古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

白井沼氷川社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町白井沼219
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧白井沼村鎮守 旧村社
              ・例祭等 春祭 47日 夏祈禱 714日 101415
                   例祭・秋祭り127日

 吉原宮原神社から埼玉県道339号平沼中老袋線を西方向に600m程進行し、信号のある十字路を右折、通称「さくら通り」を川島町役場方向に進む。「首都圏中央連絡自動車道」の高架橋下を潜りぬけ、160m先のT字路を右折する。川島町立川島中学校を過ぎたその先に白井沼氷川社が鎮座する場所に到着する。
        
                  白井沼氷川社正面
『日本歴史地名大系』では、「川島町白井沼村」の概要として以下の内容が記載されている。
 紫竹(しちく)村の北にあり、集落は畑中(はたけなか)村の南に続く自然堤防上に発達。小名に浮沼(うきぬま)・猿ヶ谷戸(さるがいと)と・要ヶ谷戸(かまめがいと)などがあり、元来、沼地・谷地であったことを伺わせる。田園簿では田高二九九石余・畑高三八石余、川越藩領。秋元家時代郷帳では高四一〇石余、ほかに前々検地出高として高七一石余がある。
 反別は田方五五町八反余・畑方一二町九反余。明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となったが(「川島郷土史」「風土記稿」など)、のち再び川越藩(慶応二年、藩主移転により上野前橋藩となる)領となった(天保一二年「川越領村高書上」猪鼻家文書など)。
        
                   石製の神明鳥居
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町白井沼二一九(白井沼字宮後)
 万治三年(一六六〇)にこの辺りは大飢鐘に襲われ、加えて悪疫が流行したことから村は疲弊した。このため、当地の重立七家が相諮り、翌寛文元年(一六六一)に真福寺の境内地を卜して社を建て神霊を奉斎した。これが、口碑に伝えられる当社の創建である。
『風土記稿』には「氷川社 村の鎮守なり、寛文年中に勧請すと云、真福寺持、末社 天神社・諏訪社・稲荷社」と載せられている。
 神仏分離を経て、当社は明治四年に村社となった。その後、明治二十六年に真福寺の本堂と共に社殿を焼失したが、翌二十七年には再建が果たされた。明治四十五年には字中下の無格社稲荷社を合祀した。
 太平洋戦争後、当社は維持に困窮したが、当地出身の遠山元一氏の多額の寄附と氏子一同の協力によって運営基盤を立て直し、現在に至っている。近年では、昭和五十三年に拝殿の再建が行われている。
 明治初年に廃寺となった真福寺は、その本堂が明治三年から同五年にかけて川島郷学校の校舎として利用された。この学校は、「学制」発布以前に前橋藩の働き掛けによって設立された郷学校で、近代における川島の庶民教育の先駆的役割を担ったことで知られている。
 なお、明治二十六年の火災で焼失を免れた真福寺の本尊不動尊は、今も境内の一画に祀られており、近くには「権大僧都法印宥範・延宝三年(一六七四)をはじめとする歴代法印の墓石五基が残る。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿

 嘗て日本の村や集落には、それぞれの地域ならではの伝統的な芸能が盛んに行われていた。しかし、職業の多様化や少子高齢化の流れによる後継者不足により、活動を続けられなくなる地域も現実多くあるのが実情だ。
そのようななか、数百年の歴史ある「獅子舞」を共に踊り、奏でることで、地域の絆や、一致団結する心、故郷への思いを今もなお守り続けている地域もある。
川島町の獅子舞は江戸時代に始まったとされている。農業が中心で生活が厳しい時代、集落のみんなで力を合わせて乗り越えていくため、「五穀豊穣」「無病息災」「家内安全」を願い、神社へ奉納していた。また、うたい、踊り、心を充足させるために行われていた。
獅子舞は、3頭の獅子と、宰領または猿若という道化役、頭に笠を被り、ササラという竹の楽器を奏でる花笠、短い詩を長くひっぱるように歌う唄によって構成されている。これらの獅子・笛・唄が一体となり獅子舞となる。
町内7か所で行われるなど、地域の方々のなじみの行事として親しまれてきた。その伝統は、伊草と白井沼の2か所で今なお受け継がれ、毎年祭りが行われている。
 
 社殿左側に鎮座する境内社 天神社・諏訪社    社殿右奥に鎮座する境内社・稲荷社

 白井沼の獅子舞
 白井沼の獅子舞は江戸時代に始まったとされる記録が残されている。昔、2年続けて伊草の獅子が村回りの途中で川に落ち流された。これも神のおぼしめしと考え、縁起の良い先獅子、女獅子を伊草の大聖寺から白井沼の真福寺がもらい受け、後獅子と宰領をそろえて夏祈祷を行ったのが白井沼獅子舞の始まりという言い伝えがある。
 白井沼獅子舞は、毎年7月と10月の第3日曜日に、夏祈祷・秋祭りが行われる。「四方固め」「花見」「女獅子隠し」「花散の舞」「岡崎」という演目があり、それぞれの笛に合わせて獅子が舞い踊る。
                          「広報かわじま 201712
月号」より引用
        
 白井沼氷川社の東側に隣接している「白井沼集落センター」側に祭られている「不動明王」の祠。神社の境内に仏系統のお不動様が祭られていること稀であろう。
        
                          境内の一風景
   
 桶川市三田原地域には市指定文化財「三田原のささら獅子舞」が当地の氷川社等で奉納される。この桶川市三田原地域と白井沼氷川社とは「氷川社」以外は一見何も共通事項がないように思われるが、この三田原のささら獅子舞」は、嘗て文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうだ。

 三田原のささら獅子舞(無形民俗文化財)
 三田原のささら獅子舞は、その系譜については明らかでないが、延宝から元禄の頃、雨宮武休という人が獅子舞を中興し、芸が整えられ、その後次第に盛大になり今に伝えられるといわれている。現在は三田原の氷川神社で演じられているが、かつては柏原の獅子組の人たちによって、八幡神社の祭礼で演じられていたとのことだ(「三田原」とは、三ツ木、田向、柏原の3地区を意味する)。その後、戦中から戦後にかけて中断されたが、昭和40年代になって地元の熱意により復活を遂げた。
 五穀豊穣、万民快楽を祈願して行なわれるこの獅子舞は、道中行列を含め約2時間にもなる長いもので、12の「場」から成っている。道中の行列が社前の舞庭に到着すると、まず宰領が舞庭に入り場を清める。その後、法眼(先獅子)、後獅子、雌獅子の順で舞庭に入り拝礼、そして、三頭は宰領の導きによって舞いを始める。
 複雑で、多様な変化のある優美な舞いが特徴で、かつて文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうだ。衣装にある「三つ柏」の紋はこの地を領した牧野家の紋で、これは川田谷に残る三つの獅子舞に共通している。祖先が守り伝えてきた昔の舞、曲、歌を崩さず、本来の姿で伝えていくことを重んじているとのことだ。
 10月の三田原氷川神社の秋祭りに、氷川社及び八幡社の前で奉納、当日には朝から村廻りも行なわれる。
                                   「桶川市
HP」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
「広報かわじま 201712月号」「桶川市HP」等
  

拍手[1回]