糠田氷川神社
埼玉県では平成20年『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の報告書を提出している。この報告書は、平成 20 年度の彩の川研究会が実施した『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の結果をとりまとめたものである。
「鎮守の森」は、その土地本来の樹木によるふるさとの森であり、地域の守護神 を祀った社寺林である。埼玉県東部や荒川沿川の低平な洪水氾濫地帯では、私的な 水防災施設としての「水塚」に対して、「鎮守の森」は公的な水防災拠点としての 機能を有していたのではないか考えられる。
戦後の高度経済成長に伴う人口集中による都市化の中で、「鎮守の森」は激減の一途を辿った。埼玉県内における過去の分布、現存地について調査し、その機能を検証して、保存と復元再生策を研究することにより、地域の水防災拠点の構築ならびに環境の整備に資することを目的に、本調査研究を実施するものであった。
鴻巣市糠田地区の糠田氷川神社は荒川左岸の低地に鎮座している。村の鎮守として、またご先祖様の御霊を慰め、おまつり(お祭り)する社として、また同時に「鎮守の森」として地域の方々の水防拠点の位置づけを担う社としての一面も持ち合わせていた。
・所在地 埼玉県鴻巣市糠田1342
・ご祭神 須佐之男命 稲田姫命
・社 格 旧糠田村鎮守・旧村社
・例祭等 春の中祭 2月下旬の日曜日 風祭り4月第一日曜日
夏大祭 7月14・15日 秋の中祭 11月下旬の日曜日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0636834,139.4843825,17z?hl=ja&entry=ttu
糠田氷川神社は埼玉県道76号鴻巣川島線を南下し糠田橋方向に進む。陸橋手前の十字路を右折し、その後荒川左岸方面に向かうと氷川神社入口に到着する。位置的には糠田運動場多目的グランドの西側に鎮座している。
駐車スペースは鳥居前に数台分確保されているが、舗装されていないので、足場は悪い。駐車する際には凸凹面には注意が必要だ。
入り口付近にある社号標、案内板等
社号標 但し平成27年4月撮影 「鴻巣市氷川神社社叢ふるさとの森」案内板
長い参道の途中・右側の社叢内にある浅間神社
長い参道先に鳥居あり
拝 殿
境内に設置されている案内板
氷川神社 御由緒 鴻巣市糠田一三四二
□御縁起(歴史)
鎮座地の糠田は、荒川左岸の低地に位置し、その地内には、かつて「糠田の渡し」と呼ばれる荒川の渡し場があった。対岸の比企郡須戸野谷新田(現吉見町)と結ぶこの渡し場は、糠田河岸という河岸場でもあり、熊谷の久下から下って来た船の、最初の休み場であった。
この糠田の鎮守である当社は、朝日山と呼ばれる台地上に祀られ、須佐之男命と稲田姫命の二柱を祭神とする。そのため、本殿は二間社の流造りとなっており、内陣には「氷川大明神御宝前 享保三年(一七一八)戌二月吉日」の銘のある金幣が納められている。なお、当社の境内は、昭和五十五年に県から「ふるさとの森」に選定された美しい社叢に包まれており、社殿はこの森の中央にある。
当社の由緒については、『風土記稿』糠田村の項に「氷川社 村民の持 文禄の頃(一五九二‐九六)まで小社なりしが寛永年中(一六二四‐四四)村の鎮守として造営すと云」と記されている。この記述と、境内が地元の旧家の河野権兵衛が代々住居を構えた「権兵衛屋敷」に近い所にあることから、当社の創建には河野家が深くかかわっていたと推測できる。現在の本殿は、享保三年(一七一八)に建立されたもので、平成五年には市の有形文化財に指定された。ちなみに、この本殿の四周には精緻な彫刻が施されているが、数年前にその一部が心無い輩に盗まれてしまったことが惜しまれる(中略)
案内板より引用
本 殿
鴻巣市指定文化財(建造物) 平成五年十月一日指定 氷川神社本殿一宇
氷川神社は、かつては朝日山と呼ばれ須佐之男命・櫛稲田姫命が祀られている。創建年代は、はっきりしていないが現在でも地区の人々の崇敬を集めている。
文禄年間(一五九二~一五九六)までは社も小さかったようであるが、寛永年間(一六二四~一六四四)になって村の鎮守となり、規模も大きくなったようである。明治六年には当時の田間宮村の村社となった。
本殿は二間社流造破風・軒唐破風付き、板葺本殿で、尾垂木に龍と鳳凰を配している。
本殿を飾る彫刻類は美術的・工芸的にも優れているうえに保存状態も良い。棟札は一八世紀はじめの享保三年である。近世の社殿としては埼玉県内でも比較的古い時期の建築であり、しかも建築年代がはっきりとわかる例として貴重である。しかし、全体の作りは一八世紀後半の社殿建築様式となっており、後世に一部改築された可能性がある。(中略)
案内板より引用
埼玉県土の東部平野部を占める低平地は、「埼玉平野」とよばれ、古代より利根川をはじめ荒川や渡良瀬川の氾濫によって形成された。徳川家康の関東への移封以降埼玉平野の開発が本格的に進むにつれ、利根川等幹川の治水・利水が施された。近世の埼玉平野は、徳川幕府や親藩の穀倉として基盤を築かれたが、現代の先進的な土木技術とは違い、数多くの洪水が沃土を侵害したことが書簡・文面からも読み取れる。
どの時代もそうだが、洪水災害等の氾濫が居住地を襲ったとき、住民は当然水より高い場所に避難する。埼玉平野は広大な低地であり、住民が生活する集落は、自然堤防などの微高地が大部分である。その微高地の中でも僅かに高い場所に寺社が建っていることが多い。所謂神社ならば「鎮守の森」である。同じく寺院の場合も山号をもつように、山に立地しているものが多い。 微高地の集落が氾濫による浸水に襲われた時、より高い寺社の地に避難したのは、自然の成り行きと考えられる。このような大水から、鎮守の森などに避難する行動は、当時の民衆の習慣・慣例となって各地に言伝えられているのではないだろうか。
土手側に鎮座する八坂社 拝殿手前でやはり土手側に神楽殿
その他境内には社殿奥に大國社・琴平社・天神社・八幡宮・稲荷社等が祀っている。
『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』報告書では、この広域な埼玉平野で大水から逃れる手段として、このような実績などについて、言伝えや記録の調査を行なったもので、大水害の記録は現代も同様であるが、近世文書においても洪水の被害状況や、被災箇所の普請のほか、年貢の減免申請など関係文書は多数みることができるという。
糠田氷川神社もその避難場所として、史料として残されている。
○明治43年8月11日
・十一日午後七時北足立郡田間宮村大字糠田堤外の家屋は床上浸水百七十八戸、同村大字登戸床上同八戸、同大間道三戸、同中野は床上浸水二十四戸に及びたるを以て、老幼婦女等は東光寺、大間の氷川神社境内に避難したり、‥‥
(概況)
・明治43年は、晩霜や降雹などの異常気象が相次ぎ田植時には異常乾燥とも云うべき日照 りが続き、このため水喧嘩が各地で起こったと云われる。関東地方では、7月下旬から雨が 降り続き、8月に入ると1日から前線や低気圧が停滞して連日大雨となり、また台風の接近 により暴風雨となった。この降雨は8月16日まで続いた。
(糠田地域の状況等)
・8月8日早朝から引続き暴風雨のため荒川の水位は上昇し続けていた。 10日夕方には水位が堤防法面半ば以上に達した。馬踏12尺の内中央より崩壊法先田面へ押 出地下より漏水が始まり土俵羽口工、竹砲工及び五徳工等施工した。 本箇所の応急工事は、崩壊長78間(約140M)におよび、土俵羽口工として空俵7200俵、 莚273枚、唐竹5550本等の資材は3日間で全て取揃えた。また、作業員は、1日平均656名が 昼夜兼行就業を続行し、7日間で竣功させた。
○昭和22年(1947)9月15日 カスリーン台風
・本宮田間宮小学校、氷川神社々務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、九月十五日夜半より九月廿一日まで一週間、収容延人員 1,023人を算するに及んだ。
(概況)
・荒川の氾濫に備え、9月15日午前8時30分消防団全員、更に各戸1名宛の奉仕員で防水班を編成、準備態勢を整えた。 その後、荒川の水位は刻々と上昇し越水の危険が迫ったので、全村民男子総動員を指令 した。また、隣町村消防団員、鴻巣町警察署員併せて103名が応援にかけつけた。 午後5時10分溢水する堤防口から徐々に決潰が始まった。出動人員1663名必死の水防も空 しく、午後5時40分頃樋管堤防(渡内)が一大音響と共 に破堤した。さらに、午後6時30 分頃他の樋管堤防(行人)も破堤した。奔流は、大海の怒濤の如く耕地に浸入、民家も次々 と水没していった。(被害者の避難所設置)
・田間宮小学校、氷川神社社務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、9月15日か ら同月21日まで1週間、延べ人員1023人を収容した。 当村内非浸水地帯秋元酒造工場外五箇所に、消防団員、婦人会主体に、炊出しを開始し、 一日平均1397名に対し、16日から4日間給食に努力した。 (この間の食糧は、米25俵、コッペパン15000個であった)
上記の報告書では、過去の出水の際多くの「鎮守の森」が緊急の避難地、また助け合いの拠点 として大きな役割を果たしたことなどを明らかにしている。当面は、関係行政機関に寄贈し役立てていただくとともに、さらに目的に沿って研究を深め、図書館、出前講座等多くの方に役立つ方策を検討し、河川への深い関心をもっていただく契機としたいと結んでいる。
参道の両脇に聳え立つ巨木群(写真左・右)
悠久の歴史を感じ、同時に参拝中も厳かな気持ちにさせて頂いた。
氷川神社の社叢林はケヤキ、カシ、イチョウ、スギ、ヒノキなどで構成され神秘的な雰囲気を持つ。0.74haが埼玉県の[ふるさとの森]に指定されている。
ほぼ解説の中心は「水害」に対しての鎮守の森の効果のみ述べてしまうことが大半であったので、ここで鎮座している「糠田」の地名に関しても考察したい。
この「糠田」という地名の由来に関して、当初は「額田」が関係しているのではないかと考えた。日本書紀・神功皇后四十七年条に「千熊長彦を新羅に遣す。千熊長彦は、分明しく其の姓を知らざる人なり。一に云わく、武蔵国の人。今は是額田部槻本首等が始祖なりといふ」との記述がある。ここで出現している「千熊長彦」は『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。 神功皇后(第14代仲哀天皇皇后)の時に対百済・新羅外交にあたったとされる人物で、一説に武蔵国の人物で額田部槻本首(つきもとのおびと)らの祖とされている。この額田部槻本首は摂津国西成郡槻本郷(大阪市淀川区)が根拠地であるようで、その後日本武尊に従い関東へ移ったようだ。
・近江国御上神社神主三上祝系図に「天照大御神―天津彦根命(天降而居出雲国意宇郡屋代郷、後遷近江国蒲生郡彦根神社)―天御影命(又、天目一箇命)―意富伊我都命―彦伊賀都命(神武天皇世、居蒲生郡於馬見丘奉斎神社)―天夷沙比止命(和泉国川枯首祖)―川枯彦命(近江国甲賀郡川枯神社)―坂戸毘古命(孝元天皇世、奉斎三上神)―国忍富命―筑箪命(崇神天皇世、筑波国造)―忍凝見命(垂仁天皇世、為大湯坐部)―建許呂命(日本武尊東征時随従)―大布日意弥命(為須恵国造)―千熊長彦(額田部槻本首祖)」
この系図には天照大御神から天津神系の天津彦根命〜千熊長彦までの流れを記しているが、この系図をざっくりと解説すると、天津彦根命の子である天目一箇命は製鉄・鍛冶神で、筑紫国、播磨国、伊勢国等に登場する神で、その子孫が和泉国⇒近江国と東方面に移動し、日本武尊東征時に随従し、筑波国に到着。須恵国は天平勝宝五年文書に上総国須恵郡額田部郷と記載され、和名抄に上総国周准郡額田郷・湯坐郷(千葉県君津市糠田、湯江)と見えることから、千葉県に移動していることが分かる。因みにこの系図に記されている神々は全て鍛冶に関係していることは、「湯坐部」「湯江」の地名からも明らかで、湯坐(ゆえ)とは、金属が熱に熔けた状態を湯という、鉄をドロドロに熔かす工人を湯坐部といったという。ということは須恵国も同様に火事に関連した名称で、陶(すえ)を製造する氏族の居住地だったとも考えられる。
千熊長彦の祖先である天御影命(又、天目一箇命)は『古語拾遺』によると筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、天太玉命と同一神とも言われている。天太玉命の孫である天富命が阿波の斎部を率いて東に赴き、安房・下総・上総国の基をつくったとされている。
また安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。千熊長彦は武蔵国比企・入間・高麗地方の鍛冶集団額田部一族を統率した首領だった可能性も捨てきれない。
鴻巣市には生出塚埴輪窯跡と言われる埼玉県鴻巣市にある古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡があるが、同時期馬室(まむろ)埴輪窯跡も存在している。馬室埴輪窯跡は、鴻巣市南西端、荒川に臨む河岸段丘に作られた古墳時代後期の半地下式無段登窯群遺跡で、10基以上の埴輪窯跡が確認されている。糠田地区はその馬室埴輪窯跡に近い場所でもある為、糠田=額田=千熊長彦と連想してしまうわけだ。
その一方で、「糠田」の地形を見ると、当時(現在でもそうだが)糠田村は荒川に隣接するだけでなく、地形的にも他の地域に比べ相対的に標高が低く、周辺の村々からの悪水(排水)が集まってくる地区であったようだ。そのため水害(洪水だけでなく、内水による湛水被害を蒙っていた)が多く、恒常的に湛水被害に悩まされていた為、「泥濘の多い場所」の意味で「糠(ぬかる)+田」とつけたのかもしれない。