古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西粂原鷲宮神社及び山崎浅間神社

 埼玉県東部には「鷲宮」、「鷺宮」、「鷲(おおとり)」等、鳥を社頭に冠する社が多数存在する。東京都浅草に鎮座する「鷲(おおとり)神社」の酉の市は全国的にも有名だが、この鷲神社もその系統に属するらしい。総本社は久喜市鷲宮鎮座の鷲宮神社で、御祭神は天穂日命。この神社は関東平野各所に分布しているが、最も密度の濃いのは、久喜市とその北側の北川辺地区中心とした地域である。不思議なことだが埼玉県東部に集中して鎮座する久伊豆神社は元荒川左岸に沿って分布しているが、この鷲宮神社、鷲神社は元荒川と古利根川の間に濃密に存在する。
 宮代町西粂原地区に鎮座する鷲宮神社もその一つで、東粂原地区にも同神社が存在する。なんでも宮代町の鷲宮神社がある地域、和戸、久米原(現・粂原)の一部地域は1590年、小田原後北条氏より鷲宮神社(現・鷲宮町)社領地と認められた地域と古文書に印されているらしく、その関係でこの地に鷲宮神社が鎮座するのかと思われる。
所在地   埼玉県南埼玉郡宮代町西粂原660
御祭神   天穂日命 武夷鳥命
社  挌   旧村社
例  祭   7月21日に近い日曜日 灯篭祭り  10月9日 甘酒祭り

        
 西粂原鷲宮神社は埼玉県道65号さいたま幸手線、旧の日光御成り街道沿いに面して鎮座している。身代神社からは、埼玉県道85号春日部久喜線を久喜市方向に道なりに真っ直ぐ進み、和戸交差点を左折する。この道が前述の埼玉県道65号さいたま幸手線で、1,5㎞位進むと右側に社が見えてくる。あたり一面田園風景が広がるのどかな中にポツンと鎮座している中、県道だけはやたらと交通量が多く、静かな社周辺に似つかわしくない現代の車事情が見えてくる。
                     
                    鳥居の左側にある立派で大きな社号標石
 
             参道正面                       参道左側にある案内板
西粂原鷲宮神社・御成街道
 所在地  宮代町大字西粂原字立野
 西粂原鷲宮神社は、北から南に江戸時代中期につくられた黒沼笠原用水が流れる台地上にあり、社前には御成街道(日光御成道)が通っている。江戸時代に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、この神社は村の鎮守で明智寺持とある。明治時代には村社となり、毎年三月十日、九月九日に祭礼を行っている。また、明治四十年には、愛宕神社、雷電神社、厳島神社、稲荷神社、猿田彦神社、三峰神社の六社が合わせ祀られている。
 (中略)
 また、天保一四年(1843)四月、十二代将軍家慶の社参の記録(旗本 稲生家文書)によれば、西粂原鷲宮神社にて将軍が小休止したとある。
                                                       案内板より引用
                                                                                                

 西粂原鷲宮神社前を通る埼玉県道65号さいたま幸手線は江戸時代には日光御成街道と呼ばれた日光街道の脇街道で、元々中世の鎌倉街道中道を徳川将軍家が日光東照宮に詣でるときは、町民が通る日本橋を避け、江戸城大手門を出て、途中で中山道に合流し、本郷追分から分岐し幸手宿で 日光街道と合流するルートを通ったと言われている。
 また、岩槻藩の参勤交代に使われたことから「岩槻街道(いわつきかいどう)」とも呼ばれる。家康の忌日である四月十七日に執り行われる祭礼には、将軍自らが参詣するか、大名や高家を名代として参詣させるのが慣例になっていた。

  左から不明、富士浅間大神、大山石尊大権現           青面金剛等の石碑が並ぶ。
           
                              拝    殿
           
                             本    殿
 身代神社の「須賀」という地名同様、西粂原鷲宮神社が鎮座する「粂原」という地名にも何か歴史的な韻語を含んだ名前のように感じる。ウィキペディアによれば「粂」は「久米」であり、日本神話における軍事氏族の一つで、『新選姓氏録』によれば高御魂命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族だ。
 また『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて邇邇芸命を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。
 
このように日本書紀における久米氏は大伴氏と共に邇邇芸命と共に天下り、後に神武東征で久米氏は神武天皇に付き添って、軍事を司どる役目を持つ。大和国久米(現奈良県橿原市久米町)は久米部の氏寺とされる久米寺があり、久米氏の本拠地であるという。
 地方においては大和国久米氏と同族なのか武蔵国に武家の久米氏があり、武蔵国入東郡久米郷(現所沢市久米)発祥。武蔵七党村山党の一族という。その他の地では常陸国の久米氏は久慈郡久米(現茨城県常陸太田市久米)発祥で桓武平氏大掾氏族。阿波国の久米氏は伊予国発祥というように久米氏は日本全国に分布しているが、特に阿波国(現徳島県)に集中しているという。

 宮代町の粂原はどのような経緯で「久米」を名乗ったのか経緯は不明だが、歴史ある名族「久米」を数多く存在する姓の中からわざわざ名乗る歴史的な素地なくしてはこの問題は語れないように思えるのだがいかがだろうか。

 最後に「粂原」について以下の記述がある書物があり、それを一つの参考資料として紹介したい。


久米 クメ 出雲風土記に意宇郡久米社を久末(くま)と註す。姓氏録・河内諸蕃に「佐良々連、百済国の人・久末都彦(一本に久米都彦)より出づる也」と。久米族は熊族(久末)と同じなり。古事記に「天降りの後、天孫は二人の部下(大伴連、久米直の祖先)を連れて、『此地は韓国に向ひ、甚吉き地』」と見ゆ。久米族は神代の時代に韓国の熊ノ国より渡来す。熊条参照。また、久米は久味(くみ)とも称す。伊予国久米郡は古代の久味国にて、国造本紀に「久味国造。応神朝、神魂尊十三世の孫伊予主命を国造と定め給ふ」とあり。神魂尊は朝鮮の神なり。入間郡久米村(所沢市)あり、三ヶ島村は久米庄を唱える。嘉元三年長井文書に武蔵国久米郷と見ゆ。久米村永源寺応永二十九年鐘銘に入東郡久米郷大龍山永源禅寺とあり。茨城県那珂郡那珂町九戸、東茨城郡小川町十三戸、美野里町九戸、行方郡北浦町九戸、石岡市二十戸、秋田県仙北郡仙南村六十戸、横手市六十五戸、鳥取県東伯郡東伯町八戸あり。

 村山党久米氏 入間郡久米村より起る。寛永十六年三上文書に武州多摩郡山口領所沢村と見え、所沢村及び久米村付近は多摩郡とも称す。武蔵七党系図(冑山本)に「久米氏、多摩郡。山口六郎家俊―七郎家高―久米左近将監家時―三太郎泰家―孫太郎家盛(弟に家俊、成家、家清)」と見ゆ。承久記卷四に「久目のさこん」。典籍古文書に「建治元年五月、武蔵国・久米七郎跡六貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」と見ゆ。山口村誌に「山口壚、山口郷の住人粂但馬守等山口党と云い伝う。粂郷に粂但馬守邸の旧地あり」と見ゆ。

 粂原 クメハラ 原は春に同じで、ハラ、ハルは古代朝鮮語の都・城の意味なり。非農民の職業集団久米族の居住地を粂原と称す。此氏は武蔵国のみに存す。
                                  埼玉苗字辞典より引用                                                 

山崎浅間神社(赤間浅間神社)
所在地    埼玉県南埼玉郡宮代町山崎744
御祭神    木花之佐久夜毘売
社  挌    不明
例  祭    7月1日 初山行事
           
 本来は姫宮神社に行く予定だったが、途中で迷子になってしまい、ナビをしようと思い適当な駐車場がないか迷っていた時にたまたま見つけた社。ナビを作動させ、さあこれから行こうと思ったが、これも何かの縁と思い参拝を行った。
 神社というよりこんもりとした古墳か塚のようなこじんまりとした社だ。後日調べたところでは以前、赤松の大木が多数あった事から赤松浅間社と呼ばれ、江戸時代後半に造られたものという。
 
        
山崎浅間神社
 浅間神社は、山崎の北東部のはずれ、笠原落(かさはらおとし)を眼下に見る築山の頂上に祭られていまる。以前、赤松の大木が多数あった所から赤松浅間社と呼ばれており、江戸時代後半に造られたものである。
 祭神は木花之開耶姫命で、仏教の大日如来と一体とされ、それを浅間大菩薩と呼んで富士山の神霊としたことにより始まると言われ、富士信仰の神社として建立されたものである。
富士信仰は、古代より始まり、ことに江戸時代絶頂に達した。いわゆる「富士講」がそれである。天保十四年(1843)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村数控によると信者の分布の中に「百間、西粂原、東粂原、和戸」等の町内の地名が見られ、この付近の布教の様子を知ることが出来る。
 毎年七月一日、当社では初山の子供たちでにぎわいを見せている。
 また、当社の西方には山崎の村社である重殿社があり、周囲には町内では数少ない雑木林が広がっており、武蔵野の面影を残している。さらに、その北方には県選定重要遺跡である山崎遺跡があり、先土器時代から古墳時代までの人々が住んでいことが知られている。
                                               昭和六十二年三月  宮 代 町                                                                                            
                                                       案内板より引用                                                                                                            

                                                                                                                    
   この塚には階段があり、その先頂上には社はなく「浅間大菩薩」の石碑がその代わりとなっている。

 宮代町地域では、毎年富士山の山開きが行われる7月1日に合わせて、宮代町山崎の「赤松浅間神社」、辰新田の「浅間神社」、杉戸町の「河原の浅間様」で初山が行われ、子供たちの健やかな成長祈願を行なうために、この3つの山を巡るのが慣わしとなっている。(宮代町和戸の浅間神社の初山行事は一日早い6月30日に行なわれることから「うら浅間」と呼ばれている)
 子供の額に印を押してもらって御札とうちわをいただく地域の伝統的な行事だが、このほのぼのとした行事は大切に受け継いでもらいたいと真に願う次第だ。

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身代神社

宮代町のホームページ等で町名の由来を見てみると、百間村の総鎮守姫宮神社の「宮」と、須賀村の総鎮守である身代神社の「代」をそれぞれとって出来た名前だという。
 この身代神社の「身代」は「このしろ」と読み、旧須賀村の鎮守で、創建は仁治3 年(1242)3 月に勧請されたと伝わり、主祭神は素盞鳴命だ。

所在地   埼玉県南埼玉郡宮代町須賀1634
御祭神   素盞鳴命
社  挌   旧村社 旧須賀村総鎮守
例  祭   不明

       
地図リンク
 身代神社は姫宮神社から北西方向に約4㎞程の須賀地区に鎮座している。姫宮神社から一般道で山崎交差点に達したのち、埼玉県道85号春日部久喜線を久喜市、つまり北西方向に道なりに真っ直ぐ進み、日本工業大学入口交差点の先で、右側にこの社はある。南北に長いが幅が狭い小さな社だが由緒のある古社であることは間違いない。大東亜戦争において当時は出征兵士の身代わりになり命を救ってくれるとの信仰がうまれ多くの祈願があったという。
 ただ適当な駐車スペースが存在していないので、県道の向かいにコンビニエンスがあるのでそこに停めて参拝を行った。

         
                    道路沿いにある一の鳥居。南向きの社
          
                  一の鳥居を越えるとすぐ先にある二の鳥居
 身代神社の名前の由来については「伝承として、ある武将が奥州に落ち延びる際に武将の姫が追っ手に捕えられそうになり、そのとき、村人がコノシロという魚を焼いた。この魚は焼いた時の匂いが人を焼いた時と同じであるといわれ、追っ手に対して「姫は死んでしまった」ことにし、救うためであった。無事に追っ手から逃げることのできた姫はたいそう感謝をし、コノシロにちなんで身代神社を祀ったという話が伝わっています。また、神社の脇にある身代池には、オイテケ伝承や龍神伝承が伝わっています。」という伝承があるそうだ。
                                    郷土資料館編「みやしろ 歩け 歩け」より引用
 
 拝殿前には石塔が2対ある(写真左)が、よく見ると倒壊(同右)している。東日本大震災の影響かどうか理由は解らないが、文化財でもあるので自治体のほうで何とかできないものだろうか。
 
  参道の左側には石碑類と共に案内板がある。                  案内板

身代神社     所在地 宮代町大字須賀座下堤

 旧須賀村の鎮守で、明治時代の神社明細帳によると祭神は武速素佐能男命を主神として他16柱を祀り、また「素佐能男命が大蛇を退治した際、心がすがすがしくなった」という故事によりこの地を須賀村といい、蛇の縁により別当職を龍光院という(中略)再興は天和2年(1688年)3月28日なり」と記されている。当社の創建は、鎌倉時代初期仁治3年(1242年)3月の勧請と伝えられている。祭礼は、7月14日。身代神社の「代」をとって現町名の一部とした。
            
                      石碑類の奥にある多数の庚申塚
 境内には高さ60センチほどどの小さな庚申塔が並べ建てられている。これらは江戸時代後期に須賀村の島地区の人々が奉納したもので、こうした庚申塔は近隣にもあまり例を見ない。
この神社は古利根川の自然堤防の上に位置し、周辺から縄文時代や古墳時代の遺物が発見されている。また、神社西の身代池は、かつて利根川の流路ともいわれ、この池で釣った魚を持ち帰ろうとすると「オイテケ、オイテケ」という声がするというオイテケ堀の伝説も残されている。
                                                        案内板より引用                                                                                                         


           昭和時代に改築されたコンクリート製の拝殿(写真左)と本殿(同右) 

 身代神社は大落古利根川のすぐ南側の周囲の低地よりわずかに高い「自然堤防」と呼ばれる地形上に鎮座している。この社の西隣に身代池がある。この池は古利根川の過去の氾濫によってできたものらしい。そして、この池にも不思議な言伝え、龍神伝説がある。                           

 
身代池の周囲を三周すると、池から龍神が立つといって、巡り歩くことを忌む。昔、ある人が三周しようと試みたが、二周半からのあと半分がどうしても回れなかった

 また同沼には「おいてけ堀」伝説も存在する。この伝説は古利根川下流域の越谷市東方や川越市吉田にも同様の伝説がありその地域の関連性も考えられる。

 昔、宮代町にある身代神社そばの身代池は、魚釣りをするとよく釣れる場所だった。しかし、帰ろうとすると池の中から「オイテケ、オイテケ」と言う声がして、皆恐ろしくて置いて逃げ帰ったと言う。

 
 この沼は夏になると一面の蓮で埋め尽くされてしまうが、春先なので全容がわかる。ただ沼の周囲を歩くことはしなかったのは残念。

 
 話は変わるが身代神社が鎮座する宮代町須賀地域の「須賀」にも何か歴史的な因縁を感じる。
  

須賀 スガ 
 崇神六十五年紀に「任那国の蘇那曷叱知(ソナカシチ)」と見ゆ。蘇は金(ソ、ス)で鉄(くろがね)、那は国、曷は邑、叱知は邑長で、鉄の産出する国の邑長を蘇那曷叱知と云う。島根県大原郡大東町須賀に須賀神社あり、須佐之男命と稲田姫命の夫婦を祭る。古事記に「かれ是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまいき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまいしく、『吾此地に来て我が御心須賀須賀し』とのりたまいて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云う」とあり。須賀は素賀(スガ、ソガ)とも書く。
須は金(ス、ソ)の意味で鉄(くろがね)のこと、賀は村の意味で、鍛冶師の集落を称す。武蔵国の須賀村は利根川流域に多く、砂鉄を求めた鍛冶師の居住地より名づく。埼玉郡百間領須賀村(宮代町)は寛喜二年小山文書に武蔵国上須賀郷、延文六年市場祭文写に太田庄須賀市祭と見ゆ。同郡岩槻領須賀村(岩槻市)は新方庄西川須賀村と唱へ、今は新方須賀村と称す。同郡忍領須賀村(行田市)は太田庄を唱へ、須加村と書く。同郡羽生領小須賀村(羽生市)は太田庄須賀郷を唱へる。同郡備後村字須賀組(春日部市)、琴寄村字須賀組(大利根町)、飯積村字須賀(北川辺町)等は古の村名なり。葛飾郡二郷半領須賀村(吉川市)あり。また、入間郡菅間村(川越市)は寛文七年地蔵尊に入間郡須賀村と見ゆ。男衾郡須賀広村(江南町)あり。此氏は武蔵国に多く存す。
                                                                  「埼玉苗字辞典」より引用



 ここでは利根川流域に「須賀」とつく地名が多数存在しているらしいが、そのことは別項にて論じたい。


 


 
                                                                                       


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五社神社

  宮代町東地区に鎮座する五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社)を等間隔に祀ったことからその名が起こったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他7柱である。
 百間東村の鎮守社で創立は養老年間(717 ~ 724) に行基が当地に来たときであるとされる。本殿は、県指定文化財。本殿内部に納められた神鏡は、江戸時代の信仰形態を示す貴重な資料となっていて 町指定文化財に指定されている。

所在地    埼玉県南埼玉郡宮代町東90
御祭神    天之忍穂耳命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、久須毘命                                                                    社  挌    旧村社  百間東村鎮守社
創  建    養老年間(717-724)  
例  祭    みかん投げ 例年2月14日

       
地図リンク
 五社神社は東武伊勢崎線『姫宮駅』の南西約600m程の位置に鎮座している。西光院というお寺と道を挟んで隣接している。駐車場は無いので西光院の駐車場を一時借りて参拝を行った。
 この社の具体的な創建時期は不明とされているが、当地の古伝によると養老年中(717年~724年)に、奈良時代の僧である行基が当地を訪れたと伝えられており、当時、行基の前に、五人の老翁が現れ「当地は、霊験あらたかな地である。我々は熊野三山の翁、近江日吉の主、白山の厳翁である。」と告げて姿を消したという。そして、行基はこの神託にならい、当地に西光院を建立し、その鎮守として当社を創建したとされている。
           
                            五社神社正面
            実は交通量が非常に多く、撮影するのに意外と時間がかかった。
 
   
 鳥居の扁額には「五社宮」と書かれている。         境内内にある多数の境内社や石碑
               
                         石碑の手前にある案内板

五社神社    所在地 宮代町東九〇
 
五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社を等間隔に祀ったところからその名が起ったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他七柱である。
 
創建年代については、別当である西光院が火災にあったため明らかでないが、現在の本殿は、桃山時代の文禄、慶長(一五九二~一六一四)の建築と推定されている。本殿は五間社流造りで、正面に向背を付け、蟇股に牡丹、竜、鳳凰、猿、虎などの彫刻が施されている。大正年間に茅葺きからトタン葺きに替えられ、昭和四十九年の解体修理のとき銅板葺きにされた。
 
また、それぞれの社には、元禄十四年(一七〇一)五月吉日の年号がある銅製の御神鏡がある。江戸の鏡師二橋伊豆守藤原吉重の作である。(中略)
 
なお、本殿は、昭和三十七年三月県の指定文化財となっている。  昭和六十二年三月
                                                       案内板より引用
                                                                                                     
          
                    拝    殿
  
       
                             本    殿                                                
 見事な流造りの五間社である。本殿は桃山期の文禄慶長年間(1592-1614)の建築と推定され、五間社流造。平野部での同建築は珍しく、埼玉県指定文化財とされている。五社神社の名前は、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山神社、山王神社の五社を等間隔に祀ったことに由来するそうだ。

 当地は、かつて百間村の中心地であったが、元禄8年(1659)に分村して東村となった。また、古くは大寺であった西光院があることから寺村と称した事もあった。
 創建については、元禄12年(1699)に西光院住職宗彬法印と弟子の当社別当大蔵坊秀応が、荒廃した当社の改修の寄進を求めるために記した「勧進帳」(西光院蔵)には次の様な事が記されている。
 「養老年間(717-724)かの行基が当地に来たところ、五人の老翁が現れ、「我々は仏法護持のため、様々な霊地に身を置いたが、中でも当地は天地に比べるもののない霊場である。我々は熊野三山の翁・近江日吉の主・白山の厳老である」と告げて姿を消した。行基はこの告げに従い、当地に西光院を建立し、境内に寺の鎮守として当社を創建した。その後当社は、百間領五千石の総社として厚く崇敬されたが、時を経ると人々の崇敬心が衰え、社殿も激しく荒廃してしまった。この有様を憂えた宗彬法印らは、まず元禄8年に拝殿を増築し、次いで他の社殿の改築を発願して、広く寄進を求めたものである。
 口碑によると、この社殿の改修は、宗彬法印らの努力もあって、領民の寄進により無事に行われたという。
 なお、本殿は五間社流造りで、桃山期から江戸初期のものとされ、県内では珍しい形式であり、昭和37年に県指定文化財となった。
                                                   『埼玉の神社』より引用

 五社神社の御祭神は天照大神御子五柱命と言われ、アマテラスがスサノオと誓約した時にアマテラスから生まれた5柱の御子神であり、以下の5柱が祀られている。

天忍穂耳命
 
 天照大神の左のみづらにかけられた珠から化生した神、出雲の国譲り一番目に派遣され出雲への降臨を取りやめた神、ニニギの父神、稲穂の神、農業神。
天穂日命  
 天照大神の右のみづらにかけられた珠から化生した神、菅原家の祖神、出雲の国譲り二番目に派遣され大国主命に寝返った神、出雲国造、武蔵国造、土師連の遠祖にあた
る神、農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神。
天津彦根命 
 天照大神の首の珠から須佐之男命の左腕に化成した神、多くの氏族の祖神/天皇家に忠誠を誓った氏族。
活津彦根命 
 天照大神の左手にかけられた珠から化成した神、太陽の神、繁栄の神。
熊野樟日命 
 天照大神の右手にかけられた珠から化成した神、火の神、紀州・熊野三山の本源とされる神。
                                                                                  


        
 石段を登ってすぐ参道の右側に、小さな塚があり、周りには石祠が祀られているが、これも、古墳なのかは不明だ。

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姫宮神社

 宮代町は、埼玉県の東部に位置し、東西6,3km、南北6,7kmと北西から南東にかけて細長い形をしており、面積15,95km2、人口約3万5千人と埼玉県では数少ない町であり、南埼玉郡で唯一の町でもある。東側は、北葛飾郡杉戸町、南側は春日部市、西側は南埼玉郡白岡町、北側は久喜市に接していて、東武伊勢崎線が町西部を沿って走り、同日光線が町内の東武動物公園駅を起点として栃木、日光方面へと走る。町の東側にはかつて利根川の本流であった古利根川が流れていて南埼玉郡と北葛飾郡の境をなし、江戸時代以前はこの川によって武蔵国と下総国が分けられていた時期があった。
  宮代町の地形は、大宮台地の東北部にあたり、標高8~11mの台地と、その縁辺に位置する標高6m前後の後背湿地、標高6~7mの古利根川右岸の自然堤防から成り立っている。宮代町を含む埼玉県東部はかつて縄文時代の気温上昇によって海水面が今より2~3メートル高く上昇し、その結果「奥東京湾」と呼ばれる内海がかつて存在していて、今の栃木県古河市周辺地域に至るほどに広域な範囲であったらしい。ちなみに同時期に「香取海」と呼ばれる内海もあり、筑波山の麓まで海だったという。
 そこで思い出されることは、以前鷲宮在住の知人が「この鷲宮周辺に以前温泉が出たのだが、不思議とその温泉の成分が塩分を含んでいた。」と話していたことだ。地中奥深くは大昔の「縄文海進」の影響、名残りが未だ続いているエピソードではないだろうか。
所在地   埼玉県南埼玉郡宮代町姫宮373
御祭神   宗像3女神 (多記理姫命・市杵島姫命・多記津姫命)
創  建   天長元年(824年)
社  挌   式内社宮目神社論社、旧村社、旧百間村総鎮守
例  祭   7月20日

       
地図リンク 
 姫宮神社は宮代町の南東部、東武伊勢崎線「姫宮」駅から北西1km弱の姫宮落川と大落古利根川が蛇行している小高い台地の先端部に位置している。社殿は南向きで、境内は明るく開放的で長い参道、拝殿部と、森に囲まれて奥ゆかしい本殿、境内社群に分かれている配置のように見える。今回の参拝の目的地は姫宮神社であったためか、「姫宮」の名称からか、拝殿の雰囲気からか、何か女性的な雅(みやび)を漂わせてくれる不思議な社だ。因みに駐車スペースは社号標の手前に2台位停めることができる空間があり、そこに停めて参拝を行った。
            
                       姫宮神社入口の鳥居と社号標
               社号標石も鳥居も真新しく、境内は綺麗に清められている。
            
                           一の鳥居と参道正面
           
                      一の鳥居の手前左側にある案内板
 『埼玉県の神社』によれば、創建については、社伝には、桓武天皇の孫の宮目姫が下総の国へ下向の途中、当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれているうちににわかの病で倒れて息途絶えてしまった。後に、当地を訪れた慈覚大師円仁がこの話を聞いて、姫の霊を祀ったのが始めであるという。
 『風土記稿』百間村の項によると延長五年(927)成立の『延喜式』神名帳に載る武蔵国埼玉郡「宮目社」は、当社のことであるという。
 
       開放的で綺麗な参道の風景                 参道の途中左側には神楽殿
           
                              拝    殿
           
                                                               本    殿
        社頭の掲示板によれば、基壇の銘に「正徳五年(1715)四月吉日」とあるそうだ。
 姫宮神社
 所在地 宮代町字姫宮
 姫宮神社は旧百問領の総鎮守で、祭神は多紀理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命の三柱を祀る。社伝では、桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれ、突然の病で亡くなったことを、後に慈覚大師円仁がこの話を聞き、姫の霊を祀ったのが始まりであるともいう。また、一説には、延長5年(927)成立の『延喜式』に記載される「武蔵国埼玉郡宮目神社」は当社のことであるという。
当社の本殿は、基壇の銘によると「正徳5年(1715)4月吉日」とあり、その頃建立されたと推定され、建築様式からも証明されている。一方、拝殿は、海老虹梁に文久3年(1863)の銘が記されている。拝殿内には絵馬が多数掲げられており、一部は町の指定文化財に指定されている。
 また、かつて所蔵していた応永20年(1414)銘の鰐口は、現在、町の指定文化財として当社の別当寺であった前原の宝生院が所蔵する。
 本殿の東側に八幡社が祀られている。元は別の神社であったが、明治35年(1902)当社に編入された。なお、八幡社は、周囲より2m程小高くなっており、かつて埴輪片が出土したことから古墳であると推定される。
                                                    社頭掲示板より引用

 さて境内には数多くの境内社が鎮座している。
 
         拝殿左側にある稲荷社            稲荷社の奥には左から香取、鹿島、天神社
 
         本殿右側にある地主神                     八幡神社の奥には三峰社

  
 この地主神は姫宮神社の鎮座する以前に姫宮地区に祀られていた神であろう。ではこの神が誰であろうか。現時点ではハッキリとは判明しない、がヒントはある。この神は姫宮神社が古利根川とその支流である姫宮落川の合流地点に近い場所に鎮座しているということからまず
水に関連した神であるであろうことはこの社の鎮座する位置関係から解る。また姫宮神社の祭神が多記理姫命 多記津姫命 市杵嶋姫命の宗像3女神であるところから、地主神の本来の祭神も女神である可能性は高い。水神+女神、そして式内社宮目神社。何かしら連想される神がここにある程度限定されるではないだろうか。

 なお、姫宮神社の一帯には古墳が群集していて、姫宮神社古墳群と
命名されている。姫宮神社本殿付近も古墳の上に祀られているそうだ。
          
                  本殿東側に鎮座する境内社である八幡社
 姫宮神社社殿南東側のこの一帯からは、1999年の試掘調査で円墳跡と埴輪片が出土しており、姫宮神社境内を中心とするこの自然堤防上に、6世紀代の古墳を中心とする古墳群が築かれていたと推定されている。 八幡社があるこの一帯は周囲より2~3m高いとされ、径6mの円墳とされるらしい。

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寅稲荷神社及び同古墳、お手長山古墳

 寅稲荷神社の由来は嵯峨天皇の弘仁の頃(810~824)、坂上田村麿将軍が、東国平定のとき、当地に陣を構え、皇運の隆昌を祈願されたのが、当社の始りであるという。近くには、要塞を築いたとされる旧跡や、四十八塚といわれる古墳があり、将軍の古戦場との伝承もあった。古く伝来する扁額の裏面に「寛平五年二月初寅祭」とある。
所在地   深谷市岡1685
御祭神   倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)
社  挌   旧村社
例  祭   4月10日 春祭り、10月3日 秋祭り

       
地図リンク
 寅稲荷神社は国道17号を深谷市岡廼宮神社を本庄方面に向かい一つ目の交差点(岡交差点)を左折するとすぐ右側に寅稲荷神社が鎮座する。同名の古墳上にある社で6世紀末築造と推定され、全長50mと、四十塚古墳群では最大の規模の前方後円墳である。町指定史跡で、道路地図にも記載されている。
          
                       一の鳥居からの参道を撮影
        よく見ると参道は途中曲がっていて、正面には御神木である銀杏の木が見える。

 古墳群中最大の前方後円墳で、前方部を西に向けている。後円部から前方部にかけ寅稲荷神社が鎮座しており、墳頂部は平らになっている。1979年(昭和54年)に岡部町(当時)指定史跡に指定された。1981年(昭和56年)に周溝の発掘調査が行われ、埴輪片が出土している。1986年(昭和61年)と1994年(平成6年)にも調査が行われ、形象埴輪片(人物、馬、家)が発掘されている。
          
                         寅稲荷古墳の案内板
寅稲荷古墳
  高崎線岡部駅の北北西一・六キロメートルに位置し、櫛引台地北端部近くに存する。古墳付近の標高は約五一メートルで台地北側の低地水田面との比高は、約一○メートルである。
 本古墳の周囲は、かつて多数の古墳が群れを成して存在していたといわれているが、その多くは、昭和初期の開拓により消滅しており、現在存在するものは、二から三基を数えるにすぎない。
 本古墳は、ほぼ東西に五一メートルの主軸をもつ前方後円墳で、後円部径二六メートル、同高三メートル、前方部幅三四メートル、同高三・五メートルである。前方部の方が若干大きく高くなっており、終末期の前方後円墳の典型例と言うことができる。埴輪の有無は明確ではなく、埋葬施設は、角閃石安山岩を石材として使用した横穴式石室と考えられている。建造時期は、主体部が未調査であるため明らかではないが、墳丘等の形状からして、六世紀末ごろと考えることができる。
 また、前方部から後円部にかけては、寅稲荷神社が鎮座している。祭神は倉稲魂命という。当社には古獅子頭三基が伝えられており、町指定文化財となっている。
                                                           案内板より引用
                                                                       


  
           寅稲荷神社拝殿                           同本殿
  この地域では最大規模の古墳。6世紀後半の築造と推定され、当時の榛沢郡で最有力の首長の墓と考えられているようだ。

 
 寅稲荷神社古墳の東南600m位の場所にお手長山古墳はある。、この古墳は熊野古墳群内にある帆立貝形古墳である。

お手長山古墳
 所在地   深谷市岡
 墳  形   帆立貝式古墳
 築造時期  6世紀末葉~7世紀初頭
 区  分   深谷市指定史跡

        
地図リンク
 1965年(昭和40年)に後円部南側から石室が発見され、須恵器提瓶や銅腕が出土したとの伝承がある。現在墳丘上に石室の石材らしき角閃石安山岩が散らばっている。1988年(昭和63年)に墳丘南側で発掘調査が行われ、周溝から土師器坏、須恵器甕、長頸瓶などが出土した。築造時期は6世紀末頃と考えられる。 
 
1979年(昭和54年)4月1日付けで岡部町(当時)指定史跡に指定された。
            
                                                         東側正面にある案内板
深谷市指定文化財
お手長山古墳
          種別       史跡    
                   指定年月日  昭和54年4月1日
 
お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約五四メートルであり、櫛挽台地北西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存する墳丘は、長軸四三・五メートル、短軸二二・五メートル、高さ三・五メートルを測る。
 後の時代の耕作等により原形は失われているが、昭和五○年の本庄高校考古学部による墳丘測量調査、昭和六三年及び平成二年の岡部町教育委員会(当時)による発掘調査等により、古墳築造当時の姿が判明した。
 調査結果によれば、古墳の規模・墳形は、後円部径三七メートル、前方部長一二・五メートル、全長四九・五メートルの帆立貝式古墳である。主軸方位はN-一一六度-Eを示す。周溝からは、土師器・須恵器等が検出されたが、古墳の時期を示す明確な遺物は少ない。ただし、古墳周辺に散乱する石室の石材(角閃石安山岩)が六世紀後半以降、頻繁に使用されるものであること、周溝等の理由から六世紀末を前後する年代が想定される。
 当古墳の北西には四十塚古墳群があり、古墳群中には、横矧板鋲留短甲・五鈴付鏡板などが出土した四十塚古墳(五世紀末)、当地域最大級の前方後円墳(全長五一メートル)である寅稲荷塚古墳が存在する。
 お手長山古墳は、これらの古墳と同様に、櫛挽台地北西部を代表する首長墓と言う事ができる。このような有力古墳の集中地帯に、七世紀後半以後は、中宿・熊野遺跡をはじめとする律令期の重要遺跡群が分布することから、古代榛沢群衙(群役所)は、古墳時代首長層の伝統的勢力基盤を継承した形で成立すると考えられる。
                                                       案内板より引用

 古墳の南側に熊野神社遺跡があり、古墳時代から平安時代の集落跡が発掘調査されている。土師器・須恵器・紡錘車・鉄器・銅製帯金具・掘立柱建物跡が出土し、当時の面影を思い抱かせる。そういう意味では榛沢郡は豊な米穀産地で、従事人口も多かった事を意味するのではないだろうか。

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