古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

吉羽千勝神社

 久喜市吉羽地域は、久喜駅の東側に位置していて、『久喜市HP』によれば、久喜市吉羽地域の中でも特に吉羽1丁目から5丁目は、都市計画道路 345 幸手久喜加須線の東側及び青毛堀川に囲まれた土地区画整理事業の区域が大半をしめており、道路、公園、河川等の公共施設についても、計画的に整備を図るように土地区画整理事業が行われている地域であるようだ。この土地区画整理事業の効果の推進増進、並びに快適な住宅環境の形成、維持、保全することを目標とすると記述されている。
 この吉羽地域の住宅街区の一角に静かに社は鎮座している。鑑みるに、戦後、時代の推移に伴い久喜市が特に首都圏域内の市街化区域との指定を受けて以来、急速に都市計画化が進められ、住宅地の開発、土地区画整理事業の実施に伴い、昭和五十年から二年余にわたり神社々殿、境内諸施設および参道の石鳥居の移設等々の工事、整備が行われ、現在に至っているという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市吉羽131
             
・ご祭神 千勝大神(大己貴命)八幡大神 鷲宮大神
             
・社 格 旧吉羽村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初午 221日 青屋祭 7月第一日曜日 他
 JR東日本鉄道及び東武伊勢崎線が乗り入れ、接続駅となっている久喜駅の「東口大通り」を700m程東行した先にある交差点を左折、その後、通称「太田小通り」を北上するように進むと、「吉羽公園」の南側手前に吉羽千勝神社は見えてくる。
        
                  吉羽千勝神社正面
『日本歴史地名大系』 「吉羽村」の解説
 野久喜・古久喜・青毛の三ヵ村の南にある。南は中落堀川を境に和戸・国納(現宮代町)の二村。現群馬県勢多郡富士見村萩林(しゅうりん)庵所蔵の銅造阿弥陀如来立像の応永三四年(一四二七)五月一五日付背面銘に「武蔵国太田庄南方吉羽郷」とみえる。永禄一三年(一五七〇)正月六日の梶原政景書状(三戸文書)にみえる「吉場」は当地と考えられ、梶原政景から三戸駿河守に宛行われている。百間領に所属。元禄八年(一六九五)上野前橋藩酒井氏の検地があった(風土記稿)。田園簿によると田高三六六石余・畑高三二八石余、幕府領。
『日本歴史地名大系』 「西村」の解説
「風土記稿」に「吉羽村ノ内に差入リタレハ、村ノ広サ及四境ノ村々別ニイヒカタシ」とあるように、吉羽村の中に点在する。百間もんま領に所属。検地は吉羽村に同じ(同書)。田園簿によれば田高八二石余・畑高八七石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本三上領で、同領として幕末まで続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
『日本歴史地名大系』 「吉羽西村新田」の解説
 吉羽・西両村地先の古利根川西畔にあった。三方が吉羽・西の二村に接し、両村と複雑に入組んでいた。当村は寛延二年(一七四九)茨島村(ばらじまむら・現杉戸町)の佐右衛門が開発、同一一年神尾若狭守春央が検地のうえ流作場新田と称した。吉羽・西の両村の持添新田であったが、安永元年(一七七二)久保田十左衛門が再び検地を実施して一村として村立てし、幕府領に組込まれた(風土記稿)。
        
             鳥居の左側手前に設置されている社の掲示板
 吉羽千勝神社の歴史
 いつの時代に造られたかは不詳ですが、吉羽の中でも一番の高地に村の鎮守として創建され、吉羽村・西村の人々によって祀られてきました。
元来は千勝・八幡・鷲宮三社合祀のため「三社大明神」と号していましたが、神仏分離を経た明治3年に「千勝神社」となり明治6年に村社となりました。
 1946年(昭和21
年)の「神社の国家管理解除」により無格となりましたが、現在も地域住民の心の拠り所として崇められています(以下略)。
                                    「掲示板」より引用
        
             手入れも行き届いていて広々とした境内
 千勝神社はかつて埼玉郡吉羽村(明治合併以後は大字吉羽)の村社であり、所在地は吉羽土地区画整理事業が行われる以前は大字吉羽字西1545であったが、2002年(平成14年)1026日の町名変更により吉羽1丁目311と改められた。吉羽土地区画整理以前の境内地面積は1948年(昭和23年)の時点で1042坪を有していた。神社は本来現在地よりも南に位置し、参道も100m以上あったが、1970年(昭和45年)頃の神社東側道路の拡幅工事や周辺開発などで、神社そのものを北方へと移動させるなどの工事が行われたという。
 
  参道左側に祀られている境内社・八坂神社   八坂神社の並びに祀られている雷電宮の石祠
        
                    拝 殿
 千勝神社(さんじゃさま)  久喜市吉羽一五四五(大字吉羽字西)
 吉羽の中でも一番の高地に村の鎮守として創建され、吉羽村及び隣接する西村の人々によって祀られてきた当社は、元来は三社大明神と号していたが、神仏分離を経た明治三年、社名を現行の千勝神社と改め同六年に村社となった。
 そのため比較的若い人や戦後に他所から転入して来た人は、当社を「千勝様」と呼んでいるが、年配の人は「三社様」と呼んでいる。こうした経緯にも示されているように、当社は、実際は千勝神社・八幡神社・鷲宮神社の三社合殿なのである。
『風土記稿』吉羽村の項の「千勝八幡鷲宮合社 三社合祀ゆへ三社大明神とよぶ、村中の鎮守なり、密蔵院持」という記事は、このような当社の祭祀状況を端的に示しており、本殿の内陣には今もこの三社の神像と宝暦十三年(一七六三)十二月に神祇官領吉田家から受けた三社の幣帛が安置されている。神像は、墨書によれば三体共に氏子によって文化十年(一八一三)六月に奉納されたもので、千勝大明神像と鷲宮大明神像は座像で、八幡大明神像は騎乗の像である。
 また、江戸時代に当社の別当であった密蔵院は、真言宗の寺院で、当社の東側に隣接していたが、神仏分離後は廃寺になった。その後、密蔵院の堂は焼失したといわれ、その跡地には太田村の役場が置かれていた。久喜市への合併後は役場も廃され、跡には、現在の太田集会所が建設され、地元住民の集いの場として活用されている。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 祭礼は7月最初の酉の日とされている。酉の日に行われる理由として、この吉羽の千勝神社に鷲宮神社が合祀されていることに由来し、「昔、鷲宮神社の祭神が沼の向こうから賊に追われ、逃れる途中で千勝神社に宿泊し、この日が酉の日であったため酉の日に祭事が行われるようになった。」という伝承もある。行事としては大字吉羽字西地区(今日では区画整理により町名変更されている)の各家で朝に赤飯を炊き、それを子供が親戚の家に配り、昼には小麦饅頭を作り、夜にはうどんを打ち食す、晩には神社の境内および周辺の家々の道沿いに当番の人が作った灯籠が立てられ明かりがともされる、というものであった。
 この祭礼の翌日に、大字吉羽字西地区(今日では区画整理により町名変更されている)では「ナイダー」という行事が行われており、流行病が地区に入らないよう悪魔除けを目的にした行事である。午前10時に男手が集まり、神社より長い数珠を皆で運び、高輪寺に置かれている鉦を先頭に叩きながら「ナイダー ナイダー」と唱え耕地を巡回するというものである。1979年(昭和54年)頃までは名主・地主・大尽の順に廻り、その後は道なりに全戸を巡回していたが、次第に戸数が増えた関係上、全戸巡回は取り止め、8か所の辻を回り最終的に中落堀川に至り行事の終着地とするようになったという。
 
 本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社  稲荷神社の右側並びに八王子大権現の石祠あり
        
          雷電宮に対して参道の向かい側に祀られている妙見宮
        
                    妙見宮近郊に聳え立つご神木の如き巨木




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「社前掲示板」等


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