古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸口東入西神社


        
               
・所在地 埼玉県坂戸市戸口452 龍福寺境内
               
・御祭神 不明
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 夏祭り 710日を中心とした土曜日・日曜日
 坂戸市戸口地域は東武東上線北坂戸駅の西側に位置し、東側には高麗川が、西側には高麗川支流である葛川に挟まれた南北1.4㎞程、東西750m程の縦長の地域で、両河川が形成する低地面が大部分を占める。
 なお『新編武蔵風土記稿 戸口村』には「東西三町、南北四町許、水田少くして陸田多し、元より地形低くして川に添たれば水災ありと云、」と記されていて、川の氾濫によりしばしば水害を被る地域であったことも、この地形をみれば納得できよう。
 東入西神社は、元々当地に鎮座していた天神社に、蛇口神社・塚崎六所神社・新ケ谷稲荷神社・新ケ谷三島神社・中里大宮神社などを明治4142年に合祀して東入西神社と改称したという。
 蛇口神社については、俊海が法力で解脱させた蛇を祀って創建、その末社だった八幡社も地頭嶋田庄五郎重利が寛永21年(1644)にした記載されていることから、龍福寺開山に際して祀られたと伝えられている。
        
                                   
戸口東入西神社正面
          
龍福寺境内の一角に鎮座。この社も神仏習合の名残りが色濃く残っている。
 
          参道の様子         中武蔵七十二薬師初番、武州八十八所霊場30
                            
真言宗智山派寺院・龍福寺 
 戸口村 蛇口神社
 相傳ふ昔龍福寺の前の深田に、年久しく蛇住しを、同寺の開山俊海法力を以解脱せしめ、神に祝ひて蛇口神と號すと云、神體は十二天の内の水天に似たる像なり、龍福寺の持、
 天満宮
 此社は昔小名平天神に有しを、寛永年中今の地へ移せりと云、村の鎮守なり、同寺持、
 末社 八幡社
 神體は上差の矢の根なり、長七寸許、寛永廿一年正月廿九日地頭嶋田庄五郎重利が建立せし所なり、
                                『新編武蔵風土記稿』より引用
        
    拝殿手前で左側に祀られている境内合祀社。様式から三柱が祀られているようだ。
 境内社である八坂神社において、毎年7月10日を中心とした土曜日・日曜日には夏祭りが行なわれ、坂戸市無形民俗文化財である「戸口ばやし」が披露される。この囃子の流派は江戸神田囃子大橋流旧囃子で、大正時代に始まったという。
 因みに坂戸市無形民俗文化財指定年月日は平成9527日である。
       
                     拝 殿
 東入西神社 坂戸市戸口四五二(戸口字三谷)
 当地は高麗川の左岸の低地にあることから、川の氾濫によりしばしば水害を被った。
『風土記稿』では、江戸期に当地に祀っていた神社は「蛇口神社 相伝ふ昔竜福寺の前の深田に、年久しく蛇住しを、同寺の開山俊海法力を以解脱せしめ、神に祝ひて蛇口神と号すと云、神体は十二天のうちの水天に似たる像なり、竜福寺の持」「天満宮 此社は昔小名平天神に有しを、寛永年中今の地へ移せりと云、村の鎮守なり、同寺持、末社八幡社、神体は上差の矢の根なり、長七寸許、寛永廿一年正月廿九日地頭嶋田庄五郎重利が建立せし所なり」と載せ、このうち天満宮が当社である。
 明治四一年前記の蛇口社ほか七社を合祀し、次いで同四二年に大字中里字前の大宮神社を合祀しているが、これらのうち大字塚崎字根の六所神社・大字新ケ谷字上島の稲荷神社・同字新ケ谷の三島神社の三社は、氏子が合祀を認めず、社殿が現存し、祭りも続けられている。当社は、この合祀により東入西神社と改称して、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
        
                             東入西神社 拝殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「坂戸市HP」等
                  

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小山入西神社


        
                             ・所在地 埼玉県坂戸市小山72
                             ・ご祭神 須佐之男命 稲田姫命
                             ・社 格 旧村社
                             ・例祭等 不明
 北大塚石上神社から一旦北上し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線の終点である小山三叉路から同県道に合流して西方向に進行する。同県道37号川越坂戸毛呂山線が交わる「善徳寺」交差点をそのまま直進し350m程先にある丁字路を右折する。道幅の狭い道路なので、道路状況を確認しながら300m程進むと、左手に小山入西神社の赤い鳥居と規模は小さそうだが鬱蒼とした森のような社叢林が見えてくる。
        
                  小山入西神社正面
 小山入西神社が鎮座する坂戸市小山地域は、現在の坂戸市の北西部に位置し、北を越辺川、南から東を高麗川が流れ、その合流地点西方の台地に位置する。『新編武蔵風土記稿』によると、昔は「小山村」として紹介されており、1889年(明治22年)41日町村制施行により、東和田村、新ヶ谷村、戸口村、中里村、塚崎村、堀込村、新堀村、北大塚村、北峰村、沢木村、金田村、今西村、北浅羽村、竹之内村、長岡村、小山村、善能寺村の17か村が合併し入西村が成立したことにより、小山村は消滅した。
 その後
1954年(昭和29年)71 - 坂戸町、大家村、勝呂村、三芳野村と合併し新たに坂戸町が成立、入西村は消滅し、旧村域は現在「入西地区」と称されている。
        
             かなり個性的な小山入西神社の赤い鳥居
 入西(にっさい)という地名由来として、嘗てこの地域を入間郡の西方という意味で「入西領」と称していたことによる。時には「入西之郡」「仁西之郡」と書かれている書簡も存在する。「小代文書」の系図によると、入間郡の西郷という意味であるといい、具体的には、高坂郷・浅羽郷・越生郷に属する村々の総称である
        
                     拝 殿
 入西神社 坂戸市小山七二(小山字北林)
 当社の鎮座する小山は、越辺川と高麗川の合流点西方の台地にあり、口碑によると、坂戸氏から出た平田氏が開いた地という。
 当社は本来、氷川神社であり、須佐之男命と稲田姫命を祀る社で、神仏分離まで竜光寺が別当を務めていた。また、当社は明治四一年まで社が上宮・下宮に分かれていた。現在、境内地前方に“オハヤシ山”と呼ばれる雑木林があり、古くはそこに下宮の社があったが、合祀時廃されて今は無い。
 明治二二年の町村合併により、小山以下一七ヵ村が合併し、入西村が成立した。村名は、近世当地域を入西領と呼んだことに由来する。
 明治四一年に大字長岡の氷川・愛宕・日枝社、竹之内の稲荷社、善能寺の天神・琴平社、小山の氷川・八幡・熊野社、掘込の三島・日枝・稲荷社、新堀の金山・稲荷・愛宕・日枝社、更に大正元年には北峰の稲荷社・同境内社稲荷神社が合祀され、社号を氷川神社から村名にちなみ入西神社と改め、小山・長岡・竹之内・善能寺・掘込・新堀・北峰の旧七ヵ村の村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
         本 殿             鳥居の北側にあるもう一つの鳥居
『新編武蔵風土記稿』には「社は二ヶ所建て、上宮・下宮と呼ぶ、村の産神なり」と記載されている。このもう一つの鳥居は上宮・下宮どちらかの鳥居であったのであろうか。
 
   社殿の右側に祀られている境内合祀社     社殿と境内合祀社との間にあるお社  
                           規模が大変小さく可愛い。
        
                                   社殿からの風景

 武蔵七党の一つとして数えられる児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に秩父・上野国辺り、またこの入西地域まで拠点を置いていた。
 児玉党本家2代目児玉弘行の次男である有道資行(すけゆき)は、「入間郡小代郷の地頭職を賜わって」分家し、入西三郎大夫資行と称した。
 その長男・行業(ゆきなり)は、浅羽小大夫と称し入間郡浅羽に住し、次男・次郎大夫遠弘は小代郷を相続、更に三男・有平は越生を領し、それぞれ「小代」「越生」と称し、分かれていった。また浅羽小大夫行業の長男・三郎行親は浅羽を継ぎ、次男・盛行は「小見野四郎」、三男・行直は「栗生田五郎」と称して、独立しが、「入西」姓はだれも継承する人物は出てこず、1代限りで終わる


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市図書館/鶴ヶ島デジタル郷土資料」
    「Wikipedia」等

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北大塚石上神社

 大塚村 石上社
 神體は長四尺、横一尺許の赤き石なり、相傳ふ此社地の下は、昔高麗川の流通せし所にて、此の神體は川中より出しものなりと云、かゝる石はいくばくも有べきものなるに、いかなれば殊更には祀りけん、其故を傳へず、今村の産神とす、社の建る所は登り二十間許なる丘の上なり、明學院持なり、
『新編武蔵風土記稿』より引用
 社地は高台にして、大なる古墳にかゝれり。大塚の名或は此辺に原づきしやも計られず。台下は古高麗川の流域なりしと云ふ。奇木あり。周囲一丈余。社の傍に神職木下氏ありと云ふ。
『入間郡誌 石上神社』より引用

        
              
・所在地 埼玉県坂戸市北大塚138
              
・ご祭神 不明
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春祈祷 415日 例祭 1015
 厚川大家神社から埼玉県道114号河越越生線を北西方向に進む。高麗川を渡り切った最初の十字路を右折し、高麗川河川敷沿いの道路を道なりに1.5㎞程進行する。その後「坂戸市立若宮中学校」の北東方向で、緩やかな上り斜面上の先に見える社叢林に囲まれた高台上の頂上部に北大塚石上神社は鎮座している。
        
                  北大塚石上神社正面
 北大塚石上神社は、成願寺2号墳(石上神社古墳)の頂上部に鎮座している。墳形は前方後円墳といわれているが、見た目では判別はできない。全長約50m、後円部径約10.3m。築造年代は6世紀前半~6世紀末(推定)。鴻巣市明用地域にある「明用三嶋神社古墳」と同規模の古墳で、どちらも河川に接して古墳が築造されていることから、水上交通等で利益を出した在地豪族長の墓であるかもしれない。
        
                   石製の鳥居正面
        石段好きの筆者にとって、この石段からのアングルはたまらない。
        
          石段は2段の遊びを経て、拝殿に通じる墳頂部に達する。
        
                             北大塚石上神社境内
 北大塚石上神社が鎮座している北大塚地域は、坂戸市「坂戸市都市計画マスタープラン」において地域割がされている5地区(「三芳野」「勝呂」「坂戸」「入間」「大家」)のうちの一つである入西(にっさい)地区に所属し、この地区の南部に位置する。
 入西地区は、市の西部に位置し、北は東松山市、鳩山町、西は毛呂山町に接し、越辺川が東松山市、鳩山町との境を、高麗川が地区の南縁部を流れている。また、地区の中央部は、良好な市街地が形成されつつある。 地区の区域は、新堀、堀込、小山、善能寺、竹之内、長岡、北浅羽、今西、金田、沢木、東和田、新ヶ谷、戸口、中里、塚崎、北峰、北大塚及びにっさい花みず木となり、面積は、約717.9haである。北大塚地域は、南西から北東に緩やかに蛇行しながら流れる高麗川左岸に位置し、河川で形成された平野面に農地と民家が立ち並ぶ長閑な地域である。
 ところで『新編武蔵風土記稿 大塚村』には「水田少くして陸田多し、用水には高麗川の水を引く、是は大久保村の地にて分水し、夫より村内に漑ぐ故、動もすれば足ざるを患ふ、又洪水の時は彼川漲り来る故、水旱共に患多し」と記されている。
 北大塚石上神社の南側で、高麗川堤防裾には「九頭龍神社」が祀られているが、そもそも「九頭龍神」とは水を鎮める神様であり、荒川水系には幾多の同神が祀られており、この地域は嘗て水害等の被害が多かった場所でもあったのであろう。
              
          参道左側に設置されている「石神神社の由来」の石碑
 石神神社の由来
 石上神社の起源については詳らかではないが木下宮司の家に傳わる古文書に依れば此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(一三〇二)の頃氏神塚の下の川の深い渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであると記されて居る。
 後に川の流が南に変りその跡へ広伝寺が移り来って石上明神の別当職となり栄えたが天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉小田原攻城の際その手勢によって焼き払われ「これによって三芳野天神の堂宇尽く焼失せり」云々とあり爾来堂宇の再建中々成らず長い間雨風に晒されその為氏子の雪隠に屋根を葺かない習慣となり「大塚の屋根なし雪隠」と云ふ言葉が生れる程であったと云ふ。これについて県文化財保護委員大護八郎氏は「初めは三芳野天神であり焼失後再建され勧請されたものが石上明神である事は明らかである」と指摘して居る。拜殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(一七六七)揮毫し篆刻奉納したものである。
 文化六年(一八〇六)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拜殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。
 大正十五年春屋根の葺替えを行い昭和六年柏槙の天然記念物指定により後方へ約二米程引き昭和三十五年本殿覆殿の根継ぎを行ひたるも拜殿の破損著るしく昭和五十二年遂に解体しこれを再建しようとする氏子の熱意により内外より多額の浄財の寄進を得て精緻を極めた彫刻類は悉く使用し坂戸市仲町安斉利一氏の手に依って昭和五十三年十月竣工したものである(以下略)。
                                      石碑文より引用

        
                                       拝 殿
        
                               拝殿上に掲げてある扁額 
        
                拝殿向拝部の見事な彫刻
   よく見ると木目の年輪をうまく利用して、龍の鱗や胴体部を生々しく表現させている。
 
 特に拝殿木鼻部位の龍の彫刻は年輪を生かした生き生きとした表現である(写真左・右)。
       
               境内に聳え立つ「入西のビャクシン」(埼玉県指定天然記念物)
     この大きなビャクシンの巨木の捩じれ具合は迫力があり、一見の価値はある。  
        
       「石神神社の由来」の石碑の隣にある「入西のビャクシン」の案内板
「入西のビャクシン」 埼玉県指定天然記念物
 樹高十二メートル、幹回り約三・五メートル、直径約一メートルで、幹が右回りにねじれていることから、「ねじれっ木」と呼ばれて、大切にされています。昔、徳の高いお坊様が、地面に突き立てた杖が根付いたと伝えられています。
 ビャクシンはヒノキ科ビャクシン属の常緑針葉喬木で、イブキ、イブキビャクシンなどと呼ばれています。
 昭和六年に埼玉県の天然記念物に指定され、当時の入西村の地名をとって、「入西のビャクシン」と名付けられました。
 ビャクシンは、臨済宗の寺院に多く植えられており、臨済禅宗と密接な関係にあったようです。 現に湯河原の城願寺、北鎌倉の建長寺、川口の長徳寺などに見られます。
 入西のビャクシンの近くにある成願寺は、臨済宗の僧乾峰士雲が開いたと伝わる寺です。
 乾峰士雲は、文和四年(一三五五)に鎌倉五山の建長寺・円覚寺の住職を兼ねた高僧でした。
 現在、この地は、石上神社の境内になっていますが、もとは成願寺の境内だったと考えられます。
 成願寺創建にちなんでビャクシンが植えられたとすれば、文和四年以後のことで、樹齢六五〇余年となると考えられます。
 入西のビャクシンは、天然記念物としてだけでなく、歴史の証人としても生き続けているのです。
                                      案内板より引用

 ところで、拝殿にて参拝を済ませた後に、拝殿脇にパンフレットがあり、その最終ページには「北大塚の石上さま」という伝承・伝説が載せてあった。
        
                          「北大塚の石上さま」のページ
 北大塚石上神社の創立由来は、嘉元二年に近くの渕の中から漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し、当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであるとする社伝があり、それが後代「子孫繁栄・安産や厄除け」等のご利益に変化して、伝承として物語もつくられたのではなかろうか。また当時の地域周辺の方々にもその評判は広がり、御利益にあやかろうと多くの参拝客が訪れたのであろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「石上神社HP」「境内石碑・案内板・パンフレット」等

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厚川大家神社

 
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市厚川135
              
・ご祭神 清寧天皇 武内宿禰 諏訪大神
              
・社 格 旧厚川村鎮守 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 217日 春例祭 315 諏訪祭 826
                   
秋例祭 1016 (おくんち) 新嘗祭 1123
 片柳飯盛神社から国道407号線を5㎞程南下、坂戸市街地を抜け、鶴ヶ島市役所に通じる「市役所前」交差点を右折する。埼玉県道114号河越越生線合流後、西方向に進路を取り、東武越生線の踏切を越え、そこから「一本松」交差点の五差路を県道に沿って北西方向に進む。350m程進み、県道が大きく左カーブする手前で進行方向左手に厚川大家神社の鳥居が見えてくる。比較的交通量の多い県道沿いに鎮座しているにも関わらず、社殿は県道から奥手に鎮座しているせいか、見逃してしまうような目立たない場所。しかし参拝してみると、県道の正面入り口は狭いが、境内は思った以上に奥行きもあり、流石に嘗ての厚川村鎮守社、旧村社としての風格を兼ね備えた立派な社であり、日頃の手入れも行き届いているようだ。
 正面に立つ鳥居と社の境内北側に隣接する「坂戸市消防団大家分団第3部」との間に境内に通じる舗装されていない道があり、そこに移動し、撮影等に支障にない場所に車を停めてから参拝を開始した。
        
                  厚川大家神社正面
        鳥居正面を撮影したかったが、交通量が多く、その撮影は断念。
 坂戸市は埼玉県のほぼ中央に位置し、面積は41.02k㎡、東西に12.7km、南北に9.3kmで、東西に長い地形である。
 「坂戸市都市計画マスタープラン」において、市民になじんだ地域割と共に、坂戸市の特徴をより細かくとらえる為に、幾つかの地域割がされているが、その一つとして公共施設(学校、公民館、集会所等)との関係を重点に置いた地域設定がされており、最も一般的なのが当プランの5地区である。東側から「三芳野」「勝呂」「坂戸」「入間」「大家」の各地区である。
 その中の大家地区は、市の最西端に位置し、北東から南西にかけて長い形の地区である。東南は鶴ヶ島市、日高市、西は毛呂山町に接し、東武越生線西大家駅を有し、高麗川が地区中央部を流れている。 地区の区域は、森戸、多和目、四日市場、厚川、萱方、欠ノ上、成願寺、けやき台、西坂戸及び鶴舞となり、面積は、約690.7haである。村名の由来は、嘗てこの地が『和名抄』において、「大家郷」の在った所であるという伝承による。
        
                    境内の様子
        県道沿いの入口は狭く感じたが、比較的参道は長く、奥行きもある。
 
        参道を進むと正面右側にご神木が孤高に聳え立つ(写真左・右)

『日本歴史地名大系 』には「大家郷」の解説が載っている。
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本に「於保夜計」、東急本・元和古活字本に「於保也介」、名博本に「ヲホヤケ」の訓がある。「万葉集」巻一四に「入間道の大家(おおやが)原のいはゐ蔓引かばぬるぬる吾にな絶えそね」とみえる。「大日本史」国郡志・「日本地理志料」「大日本地名辞書」は現大井町から富士見市にわたる一帯とし、「風土記稿」「埼玉県史」は現坂戸市の森戸(もりど)を中心とする一帯とする。
        
                境内に設置されてある案内板
 大家神社(しらひげさま、おすわきま)
 鎮座地 坂戸市大字厚川字宮方一三五番地
 御祭神 猿田彦大神 (教導神) 天孫降臨の道案内をしたといわれて寿福縁結びの神である。
     清寧天皇 (第二十二代白鬚皇子)
     宿彌 (長寿神)
     諏訪大神 (国土開発、事業神)
 由 緒 鎮座の年は不詳であるが、厚川、萱方、十余戸の鎮守として白鬚神社と稱し草分当時
     の創立と伝ふ(新編武蔵風土記稿) 。
     元禄十四年三月(一七〇一)古文書に二十四年前お宮新造の記あり。
     明治五年、諏訪大神(厚川字諏訪) 合祀し村社に列格。
     明治四十年、大家神社と改稱(以下略)
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 大家神社 坂戸市厚川一三五(厚川字宮方)
 当地は高麗川の南岸に位置している。『風土記稿』によると、当社は村鎮守で、村民持ちであり、白髭社と称していた。
 社のそばには村の草分けである小谷野一家の、東宮・西宮・中宮の屋号で呼ばれる三軒がある。このうち東宮は本家格の家で神社に近いことから宮方または宮の家といわれ、白髭社はもとこの家の屋敷鎮守であったものが後に村持ちになったと伝えている。更に、祀職も明治初めまでは東宮で奉仕が続けられていた。
 祭神は猿田彦命・清寧天皇・武内宿禰の三柱である。明治末年まで白髭神像が内陣に安置されていたが不心得者によりこれを失った。
 本殿は一間社流造りである。社殿の造営記録に『拝殿立替に付鎮守白髭体明神人足出入控帳』が現存し、天保三年辰三月吉日と記されている。
 明治以降の祀職は、小谷野家の後、大字森戸の中島家が奉仕し、次いで石川家が継ぐところとなった。石川家は、神仏分離まで長く越生の本山派修験山本坊の配下修験で、不動明王を祀り諸国を修行し、当地に来てからは諸祈祷を修して活躍した。
 合祀は明治三〇年と同四〇年の二回行われ、八坂社・稲荷社・諏訪社・白山社・神明社・厳島社・熊野社が集められた。また、この合祀の結果、当社は社名を旧村名にちなみ大家神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                                     拝殿内部正面
        この社の拝殿は神楽殿のように正面が全く見開き状態で不思議な造り。
 
        拝殿内部左側                 同右側
       
                              社殿の右側にある神楽殿

     神楽殿奥に祀られている境内社。        境内社の左隣にある石碑群等
  左から
金比羅神社 蚕影山神社 八坂神社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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荒川上田野若御子神社

 旧荒川村は嘗て埼玉県の南西部、秩父郡に位置していた村であり、東は秩父市、西は大滝村、南は東京都西多摩郡奥多摩町、北は両神村・小鹿野町・秩父市に接していた。北部を西から東に荒川が流れ、同川には町の西部で贄川(にえがわ)沢と谷津(やつ)川、中央で安谷(あんや)川、東部で浦山川が合流する。荒川に沿って国道140号線と、秩父鉄道(地内の三峰口駅が終点)が通る。南部は県境にある酉谷(とりだに)山から北西方と北東方へ延びる尾根に挟まれた急峻な山地で、集落はおもに北部の荒川河岸段丘上に集中している。
 2005年(平成174月秩父市に合併・消滅し、現在は秩父市の中央部を占める。
 旧村名は荒川が流れることによる。養蚕が盛んであったが、昭和40年代から衰退し、その後はソバ、野菜の栽培が行われ、ブドウ、クリなどの観光農園が多い。
 荒川上田野若御子神社は旧荒川村上田野地域に鎮座する村の鎮守様であり、秩父地方に点在する狼信仰の一社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市荒川上田野698
             
・ご祭神 神日本盤余彦尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭(春祭り)4月第三日曜日 神幸祭81日 
                                
新嘗祭 1123
 上影森諏訪神社から国道140号線で2㎞程西行し、コンビニエンスストア手前の十字路を左折する。因みにその十字路左手には「清雲寺・若御子神社 表参道入口」の看板がある
その後300m程進んだ細い路地の正面に荒川上田野若御子神社の一の鳥居が見えてくる。
 秩父市街地からも離れ、国道に沿って西側は秩父山系の山脈がまじかに見える。山好きの筆者にとってこの風景がたまらない。時に車を降り、澄み渡る空気を体いっぱいに吸う。
標高もやはり高いせいかひんやりと感じる中、何より一帯の空気が違う。埼玉県内にありながらもここまで違うものかと感じ入る。ここまで来れば三峰口までもうすぐの距離だ。
        
               
荒川上田野若御子神社の一の鳥居
             鳥居の前には一対の狛「狼」が迎えてくれる。
 参拝日は紅葉が見頃ギリギリの季節で、風は冷たかったが、周囲の景色も相まって素晴らしい参拝を満喫することができた。
 鳥居から真っ直ぐに伸びた先に二の鳥居があり、そこからが境内となる。社に隣接して「
清雲寺」があり、また専用トイレも併設されていて、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始した。
        
                     荒川上田野若御子神社・二の鳥居付近を撮影
『日本歴史地名大系』には旧「上田野村」の解説が載っている。
 [現在地名]荒川村上田野
 
荒川の上流右岸に位置し、西は安谷(あんや)川を境に日野(ひの)村、東は浦山(うらやま)川を境に久那(くな)村、北も荒川を境に同村。南には天目(てんもく)山等の高山が連なり、集落は北部に集中している。秩父甲州往還が荒川に沿い東西に通る。近世初めは幕府領、寛文三年(一六六三)忍藩領となる。田園簿では高三九一石余・此永七八貫三一七文とある。文政六年(一八二三)の書上帳(井上家文書)によると村高五五九石余、うち五二三石余は慶安五年(一六五二)の検地高、残る三六石余は寛文三年から文化三年(一八〇六)まで一三回行われた改畑高であった。「風土記稿」によると水田は少なく、ほぼ畑三分・山林七分の村方で、南に連なる高山のため雨期には水害を受けやすかった。耕地が石地のため干害もあり、また猪・鹿の害もあった。
        
 二の鳥居手前の道路沿いに設置されている「県指定天然記念物 若御子断層洞及び断層群」の案内板。

 社の境内から急な山道を10分ほど登っていくと、「若御子断層洞」という洞窟がある。これは秩父盆地と南側の奥秩父山地との境界をなす断層「日野断層」の一部で、断層がずれて岩石が砕けたところが水によって洗い流されてできた洞窟を「断層洞」という。
 断層がずれた際に擦り合わされて磨かれた「鏡肌(かがみはだ)」という箇所があり、線状のすり傷が見られ、 断層面が直接観察できる場所は珍しいとの事だ。

 県指定天然記念物 若御子断層洞及び断層群
 指定日 昭和3531
 若御子断層洞は、若御子神社の南約100メートルのところにぽっかりと口をあけています。断層洞のある崖は、秩父中・古生層のチャートというとても硬い岩石でできています。
 断層洞とは、断層破砕帯の中の粘土や礫が、地下水によって洗い流されたために生まれた空間のことで、世界的に見ても例の少ない、貴重なものです。洞内の岩肌には、断層によって生まれた、平らで磨かれたような断層の面(鏡肌)が見られます。また、鏡肌には、断層が生じるときのすり傷(条線)も観察できます。
 また、この一帯には、無数の断層がほぼ東西方向に走っていますが、このような断層の集まりを断層群といい、ここは「日野断層群」と呼ばれています。
 以上のように、この地域は、断層面・鏡肌・条線・断層粘土・断層角礫など、断層に関連する種々の現象が観察できる、学術的に貴重なところです。
 平成63月 埼玉県教育委員会 秩父市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                       二の鳥居
 二の鳥居前には石段があり、そこを過ぎると神楽殿や社務所が設置された広い空間があるが、そこからまた数段の石段を登らなければ社殿に通じる空間に到着できない。境内は思った以上に複雑であるが、山岳斜面上に鎮座している社であるが故に斜面を均して平地面をつくり、土台を補強して境内を作り出す作業は困難を極めただろう。斜面を補強するために積み上げた石垣は、灯篭等の奉納品がなければまるでお城のようだ。この地にこれ程の社を作り上げたことに対する畏敬の念を感じずにいられない。
 
            二の鳥居前に鎮座する狛「狼」(写真左・右)
 この「狼」の石像は、全体的には「瘦せ型」・頭部は「扁平」。口には「牙」もあり、よく見ると左側の像は「歯」も生え揃っている。また一の鳥居の一対の狛「狼」は参道側正面を向いているが、こちらはお互い向き合っている。他の社に関しても、複数狛犬が配置されている場合で、このように「狛犬」の向き方が違うケースも時折見られるが、向き方の違いには何か法則、ないし因果関係があるのであろうか。
        
             二の鳥居を過ぎると左手に設置されている「神域改修事業奉賛記念碑」
 神域改修事業奉賛記念碑
 当平成元年は大正四年当神社若御子山旧社より御遷座七十五周年に相当す此間昭和十五年は当社御祭神「神日本磐余彦尊」神武天皇紀元二千六百年の挙国奉賀を機し境域及参道の整備等行い現今の整然たる神域を成せり以後幾度か改修もなされしが年古るに従い森厳の気漲るも風雨寇なし築礎崩壊の兆現るを危惧す此を憂い当社宮司故岩田真久氏は氏子総代と相計り神域改修事業を計画するや関与者昼夜力を合せ奔走六百有余名の氏子及当社崇敬者より浄財を蒐め工を起す併て神殿築礎の石積構築改修を行い境内新玉垣奥宮社の覆屋神宝舎の新築又境内整備等神域の大改修を行えり為に景観至処神韻瑞気漲り神徳宏大無辺弥栄に高し嗚呼偉業善哉関与者の熱誠賛助者の協力高邁也此に其功を碑に刻し永く後世に伝う
正に神明之を嘉し賜うべし(以下略)
                                   奉賛記念碑文より引用

        
                       神域改修事業奉賛記念碑の並びにある神楽殿
    神楽を奉納する舞台の右脇には、笛や太鼓等演奏用のスペースもあるあまり見ない形態。
  舞台の神楽同様に演奏者を正面に置くこの配置は「見せる演出」としては面白いと感じた。
        
 神楽殿や社務所のある境内から社殿に向かうには、数段の石段を登らねばならず、その途中には少し広めの遊び場があり、石段を中心に左側には手水舎が、右側には神賓舎が設置されている。

          手水舎                                      神賓舎
       
            手水舎のすぐ奥に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 拝殿は石段が上り終えた、その正面には鎮座していない。そこから一旦進行方向左側に曲がり、その先に鎮座している。社殿のある空間は斜面が比較的目の前に見える為、奥行きはほどほどにして、左右を広げるように削平したのでろう。そのため社殿は正面参道、ないし石段からは横を向いているように見える。
*追伸 この社は確認すると西向き社殿である。西向きという事は、その延長線上のお祭りする対象は、奈良県にある神武天皇の御陵墓か、または狼信仰のメッカである三峯神社だろうか。
 当社の由来
 当社は若御子神社と申し御祭神神日本磐余彦尊神武天皇様が奉斎されている
 若御子神社の称号は御祭神「神武天皇様」の別御呼名若御毛沼命の若御毛からではないかと推察される
 御創立は人皇第四十五代聖武天皇御宇、天平年間(西暦七三〇年代)上田野の主峰若御子山の頂きに祀斉されたのが、当神社創始の起源とされ、後延暦十三年(西暦七九四年)若御子山の峰岳にお社が造営され、若御子十二社宮と称される
 社伝縁起には醍醐天皇の御宇、延長八年(西暦九三〇年)神官従五位守屋大和守物部吉清再建とあり神社宝物の御神鏡に刻されて居る
 当社は古くより武将達の崇敬が厚く、天慶年間、藤原秀郷、平将門を討伐の時当社に戦勝を祈願したとあり、建久二年鎌倉幕府源頼朝、戦勝と武運長久を当社に祈願する。天文十四年足利将軍義晴、当社の社殿を造営せしむ。神社はこの時峰岳より旧社地若御子に遷座され、若御子十二社権現宮と称される
 永禄十二年武田軍の兵火に罹り、社殿、宝物旧記等ことごとく消失す
 慶長六年五月社殿を造営す。現在の本殿は即ち是なり
 明治二年若御子十二社権現宮を改め、これより若御子神社と称する
 大正四年神社の移転許可され、大正五年若御子山より現在地に遷座される
 昭和十五年御祭神神武天皇御即位二千六百年を記念し神域の大改修が行われる
 平成二年、当社御遷座七十五周年事業として、現神域の大改修が行われる
                                     境内案内板より引用
 
   拝殿に掲げてある扁額と神武天皇          拝殿脇から本殿を撮影
                          (関係者以外立ち入り禁止の為)
 十二所權現社
 若御子山にあり、本社二間に九尺、三社合殿、造上屋三間に四間、神體木の坐像長九寸五分狩衣烏帽子を着せり、その餘不具なる木造幾體もあり、いづれも古色なり、又十一面觀音の木立像長一尺二寸、三寶荒神の木立像長一尺七寸なるを安ず、共に古色なり、貞享年中再造の棟札に、天文十四年の建立とのせたり、一段三畝廿四步の除地あり、神職は吉田家の配下にて、守屋豐前なり、
 風穴橋 社前にあり、巨岩によりて道を設けり、長三間餘、幅四尺許、屋根ありて廊下の如し、其下盤岩に穴あり是を風穴と云、徑リ一尺四五寸、深さ知るべからず、土人是より靈風を吹出すと云う、
 鳥居 社より三町ばかり山下にあり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

     
                     社殿前方にあるご神木(写真左・右)
       
 境内にあるご神木の近くで、斜面上に祭られている境内社。一番左は稲荷社か、それ以外は詳細不明。
       
                                  境内での一風景
        
             荒川上田野若御子神社西側に隣接している御霊神社
     「静かに佇む」という表現がピッタリの社。ご祭神、由緒、創建等全く不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・石碑文」等
 

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