古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

飯野長柄神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡板倉町大字飯野555
            
・ご祭神 事代主命(推定) 
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 水神祭(燈明あげ、水害封じ)619日・819日・919
                 
夏祭 715日に近い日曜日 祭礼引継式 9月最終日曜日
                 
お日待 1015
 高鳥天満宮から埼玉・群馬県道369 麦倉川俣停車場線を2.6㎞程西行、谷田川排水機場の150m程東側で、利根川左岸の堤防が目の前に見える場所に飯野長柄神社は鎮座している。
 この社は、グーグルマップや群馬県神社庁のHPでは「長柄神社」になっているのだが、板倉町HPでは「長良神社」となっていて、今回、群馬県神社庁を尊重して長柄神社として紹介する。
        
                 
部落を背に利根川の堤防に向って鎮座している飯野長柄神社
『日本歴史地名大系』 「飯野村」の解説
 利根川と谷田川の間に立地し、東は大久保村・高鳥村、西は斗合田村(現明和村)、北は谷田川を挟んで板倉村・岩田村。天正一二年(一五八四)一二月二一日の北条氏照禁制写(松雲公採集遺編類纂)は飯野郷に宛てて出されている。「関八州古戦録」によると、豊臣秀吉の小田原攻めに際しては、飯野の領主淵名上野介は北条氏にくみして館林城を守っていた。
 飯野城は飯野地域の集落南部にあり、北・東・南は低湿地であった。東西約200m、南北約170mで、現在は耕地整理によって完全に消滅していまっている。館林に属した淵名上野介の居城であり、「北越軍記」に永禄3年(1560)上杉景虎(謙信)飯野城を屠るとある。
 天正12年(1584)小田原北条氏が攻め込んできたときには下野国足利城を守り、天正18(1590)豊臣秀吉の小田原征伐では館林城を守っていたという。
        
                    拝 殿
 板倉町・飯野地域は、高鳥天満宮が鎮座する大高島地域と同様に大箇野地区に属している板倉町でも南部にあり、利根川左岸に接している地域である。
 飯野長良神社は旧飯野新村鎮守社で、旧村社。部落を背に利根川の堤防に向って社殿がある。その境内の水神様(水天宮の文字あり)は初め利根川の堤防の上にあったが、明治43年の洪水では水神様のところで水が止まったといい、年3回の祭をする。年3回の祭りが6月・7月・8月と相ついでそれぞれ19日・20日に行われるのも、これらの月が最も洪水の出やすい月でもあるからという言い伝えもある。
 かつて神祇道管領當長上従二位ト部朝臣なる人物より正一位大明神として認めるという認定書が確認されている。また、この地方では葦毛の馬を養うことと竹の箸を作ることも禁じられていたが、許可されたことが享保10116日祝詞奉上の際の一文に記されている。明治43年の大洪水には目前の利根川の決壊により神社も押し流されたとのことである。
 
        社殿の近くにはご神木のような巨木が聳え立つ(写真左・右)
 この社には獅子舞も奉納されていた。
流派は「助作流」と称している。一人立ちの風流獅子である。道ゆきの構成は旗・弓・柏子木(六人)・万燈二人・笛五人・獅子三人の順序で進み、曲目は「かんむり 弓がかり 三本づくし 社切り すがわき」の五種目になっている。獅子の扮装は籾谷地域と似ているが動作では小掛けに両手を通して、パッパッと勇壮にやる点がよく似ている。実演は鎮守の境内で行われたが、最初道ゆきから見た。ここでは「すり込み」と称している。「ささらをする」というのが獅子を舞うという意味であるからそれから実演に移るということで「すり込み」とよぶ。
         
                   境内にある力石
      神社前には力石 (約20貫)があり戦前まで若者による『新村のササラ』
           (力比べ)が盛大に行われていたとの事だ。

 この獅子舞は、定時の上演は毎年六月十五日であるが、昔は厄病除けに舞われた。曲目のうちの「かんむり」では、雌獅子が後に出、雄獅子二が前に並んで演じられた。腰太鼓は雌獅子だけがバチで打ち、雄獅子はバチで調子をとるだけ(叩くまね)であるが、そのかわり小掛の両端を持って、すばらしくダイナミックな動きを見せる。三組の中でも最も力の入ったもののようである。次ぎの「三本づくし」という曲目では、ボンゼン(梵天ともいうが御幣束のこと)を三本社前に立てておき、これを三頭の獅子が代わる代わる奪いとろうとするドラマである。最初近寄ると幣束の神威ではね返えされ、モンドリ打つ真似さえある。二回三回と奪いとろうと掛るとこが見もので、最後にはこれを手にし、共に喜び合うという筋であるが、笛と腰太鼓のリズムによって演じられるだけになかなか興味ふかいものがあった。その間の激しい動作は驚くべきもので、よほどの体力がない限り堪えられないと見えた。歌詞は全然使われず、古老から聞いても昔からなかったといってた。曲目が少なくなっているのは、長い間に省略されてきたためであろうと思われる。夕暮の黒い帳がシットリと降りかかった境内でみたこの獅子舞はたしかにすばらしい獅子舞本来の降魔の一面を伝えるはげしいものだったという。
 この地域の獅子舞は、昭和40年以降は踊り手の後継者が無く現在では中止されているとの事だ。
        
             社殿の左側に祀られている石祠・石碑群
板倉町HP」では、水天宮(天明7年)・大杉神社(文化4年)・八大龍王神(弘化3年)・琴平宮(明治36年)・愛宕山(文化2年)・仙元大菩薩の石祠が祀られているとのことだが、実見したところでは、左から2番目が愛宕山、3番目が琴平神社と分かる以外は解読不可能であった。



参考資料「日本歴史地名大系」「板倉町HP」「群馬県邑楽郡板倉町の民俗」
    「ぐんま地域文化マップHP」等

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