古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

折之口八幡神社

 埼玉県の地形を概観すると、西に総面積の3/1を占める山岳地帯、そして東に残りの3/2を占める平野部(台地と低地)に大別することができる。山地周縁の山麓部にあたる県西部地域には、北から児玉、松久、比企、岩殿、高麗、加治、狭山等の各丘陵、そして本庄、櫛引、江南、東松山、入間、武蔵野等の各台地が分布している。
 埼玉県の北部に位置する深谷市は、地形的に南半分は櫛引台地、北半分は妻沼低地でほぼ2分される。櫛引台地は荒川によって形成された荒川扇状地が侵食されてできた洪積台地で、寄居付近を頂点として、西側の櫛引面と東側の一段低い寄居面、両地域に挟まれるように御稜威(みいず)ケ原面に分類される。標高は50mから100mで南西から北東に向かってなだらかに傾斜していて、この間を唐沢川や、藤治川が北流する。また台地上には、観音山(標高77m)、仙元山(同98m)、山崎山(同117m)等の独立丘陵(残丘)が存在する。
 櫛引台地は今の深谷市・寄居町にまたがる広大な範囲であり、『櫛引』という地名は江戸時代以前、人見村は櫛引郷を唱えていたことから、それ以前からあった地名であろう。 
        
              ・所在地 埼玉県深谷市折之口123
              ・ご祭神 品陀和氣命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 4月15日 例祭 10月15日 新嘗祭 11月28日
 折之口八幡神社は櫛引台地面に鎮座している。進路の途中までは前項「境玉津島神社」と同じだが、そのまま道なりに800m程進むと、左側には折之口ふれあい公園があり、その公園の東側で隣接するように折之口八幡神社の正面鳥居がある。
 因みに北武蔵広域農道の北側には埼玉県道75号熊谷児玉線もほぼ並行して通っており、そこからのアプローチのほうが、短距離で社には到着するのだが、75号線からでは、昔の道が多いようで、道が入込み、筆者の説明能力には難しい為、南側北武蔵広域農道からの説明をさせて頂いた。
        
                                 折之口八幡神社 正面
 残念なことに、折之口八幡神社には由来を記した案内板や、書物、ホームページ等には詳しく書かれているものがない為、創建時期、由来等全く分からなかった。これだけの規模でありながら勿体ないことだ。
        
                 正面に伸びる参道と、その右側にある舗装されていない路面。
             参拝日も多数の車両が駐停車していた。
 
 参道の先にある石段と、高台上にある鳥居。  鳥居の社号額には何故か「稲荷大明神」と表記

 折之口八幡神社は櫛引台地の一段高い段丘上に鎮座している。
 櫛引台地は櫛引ヶ原台地とも書くが、荒川によって形成された広範囲の台地であり、南側は荒川で境され、花園地区で少なくとも2段の河岸段丘が見られる。台地面上には深谷市折ノロや人見で南西-北東方向の小谷が2本平行し、それに直交する櫛挽排水路がある他は目立った水系はなく、のっぺりしたローム層台地となる。
 
江戸時代に入るまで、櫛挽ヶ原は付近12ヶ村共同の「入会地」(いりあいち)として広大な秣場(まぐさば)だったが、雨期から秋にかけて野水が滞水する地域でもあった。秣場は、肥料や飼料にするための重要な草刈り場であり、大事に管理されてきた。時の経過と生活の変化により秣場を開発し耕地を増やそうとする開発派と、開発を阻止しようとする保守派との衝突が連続し何回となく繰り返されたという。
 
石段上の鳥居を過ぎると比較的広い境内が広がる      参道左手にある手水舎
 
  社殿手前で左側にある合祀社。詳細不明。   社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。   
        
                                         拝 殿
 徳川幕府は新田開発を積極的に推進したが、本田畑の障害にならない範囲内で行う本田畑(古田畑)中心主義だった。八代将軍徳川吉宗は、幕府の財政難克服のため新田開発を政策の柱として大幅な転換を図り、享保11年(1726)には、幕府の力によって櫛挽ヶ原の入会秣場も解体され、新田開発への道を歩むことになった。しかしながら流下能力が十分な河川や排水路が無い事から、毎年のように雨期に停滞する野水による湛水被害が多発し、また往時の秣場的林地に戻ってしまったと考えられている。
 
                                   本殿(写真左・右)                         
    建物全体は拝殿と本殿を幣殿でつなぐ、所謂「権現造り」の形態を持つ社殿となっている。
        
                  社殿の隣には境内社を保管している社あり。名称分からず。
 
   合祀されている四社。付随品等で春日神社、稲荷神社、八柱神社、稲荷神社と推測。            
       これだけ立派な社殿が鎮座されているにも拘らず詳細不明なのは残念。 
        
                           境内の東隅に並列されている庚申塔等 
 ところで拝殿右脇に掲げてある「社殿改修碑」と思われる板碑には多くの氏子、地域の方々の寄附が実名で記載されているが、「大澤(大沢)」と「向井」、それに続くのが「大谷(おおたに・おおや)・大屋(おおや)」、それらの苗字が特に多いのに気づく。
        

大澤(大沢)…深谷城主上杉氏憲の末子憲詮は大沢内匠照重の養子と成り、是より大沢と改める。其の子忠貢であり、代々内匠を襲名したという。
大沢家墓碑
「慶長二年、榛沢郡折野口住人、俗名大沢内匠盛真」「元和三年、折野口村、大沢内匠憲詮
「中祖大沢盛真十三代胤・六左衛門改名大沢岩太郎藤原栄真、明治三年」
新編武蔵風土記稿折之口村条
「観音寺の境内に法華経千部供養塔あり、武州榛沢郡折口住人大沢兵庫盛重、元和十年三月二十一日と記す」
・観音寺略縁起(慶応三年記)
「上杉憲盛卒して後、上杉の景絶ゆ、氏政関東を押領し、之に依り家臣皆分離す。中に五十有余士有り、其の内、清水・大沢・向井・塚田・其外朋友の士、当村観音の精舎に集合し、面々の行く末を考ふ」
嘉永五年笠原文書…折之口村名主大沢徳次郎

○向井…向井の地名は各地に見られる。「井戸」や「泉」に由来するものではなく、「向かい」の当て字がほとんどという。
・折ノ口村慈眼山観音寺(廃寺)略縁起
「上杉憲盛卒して後、上杉の景絶ゆ。北条氏政関東を押領し、之に依り家臣皆分離す。中に五十有余士有り、其の内、清水、大沢、向井、塚田、其外朋友の士、当村観音の精舎に集合し、面々の行く末を考ふ」
・三ヶ尻村幸安寺慶応二年権田門人碑…「折ノ口向井孫太郎」
・用土村明治十三年仙元碑…「折之口村向井元次郎・向井勘次郎・向井荘助」

○大谷(おおたに・おおや)低地より高い段丘や台地面に入り江状谷があることから「大谷」と名付けられたという。一般に「~谷」という名字は、西では「~たに」、東では「~や」と読む傾向が強い。
上野台村光厳寺天保十一年供養塔に上折ノ口村大谷善三郎。神道無念流宮戸村金井宇一郎文久三年起請文に折之口村大谷清三郎秀幸。人見村明治二十八年清水定義筆子碑に折之口・大谷清十郎・大谷忠平

大屋…低地より高い段丘や台地上の土地につける地名
榛沢郡大谷村(深谷市)は天正七年白石村上田文書に半沢郡大屋村と見える。隣村の人見村・境村・折之口村等に大屋氏多く存在する。
長寿院寛政八年八幡守護…大屋吉左衛門。神道無念流宮戸村金井宇一郎起請文…慶応二年・折之口村大屋島太郎・大屋長十郎


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