古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

御堂八幡山神社

 東秩父村の「御堂」地域は村中部に位置する。「御堂」と書いて「みどう」と読む。南西で皆谷と、北西で坂本と、北東で奥沢と、東で安戸と、南で比企郡小川町腰越と隣接する。小字として御堂・槻川西谷・幽地ヶ沢・向堀・川下・川上・萩平・城山が挙げられる。大部分が山林であり、槻川沿いに水田が点在する山村である。北端を東流する槻川沿いと中央部を北流する槻川支流萩平川上流の山地斜面に民家が散在する。東秩父村の行政上の中心地であり、村役場をはじめ各種行政機関等が集中する。
「御堂」という地名由来として、鎌倉時代末期の正和年間に大河原神治太郎光興が大檀越となって日蓮の御影を安置する法華堂を創建したことにより御堂とした説と、かつて大内沢に遠流となった皇子が埋葬された御堂(おどう)があったことから御堂とした説とがある。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡東秩父村御堂1533
             
・ご祭神 誉田別命 金山彦命 火産霊命 大山祇命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 元旦祭(元旦)祈年祭(3月下旬の日曜日)
                  
例大祭(10月中旬の日曜日)新嘗祭(11月下旬の日曜日)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0522908,139.2073786,17z?hl=ja&entry=ttu
 安戸天神社から一旦埼玉県道11号熊谷小川秩父線に合流し、暫く西方向に進路を取ると、1㎞も至らずに右側に御堂八幡山神社の社号標柱が見えてくる。
             
              県道沿いに設置されている社号標柱
 社号標柱から北側に伸びる参道を進むと、小高い丘が見え、その上に立派な社叢に囲まれて社は鎮座している。
        
                               
御堂八幡山神社 遠景
 
   石段の脇左側にある手書きの御由緒書        麓に設置されている一の鳥居
八幡山神社略記
・鎮座地 秩父郡東秩父村大字御堂槻川東谷一五三三番地
・由緒
神社創建については詳らかならず。寬政三年九月吉日棟礼を存す。新編武藏風土記稿に神職島田豊後は吉田家の配下とある。吉田家については、室町時代後期以降江戸時代後期頃まで吉田兼倶(一四三五~一五一一)により創唱され、吉田神道の宗家京都吉田神社の祠官を云う。当社との係りからして其の歴史の古さが窺われる。(*句読点は筆者加筆)
御祭神
誉田別命(十五代応神天皇 八幡さま)
金山彦命(金山さま)
火産霊命(愛宕さま)
大山祇神(山の神さま)
ここにこの御神徳を景仰すると共にその開運延寿にあやかり国の隆昌と世界の共存共栄又崇敬者各位の健勝と一家の繁栄無病息災を御祈念申し上げます(中略)
・史料

明治九年十一月吉日 御堂村の総社として大祭を執行 嶋田大内蔵奉仕
明治七年村社願済
昭和三年十一月二十八日御堂字山神山神社を合祀 社号を八幡山神社と改称(旧八幡神社)
昭和四年四月本殿拜殿増改築幣殿新築
昭和二十九年二月本殿改築社務所新築
平成九年本殿移築幣殿改築拜殿増築萩平遥拜所と共に屋根を銅板葺とした
以下略

                                      案内板より引用
        
                     神明系の一の鳥居から本格的に石段を登り始める。
        
                  石段は一旦踊り場になり、そこから参道が右側にずれる。
             そして二の鳥居からまた石段を登り始める。 
 新編武蔵風土記稿 御堂村
 八幡社
 南向、神體衣冠せる木立像長六寸、又金山
尊木立像長五寸五分、愛宕の木立像六寸なるを安ず、村の鎭守にて例祭は九月十五日、神職嶋田豐後吉田家の配下なり、除地七畝十五步
 
 勾配のある石段を登り終えた先に拝殿が見える。 石段上る途中、右側にひっそりと佇む石祠。
                               詳細は不明。
        
                     拝 殿
       
                        境内に設置されている案内板
 八幡山神社 御由緒  東秩父村御堂一五三三
 ◇今も行われる例大祭宵宮のお籠り
 鎮座地御堂(みどう)は槻川(つきがわ)沿いに開ける山村である。この地は古くは大河原と称したが、鎌倉末期の正和年間(一三一二~一三一七)に大河原神治太郎光興が日蓮上人の御影(ぎょえい)を安置する法華堂を創建したことにより地名を御堂としたとも、遠流(おんる)となった皇子を当地に奉葬した御堂があったことにより御堂としたとも云われ、早くから開けた土地である。 口碑によると、当社は氏子の島田一家(いっけ)の屋敷神であったが、後に村持ちになったと伝えられ、『新編武蔵風土記稿』には、当社について南向き社殿、神体は衣冠の立像・金山彦尊立像・愛宕立像の三体、例祭は九月十五日、吉田家の配下嶋田豊後が奉仕するところとある。
 現社殿の造営については、現存する棟札から寛政三年(一七九一)九月に氏子中で再営したものであることが知られる。更に明治元年(一八六八には改築が成された。この時の棟札も現存し、「當村総社八幡大神宮」と書かれている。尚、この時の神職は、嶋田大内蔵であった。 明治七年(一八七四)に村社となり、昭和三年(一九二八)十一月には字山上の山神神社を合祀し、社名を八幡神社から八幡山神社と改めた。
 ◇御祭神

 ・誉田別命 ・金山彦命 ・火産霊命 ・大山祇命
 ◇御祭日
 ・元旦祭(元旦)
 ・祈年祭(3月下旬の日曜日)
 ・例大祭(10月中旬の日曜日)
 ・新嘗祭(
11月下旬の日曜日)
                                      案内板より引用

 御堂八幡山神社が鎮座する旧御堂村は、嘗て「玉川領大河原郷」に属していた。この大河原郷は秩父郡大河原郷(東秩父村)より男衾郡大河原郷勝呂村(小川町)、及び比企郡大河原荘関堀村・田中村・桃木村・平村の四ヶ村(都幾川村)に亘る広範な地域であったようだ。
・新編武蔵風土記稿 秩父郡条
「椚平村、大野村、安戸村、御堂村は大河原郷に属す、古は大河原村と唱へり」
比企郡条
「大河原郷は雲瓦村の一村に此唱あり、其余数村は皆秩父郡にかかれり、又庄名にも此唱あり」
 
     拝殿上部に掲げてある扁額              本 殿
        
                                 境内にある「延命長寿石」
 延命長寿石のその横には「この石を良く撫でさすり、自分の体を更によくさすり、八幡様に健康と長寿をお祈りしましょう。」と書いてある木製の碑がある。
        
 社務所から正面の山道を登らず、社務所から右側にある石段がない坂を利用して社に向かう脇道もあった。そこにも坂の途中には鳥居が出迎えてくれた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

 

 
        
       

拍手[1回]


安戸天神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父郡東秩父村安戸53
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 元旦祭 元旦 例大祭 225 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0498143,139.2260656,19z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道11号熊谷小川秩父線を小川町から東秩父村方向に進み、「東秩父村安戸宿」の看板で信号のあるT字路を右折する。安戸橋で槻川を北に渡って道なりに進み、和菓子屋さんの先で右手に社に通じる道幅の狭い道があり、そこを進むと右手に安戸天神社が見えてくる。
 社務所入口南側に駐車スペースがあり、そこに置かせて頂き、参拝を開始した。
        
                   安戸天神社正面
 この地域は比企・男衾・秩父3郡の境界地にあたる。『新編武蔵風土記稿 安戸条』では「安戸」地名由来として、山路を出たところにある休場を意味する「休戸」を安戸と書くようになったことに由来するという。
 急な石段の上に、切り立った山を背にして鎮座する当社は風土記稿には「宿の鎮守なり、社地山足によりて磐岩を左右後ろの三方共に鑚鑿して宮造りせり」と記されている。
・新編武蔵風土記稿 安戸村
 天神社 
 宿の北裏にあり、社地山是によりて盤岩を左右後ろの三方、共に鑽鑿して宮造りせり、社前の石燈も同く盤岩を刻せり、社は南向、神體は帶束せる銅坐像長二寸五分、宿
の鎭守なり、例祭正月二十五日、除地一段一畝、當社棟札に寬文九年十月廿五日とあり、神木と稱する杉圍一丈四尺許なるあり、上品寺の持なり 八幡社 疱瘡神社

 
        朱の両部鳥居        鳥居の先は石段。その登った先に拝殿が見える。

 境内は決して広くなく、上下2段に区切られていて、下の段には手水舎があり、最上階に拝殿を含む社殿、境内社、大杉のご神木が横長に配置されている。また上階の石段には、参拝客や氏子の方々、子供が誤って落下したりするのを防ぐためなのか、鉄製の手摺りが設置されている。
        
             石段の中腹附近に設置されている案内板
 天神社 御由緒 東秩父村安五三
 ◇天王様は暴れ神輿
 急な石段の上に、切り立った山を背にして鎮座する当社は『新編武蔵風土記稿』に「宿の鎮守なり、社地山足によりて磐岩を左右後ろの三方共に鑚鑿して宮造りせり」と記されている。
社伝によると、天文五年(一五三六)正月に安戸城主の上田左衛門大夫安吉が、菅原道真公を勧請したと云う。「新編武蔵風土記稿』は寛文九年(一六六九)十月の棟札があると記し、氏子は延宝八年(一六八〇)九月の棟札があったと伝えるが、現在は何れも存在しない。明治七年(一八七四)に村社となり、大正十三年(一九二四)七月三十一日に字南の稲荷社、字向山の稲荷社を境内に合祀した。現在の境内社の稲荷社がこれであり、デイゾウボウ稲荷と通称されており、その昔、デイゾウボウという僧が斬られ、この僧を葬った傍らに稲荷社を建立したことに始まると伝える。稲荷社の旧地は安戸橋の近くにあり、合祀後は畑にて氏子に貸与し、初午祭に供える天狗団子の材料の米はその氏子が出していたが、農地解放により民有地となった。その後、平成十八年(二〇〇六)に愛宕神社と山神社が境内に合祀された。
 末社の八坂神社例祭は七月二十日に近い日曜日に斎行され、宵宮には神輿渡御が盛大に執り行われるが、往時の「暴れ神輿」は祭礼時御仮屋に安置される。
 社頭の杉の大木は、「天神様の大杉」と云われ、周囲六メートル程で樹齢七〇〇年と推測され、昭和四十年村の天然記念物に指定された。
 ◇御祭神 菅原道真公

 ◇御祭日 元旦祭(元旦) 例大祭(二月二十五日)
                                      案内板より引用

              
            石段から見上げるように聳え立つ大杉のご神木
               この社の最大参拝ポイントでもある。
        
                     拝 殿
 東秩父村の社の特徴は、ほとんどの社は急斜面上に鎮座している点にある。村自体が秩父外輪山間部に位置していて、平野部の面積が少ないという地形的な理由もあるだろうが、村中を流れる槻川の水害から社を守る為に、斜面上の高台に鎮座させたこともあるのではなかろうか。
       
            社殿の左側手前にあるご神木(写真左・右)
      樹齢約700年、樹高約39m、幹周囲6.5mの大杉。東秩父村指定天然記念物
 
        
 社殿左側に並列されて鎮座している境内社。(写真上段左・右。下段)上段の境内社は『新編武蔵風土記稿』や案内板に記されている「愛宕神社」「山神社」「八幡社」「疱瘡神社」辺りであろう。
 下段は「デイゾウボウ稲荷社」。その昔、デイゾウボウという僧が斬られ、この僧を葬った傍らに稲荷社を建立したことに始まると伝えられている。
        
            境内にはご神木の大杉以外に2本の巨木がある。
 写真右端の杉が御神木の大杉。近くに2本の巨木が西側参道である石段の両脇を固めるように聳え立つ、3本の巨木の競演はなかなか立派な眺めだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia「境内案内板」等
 
 

拍手[2回]


岩根神社

 昔から狼はオオカミ(大神)ともいわれ、日本では古代から神として崇拝されていた。日本書紀の欽明天皇即位前記には、秦大津父(はたのおおつち)が狼を「汝は是貴(かしこ)き神にして、鹿(あら)き行(わざ)を楽(この)む」と言った話が記されている。かしこき神とは、賢明さと邪悪さを兼ね備えており、そのために人間から畏怖される神という意味である。
 現在でも埼玉県秩父地方の神社を中心に、狼が描かれた神札(お札)が頒布され、信仰を集めている。このすぐ南の武蔵御岳山上の武蔵御嶽神社には『日本書紀』の記述に基づく「おいぬ様」(または「お犬さま」)の伝説があり、日本武尊の東征の折、邪神が大鹿の姿で現れたのを野蒜で退治したが、その時に大山鳴動して霧に巻かれて道に迷ったのを、そこに忽然と白いが表れて道案内をして、無事に日本武尊軍を導いたので、尊は「大口真神としてそこに留まるように。」といったという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町井戸225
             ・ご祭神 大山祇命 大口真神(お犬様)ほか
             ・社 格 不明
             ・例 祭 例大祭 417
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1097456,139.1165272,15z?hl=ja&entry=ttu
 岩根神社は荒川の右岸、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線・通称「白鳥通り」を長瀞方向に進む。途中までの経路は白鳥岩田神社を参照。白鳥岩田神社から県道を800m程南行し、「岩根山」の石碑のあるY字路を左折、この道幅の狭い山道を15分程進むと山の中腹辺りに鎮座している。
             
            県道沿いにある「岩根山」と刻印された石碑
 この「岩根山」と表記されている石碑は県道沿いにあるとはいえ、目立たない場所にあるので、意識して左側を確認しないと、そのまま素通りしてしまうため、周囲の道路事情には気を付けながら進んでもらいたい。もっとも現在の車両にはナビが標準装備されているし、そのナビで住所登録もされているようなので、県道から曲がる際にもミスはまずない。
 但し県道から社に続く山道は道幅が狭く、意外と長い。心細さを我慢しながら15分程うねった山道を進むしかない。
 
 山道は社に近づくにつれ道幅も広くなり、また整備されている。参拝時期は5月上旬と桜は既に散ってしまっていて、路面両端にその痕跡を残しているが、その代わりにツツジの開花時期となり、山道の風景も新緑が眩しい清々しさも感じられた(写真左)。
 山道の北側には社の専用駐車場も完備され、休憩用の屋根付きの小屋も設置されている。看板も設置されていて、ここまで来れば一安心だ(同右)。
        
                                        井戸岩根神社正面入り口
『新編武蔵風土記稿 井戸村』には、「村名の起こりは梅ヶ井と伝へる名井あればとて、名づけたるよし土人伝へり」とあり、当社を「山神社」として載せている。また当社の社号は古くは「為倭根」と称していたようであるが、この社号は巨岩の岩根を表したものであったのであろう。  
 
    入口右側にある地蔵様、石祠も1基。    青天の中での参拝。参道にはツツジも咲き
   因みにこの石祠は「神霊碑」という。       
気持ちよく参拝に望めた。

 岩根神社が鎮座する「井戸」地域。嘗て武蔵七党「丹党」の一派がこの地域に移住してこの地域名を苗字としたようで、それが「丹党井戸氏」という。
武蔵七党系図
「峰信(桑名丹二大夫)―峰時(丹貫主、始めて関東居住)―峰房―武綱(領秩父郡)―武時―武平(又曰ふ武峰。天慶年中、故ありて武州に配流、秩父郡加美郡一井加世等を押領す。後に免ぜられて上洛)―白鳥七郎行房―七郎二郎基政―井戸政成(井戸、岩田、山田八)―直家」
丹党系図(塙氏本)

「山田八郎政成―五郎直家―直茂(井戸馬允)―馬五郎直忠、弟六郎家茂―八郎三郎家頼―宗重(弟弥三郎頼盛)。家茂の弟氏直、弟覚尊、弟九郎行成―八二郎行綱、弟弥九郎頼成、弟三郎家成、弟四郎宗氏」
 秩父一帯に勢力を拡大していた武蔵七党のひとつ丹党の一族に白鳥氏があった。丹経房の弟行房が白鳥に館を構えて白鳥七郎と名乗ったのが始まりとされる。『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったともいう。白鳥氏の嫡流はその後岩田氏に代わり、以後の白鳥氏は傍流として存続する。この白鳥氏や岩田氏は同族の藤矢渕氏や井戸氏らと長瀞一帯を領有していたという。
        
                             
参道途中にあった鳥居の基礎部分
                最近まで鳥居が存在していたらしいが、現在は撤去されている。

 当初県道から山道に入り、狭く曲がりくねった道に不安感を抱いていた気持ちはもうここにはない。社周辺の花々や景色と供に鳥のさえずりが心地よく聞こえ、都市の喧騒さをふと忘れさせてくれる。桃源郷を思わせる別世界がそこには存在している。
        
                    拝 殿
      拝殿前には一対の狛犬ならぬ狛狼がお互い見つめ合うように並んでいる。
  今回第一にこの狛狼を見ることが参拝の目的であっても良いくらい待ちに待った社でもある。
 
      拝殿に掲げてある金色の扁額       拝殿手前で左側に鎮座する祖霊社
・岩根神社
 第十代崇神天皇の代、四道将軍の一人である武沼河別命が東方十二ヶ国の平定に当たり当地をお通りの際、濃霧のため、道に迷われたが、大山祇命の使いである巨犬が現れ、命を導かれた。命はここに大山祇命を祀られて奉謝する。これが当社の創めであると伝えられている。その後、日本武尊命、当社に詣でて剣を献じ給い、下って坂上田村麻呂社前に樫の苗木を植えて、「吾が心、樫の如く、固く折れず、挫けず、東蝦夷鎮圧を遂げさせ給え」と祈願する。更に下って天文年中、藤田右衛門佐重利、地内に天神山城を築き、当社を城の守護神として奉斎し、寄居鉢形城主北条氏邦もこれにならって当社を崇敬するという。しかし、鉢形落城後は社運衰退、社殿も腐朽したが、これを嘆いた里人の力によって寛政二年社殿が改築され、さらに、明治二十一年修繕を行い、最近では昭和六十一年に改築が再度行われている。これが岩根神社の由来である

祭神 大山祇命、大口真神(お犬様)、大己貴命(大国主命)、武沼河別命、御嶽大神
    木花開耶姫命(産泰様)、天手力男命、日本武尊命

岩根神社と御嶽・大口真神・産泰信仰
御嶽信仰は、境内に普寛霊神・一心霊神などの霊神碑が並び、また、境内内社の祖霊社に霊神牌を奉安し、当社を行場として拝するむきがある。明治18年奉納の「木食心願之記」なる額に記されている大木の下敷きになった老爺が当社祭神の加護により息を吹き返し、その後、この老爺の息子は神徳報恩のために木食修行を始めたという話がある。大口真神信仰は、明治29年奉納の「吉田父子盗難を免るの図」に代表される日本狼の絵馬数枚があり、盗賊除けの信仰である。産泰信仰は子授け、安産祈願所として信仰され、木製、竹製の底抜け柄杓が奉納されており、現在でも県内外から多くの参拝者が訪れている。
*岩根神社・岩根山つつじ園HPより引用

       
                    拝殿の左側奥に聳え立つご神木(写真左・右)
 現在でも社殿一帯に漂う不思議な雰囲気の一端は、まぎれもなく社殿の後方にあるコンクリート製の岩盤である。岩根神社は元々この山の中腹に岩座(いわくら)と思われる巨岩を背にして鎮座していた。現在は社殿の背後は岩壁が迫っていて崩壊防止のためコンクリートで敷き固められている。所々に石祠等が設置されているが、元々その地に置いてあり、コンクリートで固めた際も、その場を残すようにくり抜いて鎮座させているのであろう。
 筆者としては、コンクリートで固めた以前の巨岩を見てみたかった気持ちも強い。その点は残念だ。
 
  ご神木の左手に「三笠神社」の標柱あり          「御嶽大神」の石碑
 その奥には「山神 金毘羅 魔利支天」の石碑      石碑の右側奥には「虫歯守護神」

 この「虫歯守護神」は白山神社と言われている。江戸時代中期。最後の女帝として知られる後桜町天皇(17401813)が歯痛で苦しんでいた。女官が白山神社(東京)から持ち帰った神箸(しんばし)と神塩をつけたところ、たちまち歯痛は治ったことから、白山神社には「歯痛平癒」のご利益があると噂されるようになったと伝えられている。
「白山」を語呂合わせで「歯苦散(はくさん)」と親しまれているともいう。
       
      社殿真後ろの岩壁のくり抜きにある   「一心霊神 厄除素戔鳴之尊」 
            蚕神像             の石碑等
 蚕神像は頭には蚕蛾、左手に桑の木、右手にマユを持っている。秩父地域は昔から養蚕業が盛んな地域でもあり、蚕を神格化するのは当然ともいえる。
       
         拝殿右側に祀られている      恵美須大黒の手前には    
         「恵美須大黒」の石像     「普寛霊神」が祀られている。    
        
                          境内の隅に鎮座する境内社・稲荷社

 日本人は農耕民族なので、田んぼや畑をあらす猪や鹿などの動物は害獣。それらの動物をとらえて食べる狼は山の神としてあがめられていた。この信仰が広がったのは江戸時代であるが、当時の江戸町民には別の理由で信仰が広まった。防火だ。江戸は火事に悩まされており、火を見ると吠えると言われる狼の代わりに、三峯神社の札を家に置いたといい、江戸城に三峰山の木が献上されたこともあったとされている。
 信仰は全国に広がり、関東甲信越、東北などで無数の三峯神社を信仰する「三峯講」ができ、現在も約4千近くあるとされる。
        
                             拝殿からの美しい眺め

 日本国内では明治時代末期に絶滅したとされる狼であるが、埼玉の母なる川、荒川上流部に埼玉のみならず、山梨・東京・群馬・長野各都県に広がる秩父山系もまた、嘗て狼の生息地であった。
 この秩父山系一帯には「お犬様」と称して狼を祀っている社が多数存在しており、全国的に見ても特異な状況を示している。江戸時代から広まったとされるこの信仰形態は、関東甲信地域に広がりをみせ、その信仰は狼が絶滅したとされる以降、現在においても続いている。
 そのためこの地域では、現在も毛皮や頭骨を大切に保管・保存している家が何軒もあり、狼にまつわる伝承や伝説も各地で聞くことができる。
        
         岩根神社に通じる山道に設置されている「長瀞八景」の看板

長瀞八景
つつじと野鳥の岩根山   野上駅まで徒歩60
春の岩根山は、岩根山神社の例大祭(四月十七日)の頃、一千株を超えるミツバツツジやヤマツツジ、藤、山桜、椿、花桃、菜の花などが優しく微笑みかけてくれます。野鳥たちの囀りが聞こえ
、さながら桃原郷を思わせる風情です。また寄居町風布のみかん山に通じるハイキングコースはなかなか好評です。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「岩根神社・岩根山つつじ園HP」「Wikipedia」
    「武蔵七党系図」「丹党系図(塙氏本)」等
                         

拍手[1回]


武野上神社

 武野上神社は、もともと丹生明神または丹生(ニフ)様と呼ばれていたが他社との合祀でこの社名になった。総持寺を開山した心地覚心大和尚が、鎌倉時代の中期紀伊国(和歌山県)高野山に参籠して満願のみぎり、この野上地方の旱魃を救うために、大和国(奈良県)吉野郡丹生川上の中社に鎮座する、水神慈雨の罔象女神(ミズハノメノカミ)(丹生明神)のご分霊を頂いてかえり、この地に祭った。ご眷属は、山犬のオオカミではなく、人に親しまれる普通の犬である。
                                「長瀞町史民族編」より引用
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町本野上1114
            
・ご祭神 罔象女神、高龗神、建御名方命、誉田別命、大物主命、大山祇命
            
・社 格 本野上・中野上村鎮守
            ・例 祭(祭日に近い日曜日)
                 元旦祭 11日 春祭り 41日 秋祭り 101
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1100287,139.1066713,19z?hl=ja&entry=ttu
 国道140号バイパス(彩甲斐街道)を長瀞町市街地方向に進む。町役場及び野上駅前通りを過ぎてから250m程先にあるドラッグストアとスーパーの間のT字路を右折し、暫く進むと右手に武野上神社の鳥居が見えてくる。長瀞町の中心街でありながら、国道を離れると正面は秩父山系の山脈が広がり、周囲もほぼ田畑風景の中、所々に住宅地が見えるという、長閑な風景がそこにはあり、その中の一角に社は鎮座している。
 社の北側には巨木に囲まれた駐車スペースもあり、一旦そちらに移動・駐車してから参拝を行う。
        
                    武野上神社正面
 荒川が形成した秩父盆地(埼玉県秩父市)から長瀞渓谷にかけて、俗に「河成段丘」と言われる河川に沿って分布する平坦面 (段丘面) と急崖 (段丘崖) から成る階段状の地形が形成されている。河川のつくる低地(河床、氾濫原(はんらんげん)、谷底(こくてい)平野、扇状地、三角州など)よりも高い位置にあると定義づけられている。
 長瀞町は埼玉県の西北部、秩父山系の関門に位置し、町の中央を縦貫して流れる荒川の両岸に細長く開けた町であり、荒川河谷の段丘上に位置し、国道140号と秩父鉄道が通じる。
 野上地域は、古くは戦国期よりその名称は出ていて、江戸期には幕府領に属する本野上村、中野上村、野上下郷村があり、これを野上三郷と通称されていた。
『新編武蔵風土記稿 本野上村条』では、江戸時代の産業として絹(養蚕)、烟草(タバコ)の取引が盛んで、27日には市(いち)が立っていたという。

    歴史を感じさせる木製の両部鳥居     鳥居の社号額には「武野上神社」と表記
       
                   鳥居を過ぎて参道左側に設置されている案内板
 武野上神社 御由緒 長瀞町本野上一一一四
 ◇野上に暮らす人々のよりどころ
 古くは家並が秩父往還(国道一四〇号)に沿った帯状に続く宿場町であった。宿の中ほどから西に三〇〇㍍ほど入ると右手に当社が鎮座し、正面に臨済宗総持寺が堂宇を構える位置関係にある。
 神社の起こりは旧社名「丹生社」から武蔵七党の一つ「丹党」が氏神として勧請した、あるいはこの地を拓いた人々が地神の「野神」を奉斎したことに因るという。
地内を貫流する荒川は岩石段丘が続き、水利に悪く天水に頼らざるを得なかったことから、当社別当となる総持寺の開山法燈国師は文永年中(一二六四~一二七五)高野山からの帰路、丹生大明神より分霊した水の神である罔象女神・高龗神を「野神」に合祀したという。『新編武蔵風土記稿』も「丹生社、例祭二月朔日、九月十九日、当村及中野上村の鎮守なり総持寺持、此寺の開山法燈国師、高野山より持来て、此所に勧請せしと云」と記載している。
 現在の本殿は享保11年(一七二六)に再建されたもので入母屋造である。
 明治に入り丹生神社と改称、その後の同四十二年(一九〇九)地内の五社を合祀し、社名を武野上神社と定めた 。

 ◇御祭神
 ・罔象女神・高龗神・建御名方命・誉田別命・大物主命・大山祇命
 ◇御祭日(祭日に近い日曜日)
 ・元旦祭 11日 春祭り 41日 秋祭り 101
                                      案内板より引用
        
          社の御由緒である案内板の隣にはこのような案内板も設置されている。
 武野上神社とけやき
 武野上神社はもともと丹生明神と呼ばれました。新編武蔵風土記稿の本野上村の条には、「丹生社例祭二月一日、九月十九日、当村及中野上村ノ鎮守ナリ」と紹介されています。
 明治四十二年六月二十四日、四社を合祀して武野上神社と改称されました。祭神の罔象女神が水神であるためか、例祭にはよく雨が降り旗幟がぬれます。このことから「丹生のぬれ旗」と呼ばれています。
 社に向かって右側に見えるのが、御神木のけやきです。これは根回り九メートル、胸回り六・五メートル、高さ二十五メートルの大木で、樹齢は約七百年と言われています。昭和五十八年の台風で上部の枝が折れましたが、この枝の年輪が二百五十以上ありました。
 境内にはこの御神木を含めて九本のけやきがありますが、これらはみな長瀞町の天然記念物に指定されています。
 文化財はみんなの財産です。大切にしましょう。 令和四年三月 長瀞町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                  参道より境内を撮影
 参道を含む境内周辺は一部を除いて日の光を浴びた開放的な空間が広がるが、社殿脇から奥部にかけては鬱蒼としたご神木群が時に社地の日光を覆いつくすようで、その境内における陰陽のバランスが妙に神々しさを感じてしまう社である。

 野上という地名由来として、「武蔵七党・丹党」から分家した一派が当地名を称したと云われている。「
丹党野上氏」である。明治の神仏分離までは「丹生明神社」であり丹党野上三郎が祀った氏神であるともされる。丹党白鳥氏の流れくむ野上三郎は白鳥基政の子である白鳥政広の子である白鳥政経のこと。政経が野上を治め、野上三郎を名乗ったことにはじまる。
丹党系図
「岩田七郎政広(右大将家御代の人)―野上三郎政経―某」

また『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷条』には「野上三郎為氏の墓所」も記載されている。
『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷条』
「野上三郎為氏の墓所 小名辻と云へる所の陸田中にあり、六尺四方許の地、其廻りに茶の木を植たり、村民持の畑なり、墓の印はなし、唯野上三郎為氏の墓所なりと、土人の傳ふるのみ」
        
                                    拝 殿
 拝殿の手前には一対の「狛犬」が設置されている。冒頭で紹介した「長瀞町史民俗編」にもこの狛犬は「狼」ではなく「人に親しまれる普通の犬」であると記載されている。但し実見すると、口部位にある牙等には不思議と狼の雰囲気がみられる。
 考えるに、秩父地方が狼信仰の中心であるが故に、本来は普通の犬であったにも関わらず擬態化(デフォルメ)されて、その地域の信仰形態に融け込んでしまったのではなかろうか。
 小さくて見ずらいが、右側の狛犬には、子犬が親犬の足元にいて、まるで甘えるように体をくねらせているように見える。狼信仰の狛犬には今まで出会ったことのないような穏やかで、愛情あふれる像に感じた。
 
      拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 
    拝殿の左側には神楽殿・八坂大神       八坂大神の並びに鎮座する境内社
                      左から武野上弁財天・白峰神社・武野上稲荷神社
        
                         拝殿右側奥に鎮座する合祀社。詳細不明
       
    拝殿右側奥には町指定文化財である樹齢700年を優に超える欅のご神木が屹立している。
      このご神木の他、境内にある9本の欅が街の文化財として指定されている。

 武野上神社の欅(町指定文化財)
 神社の御神木など9本の欅が指定されている。御神木は樹齢700年を優に超えると思われる古木で、根回り約9m、目通り6.3m、樹高25mである。
 昭和61524日指定
                                   長瀞町役場HPより引用

        
               
               社殿の奥で北側には多くの巨木が聳え立つ。その姿は圧巻だ。
              
        因みに鳥居を過ぎて参道を進む途中、右側にも巨木があった。
   但しこの木は銀杏であるから文化財指定は受けていないだろうが、やはり立派である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「長瀞町役場HP」長瀞町史民族編」「Wikipedia」等
             

拍手[2回]


野上下郷天満天神社


        
           
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷2866
           
・ご祭神 菅原道真公
           
・社 格 不明
           
・例 祭 春祭り(225日に近い日曜日)秋祭り(1125日に近い日曜日)
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1228636,139.1067951,18z?hl=ja&entry=ttu

 野上下郷下野上神社から距離にして600m程西方向の秩父の山が周囲を囲み、緑豊かな長閑な地にひっそりと鎮座している。国道140号バイパス「射撃場」交差点を右折し、埼玉県道287号長瀞児玉線に入るが、100m程先のY字路を左折する。このY字路のほぼ正面には「萩寺 洞昌院」の立看板があり、丁度良い目印となる。
 緩やかな上り坂を進むと「長瀞町消防団第2分団第1部」の小さな建物がある丁字路となるので、そこを右折1.2㎞程進むと左側に「辻公民館」があり、そこの南側に隣接して野上下郷天満天神社が見えてくる。
 辻公民館の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 野上下郷天満天神社正面   
                 辻公民館に対して横を向いているような形で鎮座している。
               
                                 東側に向いている参道
        
                    鳥居を過ぎて参道を進むと拝殿に通じる石段に達する。
           その石段の手前右側には案内板が設置されている。
 天満天神社 御由緒 長瀞町野上下郷二八六六
 ◇昔は盛んであった雨乞い
 当社は野上下郷の辻区に鎮座し、菅原道真公を祀る。
 本殿は一間社春日造。境内には秩父庄司畠山重忠「駒繋ぎの欅」と伝える大木があったがすでに枯死し伝えのみが残る。
 当社の近くに真言宗の寺院、洞昌院があり不動山白山寺と号する。寺を開山した元仲法印【久寿二年(一一五五)入寂】が、保延元年(一一三五)京都智積院に参籠し真言の奥義を極め、帰山に際し北野天満宮より分霊を拝受して寺院の隣に神域を定め天満天神の鎮座法要を営んだと伝える。
 元仲法印は学識が深く子弟の教育にも熱心であったため、当社も郷の者から厚く信仰され何時のころからか、辻の鎮守となったと伝えている。
『新編武蔵風土記稿』は「天神社例祭正月、九月二十五日小名辻の鎮守なり、神職相馬出雲吉田家の配下」と記している。
 辻区は水利が悪い土地のため、毎年夏には雨乞いが境内で行われたと伝える。近くの石尊祠・雷神社に詣でるほか、榛名神社、武甲山から水を頂きこれを地内の水と混ぜ祈願の後境内に撒くなどしたという。
 ◇御祭神
 ・菅原道真公
 ◇御祭日(祭日に近い日曜日)
 ・春祭り(二月二十五日)
 ・秋祭り(一一月二十五日)
                                      案内板より引用

       
       石段を登り終える辺りで、左側に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)

 社の境内で社殿に続く斜面には川石が全面にびっしりと敷き詰められている。石の状態、また補強としてコンクリートが使われているので、決して昔からあったものではないと思われるが、それにしてもすごい数量である。
        
                     拝 殿
       拝殿は覆堂となっていて、中に一間社春日造の本殿が近くに見られる。

 ところで野上下郷天満天神社は菅原道真を祀る社であるが、その神職である矢内(ヤナイ)氏は複雑な経緯でこの地に移住し、帰農・神職となった氏である。上野国志に「反町城(新田町)は、天文の頃には横瀬の家老野内修理亮時英が居す」とあり、家老職であり、金山城主横瀬氏と同紋で、待遇も一族並となっていた。
 その後天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際して、後北条氏は滅亡前後に秩父郡野上下郷に出奔・蟄居してこの地に帰農し、神職となったようだ。

『金山太田誌』
「家老・新田郡反町城主野内修理亮成道、天正十八年庚寅秋・出奔武州秩父郡野上蟄居。退職修理亮父、野内豊前成巌入道道的斎・天正十四年丙戌十一月二十七日卒・法名傑山全英」
『武蔵志』
「秩父郡野上下郷の柳内祖は、上州金山城主横瀬氏に仕たる人なり。天正十八年横瀬の母の供して秀吉卿へ出、夫より後、此邑に来、神主に成也」
 
    拝殿の左側に鎮座する合祀5社。     拝殿右側には頑強な石組の上に祀られている
 真ん中の2社は白山・稲荷社。それ以外は不詳。          大山祇神か。
        
                                  拝殿からの風景

 小田原攻めに関して、豊臣方の進路は主に武蔵国の平野部が主で、館や城は次々と開城もしくは陥落したが、奥地である秩父方面にまで豊臣軍が進出した形跡は乏しいという。新田郡反町城主野内修理亮成道がこの地に蟄居したのもある程度は頷ける。

 因みに新編武蔵風土記稿野上下郷条には「滝神社・熊野社・貴船社・石上社等は、みな神職は柳若狭なり」と記載されている。この「柳」は「矢内」の一形態なのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「金山太田誌」「武蔵志」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

拍手[1回]