古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下田野赤城大神社


        
            
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町下田野9191
            
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 豊城入彦命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 例祭日 319
 皆野町下田野地域は荒川東岸に位置し、皆野町の街中からは荒川支流三沢川を境に北東方向にあり、金崎地域の東側近郊でもある。金崎神社参拝終了後、一旦国道140号線に戻り、南方向に進路を取り、荒川を越えた「親鼻橋」交差点を左折する。この通りはグーグルマップで確認すると通称「下田野通り」と呼ばれているようだ。この「下田野通り」は1㎞程の荒川に沿うようにできた道路で、親鼻橋交差点から600m程進み、高崎線の踏切を抜けると右手に「皆野スポーツ公園」が見えてくる。
 この「皆野スポーツ公園」を過ぎたすぐ先の路地を右折し、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線との交差点を直進すると、すぐ左手に下田野赤城大神社が鎮座する地に到着できる。
 因みにこの埼玉県道82号線は、荒川を挟んで国道140号の反対側を並行して進む路線であるので、国道140号渋滞時のバイパスルートとしてお勧めしたい道路である。(但し「波久礼」地域までは我慢して国道140号線を進まねばならないが)
        
           石垣のような基盤上に鎮座する下田野赤城大神社
 今でこそ下田野地域は皆野町の行政区域内になっているが、昭和18年(1943)の合併前は、秩父郡白鳥村に属しており、江戸時代に編集された『新編武蔵風土記稿』においてもこの地は「大濱郷白鳥庄」内にあった。
        
                       境内の外で、道路沿いに設置されている案内板
 皆野町指定記念物 
 平成十四年十二月二十六日指定

 赤城大神社社叢
 社叢というのは「神社の森」のことです。この赤城大神社には、大きく立派な木がたくさんあります。その樹種の大きなものをいくつか記します。
 主な樹種   目通り周  樹の高さ
 イロハモミジ 二・六二㍍ 二二・〇㍍
 イタヤカエデ 一・八〇㍍ 二〇・〇㍍
 アカシデ①  二・〇〇㍍ 二〇・〇㍍
 アカシデ②  二・二〇㍍ 二二・〇㍍
 ハルニレ   一・八〇㍍ 二五・〇㍍
 樹齢は特定できませんが、いずれにしても二六〇~七〇年の歴史を見続けてきた社木です。町内の社や寺、その外の社叢の保護、保存の先駆的な例にしたいものです。

 皆野町指定有形文化財
 平成十四年十二月二十六日指定
 赤城大神社の懸仏
 この懸仏は、もと下田野字戦場にあった天神様に祭られていました。「天神様のいちばん奥まったところに祭られ、直径六寸(約一五センチ)ばかり」と享和二年(一八〇二)の文献に記されています。すでにその天神様はありませんが、昭和六〇年(一九八五)ごろには、木製の社がありました。
 懸仏とは「丸い板に仏様や梵字などを表し、上部に二箇所、吊輪の穴がある」と辞典に書かれています。
 この懸仏には、「天神の御正体」と刻み、蓮の花の上に十一面観音の文字が刻まれ、年号は、嘉吉二年(一四四二)十二月吉日とあります。御正体とは、本尊様という意味です。懸仏は、鎌倉・室町時代のものが多く、自由に首に掛けて持ち歩いたり、柱にかけて拝んだといいます。
 皆野町教育委員会                                案内板より引
 
 石段のすぐ先に鳥居がある為、このような     鳥居を過ぎてすぐ左手にある案内板
アングルとなったが、結構好きな角度からの撮影
 赤城神社 所在地 秩父郡皆野町大字下田野
 赤城神社の祭神は、大山祇命・大己貴命・豊城入彦命である。
 由来によると、第十代崇神天皇の皇子である豊城入彦命が遊猟の際、当地に休憩した時に村の鎮守として大山祇命・大己貴命を祀ったのがその起源と伝えられている。
 その後、十二代景行天皇の皇子である日本武尊が東国鎮定の折に当神社を参拝し、その際に豊城入彦命を合祀したと伝えられている。
 当神社では、毎年三月十八日に「あんどん祭り(百八灯祭り)」が行われているが、これは永禄十二年(一五六九)武田・北条軍による。三沢谷の合戦に討死した将兵の霊をとむらうため、元亀三年(一五七二)西福御前(藤田康邦夫人)により始められたものと伝えられ、今に受け継がれているものである。
 また、神社の森には、二百数十年を経たカエデやナラ等の大木があって、これらは天然記念物(町指定)になっている。  昭和五十七年三月 埼玉県
                                      案内板より引用
        
                     境 内
            参拝日は年末の年の瀬で、静まり返っている。
 社の案内板にも記されている「下田野あんどん祭り(百八灯祭り)」は、3月第3日曜日と前日に行われる下田野赤城大神社の祭で、元々は、西福寺で始められた行事と言われる百八灯の精霊祭である。永禄十二年(1569)武田・北条軍による、三沢谷の合戦に討死した将兵の霊をとむらうため、元亀三年(1572)西福御前(藤田康邦夫人)により始められたものと伝えられ、今に受け継がれているものである。赤城大神社の参道に立つ300余のあんどんに夕暮れ一斉に灯が灯るという。

     拝殿手前左側にある神楽殿         拝殿と神楽殿の間にある建造物
 下田野赤城大神社から南方、三沢地域との境に位置する山上には、「竜ヶ谷城(りゅうがやじょう)」跡がある。北東と南西を田野沢川と三沢川に挟まれた要害の地で、山頂北側は断崖を経て、皆野スポーツ公園へ尾根が伸びている地形上の特徴を持つ。因みに竜ヶ谷城は別名「千馬城(せんばじょう)」とも言い、龍界山・要害山・千馬山とも称されている山の名称からとったものであろう。『新編武蔵風土記稿』によれば、用土重利(藤田康邦)が築城し、その子で北条氏邦の家臣になった用土正光が居城したところという。
 この城は1561年(永禄4年)に長尾景虎、1569年(永禄12年)には武田信玄に攻撃されているが、この城は落城しないで守り切ったと云われている。
       
                     拝 殿
 下田野赤城大神社境内に設置されている案内板には永禄12(1569)における武田・北条軍の間で行われた「三沢谷の合戦」があったと記されているが、調べてみるとこの「三沢谷の合戦」は記録の上では、「上杉・北条軍の間で行われた」戦いであったようだ。
 というのも、永禄3年(1559)関東へ侵攻した上杉謙信は厩橋城(現群馬県前橋市)で年を越し、翌4年には武蔵から相模を縦断、閏3月に小田原城へ迫る。謙信の侵攻を受け、北武蔵の国衆には後北条氏から離反した者もいて、その中には下田野地域を含めた藤田郷(現寄居町)を本拠とした国衆である藤田氏もいた。その後永禄4年(15606月、謙信の帰国を受け後北条氏は反攻に転じ、秩父郡にも攻勢がかけられる。年号は記されていないが、齋藤八右衛門尉という武士に発給された『北条氏康感状(1117日)』には、「南小二郎の帰路、三澤谷で戦いがあった」とあり、皆野町大字三沢で戦いがあったことになる。

   社殿の奥に鎮座する境内社・琴平神社          境内社・琴平神社 
       
                      社殿の右側奥の斜面上に鎮座する境内社・稲荷社
       
      社殿の右手に祀られている境内社・愛宕社・八幡社・天満天神社・疱瘡神

それに対して、案内板に記してあるように、信玄による秩父侵攻は永禄12年(1569)に始まり、2月には「児玉筋に武田勢の動きがあり、鉢形衆が戦った」とされている7月には三山谷(現小鹿野町)と館沢筋に武田勢が侵入し、この際に手柄をあげたとして、山口氏や齋藤氏など4名の武士に感状が発給されている。
 また8月から始まった侵攻は大規模で、「上州から侵攻した武田勢は99日に鉢形城の外曲輪で鉢形衆と激戦を繰り広げ、死傷者が多数出た」と記録されているが、この2月、7月、8月それぞれあった戦いの記録の中に「下田野字戦場で生じた鉢形衆と武田勢の戦い」という具体的な地名で記載はされてなく(書状類・また厳密にいうと何年の記載もない)、それでいて1561年(永禄4年)に上杉方と北条方で戦われた場所はしっかりと「三沢谷」であったと記されている。
 事実は如何なることであったのであろうか。
        
                   静かに佇む社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「皆野町HP」「Wikipedia
    「境内案内板」等

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金崎神社

 金崎神社獅子舞  皆野町指定文化財 無形民俗文化財
 金崎神社の祭礼に舞われます。曲目は、かつて31庭でしたが、現在は17庭です。子どもざさら4庭、お神楽、うねり、大狂い、三つ巴、花掛り、幣掛り、弓掛り、笹掛り、友ぐるい、剣掛り、四本立(女獅子隠)、花狂い、竿掛りがあります。獅子頭は、塗獅子で、男獅子は黒と白の鳥羽根に鹿角を立て、女獅子は白と茶の鳥羽根、頭頂に宝珠を置きます。
                                   「皆野町HP」より引用

        
            
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大字金崎1081
            
・ご祭神 知知夫彦命 知知夫姫命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 節分祭 2月上旬 春祭り 4月中旬 夏祭り 7月中旬 他

 金崎神社は熊谷市からは国道140号バイパス・彩甲斐街道を長瀞町方向に進み、宝登山神社の大鳥居が見える「長瀞駅前」交差点から1.4㎞程先にある「親鼻」交差点を右折する。金崎集落の長閑な風景を眺めながら200m程車を走らせると、右側に金崎神社の白い鳥居が見えてくる。
        
                    金崎神社正面
 皆野町金崎地域は宝登山の南側で、荒川の左岸の川岸段丘面に位置している。国神神社太駄岩上神社の項で紹介しているが、皆野町出牛地域より群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線が北上し、太駄地域から分岐する神川町阿久原に入る道と、直進する道路は主要地方道である埼玉県道44号線秩父児玉線となり、河内地域に通じているが、この埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を通り、上野国や児玉郡へ出るのが一般的であったらしい。
 そして国神地域から金崎地域に通じる道があるが、この道は古くから存在していたようで、事実この荒川左岸に通じる道沿いには、社の西隣や後方の山麓、また社からは東側の荒川左岸下流域にかけて、「金崎古墳群」と総称される古墳時代後期(7世紀頃)の群集墳があり、この地域は古くからの開発が進んでいた所であることが推測されるからだ。
        
                                         拝 殿
        
               拝殿前に設置されている案内板
 金崎神社 御由緒 皆野町金崎一〇九
 ◇国造 知知夫彦命・知知夫姫命を祀る神社
 当社は、現在十二天山の南東、字岩下の旧八坂社境地に鎮座しているが、以前はここからやや西に寄った社中山の中腹に鎮座していた。社中山は宝登山の裏手に当たり、そこからは国神方面が一望できる。
 社記によれば、当社は本郡の旧跡である国造知知夫彦命・知知夫姫命の古塚近くの山にあり、古墳の祭神二柱を祀っているところからこの塚とは縁があるという。また、『新編武蔵風土記稿』には、 野栗社 諏訪社 貴船社以上三社合殿、村の中程、村の総鎮守、 無年貢地、例祭七月二十七日、神主宮前主計」とあり、当社は初め、野栗三社権現と称し、三社合殿で祀られていたが、大正期には既に氏子の間では、野栗社と貴船社の事は忘れられ「お諏訪様」とのみ呼ばれていた。
 明治四十年(一九〇七)に字馬場の八幡社、字岩下の八坂社・天満天神社、字瀬戸山の十二社大神社・稲荷社、字腰の大山祇社を合祀し、同四十三年(一九一〇)に村社となった。
 社名はこの時、村名をとって金崎神社とした。更に、昭和五十三年(一九七八)には現社地に遷座して、今日に至っている。
 ◇御祭神 知知夫彦命 知知夫姫命
 ◇御祭日 元旦祭 一月一日 節分祭 二月上旬 春祭り 四月中旬
     
夏祭り 七月中旬 秋祭り 十月上旬
                                      案内板より引用
 案内板によると、嘗てこの社は「
ここからやや西に寄った社中山の中腹に鎮座していた」らしく、「社中山は宝登山の裏手に当たり、そこからは国神方面が一望できる」場所にあったという。事実グーグルマップで確認すると、金崎地域西端の山中に「金崎神社奥宮」がある。やはりこの地も国神地域から金崎地域に通じる道の途中の斜面を登った場所にある。
        
              社殿の左側にある「金崎神社遷宮記念碑」
 金崎神社遷宮記念碑
 知知夫彦命が詔を畏み国造として秩父に降ったのは第十代崇神天皇の御代とされている清き荒川と豊かな大地自然の美に恵まれた秩父がここに拓かれ産業文化の創造が始められた秩父の基を礎かれた命の偉績は真に大である盆地の東端眺望の地字国神に本郡著名の旧跡国神塚があり知知夫彦命知知夫命の墳墓と伝えられ近くに古き大銀杏が天高く聳え立っているここより東方社中山には古来野栗三社権現が在ったが明治維新の際村名を社号とした金崎神社に改称し知知夫彦命外十九柱を祭神に境内神社七社を祀った神社所蔵の鏡に安元二年由エ門とあり刀には野栗三社宝前元久二年乙丑九月納主新右エ門の銘があることから野栗三社は八百年以上の古社であった事が解る社中山が地辷り地帯に在り社殿が老朽したので之を奥社とし八坂神社跡地に新社殿を造営し新しく知知夫彦命外二十三柱を本斎する神神は知知夫彦命、知知夫姫命、野槌神、高龗神、應神天皇、素戔嗚尊、菅原道真、句句廼馳命、軻遇突智命、埴山姫命、金山彦命、罔象女命、磐裂神、経津主神、根裂神、大己貴命、少彦名神、神直日神、倉稲魂命、大山祗神、建御名方神、事代主命、別雷神、火産霊神其御神徳は広大であり祭礼に奉納する獅子舞も由緒あるものである昭和五十三年四月十四日遷宮祭を記念し本事業奉賛者名を左に記し感謝の意を表するものである
                                     記念碑文より引用


 金崎神社の近隣には「金崎古墳群」といわれる古墳群が存在する。この古墳群は、荒川左岸の河岸段丘上にある群集墳で、かつては8基以上の円墳があったといわれる。しかし、現在墳丘や主体部が残されているのは、大堺1号墳、大堺2号墳、大堺3号墳、天神塚古墳の4基だけである。大堺1号墳を除いて石室が開口しており、いすれも横穴式石室で、秩父地方に特徴的な長瀞系変成岩の板石や割石を使用し、巧みな技術で積み上げられている。
 
             金崎神社の社殿の隣にある「天神塚古墳」
 金崎神社の社殿の隣にある「天神塚古墳」からは埴輪の破片、大堺3号墳からは土師器や須恵器が発見されている。これらの遺物と石室の形から、天神塚古墳が6世紀後半、大堺3号墳が7世紀初頭の築造と考えられる。
        
                 境内から鳥居方向を撮影

 金崎神社のご祭神である「知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)」は、古代氏族の分類では「天津」系に属し、天津神である八意思兼神の後裔とされる。『先代旧事本紀』「天神本紀」によれば、八意思兼神(高皇産霊尊の子)の子の天表春命・天下春命兄弟のうちの天下春命が武蔵秩父国造等の祖であるといい、『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇の時代に八意思金命の10世孫の知知夫彦命(ちちぶひこ みこと)が初代知々夫国造に任命されたという。
 
知知夫彦命は崇神天皇のとき、知々夫国造と呼ばれる官職に任命されていて、その本拠地はのちの武蔵国秩父郡であり、知々夫国造の氏神は、埼玉県秩父市(旧秩父郡)にあり武蔵国四宮の秩父神社である。
不思議な事だが、知知夫彦命の墳墓であるとされている古墳は、皆野町国神地域にある「国神塚古墳」という。「皆野町HP 国神の大イチョウ」の解説では「この場所は、毛の国(現在の群馬県)から児玉郡を通じて古墳文化が秩父盆地に流入する経路の一つと考えられる地点である。知々父へ赴任を命ぜられた知々父彦命が、当時の主要道である東山道を経て、毛の国から秩父盆地へ入国すると、最初に展望が開ける「国見の丘」と呼べる場所に当たっている。」との事だが、説明が漠然としていて、釈然としない。
       
                「国神地域」の大イチョウ
             ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町国神577   
*「国神の大イチョウ」参拝日は2022年5月4日であるので、金崎神社参拝日と違い、新緑の季節。
 
 左側の祠は妙見宮、右側には案内板がある。     「国神の大イチョウ」案内板 

 秩父神社の創建に関して、允恭天皇年間に知知夫彦命の九世子孫である知知夫狭手男が知知夫彦を合わせて祀ったといわれている。という事は、少なくとも何代にもわたって子孫が知知夫国造を任命されているのであろうから、その初代にあたる知知夫彦命の陵墓は、秩父神社に関連した場所こそふさわしいと思うのだが、筆者の勝手な解釈であろうか。
 もしかしたら
知知夫彦命の出身地こそ、この「国神」地域であり、この地に勢力を持っていた地方豪族が国造として任命された可能性もあり、元々この地に勢力を持つ豪族が国造として任命された可能性もある。秩父志には
「国祖、霊宮、金崎村国上、秩父彦命、社司国府宮」
「金沢村の内に国上と云ふ所に往古、縣主の居地と云所あり、近古まで小地名を国神と書しと云ふ」
「金毘羅山社、大淵村の国上と云村へ入口の所にあり」
と記載があり、この「縣主」は国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)の「ミヤツコ」よりも古い「ヌシ」の称号をもち、名代・子代の制よりも古めかしい奉仕形態をとることから、3 - 4世紀(古墳時代初期)に成立したと考えられている。「国」が日本氏姓制古代国家の行政目的で作られた行政制度であるのに対し、「県」は発生と発展がもっと自然の性格を持っているという。
 ヤマト王権が直轄する地方行政区分の一つに県(あがた)があり、県(あがた)は、国の下部に有った行政区分と言われている。ただし、古くは国と県を同列に扱っていたとする説もあり、古くはその地方の豪族が治めていた小国家の範囲であったと考えられる。しかしながらその詳細は律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりとはしていない部分が多いことも確かである。
 筆者の勝手な推測と妄想が広がってしまったが、真相は如何であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」
日本歴史地名大系」皆野町HPWikipedia
    「境内案内板」等

 

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日光二荒山神社中宮祠

 日光二荒山神社は、江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していて、今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400haという。
 広大な社地故だろうか、「日光山内(さんない)」と呼ばれる日光の社寺のうちでは最奥に位置する「本社」の他に、男体山山頂に鎮座し、勝道上人により天応2年(782年)に創建された「奥宮」、そして、本社と奥宮との間には「中宮祠」がそれぞれ鎮座している。
 日光二荒山神社中宮祠(にっこうふたらさんじんじゃちゅうぐうし)は中禅寺湖のほとりにご鎮座する。奥宮創建後の2年後(784年)に「中禅寺」とともに創建された古社名刹である。元々は中禅寺と神仏習合していたが、明治時代の神仏分離令により独立している。
 この社は霊峰・男体山の中腹にあるため、中宮祠の背後には男体山が間近に見え、古くより男体山をご神体山と仰ぐ社と同時に山岳修験のの一拠点であったというのにも納得できる。
 またこの社は中禅寺湖畔に鎮座し、男体山から南北ライン上に中宮祠、中禅寺湖が位置していて、正門にあたる国の重要文化財の神門「八脚門」から見る中禅寺湖は神秘的で、神々しさも感じられるまさに絶景の一言
 日光二荒山神社とは別項にて紹介する理由はまさにそこにある。
        
             
・所在地 栃木県日光市中宮祠2484
             
・ご祭神 二荒山大神(大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命)
             
・社 格 式内社(名神大社)論社 下野国一宮 旧国幣中社 別表神社
             
・例祭等 武射祭 14日 男体山登拝大祭 73187

 奥日光のシンボルと言うべき男体山(二荒山)は、二荒山神社のご神体で、奈良時代から山岳信仰の霊峰である。山頂に二荒山神社の奥宮があり、山麓の中禅寺湖畔には、奥宮と本社を結ぶ中宮祠が鎮座する。
 
東照宮手前の「神橋」から国道122号線、その後「細尾大谷橋」交差点より国道120号線を直進し、有名な「第二いろは坂」を越えて中禅寺湖湖畔に到着。そのまま国道を道なりに進むと、二荒山神社の朱の大鳥居が見えてくる。大鳥居を越え800m程中禅寺湖北岸に沿って進むと、青銅製の東鳥居が見えてきて、50m程進むと参拝用の無料駐車場が進行方向右側にあるので、そこに車を停めてから参拝を行う。全国的に有名な日光地方にあり、当然駐車場は有料と考えていた筆者にとって、この無料駐車場はありがたい。「神橋」から「二荒山神社中宮祠」までは20㎞弱程の距離がある。
        
               
二荒山神社中宮祠 正面青銅鳥居
           
正式ルートである中禅寺湖に面した青銅鳥居から参拝を行う。
 昨日は東照宮、二荒山神社等雨交じりの天候での参拝であったが、本日は雲もあまり見えない程の澄み渡った晴天。但し風がやや強く、肌寒さも感じる。海抜高度1,269m故だろう。事前に防寒着であるジャンバーを着込んでから参拝を開始する。
 
 中禅寺湖の美しさに暫し参拝を見合わせる。   鳥居の右手には社号標があり、その奥に
  ただこのひと時が貴重な時間にも感じる。   「水神」と刻印された石碑が祀られている。
                            御祭神・水波能売神
 中禅寺湖は、約2万年前に男体山の噴火でできた堰止湖であり、人造湖を除く広さ4km2以上の湖としては、日本一標高の高い場所にある湖である。また栃木県最大の湖である。1周は約25kmであり、歩くと9時間ほどかかる距離である。湖のすぐ北には男体山がそびえ、北西には戦場ヶ原が広がる風光明媚な地である。
 この湖は、現在は観光地として知られるが、日光山を開いたとされる勝道上人が発見したとされる湖であり、かつては神仏への信仰に基づく修行の場として知られていた。
        
     青銅鳥居から石段を登ると、正面に国の重要文化財の神門「八脚門」が見えている。
        
            境内に入ってから逆方向から「八脚門」を撮影
              門の間から僅かに青銅製の鳥居が見える。
    天候が良すぎて、アングル的に逆光状態で撮影したため、暗く見えてしまった。
        
                            「八脚門」から「唐門」を撮影。
            「唐門」の右奥には霊峰・男体山が見える。
 
        唐門も国指定重要文化財         境内には朱を基調とする手水舎がある。
        
                    拝殿内部
         参拝時、拝殿は改装中で器材やテントが覆っていた。少し残念。
 日光二荒山神社中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、本社と奥宮との「中間の祠」の意である。
 二荒山神社の創建は天応2年(782)勝道上人が男体山頂に社殿(現在の奥宮)を建立したのが始まりと伝えられていて、延暦3年(784)に参拝が困難な事から麓に中宮祠を建立したという。この時、同時に中禅寺も二荒山神社の神宮寺として創建された。古くから中禅寺と神仏習合し「男体中宮」「男体権現」「中禅寺権現」とも称された。棟札の写しによれば、永長元年(1096年)、久寿2年(1155年)、永暦2年(1161年)の社殿造営が確認されている。その後、現在の社殿が元禄12年(1699年)に造営された。
 当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。入り口の登拝門は開山時(55-1025日)のみ門が開く。731-88日の登拝祭の間は、中宮祠本殿から奥宮に神像が遷される。
        
        二荒山神社中宮祠の本殿・掖門・透塀 各重要文化財に指定。
       
                     本殿に隣接して設置されている案内板
 中宮祠本殿
 本殿は二荒山大神様の鎮座する建造物で、拝殿と同じく元禄十四(一七〇一)年に建てられ、御神体山である男体山の山岳信仰における中心的な役割を果たしている。
 毎年七月三十一日から八月七日まで執行される男体山登拝大祭の期間中は、日本で唯一御神像を直接お参りできる御内陣入り特別祈祷祭が執り行われる。
 建築様式は三間社流造で、屋根は総銅葺きになっていて、耐候性に優れた総弁柄塗りの重厚な建造物で、国の重要文化財に指定されている。
 中宮祠拝殿
 拝殿は儀式や参拝など、拝礼するための建造物で、本殿よりも一回り大きな造りになっている。
 江戸時代中期の元禄十四(一七〇一)年に建てられ、古くから御神体山である男体山の山岳信仰における様々な儀式が執り行われる。
 建築様式は入り母屋、反り屋根造りで屋根は総銅葺きになっていて、耐候性に優れた総弁柄塗りの重厚な建造物で、国の重要文化財に指定されている。
                                      案内板より引用

        
                     登拝門
        本殿のすぐ東側には男体山頂・奥宮への唯一の登拝口がある。
  当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。
           登拝口鳥居は国の重要文化財に指定されている。
        
              男体山山頂への登山口である登拝門

 登拝門の石段下にある鳥居の左側には、「霊峰二荒山 開山碑文の礎石」や「大国主命」の石像があり、右側には「男体山大蛇の御神像」「さざれ石」等が設置されていて、それぞれ説明版もある。

      男体山の「大蛇」御神像       男体山の「大蛇」御神像に関しての説明文
 男体山の「大蛇」御神像
 日本昔話に「戦場ヶ原の伝説」があります。
 むか〜し、むかし、男体山の神が大蛇に、赤城山の神がムカデに変じて領地争いを行ったといわれます。
 赤城山のムカデに攻め寄られた時、弓の名手「猿丸」の加勢を受けて、男体山の黄金の大蛇は赤城山の大ムカデを撃退し、勝利した話。
 戦いが行なわれた所を「戦場ヶ原」、血が流れた所を「赤沼」、勝負がついた所を「菖蒲ヶ浜」、勝利を祝い歌った所を「歌ヶ浜」、と言い奥日光の地名となっています。
 負傷したムカデは退散して、弓矢を地面に刺したところ、湯が噴き出しその湯で傷を癒したので「老神温泉」と言われております。
 大蛇を「オロチ」とも言いますが、「オ」は峰・「ロ」は助詞、「チ」は神霊を意味し、古代人は蛇のとぐろを巻いた姿が山に見えることから、オロチを山の神と称えたと言われます。
 勝利した男体山の大蛇は「勝運」・「金運」の守護神とされます(中略)
                                      説明文より引用
       
                              境内にある「さざれ石」
 この「さざれ石」にも説明文が掲示されている。この石の正式名は「石灰岩磔岩」と言い、岐阜県境の伊吹山が主要産地であるという。
 石灰岩が長い年月の間に雨水で溶解し、その際に生じた粘着力の強い乳状液が次第に小石を凝固して段々巨石になったものである。
 文献でも古くから記されており、8世紀に編纂された日本書紀には「以砂礫(サザレイシもしくはサザレシ)葺檜隈陵上」とあり、同じく8世紀に成立した万葉集でも「佐射礼伊思(サザレイシ)尓古馬乎波佐世弖己許呂伊多美安我毛布伊毛我」や「信濃奈流知具麻能河泊能左射礼思(サザレシ)母伎弥之布美氐婆多麻等比呂波牟」と詠われている。
「子持ち石」とも言われ、子孫繁栄の縁起の良い石と言われている。
 
      拝殿拝殿手前、左手には境内社・稲荷神社が祀られている(写真左・右)
        
                参拝終了後、東方向に伸びている参道を通り、東鳥居に至る。
 正式ルートである中禅寺湖に面した青銅鳥居とは違って、明るい雰囲気のある場所に鳥居は立っている。

*追伸として
今回日光二荒山神社中宮祠に参拝したわけであるが、反省点が一つ。拝殿が改装中でテント等覆われていたとはいえ、事前のリサーチが十分とはいえず、また当日も案内板を見ていたにも関わらず、当日予定がかなり多くあった(基本家族旅行がメインの中での参拝)気持ちの余裕の無さからか、拝殿から左側方向に祀られている「神楽殿」「中宮祠のイチイ」「山霊宮」らの参拝ができなかったことが非常に残念。やはり予定は余裕のあるスケジュールにしなければいけなかったとつくづく痛感した。
        
                           中禅寺湖、及び男体山の風景。
        
           「華厳滝」のすばらしい景観もしっかりと満喫した


参考資料「日光二荒山神社HP」「Wikipedia」「境内案内板・説明板等」

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日光二荒山神社

 日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は、栃木県日光市にある神社で、式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社であり、現在は神社本庁の別表神社である。
 宗教法人登記上の正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。因みに宇都宮市の二荒山神社は「ふたあらやまじんじゃ」と読む。
 関東平野北部、栃木県北西にそびえる日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社であり、境内は次の3ヶ所からなる。
・本社(栃木県日光市山内)
 本社 - 日光の社寺最奥に鎮座
 別宮本宮神社 - 日光の社寺入口、女峰山登山口入口
 別宮滝尾神社 - 女峰山登山口入口奥
・中宮祠(栃木県日光市中宮祠) - 中禅寺湖畔。男体山表登山口入口
・奥宮(栃木県日光市中宮祠二荒山) - 男体山山頂
 日光三山は男体山(なんたいさん:古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3,400haにも及び、伊勢神宮に次ぐ広大な神域を有し、その神域には「華厳滝」や「いろは坂」も含まれる。
        
              
・所在地 栃木県日光市山内2307
              
・ご祭神 二荒山大神(大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命)
              
・社 格 式内社(名神大社)論社 下野国一宮 
                   旧国幣中社 
別表神社
              
・例祭等 武射祭・蟇目式(ひきめしき)神事 14
                   
弥生祭 413日~417日 417日の例祭含む)他

 日光二荒山神社の参拝で最初に紹介しなければいけない場所は「神橋」である。この神橋は日光二荒山神社の神域に属し、二荒山神社が管理している。日光の社寺の入り口にあり、日光のシンボルとも、日光の表玄関とも称され、栃木県で最も美しい橋と讃える人もいる。
        
                神橋の看板と神橋渡橋受付所
          この橋の通行料300円が必要。また橋の対岸に抜けられない。
 この神橋は「渡る橋」というよりも「眺める橋」と云われる。実際、国道119号線・通称日光街道と122号線との合流地点にある「神橋」交差点に架かる橋から見る朱色の神橋を含む周辺の景観は大変美しい。当然大勢の観光客が集まり、この神橋を眺めたり、撮影をしている。またこの橋の下を流れる大谷川が美しく、光の加減で水色にも見えるのだが、清流の澄んだ川の色に心癒される気分である。
        
                  日光街道「神橋」交差点前に架かる橋から神橋を撮影
 伝説によれば、日光を開山した勝道上人は、7歳の頃に明星天子(虚空蔵菩薩)から受けたお告げを実行するため、天平神護2年(766年)に補陀落山(男体山)を目指すも、大谷川を渡れず難儀した。この時勝道は護摩を焚いて神仏に加護を求めると、深沙大王(蛇王権現)が現れて赤と青の2匹のヘビを投げ、その上に山菅を敷き詰めて橋とし、勝道の渡河を助けた。この伝説から、神橋は「山菅の蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれる。
        
         神橋の先に輪王寺・日光東照宮・日光二荒山神社へ通じる参道がある
 尚、神橋から輪王寺・日光東照宮・日光二荒山神社(二社一寺)へ通じる参道は、嘗て「旧日光街道」と言われている。緩やかな上り斜面の参道の両側には、悠久な歴史を感じさせてくれる杉等の巨木・老木が聳え立ち、自然と厳粛な気持ちに誘ってくれた。
        
                        「二社一寺」の一つである輪王寺に到着。
 輪王寺は、下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと伝承されている。
 輪王寺(りんのうじ)は、天台宗の門跡寺院であり、比叡山や東叡山と並ぶ天台宗三本山のひとつに数えられ、日光山全体を統合している。この門跡寺院とは、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことであり、寺格の一つとされる。元来日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 
        
                天台宗日光山輪王寺 
三仏堂 
 輪王寺の創建は奈良時代と言われ、もともとは日光二荒山神社と共に山岳信仰の社寺として創建されたと言われている。当時は「満願寺」という名前で、1655年に後水尾上皇より「輪王寺」の寺号が下賜される。近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めるが、特に三代将軍家光公の信仰は厚く、大雪で倒壊した本堂が家光公の命で再建されたり、没後は家光公を祀った大猷院霊廟が置かれるなど、その関係の深さが感じられる。
        
                  
輪王寺門跡と社号標
                       門を出ると東照宮ヘと至る南北の参道となる。
 日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺があり、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社であるが、一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。
 つまり日光二荒山神社と天台宗日光山輪王寺には創建等に共通の歴史があり、別項にて語ることができない間柄となろう。寺社を同じ項として紹介している理由はそこにある。
 
       東照宮に至る参道           参道を進むと右手に見える
相輪橖
 杉林の中に紅葉樹も見え、趣ある風景美を演出。         と大護摩堂

 東照宮に関しては前項にて紹介。そこで東照宮の参拝終了後、北西方向に伸びる道を進み、日光二荒山神社に到着する。
        
                  
日光二荒山神社正面
 日光二荒山神社の神体山は男体山(2,486m)である。この男体山は奈良時代には補陀洛観音浄土に擬せられて「補陀洛山(ふだらくせん)」と呼ばれていたが、後に「二荒山(ふたらさん)」という字が当てられたと言われる。「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。因みに男体山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、奈良時代には既に山岳信仰の聖地だったことは確かである。
        
                         
日光二荒山神社 正面鳥居
「日光」が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期ないし鎌倉時代以降である。下野薬師寺の修行僧であった勝道一派が日光菩薩に因んで現日光の山々を「日光山」と命名した可能性も含め、遅くても鎌倉時代頃には現日光の御神体が「日光権現」と呼ばれ、また「日光山」や「日光」の呼称が一般的に定着していたものと考えられる。
       
                            参道途中右側にある「縁結びのご神木」
        
              参道の先にある木造四脚切妻造の神門
 
       
                       神門のすぐ左手にあるご神木「親子杉」
      根部分のつながった木は、縁結びや夫婦・家庭円満に御利益があるという。
       
        神門の右手で「親子杉」とは対象側にある「夫婦杉」のご神木
        
                                  境内にある手水舎
        
                              朱が鮮やかな神楽殿
        
                     拝 殿
 山岳信仰の地、修験修行の霊場として信奉を集め、鎌倉時代初期には、男体山山頂遺跡の出土品から山岳信仰が最盛期を迎えたことが示唆されており、神社祭礼もこの時に確立されたと考えられる。戦国時代、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、後北条氏の味方をしたことで、領地を没収されるなど一時衰退したが、江戸時代に入ると状況は一変。徳川家康から家光までの3将軍が帰依した僧・天海が日光山の貫主となり、1617(元和3)年には家康をまつる日光東照宮が創建。東照宮の西隣に移転となった二荒山神社にも、豪華な社殿が造営される。以後も天海開山の徳川家菩提寺・上野寛永寺によって管理され、その威光もあって江戸時代を通じて繁栄が続いた。
 
          境内には案内板(写真左・右)が設置されている。

 ところで輪王寺本堂の三仏堂は東日本最大の木造建築であり、日光三山の本地仏として三体の本尊が祀られている。三仏、三山、三所権現、祭神(垂迹神)及び寸法は以下の通りである。
・千手観音(男体山)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと) - 総高703.6cm(本尊335.4cm
・阿弥陀如来(女峰山)=滝尾(たきのお)権現=田心姫命(たごりひめのみこと) - 総高756.3cm(本尊306.3cm
・馬頭観音(太郎山)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) - 総高744.7cm(本尊301.3cm
 このように日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されているため、輪王寺本堂(三仏堂)に三体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。
        
                                 楼門手前にある東鳥居
           1769年に造営され、30年後の1799年に再建された青銅製の鳥居。
            1944年に国の重要文化財に指定されている。
        
      日光二荒山神社東鳥居から東照宮の五重塔へと向う東参道途中にある楼門。
 この道は「上新道」といい、参道として巨大な杉の木と石灯籠が整然と並んでいて、日光二荒山神社正面にある神門とは違った趣ある建築物である。


参考資料「日光二荒山神社公式HP」「神橋HP」「Wikipedia」等 

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日光東照宮

 日本を代表する「日光の社寺」はユネスコ世界遺産に登録されており、その中でも最も有名な日光東照宮は江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀り、日本全国の東照宮の総本社的存在である。
 創建は奈良時代にさかのぼる天台宗の門跡寺院(皇族・公家が住職を務める特定の寺院、その後鎌倉時代以降は位階の高い寺院の呼称)である輪王寺や下野国一之宮で旧国幣中社の社格をもつ日光二荒山神社と隣接していて、この東照宮、二荒山神社、輪王寺を総称して「二社一寺」と呼んでいる。
 東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。
「日光東照宮」は日本屈指の観光スポットとして国内外から人気が高く、また55棟の建築物のうち8棟が国宝、34棟が重要文化財に指定されていて、多くの豪華絢爛な社殿群が訪れた観光客を魅了している。
        
              
・所在地 栃木県日光市山内2301
              ・ご祭神 (主)徳川家康公(相殿)豊臣秀吉公・源頼朝卿
              ・社 格 別格官幣社
              ・例祭等 春季例大祭・神事流鏑馬 517
                   渡御祭「百物揃千人武者行列」 518
                   秋季祭・渡御祭「百物揃千人武者行列」 1017日 他

 2025年度を飾る1番目の社は「日光観光の中心地」として、 徳川初代将軍・家康公を御祭神に祀る社・日光東照宮と当初から決めていた。当ブログでも紹介している、忍東照宮や世良田東照宮、徳川東照宮等、「東照宮」と呼ばれる神社は全国各地にあるが、ここ日光の東照宮は、全国の東照宮の総本社的存在である。他社との区別のために「日光東照宮」と俗に呼ばれてはいるが、正式名称は当然「東照宮」である。
 日光の人気観光スポット「日光東照宮」は1617年に、徳川家康を祀る神社として、2代将軍徳川秀忠により建てられた。その後、1634年~1636年にかけて、3代将軍徳川家光による「寛永の大造替」で建て替えられたものである
 現在そのほとんどの建築物などが、 国宝や重要文化財に指定され、1999年には、世界遺産にも登録されている。
「豪華絢爛」という言葉はこの社に対して使うのに相応しい。日本の伝統的な技術や芸術性の高さを示した建築目当てに、国内はもとより、海外からの観光客でも連日賑わっている
        
     早速日光東照宮に参拝。長く玉砂利が敷かれた参道先にある鳥居を目指す。
 当日は平日で雨交じりの天候であったが、多くの国内外の観光客・参拝客で賑わいを見せている。
        
              参道の先にある高さ9m程ある石鳥居
 この石鳥居は江戸時代に造営された鳥居では日本最大規模の鳥居であり、元和4年(1618年)に福岡藩の初代藩主・黒田長政によって寄進されたもので、福岡藩領内(現在の福岡県糸島市にある可也山)から海路・水路・陸路を使い15個の石を運び、積み上げて造られたという。
            
              石鳥居を過ぎ、すぐ左側に見える五重塔 
        
                                        表 門
 五重塔を抜けると、正面に表門がある。表門から先は有料となるので、事前に拝観料を購入し、それから改めて参拝を行う。
        
 表門を抜け、正面には「下神庫・中神庫・上神庫」が並ぶ。参道自体は左に曲がるが、その左手には神厩舎(しんきゅうしゃ)があり、そこには有名な「三猿」の彫刻が見られる。因みに神厩舎とは、神馬(しんめ)をつなぐ厩(うまや)で、古来、猿は馬の病を治したり、馬の世話をするなどされているという。猿の彫刻が描かれているのも、その由来から来ているのであろう。神厩舎には猿の彫刻8面が描かれているが、これは人間の一生が風刺されているとの事だ。
 神厩舎の建物は、絢爛豪華な日光東照宮の社殿では唯一の素木造。
 有名な場所だけに、多くの観光客・参拝客がいて、撮影をしていたので、待ち時間がかなりあった。
        
 神厩舎に描かれている「三猿」撮影終了し、青銅製の鳥居の先に見える陽明門へ進む。雨交じりの天候に加えて、周囲には霧が立ち込めているその雰囲気が、逆に神聖さや荘厳さを高めているようにも見える。
        
          陽明門に通じる石段を登り終え、一旦振り返り撮影。
   「三猿」の彫刻が描かれている神厩舎に多くの観光客が集まっているのが分かる。
        
            日光東照宮のシンボル的な存在である陽明門
 この陽明門は、日光東照宮のほぼ中央に位置し、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている。国宝。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建っている。 
 日光東照宮の建物を代表する陽明門は高さ11.1m2層造り、正面の長さが7m、奥行きが4.4mである。その名称は、宮中(現・京都御所)十二門のうちの東の正門が陽明門で、その名を頂いたと伝えられている。江戸時代初期の彫刻・錺金具・彩色といった工芸・装飾技術のすべてが陽明門に集約されている。陽明門に描かれている故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500を超える彫刻は見事で、それら彫刻には一つ一つ意味があり、これを探ることで家康公の平和への願いや教訓を知ることができる。
 2017年に平成の大修理が行われたことで、黄金の輝きを取り戻したこの陽明門は、この門と本殿を直線でつないだ先に北極星が見えることから、別名を「北辰門」とも呼ぶ。
 
 陽明門の東西に伸びる、神域を守る全長220mの回廊(写真左・右)。陽明門の東側の東回廊、西側の西回廊が対称的に備わり、やはり見事な彫刻が施されている。陽明門の豪華絢爛さばかり目立つが、この東西回廊も国宝に指定されている。
 回廊南面には日本最大級の花鳥の大彫刻25枚が飾られ、すべて一枚板の透かし彫りであり、一度間違えたら彫り直しがきかない究極の職人技を眺めることができる。
        
                 陽明門の先にあり、拝殿の前に立つ国宝の「唐門」
 極彩色が多い東照宮の建造物の中で、ひときわ存在感を放つ白い門は、日本画にも用いる白い顔料の胡粉(ごふん)で塗られていて、繊細でかつ荘厳な彫刻は陽明門にも匹敵。唐破風の屋根が特徴で、柱や扉は東南アジアから輸入した紫檀や黒檀などを使用した寄木細工(よせぎざいく)。唐門の両脇には唐木の寄木細工で昇り龍と降り龍が描かれていて、門上には古代中国の聖賢の故事を題材に、1本の木からくり彫りした精巧な彫刻が飾られている。
 ここより先に行ける人は将軍に拝謁できる身分とされ、幕臣や大名に限られていたという。
 
 唐門の東側には奥社拝殿に通じる道があり、坂下門(写真右)手前にある本殿の東廻廊に彫られた、名工・左甚五郎作と伝わる有名な彫刻「眠り猫」(同左)がお出迎えしてくれる。
 眠り猫のある廻廊の下を潜ると、家康の御墓所のある奥宮に導く奥社参道へと続く。参道にのびる207段の石段は各段で一枚石が用いられており、この階段自体も東照宮の名所のひとつである。眠り猫から奥宮まで上るには10分程度かかり、途中踊り場で休みながら進む。
        
                             石段上に鎮座する奥社拝殿
 家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言である。「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。
 日光東照宮は江戸城(現在の皇居)の真北にあり、北の守りを固める重要な位置にある。本殿前に造られた陽明門は真南を向いていて、真北を向いている江戸城と向かい合わせになっている位置にあり、表参道を延長していくと上野の寛永寺・旧本堂(根本中堂)につながるという。

 日光東照宮には主祭神として徳川家康、そして配神として源頼朝・豊臣秀吉が祀られている。調べてみると、豊臣秀吉と源頼朝が祀られるようになったのは明治以降のことである。それまでは、山王神、摩多羅神(またらじん)が祀られていた。明治時代に神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させる「神仏分離」が行われたが、摩多羅神というのは仏教の神なので問題となる。
 そのため、山王神を豊臣秀吉に、摩多羅神を源頼朝に変更して神道に統一したという。
        
                                 奥社 宝塔(御墓所)
 重要文化財 奥社 宝塔(御墓所)
 御祭神徳川家康公の墓所。昭和40年、東照宮350年祭を機に公開された。8角5段の石の基盤の上に更に3段を青銅で鋳造し、その上に宝塔を乗せている。当初は木造、その後石段に改められたが、天和3年(1683)の地震で破損したため、鋳工椎名伊豫(しいないよ)が製作した唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えられた。塔の前には鶴の燭台、唐獅子の香炉、花瓶からなる三具足が据えられている。
                                      案内板より引用




参考資料「日光東照宮HP」「日光市公式観光WEB」「Wikipedia」「境内案内板」等

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