古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大輪神社


        
            
・所在地 埼玉県久喜市東大輪1713
            
・ご祭神 八幡宮 鷲大明神
            
・社 格 旧東・西大輪村鎮守 旧村社
            
・例祭等 お祭り 9月15日 秋祭り 10月15日
 埼玉県道3号さいたま栗橋線沿いに鎮座している西大輪神社(雷電社)から更に県道を1.6㎞程北上し、「八甫」交差点を右折する。その後、同県道152号加須幸手線を東行し「産業団地(北)」交差点の右側斜向かい角地に大輪神社の社叢林が見えてくる。
        
                  
大輪神社正面
 社号標柱には「
武蔵国櫻田鎮座 大輪神社」と刻印。また鳥居の手前には「右 嶋川舟戸屋 左 さって道」と刻まれている道祖神が建つ。写真にはないが、社号標柱の右側には伊勢参宮記念碑もある。
 社号標柱に刻印されている「櫻田」はかつて存在していた村名「桜田村(さくらだむら)」からきていて、埼玉県東部、北葛飾郡に存在した村であり、1889年(明治22年)4月1日、八甫村・西大輪村・東大輪村・外野村・上川崎村・中川崎村・下川崎村が合併し、北葛飾郡八輪野崎村(やわのざきむら)が成立し、同年、村名を改称し、桜田村となる。
 その後、1955年(昭和30年)1月1日 - 桜田村のうち八甫・西大輪・東大輪・外野・上川崎が南埼玉郡鷲宮(わしのみや)町と合併(新設合併)し、北葛飾郡鷲宮(わしみや)町となる。同日、桜田村のうち中川崎・下川崎が幸手町に編入されたという。
 因みに現在「桜田」は大字として存在していて、その地域は東大輪とやや南方向に接し、東鷲宮駅の東側に南北に広がる一地域となっている。
        
                    県道沿いに鎮座しているとは思えない位静かな境内
                  左側に見える建物は東大輪自治会館兼社務所
『日本歴史地名大系』 「東大輪村」の解説
 上川崎村の北方、西大輪村の北東にある。西大輪村とはもと一村であった。当地から永仁元年(一二九三)、建武二年(一三三五)銘などの板碑が発見されている。田園簿に村名がみえ、田高三八〇石余・畑高四三〇石余、幕府領、ほかに密蔵寺領高一〇石がある。元禄郷帳では高八九五石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本本多・松平二家の相給のほか密蔵寺領。「風土記稿」によると家数六九。日光道中幸手さつて宿の助郷であり、慶応二年(一八六六)当時は勤高七三四石で同宿の定助郷役を勤めている(「御用留帳」田口家文書)。
        
                木製両部鳥居の二の鳥居
          当社の二の鳥居の社号額には「正一位八幡宮・正一位鷲大明神」と書かれ、
  更に社殿が二間社であることなどからみて、古くから八幡・鷲の合殿であったと思われる。
        
            二の鳥居を過ぎた先にある一対の灯篭が2基
         手前の一対の灯籠は天和3年(1683)3月奉納のもので、
          後ろ側にある灯籠一対は、西大輪村講中による奉納。
 
  灯籠の先で参道左側にある伊勢参宮記念碑       二の鳥居の手前で参道右手にある
                      月山大神・羽黒大神・湯殿山大神 参拝記念碑
        
                    拝 殿
     拝殿の手前で参道の突き当たりの中央部に立派な御神燈が設置されている。

『新編武蔵風土記稿 東大輪村』
 八幡社 村の鎭守なり、密藏寺持、末社稻荷 愛宕
 密藏寺 新義眞言宗、山城國醍醐無量壽院末、東光山五大院と號す、本尊不動を安ず、慶安元年寺領十石の御朱印を賜はれり、 天神社 藥師堂 鐘樓 元祿八年の鑄造の鐘をかゝぐ。

 大輪神社  鷲宮町東大輪一七三一(東大輪字下口)
 当地は、古くは大輪村と称し一村であったが、寛永十八年(一六四一)の利根川改修に伴い、東大輪村と西大輪村に分かれた所である。
『風土記稿』によると、東大輪村の神社は「八幡社 村の鎮守なり、密蔵院持、末社稲荷 愛宕」とあり、西大輪村の神社は「鷲明神社 村の鎮守なり、円明院持、末社大六天 天神 雷電 稲荷」とある。
 東大輪村の八幡社は、貞享二年(一六八五)の『寺社書上帳』に、「東大輪村 八幡社、寛永四年(一六二七)の検地迄は御見捨地に御座候」とあるが、実際は天和三年(一六八三)奉納の石灯籠に「八幡宮・鷲宮大明神」と対で刻まれ。また鳥居の社号額にも「正一位八幡宮・正一位鷲大明神」とある。更に社殿が二間社であることなどからみて、古くから八幡・鷲の合殿であったと思われる。
 一方、西大輪村の鷲明神社は、元禄八年(一六九五)の『検地帳』によると、社地八畝歩が除地として記されている。
『明細帳』は、東大輪の八幡社由緒を「年代不詳ト雖モ山城国石清水八幡宮ヲ勧請スト古老ノ口碑二存セリ」とあり、西大輪の鷲神社の由緒は「年歴不詳ト雖モ大和国三輪明神ヲ勧請スト古老ノ口碑二存セリ」とある。
 明治四十二年、東大輪の八幡社に西大輪の鷲神社を合祀し、大輪神社と改称した。ただし、鷲神社社殿はお仮屋として旧地に残された。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
『久喜市HP』によると、当社では、毎年10月15日の秋祭りの前に、稲藁で大蛇2匹を作り、鳥居に飾り付ける神事が行われる。現在、この藁蛇は東大輪上(かみ)と下(しも)の合同で作られるが、かつては東大輪と西大輪で1匹ずつ担当していたという。
 この藁蛇の製作を東大輪と西大輪の双方で請け負ってきたのは、両地区が江戸時代の初めまで大輪村という一村落で、後に分村したことに由来すると考えられる。大輪神社の祭神は、東大輪村の鎮守(ちんじゅ)である八幡宮(はちまんぐう)と西大輪村の鎮守である鷲大明神(わしだいみょうじん)を合祀(ごうし)したもので、このため東・西の大輪村の氏子(うじこ)は協力して秋祭りを行ってきた。
 実際、平成8年ごろまで、西大輪でも藁蛇を作り、かつては13日の晩に作った蛇を、その晩のうちに大輪神社の鳥居に飾り付けていて、一方、東大輪では14日の朝に蛇を作り、昼までに飾り付けを行っていた。その際、藁蛇を、西大輪は鳥居の西の柱に、東大輪は東の柱に飾り付けたという。また、西大輪の当番は14日から18日までの祭り期間中、大輪神社の留守番をしたということだ。
 大輪神社の秋祭りは、現在もその年の実りを感謝するとともに、無病息災(むびょうそくさい)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って毎年行われている。藁蛇はその象徴として地域の人々に親しまれてきた。近年、都市化の進展に伴い藁蛇を飾り付ける祭りは珍しくなり、本市でも現存しているのは、この大輪神社の藁蛇1例だけであり、貴重な祭りの一つといえよう。
            本殿の右側奥に聳え立つご神木(写真左・右)。
             ご神木の根元には稲荷大神が祀られている。
       
          社殿右側に祀られている境内社・灯籠・青面金剛像
           左から稲荷神社・灯籠(御神楽講中による奉納) 
         青面金剛像(庚申供養講中 元禄15年12月)・秋葉神社
       
                社殿から見た参道の風景 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「久喜市HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等

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