古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

袋神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市袋248
              
・ご祭神 稲田姫命
              
・社 格 旧袋村鎮守 旧村社
              
・例 祭 神武祭 43日 大祓 620日頃 12月 夏祭り 715日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0995013,139.4676917,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を北鴻巣方向に進み、埼玉県道307号福田鴻巣線が合流する「袋」交差点を左折する。この交差点付近には、県道沿いにショッピングモールや家電センターもあり、途中経路として最適な場所だ。交差点を左折後、道なりに300m進むと左側に袋神社が見えてくる。
 周辺は住宅街が並ぶ一角に鎮座する社。鳥居の先には駐車スペースもあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                    袋神社正面
 この地周辺を確認すると、袋神社の西側で、国道17号の東側に国道に沿うように元荒川の旧河道跡が残っている。昭和初期に行なわれた元荒川・支派川改修事業で、元荒川の蛇行区間を直した祭に残ったものという。現在旧河道の跡は、水辺公園として整備されている。
 袋地域は元荒川が北へ流れを変える部分の西側に位置し、地名は元荒川が大きく蛇行して袋状になっていることに由来するという。また周辺地域には「前砂」「砂山」という地名もあり、旧荒川の氾濫等で土砂を堆積された地形が地名になったことが伺え、どちらにしても河川に関連した地名由来であることは間違いなかろう。
 
          袋神社参道             参道途中には石祠群が並んで鎮座
                          左から天満天神 塞神 雷神 宇賀神
            
                    
袋神社碑
         袋神社碑      從三位勲一等男爵澁澤榮一篆額
        秩父之山嶢突兀崒然矗峙於莽蒼之中刀根之水渺瀰回縈汪焉奔注

        于廣野之間斯山斯水襟帯流峙闢成曠區曰武蔵野我下忍邨大字袋其
        一聨邑也古荒川之水還流為境形若括囊故名云居民素樸勤業奉公敬
        神四鄰嚮為規範郷内素有女體伊奈利諏訪天神雷氷川六祠歳時伏蠟
        敬祀奉誠明治四十五年官命合祀諸祠於女體神社大正二年改稱袋神
               社為一郷之珹隍越二年大正四年秋  天皇舉登極之大典郷人感誠
        醵資興工新構祠宇至五年二月工畢矣今試賽斯祠仰望秩嶺之矗峙乎
        天際俯覩刀水之貫流于曠野崇髙之氣勁正之節自生孤髙介特之風範
               顧日露之役壮丁従軍老弱報效闔郷一致使我閭閻永與山川媲美者咸
        敬神奉公斯倚也傳曰國之大事在祀與戒是此之謂歟銘曰(以下略)
               石碑文より引用
        
                     拝 殿
        
                                   袋神社 御由緒
 袋神社 御由緒 吹上町袋二四八
 □御縁起(歴史)
当地は元荒川が北へ流れを変える部分の西側に位置する。地名は元荒川が大きく蛇行して袋状になっていることに由来する。村の開発の年代は明らかでないが、慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』には一村として載る。また『元禄郷帳』には当村とは別に袋新田が見え、元禄十五年(一七〇二)以前に当村から分村したことがわかる。
 当社は、元は女体社と称していた。その創建の年代は明らかでないが、境内にある最も古い石造物は「奉寄進石燈籠 宝永五戊子年(一七〇八)十月日施主村中」と刻まれる社前の灯籠である。『風土記稿』袋村の項を見ると、村内の神社について「女体社 村の鎮守なり、祭神は稲田姫命、西福寺持、末社辨天〇諏訪社〇稲荷社〇雷雷社〇天神社 以上五社西福寺持」と記されている。これら各社の別当であった西福寺は、当社の南西五〇〇Mほどの所に堂を構える真言宗の寺院で、女体山阿弥陀院と号する。寺伝によれば、天正年間(一五七三-九二)のころ、指田三郎左衛門の地所に墓地を設け、その中に阿弥陀堂を建立した。
 その後、慶長十八年(一六二ニ)法印秀海の求めに応じて、その地に不動明王を本尊とする本堂を建立した。
 神仏分離を経て当社は明治五年に村社となり、同四十五年には字道上の諏訪神社、字前屋敷の伊奈利神社と氷川神社、字台の雷神社と天神社の計五社の無格社を合祀し、大正二年に社号を袋神社と改めた。
 □御祭神と御神徳
 ・稲田姫命…五穀豊穣、縁結び、家内安全
                                      案内板より引用

 袋神社のご祭神は稲田姫命という。正式名は櫛名田比売で、別名として奇稲田姫、稲田媛、眞髪觸奇稲田媛、久志伊奈太美等与麻奴良比売命との記載もある。櫛名田比売(くしなだひめ)は、日本神話に登場する女神であり、高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオが、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われている大山津見神の子である足摩霊(アシナヅチ)・手摩霊(テナヅチ)の夫婦と、最後に残った娘である櫛名田比売と出会う。夫婦の話によると、もうじき最後に残った末娘の櫛名田比売も食われてしまう時期なのだという。哀れに思うと同時に、愛しくなったスサノオは、櫛名田比売との結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出た。スサノオの素性を知らないアシナヅチとテナヅチは訝しむが、彼がアマテラスの弟と知ると喜んでこれを承諾し、櫛名田比売をスサノオに差し出す。その後スサノオによりその身を変形させられ、小さな櫛になり、スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦い退治する。
       
                 社殿の右側にある御神木
     袋神社のご神木であり、同時に「鴻巣市保護樹林」に指定されている銀杏の木

 名前は通常、『日本書紀』の記述のように「奇し稲田(くしいなだ)姫」すなわち霊妙な稲田の女神と解釈される。 原文中では「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)にその童女(をとめ)を取り成して~」とあり、櫛名田比売自身が変身させられて櫛になったと解釈できることから「クシになったヒメ→クシナダヒメ」という言葉遊びであるという説もある。さらに、櫛の字を宛てることから櫛名田比売は櫛を挿した巫女であると解釈し、ヤマタノオロチを川の神として、元々は川の神に仕える巫女であったとする説もある。
 もうひとつは、父母がそれぞれ手摩霊・足摩霊と「手足を撫でる」意味を持つ事から「撫でるよ
うに大事に育てられた姫」との解釈もあり、倭撫子(やまとなでしこ)の語源とされる。

 古事記、日本書紀共に記されているこの素戔嗚尊と櫛名田比売の物語は、天つ神と国つ神の結婚が、やがて日本を作った大国主尊の誕生に繋がるということを伝えたかったと考えられる。そしてその基盤こそが古くからの稲作儀礼であったことを強調するための物語といえるのではなかろうか。

       
              
社殿の左側で道路沿いにある御神木
     こちらも袋神社のご神木であり、同時に「鴻巣市保護樹林」に指定されている銀杏の木

  日本各地の多くの神社では、稲田の神として信仰を集めており、日本各地の神社で祀られている。そのほとんどが、全国にある氷川神社がその代表であるように、夫のスサノオや子孫(又は子)の大国主などと共に祀られているケースが多く、櫛名田比売を主祭神として単独で祀る社は少ない。
 鴻巣市袋地域に鎮座する袋神社は嘗て「女体社」と称していた。奇しくも埼玉県さいたま市緑区にある「氷川女體神社」と同じ名称であり、ご祭神も共に稲田姫命(櫛名田比売の別名)が祀られている。
 袋神社の持ち寺だった西福寺の山号は、「女体山」である。女体とは古代からの信仰であり、船霊を祀る場合が多いともいう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」


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小谷日枝神社

 鴻巣市小谷地域は、荒川中流域の左岸に位置し、標高は16m18m弱と沖積低地に属している。周囲は一面田園風景が広がり、荒川土手上にはサイクリングや散歩、ウォーキングを楽しむ姿が多くみられる。
 当地域の南側を流れる荒川は、江戸時代前は現在の元荒川の流れが主流だった。江戸時代に入り、関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、現在の元荒川を流下していた河道を、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なったもので、「荒川の西遷」と呼ばれている。
 荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた反面、時に起こる大水はこの地域を直撃して堤防決壊を繰り返す。「吹上町史」等に記録された被害だけでも「安永9年(1780)」「万延元年(1860)」等度々水害に遭った。旧吹上町の地形は、市街地の北側より、南方向へ行くにつれ標高が緩やかに低くなるため、当地域は水害をまともに受け、水が引くにも時間がかかり、低湿地状態が長時間続くことになる。
「吹上町史」による地名由来として、「元禄年間までは『小屋』と書いたのも見えるが、低湿地を意味する『谷』のほうが適切であろう」と記載があるのも当然頷けるものだ。
 このように水害の被害が多発する小谷地域であり、当時の生活は当然苦しかっただろうと想像できるが、実はこの地区だけでも「市指定文化財」は「仁治三年双方式板碑」「小谷城跡」「小谷ささら獅子舞」の3つあり、更に2022217日「日枝神社本殿」も市の文化財に指定されている。文化財は人々が守り伝えてきた証でもあり、小谷に住んでいた先祖の方々が、苦労しながらも当地域の文化を大切にしていたことを如実に証明している生き証人でもあろう。
        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市小谷1505
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧小谷村鎮守 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 2月中旬頃 大祭 72425日 
                   
新穀感謝祭 1123日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0813999,139.4663012,16z?hl=ja&entry=ttu
 小谷地域は旧吹上町南部に位置する。「新編武蔵風土記稿 小谷村条」では「東は箕田村、南は糠田村及び横見郡今泉村にて荒川を境とす、西も又川を隔て、同郡一ツ木・地頭方の二村に至り、北は当郡(箕田郡)大芦・三町免・明用・前砂・中井の五村に接せり」と記載され、比較的広い地域であるが、地域の半分である荒川左岸一帯は土手で区切られており、土手から東側に住居が点在している。その地域中央付近に小谷日枝神社は静かに佇んでいる。
 地形を確認すると一ツ木荒神社のほぼ北方にあり、直線方向で1.5㎞くらいしか離れていないが、間に荒川が横たわっており、残念ながら直に通ずる道路はない。
 一旦明秋神社まで戻り、埼玉県道
76号鴻巣川島線に合流して北上し、糠田橋を越えて、「関東工業自動車学校」前の斜めに抜ける道を左方向に進み、「上武水路」に達した後は水路に沿ってまた北上する。イタリアンレストランを越えた次のT字路を左折し、西方向に500m程進むと小谷日枝神社の社叢林が見えてくる。
        
 
        小谷日枝神社正面         一の鳥居には「日枝神社」の社号額あり。
    一の鳥居と二の鳥居が近距離に立つ。
        
                                小谷ささら獅子舞の案内板
 鴻巣市指定無形民俗文化財  昭和四十年十一月十七日指定
 小谷ささら獅子舞
 主として五穀豊穣の祈願、悪疫退散の神事として各地で行われる獅子舞は、平安時代には宮廷や寺社で行われ、室町時代になって民間に広まった。
 それ以後はそれぞれの時代ごとの庶民の願望や土地ごとの気風などを反映させながら発展をとげていった。
 竹を細く割って作った「ささら」をすり合わせて踊る小谷のささら獅子舞は、三百年ほど前から伝えられてきたが起源は不詳である。
 豊作を神に感謝するとともに無病息災、家内安全を願って毎年十月中旬に日枝神社に獅子舞や棒術、刀術、槍術が奉納される。獅子踊りに入る前の様々な所作、寸劇、掛け声等はよくその型を伝えており、貴重な民俗芸能である。
 また、関東地方の獅子舞はほとんどが三頭で舞うが、この獅子舞は五頭であることが特徴である。      平成二十四年二月 鴻巣市教育委員会
                                      案内板より引用
 関東で風流の獅子というと3頭が多いが、こちらの獅子は5頭。昔は7頭で舞っていたというが、水害で2頭が流されてしまったと言われている。
        
                    境内の様子
      沖積低地に鎮座するためか、社殿には高台が造られ、周りは石で補強されている。
             
      参道左側には、江戸時代の俳人である加舎白雄の歌碑がある(写真左側の石碑)
 加舎白雄(かや しらお)は上田藩士加舎家の二男として江戸深川に生まれた。(元文3820日(1738103日)‐寛政3913日(17911010日))
 俳人として松尾芭蕉の真価を認め、芭蕉こそが俳譜の大成者であり、これからの俳譜は芭蕉風(蕉風)でなければならないことを主張、実践した人物である。
 今日「俳句=芭蕉」という小学生でも知る常識を、広く一般に定着させたのが白雄であったということである。
 実際に白雄の行動は、東奔西走し、広く全国各地に及び、芭蕉の歩いた土地はほとんど訪れているといい、その際にこの吹上の当地域にも訪れて詠んだと推測されている。

                              咲きしより冬野を超てとひし梅


        
                     拝 殿
 毎年のことなのか、兎年ということで拝殿の正面の壁には兎の絵が飾られている。鎮守社としての地域の方々との強い繋がりを感じると共に、印刷物でないほのかな人間の温かみを感じる絵柄だ。
        
                           拝殿手前に設置されている案内板
 日枝神社 御由緒 吹上町小谷一五〇五
 □御縁起(歴史)
 小谷は、荒川と元荒川の間の低地帯に位置する村で、古くは箕田村の一部であったという。その地内には、忍城主成田氏の家臣の小宮山内膳の居域と伝えられる小谷城跡があり、その近辺には、「城山」「小城沼」「元屋敷」「仕置場」たど、城に関係した地名が見られる。
 この小谷の鎮守として祀られてきた神社が当社であり、元来は山王社と称していたが、神仏分離によって明治初年に日枝神社と改めたが、氏子の間では今でも「山王様」と呼ばれている。『風土記稿』小谷村の項には「山王社 村の鎮守なり、稲荷社 天王社 雷電社 稲荷社」と載り、寺院との関連は記されていないが、恐らくは当社のすぐ西にある金乗寺が祭祀にかかわっていたと思われる。
 寛永六年(一六二九)に荒川の瀬替えがあるまでは、幾度も洪水に見舞われてきたためか、当社の創建に関する資料は現存しない。内陣に「正一位山王宮」と刻まれた金幣が安置されているところから、江戸時代には、正一位の神階を受けたものと思われるが、残念ながら、その時期は不明である。また、この金幣と共に、「正一位雷電宮」と刻んだ金幣も安置されているが、これは明治四十年に字上新田から合祀された雷電社のもので、この年、字堤根の阿夫利社と字八丁免の衢ノ神社も当社に合祀された。なお、当社は、小谷城跡から見て東北の方角にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との見方もできる。
 □御祭神と御神徳
 ・大山咋命…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用
 
      拝殿に掲げてある社号額        拝殿正面には新聞記事が掲示されている。
「国宝の聖天堂そっくり 眠る本殿に彫刻 同じ大工の制作か」
 鴻巣市小谷(こや)の日枝(ひえ)神社の覆い屋の中に、国宝の妻沼聖天山(熊谷市)の聖天堂にそっくりな本殿が眠っている。本殿を保護する覆い屋は長年"開かずの間"になっていたが、昨年氏子が掃除した際、本殿に聖天堂と同様の彫刻が四方に施されているのを見つけた。研究者は、聖天堂の建築に携わった大工や彫刻師との関わりを指摘している。
(中略)昨年5月に神社の総代が交代し、8月に総代長の佃三郎さん(71)や総代の吉田豊さん(71)らが、宮司の立ち合いで覆い屋の中を片付けた。すると、彩色が施された彫刻で本殿の四方が飾られていることが分かった。正面に竜、側面や背面に布袋や大黒、七福神などの彫刻。すごろく遊びの彫刻は妻沼の聖天堂とモチーフが共通している。氏子の依頼で現地を訪れた、ものつくり大学技能工芸学部建設学科の横山晋一教授は「屋根の形式も聖天堂の奥殿と同じ」と指摘する。
(中略)
門前で父の代から酒店を営む吉田さんは、神社への思いがひときわ強い。「この時代に総代になったことに使命感を感じる。(本殿を守ることが)達成できるように力を120パーセント振り絞りたい」と話している。
                        拝殿新聞切り抜き 「埼玉新聞」記事から引用
 
          拝殿前の両脇に並んで設置されている石灯篭、石碑等。
 
社殿の右側に鎮座する境内社・石祠。詳細不明。     社殿左側に鎮座する合祀社
                      左より三峰神社・稲荷神社・天満天神社・白山神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「広報こうのす 令和44月号」
    「大人の地域再発見誌 こうのす」「Wikipedia」「境内案内板」 

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一ツ木荒神社

 奥津日子神と奥津比売命は大年神の御子神で、『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
 奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)
奥津日子神・奥津比売神は、日常の食べ物を煮炊きし、命をつなぐ大事な竈(カマド)を司る神である。 昔は朝廷にも篤く崇敬され、民間でも各家の台所()の守護神として大切に祀られていた。
 奥津日子神と奥津比売神は、薪を燃やして煮炊きする台所が主流だった時代にその台所で使う火に宿る神霊で、一般には「竈神」と知られている。
 竈神というのは大変に古い神で、我々の祖先が土間で火を使う生活を始めたときから信仰されてきた。 台所の火を司る竈神は、火を使って調理される食物を通して、家族の生活の全てを支配する力を発揮する存在だった。 だから、『火防せの神』としての機能は勿論のこと作神(豊穣神)、家族の守護神として信仰されたのである。
 奥津日子神、奥津比売神に関して神話には詳しい事績が記されていない。 おそらく朝廷から庶民までよく知られた神である竈神と同じ神霊だったから、今更説明する必要がなかったのかもしれない。 その一般に馴染みの竈神という点から見てみると、その性質は、穢れ(けがれ)に敏感で、人がその意に反した行いをすると激怒して恐ろしい祟りをなすと信じられている。 そういう性質から竈神は、『荒神』と呼ばれている場合も多い。 荒神というのは、火所を守護する神聖な神である三宝荒神のことだ。 三宝荒神は、主に修験道や日蓮宗が祀った神仏習合の神である。 ふつう如来荒神、鹿乱(カラン)荒神、忿怒(フンヌ)荒神のこととされ、この神は仏教信仰の柱である仏、仏・法・僧の「三宝」を守るのが役目である。
 三宝荒神も、清浄を尊び不浄を嫌うという非常に潔癖な性質とされている。 それが、古来、不浄を払うと信じられてきた火の機能と結びつき、日本古来の民間信仰である竈の神(火の神)と結合された。
 住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町一ツ木236
             ・ご祭神 
火産霊神 澳津彦命 澳津姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 一ツ木氷川神社から北西方向に200m程先に位置し、荒川右岸の堤防を背にして鎮座している。丁度「吉見総合運動公園パークゴルフ場」のすぐ西側の場所に静かに佇む。社としてはそれ程大きな規模ではなく、角地にある小さな社という印象。
 創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
        
                                    一ツ木荒神社正面
            
                 
一ツ木荒神社社号標柱
 
      静かな境内の一風景           「荒神社改築記念碑」

 荒神社改築記念碑
 一ツ木氏子中は〇に、氷川神社の改築に奉仕し続けて唱和六十一年、荒神社の新築並びに境内の整備工事を献ず。
 而して一ツ木は昭和五十年代、農業改善に関連する、県営場整備事業が、企画されるや、率先之に参画し以って速やかな土地改良をみるに至れり、加えて部落宮川池の一部を、公共用水路として提供し代償として金五百六十八万八千円を取得す。
 是を以って全氏子賛同し、荒神社改築に充つ。
 即ち
 一 奥殿・幣殿・拝殿並びに向拝新築
 一 境内積土整備
 一 境界側壁工事
 合計 金四百七十六万三百六十円也。
*句読点等は筆者が加筆。
                                      案内板より引用
        
                                       拝 殿

 荒神社 吉見町一ツ木四八六
 当社は荒川堤防を背にして鎮座している。創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
 原家については、『風土記稿』一ツ木村の項に「旧家者徳太郎 当村草創の民なり、先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり、甲州没落の後、久しく当郡松山に住す、文禄年中(一五九二-九六)当所に土着して、民家に下る、其後良房慶長六年(一六〇一)七十一歳にして卒す、其子右馬祐良清は寛永十六年(一六三九)六十五歳にして卒す、墳墓竜ケ谷にあり、此正統は則徳太郎なり、良清が次男原五郎兵衛良親が子孫は、今名主作兵衛是なり」と記されている。また「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見え、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものであろう。
 その後、村の開発が進む中で、当社は村の鎮守として崇敬を集めるようになり、『風土記稿』には「是も(村の)鎮守なり、 長泉寺持」と載せられている。これに見える別当の長泉寺も原家の開基であり、万治年中(一六五八-六一)に創建されたと伝えられる。
 神仏分離により長泉寺の手を離れた当社は、明治四年六月に村社となった。

                                  「埼玉の神社」より引用
               
                               拝殿に掲げてある扁額

 原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね ?~天正3521日)は戦国時代、甲斐国武田晴信(信玄)・勝頼2代に仕えた武将で「武田二十四将」の1人。信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられ、信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担った。天正3年(1575年)長篠の合戦で戦死した。
 一ツ木氷川神社でも説明したが、この一ツ木地域は、武田氏滅亡後の文禄年中(1592-1596)当所に土着した原家が、一ツ木村に移り住み、当地を開拓、原家の鬼門除けとして祀られたという。武田信玄の家臣である原家にまつわる竜神伝承もある。
 
 拝殿の両側には幾多の石碑が並べて置かれており、右側(写真左)には「塞神」の祠が3基あり(右から2番目は詳細不明)、左側(同右)には、左より「〇〇大明神 稲荷大明神・八坂神社・九頭龍大権現」と記された祠が3基並んで置いてある。
       
                       道路沿いには巨木が聳え立つ。
         嘗てはこのような巨木・老木は道標となっていたであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
   

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吉見町 明秋神社

 現在の吉見町大字明秋は、江戸時代には「横見郡須戸野谷新田」という地名であった。鴻巣宿の整備の過程で、宿場の経済的自立を助けるため、荒川の対岸の「須戸野谷」を、独立した村とはせずに、鴻巣宿の付属地とした。徳川家光公の事跡をたたえる「江戸図屏風」(江戸図屏風の複製が「ひなの里」にて展示中)には、徳川将軍が鷹狩りで逗留した「鸛巣(鴻巣)御殿」とともに、「洲渡谷(須戸野谷)」での猪狩りの様子が描かれている。
 明治維新の後の 1874(明治7)年、須戸野谷の人々は鴻巣宿からの独立・分村を願い出た。その名も「明治村」、独立の喜びと新村発足の気概を込めての申請である。しかし畏れ多いということで、季節が「秋」だったことから、明治の秋=「明秋村」と命名された。
 その後、町村制施行により「横見郡北吉見村大字明秋」となり、大正時代には横堤の構築が始まり、昭和の初めに、明秋集落は河川敷から横堤へと移転した。現在の地名は「比企郡吉見町大字明秋」、明秋神社は川幅日本一の河川敷のなかにあり、境内には、「鴻巣宿」と刻まれた石碑や、明秋村の独立・分村の事跡を伝える石碑が置かれている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町明秋510
             ・ご祭神 天照大御神 豊受大御神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明

 吉見町大字明秋地域は荒川を境にして鴻巣市糠田地域の南側にあり、荒川右岸の堤外地がほぼ地域全域を覆い、荒れ地以外そのほとんど畑として使用されていて、その中に湿地、桑畑が散在する。途中までの経路は糠田氷川神社を参照。糠田氷川神社から一旦埼玉県道76号鴻巣川島線を南下、「糠田橋」を通り越してから、荒川土手を抜け、最初の変則的なT字路を左折する。この道は荒川土手方向から河川敷に北上する道となっていて、突き当たりを左折すると一面広大な畑風景が広がる中ポツンと林に囲まれている場所があり、そこが明秋神社の社叢であることはいうまでもない。
 因みに「明秋」と書いて「めいしゅう」と読む。
               
                                       社号標柱
        
                   明秋神社正面

 須戸野谷新田は江戸よりの行程十二里餘、民戸十六、當所は東照宮御鹿狩ありし地にして、其時鴻巣驛より荒川へ舟橋を渡せし故、この地を鴻巣驛の傳馬役地に賜はりしより、今に至るまて鴻巣宿の持なり、後に原野を開墾して陸田とす、村の四境、東は荒川を隔て、足立郡瀧馬室・糠田の二村に界ひ、南は當郡の北下砂新田、北は今泉新田・上細谷新田、西は上細谷新田及び、一ツ木新田・丸貫新田・下砂新田・古名新田等の數村なり、村の廣さ東西八町許、南北二十町餘、水損の地なり、又村鴻巣驛より松山への往還あり、當村開闢より以来御料所にして今に替らす、撿地は享保十二年筧播磨守糺せり、
小名 立野 谷通
荒川 村の東を流る、川幅五十間
神明社 
 村の西の方にあり、村民の持、相傳ふ此地もと東照宮の御休所なりし故、後入當社を建立せしと云、土居なども存せしか、今は廃して圍み九尺許の柳の古樹あるのみ(
以下略)
                               「
新編武蔵風土記稿」より引用
 
         木製の鳥居              参道から社殿を望む。
        
                                        拝 殿
 御由緒
 当地は荒川右岸の低湿地に位置し、東は荒川を境に鴻巣市と接する。『風土記稿』に「須戸野谷新田」と見えるのが当地のことで、その開墾経緯については「東照宮御鹿狩ありし地にて、其時鴻巣駅より荒川へ船橋を渡せし故、この地を鴻巣駅の伝馬役地に賜はりしより、今に至まで鴻巣宿の持なり。後に原野を開墾して陸田とす」と記されている。
 また、当社は村の鎮守で「神明社」と載り、「相伝ふ此地もと東照宮の御休なりし故、後人当社を建立せしと云」と記されている。
 恐らく鴻巣宿の持添新田として当地が開かれた後、移住してきた人々によって耕地の安泰が祈られ奉斎されたものであろう。その年代は享保十二年の検地以降のことと考えられる。
 その後、文化年間(1804-18)から幕末までの間に、当社は村の西方の字吉見橋から中央の現在地に移された模様で、『郡村誌』に「昔時荒川の洪水の難を免れん為に伊勢両宮を遷座せしよし、古老の口碑に伝ふ」との記事がある。
 須戸野谷新田は、明治に入っても住民には所有地がなく、戸籍編成に差支えが生じたため、明治五年に鴻巣宿から分離独立し、同七年九月に明治の「明」と季節の「秋」を採って明秋村と改称した。大正元年には境内の稲荷社を本社に合祀し、社名を明秋神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 河川の堤外地とは,堤防と堤防に挟まれた河川側の土地、つまり河川敷のことをいう。荒川の中流域は、洪水時に遊水地としての役割を果たすために堤外地が広くとられていて、最も広いのは糠田橋付近で、約2,500 mに達する。
 その南側に位置する明秋地区・古名新田集落は,元は荒川沿いの高水敷自然堤防上に立地していたが,河川改修事業後、多くの世帯が横堤上に列状の住居を構えた地区で、横堤上の県道
 271 号今泉東松山線(吉見町側)と県道 27 号東松山鴻巣線(吉見町と鴻巣市)に沿って直線状の集落を形成しているが、今日でも先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、まして付近に農地を持つ住民にとっては尚更で、旧荒川沿いの堤外地に居住する世帯もあるという。
 堤外地集落は,その立地上の特性から常に洪水の危険性が高い地域である。特に,集中豪雨や台風の多い夏には家屋や耕作地が被害を受けるだけでなく,人命にもかかわる大水害に見舞われることになる。
 
 長年の雨風の影響だろうか。色褪せた扁額。     社殿の右側にある石碑、石祠等

 境内には石塔が並び、写真右手前のものには「水屋幟竿置場」と明記されている。「水屋」とは屋敷内において日常生活空間の母屋より高く盛られた盛土及び,その上に建てられる上屋のことをいう。江戸時代の水屋は利根川水系の周辺で数多くつくられたらしい。

 近年,都市部では急速な都市化に伴い,各地で治水整備が進められているが,内水氾濫などの洪水被害が増大している.そのため,治水整備においては,行政に依存しない住民間での自助・共助の重要性が唱えられており,「水屋」「水塚」等の河川伝統技術の有用性が見直されている。

 これら水屋・水塚には,旧来から洪水を経験して得た先人の知恵が“カタチ”として表れており,水屋・水塚について着目し,研究を行うことは重要だと考える。
        
                         明秋神社のすぐ東側を通る高架橋

 荒川の改修工事によって,中流域でも洪水の発生頻度は減少したが,逆に一度の洪水で受ける被害は増大するようになったという。この荒川改修工事は下流域の治水には大きく貢献したが,中流域では広大な遊水機能をもつ堤外地が誕生し,この堤外地に多くの集落が取り残されることとなった。
 かつて頻発していた荒川の氾濫を制御し,下流に位置する首都東京を洪水から守るという国家的目的を実現するために行われた荒川の河川改修事業は,治水行政の所期の目的を達成したと見ることができる。しかし,本研究で見てきたように下流域の安全は,少なくとも中・上流域に暮らした多くの住民の生活を犠牲にして今日担保されたものであるという事実を忘れてはならない。
        

 荒川には河川敷に集落があるということは以前からこの県道を業務で往来もしていたし、近隣に吉見運動公園もあり、私的に利用してもいたので、当然認識していたが、このような歴史があるとは想像もしていなかった。
 荒川流域では、古い時代より洪水と折り合いをつけて暮らしが営まれてきたのだと思われるが、河川改修が進められる中にあって、先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、まして付近に農地を持つ住民の方々にとっては尚更であったろう。故に今もなお引き続き洪水と向き合う暮らしを選択されたと言うことなのだろうか。

 日頃、河川とは縁遠い暮らしを送っている者にとっては想像も及ばないが、河川敷に広大な農地が広がる荒川ならではのことなのかもしれない。

参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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大間大野神社

 嵯峨源氏渡辺氏は摂津国西成郡渡辺里(大阪市東区渡辺町)より発生した一族であり、武蔵国足立郡箕田郷(鴻巣市)に移住して箕田源氏と称したと云う。嵯峨天皇の皇子である左大臣・源融(みなもと とおる)を遠祖とし、融の孫・源仕(みなもと つこう)の頃に武蔵守となって武蔵国足立郡箕田(現在の埼玉県鴻巣市北部)に赴任した。仕は同地に土着し、地名の箕田(みた)を苗字として武家(軍事貴族)となったという。
 箕田仕の子が箕田宛(みなもと あつる 号箕田源次)で、「今昔物語」で平良文(村岡五郎)との騎乗の弓矢による一騎打ちを行ったという説話で有名な武将だが、無位のまま21歳の若さで没したという。源宛の子・源綱(みなもと つな)は、出生したときは父が他界したために、摂津国川辺郡多田(現在の兵庫県川西市)で清和源氏の祖となった源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の猶子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現在の大阪府大阪市中央区)に居住し、それまでの源姓から渡辺綱と称し、渡辺氏の祖となる。
 渡辺綱の後裔とされる摂津渡辺氏は、摂津国西成郡渡辺津(現在の大阪市中央区)という旧淀川河口辺の港湾地域を本拠地として一族が集住したために、「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与して瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に、摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)で行われる天皇の清めの儀式(八十島祭)に従事すると共に、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したという。
        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市大間2-11-29
              ・ご祭神 大己貴命
              ・社 格 旧大間村鎮守 旧村社
              ・例 祭 鯉祭 21日 祈念祭 218日 例大祭 918日 
                   新嘗祭 1123日 大祓 12月吉日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0639906,139.4960803,16z?hl=ja&entry=ttu
 大間大野神社は鴻巣市大間地区に鎮座している。途中までの経路は鴻神社を参照。鴻神社からは「こうのとり通り」を高崎線高架橋を通り過ぎてから「大間4丁目」交差点を右折。その後300m程進み、右側にコンビニエンスストアのある信号のある十字路を左折する。
 周囲は住宅とビルの立ち並ぶ道路となり、交通量も多く、対向車両や自転車、徒歩での方々の往来にも気を付けながら200m程進むと「氷川山・大野神社」の看板が進行方向正面右側に見えてきて、そこを右折すると大間大野神社の鳥居、及び参道が見えてくる。
 駐車スペースは参道に沿って左側に数台分確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                              大間大野神社 一の鳥居
 鴻巣市大間鎮座の社。今は住宅街の真ん中にひっそりと佇むこじんまりとした神社。元は氷川神社であり明治時代に大間地内の五社を合祀、北長野地内の四社を合祀。大間、中野地区の字を使い、大野神社と定めた。
 驚く程、住宅街にあり、参道の両脇には家やマンションが立ち並んでいて、その中を抜けるように境内が広がり、その先に拝殿、本殿等が鎮座している。
 

   参道右側に提示されている案内板。     住宅街の間をすり抜けるように参道が通る。
 大野神社記
 当社は元来氷川神社で祭神は須佐之男命・大國主命(大巳貴命)の二神でありました。
 第六十一代朱雀天皇(九二三~九五二)の御宇天慶元年正月箕田源氏の祖と傳えられる源の仕が造立した宮であります。
 鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました。
 当時は梅本坊別当後本習院となり慶安五年(一六五二年)、享保六年(一七二一年)、天保九年(一八三八年)と社殿の改修が行われたと伝えられております。
 明治六年四月村社、明治八年拝殿建立、明治三十七年九月五日境内(現二千五百坪)が社地となりました。
 明治四十年五月八日大間地内の無格社「天満社、浅間社、稲荷社、諏訪社」を合祀、大間の()と中野の()をとって大野神社と社名を定め、明治四十一年四月記念の合祀祭が行われました。
 明治四十四年一月七日神饌幣帛供進社に指定。
 平成五年九月拝殿改築奥宮修繕 完。
 大野神社古記
                                      案内板より引用

        
                                     二の鳥居
        
 住宅街をすり抜けるように参道が続いたが、二の鳥居を過ぎると社独特の風情ある境内が広がる。
 
     境内前で右手に見える手水舎          境内左側にある神楽殿
        
                                        拝 殿
 境内から拝殿までの間に2段の石段がある。思うに鎮座している場所は大間地域でもやや高台を選んで建立したのであろう。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額             拝殿向拝下彫刻  
 題字の周りに飾られたのマークが可らしい。   龍と鳳凰の彫刻が精密で凝っている。
        
                                      案内板
 大野神社 御由緒 鴻巣市大間三一二
 □御由緒(歴史)
『風土記稿』大間村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当を本習院と云(以下略)」と載るように、当社は元来は氷川神社と称していた。それを大野神社と改称したのは、明治四十年七月十八日のことで、同日に大字北中野字津門の村社津門社を合祀したことに伴うものであった。この氷川神社の由緒については、別当本習院の後裔で、神仏分離後は復飾して神職に転じた吉田家が所蔵する社記「大間氷川大明神縁起」に詳しく、その要点をまとめると次のようになる。
 当社は、天慶元年(九三八)に、嵯峨天皇の末流の渡部仕が大己貴命の託宣によってこの地に社を造営したことに始まるもので、長元三年(一〇三〇)には源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために戦いを何度も挑んだが勝利を得られなかったため、当社に獅子頭を掛けて願成ることを祈ったという。また、神力によって、天永元年(一一一〇)に沼(現在の逆川)に沈んでいた阿弥陀像を引き揚げ、正嘉年中(一二五七-五九)の干ばつには雨を降らせ、延元二年(一三三七)には疫病を退散させるなど霊験あらたかであったが戦乱によって荒廃した。
 社記の記述はここまでであるが、その後、村の再興と共に神社も再建されたようであり、『明細帳』には天保年中(一八三〇-四四)及び明治十一年に再建され、明治六年に村社になった旨が記されている。更に、平成五年には社殿が老朽化したため、再建が行われた。
 □御祭神と御神徳
・大己貴命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用

 
 社殿左側に鎮座する境内社2社。詳細不明。    境内社内部を撮影。2社の間にある石祠は
                            正一位稲荷と冨士浅間神社。
 
 境内社2社の並びにある石祠群と屋根付き母屋の境内社(写真左)。石祠は左から「不明、八幡宮、八幡宮」と読める。右側に鎮座する母屋付きの境内社(同右)は、扁額らしい額はあるが、薄すぎて解読は不可能。但し本殿奥に鎮座している所から推測すると、旧本殿の可能性も否めない。
       
                 社殿右奥に聳え立つご神木
 大間大野神社は、天慶元年(938)に、嵯峨源氏流の渡部仕が大己貴命の託宣によって当地に氷川社を造営したという。
 時代は平安中期で、武士の勃興期と言われる時代。桓武平氏出身の平将門やその一族である平貞盛、俵藤太と呼ばれた藤原秀郷、清和源氏の祖といわれる源経基といった英雄、豪傑が活躍し、躍動していたこの関東で、同じ空気を吸っていたであろう嵯峨箕田源氏流の源(渡辺)仕という新たな人物がここで登場し、この社の創建に関わっていたとは、何とも神妙な面持ちでの参拝となった。
 と同時に今では埼玉の”嵐神社”としてファンの間では有名となった大野神社。勿論嵐のリーダーの大野智さんの名字が入った神社だから。嵐は2020年末で一旦活動休止となったが、まだまだ聖地として多くのファンが訪れる場所となっているようだ。
 久喜市鷲宮神社が「らき☆すた」の聖地で一躍有名になっているが、この大間大野神社にも同様な現象が今もなお続くのはいかにも日本人らしいといえるだろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」「大野神社公式HP」
    「境内案内板」


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