古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

針ヶ谷八幡大神社

 全国には様々な地名があるが、土地の地形や風土が由来となったものや、その土地に縁のあった偉人からつけられた地名、戦国時代の武将達が名付けた地名などもあり、由来は様々である。土地の地形や風土が由来となった地名の場合は、後世になってから何らかの形に変更されたものが多数あり、普段はあまり気にすることのない地名の由来だが、実はこういった地名には、先人達が後世に伝えたい大切なメッセージが込められているといえるのではなかろうか
「針ケ谷」という地名は、県内でも深谷市やさいたま市浦和区、県外では栃木県宇都宮市、千葉県長生郡長柄町などにも見られる。開墾地を示す地名に「墾(はり)」という古語があるが、これが「針」や「治」「張」などの文字に置き換えて使われている場合があり、当市の針ケ谷も平安時代前後に谷地(湿地)を開墾し切り開いた土地の意があるのかもしれない。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市針ケ谷258-1
              ・ご祭神 品陀別命、比賣神、神功皇后
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 10月15日 例祭
 針ヶ谷八幡大神社は深谷市針ヶ谷地区西部に鎮座する。埼玉県道
75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、針ヶ谷(中)交差点の次の信号はT字路になっていて、埼玉県道86号花園本庄線との合流地点となっているが、そこを右折。300m程北上し、3番目の十字路を左折する。道幅の狭い道路だが、民家一つない田園地帯を見ながら次の十字路を右折すると左側に針ヶ谷八幡大神社が鎮座する場に到着できる。
 実のところ、県道86号線から右折する細い道からでも、右前方に社の社叢を仰ぎ見ることができるが、鬱蒼とした社叢ではないので、初めて参拝する方には、ナビ等は必要ではないかと感じた。
         
                東向きに立っている一の鳥居
 鳥居は東向きに立っているが、実のところ社殿は南向きである。鳥居を過ぎて参道を進むと、一旦突き当たるので、そこを直角右方向に進む参道があり、その先に社殿は鎮座している構図となっている。
        
                         直角に曲がった先の地点で社殿方向を望む。
                 参拝日 2022年3月
 深谷市針ヶ谷地区は深谷市の北西の櫛引台地面に位置していて、現在は周囲を田園地帯が広がる長閑な地域であるが、縄文期から平安期の集落跡が報告され、古くから開けていた地域であることが知られる。また、地内に鎌倉街道が通り、「風土記稿」には「村内に一条の道あり、児玉郡本宿より比企郡小川村へ通ず、是に鎌倉古街道と云伝ふ」とあるように交通の要衝でもあったようだ。
*深谷自治会連合会・針ヶ谷自治体HPを参照。
       
      参道両サイドある夫婦松             大黒様と恵比須様  
   手入れも行き届いていて素晴らしい。       左側には兎もいて可愛らしい。
        
                       「祝御大典 本殿再興四百年記念事業」
 碑文
 当八幡大神社は、神社明細帳や武蔵風土記稿等に「山城国男山八幡宮を移し祀る。勧請年月不詳なれど、文明十一年建営修理。慶長元丙申年及び寛保二壬戌年社殿再興す」云々…とある。
 山城国男山八幡宮とは京都府八幡市の石清水八幡宮のことで、当八幡大神社の本宮である。
 昭和六十二年に、本殿の営繕及び外宇(覆屋)
の改築を行った際に、調査した処、本殿天井裏より棟札が発見された。「慶長元丙申年・奉勧請八幡大神宮鎮護所願主小林六大夫」と記されおり、記録の如く、今の本殿は慶長元年に再興された事が立証された。その際に文明十一年の「叩きの土台」も確認された。本殿が再興されてより数えて、平成七年が四百年目の記念すべき年に当たる。
 拝殿は寛保二年に再興したるが、寛政辰年七月に改築をしている。その後幾度が営業を行っている。しかしながら、拝殿並びに天満宮の老朽が激しく、使用耐え難き状態なれば忘急処置で凌んで来た。そこで八幡大神社四百年記念事業として、拝殿・幣殿・天満宮外宇の改築を目標として、平成三年より七年迄の五ヶ年計画で募金を行いたく立案し、平成二年十二月二十三日の総会の席上で満場一致の賛同を得た。計画に着手するや氏子崇敬者の敬神の念篤く、目標を越える多額の奉納計画書の提出を載く事が出来た。昭和の御代も平成に変わり、これを祝し御大典記念事業としての意味を含めて事業に着手した。(中略)
 工事は平成五年三月に始り、三月八日に天満宮地鎮祭、二十二日に上棟祭、四月十八日には拝殿・幣殿等を解体した。一部から次の様な記録が発見された。「奉建立寛政辰年七月 針ヶ谷村大笹木村金平造之」とあった。今から百九十七年前の事である。四月二十七日に天満宮への仮遷座祭及び地鎮祭と斎行した。五月二十二日には拝殿等の上棟祭と斎行した。又付帯工事や社頭の整備等も、役員や奉仕団の方々のご協力に依りの完成する事が出来た。十月十四日には、神社本庁より献幣使を迎えての正遷座祭を芽出たく斎行出来た。この年は皇太子殿下の御成婚と、伊勢神宮の第六十一回の式年遷宮に当たり、重ね重ねの奉祝てあった。
 以上概要を記し、先人達が精神の拠り所として此のお宮を守り伝え「敬神 崇祖」の立派な精神文化を残して下さった事に感謝しつつ、更に後世の人々に受け継いて戴く為に此処に是を建立す(以下略)
碑文より引用 *句読点は筆者が代筆
        
                                    二の鳥居
        
                     拝 殿
      
         拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
        
                               本殿覆屋
 社の多くは鬱蒼とした社叢林に覆われていて、やや湿度が高く、樹木の間からこぼれ出る零れ光が、より一層神秘性を醸し出す心理的及び環境的な要因ともなっている。
 その点針ヶ谷八幡大神社の境内は、本殿奥にある社叢林以外はお日様の光を浴びた明るい境内で、境内周辺の環境整備もしっかりとしていて、二の鳥居から社殿までの参道周辺には玉砂利も敷かれ、しかもしっかりとならしてあり、見た目も良く、晴れ晴れとした気持ちで参拝を行うことができた。
 玉砂利を踏みしめて歩く事がほとんどない昨今、何か新鮮な気持ちにもなるから不思議だ。
 
      社殿手前左側にある神楽殿        神楽殿の右側に鎮座する境内社・神明社
            
                本殿左奥に聳え立つご神木
           本殿奥周辺にはご神木・社叢林を含む空間がある。
 
       石祠群。詳細不明            本殿右奥にある富士塚
        
                          社殿右側に鎮座している境内社・天満宮
        
                                     天満宮内部

 後になって知ったことだが、4月から5月にかけて咲く「ツツジ」や「藤」が綺麗な所で知られる社との事だった。立派な藤棚もあり、写真を見るとなるほどその通りかとも感じた。ツツジの時期も綺麗だそうだ。成程「明るい社」と感じたのは、このような綺麗な花々を見出る為に必要な空間でもあったわけだ、とも思った次第だ。
 来年こそはこの見事なツツジや藤の花を堪能したいものだ。
        
                      境内周辺を撮影
                            玉砂利もしっかりとならされている。


拍手[2回]


今泉浅間神社

                  
                ・所在地 埼玉県深谷市今泉51
                
・ご祭神 木花咲耶姫命
                ・社 格 不明
                ・例 祭 不明
 今泉浅間大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、「本郷駐在所」交差点を過ぎて、藤治川を越えた「本郷農産物直売所・緑花センター岡部」がある手押し信号のある十字路を左折し、道幅の狭い道路を南方向に700m程進む。この道路を挟んで進行方向左側は藤治川流域の田園風景が広がり、右側は民家が所々連なったりするが、その後緑深い丘陵地の先端部が見え、その入り口付近に今泉浅間大神社の奉納のぼり旗柱ポールや、案内板等が見えてくる。
 地図を確認すると、この今泉地域の西側は、森やゴルフ場があり、河輪神社や関浅間神社が鎮座する諏訪山も近隣にあり、古墳も多数ある古くから開けた場所であるようだ。
               
                  
今泉浅間大神社正面
                
                                  入口左側にある案内板
 浅間神社
 所在地 岡部町大字今泉五一番地  祭神  木花咲耶姫
 沿革
 創立年代は明らかではないが、古くより大字今泉の鎮守として崇敬されている。西暦一九〇八(明 治四一)年には、字大明神より稲荷神社を転居し合祀されている。大字今泉の地は、江戸時代以前は、榛沢郡藤田郷(現在の寄居町)を本拠とする藤田氏の勢力下におかれていたと考えられており、字大明神にある高取山は、この藤田氏が当地方を治めた頃、この山に登り稲作の豊凶を見定め、石高を計り年貢を取ったため山の名がここに起因していると伝えられている。江戸時代に入ると、徳川家康の家臣菅沼小大膳定利の領地となる。菅沼小大膳は後に、上州(現在の群馬県)吉井藩主となり、西暦一六〇三(慶長七)年死去した。
                                                                                                                  案内板より引用
        
              思っている以上に石段は角度があり、鳥居を撮影するのも苦労した。
 
 丘陵地に鎮座していて、石段を登る。途中、灯篭があり、テラス上に平らに馴らしている場所もある(写真左)。その後石段を登るわけだが、両側の路面を掘り込んだ断面も見ることができ、少しワイルドな気分となった。
        
        石段を登り終えると、やや横長の広い空間があり、社殿・境内社が鎮座している。
        
                社殿の奥に鎮座する境内社。
   正面はガラス張りとなっていて、中に境内社・本殿が祀られている。写真撮影はせず。
            案内板に記されている稲荷神社かもしれない。
        
                                   藤治川流域付近撮影
 武蔵七党の一派である横山党・猪俣党には「今泉氏」が存在していたが、榛沢郡藤田庄今泉村より起っているという。小野系図(畠山牛庵本)に「藤田能国―伊与僧都(今泉)」との記載があり、藤田氏がこの地を治めていた時期には、今泉氏もその配下として勢力下にあったのであろう。     

拍手[1回]


山崎天神社


          
                                             ・所在地 埼玉県深谷市山崎134            
                  
・ご祭神 菅原道真(推定)
                  
・社 格 旧村社
                  
・例 祭 不明 
 山崎天神社が鎮座する「山崎」という地名。地域名より発祥した在名であり、この地域に土着した山崎氏が存在した。この一族は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団で武蔵七党の一つ、小野篁の末裔を称す横山党と同族である猪俣党の一派で、榛沢郡山崎村から出た一族であると云い、『新編武蔵風土記稿』にも以下の記述がある。
・新編武蔵風土記稿山崎村条
「按に当国七党(武蔵七党)内猪俣党に、山崎国氏・同三郎光氏といえるものあり。殊に隣村桜澤に三郎光氏を祭りしと云う八幡社もあれば、是等当所に住し、在名をもて名とせしなるべし」
・同桜沢村条
「山崎八幡あり。或説に猪俣党山崎三郎左衛門尉小野光氏の霊を祀れり、由って此の神号ありと云ふ、近郷山崎村は此光氏の旧蹟にや、福泉寺の持」

 その他にも小野氏系図には「藤田好兼―山崎五郎左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏」。上尾市の山崎達郎家系図に「山崎五左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏―宗左衛門貞氏―五左衛門氏兼―四郎太夫氏長―五太夫氏清―刑部丞氏弘―掃部勝氏―三郎太夫氏忠―内蔵允頼忠(相州に赴き北条氏綱に仕へ戦功多し)―氏頼―氏行―氏光(北条氏に仕へ、天正十八年小田原落城の後、松平上総介忠輝に仕へ采地五百石を賜る)―友氏(上州前橋の酒井忠清に仕ふ)―友重(酒井氏に仕ふ)、弟友之(植村土佐守忠朝に仕ふ)―友寛(松平元重に仕へ、長州萩に移る)」と見える。
          
                                 山崎天神社正面
 山崎天神社は榛沢新田二柱神社北側に接する東西に伸びた道路を西行する。その後突き当たりを左折し、畑の中の道を暫く南下する。藤冶川を渡り、上越新幹線の高架の下を通り山崎の交差点の信号を右折すると手前左側方向に社は鎮座している。

「新編武蔵風土記稿」山崎村の項には「天神社 村の鎮守なり、熊野稲荷を合祀す、地蔵院の持 下六社 持同じ 熊野社 大神宮 雷電社 山神社 諏訪社 辨天社」と記述されていて、その後明治40年代に村内の神社を天神社に合祀したという。
         
             参道途中、左側には梅の木々が実をつけていた。
             さすが天神社の面目躍如ということであろうか。
 
  社の参道東側に隣接する真言宗智山派天神山薬王寺地蔵院(写真左)。そして地蔵院の脇には「天神山薬王寺地蔵院緣起」という境内碑(同右)がある。

 天神山薬王寺地蔵院緣起
 当天神山薬王寺地蔵院は真言宗智山派に属す 本庄栗崎の宥勝寺を本寺とし 本尊は薬師瑠璃光如来なり 当山は基を遠く慶安年間に権大僧都盛傳和尚の開山とされ 永きに渡り当地を見守り 無量の利益を施し給う 当山旧本堂は大正十四年第十四世秀慧和尚により建立せられしより以来た風雨に耐え今日に至ると雖も如何せん 腐朽甚しく荘厳消磨し 遂に手を加うるの術無きに至る また本尊薬師瑠璃光如来 地蔵観音両菩薩 並びに両祖大師の尊像も 幾多の星霜を経て破損に及ぶ 小衲本より浅学菲才の身なれば師跡を継承すれども朽ちた堂宇を再建する才あらず 日々の檀務に明け暮れ想い起こししは 今は亡き先々代英覚和上の堂宇再建の悲願なれども 住職拝命よりこのかた空しく時を過ごせり(中略)地元の善男善女の信援 更には有縁無縁法界万霊の冥助の賜なり ここに縁起を誌し この法縁に深甚なる感謝の念を捧げ 本尊聖者の威光倍増を願い 両祖大師並びに当山祖師先徳の恩顧に報いむ 願わくは当山を篤き信仰の場として子々孫々護持されんことを 重ねて乞う 国家安穩 萬民豊楽 興隆佛法 寺門隆昌 伽藍安穏 檀信健勝 二世安楽 乃至法界 平等利益(以下略)
                                      境内碑より引用
             
 参道の途中に聳え立つ巨木(写真左・右)。紙垂等はないし、ご神木ではないようだが、参道両側にある樹木の中でも幹は太く、雄々しいその姿に感動し、思わず写真を撮ってしまった。
        
       山崎天神社の参道は右方向・Ⅼ字に曲がり、すぐ先に社号標柱や鳥居がある。
              時々社に見かける配置構造だ。
 ところで参道が北方向で途中右に90度曲がるという箏は、この社は西向きの社という箏になる。         一説では西方向の延長線上には太宰府天満宮が鎮座する場ともいう。
           
                        拝 殿
  創建時期等を記した案内板はなく、帰宅後の編集でも参考資料がほぼ見当たらなかった。
                      
                              拝殿手前、左側にある社日神
 社日神の基礎部分はコンクリート製であるが、この基礎部分はかなり高さがあり、また入り口にあった灯篭2基の基礎部分もかなりの高さであった。思うに山崎天神社の鎮座場所は、志戸川とその支流である藤治川の合流地点から南側で、それ程遠くない場所であるため、河川氾濫対策として、このように基礎部分を補強し、ある程度の高さに積み上げているのではないだろうか。あくまで筆者の勝手な推測ではあるが。
                  
                  社殿左側にある富士塚
 塚の頂には仙元大日神があり、左側には青面金剛の石碑、右側には詳細不明な2基の石祠が両脇を固める。
        
                             社殿奥、左側に鎮座する境内社群
 
 境内社は天神社の拝殿の左後ろにあり、合殿で左から、天照皇大神、稲荷神社、諏訪神社、三社権現神社が祀られている。
        
                                 社殿から鳥居方向を撮影

 嘗て山崎天神社の隣の旧名主の新井家は、代々寺小屋の塾を開き、村内また隣村の児童を教育したという。
榛沢郡の新井氏は「和名抄」に「榛沢郡新居郷」と記載があり、新井は新居、荒井とも書く。嘗て此の氏は埼玉県第一位の大姓であり、関東地方北部特有の名字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いとされている苗字で、新井姓の約半分は埼玉と群馬にみられる。
出自も多くあり、
・武蔵七党、丹党榛沢氏、横山党・猪俣氏、児玉党からの系統
清和源氏・新田氏流、武田氏流、足利支族・一色氏流からの系統
その他(桓武平氏畠山氏流、藤原秀郷流、高麗氏族等)
に大きく分かれている。

 その中の清和源氏新田氏流新井氏は、同郡人見村に移住して深谷上杉氏の支族に仕え、後に深谷領東方藩松平康長に仕えたという。
新井氏系図
「新井兵庫義豊は、永享十年将軍義教公より御教書を贈る、上杉憲実に持氏追討すべきの由なり。三浦介時高・今川上総介・小笠原政康ら、鎌倉に発向す、この時の旗頭にて、進んで先鋒討死す。翌十一年、上杉家に小次郎を召され、思し食に感じて、黄金十枚を贈る、法名寛恭了得大禅定門。のち小田原北条家滅亡の後、小笠原家に所縁ある故に扶助を賜ひ、年老の後、榛沢郡藤田郷萱刈庄山崎村に蟄居す」
大里郡神社誌
「山崎村天神社に隣接せる旧名主新井茂重郎の家は、正保以前より地頭加藤牛之助の地行所にして、其の子孫亀之助及び音三郎等、代々寺小屋を開く」
        
                   山崎地域の田園風景

 余談となるが、江戸中期の学者、詩人、政治家である新井白石は、榛沢郡の新井氏と同じ清和源氏・新田氏流の末裔であったようだ。
・新田族譜
「新田義房―覚義(上野国新田郡新井村に住し、新井禅師と称す)―朝兼―義真(応永二十三年討死)―義基(二郎、仕小山下野守)―武義(次郎兵衛尉、住武州、仕人見屋形上杉六郎憲武)―勝広(刑部丞、仕上杉左衛門太夫憲晴)―広恒(刑部、去山善休)―広成(刑部、天文十年生、万治三年十二月死、百二歳)―半無生(住上州厩橋)、弟広道(新井勘解由、赴常陸多賀谷家)、其の弟広方(刑部、十左衛門、仕真田家)、其の弟某(次郎兵衛、仕松平丹波守康長)―某金兵衛―某金兵衛、兄某次郎兵衛」
同家譜には新井勘解由広道―余四正済―君美(白石)との記載あり。

 不思議な縁で、山崎天神社の考察から、江戸時代
中期の学者、詩人、政治家である新井白石との関わりまで話が発展してしまった。まあ筆者としては、これ位の脱線は許容範囲だし、これだからこそ神社参拝やその土地の歴史考察は面白いわけなのだが。
 

拍手[2回]


沓掛熊野大神社

 神社の社殿へと導く道筋を「参道」と言い、これは「参詣するための道」という意味である。神社の参道で参拝する際のルールは、鳥居まで来たらくぐる前に一礼し、参道の真ん中を避けて左端を歩くとされている。参道の真ん中を正中と呼び、神様が通る道とされているためだ。鳥居をくぐって本殿へ続く正面の道を「表参道」と呼び、脇道のことを「裏参道」と呼ぶ。
 参道の役割として、まず石畳や鳥居、並木などの目印によって参拝者を誘導する役割がある。一般の方々が移動しやすいように通路を整えることによって参道は生まれ、大きな社の参道であれば商店街が形成されていることも多い。
 また参道は我々が一般的な生活を営む「俗界」と「神聖な場」とを繋ぐ一種の移行空間であり、参道には道程の中で参拝者の信仰心を上がらせる役割もある。2つの世界との境界は鳥居が存在する。一歩ずつ進む毎に「聖なる世界」へ入ったという心持ちに誘うところに参道の参道たる意義があるのではなかろうか。
 沓掛熊野大神社の長い参道を進みながら、ふと参道の意義について考えさせられた次第だ。
         
              ・所在地 埼玉県深谷市沓掛303-1
              ・ご祭神 伊弉諾命、伊弉冉命、速国男命、事別男命
              ・社 格 旧村命
              ・例 祭 不明
 深谷市沓掛地区は、榛沢新田地区の丁度北側に位置し、東西1㎞程、南北も長くて700m程で横長の長方形で形成されたコンパクトに纏まった地区である。地形を見ると、沓掛地区は東側・針ヶ谷排水路の西側で56m程の標高で、西側に行くにしたがって50mを切るところもあり、東側から西側に向かうほどなだらかに標高は低くなる。民家等は地区の南北を走る通称「西田通り」南部周辺に集中し、北に向かうほど緑豊かな農村地区が広がる地域である。
 沓掛地区中央部に鎮座する熊野大神社の標高は丁度
50mのライン上にあり、そこから北、西部はなだらかに低くなる。
 沓掛熊野大神社はその地区中央部に堂々と鎮座している。
         
                                沓掛熊野大神社正面
「沓掛」という地名は太田道灌書状に「文明十二年正月十三日、沓懸に相進む」と見え、『新編武蔵風土記稿』でも「郡中小前田新田の民、兵五郎が蔵する北條氏邦より出せし○荷の文書中に、深谷御領分榛澤沓掛云々と見えたれば…」と記載されていることからも、かなり古い時代からあった地名のようだ。
 
       鳥居の左側にある庚申塔群       鳥居を過ぎて左側にある「土地改良之碑」    
 地域の方々の信仰の深さを感じる歴史の遺物だ。 この地の利便の悪さをこの碑は語っている。
              100m程の南北に長い参道(写真左・右)
          
 鳥居を過ぎて、参道を進むと左側に石祠が見える(写真左)。立派なコンクリート製の基礎台上に石祠が鎮座しているが、残念ながら何も説明書等ないため、詳細不明。また石祠の右側には「沓掛道路建設記念之碑」の石碑(同右)が立っている。この石碑は昭和39年5月15日に建立され、道路総延長1,070m、巾5m、及び橋梁1カ所行ったことが刻まれている。
                         
 参道の周囲は杉林に覆われる場所もあり、日が当たらない為なのか、苔生す所もあり、それが却って神妙な気持ちにさせてくれる。参道を含む広い境内は、清掃も行き届いていて地域の方々の日頃の信仰心,及び地域福祉における共助の精神には頭が下がる。
        
                「沓掛熊野大神社再建記念碑」
 沓掛熊野大神社再建記念碑 碑文
 幾星霜を地域住民の心の支柱として此処に崇められて来たる熊野大神社は、伊弉諾命、伊弉冉命、速国男命、事別男命の四柱を祭神として祀られてある由、新編武蔵風土記稿に記述されてある。
 遥か上代には現妙権寺の寺領として維持管理されていたが、その後、明治五年(一八七二)の神仏分離令に依り、同寺領を離れ、沓掛の鎮守氏神として崇拝され、往時の先人達が四季折々の祭事を司って来た。其の祭りを通し集落社会の連帯感を深め、一つの精神文化を築いて来たのである。
 時は明治八年(一八七五)二月、志戸川のほとりの車屋より発生した火災の類焼を被り、神殿、拝殿悉く消失し、更に妙権寺の本堂、庫裡をも延焼し、他に民家二戸を焼き尽くした。当時、沓掛の大火と言われた痛ましき歴史を此処に残したのである。
其の後、明治中期に先代氏子中の努力により再建復興された社殿も、悠久百有余年の歳月と風雪に耐えて来たりしが、其の老朽化著しく、今や倒壊寸前の様相であった。斯かる姿を前にして敬神崇祖の念に燃え、沓掛氏子中此処に神殿建設の積立基金を成して来た。
 此れと共に当熊野神社保有せる基本財産等を併せ、総工費金阡参百有余万円を投じ、此処に社殿再建建設委員会を設立発足させた次第である。
 建設に当りては其の技術卓越した名工と言われる、深谷市吉田建設有限会社と、全ての建築契約を取り交わし、当年三月に着工した。
 工事進行と共に、氏子の皆様には神域の環境整備その他に御協力頂き、建設委員より厚く御礼申し上げます。其れと相俟って、当社宮崎神官に依る本殿遷座式の儀式も恭しく執り行なわれ、沓掛氏子中永年の夢であった熊野大神社社殿の落成竣工が此処に成りたる事を区民挙げてお慶び申し上げる次第です。此れからも氏子中の前途に穏やかな至福あらん事を願うと共に、郷土沓掛の永久の繁栄を祈念し、此処にこの碑を建立する次第である。
 平成十五年十月吉日  熊野大神社  氏子一同撰文
                                     記念碑文より引用

 ほとんどの社には石碑として碑文が残されている。碑文にはその地域の歴史や、風土・環境状況等が古来の文法で書き締めされている場合が多いが、石碑という限られた字数の中で端的且つ正確に書かれていて、内容も素晴らしい。この碑文は古典文法と現代文法が入り混じっているが、現在の我々にも分かりやすいように記載されている。筆者にはこのような文章作成能力は持ち合わせていないが、日々自己研鑽を積み重ね、このような文書を作成でき得る能力を持ち合わせたいものだ。
       
                               境内に聳え立つ御神木
        
                     拝 殿
 社殿は新しくコンパクトに纏まっている。思った以上に広い境内に比べればアンバランスな感覚にもなるが、正面から見た時、拝殿の屋根の奥に本殿の千木が姿を覗かせて,威厳があり洒落た雰囲気を醸し出している。
         
               拝殿手前で左側に鎮座する石祠群
 石祠のコンクリート製台座には、祀っている社名が彫られているが、解析不明な物も多く、じっと集中して確認したが、左から「南閣神社?」「稲○○○」「○○神社」「(不明)」「(不明)」「天○○○」「蚕影神社」しか解析できなかった。
 一番左側の「南閣神社」とは何神社なのか不明。その隣は「稲」しか判明できなかったが、恐らくこれは「稲荷神社」であろう。右奥にある「蚕影神社」以外の4基の石祠は詳細不明。
 
    社殿左奥に転座する権現在弁天の石祠      社殿右奥に鎮座する石祠3基。詳細不明。

拍手[1回]


榛沢新田二柱大神社

         
                     ・所在地 埼玉県深谷市榛沢新田975
               ・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 蚕影山神社祭 4月11日
 榛沢新田地区は岡部駅から西側に位置し、東西約1.4㎞、南北約1.5㎞のやや歪な四角形で形成されている。正確にいうと、東側・南側には若干の飛び地も存在するが、ここではあえて論じない。地区の西、南側はそれぞれ志戸川や藤治川が隣接地区との境をなしていて、東側は針ヶ谷排水路付近周辺が、北側は埼玉県道86号花園本庄線と高崎線の中間地点までの場所に、東西に延びる県道に沿って北にある沓掛地区と接している。地形的にみると、地区全体御稜威ケ原台地面で、標高は約50mから59m程、東側から西側に向かうほどなだらかに標高は低くなる。緑豊かな農村地区という印象だ。
 榛沢新田二柱大神社は地区の中央付近を東西に進む「コスモス街道」と、埼玉県道86号花園本庄線が交わる交差点を右折し、350m程北上した十字路を左折する。やや道幅が狭い道路で、民家もそれなりに存在するので、出会いがしらの事故等には注意しながら、道なりにやはり350m程真っ直ぐ直進すると、正面に榛沢新田二柱大神社の社叢が見えてくる。
 因みに東側に鎮座する後榛沢地区の後榛沢八幡大神とは1㎞程しか離れていない場所に榛沢新田二柱大神社は鎮座している。
           
                  榛沢新田二柱大神社正面
                       「二柱」と書いて「ふたはしら」と読む。
         
                鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
 二柱大神社由緒
 新編武蔵風土記稿に「聖天社・村の鎮守なり、慶長十年勧請す云々…」とある。今から(平成元年)三百六十八年前のことである。旧神社名は「聖天宮」と云った。明治元年の「神仏分離復飾の令」により社名を「二柱大神社」と改称す。
 祭神は「伊邪那岐命」男「伊邪那美命」女の二柱の神を祀る。
 この神は誘い合われる男女の祖神を意味する。この二柱の神は結合と協力及び和の大道を教えている。そして万物を生成化育する神である。よって昔古より五穀豊穣・家内安全の守護神として氏子の崇敬が篤かった。
 明治二十九年一月四日の火災により、本殿・拝殿・幣殿等の建物を全部焼失した。現在の拝殿は明治二十九年三月十七日再建す。本殿は明治四十年三月三十一日再建す。
 右拝殿及び幣殿の屋根朽敗甚だしく、氏子相謀り一致協力して浄財を募り、平成元年十月十七日営繕修復を成し、御神威、御神徳を宣揚して氏子の弥栄を祈念する。
 平成元年十月十七日   二柱大神社 社務所
                                      案内板より引用

         
                  参道正面に拝殿が見える。
      境内は広いが、きれいに整備されていて、静寂の中参拝も気持ちよく行えた。
     慶長11年(1606年)創建。現在は伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱を祀っている。
 
         
            拝殿・幣殿・本殿の権現様式で、朱塗りの本殿は美しい。
                       また本殿を囲む朱塗りの塀も奇麗である。

「新編武蔵風土記稿」榛沢新田村の項には
「聖天社 村の鎮守なり、 慶長十一年の勧請にして本地十一面観音を安す 永楽寺の持、神明社 熊野社 稲荷社 村民の持」と記述されている。
 明治七年、聖天社を二柱大神社と社名変更し、また明治四十年に村内の神社を合祀したという。
                 
                   境内社 大神宮
          拝殿左側奥にひっそりと鎮座している。境内社にしてはなかなか重厚な造り。
 
 拝殿の右側後ろにある境内社、合祀社。合祀社(写真左)には名札が付いていて、左から八王子神社、熊野神社、稲荷神社、明見山・琴平神社、天満宮が祀られている。また合祀社の右側には、天手長男神社、蚕影山神社が祀られている。

 「埼玉の神社」では、年間の祭典で、蚕影山神社祭(411日)がある。蚕影山神社は養蚕の神として信仰が厚く、その蚕影山神社祭では、近隣の村からも多くの人が参詣に訪れ、祭典に供えられた繭玉を撤下品としていただいて帰るのが例であったという。
          

拍手[1回]