古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大満八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町大満107
             ・ご祭神 品陀和氣命・誉田別命(推定)
             ・社 格 旧大満村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@35.9603082,139.2619831,16z?hl=ja&entry=ttu
  *地図には表記されず。但し「大満農業集落センター」北側隣に鎮座している。
 越生神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、「三滝入口」の三つ又の交差点を左斜めに進路をとる。埼玉県道61号越生長沢線に合流後大きく左回りにカーブする県道を道なりに進むと、道路の周囲に「越生梅園」の看板が見え、進路の左側に梅園神社が見えてくる。当初の目的地は梅園神社の参拝にあったが、周辺には適当な駐車スペースもなく、そこでの参拝は断念。そこで、越生町南西部で、越辺川上流付近に鎮座する社を目指した。
 梅園神社から県道を南下すること2㎞程に、「大満農業集落センター」があり、その北側隣に綺麗な鳥居や高台に鎮座する歴史を感じる社が見える。予想もしていなかったが、これも神様の出会いの思し召しと感じ、急遽参拝を行う。大満八幡神社である。
        
              県道沿いに鎮座する大満八幡神社
『日本歴史地名大系』 「大満(だいま)村」の解説
 小杉村の南、越辺川上流域の山間村で、水田・人家は谷間に点在。大間とも書く。永禄三年(一五六〇)一二月一〇日の太田資正制札写(武州文書)に「大間」とみえ、堂山最勝寺領であった同地など六ヵ所に対し軍勢の違乱を禁止している。田園簿では田高六七石余・畑高六一石余、幕府領、ほかに紙舟役永六〇〇文を上納。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)。
        
            新緑の森に一際目立つ白を基調とした鳥居
        
            鳥居周辺に設置されている越生町文化財解説板
 越生町は平成元年に町制施行100周年を迎え、この年「越生100NOW-誇れる郷土の創造を」をテーマに、多くの記念事業が行われた。町では、誇るべき越生の魅力を再発見するために、地区ごとに越生を自慢できるものや、郷土の歴史や伝統、文化・自然など多様な観点から選定され、他に類をみない町おこし事業として「越生町再発見100ポイント」の標柱を設置したが、設置から30年以上が経過したことで木製の標柱が腐朽し、撤去されたものもあった。
 そこで、教育委員会では、平成
28年度事業として、標柱の立て替えを実施し、花崗岩による石製の標柱や、既に解説等が設置してある箇所については、ステンレスプレートにより表示がされたという。

 鳥居を過ぎると、すぐ先には石段があり(写真左)、石段を上り終えると手水舎等設置されている空間が現れる。社殿は高台に鎮座していて、そこからもう一段高い所にある為、再度石段を上る(同右)。
        
                    拝 殿
 当社に関しての詳しい資料は少ない。ただ『越生町HP』による大満八幡神社の由来では、古くは「降三世明王社」と呼ばれ、神仏習合の時代には、山岳仏教の修験道と深い関係をもっていた。今も大満地区の総鎮守として大切に信仰されているという。また昭和20年代まで獅子舞が奉納されていたそうである。
 この『降三世明王』(ごうざんぜみょうおう。降三世夜叉明王とも呼ばれる)、および勝三世明王は、日本の密教で信仰されている仏教の神格であり、五大明王の一尊で、東方に配置される。サンスクリット語の「トライロークヤビジャヤTrailokyavijaya」の意訳。貪(とん)・瞋(じん)・痴()の三毒を降伏(ごうぶく)し、不動に次いで重視されているそうだ。
 ヒンドゥー教の最高神として崇拝されていた「過去・現在・未来の三つの世界を収める神」であるシヴァ神やその妻のパールヴァティー神に対して、大日如来はヒンドゥー教世界を救うためにシヴァの改宗を求めるべく、配下の降三世明王を派遣し(或いは大日如来自らが降三世明王に変化して直接出向いたとも伝えられる)、頑強難化のシヴァとパールヴァティーを遂に力によって降伏し、仏教へと改宗させた。降三世明王の名はすなわち「三つの世界を収めたシヴァを下した明王」という意味であるともいう。
 
        拝殿の扁額             社殿右奥に祀られている境内社
                          左より八坂神社、金毘羅神社
 像容にはいろいろあるが,降三世明王は基本四面八臂の姿をしており、二本の手で印象的な「降三世印」を結び、残りの手は弓矢や矛などの武器を構える勇壮な姿であるが、何より両足で地に倒れた大自在天(シヴァ)と妻烏摩妃(パールヴァティー)を踏みつけているその造形は衝撃的でもある。
 確かに、その後シヴァ(大自在天)やその化身であるマハーカーラ(大黒天)は『明王』よりも下部である『天部』に所属しているので、降三世明王のほうが格上といえるが、まるでその土地の最高神と雖も、「仏教」の教えを広めるために、「力」でもって屈服させる、そのやり方はやや強引ともいえよう。
 但し、日本神話においても「葦原中津国平定」の段において、天照大皇神の命を受けた「建御雷神」「経津主神」武神二柱が、大国主神の子の兄・事代主神に国を譲らせ、果敢に抵抗した弟・建御名方神をも降服させる。御子神二柱が要求に応じたため、大国主神は自らの宮殿(出雲大社)建設と引き換えに、天の神に国を譲った経緯も同じともいる。
       
         境内に一際目立ち、聳え立つご神木らしき大杉(写真左・右)
『新編武蔵風土記稿 大満村』において、大満八幡神社は「降三世明王社」とも称し、地域の鎮守社でもあったが、同時にこの社は「本山修驗・西戸村山本坊」の配下にある吉祥院というお寺が別当(管理)であった。
『新編武蔵風土記稿 大満村』
降三世明王社 村の鎭守なり、吉祥院の持ち、
吉祥院 本山修驗、西戸村山本坊配下なり、
この「山本坊」とは、「関東の熊野霊場」ともいえる「越生山本坊」で、京都聖護院を本山とする「本山修験二十七先達」として、関東一円の「霞」と呼ばれる配下に影響を及ぼしていた。江戸時代における修験者は、村落に定住して加持祈祷を行い、呪術師や時には医師や祭司、あるいは手習いの師匠を務める等、村人にとっては必要不可欠な存在であったという。
        
                      緑豊かな地に鎮座する大満八幡神社
大満村地域は、越辺川上流域の山間地で、黒山地域の北東に接しており、この黒山地域には熊野神社を拠点にした山岳宗教修験道の山本坊があった。大満八幡神社がいつ「八幡神社」と改名したかは不明であるが、それまでは降三世明王社の名称として、山本坊配下の吉祥院の管理下に置かれていたのであれば、この地域も本山修験の流れを組む地であったのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「精選版 日本国語大辞典」
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」等
        

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