古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下大崎住吉神社

 白岡市は、埼玉県の東部に位置し、東西 9.8km、南北 6.0km、総面積は 24.92km2ほどの東西に長い市である。1889年(明治22年)41 - 町村制施行により、上大崎村、下大崎村、柴山村、荒井新田が合併し南埼玉郡大山村が成立。その後大字下大崎・柴山・荒井新田は篠津村・日勝村と合併し、白岡町となる。大字上大崎は菖蒲町・三箇村・小林村・栢間村と合併し、菖蒲町となった。現在、この旧大山村は白岡市の中において、市東部に位置し、行政区画上「大山地区」と称されている。
 大山地区は、柴山沼を中心とする元荒川や星川の形成した沖積地や後背湿地に立地し、下流を埋没ロームで閉ざされているため排水が悪く、湛水に苦しめられてきた。柴山沼を囲む柴山、荒井新田の家々では「水塚」が築かれ、水害に備える風土が形成されてきた。この地域の水塚は、元荒川や星川側より柴山沼側に発達し、沼側の塚の方が高い傾向が見られることから、河川氾濫以上に柴山沼の内水氾濫に備えたものと思われる。
 柴山沼や皿沼周辺には「掘上田」が発達し、掘り潰れの水路は集落内まで引かれ、田畑との往復や作物の運搬などに使われていたようで、水害時にはこの舟が物資の輸送や避難に使われたという。 また、沼周辺の入会権に関する争論裁許絵図などが残されていることから、古くから、周辺各村が 利用することのできる範囲などが決められていたことがうかがえる。 特産の梨栽培が盛んな理由も、地下水位が高くみずみずしい梨がとれることによる。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市下大崎1340
             ・ご祭神 住吉三神(表筒男命 中筒男命 底筒男命) 神功皇后
             ・社 格 旧下大崎村鎮守・旧村社
             ・例祭等 灯籠祭り 722日 他 
 久喜IC付近で交差する国道122号線を南下し、「下大崎」交差点を左折、その後500m程先にある旧国道122号線との十字路を右折すると、すぐ左手に下大崎住吉神社の社叢林が見えてくる。
        
                 下大崎住吉神社正面
『日本歴史地名大系』 「下大崎村」の解説
 東は星川を隔てて篠津村と樋ノ口村(現久喜市)、南は元荒川を画す。中央の微高地は埋没ロームの台地、台地西側の低地は皿沼の沼沢地である。菖蒲領に属し、西の荒井新田村、北西の上大崎村(現菖蒲町)と一村であったが、元禄(一六八八〜一七〇四)以前に分村した(風土記稿)。田園簿では大崎村として高付されている。元禄一〇年上野前橋藩酒井氏の検地があり(風土記稿)、元禄郷帳に下大崎村とみえ高三三九石余。幕府領、旗本五家の相給(国立史料館本元禄郷帳)。「風土記稿」成立時、幕末の改革組合取調書ともに旗本伊藤・川副・加藤の相給。化政期の家数は七五(風土記稿)。
 上記解説に載せている「皿沼(さらぬま)」は、埼玉県白岡市の下大崎地域に嘗て所在していた沼である。大山地区のほぼ中央に位置している柴山沼の東方、下大崎と荒井新田の境界付近に所在していた。
 名称は沼の底が浅く、皿状であったことに由来する。皿沼は江戸期に新田開発が開始された。井沢弥惣兵衛により1728年(享保13年)、皿沼の排水路を整備し、それまで元荒川に排水されていた流路を栢間堀(今日の隼人堀川)に排水されるよう新規に沼落堀を開削した。この農業排水路は今日では柴山沼からの沼落へと流下している。こうして皿沼新田は拓かれたが、皿沼の中央は水深があったために約30町の水面が残された。この江戸期の時点で拓かれた農地が掘り上げ田であったかは確認されていない。その後明治期になると小久喜の山崎礼助と東京府日本橋の岩波長蔵が中心となり、1881年(明治14年)に江戸期の開発時に残された沼の中央部を掘り上げ田形式による開墾・整備を開始した。しかし1890年(明治23年)の水害により土が流されてしまい、整備前の沼地の様になってしまった。
 整備事業はその後再開され、1897年(明治30年)頃に竣工した。時代は下り、1977年(昭和52年)になると埼玉県営圃場整備事業で柴山沼と同時期に圃場整備がなされ、現在掘り上げ田は通常の水田(乾田)へと姿を変えた。皿沼の掘り上げ田は沼田(ヌマタ)あるいはヌマと称され、掘り潰れも同様にヌマと称されていた。掘り上げ田の用水には雨水または上田用水および柴山沼からの悪水を、沼落堀の堰(逆門)によって掘り潰れの水位を調整し、水田面に合わせ利用していた。掘り潰れの水位は逆門の堰板を調整することにより約1.5m増減した。
 周辺には縄文時代の皿沼遺跡が確認されており、1977年(昭和52年)の秋から1978年(昭和53年)の春にかけて、上記の圃場整備事業に先んじて発掘調査が実施された。この発掘調査では縄文時代中期より後期にかけての住居跡が9軒、並びに古墳時代前期の住居跡2軒など発掘された。
特に縄文時代後期の住居跡からは東北地方の土器の模様につけられた注口土器(ちゅうこうどき)が出土しており、当時の人々の交流を知る材料となっているという。
 
     鳥居に掲げてある「住吉社」の社号額      鳥居の左側に設置されている案内板
        
       鳥居を過ぎて参道すぐ左手の大杉の根元に置かれている力石二基 
       
                静まり返っている境内
『新編武藏風土記稿 下大崎村』
 皿沼 村の南にて荒井新田村と入會の地にて、廣狹錢等の事は荒井新田村にいへり、
 住吉社〇雷電社 此二社を鎭守とす、村持、
 全龍寺 禪宗曹洞派、三ヶ村長龍寺末、大崎山と號す、彌陀を本尊とせり、鐘樓 寬永五年の鐘を掛く、
『新編武藏風土記稿 上大崎村』
 上大崎村は菖蒲庄と唱ふ、古へは騎西領に屬せしと云、當村もとは上下及荒井新田を合て一村なりしを、慶長年中荒井新田を分ち、又元祿以前に上下二村に分れたり、
       
                     拝 殿
 下大崎住吉神社    白岡町大字下大崎字屋敷廻
 下大崎住吉神社は慶長元年(一五九六)に創立され、享保五年(一七二〇)に再興されたという。祭神は、表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后で、明治四十年(一九〇七)に天神社、琴平神社、雷電神社を合祀している。
 拝殿内には「六歌仙」、「源平の合戦」をはじめ、「神功皇后三韓征伐」、「釣舟」や「大井川渡川」、「桜花」などを描いた九点の大絵馬が奉納されている。いずれも江時代から明治時代にかけてのもので、町の指定文化財となっている。
 拝殿正面の「住吉大明神新田源道記」と刻まれた石額は、以前は鳥居に掲げられていたものである。ところが、 不思議なことに馬に乗った人が鳥居の前を通ると落馬してけがをするといったことが何度も起きるため、石額を拝殿に移し替えたと伝えられている。
 
平成十一年一月 白岡町教育委員会                                           案内板より引用
              
       拝殿前に掲示されている「下大崎住吉神社の奉納絵馬」の標柱
 下大崎の住吉神社は慶長元年(1596)の創建と伝えられる。絵馬の初見は元文4年(1739)の「釣舟」、このほか「六歌仙」「桜花」「直実と敦盛」「那須の与一」「安徳天皇入水」「神宮皇后の三韓征討」「大井川渡河」がある。拝殿内に掲げられているので、風雨の影響も少なく、絵師の手になると思われる美しい絵馬も残されていて、比較的色彩等良好な状態なものが多いという。
 種   別           市有形民俗文化財
 指定年月日           昭和55111
 
  社殿の左手隅に祀られている石祠二基        社殿右手に祀られている
   左から
稲荷大明神、庚申・稲荷神社          境内社・秋葉神社
                                                   本 殿
 ところで、地域名「大崎」の「崎」は「浦」の意味でもあり、海洋民が定住した地と考えられる。住吉神社の創建は慶長年間ではあるが、それ以前に住吉系の住民の居住地であった可能性があると筆者は推測している。
 坂戸市塚越に鎮座する大宮住吉神社は、平安時代(天徳三年・九五五年)に長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)の住吉神社の御分霊を山田長慶という人が勧請したことに始まるといわれ、祭神として、住吉三神(海・航海の神)、神功皇后、応神天皇を祀っている。この社は、かつて北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社であり、宮司家勝呂氏は触頭として、配下の神職をまとめていたという。武蔵国北部の住吉神社の総纏め的な存在であったのであろう。
       
     秋葉神社のすぐ右手にご神木の如き聳え立つヒマラヤ杉の巨木(写真左・右)

 蓮田市役所が所在する黒浜地域は、かつて奥東京湾が深く入り込み台地と谷とが複雑に入り組んだ地域で、大昔の入江のなごりで、海水がひいた時(海退)に内陸に閉じ込められてできた海跡湖である黒浜沼や、縄文時代の貝塚群および環状集落の遺跡である黒浜貝塚がある。この地域の南側に鎮座する黒浜久伊豆神社は室町時代の享禄年間(1528年頃)に騎西町の玉敷神社より勧請されて、その後江戸時代の慶長の16年(1611年)勝利正(すぐれとしまさ)(元上総国真里谷城主<千葉県木更津市>三河守重信の子孫、小田原城落城とともに身をかくし、当地に修験者となり居を構えた)が願主となり再興したと伝えられている。
『新編武藏風土記稿 黒浜村』
寶蔵院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、花盛山と號す、開山隆意享祿四年十二月二十七日寂す、此隆意は上總国に住せし眞里谷三河守信重が子孫、勝頼母介常秋が子にて、信濃守景勝と云、後修驗となりて當所に住せし由、所藏の系圖に見へたり、
一方『埼玉苗字辞典』において、篠津地域にも「勝(スグレ)」に関しての記述がある。
勝(スグレ) 同郡篠津村(白岡町)真里谷城主真里谷和泉守武定の子・勝左近将監真勝に附会す。真勝は里見義堯に召出され五千石を賜る。観音堂に「勝真元・文化九年卒・二十六歳、其先勝将監真□乱を避け篠津村住」
文化九年に亡くなった勝真元の先祖勝将監真□は乱を避けて篠津村に移住したという。
        
                  社殿からの眺め
 そもそも「篠津」の「篠」の地名由来も、本来は地形由来と思われるものの、後代に「私ノ党」、つまり秩父七党「私市党」が移住したために在地名を党名としたとも考えられる。また、源平盛衰記に「武蔵国住人篠党に河原太郎高直、同二郎盛直、生田庄を給ふ」と載せていて、この河原氏は住吉系社と非常に関連性の高い一族とみている。
 蓮田市黒浜地域と白岡市篠津地域は元荒川を通じて近距離に位置していて、共に「勝(スグレ)」の歴史の痕跡が今でも存在する。また、下大崎は星川と元荒川の間にあり、篠津地域のすぐ西側に接していて、勝一族の一派が篠津より移住した地であると筆者は愚考する。

      
       

       
 

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