古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小和瀬稲荷神社


              ・所在地 埼玉県本庄市小和瀬1
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧小和瀬村鎮守・旧指定村社
              ・例 祭 祈年祭 32日 例祭 1019日 新嘗祭 122
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2458914,139.2265005,16z?hl=ja&entry=ttu    
 小和瀬稲荷神社は国道17号バイパスを本庄方向に進み、岡(西)交差点を右折、旧中山道を利根川方向に進み、埼玉県道45号(本庄妻沼線)から258号(中瀬牧西線)に合流、藤田小学校交差点を右折する。
長閑な田園地帯を道なりに進むと1㎞程で小和瀬交差点に到着し、その交差点先の右側に小和瀬稲荷神社が鎮座している。この社のすぐ東側には備前渠用水が流れていて、河川に関連した社である事は確かである。
 小和瀬交差点を右折して、1本目のT字路を左折する。細い道路の先にやや広い空間があり、そこに車を停めて参拝を行う。因みにこの社の住所は「小和瀬1」。この小和瀬地区の中心地であることもこの住所地で分かる。
        
               県道沿いにある社号標と鳥居
        
                               社号標石の傍にある案内板
 62回伊勢神宮式年遷宮記念
 稲荷神社御由緒     本庄市小和瀬一

 □縁起
 『風土記稿』小和瀬村の項に「稲荷社 村の鎮守にて宝蔵寺の持」と載るように、当社は江時代には真言宗の宝蔵寺の管理下にあった。この宝蔵寺は、神仏分離によって明治初年に廃されたものと思われ、今ではその跡地さえ定かではないが、同寺に伝えられていた「小和瀬村鎮守稲荷大明神縁起」(『埼玉叢書』第六巻所収)を要約すると、次のようになる。
 天慶年聞(九三八~九四七)平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(一二七八~八八)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
 その後も、当社は様々な武将によって崇敬され、永禄五年(一五六二)の小阿波瀬合戦では、当社の森に宿陣した新田方が上杉方に大勝利を収めたことから、新田家より神領を差し置かれた。慶長九年(一六〇四)の備前渠用水の掘割りに際して、一旦は村の西方に遷座したが、寛永二年(一六二五)に現在の社地に移り、今に至っている(中略)

                                    境内案内板より引用
        
         社殿、神楽殿等に続く参道。この参道はほぼ西向きでもある
 案内板でも記述されているが、平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(1278~88)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(1460~66)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
   
   参道途中左側に鎮座する境内社(写真右・左)。風土記稿等調べたが、詳細は不明。
 ただ案内板では、御祭日として、「祖霊社例祭」「八坂祭」「手長男祭」が記載されているので、祖霊社・八坂社・手長男社が鎮座していることは確かである。また『風土記稿』において、稲荷社は当時「宝臓寺」持ちであり、このお寺には「飯玉明神社」も鎮座していたという。
 どなたか詳細分かる方がいましたら、教えて頂きたいと思います。
        
                                       拝  殿
 稲荷神社が鎮座する「小和瀬」の地名は、中世の時代には既に使われていたようで、『松陰私語』(上野国世良田長楽寺住職の家記)には五十子陣の記述の所に「小波瀬」と記録されている。思うに利根川と烏川の下流の氾濫原という意味で「川瀬」がその由来となっていると思われる。
 この「小和瀬」は「強瀬」との意味にもとれ、利根川の水勢の強い場所としている。「強瀬」の名前の由来として、山梨県である甲斐国都留郡強瀬村が起源(ルーツ)であり、小長谷部(こはせべ)氏子孫という説もあるようだ(武烈天皇の御名代部を小長谷部と称していた)。埼玉県利根川流域には「「小和瀬」の他「中瀬」「横瀬」「滝瀬」瀬」のつく地名が多く、やはり河川由来の地名ではなかろうか。
 
           拝殿向拝部・木鼻部の見事な彫刻(写真左・右)
 
     社殿の手前左側には神楽殿               社殿の奥にある境内社・末社の石祠

 小和瀬稲荷神社の東側には利根川水系の備前渠用水が東南方向に流れている。この備前渠用水は「備前堀」の愛称で親しまれているが、慶長91604)年に関東郡代伊奈備前守が江戸幕府の命で開削した埼玉県最古の用水路である。この大工事により、北武蔵利根川右岸一帯を一挙に潤し、北武蔵農業の生命線となった。
          
       
小和瀬稲荷神社のすぐ東側に流れる備前渠用水(写真左・右)
 この備前渠用水路は利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市を流れ、利根川右岸約
1,400ヘクタールの水田にかんがい用水を供給する延長約23キロメートルの農業用水路であり、現在でも素掘りの区間が多く、当時の面影を残している。

                      

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牧西八幡大神社

 牧西八幡大神社が鎮座する「牧西」と言う地名の由来では、古い資料には「目西」と書かれている物もある(戦国時代の古文書・上田文書)が、『風土記稿』によると、嘗てこの地の東側に「櫛引(くしびき)」と言う名の野牧(現、深谷市櫛引)があり、その西端に位置したことから「牧の西(櫛引野牧の西)」の意味で村名が生じたとされる。
「牧西村ハ村東櫛引野二古エ牧アリ、ソコヨリ西二当ル地ナレハ斯呼ヘリ」(風土記稿)
 したがって、鎌倉時代の人物である弘季以前からあった地名である。字は木西とも書き、読みは「もくさい」。大寄郷藤田庄に属する。
 この地の八幡神社(現、八幡大神社)は四郎弘季が相模国鎌倉宮を当地に奉祀し、建立したことから始まると伝えられる。
 
        
              ・所在地 埼玉県本庄市牧西557
              ・ご祭神 誉田別尊・神功皇后・中比売神(応神天皇后)
              ・社 格 旧牧西村鎮守・旧村社
              ・例祭等 1015日 金鑚神楽・宮崎組
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2336503,139.2184289,17z?hl=ja&entry=ttu  
 牧西八幡大神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、岡(西)交差点を右折する。この丘(西)交差点を横断するルートは「中山道」と言われた江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。大井川などを渡る東海道に比べて川止めが少なく、旅程が計算できたことから、利用する旅人も多かった。木曽路など山間の道も通るため、「木曾街道」や「木曽路」との別名もある。また京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していたため、姫街道とも呼ばれていた。
 17号国道バイパス・丘(西)交差点を右折して、小山川に架かる橋(滝岡橋)を過ぎ、暫く道なりに進む。
その後埼玉県道45号本庄妻沼線と合流し、左折後牧西(西)交差点で埼玉県道・群馬県道258号中瀬牧西線に変わり、そのまま真っ直ぐ進み、藤田小学校を越えるとすぐ左側に牧西八幡大神社に到着する。県道も短い区間で2か所変わり、藤田小学校前交差点からも厳密にいうと県道にも属していないルートとなり、簡潔に説明するのが難しいが、ルートは至って単調で分かりやすく、この社も道路に沿って鎮座しているので、所在地も比較的分かりやすい場所にある。
 駐車スペースは社を過ぎてすぐ隣に火の見櫓が設置されている場所に広いスペースもあり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
               道路沿いに鎮座する牧西八幡大神社
       
社号標石は2か所あり。道路沿い・鳥居手前右側(写真左)と、境内入りすぐ右側(写真右)にもあり
       
           
社号標石の近くには神木が聳え立つ(写真左・右)
        
                 道路沿いにある案内板
 ○八幡大神社 所在地 本庄市大字牧西五五七番地
 祭神 誉田別尊(応神天皇) 神功皇后 中比売神(応神天皇后) の三柱
 当社は、建久年間(一一九五)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。こえて文明三年(一四七ー)五十子合戦のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長十七年(一六一二)ごろ信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが八幡大神社を再興ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田五畝二十五歩の寄進があった。明治四十一年本県より神饌幣帛料供進社の指定があった。
 なお、当社奉納の宮崎組神楽は、市の指定文化財になっている。
 この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起りとされており神をよろこばせる舞楽として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽・宮崎組の起りについてはまだ明らかでないがつかわれている面は江戸時代正徳年間(一七一一年~一七一五年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行なわれてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍らしい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)はいま二十五座伝えられている。
 昭和六十一年三月     埼玉県  本庄市               境内案内
板より引用
 
        
 牧西八幡大神社の二の鳥居を越えて更に参道を進むと(写真左)、正面に神楽殿があり(同右)、そこから直角に曲がると拝殿が鎮座する位置的な特徴を持つ社。

 宮崎組の金鑚神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており、神を喜ばせる舞楽として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金讃神楽・宮崎組の起こりについては、まだ明らかではないが使われる面は江戸時代の正徳年間(17111715年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われていたことを物語っている。
 宮崎組は変わり面など珍しい舞い方なども伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて奉納してきた。
なお、座(出し物)は今でも二十五座伝えられている。
 昭和35年11月10日 本庄市教育委員会
                                 道路沿いの案内板より引用
        
                      拝 殿

「金鑽神楽」とは、児玉郡神川町二ノ宮にある金鑚神社を核として埼玉県北部に形成された
13組の神楽組による神楽の総称である。
 本庄市域では、金鑚神楽の「5組の神楽」が本庄市無形民俗文化財に指定されている。
 神楽とは神様の心を慰めるために演じられる舞楽であり、一般には里神楽と呼ばれ、古くは神社ごとに特色ある神楽が演じられていたが、現在本庄市域で行われている神楽は全て『金鑚神楽』である。
 一社相伝の由緒深いこの神楽は、専門の神楽師ではなく、神社の氏子達によって代々伝承されているのだそうだ。かつては埼玉県北部の各神社ごとに別々の組が設けられ、個々に別々の演目、様式で伝えられていたが、明治時代に13の組に再編された。
 尚、伝承系統は大きく大宮住吉神社(現坂戸市)系と深谷市鼠八幡社(旧藤沢村)系の2つの系統と考えられる。
 
       拝殿向拝部の彫刻                本 殿

 
   正面鳥居右側に鎮座する境内社八坂社    八坂社の隣に
三笠山大神御嶽山大神等の石碑
 
三笠山大神御嶽山大神の隣に境内社・末社あり     社殿奥には屋台・神輿倉庫か


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傍示堂稲荷神社

              
        
                            ・所在地 埼玉県本庄市傍示堂
427
              ・ご祭神 宇気母智命
              ・社 格 旧指定村社
              ・例祭等 節分祭23日  祈念祭 48日に近い日曜日 
                   例祭 1019日に近い日曜日 新嘗祭 125
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2417068,139.2089125,17z?hl=ja&entry=ttu
 傍示堂稲荷神社は国道17号を本庄市方向に進み、歩道橋がある「日の出四丁目」交差点を越え、次の信号のない交差点を右折する。道幅の短い道路を道なりに進み、小山川を越えて尚も進むと、住宅地を越える最初の十字路の先、左側に「稲荷神社参道」の標石が見えるので、そのまま進むと正面に傍示堂稲荷神社の社叢が見えてくる。
 駐車スペースは入り口手前右側に少しあるので、そこに停めて参拝を行った。
       
         傍示堂稲荷神社正面      入口右側にある社号標と案内板
        
 稲荷神社 所在地 本庄市大字傍示堂四二七番地
 祭神 宇気母智命 外四柱

 当社は、文明二年(1470)本庄宮内少輔信明が小田原城主・北条氏直との戦ったとき戦勝祈願のため、伏見の稲荷大明神を当社に遷座したが、戦いは勝利をおさめたため、ふかく信仰した社であると伝えられている。現在の本社は、明治14年に再建、昭和56年現社殿を大改築をし、明治40年には、無格社御獄神社、八坂神社の二社を合祀、大正55月、本県より幣帛料供進社の指定があった。
 昭和613
月  埼玉県 本庄市                       案内板より引用
        
                  鳥居より社殿を望む
「五十子」という本庄市にある変わった地名を紹介したが、今回も同市内にある社の地名を紹介する。その名は傍示堂。やはりちょっと変わった地名である。
 地域名の「傍示」とは境界を示すことを意味するらしく、地名の由来は、二つの街道の分岐点に仏堂を建立し、街道の傍示としたことに由来する。そして、境界に建てられた御堂のことを傍示堂と呼んだのだそうだ。武蔵国と上野国との国境線は何度か変更になったことがあるようだが、かつてこの場所に武蔵国と上野国との国境線があったこともあるようで、ここには市場があり、たいそう賑わったのだそうだ。
 
     参道途中左側にある神楽殿       神楽殿に対して参道の反対側にある神庫
       
                    拝 殿
       
          本 殿                      拝殿脇にある案内板
 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
 稲荷神社 御由緒
 □縁起  本庄市傍示堂四二七
 傍示堂という地名は、中山道と三国街道との分岐点に傍示(道標)として蔵王権現の堂を建立したことにちなむものであるという。この堂は、神仏分離によって廃止され、その跡地は当社の社務所となっていたが、昭和62年に集落センターとして建て替えられた。
 大正三年に田沼延四郎がまとめた由緒書によれば、永禄年間(1558年〜1570年)に本庄宮内少輔信明が京都の伏見稲荷大社に戦勝を祈願し、北条氏直との戦いで勝利を得たので、
この地に同社の文霊を祀ったのが始まりであるという。また、同書はさらに、本庄勘解由康忠が天正のころ(15731592)内野姓を名乗って帰農した際、当社を一族の氏神として祀り、天保12年(184199日には村の五穀豊穣の守護神として現在の社地に社殿を再興したと伝える。
 しかし、実際に永禄年間に本庄氏が当社を創建したとすれば、当社を勧請したのは信明ではなく、その曽孫の実忠でなければならない。この点で、右の由緒には問題があるが、いずれにせよ当社の創建には本庄氏が深くかかわっており、村の開発に伴って代々名主を務めた内藤家の氏神、更に村の鎮守へと信仰を広げていったものと思われる。氏子の間に伝わる「内藤家の屋敷内に祀られていた稲荷社を、村の鎮守として現社地に遷した」との口碑も、それを裏付けているものであり、『風土記稿』も「稲荷社村の鎮守なり、村民の神」と期している。
                                    境内案内板より引用
 
     社殿奥に鎮座している石祠群        石祠群の隣にも境内社が鎮座
「風土記稿」によれば春日社は稲荷神社に合祀されていて、また庖瘡社、蔵王権現社も境内社として鎮座しているというが、どの祠であるかは分からなかった。
       
                  拝殿からの一風景
 江戸時代には傍示堂は五料(ごりょう)道との追分(分岐点)で、厩橋(前橋)6里、五料関所へ2里の道でした。沼田や伊香保へも通じていた。五料道は、五料関という関所のあった五料宿(現在の群馬県佐波郡玉村町)でこの先の中山道・倉賀野宿で分岐してきた日光例幣使街道と繋がり、現在の地名で言うと群馬県伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市を経て日光東照宮に繋がっていた。
 傍示堂地区に真言宗智山派円満寺があり、そのお寺の伝えによると「永禄年間に開基は本庄宮内少輔信明の後胤市郎右衛門政則にして、開山を本庄氏出身隣策和尚と称す」との記述がある。傍示堂稲荷社は本庄信明の勧請により、また同社附近に居住する内野氏は本庄実明の後裔と伝えられ、安土・桃山時代末期に帰農して、一族の氏神として内野氏敷地内で祀られたという。
 
        
     

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鵜森浅間神社


        
              
・所在地 埼玉県本庄市鵜森248
              ・ご祭神 木花咲耶姫命
              ・社 挌 旧鵜森村鎮守・旧村社
              ・例祭等 祈年祭 43日 例祭 1017日 新嘗祭 1110日 他
 本庄市・鵜森地域は、本庄台地の末端部から利根川右岸の低地にかけて位置する農業地域で、その北端は元小山川、南端は女堀川で区切られている。
 国道17号線を本庄市方向に進み、「鵜森」交差点を右折すると、進行方向正面やや左側の農地内に小高くこんもりとした鵜森浅間神社の社叢林、及び石製の鳥居が見えてくる。
        
                  鵜森浅間神社正面
『日本歴史地名大系』 「鵜森村」の解説
 鵜ノ森とも記す。本庄台地末端部から利根川南岸の沖積低地にかけて位置し、村の北端を東流する元小山川の対岸は傍示堂(ほうじどう)村、東から北は榛沢郡牧西(もくさい)村、南端を東流する女堀(おんなぼり)川の対岸は東五十子(ひがしいかつこ)村、西は本庄宿。沖積低地の自然堤防上の小字・本郷と台地上の小字・台に分散して集落がある。寛永二年(一六二五)一二月、大平角介(俊堅)は徳川氏から当村で一五石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。正保二年(一六四五)の本庄町外石高等領知図(中原家蔵)では高三八〇石、家数二五。
        
            一見すると古墳のような塚上に鎮座している。
「鵜森」という地域名は、『埼玉県地名誌』によると、「ウノキ」からきた地名ではないかとある。ウノキはスイカズラ科の植物で「こねうつぎ」や「やにうつぎ」の別名ともいう。
 地域名が命名された当時、この地域にはウノキの茂る森だったのであろうか。「本庄市史」では、浅間神社の森に鵜がたくさん生息していたと記している。またこの社の由来を、寛正年間に起きた五十子陣で陣地を構えた上杉房顕の妻梅沢御前が守護神として祀ったといわれている。
       
       石段前左側に注連縄で祀られている    石段途中の右側に祀られている
         「子宝授かり神石」         小御嶽三社大神の石碑
        
              石段手前に設置されている案内板
 浅間神社 御由緒
 ▢縁起 本庄市鵜森二四八
 鵜森は、本庄台地の末端部から利根川右岸の低地にかけて位置する農業地域で、その北端は元小山川、南端は女堀川で区切られる。 当社は、集落から離れて田畑の広がる中に鎮座しており、高さ一〇メートルほどの土盛りの上に本殿があるため、遠望すると、あたかも神が一帯を見守っているかのような印象を受ける。なお、鵜森という地名は、かつては当社の杜は今よりもずっと大きく、そこには鵜が生息していたことにちなむものであるといわれている。
 当社の創建の年代は不明であるが、口碑に「名主の早野半兵衛が当社と利益寺とを建立した」と伝え、利益寺でも早野半兵衛が天正年間(一五七三~九二)に草創した旨を伝えていることから、口碑に従うならば、当社もそのころ勧請されたものと考えられる。一方『児玉郡誌』は、この地が五十子城砦の要害の地であることから、寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕の奥方の梅沢御前がその守護神として勧請し、社殿を建立した旨を載せており、これに従えば、当社の勧請は口碑に伝えるものよりも一〇〇年以上前のことになる。
 また、『風土記稿』に「浅間社 村の鎮守なり、大蔵院持」とあるように、江時代には、真言宗系修験の大蔵院が別当であった。神仏分離の後は、当社は明治四年に村社になり、同三十九年に字台の下浅間神社と伊勢神社を合祀したが、大蔵院は明治初年に廃寺になった。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 
  拝殿の左側に祀られている境内社二柱     手長男社・八坂社の奥に祀られている  
    左から手長男社・八坂社の石祠       大黒天の石碑。その左側の石祠は不明

 鵜森地域の小字である「富士」は、旧村社である洗顔神社が鎮座している地内で、「地名と歴史」では、位置が五十子城の北西にあたり、寛正年間に関東管領上杉房顕の妻梅沢御前が守護神として勧請したとの伝承を載せている。社殿は塚の上に鎮座しているが、同書では土塁の一部ではないかとし、神社から西の方向に2m位の土塁が点在しているとしているが、現在ではあまりその遺構は確認できていない。
 また、小字「台」は、一般的には土地の高い場所をいうが、鵜森地域ではここにある集落を「高鵜森」と呼んでいるようだ。
       
                  境内社・天神の石祠               境内社・天照皇大神宮
        
   塚の西側には降りる階段等があり、その先に「水神」と設置されている案内板がある。
             窪地のようではあるが、水は現在ない。 
             その奥に見える碑は「浅間大神」の石碑


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「本庄の地名① 本庄地域編」
    「境内案内板」等
 

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東五十子若電神社

神社散策の目的の一つにその鎮座している地名の由来も含まれる。その地方の独特の名称の由来を自分なりに紐解くことで、その歴史の淵源を少しでも知ることができるからである。
 本庄市には一見変わった地名がある。「五十子」。仕事の途中で偶々通り過ぎた際に、その地名を知ったわけであるが、変に印象が強かった為、業務終了後調べてみると「五十子」と書いて「いかっこ、いかこ、いそこ」と読む。時には「いかご」」とも読まれるようだ。
 この地域は東流する女掘川の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川の低地帯が広がる。南には小山川があり、東南800m地点で志戸川と合流している。これにより、北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された自然の要害地となっていて、段丘崖の比高差は37mになる。
「五十子」地区はその地形上の特性から、室町時代中期に発生した『
享徳の乱』における激戦地の一つで、時の古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いであり、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦である。5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した戦いであり、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。
         
              ・所在地 埼玉県本庄市東五十子10
              ・ご祭神 別雷命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 220日 春祭り 44日 天王祭 旧暦61
                   秋祭り 1019
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2281387,139.2089377,17z?hl=ja&entry=ttu
 
東五十子若電神社は国道17号を本庄方面に進み、17号バイパスと合流後、鵜森交差点を左折、そのまま道なりに進むと、「増上寺」が右側に見え、そのお寺の隣にこんもりとした古墳上にこの社は鎮座している。駐車スペースは社周辺にはなく、隣接するお寺の駐車場に停めて、参拝を行った。
         
            
東五十子若電神社正面の鳥居。左側には案内板あり。
         
                      案内板
 若電神社 御由緒
 本庄市東五十子一〇
 □御縁起(歴史)
 東五十子は、南を小山川、北を女堀川に挟まれた地域で、集落は台地上にある。中世には五十子のうちに含まれ、長禄三年(一四五九)ころ、関東管領山内上杉房顕が当地に砦を築いて自ら滞在して陣頭指揮を執ったので、これを五十子陣と呼ぶ。元禄年間(一六八八-一七〇四)に当村と西五十子村に分村したという。
 当社は、集落の西南端に鎮座し、高さ三・ニメートル、直径約二〇メー トルの古墳の上に祀られる。創建については『児玉郡誌』に「当社は古老の口碑に、三代実録に記載しある若電神社なりと云ひ伝ふ。天慶年中(九三八-九四七)平将門追討の際、藤原秀郷当社に来り戦勝を祈願し、武蔵守就任の後、報賽として、社殿を再建し、別当職として増国寺を創立す(以下略)」と記される。また、社家の諏訪家に伝わる口碑によると、当社は元来西五十子に鎮座する大寄諏訪神社と小山川を挟んで相対して祀られていたが、小山川の氾濫により当地に流れ着いたので、神聖な古墳上に祀ったという。更に『風土記稿』には「雷電社本地十一面観音を安ず、増国寺の持」と載る。
 明治初年の神仏分離により、当社は別当の増国寺から離れ、村社となった。『明細帳』によれば、現在の社殿は元和八年(一六二二)に三度目の建て替えをしたという。更に、明治四十二年一月に請負人大工本荘町小暮庄九郎、塗師請負坂本自作により改築修繕が行われた(中略)
                                    
境内掲示板より引用
 
    参道正面。古墳頂上部に社が鎮座          参道途中右手には手水舎
 五十子(いらこ・いかご)の戦いは、古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いである。「享徳の乱」における激戦の一つであり、武蔵国の五十子周辺において、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦で、
関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に陣を構え築いたものが五十子陣である。
 この「五十子」は本庄台地の最東端に位置し、利根川西南地域を支配していた上杉方にとって、利根川東北地域を支配していた足利方に対する最前戦の地として選ばれた。このように武蔵国五十子(現埼玉県本庄市)は上杉房顕&顕定が古河公方:足利成氏(しげうじ)と約
20年に渡って対峙し続けた場所であり、短期間とはいえ上杉方にとっては攻防一体の戦陣に適した戦略上の重要拠点でもあったといえる。
      
           古墳前であり、社の階段前に聳え立つ御神木。
 もともと
この乱の発端は、南北朝時代から始まるという。本拠地が関東でありながら、南北朝の混乱のために京都の室町にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍・足利尊氏が、将軍は常時京都に滞在せねばならない為、留守になってしまう関東を統治するため、自身の四男である足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方として、関東に派遣した事に始まる。
 以来、将軍職は尊氏嫡男の足利義詮(よしあきら=2代将軍)の家系が代々継ぎ、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいき、鎌倉公方の補佐する関東管領(当初は関東執事)には上杉(うえすぎ)氏が将軍家の命により代々就任する事になったが、徐々に、鎌倉公方は将軍家、並びに将軍家のお目付け役であり、後見的存在でもあるである関東管領とも対立し、独立政権として、自らの道を歩み始めようとするようになった。この対立構造は年々顕著になっていき、これを話し合いという平和的な解決方法ではなく、軍事的な行動により決着させようとした、俊才でありながら「籤(くじ)引き将軍」とも「万人恐怖の独裁者」と言われた6代将軍足利義教は、前関東管領上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を、逆に憲実と共に攻め滅ぼした(永享の乱)。その後、義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝などが持氏の遺児の春王丸、安王丸を奉じて挙兵する結城合戦が起こるが、これも鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元、上杉氏の専制統治がなされた。
 しかし、嘉吉の乱により将軍義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護上杉房朝や関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子永寿王丸(足利成氏)を立てることを許し、ここに鎌倉府は再興された。
         
                  社殿。墳頂部に鎮座する。
 再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任し、成氏を補佐し始めたが、成氏は持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、上杉氏を遠ざけ始めた。当然、憲忠は彼ら成氏派に反発し、関東管領を務めた山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清(太田道灌の父)らは、結城氏等の進出を阻止するため、宝徳2年(1450年)に成氏を攻めた。この合戦は間もなく和議が成立したが、これにより鎌倉公方と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった。
 鎌倉を辞していた憲忠は間もなく許され鎌倉に戻ったが、成氏により景仲方の武士の所領が没収されたことを契機に、成氏と景仲ら憲忠家臣団との対立は所領問題に発展したとされている。
 
   社殿に掲げてある「若電神社」の扁額        社殿手前には神楽殿あり
 享徳31227日(1455115日)、長尾景仲が鎌倉不在の隙に鎌倉公方・足利成氏は、関東管領・上杉憲忠を謀殺。里見氏、武田氏等の成氏側近が長尾実景・憲景父子も殺害した。在京していた憲忠の弟上杉房顕は兄の後を継いで関東管領に就任、従弟の越後守護上杉房定(房朝の従弟で養子)と合流して上野平井城に拠り、「享徳の乱」が勃発した。
         
                     境内の様子
 この「五十子」地域は河川等が合流して形成される段丘上に位置する地形上の要衝地である以外にも、
鎌倉時代からの主街道である「鎌倉街道・大道」が武蔵国南部から北西方向に続き、上州に至る結節点でもあり、古利根川以西を掌握していた関東管領家側にとって、この道を奪取される事(分断される事)は戦力に大きな影響を与える事になる。
 武州北西部の辺りで、前橋方面、児玉山麓方面、越後方面への分岐点があり、ちょうどこの分岐点の南側前面に本庄は位置していて、この大道を守護する必要性が生じた事も五十子陣が築造される事となった一因である。
 東西を分け断つ地理的な要因と南北へと続く軍事面での道路の関係上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄・五十子は、山内上杉家と古河公方家が対立する最前線地の一つと化したわけである。

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