吉原宮原神社
日本神話では、イザナキ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との契りにおいて、最初に生んだ水蛭子神(ヒルコノカミ、水蛭子、蛭子神、蛭子命)は、身体には骨がなかったので、葦の船に乗せて流されてしまれ、オノゴロ島から流されてしまう。
この「ヒルコ」と「エビス」が後代混同につながったとされ、また太陽神の巫女である「大日霊貴(おおひるめのむち)」に対する語、つまりヒルメに対するヒルコは「日る子(太陽の子)」であり、尊い「日の御子」であり、太陽神と関わり深い神故に流された、とする貴種流離譚に基づく解釈もあり、こちらでは日の御子を守り仕えたのがエビスであるとするという。
・所在地 埼玉県比企郡川島町吉原401
・ご祭神 蛭子命(恵比須神)(推定)
・社 格 旧吉原村・宮前村鎮守 旧村社
・例祭等 例祭 4月15日
牛ヶ谷戸諏訪社を起点に埼玉県道12号川越栗橋線を1㎞程南下し、「表」交差点を右折する。埼玉県道339号平沼中老袋線、通称「かわしま中央通り」に合流後、650m程進むと右側に吉原宮原神社の社叢林、及び道路に面した中央付近に鳥居が見えてくる。
県道沿いに鎮座する吉原宮原神社
『日本歴史地名大系』 「吉原村」の解説
上新堀村の西、牛ヶ谷戸村の南に位置する。近世は三保谷郷九ヵ村の一。田園簿では田高八一石余・畑高一四石余・野高六石余、川越藩領。秋元家時代郷帳では高一二七石余、ほかに野高並前々検地出高として高二三石余がある。反別は田方一四町五反余・畑方一〇町二反余・野二反余。その後の領主の変遷は谷中村に同じ。
『日本歴史地名大系 』「宮前村」の解説
吉原村の西にあり、近世は三保谷郷九ヵ村の一。田園簿では田高一二二石余・畑高二〇石余・野高一一石余、川越藩領。慶安元年(一六四八)の検地水帳(鈴木家文書)には「川越領格組宮前村」とあり、反別は田方二六町二反余(うち上田五町一反余・中田六町九反余・下田一四町一反余)、畑方五町六反余(うち上畑二町四反余・中畑一町七反余・下畑一町五反余)。屋敷持は一七名で、屋敷総面積は九反余。名請人数は三三名のうち、所持田畑五反以下が一七名、一町五反以上は八名であった。元禄七年(一六九四)に新田検地が行われた(風土記稿)。明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となったが(「川島郷土史」「風土記稿」など)、のち川越藩領となった(天保一二年「川越領村高書上」猪鼻家文書など)。
鳥居には「宮原神社」と記された社号額あり
社号額の神紋は「丸に蔓柏」。「えびす宮総本社」である西宮神社も同じ神紋である。
兵庫県西宮市社家町にある西宮神社は、全国に約3,500社あるえびす神社の総本社(名称「えびす宮総本社」)である。
創建時期は不明だが社伝によると、伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である蛭児命は、不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数にも数えられなかった。和田岬の沖に出現した蛭児命の御神像を鳴尾の漁師が引き上げて自宅で祀っていたところ御神託が降り、それによってそこから西の方に御神像を遷して改めて祀ったのが当社の起源だという。
その後、境内の北隣に居住していた「神人」として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを行って神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。中世に商業機構が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになったという。
参道からの風景
県道沿いに鎮座しているにも関わらず、境内参道の両側には豊かな樹木が覆い、
静かな空間が辺りを包みこむ。
境内に聳え立つご神木(写真左・右)
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 吉原村』
西宮 當村と宮前村との鎭守なり、觀音寺持、
觀音寺 三輪山と號す、新義眞言宗、表村廣德寺の門徒なり、本尊彌陀を安ず、
宮原神社 川島町吉原四〇一(宮前字宮附。吉原字宮原)
当社は、かつての宮前村と吉原村の村境に鎮座している。社伝によると、その年月は明らかでないが、摂津国の西宮神社を勧請したことに始まり、元禄五年(一六九二)・宝暦六年(一七五六)と再建を行い更に文政八年(一八二五)に大修理を行ったという。
元禄五年再建の際の棟札には「奉復興吉原邑観音寺鎮守西宮神社一宇」「本願主観音寺住鏡海」とあり、助力衆として吉原村・宮前村・上新堀村・下新堀村・表村・山ヶ谷戸村・牛ヶ谷戸村・宿村・紫竹村の九か村が記されている。この九か村は、中世末期から用いられたと思われる三保谷郷に属していた村々である。
東日本各地への西宮神社の恵比須信仰の本格的な伝播は、恵比須像の神札を配札するようになる寛文年間(一六六一-七三)以降のことであるが、右の棟札から推察するにそれ以前から三保谷郷の総鎮守として祀られていた可能性が高い。なぜ、遠く摂津国にある西宮神社を勧請したのかは明らかでないが、その創建に観音寺がかかわっていたことは間違いないであろう。当社の鎮座地が三保谷郷の一番西に当たる所から「西宮」と称するようになったとも考えられるが、これも推測の域を出ない。
明治四年に村社となり、大正二年に合祀を行ったのを機に、地元である宮前村と吉原村の「宮」と「原」を採って宮原神社と改称した。
「埼玉の神社」より引用
水蛭子神(ヒルコノカミ、水蛭子、蛭子神、蛭子命)は、日本神話に登場する神である。『古事記』において国産みの際、イザナキ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)が天御柱(あめのみはしら)を立て、八尋殿(やひろどの)で新婚生活を始めたときに最初に生んだ神と記されている。しかし、水蛭子(ヒルコ)の身体には骨がなかったので、葦の船に乗せて流されてしまれ、オノゴロ島から流されてしまう。『日本書紀』では「蛭児」と表記される。一書には複数回現れ、イザナギ・イザナミが生んだ最初または2番目の神として『古事記』に似たものもあるが、本文では三貴子(みはしらのうずのみこ)のうちアマテラスとツクヨミの後、スサノオの前に生まれ、「三歳になっても立つことができなかったので、天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗せて風のまにまに放ち棄てた」と書かれている。
始祖となった男女二柱の神の最初の子が生み損ないになるという神話は世界各地に見られる。特に東南アジアを中心とする洪水型兄妹始祖神話との関連が考えられている。
この流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っている。『源平盛衰記』では、摂津国に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記している。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多い。
拝殿に掲げてある由来書き
由緒略記(通称 にしの宮)
所在地 川島町大字吉原字宮附四〇一番地
この神域(五一六坪)は後方の旧吉野川曲流の沖積地として前方に周囲三キロの環状自然堤防中樂に囲まれた円田(円形水田)が開け、その北後中央にまつる。
この円田の位置は関東平野のほぼ中程にあり、極めて奇異珍域なり円は古来ご祭神夷の大神の霊験福徳円満に等しく、本社は平安時代後期、保元・平治(一一五六-五九)の創建(八四〇年前)以来、吉原観音寺住職別当、古くは西宮太神社と称し特に近世江戸商人の崇敬篤く多数の奉造品を有す。
案内板より引用
ヒルコとエビス(恵比寿・戎)を同一視する説は室町時代からおこった新しい説であり、それ以前に遡るような古伝承ではないが、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透しており、蛭子と書いて「えびす」と読むこともある。現在、ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られているが、恵比寿を祭神とする神社には恵比寿=事代主とするところも多い。
拝殿手前左手に鎮座する境内社・三保谷神社 三保谷神社 本殿
社殿の左側並びに鎮座する境内社
向拝部周辺の彫刻が精巧で凝っているにも関わらず、詳細等は不明。
拝殿から参道方向を撮影
「埼玉の神社」にも記載されているように、東日本各地への西宮神社の恵比須信仰の本格的な伝播は、恵比須像の神札を配札するようになるのは江戸時代前期の寛文年間(一六六一-七三)以降のことであり、この社の創建は直接的に「恵比須信仰」の影響を受ける以前の古い時期に祀れていたようである。
ただし、この社の創建に関して、何故「八幡神社」や「稲荷神社」「天神社」等、幾多の有名な社がある中で、わざわざ遠く摂津国にある「西宮神社」を選定し、「蛭子命(恵比須神)」をご祭神として勧請したのかは明らかではない。
解明できない謎が多き社であるが、いずれにしても「とある一族・集団」が「しっかりとした信念と目的」を以ってこの社を勧請・創建し、この地域住民はこの社・神様を受け入れて、祭礼を現在に至るまで行っていることは確かである
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内案内板」等
