古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大内沢神社

 東秩父村は埼玉県西部に位置する人口約3,600人の村で、2006年(平成18年)2 1日より埼玉県内で唯一の村である。秩父郡に属しているものの、秩父山系の外殻部の東側に位置するため、秩父山麓内の地域との交流より、都幾川支流である槻川沿いに隣接する寄居町や小川町との交流が盛んである。
 広域行政においても秩父地域ではなく、隣接する
比企郡の自治体とともに比企広域市町村圏組合を構成し、比企圏域に属しているという。
所在地   埼玉県秩父郡東秩父村大内沢681
御祭神   玉祖命(天明玉命)
社  格   旧村社
例  祭   不詳

       
 筆者が在住する熊谷市から東秩父村大内沢神社に行くルートは二通りあり、一つは熊谷市から国道140号線で寄居町へ行き、荒川を南下し鉢形城から埼玉県道294号坂本寄居線で東秩父村へ行くルートと、埼玉県道11号熊谷小川秩父線で小川町方面から東秩父村に行くルートだが、今回は寄居町に所用があったためそちらの方向から南下して東秩父村に行った。大内神社はその県道294号線沿いに鎮座していることと、赤い神橋が目印になるため、探すことはさほど難しい社ではない。駐車スペースも神社前バス停の比較的広い駐車スペースが確保されているため、そこに停めて参拝を行った。
        
 
               県道沿いに鎮座する大内沢神社
        
             神橋を渡るとその先に石段があり、石段の右側には社号標がある。
  この東秩父村には不思議な伝承が残っている。「新編武蔵風土記稿」巻之二百五十三(秩父郡之八)に以下の記述があり引用する。
 山田村  恒持明神社
 上郷西新木にあり、 本山修験、大宮郷今宮坊配下松本院持、 本地十一面観音、 村の鎮守にて例祭正月二十日、 扉内に縦横一尺許の石あり、 石面に、勅定日本武尊高斯野社恒望王と鐫せり、 当村縁起曰、人皇五十代、桓武天皇の皇子、一品式部卿葛原親王の御子、高見王世を早く去り玉ひしかば、御子高望恒望の御兄弟を、親王の猶子として養ひ玉ひしに、高望王は正四位下大蔵卿上総介に任ぜられ、始て平姓を賜ふ、 恒望王は従上四品太宰権帥にて、任国太宰府下り玉ひしに、有職廉直にして、却て世の謗を受け、竟に讒人叡聞を掠けるに依て、恒望王故なくして解官せられ、武蔵国に左遷せ玉ふ、 然るに延暦の頃までは、武蔵国曠野多くして、山に寄たる所ならでは、黎民居を安じがたければ、此君も比企・秩父両郡に摂まれたる山里に、間居の地を卜し玉ひける、 その殿上の所を、武蔵の大内とぞ称しけるまゝ、今その遺名を大内沢村と呼べり、 平城天皇の大同元丙戌の冬、恒望王罪なく左遷のこと、叡慮に知し召ければ、配所の縁に因て武蔵権守に補せられ、従上四品は故の如く復し玉ふ、この大内沢より山田の郷に官舎を移し玉ふ、 されば官位田の地を恒望庄とぞ称しけるに、御諱字を憚て恒用と書けるに、後世俚俗誤て恒持と書訛りぬ、 恒望王逝去し玉ひし時、延暦十二癸酉の年より大同元丙戌の年まで、十四年の間給仕し奉りぬ、 村長邑夫挙りて、其徳功を仰ぎ、遺命の由る所あれば、尊骸を大内沢に便りたる清地に舁送り、埋葬し奉りて後、その所に一宇の寺を建て、御堂と称しけるが、数多の星霜を経るがうち、御堂も破壊して村名にのみ残れり、 恒持庄は大内沢・御堂・安戸・皆谷・白石・奥沢・坂元・定峯・栃谷・山田・大野原・黒谷・皆野・田野・三沢等すべて十五ヶ村にて、惣鎮守と仰ぎ奉りしに、一千年にも及びぬれば、その氏人の伝へきく声も遥に響き、山彦の谷も幽に成行て、神前の燈も漸にかゝげて(中略)
   
          石段が終わり参道を進む途中に聳え立つ杉の御神木 
 新編武蔵風土記稿によれば平安時代初期、桓武天皇の曽孫であり、初めて平氏を賜った高望王には恒望王(つねもちおう)という弟王がいたという。
兄の高望王が東国にくだられた同時期に、恒望王は大宰権帥という役職につかれて遠く九州の任地に赴かれたが、あまりに清廉潔白な性質がわざわいして讒言にあって武蔵国に左遷され、彼は今の東秩父村大内沢に住んだ。平城天皇の大同元年(806年)に、恒望王の罪は讒言によるものであることがわかって、もとの官位にもどり、配所が武蔵野の一隅であったので武蔵権守になられ、大内沢より秩父山田へ移られたということである。
 もとより高望王は寛平元年(889年)513日、宇多天皇の 勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し平高望と名乗るように桓武平氏の祖として大変有名な人物であるが、その弟王の存在など聞いたこともないし、現にいかなる歴史書にも、またどの系図にも全く出てこない正体不明の人物なのである。
 
        
                   大内沢神社社殿

      社殿の手前左側に稲荷社               社殿内部
 この「恒望王伝説」も「貴種流離譚」と言われる一種の伝承・伝説の一類型に属するものだろう。残念ながら歴史学的にも信憑性が薄いとされ、この「恒望王伝説」の古伝も上記の内容にはいささか疑念を禁じ得ないものがある。大体恒望王と高望王が兄弟と記述しておきながら、それぞれ活躍した年代が延暦年代~大同年間(790年~809年)、寛平年間(890年)と違う。時系列が全く違うのは決定的だ。
                 
                          大内沢神社本殿内部


社殿の右側奥に存在する境内社 手前琴平神社    琴平神社の左隣には大黒天の石碑

 ところで天皇貴種ではないのであれば恒望王とは何者だろう。断言はできないが東秩父村近郊にそのヒントはある。比企郡滑川町羽尾に鎮座する堀の内羽尾神社の御祭神の一柱の名がそれである。          
 藤原恒儀だ。              
 藤原恒儀は、「藤原」姓を称しているが特定不明の人物である。案内板等ではこの人物は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年(829年)九月二十日に卒した人と伝えられている。新編武蔵風土記稿にはこの藤原恒儀はこの地に在住していた在地豪族であり、卒して後に産土神とした、とも書かれている。
 恒望王の活躍時期が延暦年間から大同年間(790年~809年以降)であり、809年に武蔵権守になったというのだから暫くは存命だったのだろう。藤原恒儀の亡くなった829年と年代的に重複するし、活動地域も近郊であることから、この二人は同一人物の可能性も捨てきれない。
         
        社前には槻川の支流大内川が流れ中々風情のある佇まいである。

 どの国の歴史にも、勝者によって自らの正当性・正統性を主張するために編纂された歴史である(せいし)に対して、公認されない歴史書と言われる敗者側の悲しい歴史を稗史(はいし)という。
 昔から戦いに勝利した側が、その土地、国を治める正当性を主張しつつ歴史を編纂してきたことは常識だ。この勝てば官軍の歴史が「正史」であり、現在の教科書も残念ながらこの「正史」の通念を踏襲しているのが現状だ。恒望王伝説を、所謂皇国史観的な天皇中心主義の歴史形態から考えようとすること自体が間違いであって、中央の歴史書には載らないその地方独自の歴史にも目を向ける必要があるのではないだろうか。この恒望王伝説も、所謂皇国史観的な天皇中心主義の歴史形態から考えようとすること自体が間違いであって、中央の歴史書には載らないその地方独自の歴史にも目を向ける必要があるのではなかろうか。

 

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武蔵野足高大神社

「大里郡神社誌」によると榛澤郡下郷地域は、明治9年(1876年)改正の際に、飯塚村・原宿村・猿喰吐村・飯塚原宿村・飯塚猿喰吐村、五村が合併して武蔵野村となったという。この五村の内に「猿喰吐村」という村名があるが、その地名の由来や変遷は元禄時期以前は不詳とされている不思議な地名だ。
 その摩訶不思議な村名である旧猿喰吐村内にこの武蔵野足高大神社は鎮座している。

       
              ・所在地 埼玉県深谷市武蔵野3283 
              ・ご祭神 大物主神
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭日 1015
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1490538,139.2335158,17.04z?hl=ja&entry=ttu       
 上野台八幡神社から埼玉県道62号深谷寄居線を寄居町方向に道なりに真っ直ぐ進み、約6㎞行くとコンビニエンスのあるY字路にぶつかる。県道をそのまま進んで、最初の信号の先にある十字路を左折し、500m程進むと右側に武蔵野足高大神社が見えてくる。
        
                      武蔵野足高大神社正面
       
       一の鳥居の先で参道の左側にある  社号標柱の先に鎮座する境内社・
            社号標柱             
八坂神社
「大里郡神社誌」によれば、室町末期には既に鉢形城主北条氏邦により、領内鬼門鎮護として奉祀されていたという。そのため、氏邦は、毎年九月二十八日を恒例日と定め、家士数人を率いて参拝し、幣帛及び神饌を奉り、祭礼を執行したという。この時、氏邦の神饌を奉るために使った膳が足高の膳であったため、それにちなんで当社を足高神社と呼ぶようになったのだとも伝えている。
                
                     拝 殿       
        
            拝殿右側には広い空間があり、御嶽山三神の石碑がある。                            
 
 御嶽山三神の左隣には社日神が祀られている。      社日の並びにある塞神宮。
 
 塞神宮の左側にはに弎㠀(三島)大神と仙元大神と彫られた大きな2枚の石碑があり(写真左側)、そのすぐ左側には境内社・稲荷神社(同右側)が鎮座している。
 この地域には千元(浅間)神を信奉する社や石碑が非常に多い。
                 
           社殿の左側奥に祀られている境内社・天手長男神社
 御由緒        
 御創建の年代は不詳ではありますが、室町時代末期 鉢形城城主 北条 氏邦 により領内の鬼門鎮護として厚く崇拝されていたと伝わります。氏邦は毎年九月二十八日を恒例日と定め、家臣を率いて参拝し幣帛及び神饌を奉り祭礼を執行したといわれています。その際、神饌を奉るのに使われた御膳が、足高の膳であったことに由来し当神社を足髙神社と呼ぶようになったとも伝えています
 かつて御祭神については伝えがなく、長らく祭神不詳となっておりました。ところが大正年間、古い版木に刻まれた神代文字を解読したところ「おほものぬしのかみ」(大物主神)と読めることが判明し、大正十年に正式に届けられ認められました
 その他、病気平癒・星祭・荒神・鎮火天手長男神社・塞神・養蚕守護・軍人健康などの祈祷札の版木が残存していることから、広く諸祈祷を行ない、信仰を集めていたことを窺い知ることができます。
 例祭日は九月二十八日でしたが、改暦や養蚕などによってしばしば変更され、大東亜戦争後に現在の十月十五日に落ち着きました。戦前には、春祭りと例祭に境内の燈籠が灯され社務所の後ろ側にあった神楽殿で、永田から呼んだ金鑽神楽の奉納演舞が行われ賑やかでした。
また、この両日には朝早く赤飯を蒸かして御供えをする氏子の姿も多く見られました。
平成元年の例祭には、新たなる平成の御世と花園村の百周年を記念して戦前の賑やかな祭礼の様子が再現され、当時を知る人々の郷愁を誘うと同時に、神社に関心の薄かった人々の祭りに対する意識を高める試みとなりました。
平成十七年には氏子・総代により、本殿並びに拝殿と稲荷神社の改修工事が行われ、同時に境内も整備され、田園風景に溶け込みより親しみやすい景観となりました。

                                  「埼玉の神社HP」より引用
                                                 趣のある境内

 ところで冒頭で榛澤郡下郷地域は、明治9年(1876年)改正の際に、飯塚村・原宿村・猿喰吐村・飯塚原宿村・飯塚猿喰吐村、五村が合併して武蔵野村となり、この五村の内に「猿喰吐村」という村名を紹介したが、それについて「埼玉苗字辞典」ではその村名に関連するのか、以下の記述をしている。

幕土 マクツチ 榛沢郡藤田郷猿喰土村(ざるがいと、花園町)は獏喰土と書かれ、系図作成者は幕土(ばくと)と記したか。冑山文庫本の武蔵七党系図に「猪俣党、幕土(猿喰土カ)」と見ゆ。小野氏系図に「猪俣小野三郎政家―藤田五郎政行―三郎大夫行安(一谷合戦討死)―右衛門尉能国―幕土五郎左衛門尉重国―六郎左衛門尉助国(弟に三郎左衛門尉重行、五郎兵衛尉助盛)―重泰(兄に孫三郎泰氏、弟に左衛門四郎宗遍、四郎助時、十郎入道道尊)―行重(弟に六郎重宗、弾正左衛門尉行宗)」と見ゆ。

猿喰土 ザルガイト 榛沢郡猿喰土村(花園町)あり。
一 猪俣党猿喰土氏 武蔵七党系図(冑山文庫本)に「猪俣党、幕土(猿喰土カ)」と見ゆ。


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上野台八幡神社


 深谷上杉氏は、室町幕府の役職の1つである関東管領となった山内上杉憲顕が、14世紀後半頃に、北関東で勢力を持っていた新田氏やその残党を抑えるために、六男上杉憲英を派遣したことに始まり、およそ230年間に及び、第9代上杉氏憲まで続いたという。
 初代憲英から4代上杉憲信までは深谷城に近い庁鼻和城(こばなわじょう)に居城を構えたことから庁鼻和上杉氏と呼ばれていたという。その後、古河公方と関東管領との抗争が激化し、管領方の有力武将であった深谷上杉5代房憲(ふさのり)は、より一層の要害として深谷城を築きその後氏憲(うじのり、生年不詳 - 1637年(寛永14年))までの5代が深谷城に住んだので、総称して「深谷上杉氏」と呼ぶ場合もある。
 深谷市上野台地区に鎮座する上野台八幡神社は、深谷上杉氏の家臣で、武蔵国榛澤郡上敷免の城主であった岡谷加賀守清英が、天文19(1550)に、深谷領の守護として、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を勧請したのに始まるという。
             
                      ・所在地 埼玉県深谷市上野台3168 
                      ・ご祭神 品陀和気命
                                
・社 格 旧郷社     
    
             ・例祭等 例大祭 10月中の吉日を含む3日間 新嘗祭 1125
    
地図 https://www.google.com/maps/@36.1832041,139.2690748,16.5z?hl=ja&entry=ttu
上野台八幡神社は深谷駅の西側を南北に通る埼玉県道62号深谷寄居線を深谷駅の踏切から寄居町方向へ南方向約2㎞進むと右側道路沿いに鳥居が見えてくる。すぐ先にはコンビニエンスがあり、その交差点手前のT字路を右折すると正面には広々とした駐車スペースがある社務所もあり、そこに駐車して参拝を行う。人見浅間神社の北側で、直線距離でも1㎞満たない場所にこの社は位置している。
 
                     埼玉県道62号深谷寄居線沿いに鎮座する上野台八幡神社(写真左・右)  
         鳥居を過ぎるとすぐ右側にある案内板             東西に長い参道が広がる。
八幡神社
当社は深谷市上杉三宿老の一人、皿沼城主岡谷加賀守清英が榛沢郡茅場村に清心寺を開基しましたが、その鎮守として境内に八幡神社をまつりました。清英は文武両道に秀でた良将で、上杉謙信は清英の武略に感じて、後奈良天皇から賜った仏工春日作の箱根権現の像を清英に贈りました。当社は天文十九年(1550)山城国石清水八幡宮より分祀したもので、御神体は応神天皇束帯塗金銅像です。天正十八年(1590)皿沼城落城と共に当社は衰退しましたが、正徳年中(一八世紀初期)上野台村の地頭大久保家が、この地を寄進し移しました。高蒔絵定紋入り岡谷加賀守清英使用の鞍、安部摂津守鉄砲隊の種ヶ島銃が市指定文化財です。


 昭和五十三年一月   深谷上杉顕彰会
                                                                  案内板より引用

  一の鳥居を過ぎて、暫く参道両側には緑豊かな林が広がっているが、一転して広場のような空間となり、そこに社務所等が設置されている(写真左)。恐らくはこの広い空間で祭事等の行事が行われるのではなかろうか。その先に朱を基調とした、目視しても非常に目立つ木製の二の鳥居が見えてくる(同右)。
            
                              二の鳥居                                   
        
                     二の鳥居の傍らに岡谷加賀守清英を祀った祠。
                                石祠の横の石柱には「當八幡宮創始 岡谷加賀守清英公偲祠」
                                「加賀守十二世孫 従五位岡谷繁實大人奉配」と刻まれている。
                   
                参道を進むと右側に御神木の大杉が聳え立つ(写真左・右)。
 
      二の鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫               御神木の先で参道右側には神楽殿          
                        
                                 拝 殿
 岡谷加賀守清英の主である深谷上杉氏は、山内上杉家4代目当主の上杉憲顕の6男・憲英が庁鼻和上杉を立てたのが祖とする。憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任命されている。分家の扇谷上杉家と共に武蔵国を治めるが6代目・上杉憲賢(1498年?~1560年)の代に北条軍との戦いである河越夜戦によって最後の当主である上杉朝定が戦死して扇谷上杉家が滅亡すると、北条家に降伏する。
 憲賢の息子である憲盛(1530年~1575年)は父が降伏してなおも、関東管領山内上杉憲政と結んで武田信玄と笛吹峠で対戦したり、同族の長尾景虎(上杉謙信)と通じて徹底抗戦を続けるが復権はならないまま1563年、北条軍に敗れて降伏した。しかし1569年、越相同盟の締結によって深谷城が上杉家に戻った事により憲盛は深谷城へ帰参。そして甲斐武田家が攻めてきた際には防戦し勝利する。憲盛は1575年に46歳で死去するまで上杉配下として貫いた。
 憲盛の息子である氏憲(?~1637年)の代では深谷上杉家は北条家に帰参している。氏憲は小田原征伐でも小田原城に籠城しているが、元配下の秋元長朝に裏切られて小田原城は開城。氏憲はその後小久保と姓を改め、信濃国にて隠居した。ここに名族深谷上杉氏は歴史の表舞台から完全に姿を消した。
 上野台八幡神社は元々榛澤郡茅場の地に鎮座していたが、この天正十八年(1590年)小田原征伐の際、皿沼城落城と共に一旦は当社は衰退した。その後正徳年中(十八世紀初頭)上野台村の地頭大久保家がこの地を寄進し移して現在に至っている。
        
                       拝殿上部に掲げてある立派な木製の社号標。
                   なんでも近隣に在住の方から寄付されたものだそうだ。
                 
       
                                      本殿(上写真3枚)
 因みに岡谷加賀守清英は深谷上杉家の三宿老の一人と言われていて、岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人が「三宿老」、これに上原出羽守を入れて「四天王」という。
 *平成28年に本殿の修復工事を行った。
   
       拝殿左側には浅間大神の石標                      浅間大神の石標左側にある境内社・天神社
                          
                                                   本殿奥にある末社群。詳細は不明。
   拝殿右側にある境内社・台天白神社・ 天王宮           台天白神社等の右並びには、如幻庵東山稲荷社
 ところで境内社・台天白神社は「大里郡神社誌」によると以下の記述がある。
 末社臺天白神社本殿
 ・石宮流造間口一尺奥台行尺四寸安永元年(1772年)造営明治四十二年同所字天一白より移転
 ・(神話)旧来弓矢の神として衆庶の崇敬極めて深く又農作物の守護神として氏子崇敬者の信仰厚し。
       末社臺天白神社は小児の百日咳に霊験ありとて篠笛を納め来る賽客多し。
 この「大里郡神社誌」を詳しく読むとこの上野台地区の字名には「天一白」「大臺」「台前」「小台」という「大(臺)天白」を共通する地名が今だに残っているのも興味深い。現在でも「上野台」として地名の名残りとして残っているが、嘗て文字通りこの地域は「台(臺)」の地であったのだろう。
 また調べてから発見したのだが、「鼠」という地域もあり、興味がつきない。
            
                                          拝殿から参道方向を撮影
 この上野台八幡神社は10月3連休の土曜日から月曜日かけて例祭が行われる。上野台地区の鼠・上宿・下宿・小台・大台・桜ケ丘の六地区の屋台が奉曳され、上柴町を含めた旧大字上野台の全域を夜間も含め3日にわたって渡御する神輿であり、悪魔払い福を招くと言われ、遷座の当初より行なわれていたという。神輿渡御は当時より、上野台の各字が年々交代に行う方法がとられていたようで、この交代制が今に続く「年番」という仕組みとなっている。
 例祭では他に、獅子舞(ささら)、棒術(棒づかい)、道化などの行事がある。獅子舞は深谷市の無形文化財に指定される。祭典の中日には八幡様の社殿で、浦安の舞・豊栄の舞が奉納される。この舞は、3月の祈年祭、11月の新嘗祭でも行われる。平成20年代は「体育の日」を最終日とする3日間であることが多い。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「鼡‐深谷自治会連合会」HP
    「
Wikipedia」等

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飯塚太田神社

太田神社は旧大田村の総鎮守である。大正四年村民の総意により二十一郷社を合祀して此の聖地に勧請鎮座し奉った。爾来地区の守護神とし敬神崇祖の象徴として氏子の信仰篤く遍く神徳を施して今日に到った。
 創建以来八十年にたらんとする歳月と風雪を経て、社殿及び付属設備は老化損傷を来し予て改修を要望されていた。偶々本年は皇太子殿下御成婚の好機に際会し奉祝記念として屋根替工事等を実施するの議が盛上り氏子総代区長ら有志を以て改修委員会を組織し、直ちにその趣意を各区に伝え早急に全戸の理解と協讃を得て壱千二百余万円の寄進を申し受け着工の運びとなった、役員を始め氏子及び工事担当者の熱意と努力により短期間に見事な改修事業を完成し聳える甍の壮麗な社殿を中心に神苑諸施設も整然と修復され氏子の心に宿る尊厳と崇敬の至情が護持され高揚された事は実に意義深く慶賀の至りである。
 茲に記念碑を建て社殿修理の経緯を誌し神社と地区民の弥栄を祈り永く後昆も傳える。
 平成五年六月吉日
                            「太田神社改修事業記念碑」より引用

        
                            ・所在地 埼玉県熊谷市飯塚1431
                            ・ご祭神 大日孁貴命 木花開耶姫命 菅原道真公 別雷命 21 
                            ・社 格 旧大田村総鎮守・旧村社
              ・例祭等 1013 
  地図 https://www.google.com/maps/@36.2154096,139.3508295,16.17z?hl=ja&entry=ttu
  飯塚太田神社は国道407号を熊谷警察署交差点を北上し、「道の駅 めぬま」の交差点を左折し、暫く道なりに進むと丁字路に達する。その丁字路を右方向に進み、最初の路地を左折すると正面に飯塚太田神社の社葬が見えてくる。位置的には太田小学校の南西方向なので、その小学校を目印となる。
 周辺には適当な駐車場はないようなので、路上駐車し、急ぎ参拝を行う。  
       道路沿いにある社号標         社号標の先に真っ直ぐな参道が見える
「大里郡神社誌」によれば、大正三年六月三十日に大里郡太田村飯塚字飯塚前に817坪を新設し、社殿を新設し、全村にある大小神社を移設・合祀し、社名も太田神社としたとのこと。社としての歴史は決して古くはない。
 
      参道左側には神楽殿       参道沿いにある「太田神社改修事業記念石碑」
        
                                        拝 殿
 飯塚太田神社の地名「太田」の由来として、嘗てこの地には「太田氏」一族が移住していたという。太田氏は武蔵七党の横山党の流れを汲む一派である猪俣党の末裔とも、旧埼玉郡北部や大里郡にその勢力を誇った私市党の後裔、また清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とも、はたまた藤原秀郷流太田氏の末とも言われていて、その出自ははっきりしない。
 室町時代関東管領上杉扇谷氏の家宰であった太田道灌は通説では摂津源氏の流れを汲み、源頼光の玄孫頼政(源三位頼政)の末子である源広綱を祖と言われているが、一説によるとこの武蔵国大里郡太田村から発祥した猪俣党太田氏の後裔ともいわれている。
        

                                        本 殿
 猪俣党太田氏は幡羅郡太田村より起こったという。大里郡神社誌に「幡羅郡太田村に字高城城跡あり、太田六郎宗成が居住すと云ふ」と記述されている。
 猪俣党とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり、武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党の一族である。 分布地域は二つに分かれ、神流川扇状地の条理地域と利根川南岸の旧河道の間の台地上で、当時の条里地域にその一党は勢力を伸ばし土着したと考えられる。
 
                        社殿の奥にある合祀社群(写真左、右)
「大里郡神社誌」によると、飯塚太田神社に合祀された二十一社の内の二社の神職は「天田氏」、「大井氏」であったことが記述されている。
・天田氏 山城国醍醐三宝院の修験なり富瑠輪山大乗院と号し(中略)、代々富瑠輪明神の別当たり。当山修験にて維新後復飾して天田貢内と改め神職となり、大正三年太田神社の社掌を拝命す。
・大井氏 大重院と号し、富山派の修験なり崎玉郡酒零村酒零寺の配下に属す(中略)。明治維新後復職して大井中と改め諏訪社の神職たりしが大正四年天田氏の死亡後太田神社の社掌を拝命す。
        
                  拝殿からの眺め
 富瑠輪神社の由来は要約すると『嘗て日本武尊が東征の折、この地を過ぎた時に「御保呂」を置かせたのを村人がこの「御保呂」を祀り、「保呂輪宮」と敬祭したのが始まりで、後年「富瑠輪明神」と改めた』と伝えている。つまり富瑠輪とは「保呂輪」=「ほろわ」であり、嘗て戦国時代に常陸の豪族佐竹氏が深く信仰したようで、関ケ原合戦後出羽に転封になった後は、出羽国保呂羽波宇志別神社を藩主が参詣し、これをまた厚く保護し信仰したという。
 更には関東・東北中心に数十の同名の「ほろわ」神社が存在する。この「ほろわ」神社は本来の信仰形態は山岳信仰であったようだが、羽生市駅の北側には「保呂輪堂」という名の古墳もあり、時代が下り、地方に広がった過程で本来の信仰形態から違った方向で信仰されたものと考えられる。
       
             入口付近にある「合祀記念碑」     その傍らにある「塞神」



 

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西城大天獏神社


熊谷市の北側に位置する妻沼地区一帯は平安時代、長井庄と言われる荘園が広がり、平安時代後期に活躍した藤原北家斎藤別当実盛の本拠地でもある。
 斎藤氏は、中世の武家家門。藤原氏の庶流を祖とすると思われるが確実な根拠はない
。一説では藤原北家・鎮守府将軍藤原利仁の流れを汲む斎藤氏一族と言われ、子・藤原叙用(のぶもち)が伊勢神宮の斎宮(さいぐうのかみ)を務めた際に、「斎藤(さいとう/斎宮頭の藤原)」を名乗った事が始まりとされる。当時伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)は名誉ある官職だった為に、多くの利仁流藤原氏が叙用(のぶもち)にあやかった為に斎藤(さいとう)を名乗るようになり、斎藤氏は平安時代末から主として越前国を本拠地にして主に北国に栄え、平安時代末から武蔵国など各地に移住して繁栄した。加賀斎藤氏,疋田斎藤氏,鏡斎藤氏,吉原斎藤氏,河合斎藤氏,長井斎藤氏,勢多斎藤氏,美濃斎藤氏などが特に有名である。
 長井斎藤氏は源頼義に従い前九年の役の合戦にて齋藤実遠が奥州で手柄を立て、長井庄を恩賞として賜ったのが始まりという。この長井庄は豊富な福川の水を利用して拓いた土地であり、北側には利根川もあり、交通や水運の拠点でもあった。
 当初、この地は西城があり、成田氏の本拠地があったらしい。当主は西城城主であり武蔵国司成田助高。斎藤氏が長井庄を賜り、着任に際しては争いもなく直ちに城を明け渡して東側の成田の地に転出したという。その後斎藤氏は地形上領内支配に適している自然堤防上高台にある広大な大我井(現聖天院)の地に移転したとのことだ。

 ・所在地  埼玉県熊谷市大字西城字本郷2
 ・御祭神  大山祇命、豊受比
賣命、市杵島姫命
 ・社 格   旧村社
 ・例 祭   春季祭 (旧暦)215

                
 西城大天縛神社の鎮座する熊谷市妻沼地区西城は、国道407号を北上し、西野交差点を右折する。そして埼玉県道263号弁財深谷線を東方向道なりに約2㎞程真っ直ぐ進むと、左側道沿いにこの社は鎮座する。ちなみに「西城」と書いて「にしじょう」と読む。
 地形を見ると、当社は西城地区の東端に位置し、すぐ北側には福川が県道に並行して流れている。その自然堤防上に鎮座している模様。
 
 今では辺り一面長閑な田園風景が続く静かな農村地帯だが、「西城」地域の歴史は意外と古い。西城神社のすぐ南側には嘗て「西城城」が存在し、 平安中期の天禄年間(970年~973年)に藤原左近衛少将義孝が居館を築いたといわれているが、実際に城を築いたのは義孝の子忠基であるとか、その末裔の藤原(成田)道宗が幡羅郡に土着して構えたとか幾つか説があり、実際はよくわからない。その後成田助高の代に「前九年の役」で武功をあげた齋藤実遠が源頼義より長井庄を与えられ西城に居館したという。
 成田氏といい、斎藤氏もそうだが、本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件がこの地にはあったのだろう。

               
             埼玉県道263号線沿いに鎮座する西城神社。朱色の鳥居が印象的だ。
            またこの社は福川に並行して鎮座していて、珍しく「西向き」の社だ。

               
             鳥居の扁額には「西城神社」と明記されている。
 明治九年に村社となった際に村名をとって西城神社と社名を改めたものであり、『大里郡神社誌』によると旧名は「大天獏社」、つまり天白を祭る社ということだ。

               
                       拝 殿
 桜の季節がやや過ぎた時期に参拝したため、参道一面散った桜の花びらが広がる。ただその風景もまた美しく、暫し時間も忘れさせてくれる。社と桜のコントラストはやはり良いものだ。
 拝殿前には石の階段がある。おそらく北側にある福川の自然堤防からつくりだされた高台、もしくは妻沼低地に点在する自然堤防のひとつであろう。現在の西城神社のご祭神は大山祇命、豊受比賣命、市杵島姫命であるが、すぐ北側に福川があり、旧社名も「大天獏社」ということから、本来のご祭神は「水神」ではなかったのではないだろうか。
   
                           


  西城神社拝殿内部(写真左)とその上部に掲げてある社号額に記されている「大天獏」(同右)

  妻沼地区には字名では「市ノ坪」、また小字名で「切通の坪」、「城山の坪」、「築地之内の坪」、「宿場の坪」、「長安寺の坪」等がある。この「坪」は「じょう」とも読め、古代奈良時代律令制度の「条里制」の名残がこの地域には現在でも字、または小字名として残っている。
 「西城」という地名も、条里制における区画・面積の単位である「坪」が地名として現代に残ったものであると考えられる。現在でもこの地域一帯には、東別府地域では「条里再現の碑」があるし、
熊谷市の中条(ちゅうじょう)、妻沼町の市の坪などの地名が残されていて、かつてこの地域に条里制がしかれていたことを示している。大和政権による中央集権的律令政治が確立する8世紀初頭のある時期、この地域は大和政権の支配下地域として、条里制を積極的に推進していた。


  「大里郡誌」には、西城神社の信仰について「気管支病に霊験ありと言ひ奉賽に麦煎粉を献じ祈願するもの頗る多し」、また祭祀行事について「古来御祭神の好ませ給ふところとて角力の行事あり現に他の行事は一切行われず」と掲載されている。信仰についての記述では、「気管支病」と書かれているが、おそらくこれは「気管支炎」であろう。この気管支炎は外界からの塵や微生物を含んだ空気が気管支を通過した際に、気管支粘膜に炎症が起こり、痰を伴う咳がみられる状態を一般的に気管支炎という。気管支炎の病態は微生物の感染のほかに、喫煙、大気汚染、あるいは喘息などのアレルギーによっても起こるという。
 西城地域は嘗て気管支炎の症状をもつ人が多かったといわれている。ここで思い返す伝説がこの西城地域の近郊の聖天院に残されている。昔、妻沼の聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で左目を突いてしまい、呑龍様を討ち取ることができなった。それ以来、聖天様は松が嫌いで、妻沼地方では松を植えなくなったという話だ。俗にいう「片目伝説」の妻沼地域版ともいえるこの伝承だが、タタラ製鉄による疾患は片目だけではない。鉄製造から発生する粉塵等から肺疾患に陥るケースも決して少なくない。気管支炎、気管支喘息の類だ。

 つまりこの妻沼地域にもタタラ製鉄を生業とする地域が存在していて、その中心地域が西城地域、また妻沼聖天院がある大我井地域の2か所だったのではないだろうか。成田氏や斎藤氏もそうだが、一時的とはいえ本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件のひとつが製鉄に関するものではなかったのではなかったのか。その伝承の痕跡が「聖天様の松嫌い」や「西城神社の気管支病」にあたるものであったと筆者は考える。
 また西城神社の御祭神の大山祇命は製鉄に関連する神と考察する学者もいる。大山祇命は日本神話にも登場する有名な山の神である。「古事記」では、大山津見神と表記され、神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神であり、「日本書紀」では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。思うに日本は山の多い土地条件をもつ国であり、この神は各地に祀られている。記紀に登場する神というより、それ以前の縄文時代から各地に自然発生的に登場した神と考えるほうが自然のことではないだろうか。

 ところで大山祇命は別名和多志大神とも表記されている。「和多」や大山「津見」神から海に関連した神と考える人も多い。山の神でありながら同時に海に関連する神というのも不思議な疑問だが、四方海に面し、同時に平野部が少なく、海岸線に直接的に山々を配する日本独特の地形ならば、そのような考察も可能かとも思われる。
  但しこの大山祇命と大天獏との因果関係が今一つはっきり解らない。西城大天獏神社は決して規模が大きな社ではないが、西城という地域の歴史が奈良時代以前とかなり古く、「大天獏」という名称も相まってその考察も自然と慎重となってゆく。歴史の重みを肌で感じた、そんな参拝だった。





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