古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

間鎌八幡神社・間鎌天神社

『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代の間鎌(まがま)は「間鎌村」と「間鎌新田村」の二村に分かれていた。このうち、間鎌村は本村であることから本田(ほんでん)と呼ばれ、稲荷神社を鎮守として祀っていた。これに対して枝村である間鎌新田村は、八幡神社を鎮守として字前新田に祀り、更に天神社を字後新田に祀っていたという。
 この「間鎌」は「まがま」と読み、なかなかの難読地名の一つと考えられるが、この地名の由来として、「釜」や「鎌」が湾曲した土地をあらわし、津波や洪水で浸食や崩壊があった場所と言う説や、島の中の淵を表し、あるいは淵のあった所である等、河川に関連した地名であることは確かなようだ。
間鎌八幡神社】
        
             
・所在地 埼玉県久喜市間鎌3313
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧間鎌村前新田鎮守 旧無格社
             
・例祭等 祭典 4月・10月各15日 浅間様(初山)630日 他
 河原代香取神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を1.2㎞程北西方向に進み、丁字路を右折する。周囲一帯豊かな田畑風景の広がる中、農道を北東方向に進行、途中ポツンと「久喜市佐間浄水場」を眺めながら700m程進んだ民家が点在する集落に入った最初の十字路の先に間鎌八幡神社が見えてくる。因みに社の西側に隣接し久喜市立栗橋西中学校がある。
 社の東側に沿って北東方向に通じる道があり、かつて「坂東道」と呼ばれていたようだ。
        
                  
間鎌八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「間鎌新田」の解説
 間鎌村の東にある。田園簿に村名がみえ、田高三石余・畑高一三四石余で、幕府領。元禄郷帳・天保郷帳では高一二三石余。「風土記稿」成立当時には三卿の一橋領となっている。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)、幕末の改革組合取調書などには記載がなく、幕末までには間鎌村に合併した新田として把握されることが多くなったものと思われる。
        
                  石段上に建つ拝殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌新田』 記載なし。

 八幡神社  栗橋町間鎌三六五(間鎌字砂河原)
 栗橋町のほぼ中央に位置する間鎌に当社は鎮座し、誉田別命を奉斎している。間鎌は周囲の村落より低地になっているが、それは古くは大河が当地を流れていたためで、今でも地面を四〇㌢㍍ほど掘ると、川の跡が出るという。
 間鎌には、本田・前新田・後新田の三耕地があり、当社は前新田の鎮守である。一方、本田は稲荷神社、後新田は天神社をそれぞれ鎮守として祀っており、村社は本田の稲荷神社であった。創建の年代については、確かなことはわからないが、新田の開発とほぼ同じころと考えられており、本殿とされている高さ九五㌢㍍、間口二八㌢㍍の石祠は、創建時に建立されたものと伝えている。しかし、残念なことに、銘文が全く刻まれていないで、その来歴を知ることはできない。
 戦国期の天正十七年(一五八九)、小田原北条氏が、関宿合戦の恩賞として巻島主水助に「間釡之内十貫文」を与えたという古文書があることから、本田は既に戦国期には村落を成していたと思われるが、本田と新田の旧家の間につながりがほとんど見られず、むしろ新田の開発は、江戸期に他所から移って来た人々によって行われたとみられる。したがって、当社の創建も江戸期の始めから中ごろのことではなかろうか。また、『風土記稿』には記載されていないことから、当初は石祠だけの小さな社であったと考えられる。
                                   『埼玉の神社』より引用
 当社は、無格社ではあったが、間鎌前新田の鎮守として信仰が厚く、昭和の初め頃、村社であった本田の稲荷神社に合祀する話が出た時も、氏子の反対により実現には至らなかった。但し、当社の氏子は、本田の稲荷神社の氏子にもなっていて、稲荷神社の春秋の祭典には、前新田の氏子を代表して、当社の氏子総代が参列しているという。
        
              拝殿の左側に祀られている石祠三基
                
左から辨財天宮、稲荷大明神、稲荷大明神・稲荷大明神
        
               拝殿右側奥に祀られている浅間宮
 浅間社の祭典は「初山」もしくは「浅間様」とも呼ばれ、生後一年に満たない子供を参詣させるとその子は健康に育つといわれ、氏子区域以外からも参詣があるという。
        
         社殿の東側で水塚下にある
地蔵尊と光明真言百万遍供養塔
       
       
               境内に聳え立つイチョウ等の巨木
           久喜市指定の保護樹木に指定されているようだ。
 氏子の間で、当社と共に信仰されてきた神仏として、「坂東様」と呼ばれる小さな祠と石祠がある。祠の中には「納経墳」と刻まれた石碑があり、石祠については「納経墳弥助 行者 天保四巳九月□日」と刻まれている。石祠については、その昔、弥助という行者が仏様を背負って諸国を巡っている途中、当地で没したため、村人が懇ろに埋葬して墓碑を立てたものであるという伝えが残っており、元は現在の場所から北東に100mほどの所にあったが、栗橋西中学校の建設に伴い近年移転したという。
        
                    坂東様
 この行者の墓が坂東様と呼ばれるのは、当社の脇を通る道が関宿に通じる「坂東道」という街道であったことによるという。しかし、行者の墓と納経墳とが、同時期のものかどうかは、判然としていない。
 坂東様には、性病や下(しも)の病に効くという信仰があり、かつては毎年四月に御真言とか縁日といい、付近の人々が太鼓をたたいて念仏踊りを奉納するなど、賑やかな行事であったが、諸般の事情からまもなく中止となり、今なお再開されていないという事だ。


間鎌天神社】
        
             ・所在地 埼玉県久喜市間鎌5301
             ・ご祭神 菅原道真公(推定)
             ・社 格 旧間鎌村後新田鎮守
             ・例祭等 初参り 11日 春のお神酒上げ 415
                  秋のお神酒上げ 1015日 1125
 間鎌八幡神社から北東に伸びる道を400m程進むと、進行方向右手の道路沿いに「間鎌天神会館」が見え、その会館の奥で目立たない場所に間鎌天神社が静かに鎮座している。 
        
                  間鎌天神社正面
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 間鎌新田』
天神社 村の鎭守なり、

 天神社  栗橋町間鎌五三〇-一(間鎌字後新田)
 当社の鎮座地は、後新田の北端に位置し、境内の北端には領主佐竹氏が、国替えの折に一夜にして作ったと伝える坂東道(ばんどうみち)がある。
 当社が間鎌新田村の鎮守となったのは、本村の間鎌村から分村した後のことであると思われる。また『元禄郷帳』には、当社の除地を載せていることから、江戸時代前期には、既に当社が祀られていたことがわかる。更に『風土記稿』には「民家二十四」とあり、化政期(一八〇四-三〇)の氏子数が確認できる。
 勧請には、二つの説がある。一つは、本村である間鎌村の旧家、鈴木家邸内の屋敷神を、当地に勧請したとする説で、本村と新田の関係から当社の創建を伝えている。また、一つは、隣村の字仁蔵(にぞう)に居を構えた豪農、岡野家で祀る岡野天神を勧請したとする説である。
 なお、当社の末社である稲荷社は、本村である間鎌村の鎮守、稲荷神社から勧請されたものといわれている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
            拝殿の手前で左側に祀られている末社・稲荷社
        
                  社殿からの一風景
 当社の北側を通る坂東道の沿道には、かつて「坂東宿」という宿場が置かれ、江戸初期に「栗橋宿」が整備され、当地の宿場住民がそちやへ移住するまでは、賑わいを見せた所であったという。当地に隣接する前新田には、この坂東道で行き倒れになった坂東様と呼ばれた行者「弥助」を祀ったと伝える「納経塚」が今も残されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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