古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

市ノ川氷川神社

 市野川(いちのかわ)は、埼玉県を流れる一級河川である。荒川水系の支流で、流路延長は38.1 km。正式な表記は市野川だが、市の川や市ノ川と表記することもある
 埼玉県大里郡寄居町大字牟礼字下金井の丘陵地帯北斜面の溜池に源を発し、流路を北から徐々に南東に向きを変え、田園地帯の中いくつもの小河川や沢を合流し次第に流量を増す。嵐山町役場付近で流路を東向きに転じ、東武東上線の北側を平行して流れる。関越自動車道を交差する付近から丘陵の縁沿いを流れ、流路の蛇行が激しくなる。また市野川支流である滑川が、市野川の北側を並行して流れ、東松山市砂田町と吉見町北吉見の境界付近で合流する。

 市ノ川地域は東松山市・野田地区の南側に位置し、市野川中流域両岸に東西に長く位置する。この地域は北部を東に蛇行する市野川の名をもって地名としている。市野川沿いに村を開くに当たり、市ノ川氷川神社を創建して川を鎮める水神をしてここに祀り、地域住民は生活の営みを続けていたといっても良い
               
             
・所在地 埼玉県東松山市市ノ川1087
             
・ご祭神 素戔嗚尊、天照大御神
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 夏祭 714日 例祭 1019日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0501141,139.3921574,17z?hl=ja&entry=ttu
 市ノ川氷川神社が鎮座する市ノ川地域は市野川中流域両岸にあり、東松山市・野田地区の南側に位置する。途中までの経路は野田八雲神社を参照。埼玉県道391号大谷材木町線を県道に沿って南下し、市野川を越え「市の川小(西)」交差点を右折する。暫く進み、最初の変則的な十字路を左斜め手前方向に進路をとる。この左手にはコンビニエンスがある為、分かりやすい。左斜め手前方向に進み、すぐ左手に市ノ川氷川神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場はない。鳥居の反対側には市ノ川公会堂があるが、参拝日は16日で門は閉まっていたので、手前方向にあるコンビニエンスで商品購入後、急ぎ参拝を行う。
 年末年始に合わせて沢山の幟が参道両側に飾ってあり、まさに年始の趣を感じた。
               
                        道路沿いに鎮座する市ノ川氷川神社
               
                                 正面神明鳥居
               
                                拝 殿
            参道の両側に飾っている登り旗が色鮮やか
 氷川神社 東松山市市の川一〇八七(市ノ川字前山)
 当地「市の川」は、北部を東に蛇行する市野川の名をもって地名とする。戦国期には既に地名が見え、天文二十二年(一五五三)四月一日の北条家印判状によれば、「武州市川永福寺」に「寺内門前一切不入事」「寺領致作土貢」などを安堵している。ちなみに、この永福寺は永正五年 (一五〇八)の草創と伝えられる。
 口碑によると、当社は初め「もとびか」と呼ばれる地に祀られていたが、ある年の大風で同社の白幣が飛び去って今の地に落ちたことから、村人は神意の致すところとして、ここに社殿を建てて奉斎したという。「もとびか」とは「元氷川」を意味し、その地は現在地の北方三〇〇メートルほどの所である。恐らく市の川沿いに村を開くに当たり、川を鎮める水神をしてここに祀られ、後に川の氾濫を避けるために今の地に遷座したものであろう。『風土記稿』には「氷川社 村の産神なり、村持」とある。
 明治四年に村社となり、同四十年には無格社神明社とその境内社八雲神社を合祀した。この両社の旧社地は天王山と呼ばれる高台で、合祀の際に村人が八雲神社の幟竿を担いでこちらに来たとの話が伝えられている。
昭和五十一年には、社殿の再建が行われた。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿上部や木鼻部には凝った彫刻も見える。      社殿右側に鎮座する境内社。
               
               拝殿に掲示されていた「御由緒」
              光の反射で見えない所があり。残念。
 御社名 氷川神社
 御祭神 素戔嗚尊、天照大御神
 御由緒
 当社の社記に人皇第七十代後冷泉天皇の御代康平6年(1063年)創立と記載されてある。即ち源頼義の嫡男義家(八幡太郎と号す)が奥州の夷賊阿部頼時及びこの子貞任を滅ぼして武勲を立てた時代である。
 旧称武蔵国比企郡市ノ川村総面積大凡百町歩の産土(鎮守)として祀られたものならん。
 此の地は今より四千年前既に人の〇〇〇ありと云われ、其の証として竪穴式住居跡が発見せられ、又其の付近〇〇〇〇〇石、石斧〇〇〇々発見せられる。
 現在の御社殿北方約百五十間隔てた大字市ノ川六百二十八番地附近を元氷川と云い、最初は此処に祀りたるも其の後大暴風の為神体が現在の地まで飛び、村人は御神意の致す処と其の時より現在の所に移し祀られたと云われて居る。
 御神徳の新たかな事は近隣に比類ないと〇われ、然し御神意に反する行為ある時は強く戒められると云はれて居る。
 この地は明治年代の末期には旧〇〇〇の最小の部落であり、戸数は三十戸内外氏子の数は僅かに百五十人であったが、御綾威の致す処か現在は其の十倍近く迄発展し、神社に対する信仰の熟度は年々高まる傾向である。
 合祀せられて居る神社は天神社であり、明治四十年〇一月二十日市の川一、一六二番地所在の無資格神明社及び同境内の八雲神社を本社に合祀せられた。
 昭和二十一年二月二十八日宗教法人令による届出を完了した。(以下略)
*〇の部分は光の反射の為解読不可。
                                      掲示板より引用


 掲示板に記載されている「産土神」は「うぶすながみ、うぶしなのかみ」とも言い、神道において、人が生まれた土地の守護神という。その人を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。産土神への信仰を産土信仰という。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と氏神は同じ神であった。但し現在は転居する者が多いため産土神と氏神が異なる場合も多い。

「産土神」に対して「氏神(うじがみ)」は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のことを言い、現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い
 本来の氏神は、読んで字のごとく氏名(うじな)の神であり、一族一統の神であった。古代から、その氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かったという。中世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
            

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野田八雲神社


                 
              
・所在地 埼玉県東松山市野田1201
              
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
              
・社 格 不明
              
・例 祭 元旦祭 1月1日

 東松山市、野田地区南部で、滑川と市野川に挟まれた丘上の小高い場所に野田八雲神社は鎮座している。途中までの経路は野田赤城神社を参照。埼玉県道391号大谷材木町線を曲がらずに滑川に架かる「野田橋」を越えて真っ直ぐ南下すること300m程で、三叉路にぶつかる。左斜め方向に進路をとるとすぐ左側の小高い丘上に社は静かに佇んでいる。
 残念ながら周辺には専用駐車場はない。通行車両の邪魔にならない場所に路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
        
                  
野田八雲神社正面

 社は県道に接する三叉路という狭い空間に社は形成されているため、境内は狭いが、石段上に鎮座しているためか、威厳な趣はやはり感じてしまうのだから、人間という生き物は不思議な思考回路を持ち合わせているなと、つくづく感じた。
        
                          神明系の鳥居の先に拝殿が鎮座する。

 野田八雲神社の創建等に関する資料は調べても全くなく、境内にも由緒を記した案内板や石碑もないので詳細は不明である。

「東松山市指定文化財―無形民俗」の指定を昭和55年(1980年)110日に受けている「野田の獅子舞」には「夏祭りには厄除け、秋祭りには豊作と無病息災の感謝を祈念し、奉納されています。創始当時の獅子頭を納めていた箱に『寛永十二亥(1635)六月創始』と書いてあったことから、今から三百数十年前の江戸時代に、野田村の名主・長谷部平兵衛福兼によって創始されたと伝えられています。獅子元は現在まで長谷部家によって引き継がれています(中略)夏祭りは、元は字西野(西明寺沼の西)にあった八雲神社(天王様)で奉納されていました。八雲神社は明治41(1908)に赤城神社に合祀されています。(以下略)」と書かれている。
 この字西野に鎮座していた「八雲神社」と同名の野田八雲神社とは、そもそも同じ系列の社なのか、同じ系列の社であると仮定して、どのような関連性があったのだろうか。
        
                     拝 殿

「新編武蔵風土記稿・野田村条」には「赤城社・村の鎮守なり、富山派修験、教善院持。 天神社・村持。 神明社・是も村持」とあり、当時長谷部家は赤城社、高橋家は稲荷社、上野家は神明社と、一家(一族)ごとにそれぞれ氏神を祀り、祭りを行ってきた経緯があった。この社に関して直接記されていない。また唯一残っている「高橋家の稲荷社」は風土記稿に記されている「天神社」とは別系統の社と考えているが、では一体どこに鎮座しているのか(野田赤城神社の境内社とも考えられるが)、詳細は不明である。
 
   「八雲神社」と書かれている扁額       道路脇にある「念仏供養塔」と石仏


「八雲神社」と同名の社は野田地域周辺に少なからず存在している。東松山市本町地区には同名である八雲神社が鎮座する。ご祭神は倉稲魂命。本町八雲神社の創建年代等は不詳ながら、宿場町として発展した松山町に天王社として祀られ、明治維新後は八雲神社と称して無格社に列格、大正3年松山神社に合併され、現在松山神社境内飛び地となっている。
 この社は「新編武蔵風土記稿」に「天王社 眞福寺持」と記されていて、当初は天王社という名前であったのを、明治年間に八雲神社と改称した経緯がある。
 この社社殿の彫刻は安政六年四月の再勧進請のときに製作されたもので、彫工飯田仙之助(熊谷市河原明戸地域出身)が三人の弟子に技を競わせたものといわれていて、東松山市市指定文化財に指定されている。

 同じ時期にそれ程遠くない地域に同じ社号の社が複数存在する。但し「それ程遠くない」とは書いたが、野田から本町まで距離にして2㎞。2㎞という距離差は「社を中心とする共同体でも違う文化圏となりえる最低距離」と筆者は常日頃から考えているので、同名の社であろうと、違う神を信奉する地域があってもおかしくない

 筆者の勝手な推測を敢て続けるが、ではそれぞれの社にはどのような経緯があって同名「八雲」という名称をつけたのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市観光情報HP」等


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野田赤城神社


        
            
・所在地 埼玉県東松山市野田455
            
・ご祭神 大己貴命、豊城入彦命、彦狭島命
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 天神祭 125日 春祭り 415日 夏祭り 715
                 
例祭 1014日 秋祭り 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0596711,139.3910621,17z?hl=ja&entry=ttu
 東松山市野田地域は、滑川町町役場の東南側に位置し、荒川支流の滑川が蛇行を繰り返しながら東西に流れているその両岸に地域が形成されている。因みに同じ荒川支流の市野川も北側に流れている滑川と並行するように南側に流路が形成されている。
 野田赤城神社は国道407号をひたすら南方向に進み、「上岡」交差点で右斜め方向に進路変更する。埼玉県道391号大谷材木町線を4㎞程南下し、「野田」交差点の先に滑川を越える橋があり、その手前のT字路を右折し400m程進むと、右手に野田赤城神社の社号標が見えてくる。基本的に社号標と鳥居はセットで設置されているのが通例であるが、この社に関しては、鳥居は道路に対して奥に設置されていたため、目印となりにくい。
 社に隣接して「野田自治会館」があり、そこの駐車場を利用して参拝を開始する。
        
             道路沿いには社号標柱のみあり、鳥居はその奥に設置されている。
        
                                     神明系の鳥居
        
               参道の途中には案内板がある。
 野田の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 野田の獅子舞は毎年七月十四日の夏祭、十月十四日の秋祭に赤城神社に奉納される。
 獅子舞の由来は、今から三百数十年前寛永年間にこの地の名主長谷部平兵衛福兼によって始められたと伝えられている。
 獅子を「メジシ」「オジシ」「ダイガシラ」と呼び、袴に白足袋姿で八畳程の敷物の上で舞う一人立ちの三匹獅子舞で座敷獅子と云われている。

 野田の獅子頭(市指定有形民俗文化財)
 代々獅子元を務める長谷部家に、寛永年間の作と云われる獅子頭が残っている。竜頭形式の獅子頭で、桐材を用いた素朴なものである。
                                      案内板より引用


 夏祭りには厄除け、秋祭りには豊作と無病息災の感謝を祈念し、奉納されています。創始当時の獅子頭を納めていた箱に『寛永十二亥(1635)六月創始』と書いてあったことから、今から三百数十年前の江戸時代に、野田村の名主・長谷部平兵衛福兼によって創始されたと伝えられています。獅子元は現在まで長谷部家によって引き継がれています。当日は、長谷部家で支度を整え、赤城神社までの街道下りを行います。野田の獅子舞の大きな特徴は、8畳ほどの敷物の上で舞うところです。本殿前にしつらえた敷物の上で切り袴・白足袋姿で舞うところから、座敷獅子と言われます。夏祭りは、元は字西野(西明寺沼の西)にあった八雲神社(天王様)で奉納されていました。八雲神社は明治41(1908)に赤城神社に合祀されています。大正時代末期から太平洋戦争の終結までの間に一度途絶えてしまいましたが、昭和24(1949)に保存会ができ、翌年復興しました。近年は、1021日に西明寺(薬師様)での奉納も行われています。現在の獅子頭は文久元年(1861)に作られたものですが、創始当時の隠居獅子と呼ばれる旧獅子頭も残されています。隠居獅子も東松山市指定有形民俗文化財に指定されています。
                                                               東松山市観光情報HP
より引用
        
                          参道の先に拝殿が鎮座する。
       
                      拝殿手前で左側に聳え立つ御神木
        
                     拝 殿
 赤城神社 東松山市野田四五五(野田字東野)
 野田は、荒川支流の滑川沿いに開かれた農業地域で、市の北部に位置し、その開発は戦国時代と伝えられている。当社は、社記によれば草分けである長谷部家の先祖右内清信が文亀二年(一五〇二)二月に同家の守護神として赤城大明神を奉斎したことに始まるという。
 当時この地にも、人々が次第に集まり、村は大きくなっていた。しかし、村全体で祀る鎮守はまだなく、人々は、上野家は神明社、高橋家は稲荷社というように一家(一族)ごとにそれぞれ氏神を祀り、祭りを行ってきた。永正二年(一五〇五)正月四日、松山城主上田氏から野田という村名を賜ったが、これを機に、村民は協議の上、赤城大明神を野田村の鎮守と定め、同月社殿を再建した。ここに当社は、草分けの長谷部家の守護神から野田村全体の鎮守となり、多くの人々から信仰されるようになったのである。
 境内の石碑によれば、永正二年一月に本殿が建造され、宝暦十一年(一七六一)十二月に覆屋を建立した際、改修されたと伝えるが、現在の本殿の建造年代については定かではない。また、拝殿は安政元年(一八五四)の春に降雨を祈願して池を掘ったところ願が叶い、翌年の秋に大願成就の意をもって設けられたものであると伝えている。しかし、長い歳月を経て、覆屋・拝殿共に傷みが激しくなってきたため、氏子一同協議の結果、昭和三十七年十月、これらを再建した。
                                  「埼玉の神社」より引用 


 野田赤城神社の創建は、当地の草分けで名主家である「長谷部」家が、文亀3年(1502)赤城大明神を奉斎したことに始まると記載されている。今から500年以上も前の文亀年間で既に「名家」という箏は、その淵源は数百年前と推測される。更に調べてみると、この「長谷部」は日本の古代氏族の一つ・物部朝臣から続く氏族で、種別は「神別」「天神」という。
 この神別(しんべつ)とは、古代日本の氏族の分類の1つで、平安時代初期に書かれた『新撰姓氏録』には、皇別・諸蕃と並んで、天津神・国津神の子孫を「神別」として記している(「天神地祇之冑、謂之神別」)。
 さらに神別は「天孫」・「天神」・「地祇」に分類され、天孫
109・天神265・地祇30を数える。なお、こうした区分は古くからあったらしく、これは律令制以前の姓のうち、「臣」が皇別氏族に、「連」が神別氏族に集中していることから推測されている。

 さてこの由緒のある「長谷部」苗字由来としては、雄略天皇の部民として設定された御名入部である長谷部が起源とされる。 長谷部は、雄略天皇の皇居である長谷朝倉宮にちなみ、雄略天皇の生活の資用に当てられた料地の管理や皇居に出仕して警備、雑用などの任に服していた人々と考えられている。
 また万葉集には丈部をハセベと註していて、土師(はせ、はぜ)の職業集団を土師部(はせべ)、丈部(はせべ)と称し、長谷部の佳字を用いたようだ。古事記・雄略天皇条に「長谷部舎人を定む」とあり。大和国城上郡長谷郷の朝倉宮に坐す雄略天皇の御名代部にて天皇の舎人を云う。長谷郷は土師部の居住地より地名ということになり、その地名から苗字へと転化されたと考えられる。

 不思議なことに、この「長谷部」は日本全国で、約30,000人ほどいると言われているが、西日本より東日本にに多く見られ、更に埼玉県が断トツの1位で4,400人、中でも東松山市は760人在住している。ルーツは畿内地域ではあるが、日本全国へと移住し始め、結果的にその定住先が東日本がより顕著となった、という箏だろうか。
 
       境内に鎮座する境内社            再建記念碑

 東松山市の高坂地域には「反町遺跡」と呼ばれる弥生後期前半、古墳前期の遺構、遺物を中心とした大規模遺跡がある。高坂台地の東側に広がる低地に位置し、標高は18m程。「古墳時代の大開拓地」とも呼ばれている。
 この遺跡は、現在の地表面から、1mほど掘り下げて発見され、古墳時代前期(約1,700年前)に大規模な集落が形成された。その後、古墳時代中・後期(約1,5001,400年前)には墓域として利用され、数多くの古墳が造られた。
 これまで調査した古墳は26基で、前方後円墳を中心に大小さまざまな円墳(えんぷん)が すき間なく発見されている。古墳からは、人物埴輪や馬形埴輪、円筒埴輪、銅鏡(内行花文鏡(ないこうかもんきょう))などが出土している。調査区北側では、大溝跡(河川跡)の調査を並行して実施し、この溝跡からは、建物に使われていた柱や梁(はり)、 板材などの建築部材が多く出土している。また、当時の人々が使っていた木製の臼や鋤(すき)、 田下駄(たげた)などの農具も出土したという。

 さて、この反町遺跡では東海系、北陸系、畿内系などの複数の地域から搬入、あるいは伝わった土器が出土している。
 土器の中心は、五領式土器を中心とする在地の土器である。東松山市周辺は、弥生時代終末には吉ケ谷式と呼ばれる非常に地域色の強い土器が使われていた。それが台付甕を用いる南関東的な五領式土器に変化したのは、古墳時代という新たな時代への大きな変革があったためと考えられる。
 反町遺跡は、新たな時代の到来とともに開かれた「村」だが、その住人は弥生時代以来の在地の人々が中心であったようだ。というのも弥生時代後期から施されてきた甕磨き手法によって、出土する台付甕の内側はツルツルに近い平滑な状態に仕上げられている。土器型式が変わっても、土器作りの基本的な方法は引き継がれていて、反町遺跡の土器は丁寧な作りのものが多く、伝統的な方法を踏まえた上での、新たな時代の土器づくりが行われたと考えられている。
その一方で、反町遺跡からは、東海、北陸、畿内、あるいは中国地方に系譜が求められる壺や甕、高坏、小型壺が出土している。こうした他地域の系譜を引く土器は、外来系土器と呼ばれていていて、それらの地域からの住民たちの移動・流入があったことは間違いなく、2世紀から3世紀代の時期に、列島内の各地から東国、とくにこの埼玉の地にも移動・移住があったことは確実である。それらの外来系土器の多くは在地の埼玉の粘土を用いて作られているという分析結果があるところから、埼玉の地に根ざした移住民生活があったこととも読みとれている。

 反町遺跡では新しい五領式土器(古墳時代の土師器)への交代とともに、東海、近畿、北陸の系譜を引く土器群が出土し、更に遠方との「ヒト」や「モノ」の交流も推定されるなど、大々的な変革があったと思われる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
東松山市観光情報HP」「埼玉の神社」
    「
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書」「Wikipedia」等

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西本宿浅間神社

人の体には、知らぬ間に疫病やら災厄やらが取りついていると信じられてきた。俗にいう「穢(けが)れ」が溜まっていき、それが害悪をもたらすのだ、と昔の人々は信じていた。
基本的に「フセギ」行事は、春から夏にかけて伝染病などの悪病が流行しないようにと村境にお札や藁で作った龍などの作りものを立てかける行事で、村境に立てるのは、こうした悪病が村内に入って来るのを防ぐ意味がある。
比企郡、入間郡内では様々なフセギ行事が行われている。その中に「後本宿のフセギ行事」があり、東松山市公式HPには以下のように紹介している。

後本宿のフセギ行事 平成18年(2006年)324日(東松山市指定文化財―無形民俗)
フセギは病気や災害などの悪いものが地区に入らないよう防ぐための民俗行事です。厄災除けの祈りを込めて作った藁のオブジェを地区の入口や辻などに取り付けて悪霊の侵入を防ぎます。
フセギに表現される様々な部材はそれぞれ大きな意味を持ちます。大きなわらじはその地区に悪霊をも倒せるほどの大男がいることを表し、同時に足腰が衰えないよう祈願する意味もあります。サイコロは侵入者に対し、いろんな「目」で見ていることを表しています。男女の生殖器の表現は、立ち入りをけん制する意味のほか、子孫繁栄などの意味も併せ持っていたと考えられています。後本宿のフセギ行事は2月の第一日曜日に行われ、字の入口にあたる5
か所の辻に設置します。桟俵(笠)とサイコロが特徴です。

 比企郡、入間郡内での「フセギ行事」の背景には、このように様々な工夫をこらして、集落内に流行病などの悪いものが入らないようにしたいという、人々の切実な願いがこもっている伝統ある行事と言えよう。
        
            
・所在地 埼玉県東松山市西本宿996
            ・ご祭神 木花咲耶姫命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 春祭り 415日 初山祭 714日 例大祭 113
                 秋祭り 1214
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0099887,139.3915674,17z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社から一旦北上して埼玉県道41号東松山越生線に合流後右折し、東方向に進路をとる。関越自動車道を潜り抜け、「葛袋」交差点を直進すると、344号高坂上唐子線と県道路線変更となるが、そのまま道なりに進む。県道は都幾川の流路に沿って南東方向になるが、800m進んだ十字路を右折し、暫く進むと左手に西本宿浅間神社の鳥居が見えてくる。実のところ県道の十字路右対角線上に広がっている森は社の社叢だったようだ。
        
                          道路沿いに鎮座する西本宿浅間神社
 
      木々の間に鳥居が屹立している。      鳥居の社号額「富士浅間神社」と見える。
        
                     境内は思った以上に広く、静寂な空間が一面に広がる。
              参道の先で石段上に社は鎮座している。
        
 都幾川と越辺川に挟まれた高坂台地北端に分布する諏訪山古墳群の36号墳。前方後円墳の後円部の上に富士浅間神社が鎮座しているので、別称・浅間神社古墳と言われる。東南方向に前方後方墳(諏訪山29号墳)、前方後円墳(諏訪山35号墳、市史跡)が並列している位置関係にある。前方部は削平されている。後円部の径27.1m。高さは4m程と考えられている。

諏訪山(すわやま)36号古墳
墳 形 前方後円墳 築造時期 5世紀? 規 模 径27.1m 高さ4
29号墳…全長約53m 前方後方墳 4世紀前葉(推定)
 1960年(昭和35年)の日本セメントの引込線の敷設工事による破壊とその後の崩落により北側の半分以上が失われている。当初は前方後円墳とみられていたが、1984年(昭和59年)の調査で墳長53mの前方後方墳であることが明らかにされた。出土した土師器から4世紀前半から中頃の築造とみられている。
〇35号墳…全長約68m 前方後円墳 4世紀後半末 県内の前方後円墳では最古級
 29号墳の前方部右前方に所在する前方後円墳で、1957年(昭和32年)1129日に東松山市指定史跡に指定された。墳長68m、後円部径40m、高さ9m、前方部幅30m、高さ4m。諏訪山29号墳との位置関係や埴輪、葺石が存在しないことから4世紀後半の築造と考えられる。
        
                           石段上に鎮座する西本宿浅間神社
 
 諏訪山古墳群はその連番が示す通り多くの古墳から構成されているが、29号墳と35号墳は前期の古墳として別格であり、それ以外の後期に群集する古墳とは別個に検討する必要があると考える。ただ、別個とはいっても大きな目立つ古墳のすぐ近隣に群集墳を築造しているわけであるから、それら後期の人々は前期の王と系譜的に繋がりがある者か、そうでなくても関連性を強調しようとしていた一族というのは間違いないと思われる。
        
                     拝 殿

 浅間社 東松山市西本宿九九六(西本宿字富士原)
 富士浅間に見立てた前方後円墳の墳丘上に鎮座する当社は、木花咲耶姫命を祀り、本宿(元宿とも書く。明治十二年から西本宿)の鎮守として、住民から厚く信仰されてきた。
 大同年間(八〇六-一〇)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の途中、岩殿山中に棲む悪竜が近郷の人畜を害していたことを聞きつけ、日ごろ崇敬する富士浅間の神体を当地に安置して祈願をしたところ、悪竜の居場所を知ることができ、見事これを退治したというはなしが、田村麻呂が奉安したという富士山の霊石とともに伝えられている。
 また、関東管領足利基氏が当社を深く崇敬し、貞治元年(一三六二)に社殿を建立したといわれ、更に元禄六年(一六九三)から正徳四年(一七一四)にかけて改築が行われている。
『風土記稿』は元宿村の項で、当社について「浅間社 村の鎮守なり、常安寺持」と触れている。ここに記された常安寺は、本宿の地内にあり、同じく『風土記稿』によれば「開山豪讃和尚文永三年(一二六六)二月十五日寂す」と伝えられる中世開山の天台宗の寺である。
 神仏分離の後、この常安寺の管理を離れた当社は、明治四年に村社に列し、同八年の屋根葺き替え、大正五年の社殿再建などを経て、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿            
本殿左脇には境内社・三峯神社が鎮座
        
                           墳頂から見た参道

 神社前の参道部分に円形の土俵のような土盛り部があり、相撲を奉納したのかもしれないが,土俵にしては土が薄すぎるので,詳細は不明。
 但し西本宿地区には「西本宿の獅子舞」あり、その獅子舞がこの社の土俵上で奉納されているかもしれない。

西本宿の獅子舞】
獅子舞に関する資料の中で「武士の家に行きしときの唄」というものがあることから、西本宿の獅子舞は江戸時代中期ごろから始まったと推測されています。
総代宅から富士浅間神社までの約1キロメートルを「街道」と呼ばれる笛の曲と「逸子」の「ほーい」という掛け声に合わせて獅子の行列が向かいます。
西本宿の獅子舞の特徴は「富士山の衣装」と跳ねて廻る「鹿獅子」と呼ばれる動きの激しい舞です。特に最後に行う頭を大きく振り、足を高くあげる「大狂い」と呼ばれる勇壮活発な舞は、西本宿の獅子舞の特徴をよく表しています。
3匹の獅子の見分け方は、背中の帯の色で、青が中獅子、赤が雌獅子、黄が宝冠獅子です。獅子の腰に差した帯の色と同じ2本の幣束は安産のお守りになると言われています。また、この神社では714日に子どもの成長を願う初山祭が行われており、子どもに関する云われが多い地区のようです。
西本宿の獅子舞では、舞の最中に舞の意味や流れを説明したナレーションがあり、物語のように見ることができます。
開催日 10月の最終週土・日曜日 開始時期 江戸時代中期頃

【三人獅子舞】
 獅子舞には、胴体部分に1人若しくは複数の人が入って舞うもの(伎学・神楽系獅子舞)と、1人が1匹を担当し、腹にくくりつけた太鼓を叩きながら舞うもの(風流系獅子舞)があります。前者は主に西日本で、後者は主に関東・東北地方で舞われることが多く、東松山市内でも後者の獅子舞が、神社の祭りなどで舞われています。また後者の獅子舞は、3匹で舞うことも特徴で、「三匹獅子舞」と呼ばれたりもします。
 東松山市は獅子舞が盛んな地域です。獅子舞は、五穀豊穣を祈願・感謝したり、地区の悪病退 治、雨乞いなど、様々な目的で舞われ、地域ごとに特色があります。
                                  東松山市公式HP
より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「
嵐山町Web博物誌」「東松山市公式HP」「Wikipedia
       

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上唐子白山神社

「菊理媛神(ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコト)」は加賀(石川県)の霊峰白山を御神体とする白山比売神社のご祭神である。
全国約三千社にのぼる白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の社伝では、「白山比咩大神(=菊理媛尊)」として以下の言い伝えを記述している。

『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原(たかまのはら)に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)でした。この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。
伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。
黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。(中略)菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。
                                   白山比咩神社HP
より引用

 但し神話上において、この神は『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に「一書曰」と一度だけ出てくるのみであり、日本神話上の神でありながら、天津神であるか国津神であるか、どのような系統・系列の神様で、そもそもどこから来られたのか、全く謎の神様である。この説話でも日本神話らしい、曖昧で正直よく分からない流れである。因みに伊弉諾尊・伊弉冉尊を仲介した際に、菊理媛神が何を言ったのか、伊弉諾尊はどうして誉め、なぜその後去ったのかは不明で、一切書かれていない。ただし、菊理媛神により、伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦喧嘩が収まったのは事実である
 伊弉諾尊・伊弉冉尊にとって菊理媛神はどのような立場に位置する神であったのだろうか。
 現在では伊弉諾尊・伊弉冉尊を仲直りさせたこの曖昧な説話をもって、菊理媛は縁結びの神として信奉されている謎多き女神である。

 上唐子白山神社の創建に関して、どのような経緯で、謎の多い「菊理媛神」を主祭神とした白山比咩神社を勧請したのかは不明である。但しその当時、この神の力が必要であった何かしらの切実な理由が創建当時前、この地にはあったのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市上唐子1054
             
・ご祭神 菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉那美
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 春祭り 42日 夏祭り 723日 秋祭り 1016日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0358701,139.3437236,18z?hl=ja&entry=ttu
 神戸神社に隣接する神戸公会堂から東松山市市民健康増進センター方向に進む道路を北上し、今では懐かしい「冠水橋」である鞍掛橋を渡る。都幾川鞍掛橋周辺一帯は「くらかけ清流の郷」という緑豊かな自然が楽しめる場所で、埼玉県の「川のまるごと再生」事業で、川遊びや手ぶらでバーベキューが楽しめるスポットだそうだ。嵐山町「嵐山渓谷」の岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織り成すみごとな景観と自然環境を持ち合わせ、同時に川遊びやバーベキューが楽しめる観光地でもあるが、嵐山渓谷やくらかけ清流の郷の存在自体、都幾川が埼玉県でも屈指の清流であることの証明でもあろう。
 因みに鞍掛橋の「くらかけ」という名前は
近くの山の形が鞍に似ているから
新田義貞が鞍を掛けた松があったから
川によって岩が削られて、岸壁を意味する「くら」が「欠け」ることから
 など、いくつかの話が由来だと言われている。
 鞍掛橋を渡りきり、そのまま道なりに進路を取り、埼玉県道344号高坂上唐子線に交わる「白山神社(南)」交差点を直進し、200m程進むと上唐子白山神社の白い社が見えてくる。
 社には駐車スペースはないが、南側近くに「上唐子集会所」があり、そこの一角に車を停めて参拝を行った。
        
                                上唐子白山神社 一の鳥居
        
      町中に鎮座する社。その為か二の鳥居までの参道途中に道路が横切る。
        
                              白を基調とした拝殿

 白山神社  東松山市上唐子一〇五四(上唐子字引野)
 社伝によると、当社の創建は寛文年間(一六六一-七三)のことで、当村の篠田三郎右衛門・堀越三右衛門の両名が尽力して加賀国の白山比咩神社を勧請し、社を建立したという。その後、享保年間(一七一六-三六)に社殿の再建を行った。嘉永二年(一八四九)の大火により類焼の憂き目に遭うが、安政四年(一八五七)に再興を果たした。
 往時の祭祀状況については明らかでないが、当社の西方三〇〇メートルほどの地にあった常福寺が、別当として祭祀を司っていたことが推測される。常福寺は無量山佛音院と号する天台宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊としていたが、明治初年に廃寺となった模様である。
 現在、当社の隣接地にある阿弥陀堂は、この常福寺にかかわっていたものと考えられる。
 明治六年に村社に列せられ、昭和四年には隣接の畑五歩と宅地六坪余を境内に編入し拡張を行い、神饌幣帛料供進神社に指定された。同五十三年には社伝の再建を行い、現在に至っている。
 末社に三峰社がある。この社は、昭和四十年ごろまで氏子の間で結成されていた三峰講によって祀られていた社である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 新編武蔵風土記稿、上唐子村条には
「当所は古く開けし地と見えて、【関東合戦記】永享十二年村岡合戦の條に、長棟庵主は七月八日、神奈川を立、野本・唐子に逗留し、八月九日小山庄祇園城に着玉ふ云々とあり、野本も近き邉の村名なれば、唐子は当村なること明けし」
 上唐子村の小名として「原屋敷 大林屋敷 比企野」の3カ所の地名があり、「比企野 村の北を云、当所に白山社ありて、(略)此地は古くは太田道灌が陣所となりしことありという。」と記されている。

 享徳3年(1454年)から文明14年(1482年)までの期間、古河公方足利成氏(しげうじ)と、山内・扇谷上杉氏との間で30年近くに渡って続いた享徳の乱では、上杉一門は一致協力して足利成氏と戦ってきた。しかし文明8年(1476年)山内上杉顕定(あきさだ)の重臣である長尾景春(かげはる)が叛旗を翻し、翌文明9年(1477年)正月、長尾景春は五十子の陣を急襲し、山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走すると、長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。
 これを鎮めたのは扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(どうかん)である。道灌の東奔西走の活躍により景春は早々に封じ込められた格好になり、抵抗を続けていた長尾景春も文明
12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ没落。そして文明14年(1482年)、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。

 太田道灌は自ら30回以上も出陣しながら1敗もしていていない。不敗の理由の一つとして、兵同士の一騎打ちが戦の主流だった当時、太田道灌は集団で戦う「足軽戦法」を駆使したことにより、常勝を果たしたともいえ、また「築城の名人」とも言われ、戦において多くの計略をめぐらしてきたが、その要となる「城」が最も大事と気付いたのだろう。江戸のみならず、河越(埼玉県川越市)、岩槻(埼玉県さいたま市)など、多くの城を築いた。

 太田道灌は戦の天才のみならず、和歌の名人としても知られ、「山吹の花」でのエピソードはつとに有名である。詳しい内容は省かせていただくが、潜在的な才能もあり、自ら実践し、吸収してしまう努力家でもある、いわば「有言実行型」の典型的な人物であったろう。
 戦いに関しても、自ら現地に赴き、その場を視察し、その場での空気を読み、策を巡らし、果敢に勝利をつかみ取るような人物であったのではなかろうか。

「新編武蔵風土記稿・上唐子条」に記されている道灌が作った陣所もその類いではなかったのではと考察する。
 
   拝殿左側には石祠が鎮座。三峰社か。      拝殿右側にある「白山神社建築記念碑」

 白山神社建築記念碑
 当社の御創建は古く、寛文年間(1661-1672年)当地在住の信仰厚き人々相集い、菊理媛命、伊邪那岐命、伊邪那美命を御祭神に迎え祭り白山神社を創建す。
 享保年間(1716-1735年)更に再建されしが嘉永二年(1849年)大火により類焼の難を受く。安政四年新たに社殿を建立され緒人の信仰と崇敬を集め守護し来りしが百有余年の星霜を経て社殿の朽廃甚だしく氏子一同相計りて浄財を歓請し、昭和五十二年三月吉日 社殿を建築せしものなり。
                                       碑文より引用

        
   上唐子白山神社の道を隔てて南側にある、別当の常福寺にあったとされる阿弥陀堂。

 当社の西方300m程の地にあった常福寺が、別当として祭祀を司っていた事が推測される。常福寺は無量山佛音院と号する天台宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊としていたが、明治初年に廃寺となった模様である。現在、当社の隣接地にある阿弥陀堂は、この常福寺にかかわっていたものと考えられるようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市公式HP」「埼玉の神社」白山比咩神社HP」
    「Wikipedia」等


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