古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸守氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町戸守1121
             ・ご祭神 素盞嗚命
             ・社 格 旧戸守郷鎮守
             ・例 祭 不詳
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0026627,139.4367356,16z?hl=ja&entry=ttu
 正直日枝神社から「長楽用水」沿いの農道を700m程西行すると、進行方向右側に戸守氷川神社の鳥居が道路沿いからはやや奥に入った場所に見えてくる。この二つの社はお互いに用水に関連する社ともいえ、近距離に存在する。
 戸守氷川神社は、戸守地域にあるとはいえ、地域の中心街にあるのではなく、北側の飛び地ともいえる場所に鎮座する。「埼玉の神社」には嘗てこの地域には「戸守郷」が存在し、その郷の中央である中郷に鎮座していると記されていて、当時の「戸守郷」の広さを伺わせる位置関係となっているともいえる。
        
                  戸守氷川神社正面
 残念ながら周辺には駐車場等はない。但し道路に面して鳥居までに少なからず駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから急ぎ参拝を開始する。
 周辺には民家も立ち並ぶ場所でありながら、社周辺には社叢林に囲まれた、物寂しい雰囲気を醸し出している。
        
                       鳥居は道路から少し奥に位置し建てられている。
 嘗てはもっと伸びた参道があったのではなかろうか。そのような思いがふと過る配置である。
 
鳥居の右側で、社号標柱周辺には、「鳥居建立記念碑」や幾多の庚申塔が設置されている(写真左・右)
        
                風情ある境内。参道の先には拝殿がひっそりと鎮座している。
        
                                         拝 殿
『新編武蔵風土記稿 戸守村条』
 戸守村は土袋庄川島領と云、古くは戸森と書しなり、家數七十七、東は南薗部村に隣り、西は長楽村に並び、南は中山村、北は正直村なり、東西の徑り十三町、南北十二町もあるべし、【小田原役帳】に太田豊後守が知行三十一貫九百丈、比企郡戸森乙卯検見と載す、是弘治元年の改なるべし、又八ッ林村道祖土氏文書の内、丁卯九月晦日小田原北條氏の文章に、三尾谷戸森右當郷代官職之事、如源五郎時無相違被仰付畢云云とあり、岩槻の城主源五郎氏資は、永禄九年丙寅戦死せしなれば、丁卯は永禄十年なるべし、されば弘治・永禄の頃は、太田氏の領知となりしこと明けし(以下略)

 氷川神社 川島町戸守一一二一(戸守字中郷)
 当地は、中世の史料に登場する「戸守郷」に比定されている。当社はこの戸守郷の惣鎮守であったと伝えられており、郷中の中央である中郷に鎮座している。
 郷名の初見は、正平七年(一三五二)の足利尊氏袖判下文で、尊氏は戸守郷を高師業に安堵している。下って至徳三年(一三八六)に鎌倉公方足利氏満は、戸守郷を下野国足利の鑁阿寺に寄進し、以後、室町後期まで同寺の寺領となった。享徳二年(一四五三)、享徳二年(一四五三)寺領代官の報告によれば、戸守郷と近隣の尾美野郷・八林郷は用水争論を起こしている。
 中世、各郷における権力者は、地生の「おとな」と呼ばれる者たちで、これらは、郷中間の用水談合、代官に対する年貢減免要求など、郷中経営ばかりでなく、「郷の惣鎮守」である当社の祭祀にも深く関与していたと思われる。当時から当社の神は、治水神、五穀豊穣の神とされていたことから、郷民の寄せる祈りは厚いものがあった。
 下って、江戸期の享保十八年(一七三三)、棟札によると社殿を造営している。これには、八幡大明神、稲荷大明神の二神が記されている。また、江戸後期に活躍した神祇伯の白川資延は、当社氷川大明神と、ほか二神に正一位の神位を授与している。別当については『風土記稿』に、薬師寺持ちとあり、同寺は明治初年に廃寺となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

「戸守郷」は別称で戸森郷とも書く。現川島町戸守を遺称地とし、同所を含む越辺(おつぺ)川左岸一帯に比定される。正平七年(一三五二)二月六日の足利尊氏袖判下文(高文書)に「戸森郷」とあり、当郷は下野国足利庄内大窪(おおくぼ)郷(現栃木県足利市)等と供に常陸国馴馬(なれうま)郷(現茨城県龍ケ崎市)などの替地として、高師業に宛行われている。なお年未詳八月一四日の足利尊氏書状(同文書)によると、尊氏は師業の訴えを受け当郷の領有を再確認している。しかし貞治四年(一三六五)一〇月日の高坂重家陳状案(同文書)によれば、当郷は重家の亡父専阿が正平七年(一三五二)一二月一二日に勲功の賞として拝領した地といい、重家と師業(常珍)代行俊との間で相論が起こっている。行俊の主張は、正平七年に師業が当郷を拝領したにもかかわらず重家が押領したというものであった。この争いは鎌倉府の裁決では重家が勝訴したようで、応安元年(一三六八)七月一二日の足利金王丸寄進状写(諸州古文書)によれば、「高坂左京亮跡」たる当郷が四季大般若経転読料所として下野国鑁阿(ばんな)寺(現栃木県足利市)に寄進され、同日、関東管領上杉憲顕がその旨を施行している。
        
        社殿の奥に祀られている「御嶽山〇王大権現」と石碑・庚申塔等。
              中には板碑まで埋め込まれている。

 享徳二年(一四五三)四月十日、鏤阿寺代官十郎三郎の注進状によれば、十郎三郎は戸守郷に隣接する尾美野(おみの)(川島町上小見野・下小見野)・ハ林郷の両郷と用水をめぐる争いを起した。この用水は、都幾川(ときがわ)の水を川島町長楽(ながらく)で取水する通称「長楽用水(ながらくようすい)」と呼ばれているもので、尾美野・八林両郷も利用していたが、堰は戸守郷内にあり、それを勝手に止めてしまったというものであった。
「埼玉の神社」でも記されているが、
従来このような用水問題があった場合には、戸守・尾美野・八林の三郷の代表である「老者(おとな)」と呼ばれる有力農民らの話合いによって解決が図られるのが普通であった。しかし今回の場合は、尾美野の「老者」が同意の証判をすえなかったため武蔵国府へ調停を依頼した。尾美野・八林両郷ともに武蔵国守護上杉氏との関係があり(八林郷は上杉氏の所領であった)、上杉氏が実権を握る国府に訴え、用水問題を有利に解決しようとする尾美野・八林側の狙いがあったものと考えられる。
 それに対して戸守郷の有力農民らは領主である鍰阿寺側に年貢減免要求を起こし、結局農民らが一致団結して耕作を放棄しても減免を勝ち取ろうとする。時代は15世紀、上杉禅秀の乱→関東府の滅亡→結城合戦→古河公方の成立というように関東の政界を二分するような内乱が相次ぎ、それに伴い権力側の支配力が弱体・低下し、各地で農民らによる反領主的行動が表面化する。
 最終的には武力などの強制力がなく、間接的に支配していた鏤阿寺側としては打つ手がなく、寺側がその主張をやめ農民側の減免要求が通ったというものである。
 その後、武力を背景として、農民支配の徹底化をめざした戦国時代には、このような農民側の動きは見えなくなったという。
 室町時代のある限定的とはいえ、農民らがこのような年貢の減免を要求するなどの農民運動を起していた時代もあったということだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本デジタルアーカイブズ」
    「埼玉の神社」等
              

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正直日枝神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町正直1
              ・ご祭神 大山咋神
              ・社 格 旧正直村鎮守
              ・例 祭 春祭り 45日 例祭 95日 新嘗祭 1213
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.00111,139.4449608,16z?hl=ja&entry=ttu
 川島町正直地域、「正直」と書いてそのまま「しょうじき」と読む。東松山市古凍地域の南側にあり、国道254号線を川島町方向に進む。古凍鷲神社からは、埼玉県道345号小八林久保田青鳥線に入ってから西方向に進み、「古凍」交差点を左折、国道254号線を川島町方向に進路をとる。荒川低地地帯特有の一面の田園風景が続く中、2.5㎞程進んだコンビニエンスが見える交差点を右折し、300m先の十字路を左方向に進むと、横一面に広がる森の中央、進行方向正面に正直日枝神社の鳥居が見えてくる。
 但し正面鳥居は直接社殿に続く脇の鳥居のようなので、左折して正面方向に回り込むように進む。幸い正面鳥居周辺には、駐車スペースも数台停められる広い場所が確保されているので、路駐する心配もなく、ゆっくりと参拝できる。
        
                                         正直日枝神社参道入口
 直ぐ脇を小さな用水が東西に流れている。「長楽用水」というようだ。この用水路は見た目素掘りと思う位、昔の雰囲気をよく残している。参拝当日は小雨交じりの天候で、これが却ってこの社周辺のビジュアルにもよく合い、とてもしっとりとして穏やかな空気の漂う神社である。
 社はこの用水に沿って横に広がっているので、参道は比較的長めだ。社叢林が社を覆っていて、全体的にほの暗い境内が印象的な社。
              
          鳥居の脇にある社号標柱。「村社」と表記されている。
『新編武蔵風土記稿 正直村条』には「東の方は梅之木・北薗部の二村に接し、西は今泉村に境ひ、北は古氷村なり、東西の径り十三町、南北三町(中略)用水は長樂村地内に堰を設て、都幾川の末流を引そゝぐといえり」と記されている。
 十三町=1417m 南北三町=327mで、現在の行政上の区域とは、若干違いがあるが、南北に比べて東西の距離が極端に長いのは現在も同じで、東西に流れる長楽用水が南の境と成している。
 
   社は長楽用水に沿って東西幅が長く、      参道の右側には直接社殿に通じる
       その参道の先に拝殿が見える。           側面側の鳥居がある。
       
                     拝 殿
 日枝神社 川島町正直一
 当社は、都幾川の水を長楽樋管から引く八ツ保用水の北側に鎮座している。境内地は、東西に細長く、杉並木が美しい。
 創建は、口碑に、当地一帯を領した太田持資の家臣、深谷将監正直が、寛正一五年(一四六〇)に近江国坂本村鎮座の山主権現社を勧請したことに始まる。
 造営史料については明らかにできないが、口碑に、江戸初期まで小規模ながら壮麗な権現造りの社殿があったという。このため、現在、東松山に鎮座する箭弓稲荷神社の本殿造営にかかわった名工たちは、当社に日参してそれを模したと伝える。
 武蔵国一の宮氷川神社社家の『東角井家日記』の文政九年(一八二六)二月二十七日の条には、「川嶋領正直村山王社ニ太々神楽有之、岩井氏隠居罷越、先キ箱鐘持以下等同勢三四拾人ニて罷越衣冠ニて神事勤之侯由」とある。氷川神社神主岩井氏が供を連れ、当社で神事並びに神楽を奉奏している。正直でも氷川講を結成していたのであろう。
『風土記稿』によると、別当は地内の天台宗、直雄山医王院普門寺が務めた。ちなみに普門寺は、眼病治癒の利益のある薬師を本尊としている。本寺は、下青鳥村(東松山)の浄光寺である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
              しっかりと石垣で補強された本殿。
 幣殿も下部は風水口が設けられ、突然の水害等でも対応できるように拵えられている造りとなっているようだ。近代社格制度に洩れている可能性大の社で、これ程の拵えをもつ規模の社を筆者はあまり見ない。
        
                      本殿の後方に祀られている「山王1号墳」
   周辺の開発等で、だいぶ改変されていると思われ、円墳である以外は詳細不明な古墳。
            10m程の直径×高さ1m~2m程の規模だろうか。

 翻って参拝前に感じたこの社全体から感じた幻想的な雰囲気は、当日の雨交じりの曇りという天候や境内中に広がる社叢林、歴史を重ねた重厚な趣のある社殿等あったであろうが、その奥に眠る古墳の力もあったのだろうかと、ふと頭をよぎった次第だ。
        
                      正直日枝神社の鳥居の斜め前にある庚申塔群
 右端の庚申塔は 右側面に「文化十二年 乙亥」(1815)左側面に「三月吉日」と刻まれている。
 
             参道に沿って流れる長楽用水(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
         

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伊草神社

 川島町は埼玉県の中部に位置し、比企郡に属する町で、北は都幾川・市野川を境として東松山市・吉見町に、東は荒川を境として北本市・桶川市・上尾市に、南は入間川を境として川越市に、西は越辺川を境として坂戸市に接している。
「川島」という名は、四方を荒川(東)、越辺川・都幾川(西)、入間川(南)、市野川(北)と5本の河川に囲まれた“島”状の土地であるという地形的特徴から付けられたと言われている。
面積は41.63km2で、東西間11km・南北間8km、平均標高は14.5mで、高低差はほとんどなく、嘗ては見渡す限り水田地帯であった。
 この地域に集落を形成して生活を営むようになったのは奈良時代の少し前ごろからとみられており、町内にはそのころの様子がうかがえる「塚」や「塚の跡」が残っている。
 時代が下り、江戸時代になると川越藩の支配の中で農業生産が高まったが、反面、荒川の流れを現在の場所に変えたことで、たびたび水害に悩まされるようになった。その後、時代が進むにつれ、河川改修や堤防の築造によって徐々に水害を克服してきた。
 昭和29年(1954年)、川島領と呼ばれる中山・伊草・三保谷・出丸・八ツ保・小見野の6か村が合併し、川島村が誕生。以後は中学校の統合や上水道の敷設など、積極的な村づくりを進め、昭和47年(1972年)11月に町制を施行した。
 現在、首都圏中央連絡自動車道川島インターチェンジの開通に伴い、インター周辺開発が進み、町は変革のときを迎えているという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町伊草182
             
・ご祭神 大山咋命 素盞嗚尊 譽田別尊 倉稲魂命 迦具土命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 217日 例大祭 43日 夏祭 715
                  
十五夜獅子舞祭 915日 新嘗祭 1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.967479,139.465931,18z?hl=ja&entry=ttu
 伊草神社は東松山市の南西部に位置する川島町伊草地域で越辺川右岸に鎮座する。途中までの経路は古凍鷲神社を参照。国道254号を南東方向に6㎞程進行し、「圏央道・川島インターチェンジ」先の「上伊草」交差点を右斜め方向に進む。暫く道なりに進むと「伊草小学校」に到着するが、その小学校の西側奥の像路沿いに伊草神社は鎮座している。
        
              道路沿いに設置されている社号標柱
 社号標柱をよく見ると「村社 伊草神」しか見えず「社」の文字が土中に埋まっているようだ。
 思うに、この地域のすぐ西側近郊には「越辺川」が国政方向から南東方向に蛇行しながら流れている。過去どのような流路を辿っていたかは不明なれど、この地域は古くからの水害の常襲地帯であったのだろう。社入り口に立っている社号標柱は嘗て度々あった水害等の災害を証明する物言わぬ「歴史の生き証人」でもあろう。
        
                    鳥居正面
 旧街道沿いの道路から「川島町立伊草公民館」と「川島町消防団第二分団」との間にある社号標柱手前を左折すると、砂利道ながら駐車スペースがある空間があり、そこに停めてから参拝を開始する。当日は雨交じりの曇り空ながら、参拝するのに支障があるほどではない。
 
 鳥居の手前には「石碑・弁財天像蛇身人頭像」の案内板(写真左)があり、その左側奥には弁財天像が寄進・設置されている(同右)。
 この案内板には、伊草神社の由来が最初に記されていて、次にはこの弁財天が設置されている場所が年代・目的等はっきりとわからないが「地区年長者の話によると、石碑の処は、古くは水質の良い噴水井戸があり、手水処、又は近所の過程飲料水として利用されていた」という。
 この弁財天は「水神」として田の神・五穀豊穣の神・財宝を恵む福神、更に水害・自然災害から守る水の神として、当地住民の安寧を祈念するために建立されたという。
        
              鳥居を過ぎると静かな境内が広がる。
 伊草神社から約400m北西方向には「道場橋(どうじょうばし)」がある。この橋は現在埼玉県坂戸市大字横沼と、同県比企郡川島町大字上伊草の間を流れる越辺川に架かる埼玉県道269号上伊草坂戸線の道路橋である。
 明治時代初期頃にはこの場所に橋は架けられず、いつから存在していたかは定かではないが、江戸時代より「道場の渡し」と称される渡船場が設けられていて入間郡横沼村と比企郡上伊草村を結んでいた。渡船場の「道場」の名の由来は、この渡しは大川道場の大川平兵衛が川越城下へ赴く通り道であり、又、川越藩士が大川道場に通う際の渡し場であったので、いつの間にか道場の渡しと呼ばれるようになった。
 橋の右岸側は水田地帯となっており、民家などは皆無である。左岸側は越辺川が作り出した自然堤防が川沿いにあり、その上を川越松山往還が通り、伊草宿由来の古くからの集落があり、民家などが立ち並ぶ。
 古くからの水害の常襲地帯であり、橋は抜水橋であるため洪水時でも通行可能だが、1982年(昭和57年)の台風18号や、2019年(令和元年)の台風19号などによる大水害の際には右岸側一帯は湖のようになったという。

 また道場橋の付近だけでなく、南側に流れる入間川と越辺川との合流地点である「落合橋」付近にも渡しがあり、伊草の渡(または落合の渡)という。伊草の渡は河岸場も兼ねていて、往時は舟運と荷降しで賑わったそうだ。伊草地域は嘗て「伊草宿」と言われる宿場町が形成されていて、伊草宿の面影は旧道(川越松山往還)に現在も僅かに残っている。
 伊草神社の参道付近には、伊草渡と記された木製の道標(道しるべ)が今も建てられているという。
        
      参道沿いにある「川島町指定無形民俗文化財 伊草獅子舞」の案内板

 川島町指定無形民俗文化財 伊草獅子舞  所在地 比企郡川島町伊草二二五‐二
 伊草の獅子舞は、「ささら獅子舞」、「豊作獅子」とも呼び、毎年九月十五日、伊草神社の祭礼の日に行われる。起源は江戸時代中期、明和二年(一七六七)ころと伝えられ、家内安全、商売繁昌、五穀豊穣を祈願する民俗芸能である。
 この獅子舞は、風流獅子の系統の一人立三頭一組で舞うものである。猿若、雌獅子、中獅子、雄獅子、ささら(花笠)、笛方、歌方等の役割があり、舞は「昔」と「今」があるが、現在は「今」を主に舞っている。
 祭礼の日には、「鎮守御祭礼」の幟をたてた下の善性寺で一庭舞い、約七百メートルほど上の伊 草神社までの宿の街道を、行列をつくって道太鼓を奏しながら進む。神社に到着すると社前で三庭舞い、さらに隣りの大聖寺へ行き一庭舞って終る。
 獅子舞は洪水や戦争のおり幾度か中断したが、第二次世界大戦後復興した。獅子方役者は古くから若衆によってきたが、後継者不足のため昭和三十八年一時中止になった。幸いにも、四十四年に至り小学生をもって復興することができた。翌四十五年伊草獅子舞保存会を結成し、今日に至 っている。
 昭和四十六年三月二十六日、川島町指定無形民俗文化財に指定した(以下略)
                                      案内板より引用

        
 社殿の左側手前には亜鉛葺入母家造の建物が目を引く。「伊草神社畧記」に記されている神楽殿だろうか。
       
                     拝 殿
「伊草神社畧記」
 御由結
 当社は慶長年中近江国坂本村鎮座日吉神社より勧請すと云ふ。文化五年三月建立の石燈籠あり嘉永四年玄年八月十一日造立す。明治四年村社に列せらる。大正二年一月二十八日一村一社の合祀並びに社名改称の許可を得て大字上伊草字三島氷川神社、同字元宿氷川神社、同字宮前氷川神社、大字下伊草本村氷川神社、大字角和泉字宮田八幡神社、大字安塚屋敷附稲荷神社、大字飯島字内土腐稲荷神社、の七社を大字伊草下宿並日枝神社に合祀し伊草神社と改称す。大正十三年四月三十日神饌幣帛供進神社に指定せらる。大正十三年一月本殿、昭和三十年四月三日幣殿、拜殿を鋼板葺に。昭和五十年十月神楽殿を亜鉛葺に改修す。
                                      案内板より引用
        
                                    本 殿
「埼玉の神社」による社の由来は、「
慶長年中(一五九六-一六一五)に近江国坂本から勧請したと伝えられる山王社」であり、「嘗て徳川将軍家が狩りに際し、休息に使った御茶屋があった場所で、御茶屋が廃止された後、その地が穢れないように鎮守社を移した」と記されている。
 またこの伊草の地は、川越と東松山を結ぶ街道の宿場として中世の末期には形を整えていたらしく、一・七の日には市も立ち、岩槻城主太田氏の庇護も受けて次第に発展していった。その結果、家並みが街道に沿って細長く続く形になり、俗に「伊草の宿は長い宿」と歌われるようになったのである。
江戸時代、庶民の生活が活発になると、この渡し場は一層栄えた。雨季を除き乾季となり水量が安定すると、人馬の通れる程の簡単な木橋が架設された。
        
                                 社殿からの一風景

 江戸時代中期以降になり、商品流通が盛んになると、商品の取引き・年貢米の輸送などで入間川も舟運が行われるようになり、ここにも河岸場ができた。当時、新河岸川が舟運で栄えていたが、それを脅かすというので訴訟も起きた。ここの伊草河岸には富士見屋という河岸問屋があり、昭和の初めごろまで舟を扱った。川を下る荷は農作物・薪などで、川を上る荷は江戸の下肥等肥料・塩・雑貨などが多かったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「川島町HP」「Wikipedia」「社内案内板」等

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大井榛名神社

 熊谷市太井地域には「変わったひなまつり」という榛名神社の祭りがある。「熊谷市公協だより第41号」に掲載されているので、全文紹介する。
 「太井地区の榛名神社の祭りのうちの一つ。一ヶ月遅れのひなまつり。普通は三月の桃の節句だが、四月二日にひなだんのかざってある家の座敷に土足で、竹のササを持った男の子が、ワッショイと叫びながら回り、一番年上の男の子中学二年生(新学期から三年生になる)が北埼玉郡騎西町の玉敷神社から借りてきた神具(木刀、面、御神体)の三つをもって後ろから回って歩きます。用掛の人たちは、郭が四つ(北口・番場・新井・新田)あるので普通は四名ですが、この日は年度代わりで、新旧の用掛八名が出て、子どもたちの後ろから一軒一軒御神酒をふるまって歩きます。昔は、太鼓を二人でカツイでタタイて歩いたのですが、今はトラックに太鼓をのせて、子どもたちがタタク。だいぶ変わってきたものです。私が子どもの頃は、全部子どもたちが仕切っていたものです。一番上の子どもが代表して、祭りの前日の夕方、電車で加須駅まで行って、騎西の玉敷神社まで歩いていき、御神体を借り、かなり重い箱にカツギボーをつけてカツグのです。私たちの頃は四人でしたので、二人づつ交代して、夜中の二時ごろ出発して、走って、追いついたら交代して休み、追いついたら交代しながら、朝の六時頃には榛名神社に着いて、待っていた下の子どもたちを先導して家々を回ったものでした。
 今では用掛が前日に全部用意しておくそうです」
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市太井2284
               
・ご祭神 湯彦友命 埴安姫命
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 4月上旬 オシシサマ
 国道17号線を行田駅方向に進み、「北砂原」交差点次のT字路を左折し、300m先の十字路を左折すると、正面に太井榛名神社の社叢林と鳥居が見える。
 社に通じる農道は、右へカーブする道路となっていて、その右側に曲がる付近に太井榛名神社が鎮座しているが、道が曲がり始める社叢林の右側に丁度駐車可能なスペースが確保されていて、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
 一面田畑に囲まれるように中に社叢林が鎮守の杜一帯に生い茂り、いかにも「村の鎮守様」としての佇まいを今でも色よく残している。
        
                  
太井榛名神社正面
 熊谷市の南東部に位置する太井地域は、国道17号線を挟んで南北に広い地域で、国道周辺以外の地は現在でも田園風景が広がる。この太井地域は嘗てもっと広大であったようで、『新編武蔵風土記稿』においても、「東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村にて、西も同郡久下村に隣り、北は本郡(埼玉郡)持田村なり、東西二十町、南北八町許」と記載され、東西2.2㎞程、南北900m程で、現在の行田市棚田町、門井町、鴻巣市旧吹上町新宿地域も太井地域に属していて、村の歴史は江戸初期まで遡り、当時は「太井四ケ村」と呼ばれる大きな村であったようだ。

 新編武蔵風土記稿 巻之二百十八 埼玉郡之二十 忍領
 大井村(大井・門井・新宿・棚田) 第十一冊-頁七十七
 大井村は郷庄の呼び名を伝へていない。江戸より十五里。当村は古へに太井と記したが、いつの頃よりか今のように書き替えたと云う。しかし正保元禄の頃は既に大井と書いており、古いことであろう。  正徳二年(1712)に村内を大井・門井・新宿・棚田の四区に分け、大井四ケ村と呼び、村毎に名主を置いて税務を担当させた。しかしこの事は領主の私事として、採用されなかった。  民家百九十戸。東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村、西も大里郡久下村、北は埼玉郡の持田村である。広さは東西二十町、南北八町計り。用水(成田用水)は前村(戸出村)に同じ。当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、前村と同じく子孫の鐵丸の領分である。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。  高札場は四ヶ所あり、大井・門井・棚田・新宿の四区に立つ

       
       入口に設置されている社号標柱   鳥居の脇には塞神が祀られている。
  
塞神の脇には草鞋が奉納されていて、旅の無事や脚の健康を今でも願っているのだろう。

 ところで太井(おおい)という地域名の由来としては、「大堰」からきたといわれている。広瀬から荒川を分水して用水を導き、この地に大きな堰をつくったので、太井の名ができたという。〔埼玉県地名誌〕
 尚「太井」の文字は正保・元禄(16441703)の改図には、「大井」と書いているが、更に古くは「太井」の文字を用いているので、今日の名称は、古称に従ったものであるという。
        
                                  参道からの風景
 この写真では分かりづらいが、一の鳥居から拝殿前まで続く敷石の一枚一枚に奉納者の名前が刻まれている。地方の一神社でありながら、このような形式の奉納が何世代にもかけて継続されていることに、代々氏子の方々から篤い信仰を受け継いでいる証拠をみるようで、不思議な感銘を覚えた。
        
                    二の鳥居  
  一の鳥居が神明系であるならば、二の鳥居は朱を基調とした木製の両部鳥居となっている。
        
                     拝 殿
 榛名神社 熊谷市太井二二八四(太井字堅田)
 湯彦友命と埴安姫命を祀る当社は、畑に囲まれて鎮座している。かつて、当社の境内には鎮守の森と呼ぶにふさわしい杉の大木が林を成し、遠方からでもすぐ神社の位置がわかるほどであったが、太平洋戦争後は多くが枯死してしまい、現在ではわずかな面影を残している。
 鳥居をくぐると、拝殿まで整然と敷石が続いているが、よく見ると一枚一枚に名前が刻んであることに気づく。これは、毎年一枚ずつ、その年の仕事を終えた用掛かりと呼ばれる年番が奉納するもので、大正の末から始められ、昭和六十二年にようやく鳥居の所にまで達した。こうした敷石の奉納は、信仰が薄れてきたといわれる今日にあっても、当社が依然、太井の鎮守として氏子に親しまれていることの表れであるように感じられる。
 当社の創建について、詳しいことはわからないが、江戸時代に当社を管理していた福聚院が慶長七年(一六〇二)の草創と伝えられていることから、それとほぼ同じころではないかと考えられている。明治になると神仏分離によって同寺の管理を離れ、明治六年六月に村社となり、同四十一年十一月二十八日、字堅田の雷神社と字伊勢前の神明社を合祀した。
 このほか、『明細帳』には記録されていないが、新田廓にあった伊勢神宮社と、番場廓にあった鷲宮社も当社に合祀されているという。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
                境内奥に聳え立つご神木のクスノキ
       
           「社殿新築記念碑」   「社殿新築記念碑」の並びに鎮座する末社殿 
                         塞神と浅間神社が祀られている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷Web博物館」「熊谷市公協だより第41号」等

 

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佐谷田神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市佐谷田310
              
・ご祭神 主祭神 
                  (佐谷田)八幡神社 譽田別命・神功皇后・玉依姫命
                   相殿神 
                  (戸 出)神明神社 大日孁貴命・天鈿女命・手力雄命
                  (平 戸)住吉神社 
底筒男命・中筒男命・表筒男命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 春季大祭 415日 例祭 85日 秋季大祭 1015
                   
燈明夜 1123
 佐谷田神社は国道17号線を行田駅方向に進み、「佐谷田」交差点を左折、埼玉県道128号熊谷羽生線に合流後、400m程進んだ「佐谷田歩道橋」先で右側の道路沿いに鎮座している。
 県道からも「佐谷田神社」の大きな看板が見えるので、分かりやすい社と言える。県道の十字路を右折し、左手に見える社入り口には「佐谷田中央集会所」も左手にあり、駐車スペースも確保されているので、その一角をお借りしてから参拝を開始した
     
            社号標柱           入口に設置されている佐谷田神社の案内板


 熊谷市佐谷田地域は市の東部に位置する標高21m26mの低地帯の地域である。旧中山道沿いにある「埼玉県農林総合研究センター」を起点に、東方向にかけては「秩父線」が、南東方向には「元荒川」が地域の境となって、概ね3㎞程放射線状に広がっている地域であると考えて頂ければよい。
 この地域は国道17号線と埼玉県道128号熊谷羽生線が分岐していて、地域内には上越・長野新幹線、高崎線、秩父線が通っている。平成163月には、指導130号線立体交差が開通し道路整備も進められ、交通量も増している地域でもある。昭和50年代後半以降、圃場整備の進展があり、地域内は市街化調整区域として耕地確保の施策が続いているという。
        
                              佐谷田神社 正面鳥居
  
  鳥居には「八幡大神」と刻印されている。     参道途中には紙垂がまかれた松が
  「佐谷田村鎮守」の頃の名残りだろう。   まるで参道にせり出すかのように伸びている。

 佐谷田神社は元々「旧佐谷田村鎮守社」であり、隣接する「旧戸出村」の神明社、「旧平戸村」の住吉神社(他国社)にもそれぞれ鎮守社が存在していた。
『新編武蔵風土記稿』においてそれぞれ以下の記載がある。
 佐谷田村「八幡社 村の鎮守 永福寺持」
 平戸村「他國明神社 村の鎮守なり 祭神詳ならず 或云住吉を祀りし社なりと云 超願寺持」
 戸出村「神明社 社領七石の御朱印を賜へり 別当金錫寺」

 因みに平戸村の「他国社」に関して、慶長年間の記録に、九州は肥前の国松浦郡平戸郷より藤井稚楽之助なる郷士が当初に住し、村の北東丑寅の地に境内を定め住吉大明神を勧請し氏神として祀ったのが始まりとある。

 
古くは隣接する集落であったが、国郡郷制度の定めでは統治下が異なり、佐谷田村は郡家郷に、平戸・戸出村は埼玉郷に属し、郷治されていた明治二十二年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となり、この合併に伴い、佐谷田の八幡社に、明治四十年に戸出の神明社、大正二年に平戸の他国社を合祀して成立したのが、佐谷田神社である。 
             
                      参道左手で境内には「佐谷田中央集会所」があり、
                    その入り口前には立派な松のご神木が聳え立っている。                                         
        
                         参道の先に鎮座する佐谷田神社

「佐谷田(サヤダ)」という地名由来はどこからきているのであろうか。
1 サヤ(佐谷)には、小川、水溝の意味があり、谷は(や)で(たに)とのみ考えるのではなく、水辺に萱やよしなどの多く生える低湿地に与えられた地名である。このため「谷」のつく地名は山地よりもむしろ平野に多い。〔埼玉県地名誌〕
2 土地の人々は、サエダと呼んでいる。これによると、“サエダ”は、“サエド”の転化と考えられ、道祖(サエ)の神を祭るところの意味からこの名がついたと思われる。〔埼玉県地名誌〕
「新編武蔵風土記稿」には佐谷田は古く佐谷郷と唱えたという。

付け加えて「戸出(とで)」「平戸(ひらと)」に関しては
戸出(とで)
1 アイヌ語で(トエヌタブ:Toyenutep)川が蛇行するという意味から付けられた。
2 「ト」は外を意味し、「テ・デ」は方面を意味する語なので、「トデ」は外の方面という意味。もとは「外手」であり、「堤の外の地」あるいは、「集落の外の地」を指した地名。
平戸(ひらと)
平たい地形で川の堰(戸)が付近にあったから名づけられた説と、現在の長崎県平戸(肥前国松浦郡平戸郷)から藤井氏が移住し、同名の地名を付けたという説がある。
        
                     拝 殿
 佐谷田神社 熊谷市佐谷田三一〇(佐谷田字不動堂)
 明治二十二年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となった。この合併に伴い、佐谷田の八幡社に、明治四十年に戸出の神明社、大正二年に平戸の他国社を合祀して成立したのが、佐谷田神社である。
 佐谷田の八幡社は『風土記稿』に「八幡社村の鎮守、永福寺持」と記され、『大里郡神社誌』には享保七年(一七二二)三月十一日に宗源宣旨を受け、正一位になったことや、寛政五年(一七九三)に伯家に願い出て八幡宮の神号を受けた時の添え状の記事がある。ただし現在では、この宣旨や添え状は残念ながら確認できない。
 一方、戸出の神明社は、『風土記稿』に「神明社 社領七石森の朱印を賜へり、別当金錫寺 新義真言宗」とある神社であるが、七石の社領を明治初めに上地されて以来零落し、県行政文書によれば、明治三十二年に、時の社掌杉浦正太郎は内務大臣・農商務大臣に上地林を下げ戻しの上、境内に編入することを嘆願している。しかし、この嘆願により調査を行った東京大林区署長島田剛太郎の「該神社は、村社なるも全く荒廃に任せ、神体は唯御幣のみ存するの状況、殆ど無格社に劣る」との報告に、上地林の下げ戻しは実現しなかった。
 平戸の他国社は『風土記稿』に「他国明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、或云住吉を祀りし社なりと云、超願寺持」と載り、口碑に「長崎平戸の神を祀り他国という」と伝え、戦後旧地に戻っている。
                                   「埼玉の神社」を引用
        
                     本 殿
        
               社殿左側に祀られている合祀社
 手前の四社は社頭にある案内板によると、厳島神社、日本武尊神社、天児屋根命神社、大山祇神社のようだが、札等がないので詳細不明。奥に祀られている社は、左から天神社、八坂神社、琴平神社、稲荷神社があり、その奥には三峯神社が祀られている。
 
   合祀社の手前には塞神が多数ある。     合祀社の並びには石祠や石碑等が並ぶ。
        
   社殿右側には富士塚があり、塚の上には浅間神社と小御嶽石尊大権現が祀られている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「熊谷Web博物館」
    「Wikipedia」「佐谷田神社HP」「熊谷市公連だより」「境内案内板」等

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