古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

藤岡富士浅間神社


        
              
・所在地 群馬県藤岡市藤岡1152
              
・ご祭神 木花開耶姫命
              
・社 格 
              
・例 祭 例大祭 41
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2563401,139.068042,15z?hl=ja&entry=ttu

 中栗須神明宮の南側に鎮座する。群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線を上越自動車道・藤岡IC方向に北上し、「七丁目」交差点を左折、その後すぐ先にある「古桜」交差点を右折し直進すると、 道路沿い左側に藤岡富士浅間神社の大きな社号標柱、広大な駐車場があり、その参道の奥の高台上に社は鎮座している。
        
                 
藤岡富士浅間神社正面 
 藤岡市藤岡地域に鎮座。全国約1,300社といわれる浅間信仰の神社の1つで、木花開耶姫之命を主祭神とし、安産と子育てのご利益があるとされる。
『日本歴史地名大系』には藤岡町(現藤岡市藤岡)に関して以下の解説がされている。
「東は小林村など、西は上・中・下大塚村など、南は矢場村など、北は中栗須村などと接し、町央を東西に下仁田道、南北に十石街道が通る。近世には両道が交差する交通の要衝にあり、継場、日野絹の集散市場として賑った。享和三年(一八〇三)の富士浅間神社縁起書によると、文応元年(一二六〇)日蓮が常が岡鮭塚に経を納め、富士山の分霊を勧請し鎮守として以来富士岡(ふじおか)と称したという。「続太平記」には永享の乱に、上杉憲実が平井ひらい城攻めにあたり、藤岡などに陣を張ったとあり、「鎌倉物語」などによると当時の藤岡城主有田定景は足利持氏の遺児永寿王丸をのがしたという」
 
 境内は広く整備もされている。また長く伸びる参道(写真左・右)は石製の鳥居まで約100m程続く。
       
 道路沿いにある鳥居を過ぎると、天高く伸びそうな巨木がお出迎えしてくれる(写真左・右)。
                  「孤高」という表現が似合う趣のある大木。

 参道途中には3枚の案内板が設置されており、右から「富士浅間神社 祭礼絵巻」「富士浅間神社具足4種」が案内され、夫々重要文化財に指定されている。もう1枚は社の案内板である。
        
一番右側には「市指定重要文化財 富士浅間神社祭礼絵巻」の標橋や、及び案内板である。藤岡富士浅間神社には、神輿をかつぐ行列が描かれている絵巻物が宝物として伝わっている。菊川英山という浮世絵師が描いている。絵巻は四mという長さで、行列の人数は357人。藤岡市指定重要文化財として、藤岡歴史館に保存されている。
        
 真ん中には「富士浅間神社具足4種」の案内板がある。市指定重要文化財で指定日平成21625日。富士浅間神社に伝世したもので、当世具足(とうせいぐそく)3点・鎖具足1点からなる。その造作は簡素・実戦的であり、上級武士の着用と見られるものである。製作上の特徴から、ほぼ同時期の所産と考えられるもので、近世の江戸前期に位置づけられる。
 これらの具足がどのような経緯で寄進されたのかは今後の課題であるが、全体に保存状態が良く、本県並びに藤岡市周辺地域の歴史的な美術工芸資料として貴重な資料である。
朱漆塗切付碁石頭伊予札二枚胴具足
朱漆塗桶側四枚胴具足
黒漆塗切付小札二枚胴具足
鎖具足
        
        一番左側には「富士浅間神社 由緒」の案内板が設置されている。
 富士浅間神社 由緒
 ご神徳 安産 子育て
 当社のご祭神は、富士山をご神体とする木花開耶姫命である。天照大神の孫の夫人であり、海の幸の神、山の幸の神らの母親である。火を放った産屋で無事に子を産んだ言い伝えにより、子授け、安産、子育ての守り神として古くから信仰を集めてきた。
富士山は日本一美しい山だが、かつて火山としてたびたび噴火を繰り返していた。その激しい噴火を鎮め、同時の新しい生命を生み出す神として、火中で無事に子を産んだという言い伝えから木花開耶姫命をご祭神としている。女性の守護神、子授け、安産、子育ての神と言われる理由である。
 当神社の設立年は不詳だが、当地を治めた古代の有力者を祀る墳墓に祠を設け、平安時代の主要な神社である従五位上郡御玉明神の一社として藤岡の地の守護神としたのが始めと伝えられている。1274(文永11)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻るときに、この地を訪れ八軸の経を納め、同時に富士信仰の厚かった上人は、そのご祭神である木花開耶姫命の御霊を当神社に移し、以来社名を富士浅間神社と改め当地の守り神として広く信仰を集めてきた。
 1590(天正18)藤岡の領主となった芦田康貞が、藤岡城を築くに当り、北面の守護として当神社の社殿を大規模に拡張・改築し、神官広瀬清源を奈良の吉野より招き宮司とした。江戸時代には庶民の間で冨士講が盛んに組織され、多くの人が当神社を中心にして富士山詣でを行った。「藤岡」の地名は当神社の社名に由来し、「富士岡」が変じて定まったといわれている。
                                      案内板より引用
        
                   石製の大鳥居
         参道は当所西方向に進むが、この鳥居からは北側に変わる。
 
 鳥居の南側には重厚感のある神楽殿がある(写真左)。南向きに鎮座する拝殿に奉納する舞をお見せできる絶好の場所にあるようだ。また鳥居の西側には神興庫であろうか(同右)。
 
 鳥居前にて一礼を済ませた後、鳥居の先で、左側にある手水舎にてお清めをする(写真左)。よく見ると手水舎の奥にかなり古い形態の手水舎があった(同右)。今回はそこでお清めはしなかったが、奥にある手水舎も使用できるとの事で、次回参拝の際にはぜひお清めしようと思った。
 
 参道を進むときから気が付いていたが、石垣に似た高台上に社殿は鎮座している。広々として開放的な境内と相まって、まるでお城と勘違いしてしまう位の規模である(写真左)。鳥居を過ぎて石段を登り、その頂上部に社殿が見える(同右)。
 実はこの社が古墳の上に建てられているといわれていて、案内板にも「由緒書の途中に「当地を治めた古代の有力者を祀る墳墓に祠を設け…」と載っている。「藤岡町1号墳」とも呼ばれていて、南北40m、東西44m、高さ5mの円墳。前方後円墳という説もあるそうである。
        
                     拝 殿
 藤岡富士浅間神社のご祭神である「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」は、日本神話に登場する女神である。父神は大山津見神、母神は鹿屋野比売神(野椎神)。一般的にこの「木花之佐久夜毘売」は『竹取物語』の主人公「かぐや姫」のモデルともされ、桜の美しさとやがて散る儚さを象徴する美しい女神といわれている。アマテラス大神の孫ニニギ尊と結婚。子授け安産、農業や漁業のご利益があり、酒造業の守護神としても信仰されている。
 実はこの女神、別名も多く、『古事記』では本名を「神阿多都比売(かみあたつひめ)」「木花之佐久夜毘売」、『日本書紀』では「神吾田鹿姫(かみあたつひめ)」「神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)」「木花咲夜姫」、『播磨国風土記』では「許乃波奈佐久夜比売命(このはなのさくやひめ)」と表記され、また「豊吾田津媛命・木華開耶姫・木花之開耶姫・木花開耶媛命・神阿多都比売・神吾田津姫・神吾田鹿葦津姫・鹿葦津姫・桜大刀自神・身島姫神・酒解子神」等とも言われている。
 現在富士山を神体山とする富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約1300社の浅間神社にこの女神は主祭神として祀られているが、歴史的に見ると、古代や中世には富士山の祭神(権現)を木花之佐久夜毘売とする文献は見当たらないとされ、近世に林羅山が元和2年(1616年)の『丙辰紀行』で諸説の中から三島神社の祭神が父神の大山祇神であり、三島と富士が父子関係にあるとする伝承を重視し、これを前提に「富士の大神をば木花開耶姫」と神話解釈を行ったことで権威をもつようになったといわれている。因みに富士講では富士の祭神を仙元大日神としており、仙元大日神の子孫が木花之佐久夜毘売と結婚したとしている。
         
                                   本 殿
 浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神が木花之佐久夜毘売となった経緯としては、木花之佐久夜毘売の出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。
 富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていた。そのため噴火を抑えるために、火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を神体として勧請された浅間神社も多い。

浅間神社の語源については諸説ある。
「あさま」は火山を示す古語であるとする説。
「浅間」は荒ぶる神であり、火の神である。江戸時代に火山である富士山と浅間山は一体の神であるとして祀ったとする説。
「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に習合した結果といわれている。
「アサマ」とは、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味がある。また、東南アジアの言葉で火山や温泉に関係する言葉である。例えばマレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味する。その言葉を火山である富士山にあてたとする説。
坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社を現在地に遷宮した時、新しい社号を求めた。この時、浅間大社の湧玉池の周りに桜が多く自生していた。そのため同じく桜と関係の深い伊勢の皇大神宮の摂社である朝熊神社を勧請した。この朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説。
        
      社の西側は正面参道とは違った、本来のお社の風景が広がっているようだ。
 
    社殿西側に祀られている境内社          境内社・秋葉神社か
         詳細不明

 木花之佐久夜毘売の本名は「神阿多都比売(かみあたつひめ)」という。「阿多」は実は地域名で、鹿児島県南さつま市から野間半島にわたる地域、また薩摩国(鹿児島県西部)にちなむ名といわれ、「鹿葦」も薩摩の地名という。ということは、原義としての「神阿多都比売」とは「阿多の都」の姫という意味となり、現在の鹿児島、つまり薩摩地域の姫様という意味になるかもしれない。

 また神名は一般的には「植物」と関連づけられているそうだ。神阿多都比売の名義は「神聖な、阿多の女性(巫女)」とされ、木花之佐久夜毘売の神名の「木花」は木花知流比売と同様「桜の花」、「之」は格助詞、「佐久」は「咲く」、「夜」は間投助詞、「毘売」は「女性」と解し、名義は「桜の花の咲くように咲き栄える女性」と考えられる。なお桜は神木であり、その花の咲き散る生態によって年穀を占う木と信じられた。神名は咲くことを主にすれば 「木花之佐久夜毘売」となり、散ることを主にすれば「木花知流比売」となるとされる。
       
                                 境内の一風景
 桜は春を象徴する花として日本人には馴染みが深く、春本番を告げる役割を果たす。桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒する。入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられている。
 日本人はまた「花見」を好む民族だ。但しこの「花見」の起源に関して調べてみると、奈良時代には貴族が「梅」を好み、花鑑賞をしていたようだ。現代では花見と言えば桜を指すが、当時は中国から伝来した「梅」の花が主流だった。これは、決して桜が好まれていなかったわけではなく、当時の日本人にとって桜が神聖な木として扱われていたがためである。実際、「万葉集」には桜を詠んだ歌も残されており、古代神話以前から桜は神の宿る木として信仰の対象ともなっている。
 桜の人気は平安時代から始まる。説話集『沙石集』(弘安6年(1283年))によると、一条天皇の中宮、藤原彰子(紫式部らの主君)が奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は、僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。

 昔も今も理屈抜きに日本人は「桜」が好きな民族である。故に木花之佐久夜毘売は「桜の神」であり、身の心も美しい人なのであったのだろう。色々書いたが結論はそういう事に帰するのだ。


参考資料「富士浅間神社HP」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等

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中栗須神明宮

 その昔、ここ中栗須の神明宮は、高山御厨(たかやまのみくりや)の北の中心地であり、現在でも藤岡市役所は、この中栗須地域に所在している。高山御厨は、源義朝の父、為義が伊勢神宮に寄進した荘園であるといい、御厨の司(現在の長官)は、秩父平氏の高山党、小林党であった。
秩父氏流栗須氏
 小林系図「秩父権守重綱―高山三郎重遠―栗須四郎有重―小林二郎重兼」
 この御厨(ミクリヤ)という言葉から「栗須」という地名が生まれたとも言われているという。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市中栗須615-1
              ・ご祭神 大日孁命(天照大神)
              ・社 格 旧郷社
              ・例祭等 春季例祭 47日(太々神楽奉納) 
                   秋季例祭 
1017日(獅子舞奉納)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2657913,139.0748173,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線で本庄市児玉町から藤岡市方向に進み、神流川を過ぎた「本郷」交差点を右折する。上越自動車道・藤岡IC方向に北上、道路は群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線となり、そのまま道なりに進むと、「中栗須」交差点の先で、道路沿い左側に中栗須神明宮の一の鳥居が見えてくる。
 一の鳥居と二の鳥居の間には「中栗須公会堂」があり、そこには十分な駐車スペースもあり、その一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                                       南向きの中栗須神明宮正面
 中栗須神明宮は藤岡市中栗須地域北部に鎮座する。実のところ、今回の参拝は全くの偶然で、本来の目的は「道の駅 ららん藤岡」に家族で遊びに行った際に、偶々道路沿いに鎮座しているこの社を見かけて、買い物を済ませた後に参拝したというのが実情だ。ともあれ、期待はしなかった分、旧郷社としての風格もあり、思いのほか広大な境内であるので、これも神様のお導きかと感謝している次第である。
            
           社号標柱とその奥には「猿田彦大神」の石碑もある。
「神明宮」は天照大神または伊勢内外宮の神を祀る神社。神明宮・神明神社・太神宮・伊勢宮(いせみや)等ともいう。神明とは神と同義で,中国の古典《左伝》《書経》にも見え,日本でも古くから用いられた語であるが,平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至ったという。
        
                    一の鳥居
『日本歴史地名大系』には「中栗須村」の解説が以下のように記載されている。
[現在地名]藤岡市中栗須
下栗須村の西、南は藤岡町、西は上栗須村と接し、北部を温井ぬくい川が東北流する。一帯は一二世紀前半に成立した高山たかやま御厨に属し、栗須郷と称された。天正一四年(一五八六)正月の神明宮造営勧進帳(佐々木文書)の表紙に「中栗須村」とあり、勧化者には「中栗須郷」と冠している。なお徳治三年(一三〇八)二月七日の関東下知状(東京国立博物館蔵)にみえる「高山御厨北方内大塚中□□□預所」の「中□□□」は、中栗須郷に推定されている。寛文郷帳では田方六七石六斗余・畑方三六四石一斗余、幕府領・旗本小西領・前橋藩領・旗本志賀領の四給。元禄郷帳では志賀領が幕府領となり三給。後期の御改革組合村高帳では旗本岩本・小西領・幕府領の三給、家数八三
        
  一の鳥居から二の鳥居に通じる参道は長く、その途中左側には「中栗須公会堂」がある。
        
「神明宮」という名称であるので、一の鳥居と三の鳥居が神明鳥居であるのは当然であるが、一と二の鳥居の途中には小さな堀川と神橋があり、その先に明神鳥居が立っていて、社号額も「諏訪大明神」とある。
        
                         三の鳥居 これより広い境内が広がる。
 交通量の多い県道沿いに鎮座していて、参道沿いにも細い道路があり、また三の鳥居前には参道に対して横切る道路も通り、周囲の道路事情も考慮しながら参拝を行う。
        
                    境内の様子
        
                     神楽殿
 この神楽殿では、毎年1016日、現在は第3週の土曜日に、御食御酒神事(みけみきしんじ)が行なわれる。その年の初穂を大神に供え、報恩感謝を申し上げる祭典。 神明宮の秋祭りは1017日で、この神事は16日の深夜に 宵祭(よいまち)として行う。 16日は午後7時からの獅子舞奉納に始まり、午後10時から拝殿において神事が始まる。 先ずふかしたモチ米の米飯75膳を桑の枝を箸でカワラケに盛りつけて神前に供え、その後境内末社をお祓いしながら回って紙の上にもった米飯を順に供える。 続いてふかしたウルチ米の米飯75膳を先ほどと同じようにして供え、境内末社も回るので、計150膳を神前に供えることになる。 それが終わると宮司の祝詞奏上、参列者による玉串奉奠をもって神事が終わる。 以前は75膳ずつに盛り分けた供物を参詣者に分けて大いに賑わっていたが、戦後は人出が少なくなり、厳粛な神事は氏子の積極的な協力を得て続いているという。
        
                                      拝 殿
 
          扁 額                 扁額の右並びに設置されている「神明宮」由緒
 神明宮由緒
 祭神 大日孁命(天照大神)
 本宮は、後鳥羽天皇建久三年九月十七日(一一九二年)右大将源頼朝公の発願により碓氷郡磯部領主佐々木三郎成綱が命を受けて勧請し創建された。
 天正十年(一五八二年)小田原の北条氏と厩林の滝川一益との神流川合戦に於いて兵火にかかり社頭が炎上した。
 その後三年を経て天正十三年七ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石 中)の氏子経の力により社殿が再建された。
 明治四年(一八七一年)第十五大区の郷社とされる。
 明治十三年九ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石・森・中・上戸塚・下戸塚)の氏子により広く寄付金が募られ拝殿が建築された。
 昭和二十九年瓦葺に修復され現在に至る(以下略)。
                                      案内板より引用

        
                             神明宮らしい本殿
 
    境内には「御神木」の看板がある巨木・老木が樹勢良く聳え立つ(写真左・右)。
 
 社殿の奥には数多くの石祠が祀られている(写真左・右)。詳細は不明ながら、中栗須(なかくりす)郷・下ノ郷(下栗須)・岡ノ郷・立石郷・森ノ郷・中村郷・上ノ郷(上栗須)の七郷の鎮守社であるとの事で、七郷内の神様をこの社にお移しされたのであろう。
 
 社殿奥(北側)には裏へ抜ける参道もあり、石段が設置されている(写真左)。その参道左側には芭蕉句碑が建っている(同右)。

 むすふよりはや歯にひゝく清水かな はせを翁

 現在水は枯れているが、元々池があったところらしい。明治2年(1869)に建立されたという。


参考資料「群馬県神社庁HP」「世界大百科事典」「日本歴史地名大系」「境内案内板」等


 

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下野本天神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市下野本969
              
・ご祭神 菅原道真公(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0166884,139.42102,18z?hl=ja&entry=ttu
 当日川島町での神社散策が大方終了し、帰路についていた途中で、気になる場所をナビで確認し、そこで出会った社。埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東松山インター方向に進路をとり、254号と交わる「古凍」交差点から900m程進んだ場所に鎮座していて、野本日枝大神社からは南東方向で直線距離で430m程しか離れていない。
 専用の駐車場はない。下野本天神社の鳥居と県道沿いで鳥居の東側に隣接している「地蔵尊石塔」のお堂周辺に適当な駐車スペースはあり、そこ周辺の通行に支障のない場所に停めてから急ぎ参拝を開始する。
        
                              
下野本天神社鳥居正面
                 鳥居の右側にある社号標柱には「村社」と刻印されている。
 下野本天神社周辺の地形を確認すると、概ね新江川の左岸は台地、右岸は低地であり、新江川は都幾川が形成した沖積地の中を流れているようだ。新江川附近が16m17m程の標高であるのに対して、その北側の県道沿いが平均18.5mであるので、県道付近はその北側にある台地に続く上り坂が多く形成されている。
 因みにこの地域の小字は「曲輪」。古の村名であり、延宝七年屋代文書に「曲輪村」との記載がある。嘗てこの地には「館跡」や「城址」等あったのであろうかと勘繰りたくなるような小字名である。
        
            高台・ないしは塚上に鎮座する下野本天神社
          このアングルを見た限りでは意外と立派な社である。
 木製の鳥居を過ぎると左側に高さ約3m程の盛り土の台地があり、その上に南に広がる肥沃な沖積地を見守るように祀られている。すぐ南側には新江川があり、その南に都幾川が流れる。新江川も都幾川も過去に幾度も氾濫して水田に大きな被害をもたらしてきた。この社は、天の神(天神)に洪水を鎮め、水害が起こらないように祈る地域住民の願いが込められたものと推察することができよう
        
                                        拝 殿
 残念なことにこの下野本天神社に関して詳細な由来等書かれている書物やHPでの説明は筆者の調べた限りない。但し短いながらも『新編武蔵風土記稿』には以下の記述がある。
・十二天社 曲輪にあり、聖徳寺持ち、『新編武蔵風土記稿』より引用
 嘗てこの天神社は「十二天社」と呼ばれていた。
「十二天社」の由来として、古くからの十二様と称する土着の山の神を祀ったものと、熊野神社の系列のものとがある。前者の信仰は射日儀礼を含む「十二講」の習俗を伴い、北関東・甲信越を中心にして東日本の山間部に分布する。後者は十二所権現社などと呼ばれる熊野三山の神(熊野権現)を勧請して祀ったものであり、仏が人々を救済するために神の姿をかりて現れるという、本地垂迹説にもとづくもので、鎌倉時代から室町時代にかけて、全国の神社で本地仏が定められた。その後、それらの中には明治の神仏分離によって祭神を「天神七代・地神五代」としている所もある。
 さて下野本天神社はどのような由来で嘗て「十二天社」と呼ばれていたのだろうか。
 
   拝殿に掲げてある「天神社」の扁額        参道左側に祀られている境内社。
                               詳細不明。
        
                          
「地蔵尊石塔」が祀られているお堂
 天神社参道の左隣お堂内に祀られている。赤い前掛け、帽子だけでなく、不思議な衣装を身にまとって、今日も道行く人々の安全を見守っているように見える。お堂の右隣に2つ石塔があるが、幾度かの水没や長年の風雪の影響もあるのか、損傷が進み、建立年代不詳です。右側の石碑は庚申塔に見えるが、左側のそれは分からず。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」等

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中山氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町中山1790
             
・ご祭神 素戔嗚尊 応神天皇 建御名方神 清寧天皇 菅原道真公
             
・社 格 旧村社 神饌幣帛供進神社
             
・例祭等 春祭 328日 夏祭 718日 秋祭 1017
                  
神幸祭 1214日 例祭1215
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9863814,139.4514261,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線を川島・川越方面に南下し、「首都圏中央自動車道・川島IC」の手前にある信号のある十字路を右折し、道なりに800m程進む。と右側に中山氷川神社の朱の鳥居が見えてくる。
 社の東側に隣接する「宮本集落センター」には駐車スペースもあるので、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  中山氷川神社正面
          朱色の木製鳥居のすぐ先に石製の二の鳥居が立っている。
(中山村)氷川社
八幡・諏訪の二神を合祀す、村の鎮守なり、棟札に延暦三甲子年九月吉日、武州比企郡川嶋之内土袋庄中山村願主長圓と記す、されど此年號さらに信ずべからず、何ものか彼世かゝる無稽のことを、なし置しと見えたり、善能寺持、
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
「埼玉の神社」にも上記と同様に、
当社の創建を伝える史料としては、宝永七年(一七一〇)の棟札がある。この棟札の裏側には
「守護山郷内繁昌祈攸 別当善能寺
「武州比企郡川嶋土袋庄中山村江口村六兵衛、願主隆貞」の文字と共に、「延暦三年甲子(七八四)九月勧請 二十七年破損造立 自享禄元年(一五二八)
宝永七年迄八十四年 従延暦三年宝永七年迄九百廿七年」と、由緒が記されている。
 しかし『風土記稿』が「延暦三年」という年号に疑問を投げかけており、実際に当社が神社として形を整えたのは、村の開発と同じころと推定される。
と記載されている。
        
                           参道途中に設置されてある案内板
 氷川神社 畧記
 鎮座地 川島町大字中山字宮本一七九〇番地
 御本殿 銅板葺流れ造十二坪
 境内地 五百八十坪
 境内社 稲荷神社 祭神倉稲魂命
 御由緒
 当社は延曆三甲子三月武藏国大宮高鼻鎮座氷川神社より勧請すと伝えられる 社伝享禄元戊子八月、慶安四戊子六月、貞享九甲子六月、宝永庚寅八月、享保十乙巳九月造立造修あり 享保十九年三月十五日宗源宣旨を以て氷川八幡諏訪三神共正一位大明神号を授けらる 宝暦六丙子十月外廓拝殿、寛政十一己未四月、文政己卯八月本殿立修あり 天保十二年辛丑九月山形藩主秋元但馬守より御影石鳥居一基奉納あり 明治四年村社 明治三十九年二月社務所落成 明治四十年三月神明白髭社、上廓白髭社、天神社を合祀す 明治四十一年三月神饌幣帛供進神社に指定 昭和四十九年三月社務所改築 昭和五十三年七月拝殿屋根造修する
                                      案内板より引用
        
           南北に長い参道があり、その先に拝殿が鎮座する。
 比企氏は鎌倉時代に北条氏との権力闘争の末に「比企の乱」にて一族はみな討たれ、比企一族は滅亡したことになっている。しかし当時二歳であった能員の子である能本は比企氏族滅の中、唯一生き残る。『新編鎌倉志』によると、能本は伯父の伯蓍上人に匿われて出家し、京で順徳天皇に仕え、承久の乱後に順徳天皇の佐渡国配流に同行した。後に4代将軍九条頼経の御台所となった頼家の娘の竹御所の計らいによって、鎌倉に戻ったという。鎌倉に妙本寺を建立し、比企一族の菩提寺となった。建長5年(1253年)には日蓮に帰依していて、その後も比企氏の血統は生き続けることになる。
        

                                        拝 殿
比企郡川島町中山地域の田園地帯にある金剛寺には、15世紀から比企氏の墓所が多数存在する。
『新編武蔵風土記稿 中山村条』
「金剛寺 清月山元光院と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺末、本尊釋迦を安ず、開山詳ならず、後に比企佐馬助則員中興す、境内に則員が墓あり、法名元光元和二年三月十九日卒すと、今用る院號は此法謚に取し事知べし、則員子孫は村民にあり、
 
鐘樓。鐘は正保年間中興檀越則員の子、次左衛門義尚建立せしが、此鐘損ぜし故、延享年中改め鑄しと云」
        
                     本 殿
       
               境内社・左から八坂神社、天神社

       境内社・
白髭神社              境内社・稲荷社

『新編武蔵風土記稿』には「比企佐馬助則員」という人物が登場する。比企の乱後、生き延びた一族が、地方の所領に潜伏していたとも、名前を変え地元に潜伏していたとも、菩提寺である金剛寺に匿われていたとも、後北条氏のように比企地方を領有するための正当性を示すため当時の地元有力武士が比企氏を称したなど諸説がある。
 とにかく比企氏は室町時代初頭に再び比企地方に姿をあらわし上杉氏等に仕えた後、後北条氏の勢力が拡大すると後北条氏に仕えたとも言われている。江戸時代になると一族は幕府や諸藩に仕官、地元で帰農する等、その子孫は現代も脈々と続いている。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」「境内案内板」等

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吹塚氷川神社


        
              ・
所在地 埼玉県比企郡川島町吹塚205
              ・
ご祭神 素戔嗚尊
              ・
社 格 旧村社
              ・
例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9984292,139.4571073,17z?hl=ja&entry=ttu
 両園部氷川神社から埼玉県道74号日高川島線を北東方向に進路をとり、国道254号線を過ぎて350m程進んだ細い十字路を左折し、そのまま道なりに進むと最終的に突き当りとなり、その角地に吹塚氷川神社は鎮座している。
 社の西側には南北に通じる道路(?)があり、そこには駐車スペースも確保されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を行う。
        
                   吹塚氷川神社正面
 嘗て川島領・現在の川島町は、江戸時代には川越藩の米蔵と称され、米の生産量を誇ったというほどの一大穀物収穫地帯であり、それを支えたのが、この地域に存在する「中山用水」「長楽用水」の二大農業用水路である。この二つの農業用水路の歴史は古く、共にその起源は近世以前といわれているので、埼玉県下では、最古の部類に属する古い歴史を持つ用水路であるという。
 
            石製の鳥居              参道から社殿を望む。
 此の地は
穀物収穫地帯であったが、同時に荒川低地内に位置し、平均標高は11m12m。四方を越辺川・都幾川・入間川・市野川・荒川等の河川に囲まれているため、古くから水害に悩まされるのは宿命ともいえた。
 吹塚地域は西側に飛び地があるが、その地域は都幾川が越辺川に合流する下流域で、更に越辺川の流路が大きく蛇行する場所でもあり、堤防が切れやすく水害の常襲地帯でもあった。一旦越辺川等の河川が氾濫すると、この辺りは一面海のようになり、その場合「水害予備船」と呼ばれる水塚の軒先に吊るされた舟(揚舟)で行き来するよりほかに交通の手段がなく、僅かな高台がその中継所となったという。
        
                                      拝 殿
 氷川神社 川島町吹塚二〇五(吹塚字中町)
 川島町は四面を川に囲まれ、古くから水害に悩まされてきた。いったん越辺川や都幾川が氾濫すると、この辺りは一面海のようになり、船で行き来するよりほかに交通の手段がなく、わずかな高台がその中継所となった。町内にある吹塚・虫塚・東大塚などの地名は、このような大水の際に目標となった高台を示している。
 当社は吹塚の地名の由来となった塚の上に鎮座している。この塚は高さ五メートル・周囲四〇メートルほどの大きさで、氏子からは古墳であるとも、祭壇であるとも語られている。
 元来は、この頂上に御嶽神社を祀り、麓に氷川神社を祀っていたが、大正十五年に氷川神社の本殿を麓から頂上に引き上げて幣殿・拝殿を新築し、現在のような形となった。
 恐らく、村を開くに当たり、古くから神聖祝されていた塚の傍らに武蔵国一の宮氷川神社を治水の神として勧請し、後に木曾御獄信仰の流布に伴って塚上に御獄神社が祀られたものであろう。御獄神社の石造物に見える「江戸行者寛明院」「江戸永壽講」「慶応一ニ年(一八六七)」などの銘文から、江戸の修行者による布教がその創建の背景にあったことがうかがえる。
『風土記稿』には「氷川社村の鎮守なり、花蔵院持」とある。明治四年に村社となった当社は、大正四年に無格社神明社を合祀し、更に昭和三年には無格社熊野社とその境内社稲荷社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

 川島町吹塚地域の「吹塚」という地名は、「塚」という言葉を用いるように「高台」を意味する地域名であり、この「塚」と認識できるものが、吹塚地域に鎮座する氷川神社の社殿の奥に現実に存在している。
        
                社殿の奥にある「
吹塚古墳」
               墳頂には御嶽神社が祀られている。

 吹塚古墳(別称 御嶽山古墳)は一見円墳の形状に見えるが、他のHPを見ると、「方墳」と認識しているケースが多い。それらの総合的な見解では、一辺35m×高さ5mで、築造年代は不明とされている。
 因みに「埼玉の神社」では、氏子からでの話では、この塚は「古墳であるとも、祭壇であるとも語られている」と記されているので、古墳であるという証拠があるわけではないようだ。
 
 社殿の左側に鎮座する合祀社・稲荷大神、稲荷大神(写真左)。またこの合祀社の脇には板碑の破片が置かれている(同右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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