古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北堀若泉稲荷神社

 若泉稲荷神社が鎮座する「北堀」地域は、字本田の「堀ノ内」と南方に接する栗崎地域にある「堀ノ内」との位置関係から「北の堀ノ内」が省略されて「北堀」となったという説と、集落北側に流れる用水堀からついた地名ではないかという説がある。
 どちらにしてもこの地区の北端部には九郷用水の用排水路である女堀川が流れており、九郷用水に関連した地名と考えた方が妥当だろう。この「北堀」の地名は中世の資料には出ていない。若泉稲荷神社の南東約
750mに鎮座する東本庄稲荷神社周辺は、現在字「東本庄」という小さな地域となっているが、嘗ては武蔵七党の一党で児玉党の一族である本庄氏の氏神であり、周辺は東本庄館跡と推定され、埋蔵文化財も多く残されており、本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺にあった本庄城の前身であると伝えられている。
 
北堀地区と栗崎地区周辺が中世前期頃までは本来の「本庄」であった事を物語っている。
        
               ・所在地 埼玉県本庄市北堀209
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社 格 旧指定村社
               ・例 祭 春季大祭 44日 大祓 旧暦六月晦 
                    新嘗祭 
1215
 北堀若泉稲荷神社は本庄総合公園の西側約900m程、南北に走る埼玉県道31号本庄寄居線沿線上に鎮座している。「JA埼玉ひびきの」のすぐ南側に社の社叢が見えるので、分かりやすい位置にある。
 地形を確認すると南側には
男堀川も含む小山川、北側には女堀川に挟まれた社の周辺標高57m~58mに比べて60mと若干の高台に位置している。高台と記載したが実は古墳で、調べてみると、若泉稲荷神社古墳と呼ばれる径38×21m、高さ2.5m程の古墳墳頂に鎮座していて、円墳の形状のようなのだが,かつては前方後円墳とする見解もあったようだ。西五十子古墳群に属する古墳。
 因みに「小山川」は地元では、旧名称の身馴川(みなれがわ)で呼ばれることもある。
        
                県道沿いに南北に位置する社
 
         参道正面              鮮やかな朱が基調の両部鳥居
 若泉稲荷神社の歴史は治承4年、武蔵守継行六世孫荘太郎家長が東本庄に館を構えた際、鎮守として勧請したことに始まる。天正18年に本庄氏に代わって小笠原掃部太夫信嶺が本庄城主になった時に、旧領主が勧請した社であるとの理由からこの神社を最も崇敬し、現在の社地に社殿を建立して奉遷した。明治にいたり、村社としてその庄名を冠して当時の埼玉県令千家尊福卿より若泉稲荷神社と名付けられた
                                    Wikipediaより引用
 
       参道左側には境内合祀社           境内合祀社の先には御嶽社あり
    左から秋葉社・手長社・琴平社         御嶽社の手前右側には護国社が鎮座 
        
                              参道途中にある案内板
 若泉稲荷神社  所在地 本庄市北堀二〇九
 若泉稲荷神社の祭神は、倉稲魂命である。
伝来の口碑によれば、一ノ谷の合戦(一一八四)で、源氏に従い平重衡(たいらのしげひら)を生捕った庄太郎家長は、その館を現在の小字東本庄に構えたが、治承四年(1一一八〇)当社を勧請建立し、この地の鎮守としたと言われている。
 その後、天正十八年(一五九〇)小笠原掃部太夫信嶺が本庄氏に代わって領主となったとき、旧領主勧請の古社であるので、最も崇敬を加え、あらたに社殿をこの地に建立奉遷したと伝えられている。

 昭和六十一年三月    埼玉県  本庄市
                                      案内板より引用
        
                                        拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額          社殿左側には旧東本庄社が鎮座
        
      拝殿は素朴な雰囲気が漂うが、奥の本殿は絢爛豪華な彫刻が施されている。
 
 参拝日は冬時期であったため、枯れていた状態     神池の手前に天神社が鎮座
          の神池
 北堀若泉稲荷神社の社殿部は,若泉稲荷神社古墳と呼ばれる古墳の墳頂部と言われ、西五十子古墳群に属する古墳。直径南北38m×東西約21m・高さ2.5mの円墳とのことなのだが,かつては前方後円墳、もしくは帆立貝式古墳とする見解もあったようだ。
 旧児玉町を含む現在の本庄市は、利根川南側に位置し、北側には古墳時代、東国の雄である毛野国に接する区域でもあり、舟を利用した経済の流通も活発に行っていたであろう。
        
                       北堀若泉稲荷神社 静かな境内  
 本庄最古の遺物は、小島石神境遺跡と西五十子田端屋敷遺跡で発見された、今から約15000年前の旧石器。本庄に最初にきた人々は、信州の和田峠付近で産出する、黒曜石製のナイフ形石器を、その証として残していった。
 また本庄市内には、かつて200基近くの古墳があった。小島三杢山古墳は、全国第20(20万基中)の超大型円墳だった。また、北堀の公卿塚古墳からは、全国で5ヵ所しか出土していない、珍しい技法の埴輪が発見されている。小島御手長山古墳から出土した坊主頭の人物埴輪は、市指定文化財。そして、近くの前の山古墳からは、全国唯一の大耳でしゃくれあご、歯を表現した盾持人物埴輪が発見されている。
                              参考資料 本庄市 ホームページ

拍手[1回]


西五十子大寄諏訪神社

 現在五十子地区は東五十子と西五十子に分かれているが、分村したのは江戸時代初期と思われる。『新選武蔵風土記稿』の『正保年中改訂図』には「五十子村」とあり、『元禄年中改訂図』には「東五十子村・西五十子村」と分かれて記載されている。現在「五十子」を「いかっこ」と発音しているが、『地名と歴史』『埼玉地名誌』では江戸時代後期の国学者である小小田与清の日記を引用して、そこには「イカコ」と呼んだことを紹介している。
 鎌倉時代正和3年(1314)の「関東下知状」では、武蔵国本庄内生子屋敷を巡って、本庄左衛門太郎国房と由良八郎頼久が争ったという。ここに記されている「本庄内生子屋敷」の詳細は分かっていないが、当時の本庄地区が北堀と栗崎付近を中心とした地域といわれていることから、隣接地である「五十子」もその候補地に含まれていたかもしれない。
 またこの史料は「本庄」地名が資料に初めて登場した例で、本庄左衛門太郎国房も児玉党・本庄氏の武士で、五十子の地も児玉党・本庄氏の重要な所領の一地域だった可能性もある。
                                   「本庄市の地名」を引用

        
              ・所在地 埼玉県本庄市西五十子647
              ・ご祭神 建御名方神 菅原道真(天満宮)
              ・社 格 旧指定村社
              ・例 祭 祈念祭 2月第3日曜日 夏祭 715日 
                   例大祭 
10月第3日曜日 新嘗祭 12月第2日曜日
 西五十子大寄諏訪神社は国道17号を本庄方面に進み、17号バイパスと合流後、鵜森交差点を左折、そのまま道なりに600m程進むと、東五十子若電神社が鎮座する地に到着する。そのまま進む続け、JR高崎線の踏切を通過し、北泉保育所を過ぎると左手に西五十子大寄諏訪神社の社叢と社の看板が見える。
 社の西側から南側にかけて囲むように本庄総合公園や多目的グランドがあり、そこの駐車場の一角に停める。東側にある「多目的グランド」北に隣接する「わんぱーく」脇にある道沿いにすすむと左手に社叢並びに鳥居が見えてくるので、そちらからのアプローチをお奨めする。
        
                             西五十子大寄諏訪神社 正面鳥居
 正面東側は「わんぱーく」という子供達の遊び場があり、まるで社が子供たちを守り、その成長を暖かく見守っているかのような位置関係だ。
 
    鳥居の右側には社号標柱あり     
社号標柱の右脇には御手長神社と秋葉神社が鎮座
       
           鳥居のすぐ右側にはご神木が聳え立つ(写真左・右)
        
                     案内板
 大寄諏訪神社 御由緒   本庄市西五十子六四七
 □
御縁起(歴史)
 当社の由緒は、社伝によると天慶二年(九三九)常陸国(茨城県) を占拠した平将門の討伐に際して、藤原秀郷の要請で、信州諏訪の地から出陣した大祝貞継が五十子に陣をかまえ、この地に諏訪大社のご分霊をお祀りしたことによる。平将門の乱後、下野・武蔵国の国府の長官となった藤原秀郷は、神社の社殿を整え、新田を寄進した。
 寛正年中(一四六〇- 六六)、室町幕府鎌倉府の上杉兵部太輔房顕が社殿を再興する。
 天正十八年(一五九〇)、信州(長野県)諏訪大社の当主であった諏訪小太郎頼忠は、徳川家康から領地を与えられた際に、当社の由緒をただした社殿を修繕し、修験の理聖院に仕事をまかせた。その後、明治維新の際に、理聖院は復職して、諏訪大角と名乗り、当社の神職となった。
 昭和三年(一九二八) 本殿改築、幣殿拝殿新築。平成十五年に手水舎、平成十六年に社務所新築。平成十九年墓地を新設し、分譲をはじめている。
 なお、境内に「学問の神様」である菅原道真公をお祀りする天満宮もあり、広く信仰をあつめている。
                                       案内板より引用
        
                綺麗に整備されている参道
 
        参道途中には手水舎            手水舎の先にある神楽殿
        
                                       拝 殿
 案内板に記されている上杉兵部太輔房顕が社殿を再興した寛正年中は、「享徳の乱」といわれる古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いの最中であり、関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に五十子陣を構え築いた頃に必勝祈願の為、この社を再興したと考えられる。
        
 
      拝殿向拝部(写真上)、木鼻部位(写真下左・右)の彫刻が素晴らしい。

 この五十子地域は東流する女掘川の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川の低地帯が広がる。南には小山川があり、東南800m地点で志戸川と合流している。これにより、北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された自然の要害地となっていて、段丘崖の比高差は37mになる。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 鎌倉時代からの主街道である「鎌倉街道・大道」が武蔵国南部から北西方向に続き、上州に至る。古利根川以西を掌握していた関東管領家側にとって、この道を奪取される事(分断される事)は戦力に大きな影響を与える事になる。武州北西部の辺りで、前橋方面、児玉山麓方面、越後方面への分岐点があり、ちょうどこの分岐点の南側前面に本庄は位置していて、この大道を守護する必要性が生じた事も五十子陣が築造される事となった一因である。

 東西を分け断つ地理的な要因と南北へと続く軍事面での道路の関係上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄・五十子は、山内上杉家と古河公方家が対立する最前線地の一つと化したわけである。
        
                               境内社 天満宮
 
         金鑽神社                                蚕養神社
 
   社殿の右側にある合祀群。詳細不明       合祀社の隣には二宮神社が鎮座
「いかこ」という地名の由来としては、洪水の起こりやすい平地、低湿地帯を意味するという他に、江戸時代の古語用例集である『雅言集覧(がげんしゅうらん)』や幕末から明治期にでた近代的国語辞書である『和訓琹(わくんのしおり)』等に、「五十日をイカと読むのは、子生まれて
50日目に祝事となる為」とあり、『源氏物語』にも見える。

 この社が鎮座する地に隣接し、このようなお子様たちが楽しめる空間を設けた理由として、もし行政側がこの「五十子」の歴史的な地名由来を理解して、意図してこの地に作ったものであるならば、かなり歴史に深く精通された方々の存在を感じざるを得ない。 

拍手[1回]


将軍沢日吉神社

  岩殿丘陵のほぼ中央に位置し、鳩山町と嵐山町の行政境にある「笛吹峠」。標高は80m。かつて鎌倉街道の中で唯一の峠で、鎌倉時代には数多くの武士団等が行き来した所でもある。
 北方に上州の山々、西方に秩父連山、眼下に須江の集落が広がる、眺望のすばらしい笛吹峠は、慈光観音と岩殿観音の巡礼道も交差する鎌倉街道で一番の難所であり、要衝の地であったようだ。正平7年(1352年)閏2月新田義貞の三男新田義宗らが宗良親王を奉じて武蔵野の小手指原で足利尊氏の軍勢と戦った(武蔵野合戦)が、最終的に戦いの決着がついたのがこの峠であった。しかし尊氏軍8万、義宗軍2万という明らかな差のもとに惨敗。敗れた義宗らは越後へ、親王らは信濃国に落ちていき、尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった道路工事をした際に人骨が大量に出土したそうで、当時の合戦が如何に激戦だったかを裏付けるものである。
 峠の由来については正平7年(1352)に新田義貞の子義宗が、南朝の宗良親王を奉じてここに陣をしき、足利尊氏と戦った。このとき親王が名月の陣営で笛に心を慰めたことによると伝える。

 笛吹峠から北に1.5㎞程行くと、日吉神社が鎮座する「将軍沢」という地名があり、平安初期には、坂上田村麻呂が地に寄った時に一堂を建立したことに由来するという。
        
              ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町将軍沢425
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 春季大祭410日 秋季大祭102021
 将軍沢日吉神社は大蔵神社の南方に位置し、経路途中は大蔵神社と同じである。国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子線に合流する「上唐子」交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進むと埼玉県道172号大野東松山線になるので、県道に沿って南西方向に進路をとり、都幾川を越えて400m程行くと、信号のある交差点となり、直進すると右手に大蔵神社となり、そこを左折し700m程進むと左側に将軍沢日吉神社の鳥居が見える
        
 将軍沢地区は、嵐山町の最南端に位置して中央を旧鎌倉街道が通り、歴史的にも坂之上田村麻呂氏の伝説があり、みどり豊かな環境の農村集落を形成している。
 春と秋には日吉神社に宮司と遺幣使をお迎えして、五穀豊穣を祈願する。かつて昭和30年代迄は、秋の大祭はササラ獅子舞が奉納されて、賑わっていたが、現在は獅子頭を奉納するのみに留まり、静かなお祭りになっているという。
        
                                将軍沢日吉神社 正面鳥居
 将軍沢日吉神社の創建年代等は不詳ながら、坂上田村麻呂が東征の際の延喜10年(910)に天台宗明光寺を建立、明光寺の鎮守として山王社を創建したのではないかとも推測されている。将軍沢の鎮守として祀られ、明治維新後地内の大宮権現社(現将軍神社)、神明社、愛宕社、稲荷社を当社境内へ遷している。
 
 参道がほぼ東側に伸びていて(写真左)、参道の先には将軍沢農村センターが見える(同右)。そして農村センターの左隣には、境内社・将軍神社が鎮座している。
 因みに将軍神社から左側へ直角に曲がった先に将軍沢日吉神社社殿が鎮座しているので、社殿は南側という位置関係となる。
        
                              境内社・将軍神社
 将軍社 祭神 坂上田村麿
 由緒

 當社古記録等傳フル無ク創立年紀詳カナラス。唯古老ノ口碑ニ傳フルハ往古坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人麦藁ヲ将軍ニ焚キテ暖ヲ與ヘリ。其后土人将軍ノ功徳ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋当社ニ因テ起リシナラン)御一新ニ至リ明治七年(1874)三月當所ニ奉遷シ将軍社ト改称セリ
                                   嵐山町Web博物館より引用

『新選武蔵風土記稿』においては違った記載もある。
 大宮権現社
 高さ三尺許の塚上にあり、利仁将軍の靈を祭れり、相傳ふ昔藤原利仁、此地を經歴して、此塚に腰掛て息ひしことありし故、かく號すと云、明光寺の持
        
                                         拝 殿
日吉神社 嵐山町将軍沢四二五(将軍沢字東方)
大山咋命を祀る当社は、鎌倉街道上道と呼ばれる街道脇に鎮座する。住宅やゴルフ場などの開発が進み、樹木が次々と伐採される中にあって、当社の境内は杉を主として樹木が多く、緑豊かな環境を守り続けていることから、平成三年には町の保護木の指定も受けている。また、社殿の裏手には、松の大木があったが、近年、松食い虫にやられ、枯死してしまった。かつて、当社の付近は『風土記稿』に「此辺二町許の松林あり、不添の森と云」と載るように、松林であったが、開発や松食い虫の害のため、既に当時の面影はない。
当社の創建の年代は定かではないが、江戸時代には山王社と呼ばれ、明光寺の持ちであった。明光寺は、寺伝によれば、延喜十年(九一〇)三月五日、坂上田村麻呂が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(一三三一-四〇)には兵火にかかって塔堂を焼失したという。明光寺が天台宗の寺院であることを考えると、当社は、その寺鎮守として創建された可能性もある。
将軍沢の地名は、村内字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社があることに由来するといわれる。『風土記稿』よれば同社は、藤原利仁が当地を通った時に腰掛けて休んだ「高さ三尺許の塚上」にあったが、神仏分離により将軍神社と改称し、明治七年に当社の境内に移された。
                                   「埼玉の神社」より引用

 社殿手前、左側に境内社・山神社・神明社・稲荷社が鎮座している。
 
           山神社                                   神明社

          稲荷社
                 
                 参道に聳え立つ巨木群
  今なお古き武蔵野の面影を残している自然豊かなこの景観を何時までも残して頂きたいものだ。

*追伸として
 将軍沢地区にある笛吹笛吹峠は古くは「ウスエ峠」といわれて、古代人が須惠器を峠越しに運んだ土器の道であったともいう。というのも奈良・平安時代前期のおよそ200年余りの間、嵐山町南部の将軍沢地区からときがわ町・鳩山町にかけての丘陵地は「須恵器」の一大生産地帯で、関東でも最大規模であったとの事だ。
 数多く築かれた須恵器の窯は、比企地方の南部丘陵地帯に広く展開し、「南比企窯跡群」と呼ばれていて、この地域で生産された須恵器は、洗練されたたいへん美しい焼物という。

 岩殿丘陵地独特のなだらかな傾斜があちらこちらに広がり、その丘陵地に奈良時代以降多くの人々が入植し、山野を切り開き須恵器づくりのための「集落」を形成し、関東屈指の須恵器生産地として発展した。
 将軍沢近辺は高低差を必要とする登り窯には、まさにうってつけの景観であり、良質の粘土と薪としての森林資源、そして地形などの好条件が合致し、沢山の登り窯が築かれ大量の須恵器が生産されていたという。また製品の出荷には丘陵の南北を挟むように流れる越辺川と都幾川が舟を通して利用され、同時に丘陵を縦断する東山道武蔵路、あるいは後の鎌倉街道は、武蔵国府(東京都府中市)や国分寺に須恵器と瓦を届けるために開かれたものであったのだろう。


「嵐山町教育委員会」資料の中で、 将軍沢地域は13世紀半ばから新田系氏族である世良田氏の領地となっていたという。世良田氏は上野国新田4分家の1つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には教氏と満義が寺に宛てた寄進状が今も残されている。

 同時に「中世嵐山にゆかりの武将と地名/嵐山町」では将軍沢地域と世良田氏の関係について以下のように記している。
将軍沢郷と世良田氏(せらだし)
畠山重忠没後の鎌倉時代後半の嵐山町の様子を伝える資料は非常に少なく、わずかな手がかりをとどめるにすぎません。その中で群馬県新田郡尾島町の長楽寺に所蔵されている文書に興味深い資料があります。将軍沢は大蔵から笛吹峠に向う途中にある集落ですが、この文書によるとここは当時世良田氏の領地で将軍沢郷と呼ばれていたことがわかります。世良田氏は清和源氏の一門である新田氏の一族で、頼氏のとき上野国(群馬県)世良田を領し世良田の姓を名乗りました。文書は二通あり、一通は頼氏の子教氏(のりうじ)(法名静真・せいしん)が、亡息家時の遺言により比企郡南方の将軍沢郷内の田三段(たん)を上州世良田の長楽寺に灯明用途料(とうみょうとりょう)として寄進するという内容です。
また、もう一通は家時の子満義のとき、将軍沢郷内の二子塚入道の跡の在家一宇(ざいけいちう)と田三段、毎年の所当(しょとう)八貫文を長楽寺修理用途料として寄進するというものでした。長楽寺は世良田氏の氏寺であり中世には多くの学僧を集めた大寺院として栄えました。

 熊谷市・万吉氷川神社の項でも触れたが、万吉地域周辺も嘗て新田氏の領地が存在していたりと、自分の母方の本家筋が本拠地である上野国・新田荘のみならず、武蔵国内に多くの所領を持っていたことに関心を持つ。新田氏本宗家は頼朝から門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになり、新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体していく一族、という今までの通説で語られてきた歴史観をもう一度再検討する良い機会ともなった。

拍手[1回]


広野八宮神社


        
              ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町広野927

             ・ご祭神 建速須佐之男命・大己責命・稲田姫命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春季祭典43日 秋季祭典1019
 広野八宮神社は杉山八宮神社同様に関越自動車道・嵐山小川ICの南西側に位置する。埼玉県道69号深谷嵐山線を武蔵嵐山駅方向に進み、「玉ノ岡中学校入口」交差点から2番目のT字路を左折するが、その道は非常に細いので、対向車量のすれ違い等には注意が必要である。
 因みにこの社の住所地である嵐山町広野字深谷の「深谷」は「ふかやつ」と読むそうだ。
 地図を確認すると、杉山八宮神社からは直線距離にして南東方向700m程しか離れていない近距離にこの社は鎮座している。

 広野八宮神社の創建年代等は不詳であるが、貞観10年(868)小川町下里の八宮神社を総社とし、近郷七ケ所に分霊された社の一社で、承平年間(913-938)には経基王が平将門征伐に際して戦勝祈願したと伝える。江戸期には広野村の鎮守として祀られ、当社隣接地の修験泉覺院が別当を勤めていた。
 
 社に通じる県道のT字路を左折すると細い農道となるが、嘗ての参道となっているようで、その
参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群(写真左・右)が並列している。

 庚申塔は庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことである。この庚申信仰とは平安時代に中国から伝わった進行と言われ、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰とされている。
 60日に一度めぐってくる庚申の夜は言動を慎み、健康長寿を祈念する行事を庚申待ちという。庚申待ちという行事は室町時代に講が結ばれ、江戸時代になると村の講中のものが徹夜で酒食をとるように変化し、村人の連携強化の手立てのひとつとして盛んに行われるようになったといわれる。
 庚申塚に建てる石塔には青面金剛(しょうめんこんごう)と三猿(さんえん)を彫っているケースもある。
 この広野地域の深い信仰心と人びとの強い結束力があって建てられたものであり、当地における貴重な文化遺産ともいえよう。
 
「百庚申」を左側に見ながら参道を進むと、正面はうっそうとした社叢に覆われる(写真左)。そのまま進むとなだらかな上り坂となり、階段の先に鳥居が見えてくる(同右)。
        
                                風格ある両部鳥居
 鳥居の底部あたり、少々朱が落ちている部分もあるが、却って歴史の深さを醸し出している。
 ところで鳥居の先で右側に建物らしき建造物があったが、鬱蒼とした樹木の中に隠れてしまい、確認できなかった。その後編集途中で分かったことだが、鬼神神社が鎮座していた。こちらは川島町にある鬼鎮神社(比企郡嵐山町川島1898)の奥宮であるとされるそうだ。
        
             参道を進むとその先に拝殿が見えてくる。
        
                                       拝 殿
 八宮神社 嵐山町広野九二七(広野字深谷)
 桑畑に囲まれた参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群があり、そこを過ぎると「八宮明神社」の額の掛かった鳥居がある。鳥居から社殿までの参道は緩い坂になっており、その東側には、元は泉覚院と呼ばれる修験で八宮神社の祭祀に深くかかわってきた宮本家がある。
 当社の由緒は『比企郡神社誌』に「本社は清和天皇の貞観十年(八六八)本郡小川町下里の八宮神社を総社とし近郷七ケ所に分霊を祀るといふ。当社は其の一社として鎮祭し、爾後、承平年中(九一三-三八)源経基公東征の際当社に戦勝を祈願せしと伝ふ」とあるのが最も詳しく、『明細帳』では「由緒不詳」としか記されていない。また『風土記稿』には「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持」「泉覚院 本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」と載る。
 旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼神神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いとして多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
                境内社 琴平神社・榛名神社

 ところで「宮本家」は旧泉覚院と呼ばれる修験で、八宮神社の氏子総代を務め、祭祀に深く関係のある家であり、近郊に鎮座する杉山八宮神社には明治十六年筆子碑に広野村「宮本広野」という人物も存在していた。
【新編武蔵風土記稿】
・「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持ち」
・「泉覚院本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」
 旧泉覚院の総元締めは男衾郡板井村長命寺だが、男衾郡板井村と畠山氏の本拠地である畠山地区は近距離であり、決して偶然ではない。

「埼玉の神社」によれば、「旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼神神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いとして多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである」とされている。
 この中にある「
鬼神神社」は川島地区に鎮座する「鬼鎮神社」の奥宮と謂われているが、この川島鬼鎮神社」は畠山次郎重忠が寿永元年(1182)菅谷館を築誠するに当たり、鬼門除けの守護神として奉斎されたと伝えられていて、重忠とは深い関係にある社といえる。同様にその奥宮である「鬼神神社」も重忠と無関係な社ではないと考える。              

拍手[1回]


杉山八宮神社

 嵐山町・杉山地域は、その行政地域北端が嵐山小川IC周辺、そこから南東方向に流れる市野川左岸地域が西、及び南端部側となり、その北側から埼玉県道69号深谷嵐山線に沿って最終的に市野川に合流する粕川(一級河川)右岸一帯が東・南側端部となる三角地帯を形成する地域である。
 
北、及び南側には市野川、そして粕川の両河川に挟まれている地域ながら、微高地という特性もあり、道を挟んで南西方向約1㎞の所には、室町・戦国時代に築城されたという杉山城も存在する。
 杉山城は鎌倉街道を見下ろす丘陵の南側の突端に10の郭を配置した山城で、実に細かく様々な工夫が凝らされており、その芸術的とも言える高度な築城技術から「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」という評価がなされている城跡で、国史跡にも指定されている。しかしこれほど見事な縄張りを形成しているこの城の築城者は不明で、年代に関しても、従来は縄張りが極めて緻密で巧妙なため、「土の城を極めた」と称賛された「小田原北条氏」の時代に造築されたものと言われていたが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強く、縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違から「杉山城問題」と呼ばれる謎を生んでいるという。
 杉山城跡の築城者は不明とされるものの、城の立地に関して北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町杉山671
             ・ご祭神 建速須佐之男命・大己責命・稲田比責命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭43日 例大祭1017
 杉山八宮神社は嵐山町北東部、関越自動車道・嵐山小川ICの南西側に鎮座する。当社は
粕川右岸の周囲の標高が平均65mのなだらかな起伏のある微高地からも一段高い82.2mの山頂に鎮守する。その西方にはかつて鎌倉街道上道が走り、南西方向約1㎞の所には、鎌倉期の武将金子十郎家忠の居城と伝え、戦国期には松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が居城したという杉山城祉があり、山頂からはその風景も眺める事も出来る絶好な要衝地に社は鎮座している。
 社務所や駐車場等なく、道路に面した路肩のような場所に駐車し、急ぎ参拝を行う。
        
 
            
杉山八宮神社は嵐山町立玉ノ岡中学校の北側丘陵部に鎮座する。
        
                                         参 道
        
                     拝 殿
 神社明細帳(嵐山町web博物誌より引用)
 一、由緒
 往古勧請四十五代聖武帝ノ御宇ト申。其后六十一代朱雀院ノ御宇天慶二年二月平将門関東ニ在リテ謀反ヲ起シ朝意ニ叛キ、此時六孫王経基公当村ノ旧城ニ御出陣在テ、藤原秀郷平貞盛ヲシテ當國ノ精兵ヲ募リ将門ヲ討ス。時陣中疫癘流行シ斃者不少、依テ社頭ニ於テ朝敵征討疫癘消除ノタメ御意、頗ル有之靈驗著ク、反賊忽チ伏誅シ、疫頓ニ愈。依テ経基王再ニ當社ヲ修繕シ四方四種ノ村落ニ祀テ八宮神社ト号シ、法施トシテ仁王會六万部御修行有、之今ニ六万塚・六万坂ト申所アリ、城跡モ僅ニ存ス。此言詳ナラスト雖モ傳テ有之今ニ春秋両度祭典ヲ成シ、皇國安全ノ祠祝ヲ奉ス。依テ前摘ヲ記載ス。
 明治四十一年三月三日上地林四畝十三歩境内編入許可

 上記「神社明細帳」の由緒によると、杉山八宮神社は第45代聖武天皇の御代(72448)の勧請である。また天慶2(939)には、平将門の乱の沈静のため当地の旧城に出陣した経基王が、朝敵征討・疫病消除を当社に祈願したところ霊験あらたかであったので、社殿を修繕し、四方四種の村落に分祀して八宮神社と号し、法施として仁王会六万部を行った。当社南西の六万部塚・六万部坂の地名は、これにちなむものであるという。確認は必要だが、社伝のいう箏を信じれば、かなり古くから信仰されている社となる。
                  
                               境内にある「
杉山寶齋退筆塚銘」
        
                    参道の様子
『新編武蔵風土記稿』比企郡杉山村条には「中古上田氏の臣にて庄主水(或は杉山主水とも)と云ふ者住せし所とも云へり」と記載されていて、松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が杉山城に居城していたという。
 尚この杉山主水という人物は「庄」氏であるという。武蔵七党のひとつであり、諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していた「児玉党」の棟梁的な立場であった阿保姓庄氏であり、その一派が旧鎌倉街道を利用してこの旧杉山村に移動・定住し、「杉山」姓と名乗ったという箏なのだろうか。
        
           杉山八宮神社近郊にある「杉山城跡」の掲示板。                
               

拍手[1回]