古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

五社神社

  宮代町東地区に鎮座する五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社)を等間隔に祀ったことからその名が起こったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他7柱である。
 百間東村の鎮守社で創立は養老年間(717 ~ 724) に行基が当地に来たときであるとされる。本殿は、県指定文化財。本殿内部に納められた神鏡は、江戸時代の信仰形態を示す貴重な資料となっていて 町指定文化財に指定されている。

所在地    埼玉県南埼玉郡宮代町東90
御祭神    天之忍穂耳命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、久須毘命                                                                    社  挌    旧村社  百間東村鎮守社
創  建    養老年間(717-724)  
例  祭    みかん投げ 例年2月14日

       
地図リンク
 五社神社は東武伊勢崎線『姫宮駅』の南西約600m程の位置に鎮座している。西光院というお寺と道を挟んで隣接している。駐車場は無いので西光院の駐車場を一時借りて参拝を行った。
 この社の具体的な創建時期は不明とされているが、当地の古伝によると養老年中(717年~724年)に、奈良時代の僧である行基が当地を訪れたと伝えられており、当時、行基の前に、五人の老翁が現れ「当地は、霊験あらたかな地である。我々は熊野三山の翁、近江日吉の主、白山の厳翁である。」と告げて姿を消したという。そして、行基はこの神託にならい、当地に西光院を建立し、その鎮守として当社を創建したとされている。
           
                            五社神社正面
            実は交通量が非常に多く、撮影するのに意外と時間がかかった。
 
   
 鳥居の扁額には「五社宮」と書かれている。         境内内にある多数の境内社や石碑
               
                         石碑の手前にある案内板

五社神社    所在地 宮代町東九〇
 
五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社を等間隔に祀ったところからその名が起ったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他七柱である。
 
創建年代については、別当である西光院が火災にあったため明らかでないが、現在の本殿は、桃山時代の文禄、慶長(一五九二~一六一四)の建築と推定されている。本殿は五間社流造りで、正面に向背を付け、蟇股に牡丹、竜、鳳凰、猿、虎などの彫刻が施されている。大正年間に茅葺きからトタン葺きに替えられ、昭和四十九年の解体修理のとき銅板葺きにされた。
 
また、それぞれの社には、元禄十四年(一七〇一)五月吉日の年号がある銅製の御神鏡がある。江戸の鏡師二橋伊豆守藤原吉重の作である。(中略)
 
なお、本殿は、昭和三十七年三月県の指定文化財となっている。  昭和六十二年三月
                                                       案内板より引用
                                                                                                     
          
                    拝    殿
  
       
                             本    殿                                                
 見事な流造りの五間社である。本殿は桃山期の文禄慶長年間(1592-1614)の建築と推定され、五間社流造。平野部での同建築は珍しく、埼玉県指定文化財とされている。五社神社の名前は、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山神社、山王神社の五社を等間隔に祀ったことに由来するそうだ。

 当地は、かつて百間村の中心地であったが、元禄8年(1659)に分村して東村となった。また、古くは大寺であった西光院があることから寺村と称した事もあった。
 創建については、元禄12年(1699)に西光院住職宗彬法印と弟子の当社別当大蔵坊秀応が、荒廃した当社の改修の寄進を求めるために記した「勧進帳」(西光院蔵)には次の様な事が記されている。
 「養老年間(717-724)かの行基が当地に来たところ、五人の老翁が現れ、「我々は仏法護持のため、様々な霊地に身を置いたが、中でも当地は天地に比べるもののない霊場である。我々は熊野三山の翁・近江日吉の主・白山の厳老である」と告げて姿を消した。行基はこの告げに従い、当地に西光院を建立し、境内に寺の鎮守として当社を創建した。その後当社は、百間領五千石の総社として厚く崇敬されたが、時を経ると人々の崇敬心が衰え、社殿も激しく荒廃してしまった。この有様を憂えた宗彬法印らは、まず元禄8年に拝殿を増築し、次いで他の社殿の改築を発願して、広く寄進を求めたものである。
 口碑によると、この社殿の改修は、宗彬法印らの努力もあって、領民の寄進により無事に行われたという。
 なお、本殿は五間社流造りで、桃山期から江戸初期のものとされ、県内では珍しい形式であり、昭和37年に県指定文化財となった。
                                                   『埼玉の神社』より引用

 五社神社の御祭神は天照大神御子五柱命と言われ、アマテラスがスサノオと誓約した時にアマテラスから生まれた5柱の御子神であり、以下の5柱が祀られている。

天忍穂耳命
 
 天照大神の左のみづらにかけられた珠から化生した神、出雲の国譲り一番目に派遣され出雲への降臨を取りやめた神、ニニギの父神、稲穂の神、農業神。
天穂日命  
 天照大神の右のみづらにかけられた珠から化生した神、菅原家の祖神、出雲の国譲り二番目に派遣され大国主命に寝返った神、出雲国造、武蔵国造、土師連の遠祖にあた
る神、農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神。
天津彦根命 
 天照大神の首の珠から須佐之男命の左腕に化成した神、多くの氏族の祖神/天皇家に忠誠を誓った氏族。
活津彦根命 
 天照大神の左手にかけられた珠から化成した神、太陽の神、繁栄の神。
熊野樟日命 
 天照大神の右手にかけられた珠から化成した神、火の神、紀州・熊野三山の本源とされる神。
                                                                                  


        
 石段を登ってすぐ参道の右側に、小さな塚があり、周りには石祠が祀られているが、これも、古墳なのかは不明だ。

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姫宮神社

 宮代町は、埼玉県の東部に位置し、東西6,3km、南北6,7kmと北西から南東にかけて細長い形をしており、面積15,95km2、人口約3万5千人と埼玉県では数少ない町であり、南埼玉郡で唯一の町でもある。東側は、北葛飾郡杉戸町、南側は春日部市、西側は南埼玉郡白岡町、北側は久喜市に接していて、東武伊勢崎線が町西部を沿って走り、同日光線が町内の東武動物公園駅を起点として栃木、日光方面へと走る。町の東側にはかつて利根川の本流であった古利根川が流れていて南埼玉郡と北葛飾郡の境をなし、江戸時代以前はこの川によって武蔵国と下総国が分けられていた時期があった。
  宮代町の地形は、大宮台地の東北部にあたり、標高8~11mの台地と、その縁辺に位置する標高6m前後の後背湿地、標高6~7mの古利根川右岸の自然堤防から成り立っている。宮代町を含む埼玉県東部はかつて縄文時代の気温上昇によって海水面が今より2~3メートル高く上昇し、その結果「奥東京湾」と呼ばれる内海がかつて存在していて、今の栃木県古河市周辺地域に至るほどに広域な範囲であったらしい。ちなみに同時期に「香取海」と呼ばれる内海もあり、筑波山の麓まで海だったという。
 そこで思い出されることは、以前鷲宮在住の知人が「この鷲宮周辺に以前温泉が出たのだが、不思議とその温泉の成分が塩分を含んでいた。」と話していたことだ。地中奥深くは大昔の「縄文海進」の影響、名残りが未だ続いているエピソードではないだろうか。
所在地   埼玉県南埼玉郡宮代町姫宮373
御祭神   宗像3女神 (多記理姫命・市杵島姫命・多記津姫命)
創  建   天長元年(824年)
社  挌   式内社宮目神社論社、旧村社、旧百間村総鎮守
例  祭   7月20日

       
地図リンク 
 姫宮神社は宮代町の南東部、東武伊勢崎線「姫宮」駅から北西1km弱の姫宮落川と大落古利根川が蛇行している小高い台地の先端部に位置している。社殿は南向きで、境内は明るく開放的で長い参道、拝殿部と、森に囲まれて奥ゆかしい本殿、境内社群に分かれている配置のように見える。今回の参拝の目的地は姫宮神社であったためか、「姫宮」の名称からか、拝殿の雰囲気からか、何か女性的な雅(みやび)を漂わせてくれる不思議な社だ。因みに駐車スペースは社号標の手前に2台位停めることができる空間があり、そこに停めて参拝を行った。
            
                       姫宮神社入口の鳥居と社号標
               社号標石も鳥居も真新しく、境内は綺麗に清められている。
            
                           一の鳥居と参道正面
           
                      一の鳥居の手前左側にある案内板
 『埼玉県の神社』によれば、創建については、社伝には、桓武天皇の孫の宮目姫が下総の国へ下向の途中、当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれているうちににわかの病で倒れて息途絶えてしまった。後に、当地を訪れた慈覚大師円仁がこの話を聞いて、姫の霊を祀ったのが始めであるという。
 『風土記稿』百間村の項によると延長五年(927)成立の『延喜式』神名帳に載る武蔵国埼玉郡「宮目社」は、当社のことであるという。
 
       開放的で綺麗な参道の風景                 参道の途中左側には神楽殿
           
                              拝    殿
           
                                                               本    殿
        社頭の掲示板によれば、基壇の銘に「正徳五年(1715)四月吉日」とあるそうだ。
 姫宮神社
 所在地 宮代町字姫宮
 姫宮神社は旧百問領の総鎮守で、祭神は多紀理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命の三柱を祀る。社伝では、桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれ、突然の病で亡くなったことを、後に慈覚大師円仁がこの話を聞き、姫の霊を祀ったのが始まりであるともいう。また、一説には、延長5年(927)成立の『延喜式』に記載される「武蔵国埼玉郡宮目神社」は当社のことであるという。
当社の本殿は、基壇の銘によると「正徳5年(1715)4月吉日」とあり、その頃建立されたと推定され、建築様式からも証明されている。一方、拝殿は、海老虹梁に文久3年(1863)の銘が記されている。拝殿内には絵馬が多数掲げられており、一部は町の指定文化財に指定されている。
 また、かつて所蔵していた応永20年(1414)銘の鰐口は、現在、町の指定文化財として当社の別当寺であった前原の宝生院が所蔵する。
 本殿の東側に八幡社が祀られている。元は別の神社であったが、明治35年(1902)当社に編入された。なお、八幡社は、周囲より2m程小高くなっており、かつて埴輪片が出土したことから古墳であると推定される。
                                                    社頭掲示板より引用

 さて境内には数多くの境内社が鎮座している。
 
         拝殿左側にある稲荷社            稲荷社の奥には左から香取、鹿島、天神社
 
         本殿右側にある地主神                     八幡神社の奥には三峰社

  
 この地主神は姫宮神社の鎮座する以前に姫宮地区に祀られていた神であろう。ではこの神が誰であろうか。現時点ではハッキリとは判明しない、がヒントはある。この神は姫宮神社が古利根川とその支流である姫宮落川の合流地点に近い場所に鎮座しているということからまず
水に関連した神であるであろうことはこの社の鎮座する位置関係から解る。また姫宮神社の祭神が多記理姫命 多記津姫命 市杵嶋姫命の宗像3女神であるところから、地主神の本来の祭神も女神である可能性は高い。水神+女神、そして式内社宮目神社。何かしら連想される神がここにある程度限定されるではないだろうか。

 なお、姫宮神社の一帯には古墳が群集していて、姫宮神社古墳群と
命名されている。姫宮神社本殿付近も古墳の上に祀られているそうだ。
          
                  本殿東側に鎮座する境内社である八幡社
 姫宮神社社殿南東側のこの一帯からは、1999年の試掘調査で円墳跡と埴輪片が出土しており、姫宮神社境内を中心とするこの自然堤防上に、6世紀代の古墳を中心とする古墳群が築かれていたと推定されている。 八幡社があるこの一帯は周囲より2~3m高いとされ、径6mの円墳とされるらしい。

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寅稲荷神社及び同古墳、お手長山古墳

 寅稲荷神社の由来は嵯峨天皇の弘仁の頃(810~824)、坂上田村麿将軍が、東国平定のとき、当地に陣を構え、皇運の隆昌を祈願されたのが、当社の始りであるという。近くには、要塞を築いたとされる旧跡や、四十八塚といわれる古墳があり、将軍の古戦場との伝承もあった。古く伝来する扁額の裏面に「寛平五年二月初寅祭」とある。
所在地   深谷市岡1685
御祭神   倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)
社  挌   旧村社
例  祭   4月10日 春祭り、10月3日 秋祭り

       
地図リンク
 寅稲荷神社は国道17号を深谷市岡廼宮神社を本庄方面に向かい一つ目の交差点(岡交差点)を左折するとすぐ右側に寅稲荷神社が鎮座する。同名の古墳上にある社で6世紀末築造と推定され、全長50mと、四十塚古墳群では最大の規模の前方後円墳である。町指定史跡で、道路地図にも記載されている。
          
                       一の鳥居からの参道を撮影
        よく見ると参道は途中曲がっていて、正面には御神木である銀杏の木が見える。

 古墳群中最大の前方後円墳で、前方部を西に向けている。後円部から前方部にかけ寅稲荷神社が鎮座しており、墳頂部は平らになっている。1979年(昭和54年)に岡部町(当時)指定史跡に指定された。1981年(昭和56年)に周溝の発掘調査が行われ、埴輪片が出土している。1986年(昭和61年)と1994年(平成6年)にも調査が行われ、形象埴輪片(人物、馬、家)が発掘されている。
          
                         寅稲荷古墳の案内板
寅稲荷古墳
  高崎線岡部駅の北北西一・六キロメートルに位置し、櫛引台地北端部近くに存する。古墳付近の標高は約五一メートルで台地北側の低地水田面との比高は、約一○メートルである。
 本古墳の周囲は、かつて多数の古墳が群れを成して存在していたといわれているが、その多くは、昭和初期の開拓により消滅しており、現在存在するものは、二から三基を数えるにすぎない。
 本古墳は、ほぼ東西に五一メートルの主軸をもつ前方後円墳で、後円部径二六メートル、同高三メートル、前方部幅三四メートル、同高三・五メートルである。前方部の方が若干大きく高くなっており、終末期の前方後円墳の典型例と言うことができる。埴輪の有無は明確ではなく、埋葬施設は、角閃石安山岩を石材として使用した横穴式石室と考えられている。建造時期は、主体部が未調査であるため明らかではないが、墳丘等の形状からして、六世紀末ごろと考えることができる。
 また、前方部から後円部にかけては、寅稲荷神社が鎮座している。祭神は倉稲魂命という。当社には古獅子頭三基が伝えられており、町指定文化財となっている。
                                                           案内板より引用
                                                                       


  
           寅稲荷神社拝殿                           同本殿
  この地域では最大規模の古墳。6世紀後半の築造と推定され、当時の榛沢郡で最有力の首長の墓と考えられているようだ。

 
 寅稲荷神社古墳の東南600m位の場所にお手長山古墳はある。、この古墳は熊野古墳群内にある帆立貝形古墳である。

お手長山古墳
 所在地   深谷市岡
 墳  形   帆立貝式古墳
 築造時期  6世紀末葉~7世紀初頭
 区  分   深谷市指定史跡

        
地図リンク
 1965年(昭和40年)に後円部南側から石室が発見され、須恵器提瓶や銅腕が出土したとの伝承がある。現在墳丘上に石室の石材らしき角閃石安山岩が散らばっている。1988年(昭和63年)に墳丘南側で発掘調査が行われ、周溝から土師器坏、須恵器甕、長頸瓶などが出土した。築造時期は6世紀末頃と考えられる。 
 
1979年(昭和54年)4月1日付けで岡部町(当時)指定史跡に指定された。
            
                                                         東側正面にある案内板
深谷市指定文化財
お手長山古墳
          種別       史跡    
                   指定年月日  昭和54年4月1日
 
お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約五四メートルであり、櫛挽台地北西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存する墳丘は、長軸四三・五メートル、短軸二二・五メートル、高さ三・五メートルを測る。
 後の時代の耕作等により原形は失われているが、昭和五○年の本庄高校考古学部による墳丘測量調査、昭和六三年及び平成二年の岡部町教育委員会(当時)による発掘調査等により、古墳築造当時の姿が判明した。
 調査結果によれば、古墳の規模・墳形は、後円部径三七メートル、前方部長一二・五メートル、全長四九・五メートルの帆立貝式古墳である。主軸方位はN-一一六度-Eを示す。周溝からは、土師器・須恵器等が検出されたが、古墳の時期を示す明確な遺物は少ない。ただし、古墳周辺に散乱する石室の石材(角閃石安山岩)が六世紀後半以降、頻繁に使用されるものであること、周溝等の理由から六世紀末を前後する年代が想定される。
 当古墳の北西には四十塚古墳群があり、古墳群中には、横矧板鋲留短甲・五鈴付鏡板などが出土した四十塚古墳(五世紀末)、当地域最大級の前方後円墳(全長五一メートル)である寅稲荷塚古墳が存在する。
 お手長山古墳は、これらの古墳と同様に、櫛挽台地北西部を代表する首長墓と言う事ができる。このような有力古墳の集中地帯に、七世紀後半以後は、中宿・熊野遺跡をはじめとする律令期の重要遺跡群が分布することから、古代榛沢群衙(群役所)は、古墳時代首長層の伝統的勢力基盤を継承した形で成立すると考えられる。
                                                       案内板より引用

 古墳の南側に熊野神社遺跡があり、古墳時代から平安時代の集落跡が発掘調査されている。土師器・須恵器・紡錘車・鉄器・銅製帯金具・掘立柱建物跡が出土し、当時の面影を思い抱かせる。そういう意味では榛沢郡は豊な米穀産地で、従事人口も多かった事を意味するのではないだろうか。

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毘沙門山古墳

羽生駅東口を下りて北へ向かい、最初の踏切に差し掛かると、右手に鎮座する「古江・宮田神社」が見えてくる。社殿は小高い微高地上に建っているが、これこそ毘沙門山古墳、別名毘沙門塚と呼ばれる前方後円墳である。
 この古墳の概要は以下の通り
  ・ 
墳丘長63m
  ・ 
後円部径35m・高さ4.5m
  ・ 
前方部幅40m・高さ4.5m 
 
前方部を西に向ける2段構築の前方後円墳。明治36(1903)年東武伊勢崎線の路線敷設のため、前方部西側の一部が切り取られた。この工事中に埴輪片が発見されている。明治41(1908)年には、前方部墳頂に古江官田合殿社が移築された。墳丘の傍らに「建長八年丙辰二月二十七日」紀年の板碑があるが、これは横穴式石室の天井石を再利用したものと考えられる。埴輪の存在から6世紀後半の築造と考えられる。
所在地     埼玉県羽生市西1
区  分     羽生古墳群 県選定重要遺跡
埋葬者     不明
築造年代    6世紀後半(推定年代)

       
 毘沙門山古墳は羽生駅東口を下りて北へ向かい、最初の踏切に差し掛かると、右手に鎮座する「古江・宮田神社」が見える。社殿は小高い丘の上に建っていて、この丘全体が実は毘沙門山古墳、別名毘沙門塚と言われる古墳である。まさに街の中にある古墳だ。
 実は日頃自家用車で参拝を行っている筆者としては非常に困った事態がここでは発生してしまった。この近辺に車を停める適当な駐車スペースが全く存在しないことだ。いやあるとしても、この羽生市街地の内情に疎い筆者にとっては仕方なく周囲を探し回るしかない。一時は今回諦めようと思ったが、羽生市の歴史を語る上においてもこの古墳を外すわけにはいかないので探し回った。そのうちやっと毘沙門山古墳沿いにある埼玉県道128号熊谷羽生線を西に進むこと約500m先にコンビニエンスがあり、そこに駐車して参拝できた。やはり前準備は必要だと、今回の参拝で肝に銘じた次第だ。
           
                                            東武伊勢崎線近くから古墳方面を撮影 
  『埼玉の古墳』によると、毘沙門山古墳の規模は次の通りだ。
 「憤長六三メートル、前方部幅約四〇メートル、前方部高四・五メートル、後円部径約三五メートル、後円部高四・五メートル、前方部を西に向ける二段築成の前方後円憤」とある。また、築造年代は6世紀後半代と考えられて、かつてはもう少し規模が大きかったようだが、明治36年(1903)の東武鉄道の工事のために前方部の一部が削り取られてしまった。また、古墳のまわりには堀が巡っていたという。これは一重か二重かは不明。これも都市の開発と共に埋め立てられ、住宅がどんどん軒を連ねていきた。

●毘沙門山古墳
 
全長63m、高さ4.5m、後円部直径約35m、前方部を西に向ける2段築成の前方後円墳です。
 明治36年東武鉄道の線路敷設のため前方部西側の一部が切り取られ、その際に埴輪の破片が発見されました。築造年代は、埴輪から6世紀後半代と考えられています。なお、毘沙門山古墳の東南方の毘沙門塚古墳(「塚畑」と呼ばれていた所)から、昭和32年に円筒埴輪が発見されています。
                                                                                                     羽生市ホームページより引用

 この毘沙門山古墳は2つの区画に分けることができる。一つはこの古墳を含め、古墳上に鎮座する古江宮田合殿社の区画である。
                        
                                                                 
                     線路沿いにある古江宮田合殿社参道
 
                                                                                       
        前方部墳頂にある古江宮田神社社殿                    社殿内部の石祠群
                                                                                 この社殿は複数の社の合祀社でもある。
 そしてもう一つの区画は古江宮田合殿社参道の北側に入口があり、そこには一見神社風の毘沙門堂がある。もともとの毘沙門堂は建長8年(1256)に北条時頼が創建したものと伝えられている。現在の毘沙門堂は宝永3年(1706)に新築され、その後何回か改修を経たものという。
       
                     埼玉県道沿いにある毘沙門堂の看板
 

            毘沙門堂正面                 何となく拝殿、幣殿、本殿形式に見えてくる。

                                            
くびれ部裾には、どう考えても毘沙門山古墳の横穴式石室の天井石を利用したとみられる、緑泥片岩の板碑がある。

  埼玉県行田市にはさきたま古墳群の他、真名板高山古墳、小見真観寺古墳、八幡山古墳等古墳が密集している地域だが、その北西部に位置する羽生市にも古墳がたくさん存在していてなかなか侮れない勢力が存在していたと想像できる。
  また不思議と埼玉県北部熊谷市から羽生市にかけて、利根川流域南側の前方後円墳は毘沙門山古墳や、羽生市下村君地区にある永明寺古墳、さらに真名板高山古墳、小見真観寺古墳、少し離れた熊谷市奈良地区にある横塚山古墳等や上中条地区にある帆立貝式古墳である鎧塚古墳(主軸長43m)は全て主軸を東西の方向に向いている。(但し前方部が東西逆方向に向いている相違点はあるが)
 何かしら関連性があるのであろうか。
                              

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とうかん山古墳

  とうかん山古墳(とうかんやまこふん)は、埼玉県熊谷市箕輪にある前方後円墳である。東平台地上で標高24メートルの地点に築造された。墳丘は宅地造成によって一部変形しているが、同地に残された唯一形のわかる前方後円墳である。
 正式な発掘調査はされておらず、墳丘で採集された埴輪片から、6世紀中頃から後半の築造と推定されている。古墳名は墳頂にある稲荷社(おとうか様)や十日夜碑に由来する。
所在地   埼玉県熊谷市箕輪
区  分   平成元年(1989年)3月17日 埼玉県指定史跡
埋葬者   不明
築造年代  6世紀中旬から後半にかけて(推定)

       
 とうかん山古墳は冑山神社、同古墳から北へ2㎞位進んだ箕輪地区にある前方後円墳である。冑山神社は国道407号線沿いに鎮座しているが、その国道の東側に走っている埼玉県道257号冑山熊谷線を熊谷市方向に北上すると右側に吉見小学校があり、その手前にとうかん山古墳が見えてくる。
 このとうかん山古墳は箕輪地区の住宅地の中にあり、大きさが分かりずらい古墳だが、登ってみるとくびれ部もハッキリあって、比較的良好な形状を保ってると思われる。また
甲山古墳と築造年代も距離も近いことから、関連性が唱えられている古墳でもある。
          
                    前方部にあるとうかん山古墳の案内板
                                            
埼玉県指定文化財 史跡 とうかん山古墳             
 指定   平成元年3月17日
 所在   大字箕輪字北廓
 この古墳の名称は、墳頂に稲荷社(おとうか様)や十日夜碑があることから、とうかん山古墳と呼ばれています。
 古墳の形は前方後円墳であり、規模は、全長74メートル後円部の高さ5,5メートル、前方部の高さ6メートルです。時期については、発掘調査が実施されていないので明確では有りませんが、採集された埴輪破片から6世紀中頃と考えられております。
 かつてこの地域には沢山の古墳が存在しており、本古墳はその中心的古墳だったと思われます。現在では周辺の古墳は失われ幾つかが残るだけですが、その残された古墳の中でも本古墳は当時の原型をとどめていることで大変貴重なものと考えます。
 平成3年3月   埼玉県教育委員会 熊谷教育委員会
                                              とうかん山古墳案内板より引用
                                                                                         
          

 とうかん山古墳は東平台地上に位置している。この東平台地は荒川扇状地に形成された櫛引台地・江南台地とは直接連続しないが、ほぼ同時期に形成されたものとされる。東平台地は西方に広がる比企丘陵と南方は比企丘陵の残丘と考えられている吉見丘陵に挟まれ、東方の大里沖積地で区分される。台地頂部は比較的平坦で標高50~30mを測る。沖積地との比高は10~15mである。台地を構成する基盤層は灰色砂質泥岩と青灰色砂岩からなる土塩層と呼ばれる新第三期層に当たる。台地下から荒川までの東部沖積地は荒川低地の上流部にあたり大里低地とも称される。沖積地はかつての利根川・荒川および和田吉野川・通殿川により自然堤防と後背湿地が形成されたもので、場所によっては10m以上の礫層・粘土層・シルト層が厚く堆積している。台地下から荒川までの東部沖積地は荒川低地の上流部にあたり大里低地とも称される。沖積地はかつての利根川・荒川および和田吉野川・通殿川により自然堤防と後背湿地が形成されたもので、場所によっては10m以上の礫層・粘土層・シルト層が厚く堆積している。

 現在は低平な水田地帯となっている低地部には古代の大里条里帯が設定されており、可耕地としての整備が比較的早くなされた一帯であるが、後世の荒川等の乱流と新田開発などによりその実態はほとんど不明である。だが、ときには2m以上の下面から古代の遺構が確認される場合があり、大半の古代面は埋没しているとも想定される。

 ところでとうかん山古墳がある熊谷市箕輪地区は標高10m内外の台地を侵食した細長い谷に取り囲まれた低平な丘状の畑地に広がっている地域で形成されている。この「箕輪」の地名の由来を調べてみると川の曲流部や曲がった海岸などの半円状の台地のことで、つまり水の輪(=みのわ)に囲まれているような状態だそうだ。
 地名語源辞典(山中襄太著、校倉書房)に的確な表現があるので、引用してみる。
『箕という農具はヘリが深い弓形に曲がっている。その曲線を、箕輪、箕曲、と書いてミノワという。川、堤防、土手、道などが、そういう曲線になっているところをミノワという。弓のツルにあたるところを直線に通れないで、弓の曲線のところを遠まわりしなければならぬような場合、こういう地形は大きな関心を持たれて、こういう地名がつけられた』。三ノ輪、三輪、三野和、蓑輪、等とも書く。
 
そこから発展して、中世武士の居館を中心として、周囲に農民が居住して発展した集落のことを指すようにもなったという。


 不思議なことに行田市和田地区に鎮座する和田神社の「和田」も同様な意味があり、この「和田」は「輪+田」で川の曲流部内の平らな場所という由来があるそうだ。「和田」も「箕輪」の地名と同じく「輪」を共通とする地名ではないだろうか。



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