原馬室愛宕神社及び馬室埴輪窯跡
ところで「馬室」という地名は、室町期‐戦国期に見える「馬室郷」の遺称地で、その郷名は『埼玉県地名誌』によれば、古墳の石室を示す「むろ」から生じたという。
別説では「馬室」は古くは「間室、真室、麻室」とも書いたが、室町時代に馬室に変わった。馬室の地名には、「戦国時代に武士から馬を盗まれないように隠していた穴に由来する」という地名伝説があるが、府会で「馬村」に由来すると言う。このあたりには古代から中世にかけて牧があったという。
「馬室」地域は律令制度以前の古墳時代前期からから埴輪製造拠点として早くから開発されていた地域の一つであることは「馬室埴輪窯跡」の発掘によって確かであり、製造するため多くの職人を抱え、定住場所を与え、製造した埴輪等を河川等交通ルートを確立して売りさばく「管理者」的な人物も存在していたであろう。
今では初春の「ポピー祭り」や秋に開催される「こうのす花火大会」でのみ地域住民で賑わう鴻巣市の西南端部の長閑な地帯であるが、この「馬室」地域で大量の埴輪が製作された1,600年前には、馬室の登り窯から盛んに煙が立ち、人々が盛んに行き交っていたのであろう。そういう意味において歴史好きな筆者にとってはロマンあふれる場所でもある。
「馬室埴輪窯跡」の東南約300mの北本市との境界近くに古墳らしき高台があり、その頂上に原馬室愛宕神社は鎮座している。
・所在地 埼玉県鴻巣市原馬室2825
・ご祭神 軻遇突智命 天照大神 素盞嗚尊
・社 格 旧原馬室村鎮守 旧村社
・例 祭 春祈祷祭 4月23日 灯明祭 7月23日
夏例大祭 7月24日 冬至祭 12月冬至
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0417884,139.5122043,17z?hl=ja&entry=ttu
原馬室愛宕神社は鴻巣市西南側に位置する原馬室地域の南部に鎮座する。途中までの経路は小松原神社を参照。一旦西方向に戻り、埼玉県道57号さいたま鴻巣線に合流、150m程南下し、2番目の信号を右斜め方向に進む。暫く道なりに進路をとり、「鴻巣市 あたご公民館」を通り過ぎると「なのはな通り」の十字路に達するが、そこは直進する。一度は右方向に曲がるが、道路上は直進方向なので、そのまま進み、最初の十字路を左折するとすぐY字路の合流部となり、その前方右側に原馬室愛宕神社の社叢が見えてくる。
愛宕神社境内には「愛宕自治会館」の他にも保育園もあり、平日は園児さんが境内を遊び場としているようだ。幸い参拝日は日曜日だったため、可愛い園児さんから怪しまれないで参拝できるのは幸運だった。愛宕自治会館の一角に車を停めてから参拝を行った。
原馬室愛宕神社 参道正面
道路沿いに入口があり、その左側には社号標柱(写真左)、右側には埼玉県指定文化財である「原馬室の獅子舞棒術」の標柱(同右)が立っている。鳥居は参道の途中に立っている。
埼玉県指定無形民俗文化財 原馬室の獅子舞
昭和五十四年三月二十七日指定
原馬室の獅子舞は、家内安全、悪液退散、五穀豊穣を願って神前に奉納される民俗芸能で、竹を細く割って作った「ささら」をすり合わせて踊る獅子舞と棒術が組み合わされる。
獅子舞は、天承二年(一五七四)にこの地を訪れた田楽師の山田右京助と橋本市左衛門の二人が伝えたといわれる。現在は年中行事となっていて、七月の『祈祷』と八月の『祭典』が奉納されている。(中略)
「棒術」は、宮本武蔵の二刀流、佐々木厳流(小次郎)の龍高流、柳生十兵衛で有名な新陰流の三流派の型を模したといわれる。演技には「四方固め」から「虎走り」まで三十の型があり、木刀あるいは六尺棒、時には真剣を使って、迫力のある演技が素朴に、時には滑稽に演じられる。
「獅子舞」は法眼獅子(男獅子)、中獅子(女獅子)、後獅子(男獅子)の三頭と花笠、笛方、歌方で構成され、五穀豊穣、天下泰平を祈願して奉納されるが、場所(舞庭)によって演目が異なる。
舞には『野辺の道行』『深山のまどい』『弥生の遊山』『女獅子かくし』『岩戸の曙』などの演題が付けられていて、全体が筋立てのある演劇的な構成となっている。とりわけ『女獅子かくし』は中獅子をめぐって法眼獅子と後獅子が激しく争う筋立てとなっていて、早い調子の曲と動きの早い舞は勇壮で迫力があり、獅子舞のなかでも最大の見せ場となっている。
この原馬室の獅子舞の技術を保存し、後世に伝えることを目的として原馬室獅子舞棒術保存会が昭和五十一年四月に結成された。保存会では『祈祷』『祭典』の実施・保存と後継者の育成などにあたっている。
原馬室観音堂の案内板より引用
原馬室愛宕神社 両部鳥居
参道に並んで設置されている「力石」 石段手前左側にある「愛宕社改築碑」
「愛宕社改築碑」左並びには境内社・天神社 参道を挟んで右側にある「保護地区指定標識」
拝 殿
石段上に鎮座。古墳とも言われているが、詳細は不明。
拝殿上部に掲げられている扁額 案内板は拝殿の壁と床に置いてあった。
愛宕神社 御由緒 鴻巣市原馬室二八二五
□ 御縁起(歴史)
長治二年(一一〇五)の創立と伝えられる当社は、原馬室の鎮守として祀られてきた神社である。その由緒は、江戸時代初期に、別当妙楽寺の法印日誉が写した「原馬室愛宕神社愛宕山記」に、次のように語られている。
当社は、勝軍地蔵尊を祀るがゆえに、愛宕山と称する。武蔵小掾藤井元国は、常に勝軍地蔵の教化を願い、その霊地を訪ねていたが、ある夕、馬室郷を過ぎると、遥かに火の光が見えたので、その庵に泊めてもらうことにした。この庵主は老尼であったが、「汝は久しく勝軍地蔵を信ずるゆえ、今、姿を現すのだ」と言い、地蔵に身を変え、光明を広野に放ち、十界平等印と令法久住印とを元国に授けた。元国は、その後、長治二年三月に山城国(現京都府)愛宕山を拝し、その神霊を彼の勝軍地蔵が出現した地に社殿を造営して祀った。更に、正慶二年(一三三三)に新田義貞が挙兵した際には、その臣の世良田利長が社頭に利剣を納めて戦勝を祈願し、貞和四年(一三四八)には武蔵権大目となった藤井行久が社殿を修め、神田を寄進した。
右の由緒のような経緯をたどり、当社は現在のような形を整え、地元原馬室の人々から村の鎮守として信仰されるようになった。『風土記稿』原馬室村の項に「愛宕社 村内の鎮守なり、妙楽寺の持」と記されているのは、そうした状況を記したものである。
□ 御祭神と御神徳
・軻遇突智命…防火防災、商売繁盛
・天照大神 ・素盞嗚尊
案内板より引用
拝殿左側脇に聳え立つ巨木。
ご神木かどうかは不明だが、どのような場所にでもこのように逞しく成長する巨木の迫力に思わずシャッターを切ってしまった。
石段の手前右側に鎮座する境内社・琴平社と稲荷社
【馬室埴輪窯跡】
・所在地 埼玉県鴻巣市原馬室
・形 態 埴輪窯跡
・時 期 古墳時代中期~後期(5世紀後半~6世紀末)
・指 定 埼玉県指定史跡
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0359341,139.5087811,19z?hl=ja&entry=ttu
原馬室愛宕神社より南西方向300m程の近郊にあり、荒川を望む台地の西端部斜面に築かれた登り窯跡である。これまでの調査から、最大 10 ~ 13 基の窯で構成されていると考えられている。
出土した埴輪は 6 世紀後半を中心とするが、5 世紀の特徴を持つ埴輪も僅かに出土しており、操業は 5 世紀後半まで遡る可能性がある。これは市内の生出塚埴輪窯跡よりも操業が早くなり、埼玉県内でも最も古い事例とされる。
キャンプ場の脇に埋設保存され、その位置と形が分かるように色を付けられた窯と説明板が整備されている。
入口に設置されている「埼玉県指定史跡 埴輪窯跡 昭和九年三月三十一日指定 鴻巣市教育委員会」の標柱(写真左)と、「史蹟 馬室村埴輪窯址」の石碑(同右)。
馬室埴輪窯跡 景観
案内板
埼玉県指定史跡
馬室埴輪窯跡 時代 古墳時代後期
古墳に埴輪を立て並べる風習は、古墳文化の中心地であった関西地方で生まれ、4~6世紀の約300年間にわたって北海道を除く全国各地で盛んに行われました。
埴輪には、円筒形、人物形、動物形、家形などたくさんの種類がありますが、その焼き方には大きく二つの方法があります。一つは、地面に浅い穴を掘って焚き火のように焼く野焼きで、日本では縄文土器が出現して以来の伝統的な技法です。もう一つは、馬室窯跡のように台地の斜面などを利用し、本格的なのぼり窯で焼く方法です。後者は5世紀の中頃に、朝鮮半島からわが国に伝わった新しい技術で、それが埴輪生産に導入されたものです。この窯を使って焼く方法は、一度に多量の良質な埴輪を焼くにはとても有効で、6世紀台に入ると関東地方でも広く普及しました。
馬室埴輪窯跡は、昭和7年に初めて正式な発掘調査が行われ、古墳時代の埴輪生産の様子を知る上でとても貴重であることから、昭和9年に県指定史跡に指定されています。
現在までに、保存地区周辺には10基以上の埴輪窯跡が確認され、台地上には埴輪工人(製作者)たちの集落も発見されています。このことから、工人集団のくらしを知る上でも大変重要な遺跡です。
ここで生産された埴輪は、箕田古墳群をはじめとして、荒川流域の古墳へ運ばれていたものと考えられていますが、埴輪を焼いていた期間は5世紀後半~6世紀末までの約120年間であったものと思われます。 平成4年3月 埼玉県教育委員会・鴻巣市教育委員会
案内板より引用
コンクリートで固めてある部分(V字型)が嘗ての窯跡という。
馬室埴輪窯跡から荒川左岸土手を望む。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉県地名誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等