古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

折之口八幡神社

 埼玉県の地形を概観すると、西に総面積の3/1を占める山岳地帯、そして東に残りの3/2を占める平野部(台地と低地)に大別することができる。山地周縁の山麓部にあたる県西部地域には、北から児玉、松久、比企、岩殿、高麗、加治、狭山等の各丘陵、そして本庄、櫛引、江南、東松山、入間、武蔵野等の各台地が分布している。
 埼玉県の北部に位置する深谷市は、地形的に南半分は櫛引台地、北半分は妻沼低地でほぼ2分される。櫛引台地は荒川によって形成された荒川扇状地が侵食されてできた洪積台地で、寄居付近を頂点として、西側の櫛引面と東側の一段低い寄居面、両地域に挟まれるように御稜威(みいず)ケ原面に分類される。標高は50mから100mで南西から北東に向かってなだらかに傾斜していて、この間を唐沢川や、藤治川が北流する。また台地上には、観音山(標高77m)、仙元山(同98m)、山崎山(同117m)等の独立丘陵(残丘)が存在する。
 櫛引台地は今の深谷市・寄居町にまたがる広大な範囲であり、『櫛引』という地名は江戸時代以前、人見村は櫛引郷を唱えていたことから、それ以前からあった地名であろう。 
        
              ・所在地 埼玉県深谷市折之口123
              ・ご祭神 品陀和氣命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 4月15日 例祭 10月15日 新嘗祭 11月28日
 折之口八幡神社は櫛引台地面に鎮座している。進路の途中までは前項「境玉津島神社」と同じだが、そのまま道なりに800m程進むと、左側には折之口ふれあい公園があり、その公園の東側で隣接するように折之口八幡神社の正面鳥居がある。
 因みに北武蔵広域農道の北側には埼玉県道75号熊谷児玉線もほぼ並行して通っており、そこからのアプローチのほうが、短距離で社には到着するのだが、75号線からでは、昔の道が多いようで、道が入込み、筆者の説明能力には難しい為、南側北武蔵広域農道からの説明をさせて頂いた。
        
                                 折之口八幡神社 正面
 残念なことに、折之口八幡神社には由来を記した案内板や、書物、ホームページ等には詳しく書かれているものがない為、創建時期、由来等全く分からなかった。これだけの規模でありながら勿体ないことだ。
        
                 正面に伸びる参道と、その右側にある舗装されていない路面。
             参拝日も多数の車両が駐停車していた。
 
 参道の先にある石段と、高台上にある鳥居。  鳥居の社号額には何故か「稲荷大明神」と表記

 折之口八幡神社は櫛引台地の一段高い段丘上に鎮座している。
 櫛引台地は櫛引ヶ原台地とも書くが、荒川によって形成された広範囲の台地であり、南側は荒川で境され、花園地区で少なくとも2段の河岸段丘が見られる。台地面上には深谷市折ノロや人見で南西-北東方向の小谷が2本平行し、それに直交する櫛挽排水路がある他は目立った水系はなく、のっぺりしたローム層台地となる。
 
江戸時代に入るまで、櫛挽ヶ原は付近12ヶ村共同の「入会地」(いりあいち)として広大な秣場(まぐさば)だったが、雨期から秋にかけて野水が滞水する地域でもあった。秣場は、肥料や飼料にするための重要な草刈り場であり、大事に管理されてきた。時の経過と生活の変化により秣場を開発し耕地を増やそうとする開発派と、開発を阻止しようとする保守派との衝突が連続し何回となく繰り返されたという。
 
石段上の鳥居を過ぎると比較的広い境内が広がる      参道左手にある手水舎
 
  社殿手前で左側にある合祀社。詳細不明。   社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。   
        
                                         拝 殿
 徳川幕府は新田開発を積極的に推進したが、本田畑の障害にならない範囲内で行う本田畑(古田畑)中心主義だった。八代将軍徳川吉宗は、幕府の財政難克服のため新田開発を政策の柱として大幅な転換を図り、享保11年(1726)には、幕府の力によって櫛挽ヶ原の入会秣場も解体され、新田開発への道を歩むことになった。しかしながら流下能力が十分な河川や排水路が無い事から、毎年のように雨期に停滞する野水による湛水被害が多発し、また往時の秣場的林地に戻ってしまったと考えられている。
 
                                   本殿(写真左・右)                         
    建物全体は拝殿と本殿を幣殿でつなぐ、所謂「権現造り」の形態を持つ社殿となっている。
        
                  社殿の隣には境内社を保管している社あり。名称分からず。
 
   合祀されている四社。付随品等で春日神社、稲荷神社、八柱神社、稲荷神社と推測。            
       これだけ立派な社殿が鎮座されているにも拘らず詳細不明なのは残念。 
        
                           境内の東隅に並列されている庚申塔等 
 ところで拝殿右脇に掲げてある「社殿改修碑」と思われる板碑には多くの氏子、地域の方々の寄附が実名で記載されているが、「大澤(大沢)」と「向井」、それに続くのが「大谷(おおたに・おおや)・大屋(おおや)」、それらの苗字が特に多いのに気づく。
        

大澤(大沢)…深谷城主上杉氏憲の末子憲詮は大沢内匠照重の養子と成り、是より大沢と改める。其の子忠貢であり、代々内匠を襲名したという。
大沢家墓碑
「慶長二年、榛沢郡折野口住人、俗名大沢内匠盛真」「元和三年、折野口村、大沢内匠憲詮
「中祖大沢盛真十三代胤・六左衛門改名大沢岩太郎藤原栄真、明治三年」
新編武蔵風土記稿折之口村条
「観音寺の境内に法華経千部供養塔あり、武州榛沢郡折口住人大沢兵庫盛重、元和十年三月二十一日と記す」
・観音寺略縁起(慶応三年記)
「上杉憲盛卒して後、上杉の景絶ゆ、氏政関東を押領し、之に依り家臣皆分離す。中に五十有余士有り、其の内、清水・大沢・向井・塚田・其外朋友の士、当村観音の精舎に集合し、面々の行く末を考ふ」
嘉永五年笠原文書…折之口村名主大沢徳次郎

○向井…向井の地名は各地に見られる。「井戸」や「泉」に由来するものではなく、「向かい」の当て字がほとんどという。
・折ノ口村慈眼山観音寺(廃寺)略縁起
「上杉憲盛卒して後、上杉の景絶ゆ。北条氏政関東を押領し、之に依り家臣皆分離す。中に五十有余士有り、其の内、清水、大沢、向井、塚田、其外朋友の士、当村観音の精舎に集合し、面々の行く末を考ふ」
・三ヶ尻村幸安寺慶応二年権田門人碑…「折ノ口向井孫太郎」
・用土村明治十三年仙元碑…「折之口村向井元次郎・向井勘次郎・向井荘助」

○大谷(おおたに・おおや)低地より高い段丘や台地面に入り江状谷があることから「大谷」と名付けられたという。一般に「~谷」という名字は、西では「~たに」、東では「~や」と読む傾向が強い。
上野台村光厳寺天保十一年供養塔に上折ノ口村大谷善三郎。神道無念流宮戸村金井宇一郎文久三年起請文に折之口村大谷清三郎秀幸。人見村明治二十八年清水定義筆子碑に折之口・大谷清十郎・大谷忠平

大屋…低地より高い段丘や台地上の土地につける地名
榛沢郡大谷村(深谷市)は天正七年白石村上田文書に半沢郡大屋村と見える。隣村の人見村・境村・折之口村等に大屋氏多く存在する。
長寿院寛政八年八幡守護…大屋吉左衛門。神道無念流宮戸村金井宇一郎起請文…慶応二年・折之口村大屋島太郎・大屋長十郎


拍手[1回]


境玉津島神社

 衣通姫は、記紀にて伝承される女性で、『日本書紀』では衣通郎姫(そとおしのいらつめ)、『古事記』では衣通郎女・衣通王(そとおりのみこ)と表記される。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。木花咲耶姫命、光明皇后、小野小町と並び、古代における有数の美女と名高い女性の1人と言われ、和歌に優れていたとされていて、和歌三神の一柱としても数えられる。
 『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名で登場し、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中するという衣通姫伝説が残されている。物語は歌謡を含み、逆らいえない愛を生きた運命の人として美しく姫を語っている。 
        
              ・所在地 埼玉県深谷市境81-2
              ・ご祭神 衣通姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 4月29日 例祭 10月19日 新嘗祭 11月23日      
 境玉津島神社は深谷市境地区に鎮座する。埼玉県道69号深谷嵐山線を南下して旧川本町方向に進み、『折之口』交差点を右折する。北武蔵広域農道に入り、800m程進むと、進行方向左側前方向に動物病院、コンビニエンスが道を隔てて向かい側にある信号のある交差点にぶつかるので、そこは右折。北上するように約500m道なりに直進し、最初の信号のある十字路を右折し、100m程進むと、左側に境玉津島神社の社号標柱及び、その境内が見えてくる。後で地図を確認すると、鎮座している場所は深谷市立藤沢中学校の南、東に進むと深谷花園温泉花湯の森の施設入口前が道沿いにある。
 正直深谷地区は自分のテリトリーと思っていたが、「境」という地区もこの社参拝によって知ったし、自宅からあまり遠くない場所(それでも車で15分程かかるが)にこのような広い境内のある社が鎮座しているとは、思いもしなかった。やはり世間は広いものだ。
 駐車場は境内参道脇に比較的広いスペースが確保されている。
        
                                境玉津島神社正面
               夕方からの参拝ゆえにやや画像が暗い。
        
                            入り口付近に設置されている案内板
玉津島神社
社名「玉津島」は、県域では珍しくその本社たるべき社は和歌山県和歌山市和歌浦町に鎮座する。衣通姫命が祀られている。
創建は明らかにできないが、別当を努めた真言宗不動山明王院大聖寺を開山した実裕が寛永九年(一六三二)に入寂していることから、既にこのころには当社も祀られていたと思われる。
当社は境の鎮守としてはもちろん、安産の神として古くから信仰されていて、祈願成就の証として柄杓を奉納する風習がある。
境内にある境内神社は
天手長男神社 道祖神社 八坂神社 御嶽神社
平成十二年十月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用
 
  道路からもやや離れたところにある鳥居   鳥居前で一礼、長い参道の先に社殿が見える。
 衣通姫を祀る神社では、古くから朝廷の崇敬を受けた和歌山県和歌の浦に鎮座する玉津島神社が有名である。古来玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神、北野天満宮(近世以降は北野社に代わって柿本人麿)と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになる。玉津島神社由緒略記によれば、当初、稚日女尊のみを祀っていたが、その後稚日女尊を崇拝する神功皇后を併せ祀り、光孝天皇のご病気を平癒させた衣通姫を御勅命により合祀したとの記載がある。
 仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。玉津島は古くは「玉出島」とも称された。神亀元年(724年)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発したのが、玉津嶋の初見であるという。『和漢三才図会』では、弱浦(わかのうら)という名を改めて、明光(あか)の浦とした時、衣通姫尊が示現して歌を詠んだ。
 立ち帰り又も此の世に跡たれん名も面白きわかの浦浪
『和歌山県神社誌』では、第五十八代光孝天皇の夢に出現し上記の歌を詠んだとある。以来、衣通姫尊が玉津島神社の主祭神の位置になり、住吉、人丸と並んで、和歌三神と呼ばれるようになったという。
        
                                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿』によると、「境村」は「坂井」とも書いていた。
 村の鎮守である玉津島神社は安産の神として古くから信仰されていて、当社が女神(衣通姫命)を祭神とすることから起こったものであるようだ。底を抜いた柄杓を奉納して祈願すれば、無事出産できるといわれており、家庭で出産していたころは、近隣の村からの参詣者が相次ぎ、多いときには1ヶ月に150
本もの柄杓があがったという。
 
    
社殿左側に鎮座する道祖神社。       道祖社の右隣には蚕影神社が鎮座。
   金物の草鞋が額代わりについている。
 
         境内社 天手長男神社            社殿手前左側には天王宮が鎮座。
        
                     御嶽塚
 塚の頂には御嶽山国常立実尊・八海山國狭槌尊・三笠山豊斟尊と摩利支尊天碑が建てられていて、その他にも多くの石碑が並ぶ。

 ところで『新編武蔵風土記稿』によると境村の小字には不思議と「鍛冶屋」が存在する。南側には「上原」地区と接し、上原地区の東側には「長在家」地区があり、この長在家、上原両地区にはどちらも小字『下原』がある。この下原という地名は、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、嘗て室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に一時居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。
        
                                   静かな境内
 境地区は、まさに長在家、上原地区に均衡する地域であり、小字「鍛冶屋」の存在こそが、「下原鍛冶」の根拠地とはいかないまでも、鍛冶に携わった一族の居住地域だった可能性が高いと筆者は愚考する。
 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「精選版 日本国語大辞典」「Wikipedia」「和歌山県神社誌」
    
「境内案内板」等
       

拍手[2回]


本田坂上神社

        
             
・所在地 埼玉県深谷市本田4898-1
            
・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命 宇迦御魂命 菅原道真公 
                                
軻遇突智命 天照大御命
            ・社 格 旧村社
            
・例 祭 例祭415日 秋例祭1014日
 本田坂上神社は深谷市本田南地区に鎮座する。埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点をすのまま道なりに南下し、900m程進むと「歩車分離信号」との標識のある信号のある十字路に到達し、そこを左折する。暫くするとY字路(実際は変則的な十字路)となり、右斜め前方向の細い道を300m程進むと、本田坂上神社が鎮座する場所が左側に見える
        
                 本田坂上神社 正面 
 本田坂上神社は、畠山重忠に仕えた本田次郎近常が、祖先俵藤太の信仰していた赤城神社を祀ったと伝えられている。創建当時は現在地より西側にあった「本田館」内に祀ってあったという。江戸期には赤城社と称し、本田村上本田地区の鎮守として祀られていた。
 因みに「坂上」は「かかがみ」ではなく、「さかうえ」と読む。
 
           南向きの鳥居正面を撮影         参道の先には社殿が鎮座する。
 本田坂上神社から西側に500m程西側、埼玉県道69号線から西に行った「上本田公会堂」の西に約100m進むと、道路に面して『本田館跡』の説明板が建てられている。この本田館跡は荒川右岸の江南台地の南緩斜面に築かれた居館跡。土塁、空堀残存している。
 この本田館跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。
        
                      「本田館跡」南側の道路沿いに設置された案内板
 埼玉県選定重要遺跡(昭和四十四・十二・二十四指定)
 本田館は鎌倉時代から室町時代にかけて築かれたと思われる。
 本田氏は畠山重忠の重臣本田次郎親恒(近常)の後裔と伝えられ、戦国時代本田長繁の代に深谷上杉氏憲に属した。その頃この館を拡大したと思われる。
                            『川本町教育委員会説明板』より引用
        
                     拝 殿
       
              拝殿手前で左側にある「新築記念碑」(写真左)と同碑裏面(同右)
新築記念碑
当社は明治四十四年上本田赤城神社黒の谷稲荷神社後鷹の巣愛宕神社の財産等合併して坂上神社と改稱して現在に及ぶ 社殿は旧赤城神社を使用せしも甚しく老朽せる建物となりたるため神社基金並に愛宕神社持寄りの山林を売却して財源となし氏子中相計り本年二月總工費四五○萬円にて着工し同年十月竣工せり
昭和四十六年十月十五日建之
                                        碑文を引用

        
                  拝殿からの佇まい
 男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある
 本田次郎近常(親恒)(?~1205)
 平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武蔵武士。幼名は鬼石丸。
 現在の深谷市川本地区にある「本田」を名字の地とし、畠山重忠の側近として活躍した。「平家物語」「源平盛衰記」などの合戦記には、そのほとんどが畠山重忠の乳母子(めのとご)・榛沢六郎成清の名と併記されており、近常と成清が重忠に信頼された側近であったことがわかる。
 平家との戦いでは、一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っている。
 畠山重忠が北条氏の謀略によって二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)で討死した際も近常はともに戦い、重忠の死を知って自害した。
                                深谷市ホームページより参照

 本田氏の祖は平姓の高望王の子・平良文(村岡五郎)の子孫である。良文の孫・兄の平将恒(常)系が秩父、畠山氏となり、弟の平忠恒(常)系が千葉、本田、村上系となる。本田親恒の五代前の祖・恒親(常親・常近)は安房国押領使をつとめ、安房国長狭郡穂田郷を本拠地とし穂田氏と称し、恒親の孫・親幹は武蔵国本田郷へ住み開墾し、「本田姓」となった。下総国の領主である千葉常胤と本田近常(親恒)は元をたどると同族でもあり、石橋山の戦いでは、一旦は平家方に味方した畠山氏を、源氏方に鞍替えさせたのも、本田近常が畠山家の家老№1の立場であった事、重忠の目付け役でもあり、頼朝が石橋山の敗戦後、房総を経て、勢力を巻き返せた立役者のひとりである千葉常胤とは深い関係であり、常胤を介して、頼朝方参陣に至ったのだろう。勿論北条家と婚姻関係であったことも見過ごせない 。

 本田氏と千葉氏との関係は上記に説明した通りだが、実は畠山氏とも千葉氏は深い関係でもあり、畠山重忠の父・重能の女姉妹(祖父・秩父重弘の娘)が千葉常胤の妻である。常胤の妻は畠山重忠の叔母である。千葉常胤の子・胤正は畠山重忠の従兄弟にあたる。
 
              社の南側を流れる吉野川(写真左・右)

 本田坂上神社の南側には荒川支流である吉野川が流れている。現在の吉野川の流域は江南台地内にあり、赤浜地区付近が源となり、鹿島古墳群西側で荒川と合流する狭い河川であるが、かつての吉野川は和田吉野川と密接な関係があったようだ。地元では逆川とも呼ばれている。

拍手[1回]


本田八幡神社

 多治比氏(たじひうじ)は、「多治比」を氏の名とする氏族。 28代宣化天皇(536?~539?)の三世孫多治比古王を祖として臣籍降下した氏族である。多治比縣守は宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる左大臣・多治比嶋の第3子にあたり、奈良時代の貴族である。
 多治比縣守は宣化天皇を出自にもち、父・嶋は左大臣を務めるなど、当時の名門家であり、順調に昇進し、元正朝に入り、霊亀2年(7168月に遣唐押使に任命され、養老2年(71810月に使節団は一人の犠牲者も出さずに無事帰国した。
 養老4年(7209月に陸奥国按察使・上毛野広人が殺害され、史上初の大規模な蝦夷による反乱が発生する。その時には遣唐使使節団を率いた統率力と、東国の地方官(武蔵国守)を務めた経験を買われ、持節征夷将軍に任じられ、当地に赴き、反乱鎮圧は一定の成果を上げたといわれている。
 深谷市本田地区に鎮座する本田八幡神社は多治比縣守が東北地方を鎮撫した際、当地に筥崎宮を勧請して創建したと伝えられている。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市本田138
              ・ご祭神 誉田別尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭415日 十五夜祭旧814日 秋日待1015   
 本田八幡神社は深谷市本田地区に鎮座する。荒川を越えて埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点の北側に社は鎮座している。本田第五自治会館の駐車場に車を停めてから参拝を行った。
        
                 本田八幡神社 正面撮影    
 社伝によると、同社は養老6年(722)の創立で、多治比縣守が渡唐の際に祈願した、福岡市箱崎の筥崎神宮を勧請したもので、『誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ。後畠山に分社せるを箱崎八幡宮と云ひ、當社を誉田八幡宮と稱へ奉れり。明治初年に八幡神社と改む』と【大里郡神社誌】にはある。
 
          正面鳥居               南北に長い参道が続く。
 武蔵七党の一つである「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。多治比広成が天平4年(732年)兄の縣守(第9次押使)に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられて、唐において氏として「多治比」に代えて「丹」墀を用いたのが「丹党」の名称由来とも言われている。
       
      参道の途中には2か所基礎部分がしっかりとした篭が設置されている。
    荒川右岸に鎮座している位置関係から土台をしっかりとしているのだろうか。
      
         2対の灯篭の先には、参道の左右に石碑が立てられている。
左側の石碑は不明。奥に見えるのは「庚申供〇〇」。右側の石碑には〇才尊天と彫られているようだ。
        
                    長い参道の先に明るい空間、そして社殿が見えてくる。

 冒頭で紹介した「多治比氏」は奈良時代から平安時代初頭にかけて武蔵守等の官職に就任された人物が多い。古代氏族系譜集成に「宣化天皇―上殖葉皇子(恵波皇子)―十市王―多治比古王―丹比公島(天武十三年賜多治比真人姓)―守―国人―浜成(兄は武蔵守宇美)―丹墀真人縄主―多治真人今継(武蔵介)。県守の弟広成―家継(造東大寺次官)―丹墀真人貞成(木工頭)―多治真人貞峰(右中弁、貞観十六年卒)」と系図が見られるが、その中で武蔵守、武蔵権守、武蔵権介、武蔵介に就任した人物は以下の通りだ。(上記に記されていない人物で、多治比氏である人物も併せて載せる)
養老三年(719) 武蔵守多治比真人
天平十年(738) 武蔵守多治比真人広足
宝亀二年(771) 武蔵員外介多治比真人乙兄
延暦五年(786) 武蔵守多治比真人宇美
承和十二年(845)武蔵権守丹墀真人門成
嘉祥三年(850) 武蔵守丹墀真人石雄
貞観三年(861) 武蔵権介丹墀真人今継
治安三年(1023) 武蔵介多治石良
 
「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。その真偽はともかく、これだけの多治比氏が武蔵国に来ていて、その関わりの中で名門家と地方豪族との「血の交わり」もあったのだろうか。       

        
                                   拝 殿
 時代は下り、平安後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国は武蔵七党の勢力地図に包まれ、上野国、下野国、相模国にまで広がりを見せる中、この本田、畠山地域周辺は桓武平氏の流れを汲む、秩父氏の一族である畠山氏が平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えることにより、地盤を固め、その勢力を嵐山町・菅谷方面周辺域まで拡大することができた。
 畠山重忠の側近には榛沢六郎成清と本田次郎近常(親恒)がいた。本田地区は平安末期から鎌倉期にかけて隣村である畠山に館を構えた畠山氏に仕えた本田次郎近常が居住した地といわれており、口碑に「文治年中に畠山重忠と本田次郎近常が協力して社殿を造営した」との伝えが残されている。この本田近常は、元久二年(一二〇五)に武州二俣川において、北条氏によって主人重忠と共に戦死を遂げたことが『吾妻鏡』に見える。
             
                境内にある「八幡神社改修之碑」
 内碑  八幡神社改修之碑
 敬神尊皇は建國以来の諄風國体の基であり崇祖愛郷は報恩感謝に発する親和協力繁栄への道である当八幡神社の御創立は養老六年と伝へられ由縁に拠れば元正天皇霊亀二年多治比縣守遣唐使を命ぜられし折筥崎八幡宮に祈請して霊験をうけ帰朝の後更に養老四年持節征夷将軍として東國の鎮撫にも神護めてたかりしにより此處に筥崎宮を勧請して報賽の礼を行へるに因るといふ誉田別命を祀れるより誉田八幡と崇めこの地を誉田郷本田郷といふと爾来村人の尊崇篤く信仰近郷に及ふここ本田は明治二十二年本田村連合戸長役場区域の畠山村と合併し本畠村となり開化の進むに從ひ武川村と合体して昭和三十年川本村大字本田となった近時世情の進転は著しく村勢弥々盛なれば圃場の整備を行ひ道路を舗装して縦横に貫通させ将来への備へを完了した氏子総代人等は豫てから鎮守の護持に心を碎いてゐたが整備による社地の提供により多額の代償を得ることゝなったのでこれぞ神慮によることと畏みこれを機会に神社の改修を計画し氏子一同の参画多数有志の浄財をも加へて社殿社務所を改築し末社参道鳥居の修復更に境内の整備を行ひ此の度総てを竣成した依って碑を建て時の流れと経緯を記し関係者一同の芳名を刻んで永く記念とするものである
昭和四十九年一月吉日
埼玉県神社庁長武蔵一宮氷川神社宮司東角井光臣題撰並書
 

    社殿左側に鎮座する石祠群。詳細不明。     石祠群の右側には合祀社が鎮座する。
                      左から熊野神社・浅間神社・東照宮・天照宮、
                      八坂神社・天神神社・雷電神社・稲荷神社・
                            山之神社・榛名神社
        
                       社殿左側奥にひっそりと鎮座する白鳥神社

 本田氏は、畠山重忠と同じ良文流の桓武平氏で千葉氏の流れを汲む。平忠常の乱(10281031)で追討使源頼信・頼義父子に敗れ、忠常は都に護送される途中に病死した。頼信・頼義父子は忠常の武勇に敬意を示し、忠常の一族を寛大に扱い保護した。そのため、忠常の子・常将・恒親は房総半島で生き延びた。その後、千葉恒親は安房国稲田村、本田親幹は信濃国本田に居住した。
本田村の本田瑛勇家系
○村岡良文―忠頼―忠恒―恒親(安房国長狭郡穂田郷住、穂田氏)―恒益―親幹(武蔵国男衾郡本田郷住、本田氏の祖)―恒文―親雅―太郎親正(宇治川合戦討死)―道親(入道道観、武蔵本田氏祖 *太郎親正の弟二郎親恒(近常)
                                                拝殿からの参道方向を撮影
 この
本田次郎近常は、文治二年(1186)九州島津御荘の総地頭職に任命された惟宗忠久(後の島津家元祖・島津忠久)の職務代行者として薩摩入りする。惟宗忠久は源頼朝と丹後の局の間に治承三年(1179)に生まれた。丹後の局は比企禅尼の娘・比企能員の妹である。忠久は京都に滞在したままで、地頭職の実務は代官の本田近常が薩摩(鹿児島)で執行した。現在もこの地区に本田姓が多く見られる。
 本田氏・畠山氏・島津氏の3家は血脈関係で結ばれていて、本田親恒の娘が畠山重忠の夫人となり。更にその娘が島津忠久の夫人となる。畠山重忠と本田親恒・貞親父子は、島津忠久を介して、機重にも縁が重なり合った、きわめて緊密な血縁共同体を構成していた。
        
                   埼玉県道69号深谷嵐山線沿いに鎮座する本田八幡神社

 ところで日本書紀(720)・応神天皇即位前紀に「上古の時の俗、鞆を号ひて褒武多(ホムタ)と謂ふ」と見える。「鞆」は弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物の事で、別名「ホムダ」ともいう。
 【大里郡神社誌】の一文では「誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ」と記述され、「誉田」は「本田」と地名変更されたとの事だが、そうすると、「誉田」=「本田」=「鞆・褒武多(ホムダ)」ともなる。
 つまり、弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物を作る雑工部を「鞆・褒武多」と称し、彼等の居住地に「褒武多」、後代になり佳字の「本田」を用いたのではないだろうか。本田の意味が「新田」に対する「古田」であれば、他の場所に「本田」地名が多くあってもよさそうであるのだが、武蔵国では武蔵国男衾郡本田村(旧川本町)だけで、何処にも無いのも不思議なことだ。
 
 男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある。
 本田八幡神社南方近郊に本田館跡がある。この館跡の周辺には、松本鍛冶・蛭川鍛冶・岩崎鍛冶・大沢鍛冶・真下鍛冶等の鍛冶集団が居住している。また本田地域のすぐ西隣には畠山重忠ゆかりの畠山地区もあり、やはり畠山氏と鍛冶集団には切っても切れない深い関係性がそこには存在し、その中核を担う場所こそ、この「本田」地域であったと思われる。

 本田次郎近常は畠山重忠の配下に属していて、武将としても一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っているように剛の武将でもあるが、同時に重忠と別行動し、薩摩の地頭職代行のような業務もそつなくこなす能力も兼ね備えた優れた経営者でもあったのだろう。
 この本田地区周辺に多数存在する鍛冶集団の調整役も含めた総纏め的な存在だったからこそ、このような大事を勤め上げられたのだと筆者は勝手に推測しているのだが、如何だろうか。


拍手[2回]


本堀田諏訪神社

 本庄市北堀田地域は、元は武蔵国榛沢郡滝瀬郷とあり、戦国時代までは武蔵七党丹党の滝瀬氏の本貫地だったそうだ。滝瀬氏は丹党安保氏の支族。安保氏は、鎌倉時代以後早くに党と言った血族集団(同族意識を持った武士団)から独立した氏族であった為、党(本宗家を中心とした組織)の弱体化や滅亡を共にする事はなく、結果として、丹党の氏族の中でも最も栄えた一族となった。
 本貫地である安保郷を中心に始まり、中世を通して所領は拡大していった。武蔵国内での所領は、児玉郡の塩谷郷・長茎郷・宮内郷・太田村(郷)・蛭川郷・阿久原郷・円岡郷、秩父郡の三沢村(郷)・長田郷・大河原郷・大路沢村(郷)・岩田郷・白鳥郷・井戸郷、榛沢郡の滝瀬郷・騎西部・大井郷・成田郷の箱田村、平戸村である。

                
              ・所在地 埼玉県本庄市堀田297
              ・ご祭神 健御名方命
              ・社 格 旧無各社
              ・例 祭 春季社日祭 3月社日 祈年祭 43
                   
夏越大祓 730日 例大祭 1017日 他 
 本堀田諏訪神社は前項紹介した前堀田諏訪神社の北方600m程の距離にあり、旧中山道を北西方向に進む。小山川と備前渠に挟まれた長閑な田園地帯を300m程進むと右側に農業用資材の会社があり、その先のT字路を右折、農道の突き当たりをまた右折し、すぐ左折しなければいけないが、そこからは真っ直ぐ埼玉県道45号本庄妻沼線に交差するところまで進むと、その交差点斜め右側に社は鎮座している。
        
               交通量の多い県道沿いに社は鎮座する。
 社は県道沿いに鎮座し、手押しボタンの信号ではあるが「堀田」交差点沿いに鎮座する。周囲は長閑な田園が広がっているが、県道にはかなり交通量があり、ましてや交差点でもある為、駐車スペースを探したが、適当な場所はなく、社務所等もない。僅かに社の北側に舗装はされていない路面があったので、そこの一角に停めて、急ぎ参拝を行った。
 
      鳥居上部にある社号額           鳥居の左側にある案内板
 諏訪神社 御由緒   本庄市堀田二九七
 □御縁起(歴史)
 当地は、利根川右岸の沖積地の自然堤防上に位置し、村の南端を小山川が流れる。当地は昭和二十六年に大字堀田となるまでは、大字滝瀬の一部であった。この滝瀬は、武蔵七党の丹党に属する滝瀬氏の本貫地とされ、建武四年(一三三七)の「高重茂奉書」(安保文書)に「滝瀬郷」と見える。地内には、東方の字滝瀬とその西の字北堀田、南西の字前堀田にそれぞれ集落があり、当社は字北堀田に鎮座する。堀田は、『武蔵志』に「中山道筋 滝瀬ノ新田、別村ニアラス」とある。
 社伝によると、天正十年(一五八二)武田家滅亡の際、家臣の高柳隼人及びその一族が、武蔵国榛沢郡滝瀬郷北堀田に落ち延びて土着した。そこで、もとより信仰していた信濃国の諏訪大社をこの地に勧請し、一族の祈願所としたのが当社の始まりである。以来、武門の崇敬するところであったが、慶長十八年(一六一三)に至り、北堀田の鎮守となった。その後、長い年月を経て社殿が頽廃したので、天保二年(一八三一)に北堀田の崇敬者が再興した。この時の世話人は、増岡周助・高柳仙之助・塚越平八・高柳寅松・伊藤勝三郎などであった。
 なお、当社は「中山道分間延絵図」に、中山道からしばらく北に入った所に「滝瀬村之内字北堀田、諏訪明神」と書かれている。
 明治に入り、当社は無格社とされた。平成二年には、社殿瓦屋根の葺き替え工事を行った。
                                      案内板より引用
 
 境内交差点側に鎮座する境内社。詳細不明。      境内社の右隣に並ぶ石碑等
                       
庚申塔、如意輪観音、青面金剛、如意輪観音  
        
                               重厚感のある拝殿正面
 時代が下り丹党・児玉党・猪俣党などの武蔵武士団は、南北朝時代に南朝=新田義貞についたため、新田氏の滅亡と共に弱体化、あるいは没落していった。さらに上杉禅秀の乱では禅秀に味方したため、鎌倉公方の足利氏に所領を没収されている。ただ丹党の氏族のうち、阿保氏は足利氏に属したため、その所領を永く維持した。
 戦国期の安保氏は在地土豪を家臣団として編成し、小大名的な存在にまでなっていたが、永禄
12年(1569年)、武田信玄の御嶽城攻略を最後に姿を消す事となるとある。その武田家も滅亡後の安土桃山時代になって、家臣一族がこの地に土着し、諏訪信仰が根付いたのだと思われる。
       
                 社殿右奥に聳え立つご神木
        
                          境内社。瓦の紋から推測すると天神社か。



 

拍手[1回]