
 *熊谷市には「河原明戸」という地名があるが元々は土地柄の悪い「悪戸」が「明戸」に変更となった故事を思い起こさせる。
 
          本 殿            本殿右奥に鎮座する境内社・詳細不明

 ところで江戸城を築いたことで有名な太田道灌の子孫である資輔が岩付城主になり、岩付太田氏を名乗る際に、北部の抑えとして武蔵国足立郡の鴻巣郷(現・埼玉県鴻巣市、北本市)周辺に土着した家臣団を特に「鴻巣七騎」と呼称した。
 当時周辺の村々では、俗に「鴻巣七騎」 と呼ばれる在地武士が活躍していたといわれている。これらの在地武士たちは、岩付太田氏の配下にあり、それぞれが北本周辺に所領をもっていた。ここでいう鴻巣とは、北本市の東側一帯と桶川市の東部、鴻巣市の南東部を含む、戦国時代に「鴻巣郷」と呼ばれていたあたりに所領を持っていた在地武士(地侍)だったと伝えられている。
                                                   社殿からの風景
「鴻巣七騎」のメンバーは以下の人物という。
大島大炊助(おおしまおおいのすけ)・大膳亮(だいぜんのすけ)【北本市宮内・古市場】
深井対馬守景吉(ふかいつしまのかみかげよし)【北本市深井】
小池長門守(こいけながとのかみ)【鴻巣市鴻巣】
立川石見守(たちかわいわみのかみ)【鴻巣市上谷】
加藤修理亮(かとうしゅりのすけ)【北本市中丸】
河野和泉守(こうのいずみのかみ)【鴻巣市常光】
矢部某(やべなにがし)【鴻巣市下谷】
本木某(もときなにがし)【桶川市加納】

 鴻巣市常光の河野和泉守は、「新編武蔵風土記稿常光村条」において以下の記述がされている。
「旧家七兵衛、河野氏なり。隅切角の内に三の字を紋とす。代々上分の名主を勤む。先祖は五郎左衛門といひ、慶長の頃よりここに土着せしと。古は岩槻太田氏の旗下にて鴻巣七騎の内河野和泉守が裔なりと、五郎左衛門は其子にや。村内氷川社の棟札に河野五郎左衛門の名見えたり、河野氏の来由を書しものを伝へり、何人の書なりや詳ならず」


 七騎の苗字は鴻巣、北本、桶川市の字に通じる面もあり、その地域の歴史も垣間見ることも出来た。社参拝はその土地の歴史を知ることにもなり、歴史好きな筆者にとって実り多い考察ともなった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」
    「境内案内板」

                     

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明用三島神社

 明用三島神社が鎮座する地域は嘗て吹上町と呼ばれ、日本の埼玉県北足立郡にあった町であり、2005年(平成17年)101日、北埼玉郡川里町とともに鴻巣市に編入され、市域の一部となった。
 中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・忍(現・行田市)に向かう日光脇往還の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地としていっそうの繁栄の契機となった。
「吹上」という地名の由来は古くから諸説があり、確定的なものは無い。当地の上空で東京湾から吹いてくる海風と、北部山脈の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられたとの説があるものの、あくまで一学説である。

        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市明用123
              ・ご祭神 事代主命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 夏祭り 714日 秋祭り 1126
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0950104,139.4611698,17z?hl=ja&entry=ttu
 明用三島神社は旧吹上町の住宅地東端にあり、すこし離れると長閑な田園風景が拡がる。国道17号を鴻巣方向に進み、吹上団地入口交差点を右折、踏切を越えてすぐの十字路を左折し、埼玉県道365号線前砂交差点手前の細い十字路を右折すると右側に三島神社の鳥居が見える。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置している。
 バスを利用するのであれば鴻巣市のコミュニティバス(フラワー号)・中仙道コースを吹上駅南口(下り)より出発して、前砂(上)停留場で下車。一旦吹上団地方向に戻り、上記の細い交差点を左折すると神社に到着する。但しこのコミュニティバス・吹上駅南口からの下りコースは3時間ごとに運行されているため、事前に時間帯の確認は必要だ。コミュニティバスには田間宮コースもあり、こちらならば北鴻巣駅南口からの出発で、こちらは1時間30分毎の運行となり、待ち時間は半分となるが、停車口である龍昌寺から前砂交差点方向に10分弱程歩かねばならない。
 駐車スペースは参道内に社務所があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                                明用三島神社参道
       
         道路沿いに建つ社号標          社号標の先に鳥居が立つ
                        
神額には「三嶌大神」と揮毫されている
 明用三島神社の創建年代等は不詳ながら、明用を(万治31660年に)開発した鶴間氏がかつては祭主を務めてきたと伝えられることから、鶴間氏が当地を開発した際に勧請したのではないかと言われる。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治40年三丁免三島神社(及び境内社)などを合祀している。
 
  社殿階段左側にある三島神社の由来案内板       社殿手前右側に鎮座する境内
 
                              三丁免三島神社
 三島神社 御由緒  鴻巣市明用一二三
 □御縁起(歴史)
 当地は荒川左岸の低地に位置する。元荒川の自然堤防上に集落があり、その西方の低湿地に水田が広がる。『風土記稿』によると、当村は鶴間氏の開墾した村で、古くは鶴間村と称し、当初は三丁免村も含んでいたが、元禄十二年(一六九九)に分村したという。鶴間家は累代当地の名主を務めた家柄である。
 当社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮まる。この古墳は町内で最大規模の古墳で、全長五五メートル、後円部径三〇メートルの前方後円墳である。石室は破壊されており、拝殿前などに敷石として利用されている緑泥片岩がこの石室の石材と思われる。
 当社は、『明細帳』に「創立不明 同村鶴間弥五右衛門祭主ト古老ノ伝有(以下略)」と載る。恐らく、村の開発に携わった鶴間家により当社は勧請され、以後同家が代々祭主を務めたのであろう。当社は鶴間家から北東二〇〇メートルの位置にあり、同家の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。
 『風土記稿』には、地内の真言宗観音寺が当社の別当であったと記される。同寺は、三島山明星院と号し、箕田村竜珠院の末寺であったが、開基の年代は不詳である。
 明治に入り観音寺の管理下から離れた当社は、明治六年に明用村の村社となり、同二十七年に本殿を改築した。
 その後、明治四十一年八月十六日、三丁免村の村社と合祀になり現在に至る。尚、三丁免の村社には、天満社・八坂社・稲荷社・三峯社・還護社・筧社が祀られていた。
 □御祭神と御神徳 
 ・事代主命・・・商売繁盛、家庭円満、病気平癒
 □御祭日
 ・元旦祭(一月一日)   ・祈年祭(二月第三日曜日)
 ・夏祭り(七月第二土曜日)・秋祭り(十一月二十三日)           案内板より引用
        
                  石段の先にある拝殿
 新編武蔵風土記稿による明用三島神社の由緒
 明用村
 明用村は村民鶴間氏の開墾せし所にて、古は鶴間村と稱せしを何の頃よりか今の如く改めし と、又昔は三町免村も當村にこもりて一村なりしといへり、其地は箕田郷に屬し(以下略)
 三島社
 古塚の上に鎮座す、塚の高一丈餘ばかり、六七間にて横に長し、社に向て左の方に長九尺、幅五尺餘の石片面あらはれてあり、昔村民此石を堀出さんとなせしかば、忽ち祟りを蒙むりしとて、其後は恐れて手を觸る者なしと云、按に此塚は古代墳墓にして、顯れし石は全く石と見えたり、おもふに下總國那須郡國造塚の類にして、郡司などいふものゝ葬地なるべし、又近郷箕田村の古塚も是と同じ形なり、
 末社。天王社、稲荷社、天満宮

因みに明用三島神社古墳に関しては後日解説する。

 明用三島神社に参拝中不思議に感じたことがある。本来三島神社のご祭神は「大山祇神」であるはずなのに、この社では「事代主神」という。帰宅後調べてみると次のような結論となった。(引用Wikipedia)
三島神社の総本社は伊予の大山祇神社(大三島神社)と伊豆の三嶋大社であり、全国に400社余り存在し、伊予の大山祇神社を総本社とする大山祇・山祇神社(全国に900社前後)と併せ、「大山祇・三島信仰」と総称されることもある。
 三島大明神の本体はというと、多くの三島神社が大山祇神としている。大山祇神社については、延喜式神名帳でも大山積神社の名で記載されており、祭神が大山祇神であることは確実視される。13世紀の『釈日本紀』に引用される『伊予国風土記』(逸文)にも「御嶋(三島)に座す神は大山積神」という記述がある。三嶋大社についても前述の『東関紀行』や『源平盛衰記』『神道集』のほか、『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』なども大山祇神としている。
 同時に賀茂氏との関係も示唆され、事代主神を祭る三島神社も多い。室町時代の『二十二社本縁』に「伊豆の三島神(現:三嶋大社)は都波八重事代主神で、伊予の三島神(現:大山祇神社)と同じ」という記述がある。三嶋大社は江戸時代以前では主祭神を大山祇神としていたが、明治に国学者の支持を受けたことから主祭神を事代主神に変更し、昭和に再度大山祇神説が浮上すると、大山祇神・事代主神二神同座に改めている。これを受けて、一部の三島神社は事代主神単独、または事代主神を併せて祭っている。
 
        境内社琴平・八坂・天神合殿          境内社道祖神・稲荷社か 
                           これらは社殿の左側に鎮座している。 
    境内社塞神二基・天神・伊奈利・八坂等      境内社三峰神社(三つの石祠) 
       こちらは三嶋神社古墳の後円部から前方部にかけて祭られている石祠群である。

 もう一つ疑問点がある。この明用三島神社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮座している。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。55m級の古墳は郡単位の公権力を持ち、尚且つ財力を併せ持つ人物だったにちがいない。
 この古墳の埋葬者はどのような人物だったのだろうか。


 

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糠田氷川神社

埼玉県では平成20年『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の報告書を提出している。この報告書は、平成 20 年度の彩の川研究会が実施した『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の結果をとりまとめたものである。
「鎮守の森」は、その土地本来の樹木によるふるさとの森であり、地域の守護神 を祀った社寺林である。埼玉県東部や荒川沿川の低平な洪水氾濫地帯では、私的な 水防災施設としての「水塚」に対して、「鎮守の森」は公的な水防災拠点としての 機能を有していたのではないか考えられる。
 戦後の高度経済成長に伴う人口集中による都市化の中で、「鎮守の森」は激減の一途を辿った。埼玉県内における過去の分布、現存地について調査し、その機能を検証して、保存と復元再生策を研究することにより、地域の水防災拠点の構築ならびに環境の整備に資することを目的に、本調査研究を実施するものであった。
 鴻巣市糠田地区の糠田氷川神社は荒川左岸の低地に鎮座している。村の鎮守として、またご先祖様の御霊を慰め、おまつり(お祭り)する社として、また同時に「鎮守の森」として地域の方々の水防拠点の位置づけを担う社としての一面も持ち合わせていた。
        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市糠田1342
              ・ご祭神 須佐之男命 稲田姫命
              ・社 格 旧糠田村鎮守・旧村社
              ・例祭等 春の中祭 2月下旬の日曜日 風祭り4月第一日曜日
                   夏大祭 71415日 秋の中祭 11月下旬の日曜日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0636834,139.4843825,17z?hl=ja&entry=ttu  
 糠田氷川神社は埼玉県道76号鴻巣川島線を南下し糠田橋方向に進む。陸橋手前の十字路を右折し、その後荒川左岸方面に向かうと氷川神社入口に到着する。位置的には糠田運動場多目的グランドの西側に鎮座している。
 駐車スペースは鳥居前に数台分確保されているが、舗装されていないので、足場は悪い。駐車する際には凸凹面には注意が必要だ。
        
               入り口付近にある社号標、案内板等
 
     
社号標 但し平成27年4月撮影     「鴻巣市氷川神社社叢ふるさとの森」案内板
        
            長い参道の途中・右側の社叢内にある浅間神社
             
                 長い参道先に鳥居あり
        
                     拝 殿
         
                境内に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒   鴻巣市糠田一三四二
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の糠田は、荒川左岸の低地に位置し、その地内には、かつて「糠田の渡し」と呼ばれる荒川の渡し場があった。対岸の比企郡須戸野谷新田(現吉見町)と結ぶこの渡し場は、糠田河岸という河岸場でもあり、熊谷の久下から下って来た船の、最初の休み場であった。
この糠田の鎮守である当社は、朝日山と呼ばれる台地上に祀られ、須佐之男命と稲田姫命の二柱を祭神とする。そのため、本殿は二間社の流造りとなっており、内陣には「氷川大明神御宝前 享保三年(一七一八)戌二月吉日」の銘のある金幣が納められている。なお、当社の境内は、昭和五十五年に県から「ふるさとの森」に選定された美しい社叢に包まれており、社殿はこの森の中央にある。
 当社の由緒については、『風土記稿』糠田村の項に「氷川社 村民の持 文禄の頃(一五九二‐九六)まで小社なりしが寛永年中(一六二四‐四四)村の鎮守として造営すと云」と記されている。この記述と、境内が地元の旧家の河野権兵衛が代々住居を構えた「権兵衛屋敷」に近い所にあることから、当社の創建には河野家が深くかかわっていたと推測できる。現在の本殿は、享保三年(一七一八)に建立されたもので、平成五年には市の有形文化財に指定された。ちなみに、この本殿の四周には精緻な彫刻が施されているが、数年前にその一部が心無い輩に盗まれてしまったことが惜しまれる(中略)
                                      案内板より引用
             
                                         本  殿
        
         鴻巣市指定文化財(建造物) 平成五年十月一日指定  氷川神社本殿一宇
 氷川神社は、かつては朝日山と呼ばれ須佐之男命・櫛稲田姫命が祀られている。創建年代は、はっきりしていないが現在でも地区の人々の崇敬を集めている。
文禄年間(一五九二~一五九六)までは社も小さかったようであるが、寛永年間(一六二四~一六四四)になって村の鎮守となり、規模も大きくなったようである。明治六年には当時の田間宮村の村社となった。
 本殿は二間社流造破風・軒唐破風付き、板葺本殿で、尾垂木に龍と鳳凰を配している。
本殿を飾る彫刻類は美術的・工芸的にも優れているうえに保存状態も良い。棟札は一八世紀はじめの享保三年である。近世の社殿としては埼玉県内でも比較的古い時期の建築であり、しかも建築年代がはっきりとわかる例として貴重である。しかし、全体の作りは一八世紀後半の社殿建築様式となっており、後世に一部改築された可能性がある。(中略)
                                      案内板より引用
 埼玉県土の東部平野部を占める低平地は、「埼玉平野」とよばれ、古代より利根川をはじめ荒川や渡良瀬川の氾濫によって形成された。徳川家康の関東への移封以降埼玉平野の開発が本格的に進むにつれ、利根川等幹川の治水・利水が施された。近世の埼玉平野は、徳川幕府や親藩の穀倉として基盤を築かれたが、現代の先進的な土木技術とは違い、数多くの洪水が沃土を侵害したことが書簡・文面からも読み取れる。
 どの時代もそうだが、洪水災害等の氾濫が居住地を襲ったとき、住民は当然水より高い場所に避難する。埼玉平野は広大な低地であり、住民が生活する集落は、自然堤防などの微高地が大部分である。その微高地の中でも僅かに高い場所に寺社が建っていることが多い。所謂神社ならば「鎮守の森」である。同じく寺院の場合も山号をもつように、山に立地しているものが多い。 微高地の集落が氾濫による浸水に襲われた時、より高い寺社の地に避難したのは、自然の成り行きと考えられる。このような大水から、鎮守の森などに避難する行動は、当時の民衆の習慣・慣例となって各地に言伝えられているのではないだろうか。
 

      土手側に鎮座する八坂社          拝殿手前でやはり土手側に神楽殿 
  その他境内には社殿奥に大國社・琴平社・天神社・八幡宮・稲荷社等が祀っている。

『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』報告書では、この広域な埼玉平野で大水から逃れる手段として、このような実績などについて、言伝えや記録の調査を行なったもので、大水害の記録は現代も同様であるが、近世文書においても洪水の被害状況や、被災箇所の普請のほか、年貢の減免申請など関係文書は多数みることができるという。
 糠田氷川神社もその避難場所として、史料として残されている。
 ○明治43811
 ・十一日午後七時北足立郡田間宮村大字糠田堤外の家屋は床上浸水百七十八戸、同村大字登戸床上同八戸、同大間道三戸、同中野は床上浸水二十四戸に及びたるを以て、老幼婦女等は東光寺、大間の氷川神社境内に避難したり、‥‥
(概況)
 ・明治43年は、晩霜や降雹などの異常気象が相次ぎ田植時には異常乾燥とも云うべき日照 りが続き、このため水喧嘩が各地で起こったと云われる。関東地方では、7月下旬から雨が 降り続き、8月に入ると1日から前線や低気圧が停滞して連日大雨となり、また台風の接近 により暴風雨となった。この降雨は8月16日まで続いた。
(糠田地域の状況等)
 ・8月8日早朝から引続き暴風雨のため荒川の水位は上昇し続けていた。 10日夕方には水位が堤防法面半ば以上に達した。馬踏12尺の内中央より崩壊法先田面へ押 出地下より漏水が始まり土俵羽口工、竹砲工及び五徳工等施工した。 本箇所の応急工事は、崩壊長78間(約140M)におよび、土俵羽口工として空俵7200俵、 莚273枚、唐竹5550本等の資材は3日間で全て取揃えた。また、作業員は、1日平均656名が 昼夜兼行就業を続行し、7日間で竣功させた。
 ○昭和22年(1947915日 カスリーン台風
 ・本宮田間宮小学校、氷川神社々務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、九月十五日夜半より九月廿一日まで一週間、収容延人員 1,023人を算するに及んだ。
(概況)
 ・荒川の氾濫に備え、9月15日午前8時30分消防団全員、更に各戸1名宛の奉仕員で防水班を編成、準備態勢を整えた。 その後、荒川の水位は刻々と上昇し越水の危険が迫ったので、全村民男子総動員を指令 した。また、隣町村消防団員、鴻巣町警察署員併せて103名が応援にかけつけた。 午後5時10分溢水する堤防口から徐々に決潰が始まった。出動人員1663名必死の水防も空 しく、午後5時40分頃樋管堤防(渡内)が一大音響と共 に破堤した。さらに、午後6時30 分頃他の樋管堤防(行人)も破堤した。奔流は、大海の怒濤の如く耕地に浸入、民家も次々 と水没していった。(被害者の避難所設置)
 ・田間宮小学校、氷川神社社務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、9月15日か ら同月21日まで1週間、延べ人員1023人を収容した。 当村内非浸水地帯秋元酒造工場外五箇所に、消防団員、婦人会主体に、炊出しを開始し、 一日平均1397名に対し、16日から4日間給食に努力した。 (この間の食糧は、米25俵、コッペパン15000個であった) 

 上記の報告書では、過去の出水の際多くの「鎮守の森」が緊急の避難地、また助け合いの拠点 として大きな役割を果たしたことなどを明らかにしている。当面は、関係行政機関に寄贈し役立てていただくとともに、さらに目的に沿って研究を深め、図書館、出前講座等多くの方に役立つ方策を検討し、河川への深い関心をもっていただく契機としたいと結んでいる。
       
                         参道の両脇に聳え立つ巨木群(写真左・右)
               悠久の歴史を感じ、同時に参拝中も厳かな気持ちにさせて頂いた。
        
 氷川神社の社叢林はケヤキ、カシ、イチョウ、スギ、ヒノキなどで構成され神秘的な雰囲気を持つ。0.74haが埼玉県の[ふるさとの森]に指定されている。

 ほぼ解説の中心は「水害」に対しての鎮守の森の効果のみ述べてしまうことが大半であったので、ここで鎮座している「糠田」の地名に関しても考察したい。
 この「糠田」という地名の由来に関して、当初は「額田」が関係しているのではないかと考えた。日本書紀・神功皇后四十七年条に「千熊長彦を新羅に遣す。千熊長彦は、分明しく其の姓を知らざる人なり。一に云わく、武蔵国の人。今は是額田部槻本首等が始祖なりといふ」との記述がある。ここで出現している「千熊長彦」は『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。 神功皇后(第14代仲哀天皇皇后)の時に対百済・新羅外交にあたったとされる人物で、一説に武蔵国の人物で額田部槻本首(つきもとのおびと)らの祖とされている。この額田部槻本首は摂津国西成郡槻本郷(大阪市淀川区)が根拠地であるようで、その後日本武尊に従い関東へ移ったようだ。
近江国御上神社神主三上祝系図に「天照大御神―天津彦根命(天降而居出雲国意宇郡屋代郷、後遷近江国蒲生郡彦根神社)―天御影命(又、天目一箇命)―意富伊我都命―彦伊賀都命(神武天皇世、居蒲生郡於馬見丘奉斎神社)―天夷沙比止命(和泉国川枯首祖)―川枯彦命(近江国甲賀郡川枯神社)―坂戸毘古命(孝元天皇世、奉斎三上神)―国忍富命―筑箪命(崇神天皇世、筑波国造)―忍凝見命(垂仁天皇世、為大湯坐部)―建許呂命(日本武尊東征時随従)―大布日意弥命(為須恵国造)―千熊長彦(額田部槻本首祖)」
 この系図には天照大御神から天津神系の天津彦根命〜千熊長彦までの流れを記しているが、この系図をざっくりと解説すると、天津彦根命の子である天目一箇命は製鉄・鍛冶神で、筑紫国、播磨国、伊勢国等に登場する神で、その子孫が和泉国⇒近江国と東方面に移動し、日本武尊東征時に随従し、筑波国に到着。須恵国は天平勝宝五年文書に上総国須恵郡額田部郷と記載され、和名抄に上総国周准郡額田郷・湯坐郷(千葉県君津市糠田、湯江)と見えることから、千葉県に移動していることが分かる。因みにこの系図に記されている神々は全て鍛冶に関係していることは、「湯坐部」「湯江」の地名からも明らかで、湯坐(ゆえ)とは、金属が熱に熔けた状態を湯という、鉄をドロドロに熔かす工人を湯坐部といったという。ということは須恵国も同様に火事に関連した名称で、陶(すえ)を製造する氏族の居住地だったとも考えられる。
 千熊長彦の祖先である天御影命(又、天目一箇命)は『古語拾遺』によると筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、天太玉命と同一神とも言われている。天太玉命の孫である天富命が阿波の斎部を率いて東に赴き、安房・下総・上総国の基をつくったとされている。

 また安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。千熊長彦は武蔵国比企・入間・高麗地方の鍛冶集団額田部一族を統率した首領だった可能性も捨てきれない。

 鴻巣市には生出塚埴輪窯跡と言われる埼玉県鴻巣市にある古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡があるが、同時期馬室(まむろ)埴輪窯跡も存在している。馬室埴輪窯跡は、鴻巣市南西端、荒川に臨む河岸段丘に作られた古墳時代後期の半地下式無段登窯群遺跡で、10基以上の埴輪窯跡が確認されている。糠田地区はその馬室埴輪窯跡に近い場所でもある為、糠田=額田=千熊長彦と連想してしまうわけだ。
 その一方で、「糠田」の地形を見ると、当時(現在でもそうだが)糠田村は荒川に隣接するだけでなく、地形的にも他の地域に比べ相対的に標高が低く、周辺の村々からの悪水(排水)が集まってくる地区であったようだ。そのため水害(洪水だけでなく、内水による湛水被害を蒙っていた)が多く、恒常的に湛水被害に悩まされていた為、「泥濘の多い場所」の意味で「糠(ぬかる)+田」とつけたのかもしれない。

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