古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三町諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町三町720
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭 43日  秋祭 1019日(どちらも近くの日曜日)
                  新嘗祭 1123日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2363366,139.1242599,17z?hl=ja&entry=ttu
 上里町三町地域は大御堂地域の北側に位置し、三町の地名由来としては、江戸時代、藤岡道沿いにつくられた安保町、長浜町、横町の三つの町場が、明治9年に合併して三町村(みまちむら)になったことに由来する。
 途中までの経路は大御堂浅間神社を参照。大御堂浅間神社から埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線を900m程北上し、「三町」交差点をそのまま直進。その後最初のY字路を左斜め方向に進み、すぐ先の細い十字路を左方向に曲がると、その奥に三町諏訪神社の広い境内に到着する。
 境内入口右側には社務所があり、駐車可能な広い空間もあるので、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                
三町諏訪神社正面
 
    鳥居の手前に石碑等が並び、       鳥居を過ぎてすぐ左側に御嶽山神等
 参拝客をお招きしているような配置である。      石神が並ぶ塚あり。
        
          お日様の陽光をたっぷりと浴びた明るい社という印象。
            境内は広く、日々の手入れも行き届いている。

 社殿の左側に休憩所である東屋が設置されており、公園のように整備されている。この地の方々には憩いの場となっているようだ。
        
                      参道左側に設置されている「
三町水道記念碑」
 三町水道記念碑
 当三町地区は地質的に地下水が非常に深くその水は冬は暖かく夏は冷たい美味良水として古くから定評がありました。特産だった西瓜を井戸の中に入れて冷却しての賞味は正に天然のめぐみでもあった。
 しかしそれと引き換えにこの水源の確保としての、深井戸の掘削には多額の経済的負担を余儀なくされる土地柄でもありました。如何せん、全戸とはいかず昭和三十年代には三町全体で約十数基しかなかった。一日も欠かせぬ生活用水のすべてを『貰い水』として賄う家庭が大半であった。
 文字どうり『井戸端会議』として温もりのある隣人交流もあったが、水の運搬と尚もその不足分を近くを流れる農業用水を利用して補う労力ば苦行であった。こうした窮状を速やかに打開し、全戸給水、水道設置は、三町全区民の悲願でもありました。
 昭和三十九年その気運が盛り上がリ三町簡易水道組合が結成され、当地内を水源として鑿泉工事に着手した。そして、昭和四十二年五月三日念願の工事が完成し、給水を開始した。昭和四十三年には隣地の大御堂地区より、こうした順調な運営情況に合わせて組合加入の申し込みがあり、ここに三町・大御堂水道組合「初代組合長・村島富三郎」が発足した。「第二代組合長・関本岩蔵」以後、三十年間、歴代組合長三代、全組合戸数九百三十一戸、一致協力して廉価による水資源供給を維持し発展してきました。やがて時代の変遷と、全町公営化に伴い、平成八年、三町・大御堂水道組合は発展的解消をした。
 さらに一歩進して大きな視野に立ち、現在の地球環境の変化と万が一の災害を想定する時、この水源の重要さを痛感します。平素は水辺公園の憩いの水として目を楽しませ、一旦危急の場合水栓の変換操作により、直ちに各家庭に直結し援水装置となる当鑿泉は不滅の宝として温存すべき最大の所以である。
願わくば、この趣旨が末永く理解されこの朽ちる事のない水源の泉のごとく後世に受け継がれるよう念願します。ここに往時の役員名を刻み関係各位のご協力に敬意を表しながら、これを記念してこの碑を建立するものである。
平成十四年十二月吉日 三町水道組合長 渋澤栄一撰文
                                     境内碑文より引用
        
                                   拝 殿
        
                拝殿手前左側にある案内板
 諏訪神社 上里町大字三町字諏訪裏七二〇
 □由緒
 江幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』安保町の項に「諏訪社 當所及び長濱町・横町村等の鎮守なり、末社 八幡 稲荷 別当宮本坊 當山修験、大御堂村寶蔵寺配下、開山本行坊萬治四年四月示寂、本尊不動を安ぜり」と載っている。当社は旧横町・安保町・長浜町の三か村の鎮守として祀られてきた。
 また、『神社明細帳』には、「創立年月不詳と云えども一度回禄(火災)の災いに罹りのち、安永四年村民協力して再建す」と記されている。しかし、 社殿の竣工は四年後のことらしく、棟札には安永八年(一七七九)の年銘がある。当社の祭祀は江時代は「風土記稿」に載る別当宮本坊が代々務めてきたが、明治初年の神仏分離により、当社から離れた。
 明治五年村社となり、同四十二年に字寺東の稲荷神社と字寺西の社天王社を境内に遷し祀った。社殿は覆屋の中に本殿が祀られ、昭和五年新築の拝殿と幣殿で結ばれている。
 当地の獅子舞は「判官流一人立連舞獅子」といい、貞享二年(一六八五)に獅子頭を作ったことに始まるという。現在使われている獅子頭は明和七年 (一七七〇)に新調したものである。大正期から途絶えていたが、昭和三十二年に復活。同五十五年埼玉県知事より「文化ともしび賞」を授与された。現在は獅子舞保存会により継承され、奉納されている。境内には、古くから土俵が築かれ相撲の奉納が続いている。
 □御祭神 建御名方命
 □御神徳 地域の繁栄と人々の守護 五穀豊穣、厄除、開運
                                      案内板より引用
 
 社殿左側に鎮座する境内社・石祠群(写真左)。左から順に
神明・今宮・社日・八坂・秋葉の各社。また社殿右側には同じく境内社・石祠として、左側より菅原神社・稲荷神社が鎮座する(同右)。
       
                          境内に聳え立つご神木

 三町諏訪神社で毎年10月に開催される「秋の大祭」で子供相撲と共に奉納される伝統行事で、貞享年間に作られたとされる獅子頭が伝えられており、古くから雨ごいや地域の繁栄を祈って行われてきたという。
○諏訪神社獅子舞
・管理者 三町諏訪神社獅子舞保存会
・指定日 昭和37222日 上里町無形文化財
・貞享2(1685)銘の獅子頭


参考資料「新編武蔵風土記稿」「上里町公式HP」「境内案内板」等
                       

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大御堂三嶋神社及び大御堂浅間神社

大御堂三嶋神社】
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂1131
            ・ご祭神 事代主命 ・大山祇命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1211
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2290417,139.1189839,17z?hl=ja&entry=ttu
 上里町大御堂地域は町南端に位置し、児玉町の真北にある。筆者は熊谷市西端に居住している為、児玉町方向に向かう際には、ほぼ埼玉県道75号熊谷児玉線を使用する。今回も同県道のルートで児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折、国道254号線合流後は道なりに神川町方向でJR八高線に沿って進路をとる。その後4㎞進んだ「元阿保」交差点を右折し、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町市街地方向に進む。静かな田園風景が周辺一帯広がる中、1㎞程先に「児玉三十三霊場 吉祥院」の看板が見え、そのすぐ左側に大御堂三嶋神社が静かに鎮座している。後日地図を確認すると社の鎮座地は大御堂地域の集落西端にあたるようだ。

 駐車スペースは広く確保されている。境内に「西大御堂集落農業センター」があり、一旦社を通過し、すぐ先の十字路を左折するとすぐ左側に社の境内入口があるので、集落農業センター近くの一角に車を停めてから参拝を行う。
        
              県道沿いに鎮座する大御堂三嶋神社

 大御堂地域にある吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、武蔵七党の丹党に属した有力武将安保実光が再興したといわれている安保氏の氏寺で、中世の館跡といわれており、周りには堀があって、土塁の一部も残っている。
 古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『新編武蔵風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。

             
                     社号標柱
        
                                      鳥居を過ぎてすぐ参道左側に設置されている案内板

 三嶋神社 御由緒
 □御縁起(歴史)  上里町大御堂一一三一一
 当社は、西大御堂集落の西端の字三島西に鎮座する。祭神は、事代主命・大山祇命の二柱で、境内の欅や杉などの木々が、鎮守の杜にふさわしい景観をなしている。
 当社の創建年代は明らかでないが、吉祥院の境内にあったものを明治初年の神仏分離に際して現在地に移転したという。吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、阿保山真光寺と号し、開基は小野氏で、後に安保城主安保肥前守忠実が中興したと伝える。
古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。更に、同書の大里郡久下村(現熊谷市)の項などによると、同村東竹院の嘉禄三年(一二二七)五月日の年紀をもつ鐘銘に「奉鋳 武州賀美郡阿部村真光寺鐘右志者為信心大壇那小野氏沙弥妙阿弥陀仏」とあり、この鐘は戦国期に軍勢により奪取され、のち久下村で掘り出されたものという。この吉祥院の創建の古さから推して、その境内に村の鎮守として祀られていた当社も同様に古い勧請をうかがわせる。
 明治三年に覆屋を再建し、同五年に村社となり、大正四年には御即位記念として拝殿を新築し、昭和二年には社務所を新築した。
 □御祭神 事代主命・大山祇命
                                      案内板より引用

        
          広く静かな境内である。その先には大御堂三嶋神社が鎮座している。
       
                           境内に聳え立つご神木
        
                                    拝殿覆堂
 
   社殿左側に鎮座する石祠、石碑等。       社殿右側にも多くの石祠等が鎮座。

 大御堂三嶋神社が鎮座する大御堂地域は、地形上本庄台地に属する。この本庄台地は北武蔵台地を構成する台地群の一つであり、他には児玉丘陵、櫛挽台地、松久丘陵、江南台地も含まれ、今から約3万年前に神流川によって運ばれた土砂が堆積(たいせき)した後に浅間山などから噴出された火山灰が積もってつくられたと考えられている。
 この北武蔵台地一帯は渡来人による文化伝承も早く、利根川を挟んで毛国とも接している地域からか、重要な古墳や城が多い地域であり、また緑泥片岩の産地(長瀞・小川)が近い為、県内の殆んどの板碑がここに集中して存在している。



大御堂浅間神社】
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂736
             ・ご祭神 木花開耶毘賣命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1111日
 大御堂地区にはもう一社、旧村社が存在する。三島神社が鎮座する十字路を東側に進み、埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線と交差する信号のある十字路を右折する。250m程南下すると左側に大御堂浅間神社が左側に見えてくる。
        
                                           大御堂浅間神社正面
        
                                       鳥居の左側に案内板あり
 浅間神社御由緒   上里町大御堂七三六
 □御縁起(歴史)
 大御堂は、神流川右岸の洪積台地に位置し、地名は地内の吉祥院真光寺がかつては大伽藍で、境内に建つ阿弥陀堂が「大御堂」と呼ばれていたことに由来する。
 当社は、塚の上に奥宮、その東麓に本社をそれぞれ祀っている。その創建の年代は明らかでないが、『風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。宝蔵寺は京都醍醐三宝院末の真言宗の寺院で、富士山威徳院と号し、当山派修験を兼帯して近郷三十余ヶ寺を支配したとされる。開山は不詳であるが、開基は八幡山城主松平玄蕃頭清宗で、中興開山は寛永十二年(一六三五)一月に入寂した法印盛胤である。富士山の山号から推して、当社の勧請は宝蔵寺の草創からさほど下らない時期に行われ、遅くとも中興開山の盛胤の代には既に祀られていたものであろう。
 神仏分離を経て、当社は明治五年に村社となった。更に、大正五年には字雷電林にあった雷電神社を合祀した。この時、雷電神社の本殿が壮厳な造りであったことから同社の社殿一切を塚の東麓に移築して当社の新たな社殿とし、従来の塚上の本殿は奥宮と改称した。
 この社殿の移築に際しては、横に並べた二台の大八車の上に載せて、挟い農道を運ばなければならなかったため、大八車の車輪を補強したり、農道を補修したりと大変な苦労であったという。
 □御祭神 木花開耶毘賣命…安産・子育て
                                      案内板より引用
 
 
          拝 殿                 拝殿の右側には塚があり、
                          その墳頂に奥宮が鎮座している。
 
 元々は14m程の古墳であったが、江戸時代に富士山を信仰する富士浅間講の富士塚として現在の形に改められたという。頂上には浅間神社奥宮が鎮座しているが、ここが上里町でもっとも標高が高い地点でもある。
 
 道路を挟んで西側には「不二山宝蔵寺」があり、『新編武蔵風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。塚の中腹に鐘楼(写真左)があるのはその名残りであろう。また拝殿手前、右側には境内社が鎮座する(同右)。
       
        拝殿左側には社号標柱が立つ。    拝殿左側奥にも境内社・石祠等が見える。
       
                社号標柱近くに聳え立つご神木

            

 県道西側には宝蔵寺があり、道路沿いには町指定文化財である「マキの大木」が聳え立つ。宝蔵寺管理。樹齢は約800年と推定。昭和37222日指定。
 今でも幹回り5m程、高さ14m程の大木だが、昔はもっと大きかったという。そのため、戦争中、児玉飛行場の飛行機の発着に支障をきたすということで、上部を切って短くしたという経緯がある。木の下には、槇木大明神の碑が建てられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
上里町公式HP」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」
    「境内案内板」等
         

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吉田林日枝神社

 本庄市児玉町吉田林地域は、JR八高線児玉駅の北側に位置し、北部は旧児玉条里の水田地帯で、中・南部は緩い台地上の平地で、南東部は独立した残丘の生野山が含まれる。
 吉田林地域の中央部は児玉町市街地と生野山に挟まれた南北に細長い地域で、昔は荒れ地で小山川(旧身馴川)の氾濫源の一部だった可能性がある。北部の水田地帯は九郷用水を引水し、江戸時代にはこの九郷用水組合22ヶ村に含まれる村であった。吉田林地域北部の水田地帯は児玉条里に含まれるが、度々の氾濫により条里区画は大きく乱れている。
 吉田林という地名は「きたばやし」と読み、珍しい地名の一つだ。古代における郷名「黄田郷」(『和名抄』)から当てる説もあったが、『和名抄』の異本には「草田郷」とあり、本庄市教育委員会の発掘調査で、草田郷の銘文のある紡錘車が出土したことから、黄田郷は草田郷の写し間違いで、吉田林の名は黄田郷に由来するとは言えなくなった。或いは吉田林地域は児玉の北部に位置し、小山川の氾濫原の一部と考えれば「吉田=きた」は「北」で、北の林を意味する地名かもしれない。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町吉田林字山王山925
             ・ご祭神 羽山戶神
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 131日 春祭り 410日 秋祭り 1015
                  新嘗祭 1210
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1954711,139.1386354,18z?hl=ja&entry=ttu
 吉田林日枝神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折し、国道254号線に合流、北西方向に進路をとる。1㎞程進み、「児玉教育会館(南)交差点を左折し、最初のT字路をまた左折する。道幅の狭い道路で、上り坂ではあり、民家等はないが、対向車には気を付けながら150m程進むと、左手に吉田林日枝神社の小さな木製鳥居が見えてくる。
 鳥居を越えてから進行方向に対して左手に、社の境内に通じる道があり、その道を進んだすぐ右側に駐車可能なスペースも確保されていて、そこに停めてから参拝を行う。
        
                  吉田林日枝神社正面
 駐車スペースから参道正面まで、一旦西方向に階段を下り、改めて参拝を行う。吉田林日枝神社が鎮座する場所は、生野山の低山を含む残丘が西側に広がり、その西端部に位置するため、正面参道から社殿まで、なだらかな上り坂斜面が続く。
             
             一の鳥居からの参道の眺め。意外と長い。
        
                          上り坂の階段の奥に二の鳥居が見える。
        
                               二の鳥居
        
              二の鳥居の右側に設置された案内板
 日枝神社 御由緒
 □御縁起(歴史) 本庄市児玉町吉田林九二五
 吉田林は、『和名抄』に見える黄田郷の遺称地といわれる。
 当社は、吉田林の東南端、生野山丘陵の西斜面上に鎮座する。『児玉郡誌』には「当社初め御年社と称す、創立は後冷泉天皇の御宇、治暦二年(一〇六六) なりと云ひ伝ふ、一説に児玉党支族宮田某の勧請なりとも云ふ、その後永禄年間(一五五八-七〇) に至り、八幡山の雉岡城の神将山口修理亮盛幸、該城守護のために近江国日枝山(比叡山)より山王権現を遷して御年社に合祀し、是より日吉大権現と称せり、社領は山口修理より神田若干を寄附し、その後地頭菅沼氏より屡神田を寄進せられたり」と記される。御年()社は、『延喜式』神名帳に、大和国(奈良県)葛上郡に二社が見え、特に葛城御年社は従一位の名神大社であった。
 当地に御年社が勧請された経緯は不明であるが、城跡から見ると当社は北東の方向に鎮座しており、後に城の鬼門除けとして山王権現が合祀されたのであろう。
『風土記稿』吉田林村の項には「山王社 村の鎮守にて西養寺の持、社内に東照宮及び諏訪を祀れり、末社八幡三島」とある。
 明治初年の神仏分離により、当社は別当西養寺を離れて、村社となった。一間社春日造りの本殿は、延享三年(一七四六)の再建で、外宇は明治二十二年の改築である。内陣には、青と赤に彩色された雄雌一対の石製猿像(高さ一六センチメートル)が奉安されている。
 □御祭神 羽山神(はやまど)…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用



 ところで「吉田林」の地名は中世まで全く史料に見られない。今日の吉田林地域は中世初期においては、独立した児玉党系の「氏」を擁する地域ではなく、おそらく八幡山地区と一体をなす「児玉庄」の中核域として、「庄氏」の領有内に含まれていて、中世後半以降に吉田林として分村したのではないかと思われる。
 というのも、天正18年(1590)後北條氏が滅亡し、その後徳川家康が関東に入国、家臣の松平家清が一万石で八幡山城(雉岡城)主になるが、翌年天正19年(1591)にこの松平氏の所領を示す資料「武州之内御縄打取帳」に「八幡山・児玉・金屋・長興(沖)・保木野・宮内・飯倉・高柳・塩野屋(谷)・沼上」等の地名は見られるが、「吉田林」は載っていない。
 その後松平氏は慶長
6年(1601)三河に転封し、短期間幕府直轄領の期間を経て、旗本戸田氏、大名山口氏に与えられている。山口氏は大久保忠隣の事件に連座し失脚、また暫し幕府直轄領となり、小菅氏が代官となり、その支配下となっていた。下真下の関根家には書簡があり、小菅氏は下真下村と吉田林村に所領がある事が記載されていて、そこで初めて「吉田林」という地名が登場する。
        
       二の鳥居から更に階段を上り、登りきった先に南北に広い境内が広がる。
        
                                       拝殿覆屋
 
  拝殿に掲げてある「日枝神社」の扁額     拝殿の左側に鎮座する境内社・八幡神社

 日枝神社 春・秋まつり 吉田林獅子舞
 日枝神社の春・秋の祭典の行事として吉田林獅子舞(市指定文化財)が奉納されます。
 江戸時代の中頃、この地域に日照りや干ばつが続き作物がとれず、村に悪い病気が流行して多くの人が亡くなるなどしました。
この惨状を見た当時の殿様が、悪霊払いのため獅子頭3頭を奉納したことに始まり、その後、獅子舞が行われてきたと伝えられています。
 現在、獅子舞は春と秋の祭典で舞われています。
                               本庄市観光協会公式HPより引用

 
   八幡神社の左隣には境内社・八坂神社      八坂神社の北側奥には社務所がある。
      等の石祠が鎮座する。      
       
            八坂神社の左側にある「記念碑」      記念碑の奥にある「富士浅間大神」
                           「小御嶽大神」の石碑
 
  社殿の奥に並んで鎮座する末社群の石祠    こちらは社殿の右側に並ぶ末社群の石祠
       
                      社殿の右隣に聳え立つご神木

                    
                        一の鳥居の左側にある石碑。「藤池碑」か。

 吉田林地域は、北部の水田地帯には「九郷用水」を利用して水田の生産に充てていたが、それ以外の南部の水田は天水による溜池灌漑であった。そのため溜池も多く存在していて、地域内の小字にも「鼠池・松池・藤池・女池」等その名残りが残っている。現在残っているのは「朝鮮池」のみで、松池・藤池・女池は埋め立てられて消滅、鼠池は所在すら解っていない。
 藤池は日枝神社に藤池碑が立っている。これによれば、池の名前の由来は、池辺には紫色の藤が多くあったからと記されている。身馴川の水が地下を通って、この藤池で湧水となり、枯れることなく用水に利用できたという。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会公式HP」
     「Wikipedia」「境内案内板」等


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長沖飯玉神社

 本庄市児玉町長沖地区は、児玉地域のほぼ中央あたり、市街地の南側に位置する。北側と東側は児玉、西側は金屋、南側は小山川を挟んで秋山・小平に接する位置関係にある。長沖地区の全域はほぼ平地で、南側が小山川に面していて、河川流域は北側に対して一段地面が低く、林や荒地が続く。
 この地区の小山川河川敷には遊歩道が整備されていて、西側に位置する秋山地区まで桜の木が延々と続いている。いわゆる「こだま千本桜」と言われ、河畔両側に約1,100本の桜が5㎞に渡り美しく咲き誇り、本庄市内でも有名なお花見スポットで有名な場所である。こだま千本桜は埼玉県内8位の人気の高いお花見スポットで、4月上旬には「こだま千本桜まつり」が開催され、ステージイベントや模擬店の出店など様々なイベントが開催されているという。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町長沖331
             ・ご祭神 宇迦之御魂命
             ・社 格 旧長沖村鎮守・旧村社
             ・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 6月・12月 例大祭 1015
                  新嘗祭 1129日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1811596,139.1280162,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町方向に向かい、国道254号線と交差する「大天白」交差点を左折する。八高線を越えてコンビニエンスを右手に見ながら、2番目の信号である「身馴川橋」交差点を右折、暫く道なりに西行する。その後同県道287号長瀞児玉線との交点「第一金屋」交差点を左折し、500m程県道を南下すると、右手に長沖飯玉神社の社叢や南北に広がる境内が見えてくる。
 駐車スペースは一旦県道を南下して、社叢が途切れる地点に右折する道があり、鳥居の左手に数台分駐車できる空間が確保されていて、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
 
      
長沖飯玉神社一の鳥居          一の鳥居を先には石段があり
                       その先に二の鳥居及び境内が見えてくる。
        
                             石段の手前に案内板あり。
飯玉神社 御由緒
□御縁起(歴史)  本庄市児玉町長沖三三一
当地は塚(古墳)が多く、『風土記稿』長沖村の項に、地内の恵日寺の境内から 「鼻目そなはり人の形をなし」た人物埴輪の出土が記される。また、当社付近からは、二階造家型埴輪が出土している。
飯玉は、飯が稲であり玉が魂の意であるから、一般には稲霊と解釈されるほか、飯には斎火の意もあり、斎火の飯の神、つまり御饌の神を祀ったものとも考えられる。ところが飯玉神社が鎮座する地内から古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器にちなむとされる。吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にある。群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遣物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土した。群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられる。
当社は、『風土記稿』に「飯玉明神社 村の鎮守にて、神主を山中能登と云」とある。また、『児玉郡誌』には、享保年中(一七一六~三六)に山中兵庫が京都の吉田家の配下となり、同家が明治維新まで数代にわたり奉仕したことや、社殿は享保年間に再興されたことなどが記されている。
□御祭神と御神徳  宇迦之御魂命…五穀豊穣・商売繁盛
                                      案内板より引用
 
        
                  社号標柱、及び二の鳥居を仰ぎ見る。                  
 
  両部鳥居である朱色で木製の二の鳥居         二の鳥居の社号額には
                       「正一位 飯玉大明神」と表記されている。

 長沖飯玉神社周辺の地形を確認すると小山川のすぐ北側に鎮座していて、標高が社の南側で小山川左岸地点、東側、北側がそれぞれ108m109m程度、それに対して長沖飯玉神社の社殿地点が110.1mであるので、若干微高地に鎮座していて、一の鳥居付近は石段で補強しているようだ。但し社殿西側は西方向に進むにつれて標高は高くなっていて、社の北西部に位置する「消防本部中央消防署児玉署」で113mである。

 長沖飯玉神社の鎮座地はこのように河川災害に対して、決して最適な場所とは言えない。但し「太駄岩上神社」項で述べたが、長沖・小平(秋山)・太駄地区の地域的な特徴として、交通の要衝地である事があげられ、現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を北上し、小山川を越えたすぐ北側に長沖飯玉神社は鎮座しており、絶妙な位置関係にあったと考えられる。

 なお長沖飯玉神社が鎮座する場所は、長沖本地区から少し東に離れた飛地である。何故飛地がポツンとこの社周辺にあるのであろうか。交通上の要衝地である事は言うまでもないことだが、長沖地区に住む方々にとってこの少し離れた飛地に鎮座する社が如何に神聖な場所であったか、窺い知ることができよう
       
        二の鳥居を過ぎて、すぐ参道右手にケヤキのご神木が聳え立つ。
        
                                       拝 殿

 長沖という地名の起こりははっきりとは分からないらしいが、伝承ではこの地域に入り江があり、入り江の真ん中が突き出ていたので、それを「中沖」と呼び、後代「長沖」になったとも伝えている。
 中世の資料によれば、『安保文書』中、建武4年(1337)武蔵国守護高重茂(こうのしげもち)奉書(ほうしょ)によれば「建武四年四月十二日、武蔵国瀧瀬郷・枝松名長茎郷中院宰相中将家跡事、為勲功之賞所被預置也、安保丹後入道殿、高重茂花押」とあり、暦応3年(1340)安保光阿(光泰)譲状に「暦応三年八月二十二日、惣領中務丞泰規分、賀美郡安保郷・児玉郡枝松名内宮内郷・榛沢郡瀧瀬郷・児玉郡枝松名内長茎郷・秩父郡横瀬郷・崎西郡大井郷。二男、三男分は同じ」。「享徳二十七年四月七日、安保中務少輔氏泰申、武州児玉郡塩谷郷塩谷源四郎跡、足利成氏花押」と見える。また延文4年(1359)紀州那智山『米良文書』の『旦那願文』には「延文四年十二月八日、武蔵国少(児)玉郡之内しをのや(塩谷)の住人彦五郎入道行印、又ハなかくきとも申候、はしめて京都にて師旦の契約申候、是は畠山殿紀伊国攻めの御時」と見える。
 この「長茎」が「長沖」と同じ場所かどうか、そもそも同じ名称だったかどうか、現在分かっていないが、可能性の範囲としては高いと考えられている。
 
   社殿の奥に整然と並んである石碑群。         石碑群の右隣には合祀された石祠群、
                           境内社、石碑が並ぶ。詳細不明。

 長沖飯玉神社、社殿の背後には土塁を石で補強し、石垣のような形状をしており,本殿北側には上記の多数の境内社や石祠群、石碑群が並んでいる。
                 
                                     飯玉神社之碑

飯玉神社之碑     貴族院議員正四位子爵白川資長篆額
武藏國兒玉郡金屋村大字長沖ニ鎮座セル村社飯玉神社ハ宇迦之御魂命ヲ祀リ往昔ヨリ當地ノ鎮守タリ享保年間京都吉田家ノ配下山中兵庫神主トナリ爾来其子孫継承シテ明治マテ奉仕ス社殿ハ享保年間ノ修築ニ係ル明治五年村社ニ列セラル同卅二年境内神社ヲ改修シ同卅五年石垣ヲ修築シ同卅八年無格社稲荷神社ヲ境内ニ移轉シ土地參畝貳拾歩ヲ買収シテ境内ヲ擴張ス大正三年御即位大典記念トシテ社殿ヲ増築ス同六年社務所ヲ新築シ竝ニ石燈籠弐基ヲ建設シテ大ニ神域ノ威嚴ヲ加フルニ至レリ尚神社基本財産ノ増殖ヲ企畫シツツアリ本年十一月御即位ノ盛事ニ當リ記念碑ヲ建ントテ氏子惣代來リテ文ヲ需ム嗚呼氏子等ノ敬神ノ意一ニ何ソ篤キヤ余仍テ其事略ヲ揚クルコト如斯
昭和三年十一月十日 官幣中社金鑚神社宮司從五位勲六等金鑚宮守撰(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
         
 二の鳥居の右側には、境内社である稲荷神社の鳥居が並んで立っている(写真左)。同じ両部鳥居ながら長沖飯玉神社の鳥居よりサイズは小さい。その鳥居の先にはこんもりとした高台があるが、後で確認すると古墳であり、正式名称は長沖45号墳。その墳頂に稲荷神社が鎮座している(同右)。

 この地域には本庄市児玉町長沖・高柳・金屋・児玉の各地区にわたって古墳群が分布しており、長沖古墳群、別名「梅原古墳群」とも呼ばれている。小山川の左岸に沿うように概ね東西方向に展開していて、その区域内に5世紀中頃から7世紀後半にかけて築造されたと推定されている。
 古墳群の範囲は、東西 2.3 ㎞、南北最大幅で760mの区域に古墳が前方後円墳や帆立貝式を含む総数180基を超す大規模な古墳群を形成している
 特に長沖32号墳は、全長32m、高さ3mの前方後円墳で、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪等が出土しており、市指定史跡となっている。現在は「長沖古墳公園」として、綺麗に整備されている。
        

 案内板に記載されているが、飯玉神社が鎮座する地内から古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器にちなむとされる。吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にある。群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遣物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土した。群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会公式HP」
    「Wikipedia」等

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皆野町に鎮座する皆野椋神社、滑川町に鎮座する伊古乃速御玉比売神社、嵐山町に鎮座する鎌形八幡神社・手白神社を再編集いたしました

 皆野町に鎮座する皆野椋神社、滑川町に鎮座する伊古乃速御玉比売神社、嵐山町に鎮座する鎌形八幡神社手白神社を再編集いたしました。

 内容はほぼ変わっていませんが、新たな案内板等掲示しています。また写真の画像を編集いたしまして、改めてアップいたしました。
 尚、手白神社に関しまして、写真は202112月に再度参拝時に撮影したものであります。21年参拝時、石段の両脇に聳え立つご神木のうち、左側の杉は既に切り倒されていましたが、ブログ内容は敢て変えていませんが、このことに対するおことわりの一文は入れてあります。

 今後ともよろしくお願いします。

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