常光神社
明治40年(1907年)、府県郷を始め、村社(指定神社以上)が例祭に地方公共団体の神饌幣帛料の供進を受けられ、大正3年(1914年)4月からは追加事項として祈年祭・新嘗祭にも神饌幣帛料の供進を受けることがそれぞれ認められ、神饌幣帛料供進社と称された。神饌幣帛料供進共進神社、神饌幣帛料供進指定神社、あるいは社格と併せ指定県社、指定村社等の表現も為される。明治時代から終戦に至るまで続けられていた。
常光神社は大正2年(1913)神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
・所在地 埼玉県鴻巣市常光933
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧上・下常光村鎮守 旧村社
・例 祭 祈年祭 2月18日 例大祭 4月3日 新嘗祭 11月23日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482791,139.5548736,16z?hl=ja&entry=ttu
常光神社は鴻巣市南部、常光地区中央部に鎮座している。途中までの経路は笠原久伊豆神社を参照。埼玉県道311号蓮田鴻巣線「笠原郵便局」交差点を直進し、600m程進んだT字路を右折、T字路左側角には「中斉集会所」があり、その先には元荒川が流れ、「中斉橋」を通り過ぎる。そのうち「上谷総合公園」の駐車場を左手に見ながら上越新幹線の高架橋手前まで直進し、その交差点を左折する。高架橋に沿って南東方向に1.2㎞程進むと、正面方向に常光神社の社叢全景が見えてきて、その右側には長めの参道と鳥居が見えてくる。
鳥居前面は高架橋に面した道路の為、駐車場はないが、社の手前に高架橋沿いから左方向に曲がる道があり、一旦社の南側に移動すると、適当な駐車スペースがあり、そこの一角に車を停める。
正式な参拝を行いたいならば、そこから南側の鳥居方向に戻ってから改めて参拝を行うしかない。
常光神社 孤高な一の鳥居
社の周辺には畑風景が広がる。常光地域は「梨」の名産地でも有名である。
一の鳥居の右側にある社号標石碑 参道二の鳥居を望む。
二の鳥居
二の鳥居の左側には「村社 氷川神社」と記されている社号標柱が立つ。
二の鳥居の左側には庚申塔・青面金剛等が並ぶ。 二の鳥居の左側に設置された案内板
常光神社 御由緒 鴻巣市常光九三三
□ 御縁起(歷史)
常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむとの伝えがある。
当社は、この常光の鎮守として祀られてきた社で、元来は「氷川社」と称していたが、当時の村長の発案により、昭和ニ十六年七月ニ十五日付で、村名を採って「常光神社」と社号を改めた。 しかし、氏子の間では、今でも通称として当社を「永川様」と呼ぶ入が少なくない。
常光村は、江戸時代の初期には一旦、上・下のニつに分かれ、明治七年に再度合併したが、上・下両村の村境は交錯してはっきりと分けることのできない状況であった。『風土記稿』も「○上常光村○下常光村」として一項に扱っており、当社については「永川社 村の鎮守なり、社内に寛永ニ年(一六二五)の棟札をかく、其文に本願主大旦那河野五郎左衛門・同七郎兵衛・同庄右衛門云々、末に永禄十ニ年己巳年(一五六九)年迄百廿六年に至るとあり、是をもて推せば文安元年(一四四四)に及べり、さあらんには旧き勧請なること知るべけれど、外に証とすべきものはなし、西福寺の持なり」と載せている。
神仏分離の後は、西福寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。更に、大正ニ年十月には、幣殿・拝殿を新築するとともに覆屋を改築し、翌月には神饌幣帛供進神社の指定を受けた。
□御祭神と御神徳
・素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
案内板より引用
二の鳥居を過ぎてすぐ左手に聳え立つご神木
ご神木の並びに鎮座する境内社・八雲神社 参道右側、八雲神社の向かいにある神楽殿
拝 殿
「常光」の地名由来を調べると以下の2通りの解釈となるようである。
①案内板にも記載されている「常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむ」と伝えがあり、その「常香」が地名由来となった。
②常光は常荒で、荒野を開発するときに、常荒といって、ある年限を定めて税を免除した土地をいう。常光は嘉名(佳字)という。
*熊谷市には「河原明戸」という地名があるが元々は土地柄の悪い「悪戸」が「明戸」に変更となった故事を思い起こさせる。
本 殿 本殿右奥に鎮座する境内社・詳細不明
ところで江戸城を築いたことで有名な太田道灌の子孫である資輔が岩付城主になり、岩付太田氏を名乗る際に、北部の抑えとして武蔵国足立郡の鴻巣郷(現・埼玉県鴻巣市、北本市)周辺に土着した家臣団を特に「鴻巣七騎」と呼称した。
当時周辺の村々では、俗に「鴻巣七騎」 と呼ばれる在地武士が活躍していたといわれている。これらの在地武士たちは、岩付太田氏の配下にあり、それぞれが北本周辺に所領をもっていた。ここでいう鴻巣とは、北本市の東側一帯と桶川市の東部、鴻巣市の南東部を含む、戦国時代に「鴻巣郷」と呼ばれていたあたりに所領を持っていた在地武士(地侍)だったと伝えられている。
社殿からの風景
「鴻巣七騎」のメンバーは以下の人物という。
〇大島大炊助(おおしまおおいのすけ)・大膳亮(だいぜんのすけ)【北本市宮内・古市場】
〇深井対馬守景吉(ふかいつしまのかみかげよし)【北本市深井】
〇小池長門守(こいけながとのかみ)【鴻巣市鴻巣】
〇立川石見守(たちかわいわみのかみ)【鴻巣市上谷】
〇加藤修理亮(かとうしゅりのすけ)【北本市中丸】
〇河野和泉守(こうのいずみのかみ)【鴻巣市常光】
〇矢部某(やべなにがし)【鴻巣市下谷】
〇本木某(もときなにがし)【桶川市加納】
鴻巣市常光の河野和泉守は、「新編武蔵風土記稿常光村条」において以下の記述がされている。
「旧家七兵衛、河野氏なり。隅切角の内に三の字を紋とす。代々上分の名主を勤む。先祖は五郎左衛門といひ、慶長の頃よりここに土着せしと。古は岩槻太田氏の旗下にて鴻巣七騎の内河野和泉守が裔なりと、五郎左衛門は其子にや。村内氷川社の棟札に河野五郎左衛門の名見えたり、河野氏の来由を書しものを伝へり、何人の書なりや詳ならず」
七騎の苗字は鴻巣、北本、桶川市の字に通じる面もあり、その地域の歴史も垣間見ることも出来た。社参拝はその土地の歴史を知ることにもなり、歴史好きな筆者にとって実り多い考察ともなった。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」
「境内案内板」等