古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

外田ヶ谷久伊豆神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市外田ケ谷7441
              
・ご祭神 大已貴命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 どんど焼き 114日 例大祭 121
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1211753,139.530692,17z?entry=ttu

 加須市外田ヶ谷地域は同市西部に位置し、嘗ては旧騎西町に属していた。この社は外田ケ谷地域の北西部で、南東方向から南方向に流れが大きく蛇行する見沼代用水及び騎西領用水の左岸に鎮座している。道路端から続く社の参道が長く、嘗てはさぞ広大な社地を有していたものと思われる。周囲は道路側を除いて田園地帯が広がる中に社は静かに佇んでいる。
       
 経路途中は行田市・関根神社を参照。「関根集落センター」から見沼大用水左岸に沿って伸びる道を東行し、埼玉県道32号鴻巣羽生線との交点を直進する。その後大きく右カーブする先に同県道148号騎西鴻巣線と交わる丁字路に到着するので、そこは左折すると、すぐ左手に外田ヶ谷久伊豆神社の一の鳥居が見えてくる。
 但し鳥居周辺には適当な駐車スペースはないので、同県道148号騎西鴻巣線と交わる丁字路に到着する手前の細い道を左折し、社の北側回り込む先にある広い空間に駐車してから、参拝を行う。
        
                           県道沿いに建つ一の鳥居と社号標柱
 駐車した場所から100m程南側に一の鳥居があり、そこまで一旦回り込む必要があるのが意外と面倒であるが、そこは社への挨拶は基本であるため、その労力は惜しずに行う。それにしても一地域の社としては、意外と長い参道である。
        
               一の鳥居を越えた辺りで撮影
               遠くに二の鳥居が見えてくる。
『日本歴史地名大系』 「外田ヶ谷村」の解説
 [現在地名]騎西町外田ヶ谷
 内田ヶ谷や村の西にあり、見沼代用水および騎西領用水の左岸に位置する。田園簿によれば田高五六石余・畑高四三五石余、川越藩領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本四家の相給。明和七年(一七七〇)と推定されるが幕府領分が川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。化政期には同藩領と前記旗本四家領(風土記稿)。幕末の改革組合取調書では旗本五家(前記四家を含む)の相給。検地は正保四年(一六四七)、のち元禄八年(一六九五)平岡次郎右衛門が実施した。

        
                          朱色が特徴的な両部鳥居形式の二の鳥居
 
    二の鳥居上部に掲げてある扁額     二の鳥居から暫く歩くと三の鳥居に達する。

 地域に根を下ろしたまさに「鎮守様」。参道を進みながら思う、この第一印象がピッタリな社である。市街地の社は参道は短いか、参道自体ほとんどない所もあり、「鎮守様」感が損なわれているケースが多々見られる。この社は宅地化された塀や垣根を除くと、囲いのない参道が一本伸びているのみ。その素朴さが却って参道の先にある境内や社殿に対しての、神聖性を徐々に押し上げるような効果があるように、筆者は勝手に解釈してしまうのだ。
 行政区画上、何処までが神社の管理区域なのかも見た目漠然としているので、その事も気になってしまう所ではあるが、その点は優秀な自治体の区域割がしっかりとなされているだろうから、心配しなくても良いだろう。
        
                                  三の鳥居
 三の鳥居を過ぎると、その先は境内となる。左手には社叢林が生い茂り、右手は田園風景に交じり、空間が広がる。左手の社叢林の手前には石碑や記念碑、境内社が並び、右手には、奉納碑や参拝記念碑等が十基整然と並んでいる。       
        
               参道左手に設置されている案内板
 久伊豆神社 例大祭 十二月一日
 当社の創建は不詳であるが、昔、鎮守が無いのを憂えた村人が、騎西・玉敷神社の分霊を祀ったことによるという。主祭神は大己貴命で、福徳を授ける神として崇敬され、明神様、くいず様とも呼ばれる。
 一月十四日には、どんど焼きが行われる。これは正月の餅焼きともいわれ、作物の豊穣を祈る行事である。
*明神様のお使い
 明治四十三年の夏。この地方一帯を大水が襲いました。外田ヶ谷は周りが堤で囲まれていたため、入り込んだ水はたちまち村内に溢れました。
 手を拱いているうちにも水嵩はどんどんと増し、押し入れの中程まで達したときです。突然現われた一匹の大蛇。濁流にもまれながらも、頭を出して南の方へと泳いでいきます。
 ちょうど三間樋あたりでしょうか。堤を数回横切ると、遠くへ消え去ってしまいました。
 後には幾条かの切れ目が生じ、水は堤の外へと流れ出しました。やがて轟音と共 に堤は切れ、水はみるみる引いていきました。
 おかげで村は、大きな被害から免れることが出来ました。村人はこの大蛇こそ明神様のお使いと、深く感謝したと いうことです。
                                      案内板より引用

この昔話は外田ヶ谷地域に伝わるものだが、隣の道地(どうち)地域には、この昔話の続きがある。
暫くして、道地の愛宕様(あたごさま・現在は稲荷神社に合併)の沼に、どうした訳かこの大蛇が棲みついてしまいまった。祟りを恐れた村人は、毎日酒や米をお供えして、やっとのことで沼から出ていってもらったということだ」
                          加須インターネット博物館HPより引用
        
                       参道の長さに比べて小規模でコンパクトな拝殿
 石灯篭の基礎部分は石で補強され、高くなっている。社が鎮座しているこの地は自然堤防上にあるようで、北側の水田地帯よりは12m程高いとはいえ、それでも標高は17m程。見沼台用水が西側近郊に流れていたりして、案内板にも記されている「明治43年の大洪水」以外にも、今まで数多くの水難に見舞われていて、その対策でこのように高くなっているのであろう。
 
     拝殿に掲げてある扁額                本 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡外田ヶ谷村条』には、この社に関して以下の記載がある。

「久伊豆社
 騎西町塲久伊豆の社を勸請して村の鎭守とす、寶正寺持、按に【式神社考】に多氣比賣神社今屬、埼玉郡在西領外田ヶ谷村、祭神栲幡千々命と載たれど騎西町塲より寫せしものにて、本社あらざる事
論なし」

 栲幡千々命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話に登場する女神で、『古事記』では万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫、一書では栲幡千千媛万媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天万栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)、火之戸幡姫児千千姫命(ほのとばたひめこちぢひめのみこと)と表記される「天津神」である。
 葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する女神で、『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘。『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んでいる。
 
 『新編武蔵風土記稿』は、江戸幕府直轄の教学機関である「昌平坂学問所地理局」による事業(林述斎・間宮士信ら)で編纂され、1810年(文化7年)に起稿し、1830年(文政13年)に完成した。
 この風土記稿の成立過程において、まず地誌取調書上を武蔵国の各村に提出させたうえ、実際、編集者が実地に出向いて調査したという。調査内容は、自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、土地・地域についての全ての事柄にわたる。
『新編武蔵風土記稿』の編集者は、当時の俊才・英才が集うまさにエリート集団であったのであろう。そのエリート集団が、現在「多氣比賣神社」に属し、ご祭神は栲幡千々命と【式神社考】という書物に載せているが、これは「騎西町塲村」に鎮座する社のより「写し」であるので、外田ヶ谷久伊豆神社の御祭神ではないと考察している。
 当時のエリート集団は、ただ室内に籠り、書物に目を通して誤字・脱字等のチェック、記録するのみの集団ではない。実際に現地に赴き、その地の書物を現場で確認するような人々であったのだろう。
江戸幕府直轄の教学機関としてのプライドが成せる責任ある事業だったのであろうし、妥協を許さない、凄まじいほどの知識に対する探究心がこの一文に現れている。
 
社殿左側手前には「社殿修理記念碑」「庚申塚」が並ぶ(写真左)。またその右並びには神橋が設置されていて、その先には「辨財天」の石碑がある(同右)。因みに手前の神橋には「辨天橋」と刻まれている。
 
「辨天橋」の右並びには境内社が鎮座する。左側から境内社・八幡神社、愛宕神社(写真左)、その右側には詳細不明な境内社(同右側)が祀られている。
        
         社殿奥には御嶽神社・氷川神社と刻まれている石碑がある。
       
        社殿右側には敷石奉納碑や伊勢参拝記念碑等が整然と並んでいる。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」
    「Wikipedia」「現地案内板」等
 

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