古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

多和目天神社

 徳川家旗本である稲生家は、三河国譜代の旗本であり、「稲生家系譜(稲生家文書)」によれば、藤原鎌足の末流で、その14代後尾張國住人平賀十郎俊親の5代後平賀次郎左衛門光定のとき、尾張國春井郡山田莊稲生村に住し姓を「稲生」と改名し、その5代後稲生七郎右衛門光房のとき、三河国に移り、その子光実は家康の父松平広忠に仕えた。その後正吉・吉重・光正・正信・正倫と代を重ねるが、正倫以降のほとんどの当主は「七郎右衛門」を名乗っている
 光正のとき、武蔵国高麗郡(のち入間郡)多和目・和田善能寺・同国足立郡円笠木・堀崎計五ヶ村五〇〇石を知行し、その後替地や加増が行なわれ、正倫の子である正盛以降は一五〇〇石を知行している
 同時に江戸城勤番として重要な役職にもついて、正盛から6代目の正興は日光奉行・大目付等歴任しているように、地味ながらも旗本として徳川家の土台を支えている一族といえよう。
        
                          ・所在地 埼玉県坂戸市多和目384
                          ・ご祭神 菅原道真公
                          ・社 格 旧村社
                          ・例祭等 例大祭(多和目天神社の獅子舞)1017
 坂戸市多和目地域は市南西端部に位置し、すぐ南側は日高市が、そして西側から北側にかけては毛呂山町が多和目地域に覆い被さるような形で接している。途中までの経路は厚川大家神社を参照。厚川大家神社は「一本松」交差点の5差路を右折するが、そのまま埼玉県道74号日高河越線を直進。東武越生線「西大家」駅近くの踏切を越えてから700m先の変電所が見えるY字路を右方向に進む。そこから南西方向に進路をとり、「多和目」交差点を直進してすぐ先にある路地を右折して暫く進むと、進行方向右手に多和目天神社の鳥居が見えてくる。
 社の東側には「多和目普御世会館」が隣接してあり、そこの入り口付近の駐車スペースに車を停めてから参拝を行う。
        
                                   
多和目天神社正面
 多和目天神社が鎮まるこの地域は、高麗川がS字蛇行しながら南西から北東へ流れるその両岸に位置していて、高麗川の左岸は河川敷や河岸段丘が広がる低地面で標高50m程であるのに対して右岸は平均標高55mと左岸に対してやや高めであり、社が鎮座している場所は、その右岸である。
 因みに多和目という地名は[たわむ]に由来するそうで、この付近では高麗川は頻繁に蛇行(撓み)を繰り返して流れている。「多波目」「田波目」とも記される。
 後日編集時点で気づいたことだが、この地域は日高市との境となっていて、地域名は田波目(たばめ)である。隣接する地域名に「上」「下」と表記することはあるが、ほぼ同じ名前の地域が、違う行政区域となっているのは、少々紛らわしい。
*坂戸市多和目地域…「新編武蔵風土記稿」では入間郡に所属。
 日高市田波目地域…「新編武蔵風土記稿」では「上多波目村」として高麗郡に所属。
        
                ひっそりと静まり返った境内
『日本歴史地名大系』 「多和目村」の解説
 [現在地名]坂戸市多和目・西坂戸一―五丁目・けやき台、日高市田波目
 四日市場(よつかいちば)村の西にあり、南は高麗郡上田波目(うわたばめ)村・平沢村(現日高市)、北は下河原村(現毛呂山町)。高麗川が蛇行しながら南西から北東へ流れる。
 村名は多波目・田波目とも記される。小田原衆所領役帳には半役被仰付衆左衛門佐殿の所領として、河越三三郷の「多波目葛貫」一四六貫六三六文がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。元和三年(一六一七)五月二六日稲生次郎左衛門(正信)は「高麗郡日西之内多和目」など三ヵ村計三五五石余を宛行われた(「徳川秀忠朱印状」稲生家文書)。以後旗本稲生氏は当村内に陣屋(現天神社社地)を構えて当村・和田村・善能寺(ぜんのうじ)村などを幕末まで領し、大目付・日光奉行・長崎奉行など幕府の重職についている。稲生正信の住んだ正信(しようしん)庵が城山の中腹に現存する。田園簿には下田波目村とみえ田一七三石余・畑一八七石余、旗本稲生領(一八〇石余)・同河村領(一八〇石余)の二給で、ほかに恵眼寺(現永源寺)領一〇石があった。
        
                     拝 殿
 多和目天神社は、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)から明治維新まで当地の領主だった稲生次郎左衛門光正が、氏神と崇敬する天神を当地に勧請したという。稲生家は当初当地近辺及び西方に陣屋を構えていたとされ、後年江戸屋敷へ移り、陣屋跡に祀られていた当社がいつしか村の鎮守として祀られるようになったものと思われる。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治41年字平の白山神社、字岩口後の熊野神社、同境内社稲荷神社・愛宕神社を合祀している。

『新編武蔵風土記稿 田波目村』には、稲生家に関連した記載を載せている。
 田波目村 天神社
 地頭稲生が陣屋跡にあり、其處の鎮守西福寺持(中略)
 稲生某陣屋跡
 村の東にあり、八段許の地なり、四方にかた許のまがきをなし、門をも南向に立り、されど近傍にある天神社のあたりも、陣屋跡なりと傳れば、このまがきは纔に古の様を殘せしものなるべし、按に村名の條に載しごとく、先祖次郎右衛門光正御入國の時、武州にて五百石を賜りし由、家譜に載たれば、そのかみ居宅を爰に構へ、後江戸に移りしものなるか、

 
     拝殿正面に掲げてある扁額              本 殿
        
        拝殿前に設置されている「多和目天神社の獅子舞」の案内板
「多和目天神社の獅子舞」 坂戸市指定無形民俗文化財
 江戸時代、多和目の領主だった稲生家によって、天神社に奉納されたのが始まりと言われています。毎年、秋の天神社のお祭りに、村人の安全を護り、豊年を祝う獅子舞が演じられます。
 獅子舞は、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 江戸時代の天保の頃(一八三〇年~一八四三年)、高萩村女影(現在の日高市)から伝えられたと言われ、多和目の領主稲生家より天神社へ奉納されたのが始まりとされています。昭和五七年(一九八二年)太鼓の張替えを行った時、胴の内側に「天保四年(一八三三)年江戸浅草」と記されているのを発見しました。言い伝えによる獅子舞の開始時期は大きく間違っていないようです。
 獅子舞を舞うのは小・中学生から高校生と氏子の有志で、演者は天狗、大獅子、中獅子、女獅子、軍配を振って舞いを盛り上げる大狂(へいおい)、花笠をかぶりささらを擦るささらっ子、舞の合図をするほら貝などから構成され、笛方と唄い方が演奏をします。演目は「すり違え」の唄、「シバ掛り」の唄、「竿掛り」の唄の三曲です。
 獅子舞の当日、獅子の宮参りは天下泰平、五穀豊穣、氏子の繁栄、お祭りの成功を願って、舞いながら社殿を三周します。その後、獅子舞行列を組んで西郷へ向かい、火の見広場で一番の「すり違え」を舞います。再び天神社にもどって、獅子舞を奉納します。
 秋も深まる十月に、多和目の里に流れる笛やささらの音に合わせて、三頭の獅子が太鼓を打ち鳴 らして踊る姿は、勇壮の中に優美な趣をたたえています。
                                      案内板より引用
 
 本殿の奥には「天然記念物 多和目の大杉跡」の石碑がある(写真左)。県天然記念物で、幹周9m、樹高35m、樹齢は石碑を奉納した昭和56年時点で1032年とあり、碑文によれば、途中で2幹に岐いるところから「夫婦杉」と呼ばれていた。しかし昭和34年に発生した伊勢湾台風の為先端10m程が折られ、その後、年月が経過すると共に樹勢が弱まってしまう。そこで氏子総会による決議を経て、県神社本庁に天然記念物指定の解除、並びに伐採の許可を承認され、ここに多和目地域での一つの象徴であった大杉は終焉を迎えたという。
 現在ある2本の杉は埼玉県林業試験場の協力を得て、その大杉の二世を植樹したという(同右)。
 
  境内に祀られている境内社。詳細不明。     同じく境内にある神興庫だろうか。

 社殿の右側には境内社・稲荷社が祀られており、その奥にはご神木であるカゴノキ(鹿の子木)が聳え立っている。かごの木はクスノキ科の樹木で、南方には結構な大きさのものも存在するが、北関東でこれまでの大きさに育ったものは希有な例との事。各地で呼び名も特徴があり、こがのきと呼ばれたり、この木のように鹿に見立てて「鹿子木」と呼ばれる例もあるようだ。
        
             社殿右側に祀られている境内社・稲荷社。
        
        稲荷社の隣に設置されている「カゴノキ(鹿の子木)」の案内板
 坂戸市指定天然記念物 カゴノキ(鹿の子木)
 この樹木は、正式名称が判明するまで「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていました。
 昭和五十九年に埼玉大学の永野教授の鑑定により、学名をクスノキ科に属する「カゴノキ」で、名勝は「鹿の子木」と判明しました。
 この樹木は暖地性の常緑喬木で、沖縄・九州・四国を中心に分布している樹木で、関東以北ではほとんど生育していない、植生上も貴重な樹木であることがわかりました。
 樹木の名称の由来は、淡褐色を帯びた樹皮が円形に点々と剥落し、この部分に次々と白い木肌が現れます。この様子が、鹿の子の斑点と同じように見えることから、この名称がつけられたと考えられます。
 樹木の規模は、樹高十五メートルを測り、樹齢千年といわれていますが。樹木医の診断では、八〇〇年程とされています。
                                      案内板より引用
 

        
                カゴノキ(鹿の子木)遠景

 樹齢800年とは思えないぐらいの樹勢は良好で、ともかく小鹿の毛並みのような珍しい斑点模様の木肌が特徴的である。樹容は社殿奥に嘗て聳え立っていた大杉と同じく双幹であり、紙垂も巻かれているところをみるとご神木として祀られているのであろう。
 嘗てこの社には
カゴノキは勿論のこと、社殿奥の大杉も存在していて、その並び立つ姿は如何ばかりだっただったろう。今大杉は伐採されてこの地にはないが、同じ場所にその子供である若木がすくすく成長している。そしてカゴノキは傍にいて、その成長を親代わりに見守っているようにも見える。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
 

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北浅羽八幡神社

 武蔵七党の一派で最大派閥といわれた「児玉党」は、藤原姓で武蔵国から興り、丈部氏後裔・有道氏族で、藤原鎌足十四代の孫遠岩を遠祖とし、武蔵国児玉郡を領知して在名をとって児玉氏を称したという。その児玉党の本宗家2代目で、児玉・入西(にっさい)の両郡を領有した児玉弘行は、入西郡小代郷に進出してきたが、その子、資行(すけゆき)は入西三郎大夫と称し小代郷地頭職を賜り分家、入間郡入西原はその住地であるという。
 浅羽(アサバ)氏は児玉党の出身で入西三郎大夫資行の長子浅羽小大夫行業を祖とする。行業の弟に次郎大夫遠広(小代氏の祖)、新大夫有行(越生氏の祖)がいて坂東武者として活躍している。さらに三郎行親(浅羽氏)、四郎盛行(小見野氏の祖)、五郎行直(粟生田氏の祖)の3人の子があり、みな在地の地名を名字にしている。
 このように、浅羽氏は北浅羽付近を本拠地にして、一族は北浅羽周辺や越辺川流域・越生あたりの入間郡北西部一帯(入西地域)に勢力を持った豪族であった。
 北浅羽八幡神社は浅羽小大夫行業が当地を所領として与えられた際に、鎮めとして鶴岡八幡宮の勧請を許され、この地に祀ったという。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市北浅羽262
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 大祭(秋祭り) 十月十七日
 北坂戸駅西口から駅前通りを西行し、高麗川に架かる「北坂戸橋」を渡り、関越自動車道を潜った先の越辺川右岸に沿った道路を道なりに2㎞程進む。周囲は長閑な田畑風景が一面に広がる中、進行方向右手前方に北浅羽八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
            道路から離れた場所に社号標柱は立っている。
        
                       
北浅羽八幡神社正面の社叢林遠景
『日本歴史地名大系』「浅羽郷」の解説
 浅羽・北浅羽を遺称地とし、高麗川流域に比定される。「和名抄」所載の入間郡麻羽(あさは)郷の系譜を引く中世郷で、児玉党浅羽氏の本領とされる。児玉党系図(諸家系図纂)には入西三郎大夫資行の子行業は浅羽小太夫と注記されている。浅羽氏は鎌倉幕府御家人となり、「吾妻鏡」には文治三年(一一八七)八月一五日の鎌倉鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬で行業の孫小三郎行光が的立を勤め、同五年の奥州合戦には行光の兄五郎行長が出陣しているなど(同年七月一九日条)、浅羽氏の活動が記される。永源寺にある元弘三年(一三三三)五月二二日銘の板碑は鎌倉幕府滅亡の際、北条氏に従って死んだ浅羽氏の供養塔といわれる。文和元年(一三五二)閏二月新田義宗・脇屋義助らが上野から武蔵へ攻め上った際、浅羽氏も新田軍に馳参じた(「太平記」巻三一新田起義兵事)
        
                               
北浅羽八幡神社正面
        
                                   参道の様子
 参拝前の社叢林の様子からかなりの規模の社とは想像できたが、鳥居を過ぎて境内に入ると、参道の回りには豊かな杉林等が生い茂り、創建時期の古さと由緒の確かさも相まって、貫禄ある風情を匂わせるものがある。
 
              参道に聳え立つご神木(写真左・右)
        
           境内に設置されている「北浅羽の獅子舞」の案内板
 北浅羽の獅子舞 坂戸市指定無形民俗文化財
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 北浅羽の獅子舞は、江戸時代に始まったと伝えられ、八幡神社のお祭りに演じられます。
 獅子は悪霊払いの霊獣として崇められ、遠い土地から来る力の強い神のかたちを現します。 古来祭りの主役として、獅子舞が全国各地で行われてきました。北浅羽の獅子舞は、江戸時代の天保年間(一八三〇年~一八四三年)に、西戸村(現在の毛呂山町)から伝承されたと言われています。
 演目は「雌獅子かくし」と「竿がかり」があり、演者の構成は、天狗・花笠・雌獅子・みの獅子・ほうがん(雄獅子)・弊負・笛吹き・ほら貝です。「ほうがん」と「みの獅子」の呼び名は、市内の他の獅子舞にはないものです。天狗はもともと入り婿が務める役で、笛吹き・ほら貝は成人が務め、他は地元の小・中学生が演じます。
 獅子舞の奉納は、八幡神社の大祭(秋祭り)の十月十七日と決められていましたが、最近は第三日曜日に行われるようになりました。前日に、近くの万福寺に勢ぞろいして準備を行い、身支度を整えます。その後、八幡神社まで練り歩き、獅子舞を日没まで続けます。大祭の当日も万福寺で身支度を整え、一度「雌獅子かくし」を舞ってから八幡神社に向かいます。
 大しめ縄を先頭に、万灯、天狗、花笠、笛吹き、弊負、雌獅子、みの獅子、ほうがん、氏子の順に行列して神社まで練り歩きます。神社では社前に礼拝して、天下泰平と五穀成就に感謝して、勇壮な獅子舞が奉納されます。
 平成十九年三月 坂市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 北淺羽村 八幡社
 村の鎮守なり、中央は八幡左右に天照大神・津島天王・鹿嶋明神・天神の四座を相殿とす、満福寺の持なり、當社の縁起はかの寺の記にのせたり、下に出す,
 神楽堂 末社甲良明神社
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

 浅羽氏は武蔵七党のひとつ児玉党武士団の一員で、小大夫行成(行業とも書く)の時に「浅羽氏」を名乗っている。行成の弟に次郎大夫遠広(小代氏の祖)、新大夫有行(越生氏の祖)がいる。さらに三郎行親(浅羽氏)、四郎盛行(小見野氏)、五郎行直(粟生田氏)の三人の子がいて、みな在地の地名を名字にしている。
 このように、浅羽氏は北浅羽付近を本拠地にして、一族は北浅羽周辺や越辺川流域・越生あたりの入間郡北西部一帯に(入西地域)に勢力をもった豪族であった。
        
                                     本 殿
  すぐ北側には越辺川が東西に流れているためか、基壇には高い石垣が築かれている。

 八幡神社から350m程西側に浅羽氏一族の菩提寺である「福寺」がある。福寺」は、源頼朝に仕えて当地を領有した淺羽小大夫行成の三男五郎兵衛行長が当寺を創建、浅羽氏一族の菩提寺として栄え、建武年間(1334-1336)には足利尊氏より田地の寄進を受けている。その後永享年間(1429-1441)に淺羽下野守・同左衛門大夫等が戦死、檀越を失ったことから衰退したものの、俊誠(元和元年1615年寂)が中興開山したという。
『新編武蔵風土記稿・満福寺条』
今市村法恩寺の門徒なり、天徳山地蔵院と號す、相傳ふ當寺は當所の名家淺羽氏の菩提寺なりと、淺羽氏の事は【東鑑】等の書にも見えて、當國七黨の内の侍なり、猶上淺羽村の條見合すべし、されば古は當寺も然るべき古刹なりしならん、永禄の頃戰争の世に、上田周防守松山城を守りて落城の時、敵兵境内へ亂妨して放火せし後、一旦廢絶せしを、後に至りて俊誠と云僧再建せり、故に今此僧を中興開山とせり、寺傳に曰俊誠元和元年九月二十三日寂せり、寛文十年九月十三日淺羽三右衛門と云者の記せしものに當寺正八幡建立の来由を尋ぬるに、昔内大臣伊周公左遷の時末子一人京都に留められしが、有道氏の養子となりて、關東へ下向す、是を有道貫主遠峯と號す、其子を武蔵守惟行と云延久元年七月七日卒す、其庶流淺羽小大夫行成と云もの、右大将賴朝の時功ありて、兩淺羽・長岡・小見野・粟生田等の地を賜はる、又賴朝の命によりて、鶴岡正八幡を淺羽庄へ遷せり、是今の八幡社なり、其三男五郎兵衛行長は、賴朝の供奉して奥州へ下り戰功ありしものなり、此人當寺を再建す、當寺昔は眞言律宗なり、後改て眞言宗となる、其後建武年中尊氏田地寄附の條あり、其文に曰く、
自元弘到建武戰死亡卒之幽靈數萬也、不弔者不可有因、茲淺羽之庄之中水田十町、畠田十町、永代寄進之、香花灯明誦經等、聊懈怠不可有者也、
建武三年七月十三日 源尊氏(以下略)」
 
      拝殿手前にある神楽殿           神楽殿右側に鎮座する若宮八幡社
 
    本殿左側奥に鎮座する三峯神社             拝殿右手前に祀られている高良神社

 ところで児玉党の本宗家2代目児玉弘行は、「有貫主・阿久原(あくはら)牧別当」という肩書の他に、「武蔵守(かみ)」という地方にあっては最高官職についていたというが、本拠地から遠く離れた「入西(にっさい)」郡を何時領有したのであろうか。
 児玉弘行は、永保3年(1083年)9月に起きた「後三年の役」に参戦していたとされ、伝承では、源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡、清原武衡軍と戦ったとされる。後に後白河上皇の命で作成された『奥州後三年合戦絵巻』には、大将軍八幡太郎義家と共に赤烏帽子姿で座した副将軍児玉有太夫弘行朝臣の姿が描かれていたとされるが、後の武蔵武者などの謀により別人の名に書き替えられてしまったと言う伝聞が残る。
 但し一応断っておくが、これらの伝聞はあくまで「伝承」の類であり、史実だったかどうかもあやふやともいわれ、実際には「後三年の役」に児玉弘行は参戦していなかったのではないかという説もある。
        
            社の北側には越辺川の静かな風景が広がる。
 越辺川右岸の河川敷には「北浅羽桜堤公園」といわれる緑地公園となっていて、坂戸市内を流れる清流越辺川沿いに総延長1.2㎞にわたり約200本の「安行寒桜」の桜並木が植樹されているそうだ。

 児玉弘行は、永保3年(1083年)9月に起きた後三年の役に参戦していたとされ、伝承では、源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡、清原武衡軍と戦ったとされる。後に後白河上皇の命で作成された『奥州後三年合戦絵巻』には、大将軍八幡太郎義家と共に赤烏帽子姿で座した副将軍児玉有太夫弘行朝臣の姿が描かれていたとされるが、後の武蔵武者などの謀により別人の名に書き替えられてしまったと言う伝聞が残る。
 源氏と児玉(遠峰)氏は密接な関係だったようだ。伝承では、後三年の役において軍功を上げたとして、源義家から団扇を賜ったとされる。これが後に児玉党の軍旗に描かれた唐団扇の由来であり、家紋が軍配団扇紋となった由来とされる。また後三年の役後の活動としては、伝承として、源義家が弘行の領有する武蔵国児玉郡に隣接する上野国多胡郡に住む多胡四郎別当大夫高経が、義家の命に従わないので、児玉有大夫広(弘)行に討手を命じたところ、広行は弟の有三別当経行を代官としてさし向け、高経を討ち取り、その首を武蔵国足立郡にある義家の宿所に届け、椚(くぬぎ)にかけたという。
 後三年の役に義家の副将軍として参加したという記事と合せて、義家に関連した後三年の役・多胡高経征伐による論功行賞として、所領が拡大したのではないかと推測される。
『小代行平置文』によれば、奥州征伐後に弘行と弟の有三別当太夫経行(有道児玉経行)は児玉郡を屋敷として居住する様に命じられ、弘行は児玉・入西の両郡の他、久下、村岡、忍などを領有したとされている。
 同時に惟行の次男で弘行の弟である児玉経行の娘は、源義朝の嫡子・義平の乳母となり、「乳母御所」を称したと『武蔵七党系図』には記されている。児玉党が早い時期から河内源氏(清和源氏の一流)に従属していた事が分かり、中央政府と繋がりのある河内源氏を棟梁と仰ぐ事で、政治的保護を求めたものと推測でき、この事から児玉党本宗家3代目(家行)の時代には源氏との繋がりが強くなったものと見られる。
        
                   静かに佇む社

 後三年の役に関して、朝廷は戦役を義家の私戦とし、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否した。更に義家は陸奥守を解任されている。義家はこの戦いの間、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、その間の官物未納が咎められ、そのため義家は新たな官職に就くことも出来なかった。
 結果として義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出したわけだが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。当然、児玉氏は治承・寿永の乱(源平合戦)の時、源氏側に参戦しているが、児玉氏からみれば、源氏側参戦理由の一つに、義家への恩義が多分に入っていたであろうことは想像に難くない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料」「Wikipedia」等


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戸口東入西神社


        
               
・所在地 埼玉県坂戸市戸口452 龍福寺境内
               
・御祭神 不明
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 夏祭り 710日を中心とした土曜日・日曜日
 坂戸市戸口地域は東武東上線北坂戸駅の西側に位置し、東側には高麗川が、西側には高麗川支流である葛川に挟まれた南北1.4㎞程、東西750m程の縦長の地域で、両河川が形成する低地面が大部分を占める。
 なお『新編武蔵風土記稿 戸口村』には「東西三町、南北四町許、水田少くして陸田多し、元より地形低くして川に添たれば水災ありと云、」と記されていて、川の氾濫によりしばしば水害を被る地域であったことも、この地形をみれば納得できよう。
 東入西神社は、元々当地に鎮座していた天神社に、蛇口神社・塚崎六所神社・新ケ谷稲荷神社・新ケ谷三島神社・中里大宮神社などを明治4142年に合祀して東入西神社と改称したという。
 蛇口神社については、俊海が法力で解脱させた蛇を祀って創建、その末社だった八幡社も地頭嶋田庄五郎重利が寛永21年(1644)にした記載されていることから、龍福寺開山に際して祀られたと伝えられている。
        
                                   
戸口東入西神社正面
          
龍福寺境内の一角に鎮座。この社も神仏習合の名残りが色濃く残っている。
 
          参道の様子         中武蔵七十二薬師初番、武州八十八所霊場30
                            
真言宗智山派寺院・龍福寺 
 戸口村 蛇口神社
 相傳ふ昔龍福寺の前の深田に、年久しく蛇住しを、同寺の開山俊海法力を以解脱せしめ、神に祝ひて蛇口神と號すと云、神體は十二天の内の水天に似たる像なり、龍福寺の持、
 天満宮
 此社は昔小名平天神に有しを、寛永年中今の地へ移せりと云、村の鎮守なり、同寺持、
 末社 八幡社
 神體は上差の矢の根なり、長七寸許、寛永廿一年正月廿九日地頭嶋田庄五郎重利が建立せし所なり、
                                『新編武蔵風土記稿』より引用
        
    拝殿手前で左側に祀られている境内合祀社。様式から三柱が祀られているようだ。
 境内社である八坂神社において、毎年7月10日を中心とした土曜日・日曜日には夏祭りが行なわれ、坂戸市無形民俗文化財である「戸口ばやし」が披露される。この囃子の流派は江戸神田囃子大橋流旧囃子で、大正時代に始まったという。
 因みに坂戸市無形民俗文化財指定年月日は平成9527日である。
       
                     拝 殿
 東入西神社 坂戸市戸口四五二(戸口字三谷)
 当地は高麗川の左岸の低地にあることから、川の氾濫によりしばしば水害を被った。
『風土記稿』では、江戸期に当地に祀っていた神社は「蛇口神社 相伝ふ昔竜福寺の前の深田に、年久しく蛇住しを、同寺の開山俊海法力を以解脱せしめ、神に祝ひて蛇口神と号すと云、神体は十二天のうちの水天に似たる像なり、竜福寺の持」「天満宮 此社は昔小名平天神に有しを、寛永年中今の地へ移せりと云、村の鎮守なり、同寺持、末社八幡社、神体は上差の矢の根なり、長七寸許、寛永廿一年正月廿九日地頭嶋田庄五郎重利が建立せし所なり」と載せ、このうち天満宮が当社である。
 明治四一年前記の蛇口社ほか七社を合祀し、次いで同四二年に大字中里字前の大宮神社を合祀しているが、これらのうち大字塚崎字根の六所神社・大字新ケ谷字上島の稲荷神社・同字新ケ谷の三島神社の三社は、氏子が合祀を認めず、社殿が現存し、祭りも続けられている。当社は、この合祀により東入西神社と改称して、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
        
                             東入西神社 拝殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「坂戸市HP」等
                  

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小山入西神社


        
                             ・所在地 埼玉県坂戸市小山72
                             ・ご祭神 須佐之男命 稲田姫命
                             ・社 格 旧村社
                             ・例祭等 不明
 北大塚石上神社から一旦北上し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線の終点である小山三叉路から同県道に合流して西方向に進行する。同県道37号川越坂戸毛呂山線が交わる「善徳寺」交差点をそのまま直進し350m程先にある丁字路を右折する。道幅の狭い道路なので、道路状況を確認しながら300m程進むと、左手に小山入西神社の赤い鳥居と規模は小さそうだが鬱蒼とした森のような社叢林が見えてくる。
        
                  小山入西神社正面
 小山入西神社が鎮座する坂戸市小山地域は、現在の坂戸市の北西部に位置し、北を越辺川、南から東を高麗川が流れ、その合流地点西方の台地に位置する。『新編武蔵風土記稿』によると、昔は「小山村」として紹介されており、1889年(明治22年)41日町村制施行により、東和田村、新ヶ谷村、戸口村、中里村、塚崎村、堀込村、新堀村、北大塚村、北峰村、沢木村、金田村、今西村、北浅羽村、竹之内村、長岡村、小山村、善能寺村の17か村が合併し入西村が成立したことにより、小山村は消滅した。
 その後
1954年(昭和29年)71 - 坂戸町、大家村、勝呂村、三芳野村と合併し新たに坂戸町が成立、入西村は消滅し、旧村域は現在「入西地区」と称されている。
        
             かなり個性的な小山入西神社の赤い鳥居
 入西(にっさい)という地名由来として、嘗てこの地域を入間郡の西方という意味で「入西領」と称していたことによる。時には「入西之郡」「仁西之郡」と書かれている書簡も存在する。「小代文書」の系図によると、入間郡の西郷という意味であるといい、具体的には、高坂郷・浅羽郷・越生郷に属する村々の総称である
        
                     拝 殿
 入西神社 坂戸市小山七二(小山字北林)
 当社の鎮座する小山は、越辺川と高麗川の合流点西方の台地にあり、口碑によると、坂戸氏から出た平田氏が開いた地という。
 当社は本来、氷川神社であり、須佐之男命と稲田姫命を祀る社で、神仏分離まで竜光寺が別当を務めていた。また、当社は明治四一年まで社が上宮・下宮に分かれていた。現在、境内地前方に“オハヤシ山”と呼ばれる雑木林があり、古くはそこに下宮の社があったが、合祀時廃されて今は無い。
 明治二二年の町村合併により、小山以下一七ヵ村が合併し、入西村が成立した。村名は、近世当地域を入西領と呼んだことに由来する。
 明治四一年に大字長岡の氷川・愛宕・日枝社、竹之内の稲荷社、善能寺の天神・琴平社、小山の氷川・八幡・熊野社、掘込の三島・日枝・稲荷社、新堀の金山・稲荷・愛宕・日枝社、更に大正元年には北峰の稲荷社・同境内社稲荷神社が合祀され、社号を氷川神社から村名にちなみ入西神社と改め、小山・長岡・竹之内・善能寺・掘込・新堀・北峰の旧七ヵ村の村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
         本 殿             鳥居の北側にあるもう一つの鳥居
『新編武蔵風土記稿』には「社は二ヶ所建て、上宮・下宮と呼ぶ、村の産神なり」と記載されている。このもう一つの鳥居は上宮・下宮どちらかの鳥居であったのであろうか。
 
   社殿の右側に祀られている境内合祀社     社殿と境内合祀社との間にあるお社  
                           規模が大変小さく可愛い。
        
                                   社殿からの風景

 武蔵七党の一つとして数えられる児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に秩父・上野国辺り、またこの入西地域まで拠点を置いていた。
 児玉党本家2代目児玉弘行の次男である有道資行(すけゆき)は、「入間郡小代郷の地頭職を賜わって」分家し、入西三郎大夫資行と称した。
 その長男・行業(ゆきなり)は、浅羽小大夫と称し入間郡浅羽に住し、次男・次郎大夫遠弘は小代郷を相続、更に三男・有平は越生を領し、それぞれ「小代」「越生」と称し、分かれていった。また浅羽小大夫行業の長男・三郎行親は浅羽を継ぎ、次男・盛行は「小見野四郎」、三男・行直は「栗生田五郎」と称して、独立しが、「入西」姓はだれも継承する人物は出てこず、1代限りで終わる


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市図書館/鶴ヶ島デジタル郷土資料」
    「Wikipedia」等

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北大塚石上神社

 大塚村 石上社
 神體は長四尺、横一尺許の赤き石なり、相傳ふ此社地の下は、昔高麗川の流通せし所にて、此の神體は川中より出しものなりと云、かゝる石はいくばくも有べきものなるに、いかなれば殊更には祀りけん、其故を傳へず、今村の産神とす、社の建る所は登り二十間許なる丘の上なり、明學院持なり、
『新編武蔵風土記稿』より引用
 社地は高台にして、大なる古墳にかゝれり。大塚の名或は此辺に原づきしやも計られず。台下は古高麗川の流域なりしと云ふ。奇木あり。周囲一丈余。社の傍に神職木下氏ありと云ふ。
『入間郡誌 石上神社』より引用

        
              
・所在地 埼玉県坂戸市北大塚138
              
・ご祭神 不明
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春祈祷 415日 例祭 1015
 厚川大家神社から埼玉県道114号河越越生線を北西方向に進む。高麗川を渡り切った最初の十字路を右折し、高麗川河川敷沿いの道路を道なりに1.5㎞程進行する。その後「坂戸市立若宮中学校」の北東方向で、緩やかな上り斜面上の先に見える社叢林に囲まれた高台上の頂上部に北大塚石上神社は鎮座している。
        
                  北大塚石上神社正面
 北大塚石上神社は、成願寺2号墳(石上神社古墳)の頂上部に鎮座している。墳形は前方後円墳といわれているが、見た目では判別はできない。全長約50m、後円部径約10.3m。築造年代は6世紀前半~6世紀末(推定)。鴻巣市明用地域にある「明用三嶋神社古墳」と同規模の古墳で、どちらも河川に接して古墳が築造されていることから、水上交通等で利益を出した在地豪族長の墓であるかもしれない。
        
                   石製の鳥居正面
        石段好きの筆者にとって、この石段からのアングルはたまらない。
        
          石段は2段の遊びを経て、拝殿に通じる墳頂部に達する。
        
                             北大塚石上神社境内
 北大塚石上神社が鎮座している北大塚地域は、坂戸市「坂戸市都市計画マスタープラン」において地域割がされている5地区(「三芳野」「勝呂」「坂戸」「入間」「大家」)のうちの一つである入西(にっさい)地区に所属し、この地区の南部に位置する。
 入西地区は、市の西部に位置し、北は東松山市、鳩山町、西は毛呂山町に接し、越辺川が東松山市、鳩山町との境を、高麗川が地区の南縁部を流れている。また、地区の中央部は、良好な市街地が形成されつつある。 地区の区域は、新堀、堀込、小山、善能寺、竹之内、長岡、北浅羽、今西、金田、沢木、東和田、新ヶ谷、戸口、中里、塚崎、北峰、北大塚及びにっさい花みず木となり、面積は、約717.9haである。北大塚地域は、南西から北東に緩やかに蛇行しながら流れる高麗川左岸に位置し、河川で形成された平野面に農地と民家が立ち並ぶ長閑な地域である。
 ところで『新編武蔵風土記稿 大塚村』には「水田少くして陸田多し、用水には高麗川の水を引く、是は大久保村の地にて分水し、夫より村内に漑ぐ故、動もすれば足ざるを患ふ、又洪水の時は彼川漲り来る故、水旱共に患多し」と記されている。
 北大塚石上神社の南側で、高麗川堤防裾には「九頭龍神社」が祀られているが、そもそも「九頭龍神」とは水を鎮める神様であり、荒川水系には幾多の同神が祀られており、この地域は嘗て水害等の被害が多かった場所でもあったのであろう。
              
          参道左側に設置されている「石神神社の由来」の石碑
 石神神社の由来
 石上神社の起源については詳らかではないが木下宮司の家に傳わる古文書に依れば此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(一三〇二)の頃氏神塚の下の川の深い渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであると記されて居る。
 後に川の流が南に変りその跡へ広伝寺が移り来って石上明神の別当職となり栄えたが天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉小田原攻城の際その手勢によって焼き払われ「これによって三芳野天神の堂宇尽く焼失せり」云々とあり爾来堂宇の再建中々成らず長い間雨風に晒されその為氏子の雪隠に屋根を葺かない習慣となり「大塚の屋根なし雪隠」と云ふ言葉が生れる程であったと云ふ。これについて県文化財保護委員大護八郎氏は「初めは三芳野天神であり焼失後再建され勧請されたものが石上明神である事は明らかである」と指摘して居る。拜殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(一七六七)揮毫し篆刻奉納したものである。
 文化六年(一八〇六)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拜殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。
 大正十五年春屋根の葺替えを行い昭和六年柏槙の天然記念物指定により後方へ約二米程引き昭和三十五年本殿覆殿の根継ぎを行ひたるも拜殿の破損著るしく昭和五十二年遂に解体しこれを再建しようとする氏子の熱意により内外より多額の浄財の寄進を得て精緻を極めた彫刻類は悉く使用し坂戸市仲町安斉利一氏の手に依って昭和五十三年十月竣工したものである(以下略)。
                                      石碑文より引用

        
                                       拝 殿
        
                               拝殿上に掲げてある扁額 
        
                拝殿向拝部の見事な彫刻
   よく見ると木目の年輪をうまく利用して、龍の鱗や胴体部を生々しく表現させている。
 
 特に拝殿木鼻部位の龍の彫刻は年輪を生かした生き生きとした表現である(写真左・右)。
       
               境内に聳え立つ「入西のビャクシン」(埼玉県指定天然記念物)
     この大きなビャクシンの巨木の捩じれ具合は迫力があり、一見の価値はある。  
        
       「石神神社の由来」の石碑の隣にある「入西のビャクシン」の案内板
「入西のビャクシン」 埼玉県指定天然記念物
 樹高十二メートル、幹回り約三・五メートル、直径約一メートルで、幹が右回りにねじれていることから、「ねじれっ木」と呼ばれて、大切にされています。昔、徳の高いお坊様が、地面に突き立てた杖が根付いたと伝えられています。
 ビャクシンはヒノキ科ビャクシン属の常緑針葉喬木で、イブキ、イブキビャクシンなどと呼ばれています。
 昭和六年に埼玉県の天然記念物に指定され、当時の入西村の地名をとって、「入西のビャクシン」と名付けられました。
 ビャクシンは、臨済宗の寺院に多く植えられており、臨済禅宗と密接な関係にあったようです。 現に湯河原の城願寺、北鎌倉の建長寺、川口の長徳寺などに見られます。
 入西のビャクシンの近くにある成願寺は、臨済宗の僧乾峰士雲が開いたと伝わる寺です。
 乾峰士雲は、文和四年(一三五五)に鎌倉五山の建長寺・円覚寺の住職を兼ねた高僧でした。
 現在、この地は、石上神社の境内になっていますが、もとは成願寺の境内だったと考えられます。
 成願寺創建にちなんでビャクシンが植えられたとすれば、文和四年以後のことで、樹齢六五〇余年となると考えられます。
 入西のビャクシンは、天然記念物としてだけでなく、歴史の証人としても生き続けているのです。
                                      案内板より引用

 ところで、拝殿にて参拝を済ませた後に、拝殿脇にパンフレットがあり、その最終ページには「北大塚の石上さま」という伝承・伝説が載せてあった。
        
                          「北大塚の石上さま」のページ
 北大塚石上神社の創立由来は、嘉元二年に近くの渕の中から漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し、当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであるとする社伝があり、それが後代「子孫繁栄・安産や厄除け」等のご利益に変化して、伝承として物語もつくられたのではなかろうか。また当時の地域周辺の方々にもその評判は広がり、御利益にあやかろうと多くの参拝客が訪れたのであろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「石上神社HP」「境内石碑・案内板・パンフレット」等

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