古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

八幡山種池神社及び雉岡城

八幡山種池神社】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山336-2
             ・ご祭神 倉稲御魂命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 初午 2月初旬 祈年祭 315日 例大祭 1013
                  新穀感謝祭 1210日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1939455,139.1280878,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町市街地方向に進み、八高線「第二深谷街道踏切」を越えて「児玉小学校」交差点を右折すると、JR八高線児玉駅に到着する。児玉駅を起点として西方向に伸びる駅前通りである埼玉県道191号児玉停車場線に左折して合流、そのまま道なりに進む。国道462号線との合流地点である「児玉駅入口」交差点を右折し、その後「児玉高校入口」を左折し、100m程進むと左側に八幡山種池神社の社号標柱が見えてくる。
 
現在は八幡山公園となっている「雉岡城」の東側に鎮座していて、城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地から、時の城主等から深く崇拝されたという。
 社の境内は南北に長いが決して広くない。しかし社殿から見て右側手前には駐車スペースも確保されているので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
       
        入口に置いてある社号標柱         南北に位置する社
        
                                           八幡山種池神社正面
 
      石段上に鎮座する拝殿            石段脇にある案内板

 種池神社 御由緒  本庄市児玉町八幡山三三七
 □御縁起(歴史)
 当社の創建の年代は定かではないが、かつては境内に霊水として知られる湧水があり、近辺の住民の間には四季を問わず湧出するこの池の水によって生活している者が多く、氏子は籾を播く前には必ずここで種籾を洗ったものであった。よって、この湧水に神威を感じ、五穀の祖神である稲荷大神を勧請したのが当社の始まりで、「種池」の称もこの湧水に由来する。
 また、延徳年間(一四八九九二) に雉岡城を当地に築き、その城主となった夏目豊後守定基も深く当社を崇敬し、社殿を再興したという。更に、横地左近将監吉晴、松平玄蕃頭清宗、地頭田備後守といった、その後の城主や地頭も当社を厚く崇敬した。雉岡城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地も、こうした城主らによる崇敬のあったことを感じさせるものである。
『風土記稿』や『郡村誌』に「稲荷社」と載るように、当社は元来は稲荷神社と称していたが、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したのを機に、社号を種池神社と改めた。しかし、昭和五年ごろ、当社の象徴であった湧水は諸般の事情から埋め立てられ、その後は跡に井が設けられて飲み水などに用いられていたが、衛生上の理由から近年はそれも廃止された。ちなみに、境内左の駐車場が湧水のあった場所である。
 □御祭神と御神徳
 ・倉稲御魂命…五穀豊穣、商売繁昌
                                      案内板より引用
 

        
 拝殿の周囲には多くの境内社が鎮座する。『風土記稿』や『郡村誌』では、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したと記載されている。これらの境内社もそのうちのどちらかであろう。


「古は当国七党の一、児玉党の所領する事は児玉町に弁ず。文明の頃は夏目豊後守定基領し、其後永禄中に至ては、横地左近忠春の所領にして、天正十八年御打入ありて松平玄番頭清宗に賜り、慶長六年三州へ得替さられて、同七年戸田藤五郎に賜り、天明六年子孫中務の時上りて御料となりしより今に然り」と『新編武蔵風土記稿』は記している。
 慶長七年戸田藤五郎重元(5千石)の知行地となった際に八幡山町に陣屋を設け、支配をすることとなったというが、現在はそのころの遺構等ない。


【雉岡城】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山446
             ・遺 構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等
             ・分類・構造 平城 戦国時代初頭築造(推定)
             ・指定文化財 埼玉県史跡(雉岡城跡)

 雉岡城(きじがおかじょう)は、埼玉県本庄市児玉町八幡山446他に所在していた日本の城。丘陵地に築かれており、旧字雉岡の地名をとってつけられた城のため、別名を八幡山城(はちまんやまじょう)と言う。

 45郭で構築された平城で、『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』等によれば、築造時期は戦国時代初期といわれ、当初は山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭かったゆえに、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられ、代わりに有田豊後守定基(城主となってからは夏目を称す)を雉岡城主として配備した。因みに定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる。
 その後永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようで、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家により落城した。徳川時代には松平家清が居城していたが慶長6年(1601)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えている。
        
          県道191号を西方向道なりに進むと雉岡城跡に到着する。
   正面入り口付近に設置されている「「県指定史跡 雉岡城跡と周辺の文化財」の掲示板
        
             正面入口にある「雉岡城跡」の看板
             看板周辺には駐車場も完備されている。

  地形的に見ても、この城の東側には鎌倉街道上道が南北に通っており、築城目的として、鎌倉街道の交通要衝を押さえ、関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣(児玉郡北部)への兵站を確保する事であり、そうした経済的側面があったものと考えられているつまり、当初は五十子陣の支城としての役割があり、五十子陣の解体後、上野国平井城の支城として活動し、後北条氏の時代では鉢形城の支城として活動したとされる。
 
 現在は公園として整備されているが、城跡という箏で、いたる所に 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等の遺構が見える(写真左)。
 思った以上に城跡は広い。また途中見かけた案内板(同右)に見入ってしまった。

 埼玉県指定史跡 雉岡城跡  昭和十三年三月三十一日指定
 雉岡城は、八幡山城とも呼ばれ、十五世紀頃に時の関東管領であった山内上杉氏によって築城されたと言われています。東西約二百七十メートル、南北約四百三十メートルに及ぶ城域を持ち、鎌倉街道上道と上杉道の分岐点という交通の要衝に立地しています。
 十四世紀初めまでに成立した歌謡集「宴曲抄」には「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」という歌が収められています。このことから、十四世紀までに雉が岡の地に武士の居館が存在していたと推定されます。
 雉岡城は、築城後、関東管領山内上杉氏及び夏目定基(なつめさだもと)、定盛(さだもり)を城主としていましたが、後北条氏の武蔵進出に伴って雉岡城も後北条氏の支配下におかれました。そして鉢形城主北条氏邦の命により横地左近忠春が雉岡城の城代となりました。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による後北条氏討伐に伴って落城し、徳川家康の関東入国後、松平氏が城主となりました。その後、城主の松平家清が慶長六年(1601)に三河国吉田城(愛知県豊橋市)に転封となり、雉岡城は廃城となりました。
                                      案内板より引用


 散策途中、本丸南側の曲輪を囲む堀の底に、「夜泣き石(親子石)」と呼ばれる石があり、案内板はその曲輪の脇に設置されていた。「夜泣き石」と言われる悲しい言い伝えである。 

 夜泣き石(親子石)
 この石には、次のような伝説があります。
 昔、殿様の夕餉に針が入っており、怒った奥方は側女お小夜の仕業だと思い、取り調べもしないで、お仕置井戸に生きたまま沈めさせてしまいました。
 そのとき、お小夜のお腹には、生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうです。お小夜の死後、お城ではお乳がにじみ、飲み水も池の水も白く濁り、夜になるとお小夜の泣き声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
 また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、大きな石になったお小夜は、子供石を抱いていたそうです。子供を思う親の心に、奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、お堀端にこの二つの石を祀り、女達に慰めの言葉をたやさぬようにと頼み、髪を切って喪に服したと言い伝えられています。(児玉の民話より)
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
       

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稲沢稲聚神社

 本庄市児玉町稲沢地域は、本庄市南西部端部に位置し、「本泉地区」の北部にあり、小山川支流稲聚川の北側斜面に集落が存在している。近世では上稲沢村・中稲沢村・下稲沢村の三村に分かれていた。
 稲沢という地名の由来に関して、確かな記録もないため、はっきりとは分からないが、中稲沢に鎮座する古社の稲沢稲聚神社との関係も考えられる。稲沢稲聚神社の社伝によれば、稲聚川の水源付近に昔から豊富な湧き水があって、下流の住民が水田耕作に多大な恩恵を受けたことから、この地に稲聚神社を創建し、社周辺一帯を稲沢と呼ばれるようになったと云われている。
 上記
稲沢稲聚神社はその稲沢地域に根を下ろした鎮守様であり、阿那志河輪神社同様に、「式外社」別名国史現在社(げんざいしゃ)」「国史所載社(しょさいしゃ)」とも称されている由緒ある社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町稲沢360
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 初午 2月初午 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1642982,139.0759228,15z?hl=ja&entry=ttu
 河内金鑽神社から南西方向に進路を取り、埼玉県道44号秩父児玉線合流後400m程県道を進むと、押しボタン式の信号があるT字路に到着する。そこを右折し、道なりに進む。道幅が狭い道路で右側は崖が続くため、進路があっているのか、時に心細くなる時間帯もあるが、そこは辛抱。暫く進むと稲沢地域の集落が見え、尚も西方向に進路をとる。小山川支流稲聚川に沿って道路が続いているようだが、その川の上流部が右方向に進路が変わる地点に稲沢稲聚神社は鎮座している。
 社周辺には大きな杉の大木が多数聳え立ち、遠目からも目視できるので、県道から右折する道さえ間違わなければ、社までは1本道である。県道から社までの距離は1.4㎞ほどであろうか。
 社の東側には「稲澤山村センター」があり、駐車スペースもしっかりと確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
        
                  稲沢稲聚神社 正面
       
        鳥居の手前には社号標・社碑が立つ。 社号標の奥にある稲聚神社碑。

「稲聚神社碑」には創立年代から碑文設置当時までの歴史等が記されていたのだろうが、残念ながら長年の風雪等により、半分以上文字欠損状態となっている。それでも僅かな文字等の確認によると、「稲聚神社のご祭神は稲荷の大神にして倉稻魂神」「六国史の一つである日本三代実録における神階は文徳天皇の天安元年正六位上」「清和天皇貞観十七秊從五位下」「稲澤と全く同じきなり古書に稲取と書」「後小松天皇の應永の頃大旱魃」あたりが記されている。
        
                     案内板
     自然災害の影響か、御由緒案内板の一部が剥がれ、一部解読が不可能な部分がある。
     一部欠損した部分は、ほかのHPを確認することにより、対応できた。

 稲聚神社 御由緒  本庄市児玉町稲沢三六〇
 □御縁起(歴史)
『郡村誌』が「四方に山を帯ひ渓水村の中央を貫流す。地形高低あり運輸車を用ゆ可からす唯馬を用ゆ」とその地勢を描写しているように、稲沢に身馴川(小山川)の支流である稲聚川の流域に位置する山村である。その地内は、かつては上稲沢・中稲沢・下稲沢の三村に分かれていたが、明治五年に合併して一村となった。
 当社は、この上・中・下稲沢三か村の鎮守であり、また『三代実録』に載る稲沢郷池田庄稲沢鎮座の稲聚神社であるといわれている。その由緒は、境内の「稲聚神社伝来碑」によれば「大同三年(八〇八)の創建で、天安元年(八五七)に神階正六位上に列し、貞観十七年(八七五)には従五位下に昇格した。その後、応永六年(一三九九)の旱魃の際、丹生神社を合祭した」という。 更に『明細帳』は、丹生神社の勧謂は、この旱魃で流末の各村から「当社の位置は大和(現奈良県)の吉野川における水徳の神丹生川上神社と同じである」との声があったことを契機とするものであり、尊崇が深いためついには稲聚神社は客社のようになっていると記している。『風土記稿』にも、当社は上稲沢村の項に「丹生社 上中下稲沢村の鎮守とす、満福寺持」と載り、古くから丹生神社としての信仰の方が強かったことがわかる。明治維新後は、神仏分離により満福寺の管理を離れ、社号を稲荷神社と改称して村社となり、明治二十 八年には社号を稲聚神社に改めた。
 □御祭神と御神徳

 倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用
        
                                一の鳥居
 
 鳥居の社号額には「稲聚神社・丹生神社」と記載がある(写真左)。一の鳥居の先には石製の二の鳥居があるが、そこの社号額にも一の鳥居同様に「稲聚神社・丹生神社」と書かれている(同右)。
        
                                       拝 殿
 
  拝殿の扁額も「稲聚神社」「丹生神社」        拝殿の右側には九頭竜神が鎮座。 
     と並列に掲げられている。

 案内板によると、応永6年(1399年)に干ばつを鎮めるため、大和国の丹生川上神社を勧請、合社した。よって、稲聚神社には稲聚神社と丹生神社が記載されている。当時は丹生神社の信仰がより強かったため、以降社名が「丹生社」に改称される。
 その後明治元年(1868年)の神仏分離により社名を「稲荷神社」に改称するが、明治28年(1895年)には創立当初の社名「稲聚神社」に復称したという。
       
 境内には杉の巨木・老木が多数あるが、その中でも社殿右側手前にあるご神木は圧倒的な存在感がある。


 ところで稲沢稲聚神社は六国史の一つである『日本三代実録』《卷二十七貞觀十七年(八七五)十二月五日甲寅》によると、「五日甲寅。授長門國從四位下住吉荒魂神四位上。近江國從五位下小丈神從五位上。正六位上坂神從五位下。武藏國正六位上河輪神。稻聚神。飛騨國正六位上本母國都神。釼緒神。上野國正六位上丹生神並從五位下」と記載があり、貞觀十七年(875)に正六位上の神階を阿那志河輪神社と共に受けていて、それが根拠となり、「国史見在社(こくしげんざいしゃ)」別名「式外社」の社として時の朝廷から承認されている。

 国史見在社(こくしげんざいしゃ)は六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載があるが、『延喜式神名帳』に記載がない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。 式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられてきた。
 六国史は延喜式神名帳以前に成立、編纂された歴史書、または勅撰史書であり、日本において単に国史と言えば、六国史のことを指す場合がある。各史書の成立年は以下の通りとなる。
『日本書紀』…養老4年(720年)
『続日本紀』…延暦16年(797年)
『日本後紀』…承和7年(840年)
『続日本後紀』…貞観11年(869年)
『日本文徳天皇実録』…元慶3年(879年)
『日本三代実録』…延喜元年(901年)

『延喜式(えんぎしき)』は、六国史の後に編集された、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、律令の施行細則をまとめた法典であり、成立年は延長5年(927年)。『延喜式神名帳』は『延喜式』に纏められた巻九・十のことを指し、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧であり、延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2,861社、鎮座する神の数は3,132座である。

 式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定基準には当然ながら、当時の政治色意図が強く反映されていると考えられる。一方、延喜式神名帳に登載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社、正式な社殿がなかった神社等と思われるが、正確にはその選定の定義は分からない。
 その中でも、『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史に神名・社名の見える神社を国史見在社(こくしけんざいしゃ・国史現在社とも)といい、式内社とともに由緒ある神社として尊重されている。
             
 社の入口・社号標柱の右隣には、おそらく古い年代に製造されたであろう柱があり、そこには「国史現在」、その右脇には同じ式外社である「河輪」と刻印されている。


 旧武蔵国に式外社・国史見在社として認識されていた社は五社で、以下の社となる
倭文一神社…埼玉県比企郡吉見町久米田鎮座。現在久米田神社。旧村社。
若雷神社…神奈川県横浜市港北区鎮座。旧村社。
伊多之神社…東京都あきる野市五日市鎮座。現在阿伎留(あきる)神社。旧郷社。
河輪神社…埼玉県児玉郡美里町阿那志鎮座。旧村社。
稲聚神社…埼玉県本庄市児玉町稲沢鎮座。 旧村社。


 式内社・式外社共に1100年前に史書等で官社として記載されている社という箏は、当然それ以前からの創建であり、社自体も歴史を綴っていたことを朝廷が認めたわけであるのだから、延喜式が成立以前、少なくとも数百年単位の由緒は必要と思われる。
 稲沢稲聚神社の案内板による縁起(歴史)にも、創建時期は「大同三年(808)と記しているが、もしかしたら妥当な年代かもしれない。1000年前という途方もない年代を経た由緒ある社という箏だ。
        
 県道から稲沢地域に向かう途中に建てられている石碑群。周辺手入れもなされていて、また社日様も紙垂等で祀られていて、その四方には縄を巻き、結界を成しているのであろう。当然縄には紙垂を巻いていたと思われる。
 道路の向かい側には稲聚川が流れていて、この集落と河川との深いかかわりもこのような石祠群のおかれた場所を鑑みると、地域の方々の、信仰の深さを垣間見た気がして、思わず車を停めて手を合わせた次第だ。

参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」等

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藤木戸諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町藤木戸138
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1211
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2386362,139.1161543,18z?hl=ja&entry=ttu
 上里町藤木地域は、利根川支流の神流川右岸に位置する。「藤木戸」という地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。
 藤木戸諏訪神社はその藤木地域西部に鎮座している。途中までの経路は大御堂浅間神社を参照。大御堂浅間神社から埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線を900m程北上し、「三町」交差点を左折する。その後群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線、通称「下仁田街道」に合流、西進し、1㎞程進んだ先のT字路を右折する。その後進路上右側に長幡小学校が見えるのだが、その学校を過ぎた地点の進行方向に対して左側に が鎮座する場所が見えてくる。
 但しこの通りには社の境内に通じる入口が残念ながらない。長幡小学校を通過する地点に十字路があり、そこを左折し、その後突き当たりを右折すると社の鳥居が見えてくるので、鳥居近くの境内の一角に車を停めて参拝を行った。
        
                                                           藤木戸諏訪神社正面
 鳥居は境内西にあり拝殿の向きに対して直角に位置している。加えて拝殿は南向きで、祭事にたてる上り用の柱は社の正面にあり神橋をはさむ。拝殿に対して正面には鳥居は現在ない。
 鳥居だけ移動したのか、不思議な立ち位置にある社ではある。
 
  鳥居の右側に並んで立っている庚申塚。     鳥居の先に鎮座する境内社
                             厳島神社
       
 厳島神社の隣には同じく境内社・八坂神社が鎮座(写真左)。その隣には秋葉神社(?)が鎮座している。この3社は横に並んで建てられている。
 
 境内社3社の向かい側には案内板が設置されている(写真左)。その境内社の並びに社殿が建っている。神橋の南側が本来の参道となるのだが(同右)、そこには鳥居らしいものはなく、石製の柱があるのみ。

諏訪神社 御由緒  上里町藤木一三八
□御縁起(
歴史)
藤木は、利根川支流の神流川右岸に位置する。地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。当社は村の中央に鎮座し、西隣には真言宗真福寺がある。
『児玉郡誌』には「当社の創立は後花園天皇の御宇長禄年中(一四五七~六〇)当地に一社を勧請して本村の鎮守とす、其後社殿頽破せるを以て天正年間(一五七三~九二)村民協力して再建せりと云ふ、また、明和年間(一七六四~七二)に至り領主松平大和守の崇敬あり、社殿を再興せられたり(以下略)」と載せられている。
また、本殿に奉安する木製の神璽には、「諏訪大明神社頭壹宇 維時文政二己卯(一八一九)仲春廿七日鎮座 藤木・並木・新堀・沖惣氏子中 別当真福寺現住如海代」との墨書が見える。このうち、並木・新堀・沖は現在藤木戸村の小字名となっている。
別当の真福寺は『風土記稿』藤木村の項に「新義真言宗、大御堂村吉祥院末、藤木山不動院と号す、本尊薬師」と載る。同寺は、大永年間(一五二ー~二八)の創建と伝わり、寺内には天文十五年(一五四六)二月十五日銘をもつ逆修五輪塔がある。
当社は、明治初年の神仏分離により真福寺から離れ、村社となった。明治三十九年には、字並木に鎮座する無格杜日宮神社とその境内社である八幡神社と菅原神社を合祀した。
□御祭神 建御名方命…五穀豊穣、厄除、開運
                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
       
           社殿の右側で、道路沿いに立っているご神木
 藤木戸諏訪神社の南側には「楠川(しょうかわ)」という河川が東西に流れている。楠川は、神流川が乱流していたころの支流で、その痕跡は今でも曲流地形として残されている。古代はこうした曲流地形の脇にある自然堤防上に集落を営み、その下に耕作地を作って、開発を進めてきた。藤木戸地区には楠川を分水するための堰が数多くみられるという。
 因みに上里町には、塩川や小川と書いて「しょうかわ」と読む小字名がみられるが、これらはすべて楠川が流れる流域にあって、楠川に由来する地名と考えられている。
        
         社殿の右側に鎮座する境内社。菅原神社・稲荷社・三峯神社
 この諏訪神社の辺りは、字関邸といい、もとは楠川の堰を守る屋敷があったといわれている。今でも、神社の境内には水路があり、楠川(上流)と御陣場川(下流)の分岐点となっている。道路を隔てて諏訪神社の反対側、藤木戸公会堂の脇に「一級河川御陣場川起点」の石碑が建っている。楠川は、御陣場川と名前を変え、ここから下流は県管理の一級河川となっている。
 因みに御陣場という地名は、滝川一益と北条氏直とが戦った神流川合戦の際に北条方が陣を敷いたところといわれている。
        
                                「楠川」の流れ 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」「境内案内板」等 

                

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三町諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町三町720
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭 43日  秋祭 1019日(どちらも近くの日曜日)
                  新嘗祭 1123日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2363366,139.1242599,17z?hl=ja&entry=ttu
 上里町三町地域は大御堂地域の北側に位置し、三町の地名由来としては、江戸時代、藤岡道沿いにつくられた安保町、長浜町、横町の三つの町場が、明治9年に合併して三町村(みまちむら)になったことに由来する。
 途中までの経路は大御堂浅間神社を参照。大御堂浅間神社から埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線を900m程北上し、「三町」交差点をそのまま直進。その後最初のY字路を左斜め方向に進み、すぐ先の細い十字路を左方向に曲がると、その奥に三町諏訪神社の広い境内に到着する。
 境内入口右側には社務所があり、駐車可能な広い空間もあるので、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                
三町諏訪神社正面
 
    鳥居の手前に石碑等が並び、       鳥居を過ぎてすぐ左側に御嶽山神等
 参拝客をお招きしているような配置である。      石神が並ぶ塚あり。
        
          お日様の陽光をたっぷりと浴びた明るい社という印象。
            境内は広く、日々の手入れも行き届いている。

 社殿の左側に休憩所である東屋が設置されており、公園のように整備されている。この地の方々には憩いの場となっているようだ。
        
                      参道左側に設置されている「
三町水道記念碑」
 三町水道記念碑
 当三町地区は地質的に地下水が非常に深くその水は冬は暖かく夏は冷たい美味良水として古くから定評がありました。特産だった西瓜を井戸の中に入れて冷却しての賞味は正に天然のめぐみでもあった。
 しかしそれと引き換えにこの水源の確保としての、深井戸の掘削には多額の経済的負担を余儀なくされる土地柄でもありました。如何せん、全戸とはいかず昭和三十年代には三町全体で約十数基しかなかった。一日も欠かせぬ生活用水のすべてを『貰い水』として賄う家庭が大半であった。
 文字どうり『井戸端会議』として温もりのある隣人交流もあったが、水の運搬と尚もその不足分を近くを流れる農業用水を利用して補う労力ば苦行であった。こうした窮状を速やかに打開し、全戸給水、水道設置は、三町全区民の悲願でもありました。
 昭和三十九年その気運が盛り上がリ三町簡易水道組合が結成され、当地内を水源として鑿泉工事に着手した。そして、昭和四十二年五月三日念願の工事が完成し、給水を開始した。昭和四十三年には隣地の大御堂地区より、こうした順調な運営情況に合わせて組合加入の申し込みがあり、ここに三町・大御堂水道組合「初代組合長・村島富三郎」が発足した。「第二代組合長・関本岩蔵」以後、三十年間、歴代組合長三代、全組合戸数九百三十一戸、一致協力して廉価による水資源供給を維持し発展してきました。やがて時代の変遷と、全町公営化に伴い、平成八年、三町・大御堂水道組合は発展的解消をした。
 さらに一歩進して大きな視野に立ち、現在の地球環境の変化と万が一の災害を想定する時、この水源の重要さを痛感します。平素は水辺公園の憩いの水として目を楽しませ、一旦危急の場合水栓の変換操作により、直ちに各家庭に直結し援水装置となる当鑿泉は不滅の宝として温存すべき最大の所以である。
願わくば、この趣旨が末永く理解されこの朽ちる事のない水源の泉のごとく後世に受け継がれるよう念願します。ここに往時の役員名を刻み関係各位のご協力に敬意を表しながら、これを記念してこの碑を建立するものである。
平成十四年十二月吉日 三町水道組合長 渋澤栄一撰文
                                     境内碑文より引用
        
                                   拝 殿
        
                拝殿手前左側にある案内板
 諏訪神社 上里町大字三町字諏訪裏七二〇
 □由緒
 江幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』安保町の項に「諏訪社 當所及び長濱町・横町村等の鎮守なり、末社 八幡 稲荷 別当宮本坊 當山修験、大御堂村寶蔵寺配下、開山本行坊萬治四年四月示寂、本尊不動を安ぜり」と載っている。当社は旧横町・安保町・長浜町の三か村の鎮守として祀られてきた。
 また、『神社明細帳』には、「創立年月不詳と云えども一度回禄(火災)の災いに罹りのち、安永四年村民協力して再建す」と記されている。しかし、 社殿の竣工は四年後のことらしく、棟札には安永八年(一七七九)の年銘がある。当社の祭祀は江時代は「風土記稿」に載る別当宮本坊が代々務めてきたが、明治初年の神仏分離により、当社から離れた。
 明治五年村社となり、同四十二年に字寺東の稲荷神社と字寺西の社天王社を境内に遷し祀った。社殿は覆屋の中に本殿が祀られ、昭和五年新築の拝殿と幣殿で結ばれている。
 当地の獅子舞は「判官流一人立連舞獅子」といい、貞享二年(一六八五)に獅子頭を作ったことに始まるという。現在使われている獅子頭は明和七年 (一七七〇)に新調したものである。大正期から途絶えていたが、昭和三十二年に復活。同五十五年埼玉県知事より「文化ともしび賞」を授与された。現在は獅子舞保存会により継承され、奉納されている。境内には、古くから土俵が築かれ相撲の奉納が続いている。
 □御祭神 建御名方命
 □御神徳 地域の繁栄と人々の守護 五穀豊穣、厄除、開運
                                      案内板より引用
 
 社殿左側に鎮座する境内社・石祠群(写真左)。左から順に
神明・今宮・社日・八坂・秋葉の各社。また社殿右側には同じく境内社・石祠として、左側より菅原神社・稲荷神社が鎮座する(同右)。
       
                          境内に聳え立つご神木

 三町諏訪神社で毎年10月に開催される「秋の大祭」で子供相撲と共に奉納される伝統行事で、貞享年間に作られたとされる獅子頭が伝えられており、古くから雨ごいや地域の繁栄を祈って行われてきたという。
○諏訪神社獅子舞
・管理者 三町諏訪神社獅子舞保存会
・指定日 昭和37222日 上里町無形文化財
・貞享2(1685)銘の獅子頭


参考資料「新編武蔵風土記稿」「上里町公式HP」「境内案内板」等
                       

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大御堂三嶋神社及び大御堂浅間神社

大御堂三嶋神社】
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂1131
            ・ご祭神 事代主命 ・大山祇命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1211
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2290417,139.1189839,17z?hl=ja&entry=ttu
 上里町大御堂地域は町南端に位置し、児玉町の真北にある。筆者は熊谷市西端に居住している為、児玉町方向に向かう際には、ほぼ埼玉県道75号熊谷児玉線を使用する。今回も同県道のルートで児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折、国道254号線合流後は道なりに神川町方向でJR八高線に沿って進路をとる。その後4㎞進んだ「元阿保」交差点を右折し、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町市街地方向に進む。静かな田園風景が周辺一帯広がる中、1㎞程先に「児玉三十三霊場 吉祥院」の看板が見え、そのすぐ左側に大御堂三嶋神社が静かに鎮座している。後日地図を確認すると社の鎮座地は大御堂地域の集落西端にあたるようだ。

 駐車スペースは広く確保されている。境内に「西大御堂集落農業センター」があり、一旦社を通過し、すぐ先の十字路を左折するとすぐ左側に社の境内入口があるので、集落農業センター近くの一角に車を停めてから参拝を行う。
        
              県道沿いに鎮座する大御堂三嶋神社

 大御堂地域にある吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、武蔵七党の丹党に属した有力武将安保実光が再興したといわれている安保氏の氏寺で、中世の館跡といわれており、周りには堀があって、土塁の一部も残っている。
 古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『新編武蔵風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。

             
                     社号標柱
        
                                      鳥居を過ぎてすぐ参道左側に設置されている案内板

 三嶋神社 御由緒
 □御縁起(歴史)  上里町大御堂一一三一一
 当社は、西大御堂集落の西端の字三島西に鎮座する。祭神は、事代主命・大山祇命の二柱で、境内の欅や杉などの木々が、鎮守の杜にふさわしい景観をなしている。
 当社の創建年代は明らかでないが、吉祥院の境内にあったものを明治初年の神仏分離に際して現在地に移転したという。吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、阿保山真光寺と号し、開基は小野氏で、後に安保城主安保肥前守忠実が中興したと伝える。
古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。更に、同書の大里郡久下村(現熊谷市)の項などによると、同村東竹院の嘉禄三年(一二二七)五月日の年紀をもつ鐘銘に「奉鋳 武州賀美郡阿部村真光寺鐘右志者為信心大壇那小野氏沙弥妙阿弥陀仏」とあり、この鐘は戦国期に軍勢により奪取され、のち久下村で掘り出されたものという。この吉祥院の創建の古さから推して、その境内に村の鎮守として祀られていた当社も同様に古い勧請をうかがわせる。
 明治三年に覆屋を再建し、同五年に村社となり、大正四年には御即位記念として拝殿を新築し、昭和二年には社務所を新築した。
 □御祭神 事代主命・大山祇命
                                      案内板より引用

        
          広く静かな境内である。その先には大御堂三嶋神社が鎮座している。
       
                           境内に聳え立つご神木
        
                                    拝殿覆堂
 
   社殿左側に鎮座する石祠、石碑等。       社殿右側にも多くの石祠等が鎮座。

 大御堂三嶋神社が鎮座する大御堂地域は、地形上本庄台地に属する。この本庄台地は北武蔵台地を構成する台地群の一つであり、他には児玉丘陵、櫛挽台地、松久丘陵、江南台地も含まれ、今から約3万年前に神流川によって運ばれた土砂が堆積(たいせき)した後に浅間山などから噴出された火山灰が積もってつくられたと考えられている。
 この北武蔵台地一帯は渡来人による文化伝承も早く、利根川を挟んで毛国とも接している地域からか、重要な古墳や城が多い地域であり、また緑泥片岩の産地(長瀞・小川)が近い為、県内の殆んどの板碑がここに集中して存在している。



大御堂浅間神社】
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂736
             ・ご祭神 木花開耶毘賣命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1111日
 大御堂地区にはもう一社、旧村社が存在する。三島神社が鎮座する十字路を東側に進み、埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線と交差する信号のある十字路を右折する。250m程南下すると左側に大御堂浅間神社が左側に見えてくる。
        
                                           大御堂浅間神社正面
        
                                       鳥居の左側に案内板あり
 浅間神社御由緒   上里町大御堂七三六
 □御縁起(歴史)
 大御堂は、神流川右岸の洪積台地に位置し、地名は地内の吉祥院真光寺がかつては大伽藍で、境内に建つ阿弥陀堂が「大御堂」と呼ばれていたことに由来する。
 当社は、塚の上に奥宮、その東麓に本社をそれぞれ祀っている。その創建の年代は明らかでないが、『風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。宝蔵寺は京都醍醐三宝院末の真言宗の寺院で、富士山威徳院と号し、当山派修験を兼帯して近郷三十余ヶ寺を支配したとされる。開山は不詳であるが、開基は八幡山城主松平玄蕃頭清宗で、中興開山は寛永十二年(一六三五)一月に入寂した法印盛胤である。富士山の山号から推して、当社の勧請は宝蔵寺の草創からさほど下らない時期に行われ、遅くとも中興開山の盛胤の代には既に祀られていたものであろう。
 神仏分離を経て、当社は明治五年に村社となった。更に、大正五年には字雷電林にあった雷電神社を合祀した。この時、雷電神社の本殿が壮厳な造りであったことから同社の社殿一切を塚の東麓に移築して当社の新たな社殿とし、従来の塚上の本殿は奥宮と改称した。
 この社殿の移築に際しては、横に並べた二台の大八車の上に載せて、挟い農道を運ばなければならなかったため、大八車の車輪を補強したり、農道を補修したりと大変な苦労であったという。
 □御祭神 木花開耶毘賣命…安産・子育て
                                      案内板より引用
 
 
          拝 殿                 拝殿の右側には塚があり、
                          その墳頂に奥宮が鎮座している。
 
 元々は14m程の古墳であったが、江戸時代に富士山を信仰する富士浅間講の富士塚として現在の形に改められたという。頂上には浅間神社奥宮が鎮座しているが、ここが上里町でもっとも標高が高い地点でもある。
 
 道路を挟んで西側には「不二山宝蔵寺」があり、『新編武蔵風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。塚の中腹に鐘楼(写真左)があるのはその名残りであろう。また拝殿手前、右側には境内社が鎮座する(同右)。
       
        拝殿左側には社号標柱が立つ。    拝殿左側奥にも境内社・石祠等が見える。
       
                社号標柱近くに聳え立つご神木

            

 県道西側には宝蔵寺があり、道路沿いには町指定文化財である「マキの大木」が聳え立つ。宝蔵寺管理。樹齢は約800年と推定。昭和37222日指定。
 今でも幹回り5m程、高さ14m程の大木だが、昔はもっと大きかったという。そのため、戦争中、児玉飛行場の飛行機の発着に支障をきたすということで、上部を切って短くしたという経緯がある。木の下には、槇木大明神の碑が建てられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
上里町公式HP」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」
    「境内案内板」等
         

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