古社への誘い 神社散策記

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鹿島古墳群

 鹿島古墳群は荒川に沿って南北約300m、東西約1200mの範囲に100基以上の古墳で構成された荒川右岸最大の古墳群である。ほとんど円墳で構成されているが、鹿島73号墳のみ方墳である。西側吉野川沿いの台支群、中央の鹿島支群、東側の枚方支群の3つの支群に分けられる。昭和47年に54基が県の史跡に指定された。平成5年古墳公園を建設する「保存整備基本構想」が策定された。

 
6世紀後半に築造が開始され、7世紀前半に全盛となり、8世紀初頭まで継続されたと推定される。

       
地図リンク
 所在地 大里郡川本町鹿島

 荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。
 現存する古墳五十六基は、小円墳がほとんどで荒川に近い古墳には埴輪を持っているものがある。
 昭和四十五年に圃場整備事業に伴い県教育委員会により二十七基の古墳が発掘調査されている。主体部は荒川系の河原石を用いた若干胴の張る横穴式石室で玄室には棺座を設けたものも見られた。天井、奥壁は緑泥片岩を使用していた。玄室と羨道の比は、二対一となり三十センチメートル(漢尺)の定尺となるものが認められている。
 出土遺物には、玉類が少なく、鉄鏃、直刀、刀子、耳環などが多く出土している。
 古墳の年代は奈良時代初期の住居跡の上に古墳が構築されているものがあり、七世紀初頭から八世紀初頭にかけてつくられたものと推定される。
 古墳の埋葬者は、在地において先進的な役割を果たした豪族であろうと思われる。
 荒川旧流域を代表する最も保存の良い古墳群で、埼玉県古墳文化の地域研究の上で貴重なものである。昭和四十七年三月二十日、県の史跡として指定されている。

 平成十一年九月 埼玉県

 この古墳群は、いまから約1400年前に築かれた川本周辺の有力者の墳墓で荒川右岸段丘上に東西約1キロわたって帯状に分布している。古墳は径10m~30m程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられている。


 現在、県指定地の中には56基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された27基の古墳やすでに失われた古墳をあわせると100基を越す大古墳群であったと推定される。埴輪が立てられた古墳は少なく、7世紀を中心に8世紀初頭に至るまで次ぎから次ぎに築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられている。  この古墳群は7世紀から8世紀にかけて・・というのが定説だったけれど、最近では6世紀中頃にさかのぼるとされた。2000(平成12)年新しく古墳が発見され、30年ぶりに発掘調査が行われ、年代が6世紀中頃まで遡ることが分かったのである。
           
 鹿島古墳群は、荒川右岸の河岸段丘上に東西約一キロに渡って帯状に分布しています。古墳は径十メートル~三十メートル程の円墳で、荒川よりに密集して分布し、大水によって流された古墳も数多くあったと伝えられています。
 現在、県指定地の中には五十六基の円墳が保存され、指定地南側で発掘された二十七基の古墳やすでに失われた古墳を合わせると百基を越す大古墳群であったと推定されます。埴輪が立てられた古墳は少なく、七世紀を中心に八世紀初頭に至るまで次から次に築造された古墳時代最終末の古墳群と考えられています。
 川本町には、鹿島古墳群のほかにも箱崎古墳群・塚原古墳群島が分布し、合計二百基近い古墳が確認されています。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見され、古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたようです。
 鹿島古墳群は、この地域の歴史を代表する貴重な遺跡として、昭和四十七年に埼玉県指定史跡に指定され、現在広く活用していただくために古墳公園として整備を進めています。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会
 


       
 古墳とは今から千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓で、土を高く盛り上げて、その内部に遺骸を埋葬する場所が設けられています。
 古墳の形は、平面形から前方後円墳や円墳、方墳などと様々な形がありますが、鹿島古墳群は円墳だけで構成されています。この様に小さな円墳が密集する古墳群を特に「群集墳」と呼び、鹿島古墳群はその規模から県内を代表する群集墳です。
 鹿島古墳群では、遺骸を埋葬する施設として荒川の河原石を積み上げた長さ四メートル、幅二メートル前後の楕円形の石室が築かれています。また、出入りできる入り口が設けられ、こうした石室を横穴式石室と呼びます。この石室には遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬されました。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土しています。
 また、墳丘の表面は河原石で飾られており、築造された当時は草や木に覆われた現在のイメージとは異なった、白く輝く荘厳な姿であったようです。

     埼玉県教育委員会
     川本町教育委員会


  鹿島古墳群は、今を遡ること千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓という。ではその豪族はどのような氏族だったのだろう。今までの古墳の調査により以下のことがわかっている。

 1 この古墳群は少なくとも6世紀中頃~8世紀初頭まで一貫して同じ敷地内に建造されている。
 2 古墳の形態が変わっておらず、全て円墳なこと。大きさも径10m~30mくらいで、古墳には葺石を敷き詰めている。
 3 古墳の周りに埴輪等など立てられた形跡のあるものが極端に少なく、逆に太刀などの武器具が多く出土している。
 

 鹿島古墳群は荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び 河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。この分布は何を物語っているか。およそ約200年間という長きに渡る統治期間は、一地方豪族とは言え古墳時代から奈良時代にかけて、この地域(男衾群)の中心地として栄えていたことが推測される。また、奈良時代には周辺に古代寺院や集落遺跡が発見されていることでも、この勢力の大きさを推し量ることができるのではないだろうか。
 またこの古墳の石室の内部には、遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬された。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土している。従って、武装集団として割拠していたとも想像できるのである。

 鹿島古墳群が築造された当時の地形上の状況も考慮しなければならない。この地域は平野部と台地との境界に位置していて、北側、東側は平野部、西側、南側は台地である。北側は荒川が天然の境界線となっており、その先には田中神社や三ヶ尻八幡神社のような式内社が鎮座している。この神社の祭神はそれぞれ武御雷神、ホムタワケ神(応神天皇)だが本来の祭神は違っていたのではないか。出雲乃伊波比神社の項でもいったように元は出雲族の一族ではなかったかと考えるが詳しいところは不明だ。
 

 



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埼玉古墳群(6)

丸墓山古墳②

        
                       丸墓山古墳から見た稲荷山古墳

1 何故丸墓山古墳だけ円墳なのか②
(前回に続く)
 ①の説であるが当時の状況を考えると、二子山古墳の築造中かほぼ同時期に丸墓山古墳は造られている。「何かしらの理由により円墳として急遽作り直した」というのであれば当然その影響は二子山古墳にも及ぼしていただろう。優先順位で二子山古墳の完成後、丸墓山古墳の企画を変更した、とも考えられるが、それでも丸墓山古墳を築造した際に使用した墳丘土量は二子山古墳のそれよりはるかに凌駕したらしいし、この古墳には埼玉古墳群唯一といわれる葺石を全面に使用したともいわれ、ある意味特別扱いの感がある。
 故に丸墓山古墳は企画、設計、築造の段階において何一つ支障もなく計画的に「円墳」として築造された、と推測される。

 ②の説に対して、検証するために参考となる資料がある。それは稲荷山古墳の鉄剣、いわゆる金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)の銘文とその出土状況にヒントが隠されていた。                  

(表)


辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

(裏)


其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

書かれている文字を通常の説で解釈すると、

 「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」


 ここに刻まれた文字の解釈には今回は
あえて触れない。問題なのは稲荷山古墳の主に対して乎獲居臣(おわけのおみ)という臣下が稲荷山古墳後円部にある副室である第1主体(礫槨)から発見された、という埋葬状況についてである。但し断っておくが乎獲居臣の人骨が発見されたわけではない。あくまで乎獲居臣と刻まれた鉄剣が多くの出土品(画文帯神獣鏡1面、勾玉(まがたま)1箇、銀環2箇、金銅製帯金具1条分、鉄剣1口、鉄刀5口、鉄矛2口、挂甲小札(けいこうこざね)一括、馬具類一括、鉄鏃一括等)と共に発見された、ということなので、正確に言うと「第1主体である礫槨から盗難逃れた出土品の中に金錯銘鉄剣があり、その剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表され、裏面の一節に乎獲居臣と刻まれた文字があり、文体の内容からこの礫槨の埋葬者はこの乎獲居臣らしい」ということになる。

 この乎獲居臣は決して大王ではない。杖刀人の首であり自ら左治天下したということから従来の説でもいっているが親衛隊長でもあり、宰相の位だったかもしれない。この稲荷山古墳で発見された金錯銘鉄剣では大王は「(獲)加多支鹵大王」と言う名前でちゃんと明記されている。この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあるため、未発掘ながら中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられているようだ。つまり稲荷山古墳には大王である「主郭」が後円部中央に存在し、その大王を守るように「副室」があり、「主人」である「王」のすぐ側に「埋葬」されている、ということは非常に希なことであり、「臣下」として「栄誉」の「極致」であったと考えられ、それにふさわしい事績が「主郭」の人物とのあいだにあったことを示すものではないかと考える。そのことは「鉄剣」に書かれた内容についても「主郭」の人物との関係において考えるべきものであると思われる。

 つまり、大王につながる縁者であったとし、仮に大王以上の権力を有していたとしても丸墓山古墳を造る理由にはならない。むしろ稲荷山古墳の埋葬状況における「主郭」と「副室」のような埋葬方法が当時の妥当な常識ではなかったかと考えられる。

 ③の説のような別系統の王位継承の説に関して

 ・ 丸墓山古墳の後の愛宕山古墳、瓦塚古墳、奥の山古墳は100mを超えないが全て前方後円墳であったことから正式に王位を継承できたと考えるが、別系統の王者として記載されている。その説明が十分でないこと。
 ・ 二子山古墳と鉄砲山古墳がそれぞれ100mを超える古墳で王位継承権がありそれ以下の古墳には継承権がない根拠は何であろうか。また鉄砲山古墳の後の古墳はみな100m未満の古墳だがどのような扱いとなるか。
 ・ 前方後円墳のみ王位継承権がある理由、そして説明が十分でないこと。

 これら疑問を感じてしまう点が多々存在することから、それらを解決する文献なり状況敵証拠が欲しいところだ。

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埼玉古墳群(5)

丸墓山古墳①
 埼玉古墳群において一際目立ちシンボル的な存在である丸墓山古墳は6世紀前半に造られた日本最大の円墳(主軸長 105m、高さ 18.9m)である。周掘をいれた直径は180mにも及ぶ。墳丘土量および高さにおいて、同じ古墳群に属する武蔵国最大の古墳二子山古墳よりも多いという試算もあり、円墳としては我が国最大の規模を誇っているという利根川の対岸、群馬県太田市にある古墳時代中期から後期(5世紀中頃から末期)、稲荷山古墳にやや先立って造られたと推定される、関東地方最大の前方後円墳である大田天神山古墳(国指定史跡)は、全長約210m、前方部幅約126m、長さ約90m、高さ約12m、後円部直径約120m、高さ約16.8mであり、丸墓山古墳は径に於いて大田天神山古墳の後円部に及ばないが、高さに於いて遙かに凌ぐ。また仮に丸墓山古墳が円墳ではなく、前方後円墳だとしたら、主軸長が200mを超える大古墳となるそうだ。

            

 丸墓山古墳は遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが周掘を検出した際に、葺石に使用された河原石と、復元すると直径が55cmにもなる、大型の円筒埴輪の破片、朝顔形埴輪片、形象埴輪、土師器、須恵器などが出土したそうだ。
 また古墳自体は高さ20m以下の小高い丘だが、斜面の平均斜度は28度。かなりの急傾斜であり登り口からの登頂は結構きつい。遠方からの観察から中段平坦面、上段平坦面の名残りが見てとれ、古代エジプト初期の階段ピラミッドと同じ三段のテラス状の古墳であることは目視による確認でも良くわかる。

丸墓山古墳

形状:円墳 直径:102m 高さ:18.9m
 
丸墓山古墳は、わが国最大の円墳といわれています。墳丘と堀の一部が復元されていますが、元の形をよく残しています。
 遺骸を納めた埋葬施設はわかっていませんが、今までの調査によって、墳丘の表面をおおっていた石(葺石)、円筒埴輪や人物埴輪が発見されています。
 これらの出土品から、丸墓山古墳がつくられたのは、6世紀の前半と考えられます。
 天正18年(1590年)に、石田三成が、この古墳の南北に堤(石田堤)を築き、忍城を水攻めにしました。古墳から南にまっすぐのびている道路は、この堤のなごりです。
                                                                               現地案内板より引用

 さてこの丸墓山古墳について現在まで解明されていないいくつかの謎が存在する。

1 この日本最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、実はだれもわかっていないのである。

2 今までの発掘調査で出土した埴輪の分析や榛名山二ッ岳の火山灰のの堆積状況等において埼玉古墳群の9基の古墳の中では次の順序で作られたと想定できるという。

 稲荷山古墳(5世紀後半) → 二子山古墳(5世紀末) → 
丸墓山古墳(6世紀初頭)→ 愛宕山古墳(6世紀前半) → 瓦塚古墳(6世紀前半~中頃) → 奥の山古墳(6世紀中頃)) → 鉄砲山古墳(6世紀後半) → 将軍山古墳(6世紀後半) → 中の山古墳(7世紀前半)

 しかも二子山古墳とほとんど同時期に丸墓山古墳は築造されているという。これは一体何を意味しているのだろうか。

3 埼玉古墳群の中で、これほどの大きさを誇る丸墓山古墳は実は中心部に位置していない。埼玉古墳最初の稲荷山古墳同様北側に位置していて、中心に位置している二子山古墳を守護しているように見える。稲荷山古墳とともにこの扱われ方は非常に異常だ。 

 以下の点について考えてみたいと思う。


1 何故丸墓山古墳だけ円墳なのか①

この埼玉古墳群は9基の大型古墳が存在しているが、現存する他の古墳がすべて「前方後円墳」であるのに対し、この丸墓山古墳だけ「円墳」なのである。これだけ巨大な古墳を造れたにもかかわらず、なぜ前方後円墳としなかったのかが謎とされている。この謎に対していくつかの説があるのでここに紹介し検証したい。

① 元々は「前方後円墳」として築造されたものだが、何かしらの理由により造ることができなくなりやむを得ず「円墳」にした。
② 丸墓山古墳は稲荷山古墳の後、二子山古墳とほぼ同時期に造られた、と言われている。つまり二子山古墳の埋葬者と親密な関係にある実力者のために造られたもの、という説。(例えば妻、叔父等)
③ 100mを超える前方後円墳の築造推移は稲荷山古墳(5世紀後半)→二子山古墳(5世紀末、6世紀初頭)→鉄砲山古墳(6世紀後半)だが、この二子山古墳と鉄砲山古墳の間にはかなりの時間差がある。 そこで一族の中で宗主権が別系統に一時移った可能性が想定されている。ただしこの族長は前方後円墳を造ることが正式に認められていなかったので円墳にした、という説。この説に従えば鉄砲山古墳の埋葬者の前代に造られた愛宕山古墳(6世紀前半)、瓦塚古墳
(6世紀前半~中頃)、そして 奥の山古墳(6世紀中頃)も別系統に属する、という。

(続く)

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虚空蔵山古墳

所在地    埼玉県行田市小見104
区  分    埼玉県選定重要遺跡
埋葬者    不明
築造年代   6世紀後半(推定)


地図リンク
 小見真観寺古墳から県道を挟んで北側に虚空蔵山古墳がある。
 墳長50mほどの前方後円墳だったと見られているが、ほとんど削平されてしまい、現在は前方部の一部分のみが残っている。近年、後円部と周溝の一部が確認され、 周溝内から笑い顔の女性の埴輪・馬形埴輪・ 太刀形埴輪の破片が発掘された。

 

虚空蔵山古墳

 虚空蔵山古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で小見真観寺古墳の北西に隣接して位置しています。
 残念ながら現在は前方部の墳丘の一部が残るのみですが、平成20年の発掘調査で、後円部と周溝の一部が県道の東側で確認され、推定墳長約60mの前方後円墳であったことが明らかになりました。周溝内からは大きな乳房を持つ笑い顔の女性の人物埴輪、馬形埴輪、太刀形埴輪、円筒埴輪などの破片が出土しています。
 埴輪の形態から小見真観寺古墳に先行して6世紀後半に築かれた古墳であると思われます。
 なお、現存する墳丘は東西26m、南北19m、高さ約3m、墳頂には名前の由来となった虚空蔵菩薩がまつられています。
                                          行田市教育委員会掲示より引用

 尚、この古墳の埋葬主体部は、巨大な緑泥片岩の板石を使用した横穴式石室があったとされ、現在真観寺境内の樹木の下付近にある。

                      
 虚空蔵山古墳は小見真観寺古墳とほぼ隣接して築造されている。前出した真名板高山古墳は小見真観寺古墳と同じ東西に主軸をもつ古墳で、築造年代がほぼ同じ。この6世紀後半は埼玉古墳は鉄砲山古墳(全長109m)、真名板古墳(全長127m)、小見真観寺古墳(やや遅れて7世紀初頭、112m)とこの狭い行田地域は大型古墳の建設ラッシュ時期でもあった。虚空蔵山古墳は小見真観寺古墳より埴輪の形態から小見真観寺古墳に先行して6世紀後半に築かれた古墳であると思われることから親子の関係があったのかもしれない。少なくとも、状況的にこれらの古墳を築造した埋葬者たちは埼玉古墳群を生で見ていただろうし、そして意識して意図的に古墳を造った、と考えていいと思う。ただしその埋葬者が埼玉古墳群の埋葬者たちとどのような関係にあったかは残念ながら推測のみで不明である。

    

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小見真観寺古墳

 小見真観寺古墳は真観寺境内にある全長102m、高さ8mの前方後円墳で、後円部と鞍部の2ヵ所に横穴式石室があります。
 後円部の南側にある横穴式の複室の石室は、寛永11年(1634)に発見され、秩父産の緑泥片岩による石室で巨大な石材を用いた精巧なものです。前室は奥行2.7m、幅2.2m、高さ2.1m、玄室は2.4m、幅2.2m、高さ2.1mで両室の間仕切りは、緑泥片岩の一枚石に四角い窓を開けています。鞍部にある石室は、明治13年に発掘され金環、鉄製刀子(とうす)、金銅装頭椎太刀(かぶつちのたち)、銅鋺(どうわん)などが発見されました。出土品は、東京国立博物館に所蔵されています。
 最近の発掘調査で周溝が確認され、その底付近から埴輪の破片が多く発掘されました。また、出土遺物などから6世紀末から7世紀初め頃に築かれた市内最後の前方後円墳でなはいかと推測されます。
                                              行田市ホームページより引用

所在地    埼玉県行田市小見1125
区  分    国指定文化財
埋葬者    不明
築造年代   7世紀初頃


地図リンク
 小見真観寺古墳は、国道125号バイパスを羽生市方面に進み、小見(南)交差点を左折し1、2分で右側に真観寺があり、その本堂の裏山のような形で現存する全長112mの前方後円墳で埼玉古墳群の中の最後の古墳である中ノ山古墳が築かれた時期とほぼ同時期に、7世紀初頭から中頃に造られた古墳と考えられている。埼玉古墳群から北西約4㎞位の距離がある。墳丘長は112メートルであり、埼玉県第4位の規模を有する前方後円墳で、俗に「観音嶽」と称する。この古墳の主軸は西北西に向かい、封土の左側および前後の頂部はともに削平を受けているが右側の遺存状況は良好である。後円部の径は55メートル、高さ7.8メートル、前方部の幅は48メートル、高さは7メートルである。
 名前の由来は真言宗智山派慈雲山・真観寺の寺域にあるのでこの名称となったという。
 
               小見真観寺の山門
 
 山門をこえると本堂がありその奥に古墳がある。撮影日は4月上旬で桜が大変美しい。
 
 山門をくぐって真観寺の境内に入ると、本堂の裏に樹木で覆われた小山が見える。それが、この地方では最大の真観寺古墳である。ちなみにこの地方には小見古墳群と言って古墳が数基あり、その中心がこの古墳である。本堂を右側に移動していくと本堂と墓地の間に古墳の碑が建っていて、古墳のくびれ部から墳頂に登ることができる。
 
小見真観寺古墳

 この古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で、星川の右岸の低台地上に立地している。
現存の墳丘の大きさは、全長112mである。埋葬施設は後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚石を組み合わせた二ヶ所の横穴式石室がある。後円部の石室は寛永11年(1643)に発見され、前・後室よりなっている。
 鞍部の石室は、後室のみが現存するが、前室については明らかではない。この石室は明治13年に発掘調査され、衡角付冑、桂甲小札、鉄鏃、金環、頭稚太刀、圭頭太刀、刀子、蓋付有脚銅鋺等の副葬品が出土している。出土品は、東京国立博物館に収蔵・展示されている。
 これらの副葬品から、この古墳は七世紀前半に築造されたと考えられるが、鞍部石室はやや遅れて造られた可能性がある。
 前方後円墳としては最も新しいものであり、埼玉古墳群に後続する首長墓として重要である。
                                                                                                  

                               埼玉県教育委員会・行田市教育委員会掲示より引用


 この小見真観寺古墳の最大の特徴は埋葬施設は後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚岩を組み合わせた二ヶ所の横穴式石室があるということだ。

  • 後円部の石室は1634年に発見され、前室・後室の構造で7世紀の初めの築造とされて、前室と後室に分かれている。
    • 前室 : 全長5.42m・幅2.24m・高さ2.03m
    • 後室 : 全長2.62m・幅2.33m・高さ2.02m

 

  • 鞍部の石室は、後室のみが現存するが、前室については明らかではない。
    • 後室 : 全長2.8m・幅1.76m・高さ1.12m
    1888年(明治13年)、発掘調査がなされ、甲冑、刀剣銅鋺、土器などの出土品は東京国立博物館に収蔵・展示されている。副葬品の編年から、鞍部石室の築造はやや遅れて7世紀の中頃の可能性がある。

 
                        後円部の石室                                                      石室内部
 
             鞍部の石室                                                       石室内部 

  前方後円墳としては新しい時期のものであり、埼玉古墳群に匹敵する首長墓と考えられている。また埼玉古墳群から次の勢力への移り変りを探る上で、真観寺古墳は重要な古墳である。1934年(昭和6年)3月30日、国の史跡に指定された。  
 
 最後にこの真観寺古墳がある地名が最近筆者の中で非常に気になっているテーマでもある。「小見」=「おみ」。この地名を見て何か気づかないだろうか。

 


           

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