古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

松山菅原神社


               
            
・所在地 埼玉県東松山市松山1150
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 祈年祭 325日、秋季例大祭1025日 感謝祭 1215

 北吉見八坂神社から埼玉県道271号今泉東松山線を西行し、国道407号線と交わる「天神橋」交差点手前右側に
松山菅原神社は鎮座する。当社は、嘗て松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する
 国道や県道からは低い位置に鳥居があるが、社殿はそこから小高い丘の上に建てられている。
 県道から「天神橋」交差点に合流する手前に右折する道路があり、すぐ左側には専用の駐車スペースも確保されていて、そこの一角に停めてから参拝を行う。
                
                     県道からは一段低い位置にある
松山菅原神社鳥居

 菅原神社 東松山市松山一一五〇
 当社は、かつて松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する。
 創建は、社伝によると応永年中(一三九四-一四二八)で、別当観音寺を開山した「忠良」なる者により行われたという。
 以来、観音寺は松山城下の元宿にあって、氏子たちや近在の村々の者に諸祈禱を修したといわれる。『風土記稿』によると、観音寺は京都聖護院末の本山派修験で、東照山竹林坊と号していた。慶長十四年(一六〇九)には、横見・比企両郡のうち一派の年行事職を許され、横見郡大串村毘沙門堂や比企郡長谷村不動堂をも兼帯する有力修験であった。また、万治三年(一六六〇)の失火までは、東照大権現改葬の際、観音寺に御霊棺を安置した縁をもって建立した東照宮の御宮があったと伝えている。
 祭神は、菅原道真公で、現在内陣には菅公座像が安置されている。この像は、明治三十五年四月「菅公一千年祭」を記念して東京美術学校教授の竹内氏に依頼し、製作したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
県道から鳥居に達する下り階段もあり、配置が面白い。正面鳥居(写真左)からは階段を上がり、拝殿に到着する参道がある(同右)。
               
                                      拝 殿
          天神を祀る社らしく、拝殿前には一対の「狛牛」が立つ。

 神社には「神使(しんし)」と呼ばれる動物がいる。
「神使」又は「眷属(けんぞく)」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在である。「神の使い(かみのつかい)」「つかわしめ」「御先(みさき)」などともいう。時には、神そのものと考えられることもある。その対象になった動物は哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで幅広い。

 時代が下ると、神使とされる動物は、その神の神話における記述や神社の縁起に基づいて固定化されるようになり、その神社の境内で飼育されるようにもなった。さらには、稲荷神社の狐のように、本来は神使であるものが祀られるようにもなった。これは、神とは無関係に、その動物自体が何らかの霊的な存在と見られていたものと考えられる。

 神使とされる動物には、主に以下のようなものがある。
・鼠       大黒天
・牛       天満宮
・蜂       二荒山神社
・兎       住吉大社・岡崎神社・調神社
・亀       松尾大社
・蟹       金刀比羅宮
・鰻       三嶋大社
・海蛇    出雲大社
・白蛇    諏訪神社 大神神社
・狐       稲荷神社
・鹿       春日大社・鹿島神宮
・猿       日吉大社・浅間神社
・烏       熊野三山・厳島神社
・鶴       諏訪大社
・鳩       八幡宮
・鷺       氣比神宮
・鶏       伊勢神宮・熱田神宮・石上神宮
・狼       武蔵御嶽神社・三峰神社等奥多摩・秩父地方の神社
・鯉       大前神社
・猪       護王神社・和気神社
・ムカデ 毘沙門天

 因みに菅原道真公を祀る全国の天神様(天満宮・菅原神社・天神社)には、境内に「寝牛」や「撫で牛」と呼ばれる牛の像がある。牛は天満宮では神使(祭神の使者)とされているからだが、その理由は次のように言われている。
道真の生まれた年が丑年
道真が亡くなったのが丑の月の丑の日
道真は牛に乗り大宰府へ下った
牛が刺客から道真を守った
道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた
               
                               社殿から参道方向を撮影

 日本神話や古事記等の神話にも動物は度々登場し、生活のパートナーとしてだけではなく、神聖な存在としても人々の側に寄り添ってきた。神様の使いとして慕われる動物たちは、同じ次元にいながら我々とは違う「世界」に生きている神聖な存在といえなくもない。
 日本の神道は、全てのものには神が宿っているという「八百万の神」の考え方がある。動物にも神のような力が宿ると信じられていたからこそ、数多くの神使が誕生したのかもしれない。

 今も多くの祭りや行事、境内の中に神話の動物たちが登場する。動物を一事例として、神社や神話に向かい合うと、これまでとは違った楽しみ方や味わい方、更には今まで知らなかったことが見えてきそうである。
 動物との関係性の築き方には、文化や宗教など多くの要素が複合的に合わさっている。ぜひこれを機に、人間と動物の信仰的な関係性を調べてみては如何であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等
       

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北吉見八坂神社


           
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北吉見1640
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明

 吉見町大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置する地域で、八丁湖公園や吉見観音(岩殿山安楽寺)が近隣にあり、どちらかといえば、上記の公園やお寺から東松山市街地方向に進む際の通過地点として位の認識しかなかった地域である。
 北吉見八坂神社は、黒岩伊波比神社から一旦南下して埼玉県道271号今泉東松山線に合流後、東松山市方向に西行し1.8㎞程進むと、信号機のあるT字路の右側丘陵地端部に社の鳥居が見えてくる。
 規模は小さい社であるため、隣接している社務所、駐車スペースはないため、社の境内の一角に停め、急ぎ参拝を行う。
               
                  北吉見八坂神社正面
                      県道沿いから仰ぎ見るような仰角で撮影。
 
 丘陵地の端部ゆえにやや勾配のある石段を上ると神明系の鳥居があり(写真左)、その先に拝殿が見える(同右)。社殿は最近改築されている。なんでも数年前に不審火による火災があり、木造平屋の社殿を全焼したらしい。
               
                                     拝 殿

 八坂神社 吉見町北吉見一六四〇
 大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置し、地内に古墳後期の吉見百穴横穴墓群(国史跡)、新田義貞が築いたと伝える松山城跡(県史跡)があることで知られている。
 当社の鎮座地は、氏子集落から離れた北外れにあり、昔は大変に寂しい所であった。また、裏手の丘陵は天王山の地名で呼ばれている。
『明細帳』に「創立ハ長保年中(九九九-一〇〇四)ナリト云伝フ」とあるが、『郡村誌』には「長保三年(一〇〇一)に創建し、元民有地たりしを、延宝六年(一六七八)社地となす」と載せる。
 一方、口碑によれば、天王様は元は、大沢重夫家の屋敷の北側に祀られていたという。これは、本来当社が大沢家の氏神であったことを物語るもので、『郡村誌』に見える社地の変遷の記事は、同家の氏神から村の鎮守となった経緯を示すものと考えられる。ちなみに、同家は氏子集落の中央に居を構え、当主で一五代を数える旧家である。
 明治四年に村社となり、同四十年に字九ノ地の庚申社、字八ノ耕地の稲荷社、字五ノ耕地の愛宕社・春日社の無格社五社を合祀した。昭和六年の社殿再建に際し、参詣の便を図り集落の中央に遷座しようとの声も上がったが、実行に移されず現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
               
                           境内に鎮座する境内社
               
                                    境内の様子

 北吉見八坂神社前には「北向地蔵」といわれる寛政4年(1792)銘の地蔵尊があり、岩室観音・比企観音(岩殿観音正法寺)・吉見観音への道しるべを兼ねた地蔵尊である。
               
                  北向地蔵 案内板

 北向地蔵
 北向きに建っているので北向地蔵という名がある。
 光背型浮き彫りの立像で、台石裏面には「高野山山中嶌坊内良順建焉 寛政四壬子稔四月吉祥日」とある。
 また、台石左側面には「此方いわむろ山くわんおん道、弘法大師開基、松山へ行ぬそ」とある。
 台石右側面には「此方ひきくわんおん江」とあり正面には「此方よしみくわんおん道十二丁」とあり、道しるべにもなっている。
 むかしからこの土地の人々の信仰を集めているが、特に観音霊場めぐりの巡礼たちの信仰を集めてきた。
 今はこの地蔵を信仰すると占いがよく当たるというので、占師の信仰が厚いといわれている。
                                      案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等

 
    

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間々田稲荷神社

 間々田は、旧妻沼町男沼地区の集落で、熊谷市の北西部、利根川右岸の自然堤防上に位置している。因みにこの地域では利根川支流である「小山川」が利根川右岸へ、また「早川」は反対側の左岸で合流するため、この付近の河川敷には広大な洲が発達している。「間々田」地名由来として、「埼玉の神社」では、崖を示す『マフチ』に由来すると説明している。
 また「くまやく健康だより 第
47号」で「妻沼の地名」由来を紹介され、そこに「間々田」は、地形変化の多い場所を意味する方言の「まま」という意味の他、利根川の洪水被害を受けると、各所に間を空けて田畑が再び造られたことを意味するともいう。どちらにしても、利根川という大河川の影響を受けていて、地名の由来も河川による浸食等で出来た地形を表現している事には変わらないようだ。

「新編武蔵風土記稿」幡羅郡の間々田村の項には「間々田村は原郷と唱ふ、庄領の名。民戸九十八、東西十八丁余、南北十五丁、東は出来島村、南は太田村、西は上野国新田郡前小屋村、北は利根川を隔て、同国同郡堀口村なり。」と書かれていて、間々田地域も、前項「出来島」地域同様利根川によって南北を分断されている地域である。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市間々田248
             
・ご祭神 大日孁貴命 豊受姫命 素戔嗚命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 初午 2の午、99日 祈年祭 218日 例祭 418
                  
新嘗祭 1125
 間々田稲荷神社は妻沼台白山神社鎮守男沼神明宮の西側、出来島伊奈利神社の南方にあり、周囲一帯田畑風景が続く中に、南北200m程、東西130m程の狭い空間の中、社を中心として集落が形成されている。正に「鎮守様」といった趣がこの社には感じる。
 途中までの経路は鎮守男沼神明宮を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線から「熊谷市消防団男沼分団」が右側斜向かいに見える十字路を左折して、道なりに西行する。辺り一帯の田畑風景を眺めながらも、やや正面に見える集落を目指すと、昔ながらの防風林に囲まれた住居が立ち並ぶ中、正面に間々田稲荷神社の鳥居が見えてくる。
 社に隣接した左側には間々田コミュニティセンターがあるので、そちらの前に駐車してから、参拝を行った。
             
   社の西方向で、埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線沿いには社号標柱が立っている。
         写真では道路の遥か先に間々田稲荷神社の社叢林がみえる。
        
                                      稲荷神社正面
 一の鳥居は石製の明神鳥居、すぐ先に続く二の鳥居は朱を基調とした同系鳥居で、白と赤のコントラストは見た目も美しい。
 社の境内にも言えることだが、正面付近の手入れも行き届いていて、ゴミ一つない。周面住民の方々の日々の努力には頭が下がる思いがする。
        
                                      境内の様子
     高台の上に社殿は鎮座。古墳、又は塚の可能性もあるというが、詳細は不明。
       
            拝殿に通じる石段の手前で、右側にある巨木。
            この社周辺にはこのような巨木・老木が多い。        
        
                                         拝 殿
 間々田稲荷神社の例祭である初午には、神社境内にて万作踊りが奉納されていた。江戸時代末期から明治・対象・昭和と長年に亘り、この地域内行事として万人に親しまれてきたという。この万作踊りは、大東亜戦争時の昭和15年から平成元年まで中断されていたが、平成2年に復元し、同年熊谷市指定文化財に指定され、現在は地域で継承されている。

「間々田万作おどり」 熊谷市指定無形民俗文化財
・所在地 間々田
・所有者(管理者) 間々田万作おどり保存会
妻沼地域の間々田にある伊奈利(いなり)神社の祭礼(初午(はつうま))の当日、神事の後の奉納行事として踊られます。利根川の水運にも恵まれ、養蚕や米麦などの豊な生産地であった間々田では、五穀豊穣(ごこくほうじょう)への祈りと、収穫の感謝を込めて、万作踊りが継承されています。
江戸時代から始まった踊りも、戦後において一度途絶えたことがありましたが、保存会によって復活し、今に至っています。
太鼓や四()つ竹(だけ)を用いての「手踊(ておど)り」や「手拭(てぬぐ)い踊り」は、老若男女を問わず地元の人々に親しまれています。
・指定年月日 平成241
                                                 「埼玉県県民生活部文化振興課HP
」より引用
 
 参道を中心にして、左右共に高台の斜面上に立ち並ぶ幾多の霊神の石碑の数々(写真左・右)。参道に対して左側斜面上には「合祀碑」もある(写真左、中央部)。
 石碑の中には「豊斟渟尊・国常立尊・国狭槌尊」等彫られている神様もあり、おそらくこの斜面は御嶽塚も兼ねていると思われる。
 
  社殿のある高台の左手には境内社が鎮座している。高台下で、左隣に鎮座する「蚕影神社」(写真左)。蚕影神社の左側並びに長屋風に鎮座する「神輿庫」「湯殿神社」「秋葉神社」「八坂神社」(同右)。

「大里郡神社誌」には境内社・蚕影神社に関して「境内末社 蚕影神社は天棚機比咩を祀れり又御名は天萬拷幡比賣命は天祖大日孁貴尊の神勅を遵奉して天の神機殿に奉仕られ機業祖神の一柱に坐し」と記載されていて、実際近年まで養蚕が氏子の主要な収入源であったことから、養蚕の無事を願う氏子の気持ちに切実なものがあり、折節に祈願が行なわれていたという。
        
           鳥居を過ぎて左側には猿田彦大神の石祠、奉納庫、詳細不明な石祠あり。       
        
                                 境内の一風景

「大里郡神社誌」によると間々田稲荷神社に関して以下の記載がある。

「明治五年九月入間縣に於て村社に列せられたりき、その鎮座の御代年月は傳へなければ詳かならざるも令義解和名妙武蔵風土記稿にも伝へるが如く幡羅郡或いは原郷に作りて間々田は長井庄に属して古来よりの名地なりけり古より同村小字伊勢といへる所に神明の鎮座ましまして大日孁貴尊を齋奉り小字伊奈利臺に豊受姫命を祀奉りき、こは神風の伊勢国内外の神宮の大神等を齋奉りて往古此地を開拓せしとなむまた月読神社と同神なる小字天神坪鎮座ましまし素戔嗚命をも合祀りし御社にして地名も幡羅郡永井の庄なるからに間々田と命名せしものならむ間々田は甘味田にて瑞穂の国の八束穂の稲また麦豆の熟廣成れるを壽詞し嘉名けらし(中略)
 此間々田の伊勢内外の神にはいとふかき所縁ある神社にて妻沼の神社と共に古社なること論なかるべし(以下略)」


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉県県民生活部文化振興課HP」
    「くまやく健康だより 第47号」等 

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出来島伊奈利神社

 旧妻沼町は利根川流域に位置している関係からか、地域名もまさに河川の影響を受けた名称が多く存在する。そもそも「妻沼」という地名自体「聖天宮縁起」という資料によると、「男沼」「女沼」という沼が東西に二つ存在していて、現在の妻沼の中央部に女沼が、妻沼北西部に男沼が位置していたといい、これらの沼は利根川氾濫後にできた沼と云われている。その他の地域の名の由来も箇条書きで説明する。
「善ヶ島」…洪水が起きると盛り上がった場所が島のように見えたことから、川の流れから逃れてきた人を助ける「善(よい)」島としてこの地名がついたという。西部に位置する「出来島」や対岸の「妻沼小島」も洪水時にできた島ということから、同じ意味であるという。荻野吟子が生まれた妻沼東部の「俵瀬」は利根川や福川の洪水の影響で、俵のような島ができたということで、「俵島」と呼ばれていた。
「間々田」…地形変化の多い場所を意味する方言の「まま」という意味の他、利根川の洪水被害を受けると、各所に間を空けて田畑が再び造られたことを意味するともいう。
「葛和田」…「和田」は河川の湾曲する入り江をいい、「葛」に関しては、鎌倉時代には葛の花が咲く地とも言われたそうで、また「葛」と同じ読み方かたから、江戸に送り届ける米麦や大豆の皮(もみ殻などのくず)を集めた場所という説もある。
「上江袋」…「袋」は「沼地」という意味。熊谷市の旧別府村方面から川の水を貯える場所を「江袋沼」と名付け、周辺の地名となったという。
「道ヶ谷戸」…「谷戸」は「湿地」を意味する他、「戸」は川の水路を管理する水門の意味もある。
「長井」…「長大に点在する井戸」を語源とする説。別説では「埼玉県地名誌」によると、「井」は川を意味し、「長」は「利根川」を示す説もあり。

 当たり前のことであるが、地域の名称の由来として最も多いのは、その土地の地形を表す言葉である。古い時代に付けられた地名に多く、自然改変の結果やその場所の施設・機能に由来する地名が付けられるのは、その種の活動が出現しなければ出てこない。更に土地の形や歴史、過去に住んでいた人等のさまざまな情報が地名には含まれているといっても良い。
 自分が住んでいたり所有していたりする土地の名前はどんな由来があるのか、誰もが一度は興味を持つ瞬間があると思う。地名はその地域の重要な情報や特徴を、先人たちが我々後代の人間に教え、諭し、警告してくれる重要な「遺産」ともいえよう。
                    
             ・所在地 埼玉県熊谷市出来島10
             ・ご祭神 稲荷神
                  別雷命 素盞嗚命 天御中主命 天手力男命 大日孁貴命
                  伊弉那美命 事解男命 速玉男命(大里郡神社誌より参照)
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 出来島あばれみこし〈7月下旬〉
 旧妻沼町出来島地域は男沼地域の西側に位置し、地形は地域の中央を東西に流れる利根川で南北に分断されていて、北部は利根川河川敷に位置する。集落は利根川右岸の土手以南に点在する長閑な田畑風景が続く地域である。

 出来島伊奈利神社は鎮守男沼神明社から北西方向、利根川右岸にある堤防からすぐ南側に鎮座する。途中までの経路は鎮守男沼神明社を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線を西進、「熊谷市消防団男沼分団」と、隣接する「男沼公民館」の十字路を直進し、400m程進むと右側に「熊谷市立男沼小学校」が見え、進行方向に隣接する工場の先の十字路を右折。道幅の狭い道路を暫く進むと、途中二手に分かれるY字路に達するので、そこは左方向に進路をとると、利根川の堤防が見え、その手前左側に出来島伊奈利神社が鎮座している。
 周囲に専用駐車場はない。鳥居の前の道路も道幅が狭いため、対向車両等交通の妨げにならない場所に路駐し、急ぎ参拝を行った。
        
                               出来島伊奈利神社正面
 境内は広く、参拝時期も冬であったので、樹木の茂りもなく、陽光が境内一帯に広がっていて、気持ちよく参拝できた。但し案内板等なく、詳しい由来等ないのが残念。
        
                                     拝 殿
 利根川に接する妻沼地域の集落は、上流から間々田・出来島・台・妻沼・善ケ島・大野・葛和田・俵瀬があり、利根川と共に歴史を刻んできた。「出来島」の地域名は、一旦洪水になると、村が水面に浮かぶ島のようになることから付けられたといわれている。
 嘗て利根川は常に氾濫し、村落の境界は常に変動していて、上記の集落は利根川の氾濫と闘いながら共存したと言える。
 

      拝殿右側には堤防に繋がる高台となっていて、多くの石碑、石祠等がある。

 めぬまの東西「あばれ御輿」のうち、「東」は葛和田大杉神社(熊谷市葛和田591)の祭礼だが、「西」は出来島八坂神社(伊奈利神社:熊谷市出来島10)の祭礼である。7月中旬の日曜日、みこしは昼前に神社を出発し、揉んだり水を掛け合ったりと楽しく盛り上げながら地区の家々を回り、歓待を受ける。16時前後に神社前から利根川河川敷に下り、川に入れてひとしきり揉んだあと、みこしを川中に立ててとんぼに上り、水中にダイビングする。
 関東有数の奇祭は、みこしを引き上げて神社へ還すまで始終笑いに満ちているという。
               
                              
出来島伊奈利神社 境内の様子

 上州(今の群馬県)世良田(現群馬県太田市)に鎮座する世良田八坂神社での祇園祭りは、400年以上の歴史を持ち、利根川対岸の住民もこぞって見学に出掛け、周辺の地域はこの祇園祭の影響を受けてきた。
 また連続堤が築かれるまでは、現在の群馬県利根川沿いの集落は、舟を移動手段していたことから隣の村であり、経済活動や地域文化の一帯感があったと推測される。
 世良田の祇園祭りに担がれる神輿が新調された際に、古い神輿を出来島に譲渡すことが決まり、神輿を利根川に流して、出来島河岸で引き上げたことから、祭りが始まったといわれている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「くまやく健康だより 第47号」
    「くまがや市商工会HP「くまがやねっと情報局HP」「Wikipedia」等
         

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鎮守男沼神明社


        
               
・所在地 埼玉県熊谷市男沼225
               
・ご祭神 大日孁貴神(天照大御神)
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 不明
 鎮守男沼神明社は妻沼台白山神社の北西に鎮座する。途中までの経路は妻沼台白山神社を参照。埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線を1㎞程西進し、「熊谷市消防団男沼分団」と、隣接する「男沼公民館」がある手前の十字路を右折し、正面左側を眺めると鎮守神明社の社叢がすぐに見える。社の入口には数台分の駐車スペースがあり、路駐等の心配はない。
 周囲一面田園風景の中にポツンと静かに佇む「地域の鎮守様」といった第一印象。
        
                  鎮守男沼神明社正面
           周囲は綺麗に整備をされていて、境内も手入れも行き届いている。
        
                   神明系の鳥居
  鳥居の左右に社号標柱が建てられており、左に「鎮座天満宮」、右に「鎮守神明社」とある。    
「男沼の起源」として、「熊谷市 Web博物館」では以下の解説をしている。
「男沼の名称は隣村女沼に対するものと考えられる。男沼村・女沼村ともに利根川の浸水地域に位置していることから、その昔利根川の乱流で台地(今の大字台)を挟み、2つの沼ができた。その沼の近くに男体様(男沼神社境内に東向きに建つ祠)があり、下の沼の辺りには女体様(大字女体の白髪社の付近に西向きに建つ)があったことから、上の沼を男沼(おどろま→泥沼の意味)、下の沼を女沼(後に妻沼に改名)と呼んだのがルーツであると言われる。
 確かに地元の古老に言わせると、現在町民運動公園の北、工業団地として開発された地域は、土地が(雉尾堤の北側から大堀地区にかけて)低湿で泥沼状態のところが多かったと聞く。また、妻沼聖天様境内北の芝川ほとりに弁天裏と称する所がある。その低地の中心部にすりばち状の沼があってこれを目沼と呼んだ。また、女体様の関係でいつしか女沼と書くこともあり、女沼と目沼とが併用されている時代もあった。」
「柳田国男氏の地名研究によれば、沼を名とした土地は沼によって耕地を開いたことを意味する。人々が沼に着目したのは、一つに天水場と違って水が涸れてしまうことがないこと、もう一つは要害の便があることを挙げ、小野や谷(や)について、新しい農民がこの方面に着目したことを意味すると述べている。このようなことから沼の地名が付くところは、水田耕作民たる私達の祖先の足取りを語るものとも言える。」
        
                            高台に鎮座する鎮守男沼神明社拝殿
 
         拝殿正面               拝殿に掲げてある扁額
 
 見ずらいが拝殿右側には境内社が鎮座する。    社殿左側裏には石祠。やはり詳細不明。
         詳細不明
           
           鎮守男沼神明社入口左側にある「男沼樋門改修之碑」

 男沼地区は、上流から流れてくる悪水や利根川の氾濫により湛水を余儀なくされた地域で、一時は集団移村が検討されたこともあった。文政2年(1819)頃、長勝寺住職十三世の堪能和尚がこの湛水除去の手段として、利根川に水を流す樋門をつくる計画をたて、建設された。
男沼樋門は、この樋門を大正六年(1917)に煉瓦造りに改築したもので、男沼鎮守神明宮の境内に、男沼樋門改修之碑(1918年建立)がある。

 また幡羅郡妻沼村の記事に、渡場として「当村より上野国へ達する利根川の舟渡なり、対岸古戸村なるを以て古戸渡と呼ぶ、この道は熊谷宿より上野への脇往還なる」とある。
「風土記稿」の「古戸渡」という記述から、この辺りが陸水運の要衝の地で、東山道山武蔵路の利根川渡河の地を示し、その周辺の社は東山道武蔵路を守る為に建立した神社とも考えられるという。

 結論として、神社が街道を守るように配置されている例は幾つか見られる。しかし、拝む方向に拝む対象があるのが普通であり、この辺りの神社は、女沼・男沼・利根川など水に対する信仰から生まれたものと見るのが自然ではないだろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷市文化財日記」「関東平野にある女体神社」
    「熊谷市 Web博物館」等

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