古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

龍ヶ谷熊野神社

 龍穏寺(りゅうおんじ)は、埼玉県入間郡越生町にある曹洞宗の寺院。山号は長昌山(ちょうしょうさん)。9世紀から15世紀までは、近隣の霊場・黒山三滝や秩父・三峰山の影響もあり、天台宗系の修験道に属していて、この頃の名称は瑞雲山長昌寺である。
 その後1430年(永享2年)室町幕府6代将軍・足利義教が開基となり、上杉持朝が再建立。開山には無極慧徹が招かれ、曹洞宗に改められた。
 天正18年には豊臣秀吉から寺領100石の朱印状を拝領され、江戸時代初頭には徳川家康より『関三刹』に任命。3,947寺(1635年時点)の寺院を統治し、曹洞宗の宗政を司った。
 関三刹に選出された寺院は次の三寺院である。
大中寺 - 下野国(栃木県栃木市大平町西山田)
總寧寺 - 下総国(千葉県市川市国府台)
龍穏寺 - 武蔵国(埼玉県入間郡越生町)
 関三刹(かんさんさつ)とは、江戸時代に関東における曹洞宗の宗政を司った3箇所の寺院で、徳川幕府の宗教政策の一環として主に地方の農村や武士階級に影響力を持つ曹洞宗に対し、1612年(慶長17年)上記の3箇寺に関東僧録司として宗派統制の権限を与え、住職も幕府の任命制にして統制を図ったという。
 この歴史ある龍穏寺の境内で、当寺の鎮守として鎮座していたのが龍ヶ谷熊野神社である。
『新編武蔵風土記稿 龍ヶ谷村』
 熊野社 第三世泰叟の勧請する所、境内の鎭守なり、
 この龍穏寺は、江戸期に曹洞宗関東三カ寺の一つで幕府の庇護厚き格式高い寺であったため、村民の山門出入は禁じられ参拝できなかった。明治初めの神仏分離により、境内を区画して参道を設け、村内に散在していた八坂社ほか二〇社の小祠を境内に移し、村民の参拝が許されて寺の神社から村鎮守となり、明治五年に村社となったという経緯がある。
 龍ヶ谷という山中の奥深い場所にありながらも、目をみはるほどの素晴らしい寺社の社殿や彫刻は、往時の龍穏寺の隆盛を物語っている。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷453
            
・ご祭神 伊奘冉尊 速玉男尊 事解男尊
            
・社 格 旧龍穏寺鎮守、その後村鎮守・旧村社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@35.9537504,139.2459773,19.08z?hl=ja&entry=ttu
 大満八幡神社から埼玉県道61号越生長沢線を900m程南下すると、「龍穏寺」の立看板がある十字路に達するので、そこを右折する。決して道幅も広くない農道を進む中、当初は民家も点在しているのだが、そのうち民家すら見えなくなり、道の両側には深い森が広がり、当然人気もなく、また山奥に進むその間にはすれ違う車すらない。そのような農道をひたすら進む心細さも手伝いながら、ナビを信用して進むと、民家もチラホラと見え始め、その先に陽光が差し込む龍穏寺の広い駐車場が見えてくる。龍ヶ谷熊野神社はその境内の一番端に位置しているようだ。
        
                             
龍穏寺総門からのスタート
『新編武蔵風土記稿 龍ヶ谷村』
 村内龍穩寺の緣起には、高麗郡の内に屬すとあれど、古へは郡界のことも麁略にて、郡をたがへ書せしことまゝ有しなれば、こゝも其類にて、あながち古くは、高麗郡に隷すと云にはあらざるべし、村名の起りを尋ぬるに、當所の内に古へ深淵ありて、其所に年久しく龍ひそみけるを、龍穩寺第五世の僧雲岳が祈誓によりて、かの龍升天し、其迹變遷して尋常の平地となりしかば、農民等そこを新開せし地なるにより、此名起れりといへど、是も浮たる說にて其正しきことをしらず、正保の此の物には己に當村の名なし、今市村の内龍穩寺領とのみあり、されど今その地形を見るに、今市村を距ること凡二里に餘れり、然るをかく記せしことこれもまた疑べし、思ふに古へは此邊都て越生鄕の内にて、今市村はそれが中の本鄕なれば、かくは云しにや、その後元祿十五年の國圖に至りて、初て龍ヶ谷村の名をのせたれば、一村にたちしはこの間の事なるべし、されど龍ヶ谷の名は古きことゝ見ゆれば此比までは越生鄕の内に屬せし小名などにてありしにや、

 ここでは、「龍ヶ谷」という地の由来(伝承)が記されていて、現在の龍穏寺が建っている場所には、深い淵があり、そこには龍が住み、人々はこれを恐れていた。そこで、第五世住職の雲崗舜徳がこれを退治すると、淵から水があふれ平地となったという。人々はこの平地を開墾し寺を移転した。またその時、寺名を龍穏寺と改めたとの事だが、正しいかどうかは分からない、との事だ。また次には「龍ヶ谷村」に関する歴史も記されている。
 また『同風土記稿』にはこれ以外にも伝承・伝説を載せている。原文のみで紹介する。
 羅漢山
 龍穩寺門前の山を云、相傳ふ昔此地に僧五人すめり、いかなる魔心を生ぜしにや、此山に登り行を修して、終に天狗となり、折にふれて土人を〇しける、其此の住僧これを祈り、五人の羅漢と祟けるにより解を得たりと云、故に羅漢山とよぶとぞ、今は老杉數十株並び立て陰森たり、かの天狗の棲し比のならはしを守て、今に至るまで杉樹の枝を伐りとることを禁ず、たまたま暴風などに折くちけたる折口をみるに、木理の美なること他木にことなりと云、この五羅漢のこと奇異の說にて、うけがたひ難きは論なきことなれど、相州關本最乘寺の僧道了が話に似たり、この類のこと他にもあることなり、
 
 龍穏寺総門を過ぎると参道が右手に曲がる。    参道途中振り返り、総門付近を撮影。
     その先には山門が見えてくる。     参道に広がる苔むした
石畳の雰囲気が良い。

 実は、当初龍穏寺総門から参拝を始めたわけであるが、そのまま進むと山門に到達してしまう。龍穏寺と龍ヶ谷熊野神社は区画がしっかりと分かれているようだ。社はその参道の東側に隣接しているので、龍穏寺総門を過ぎて、一旦道路側に移動してから、通り過ぎるように進み、社の正面に向かった。
        
                             龍ヶ谷熊野神社正面
 社の鳥居正面から真っ直ぐ進む参道は、石畳とはなっておらず、舗装もされていない。季節は正に夏本番、手入れも怠らないであろうが、一週間も経てば、雑草等は自然に繁殖する時期でもある。ある程度は自然の法則に委ねる、その日本人が古来から持ち続けている「自然との共生」という美意識、感性が未だに残っているようで不思議な安らぎを鳥居正面に立った時に感じた。
 駐車場から出た時はあまり感じなかったが、龍穏寺総門から参道を移動する中、境内の蒸し暑さには正直驚いた。周囲を大杉や森等の草木に覆われ、路面には苔も見事に成育している。道路の対岸は流量は少ないが「龍ヶ谷川」という小川も流れていて、この環境故に、湿度の高さも植物にとっては成育を助けさせる基になっているのであろうと参拝開始時にふと思った。
 それにしても境内に優しく響き渡る小鳥のさえずりや、小川のせせらぎを聞いていると、日々慌ただしく、そして時間に追われる日常生活を一時忘れさせてくれるような神聖性を感じさせてくれる空間である。
        
     龍ヶ谷熊野神社の鳥居を過ぎて参道を進むと、山門に達するルートになる。
因みにこの山門は正面からの撮影では逆光となるので、一旦通り越して裏から撮影したものだ。

   山門手前に設置されている掲示板     山門天井部分に精巧に施されている彫刻あり
       
          山門を過ぎると左方向に社の参道が変わるが、その手前付近には観音様がある。
          観音様の足元左側には「江戸城外濠の石」が置いてある。
        
                          左方向にある参道の先にある二の鳥居
          境内全体、特に苔生した石段の風情がたまらなく良い。
        
                    拝 殿
 もともとは龍穏寺の鎮守として祀られた神社である。現在の本殿は、天保15年(1844)に永平寺管長となった道海和尚の代に、山門、経堂と一緒に建てられた。壁面の彫刻は、神山之村(現群馬県太田市)の彫り物師、岸亦八によるものである。
 拝殿自体は決して規模が大きいわけではないが、細部にわたって彫刻師の仕事が行き渡っている。
        
              拝殿の脇に設置されている案内板
 龍ヶ谷熊野神社
 当神社は龍穏寺の守護として天保十五年(一八四四)に創建された。明治維新の神仏分離令により、地元の氏子に引き継がれ現在に至る。祭神は熊野本宮大社の須佐之男命である。従って縁結びの神社でもある。
 神社の特筆は壁画の彫刻である。彫師は群馬県山神村(現大田市)の名工、岸亦八による彫刻である。厚さ十センチ程の樫木に立体感あふれ、今にも飛び出して来そうな見事な彫刻である。本殿の背面にある古事記の神話を題材にした天照大神が天の岩屋戸から出た瞬間を彫った物である。その左右にも神話が物語として見事に彫られている。その脇には龍が天から降りて来る様子が怖い程見事に表現されている。又、拝殿の天井に花鳥風月の絵が色鮮やかに描かれている。作者は酒井泡一の弟子酒井泡玉による作である。
 神社の造りは、入母屋造り屋根は銅瓦葺きで、建築様式は権現造りであり、荘厳さを現わしている。
 平成二十七年十二月吉日 
 龍ヶ谷地域活性化推進の会
                                      案内板より引用

        
        
                 拝殿正面の見事な彫刻
 
        拝殿木鼻部にも精巧で細かな彫刻で施されている(写真左・右)
        
        
                    本 殿
        
                 『越生町指定文化財(有形文化財 建築物)熊野神社社殿』 
 当社は、明応元年(一四九二)に龍穏寺三世の泰叟如康が、紀州熊野本宮大社より分霊して寺鎮守としたのが起源とされる。江戸時代は格式が高く村人の参拝は許されなかったが、神仏分離令により村鎮守となり、明治五年(一八七二)に龍ケ谷村村社となった。
 現在の社殿は、天保十五年(一八四四)、龍穏寺五十六世道海沙門による再建である。入母屋造・銅板葺きで、本殿と拝殿を「石の間」と呼ばれる幣殿が繋ぐ権現造である。
 彫刻は上州新田郡山之神村(現群馬県太田市)の名工岸亦八による。龍穏寺の山門(町指定文化財)と経蔵(県指定文化財)も同人が手掛けた。亦八以降四代が、明治期にかけて各地に作品を遺している。正面蟇股や扉、側面の龍の花頭窓、背面「天の岩戸」、縁下の象鼻等々、随所に彫技が振るわれている。
 平成二十七年三月 
 越生町教育委員会
                                      案内板より引用
 
           本殿の奥に祀られている境内社群(写真左・右)
        
               周囲の風景とマッチしている社
 これ程のレベルの社はそう多くはない。すごく気持ちの良い、雰囲気のある社参拝であった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

拍手[0回]