古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

御堂八幡山神社

 東秩父村の「御堂」地域は村中部に位置する。「御堂」と書いて「みどう」と読む。南西で皆谷と、北西で坂本と、北東で奥沢と、東で安戸と、南で比企郡小川町腰越と隣接する。小字として御堂・槻川西谷・幽地ヶ沢・向堀・川下・川上・萩平・城山が挙げられる。大部分が山林であり、槻川沿いに水田が点在する山村である。北端を東流する槻川沿いと中央部を北流する槻川支流萩平川上流の山地斜面に民家が散在する。東秩父村の行政上の中心地であり、村役場をはじめ各種行政機関等が集中する。
「御堂」という地名由来として、鎌倉時代末期の正和年間に大河原神治太郎光興が大檀越となって日蓮の御影を安置する法華堂を創建したことにより御堂とした説と、かつて大内沢に遠流となった皇子が埋葬された御堂(おどう)があったことから御堂とした説とがある。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡東秩父村御堂1533
             
・ご祭神 誉田別命 金山彦命 火産霊命 大山祇命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 元旦祭(元旦)祈年祭(3月下旬の日曜日)
                  
例大祭(10月中旬の日曜日)新嘗祭(11月下旬の日曜日)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0522908,139.2073786,17z?hl=ja&entry=ttu
 安戸天神社から一旦埼玉県道11号熊谷小川秩父線に合流し、暫く西方向に進路を取ると、1㎞も至らずに右側に御堂八幡山神社の社号標柱が見えてくる。
             
              県道沿いに設置されている社号標柱
 社号標柱から北側に伸びる参道を進むと、小高い丘が見え、その上に立派な社叢に囲まれて社は鎮座している。
        
                               
御堂八幡山神社 遠景
 
   石段の脇左側にある手書きの御由緒書        麓に設置されている一の鳥居
八幡山神社略記
・鎮座地 秩父郡東秩父村大字御堂槻川東谷一五三三番地
・由緒
神社創建については詳らかならず。寬政三年九月吉日棟礼を存す。新編武藏風土記稿に神職島田豊後は吉田家の配下とある。吉田家については、室町時代後期以降江戸時代後期頃まで吉田兼倶(一四三五~一五一一)により創唱され、吉田神道の宗家京都吉田神社の祠官を云う。当社との係りからして其の歴史の古さが窺われる。(*句読点は筆者加筆)
御祭神
誉田別命(十五代応神天皇 八幡さま)
金山彦命(金山さま)
火産霊命(愛宕さま)
大山祇神(山の神さま)
ここにこの御神徳を景仰すると共にその開運延寿にあやかり国の隆昌と世界の共存共栄又崇敬者各位の健勝と一家の繁栄無病息災を御祈念申し上げます(中略)
・史料

明治九年十一月吉日 御堂村の総社として大祭を執行 嶋田大内蔵奉仕
明治七年村社願済
昭和三年十一月二十八日御堂字山神山神社を合祀 社号を八幡山神社と改称(旧八幡神社)
昭和四年四月本殿拜殿増改築幣殿新築
昭和二十九年二月本殿改築社務所新築
平成九年本殿移築幣殿改築拜殿増築萩平遥拜所と共に屋根を銅板葺とした
以下略

                                      案内板より引用
        
                     神明系の一の鳥居から本格的に石段を登り始める。
        
                  石段は一旦踊り場になり、そこから参道が右側にずれる。
             そして二の鳥居からまた石段を登り始める。 
 新編武蔵風土記稿 御堂村
 八幡社
 南向、神體衣冠せる木立像長六寸、又金山
尊木立像長五寸五分、愛宕の木立像六寸なるを安ず、村の鎭守にて例祭は九月十五日、神職嶋田豐後吉田家の配下なり、除地七畝十五步
 
 勾配のある石段を登り終えた先に拝殿が見える。 石段上る途中、右側にひっそりと佇む石祠。
                               詳細は不明。
        
                     拝 殿
       
                        境内に設置されている案内板
 八幡山神社 御由緒  東秩父村御堂一五三三
 ◇今も行われる例大祭宵宮のお籠り
 鎮座地御堂(みどう)は槻川(つきがわ)沿いに開ける山村である。この地は古くは大河原と称したが、鎌倉末期の正和年間(一三一二~一三一七)に大河原神治太郎光興が日蓮上人の御影(ぎょえい)を安置する法華堂を創建したことにより地名を御堂としたとも、遠流(おんる)となった皇子を当地に奉葬した御堂があったことにより御堂としたとも云われ、早くから開けた土地である。 口碑によると、当社は氏子の島田一家(いっけ)の屋敷神であったが、後に村持ちになったと伝えられ、『新編武蔵風土記稿』には、当社について南向き社殿、神体は衣冠の立像・金山彦尊立像・愛宕立像の三体、例祭は九月十五日、吉田家の配下嶋田豊後が奉仕するところとある。
 現社殿の造営については、現存する棟札から寛政三年(一七九一)九月に氏子中で再営したものであることが知られる。更に明治元年(一八六八には改築が成された。この時の棟札も現存し、「當村総社八幡大神宮」と書かれている。尚、この時の神職は、嶋田大内蔵であった。 明治七年(一八七四)に村社となり、昭和三年(一九二八)十一月には字山上の山神神社を合祀し、社名を八幡神社から八幡山神社と改めた。
 ◇御祭神

 ・誉田別命 ・金山彦命 ・火産霊命 ・大山祇命
 ◇御祭日
 ・元旦祭(元旦)
 ・祈年祭(3月下旬の日曜日)
 ・例大祭(10月中旬の日曜日)
 ・新嘗祭(
11月下旬の日曜日)
                                      案内板より引用

 御堂八幡山神社が鎮座する旧御堂村は、嘗て「玉川領大河原郷」に属していた。この大河原郷は秩父郡大河原郷(東秩父村)より男衾郡大河原郷勝呂村(小川町)、及び比企郡大河原荘関堀村・田中村・桃木村・平村の四ヶ村(都幾川村)に亘る広範な地域であったようだ。
・新編武蔵風土記稿 秩父郡条
「椚平村、大野村、安戸村、御堂村は大河原郷に属す、古は大河原村と唱へり」
比企郡条
「大河原郷は雲瓦村の一村に此唱あり、其余数村は皆秩父郡にかかれり、又庄名にも此唱あり」
 
     拝殿上部に掲げてある扁額              本 殿
        
                                 境内にある「延命長寿石」
 延命長寿石のその横には「この石を良く撫でさすり、自分の体を更によくさすり、八幡様に健康と長寿をお祈りしましょう。」と書いてある木製の碑がある。
        
 社務所から正面の山道を登らず、社務所から右側にある石段がない坂を利用して社に向かう脇道もあった。そこにも坂の途中には鳥居が出迎えてくれた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

 

 
        
       

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